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[第14章●ベッドで本を読む] 2… 俯臥位と月代のヒミツ |
[2004.08.12登録][2004.08.29更新] |
石田豊 |
ベッドで本を読む場合、側臥位と並んで頻繁に採用するのが「うつぶせ」つまり、言うならば「俯臥位」である。ぼくの個人的な予備調査によると(つまり、周りの数名に聞いただけなんだけど)、ベッドでの読書姿勢でいちばん多いのはこの姿勢である。 しかし、この姿勢はもっとも健康に悪い。どうしても腰がそりかえるような形になり、これが肩こりの原因になる。ネットで検索しても、そういうことはやめろ、と主張するお医者さんの意見をたくさん見ることができる。 それは別に医者にとやかく言われるまでもなく、われわれはカラダで知っている。長時間俯臥位読書を続けると、肩や首がパンパンに凝ってくる。でもこれがやめられないのには理由がふたつある。ひとつは本の保持の問題であり、もうひとつは照明のあたり具合の問題である。 あおむけ、つまり仰臥位での読書は背骨にはいいかもしれないが、本を保持することは難しい。つまりベンチプレスのように本を持ち上げておかなければいけない。これは生半可な体力でできることではない。それがウソだと思われるなら、鉛筆程度の重さのものを両手に持ち、両手を真横に伸ばして数分その姿勢を続けてみればよい。ほんの数分で鉛筆はきわめて重く感じるようになるだろう。 もし、それを体力で無理矢理カバーしえたとしても、照明の問題は残る。通常の照明は「上から下へ」光が落ちてくるものだから、仰臥位ベンチプレス方式で本を保持した場合、版面には光が当たりにくくなる。つまり、暗いページを読まなければならない。夜、ベッドで本を読むためには、これは致命傷になる。 この両者の問題をどのように捉え、どのように解決していくかというのは別項に譲ることにして、今は、ともかくもこの方法をやむなく採用する、という地点で論を進めていくことにする。 仰臥位とひとくちに言っても、それは2つの体勢に大別することができる。ひとつはセイウチ型とでも言うのだろうか。大きく上体を反らせて、頭を持ち上げ、その下に空間を作り、その空間の下に本を置く形。これは体力でもってエイヤと上体を反らせることで行うやりかたと、胸の下に何かを入れて達成する方法がある。 これこそもっとも腰や肩に悪いのは言うまでもないし、実現するためには体力も必要になる。後述するが、いずれにしても加齢によって、ますます困難になる。 もうひとつの方法はビート板型と呼びうるものだ。プールでビート板を持ってバタ足をするような姿勢で俯臥する。ビート板があるべき位置に本を置く。この方式では、腰はフラットに近い感じで伸ばしておける。首だけをまげて頭と体がL型になるようにすればよい。腰への負担はないが、そのぶん、首への負担が大きくなる。 ビート板型はセイウチ型より要求される体力が少なく、かつ、腕が痛くならないので、ぼく自身はこれを採用することが多かった。しかし、これも加齢とともに、目とビート板(本)との間が長くなり、その分、からだを後ろに下げなければならなくなった。ぼくは低身長であるが、それでもビート板式だと、ベッドから足が飛び出してしまう。 つまりセイウチ型にしてもビート板式にしても、全般的な体力が必要であり、かつ目・肩・腰と大きな関連を持つ。加齢によって生じる問題が目・肩・腰であることは薬のCMなどで周知であろう。体力が衰え、目肩腰にトラブルを感じだした中年期から後は、何かと困難がつきまとう体位が俯臥位なのである。 そこで、昔から俯臥位で本を読めなくなる状態のことをさして「ふがいない」と呼ぶのである。 加齢によってふがいないことになっちゃうわけだ。あわてて言っておくと、ぼく自身は老人化を待ち望んできたところがあって、この「ふがいなさ」そのものも何か嬉しい。おお、こうなってくるわけね、と楽しんでいる。年を取るということは、ある種、エキサイティングなところがある。 こういうふうなことを言うと、奇人のように見られてしまうことが多い。しかし、これこそ我が国の伝統的な思考であり、けっして奇矯な思いではないのだ。たとえば江戸幕府で一番エラいのは「大老」である。続いて「老中」であり、「若年寄」だ。年寄りがエラいということになっているわけだ。 世界中を見渡してももっとも奇妙な髪型であるところの「月代を剃ってちょんまげを結う」というのも、そうだ。 この髪型は戦国期あたりに始まる。通説では「兜をかぶった時に頭がむれないように」こうなったと言われているが、それはずいぶん疑わしい。髪型はアイデンティティと直結するものであるから、そんな即物的実用的な理由で何とかなっちゃうものでは決してないと思う。 もしそんな理由で剃っちゃうのなら、現在でもヘルメットを常用する職業の方々、たとえば建築関係とか消防士とか、つまり「メタルカラーの人々」ですね、もそうするはずじゃないか。でもヘルメットをかぶると頭がむれるから、てっぺんを剃ろうなんてことを思うメタルカラーはいないし、いたとしても、そのツマが許さないし、世間が許さない。 髪型を変えるというのは、実用上のなにかで左右されることはない。もっと心理的精神的な何かが必要だ。月代を剃るというのは、ぼくの考えでは「年寄りへの擬態」である。月代を剃った状態というのは、いわば「生え際がどんどん後退してきた」状態に酷似しているわけで、この状態は年齢を重ねると、まま自然発生するものである。側頭部後頭部を除いてはげ上がるというのは、それすなわち、年寄りの男のサインであるのだ。 月代を剃るのが、戦国期の武士から発生したという事実は、ぼくのリロンをいっそう補強してくれる。戦乱の時代に「年寄り」であるということは、それだけで強さの証明でもある。なにしろその年までちゃんと生き延びてきたのだから。戦乱の時代の強さは年齢を重ねなければ達成できるものではない。それは格闘技を見てもそうだ。もっとも強い選手は、どれもそう若くはないのである。実際の戦争は格闘技以上に体力以外の要素が効いてくるから、もっともっと高齢である価値は増える。 だからこそ、戦乱期の武士たちは、少しでも年寄りに見せたくて、月代を剃り始めたのではなかろうか。 実用的な理由で髪型を変えることは難しいが、ツヨく見せたいがためにどうのこうのという例は、そり込みを入れる高校生とか、ヒサシを極端に伸ばすリーゼントアタマとか、パンチパーマのおあにいさんとかと、現代でも普通に見られる現象である。 この説に対して、「そこまで年寄りに擬態したいのなら、もっともっと高齢の象徴である薬缶頭にしたほうがいいのではないか。なぜ全部剃らないのか」という疑義を呈する人もあるかもしれない。しかし、その反論は短慮である。なぜなら、全部剃る、という髪型は、社会的にすでに「出家」というサインを付与されていたものだからだ。強さではない別のサインを発してしまうのである。そのうえ、全部剃るということは、男根のシンボルでもある「まげ」をも捨ててしまうことになる。男性性をも捨ててしまうことになり、それはそれで恐怖であるだろう。 ちなみに、戦国期にあっても坊主頭の武将は何人もいる。たとえば武田信玄がそうであり、その部下である穴山梅雪もそうだ。彼らは武将であるから、殺生戒はもちろん守らない。そのうえ、女犯だとか精進だとかという意味でも、決して出家らしくはない。これもイシダ説によると、順序が逆なのであって、出家したから坊主頭にしたのではなく、「まげ」が結えなくなって、つまり頭髪があまりにも哀しいことになってきたために、いっそのこと坊主頭にし、「出家」とうそぶいたのではないか。貧弱なまげは貧弱な男性性のシンボルになっちまうので、それをさらすよりは、「出家」だと強弁するほうがいいのである。 おもわず月代原因論に話がずれていってしまった。これはぼくのオリジナルである。ぼくから見れば、これはごくごく当たり前の論理展開なのだが、他にいう人は見たことがない。それは論者の方々すべてが近代の「若いがサイコー」説に毒されすぎてしまっているからに他ならない、とぼくは考える。 脱線ついでに、頭髪のもつ意味性の大きさを示唆する話題をひとつ付記しておこう。ハゲに対する過度にも思える関心である。たとえば芸能人に対するカツラ疑惑。これも「頭髪の意味性」というファクターを考えなければどうも納得できないほどの過熱ぶりがある。それはたとえば「入れ歯疑惑」というようなことを考えてみたらよくわかるはずだ。加齢により生じるものが、いっぽうではハゲだとしたら、もういっぽうには歯抜けがある。それを糊塗する(と言ったらヘンだけど)ものがカツラであり、入れ歯である。「あの人、じつはカツラではないの?」というのと「彼はもしかすると総入れ歯?」というのは同じような疑問なのだが、前者はあっても、後者が口に出されることはない。たとえあっても、前者のように「へえ、そーなんだ、へっへっへ」というような反応は絶対にできない。それどころか、そういうような揶揄口調の暴露に対して深い不快感を感じてしまうだろう。 脱線が過ぎたが、要は、加齢に付随するなにやかやは、けっして一概に慨嘆すべきことではなく、我が国の伝統的な思考の中では、ある種、慶賀すべきことでもあるってこと。 そうした視座の中で加齢にともなう俯臥位読書の困難さについて書いていきたかったのだが、それは次回に、ということで、本日、これまで。 |
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たけながさんより [2004.08.29] |
*無題* 月代→老人への擬態 理論ですが、上岡龍太郎もTVで同じことを言ってました。(ってことはずいぶん前ですね) ので、もしかしたら先に言ってる人がいるかも知れません。 でも、おれも、そう思います。 |
たけながさんより [2004.08.29] |
上岡龍太郎が 月代→老人への擬態 理論ですが、上岡龍太郎もTVで同じことを言ってました。(ってことはずいぶん前ですね) ので、もしかしたら先に言ってる人がいるかも知れません。 でも、おれも、そう思います。 ____ うーむ。オリジナルだと思ったんだがなあ。残念です。(石田) |
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