2009-10-13
対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?
『溜息に似た言葉』とは?
『溜息に似た言葉』は、劇作家・岩松了が文学作品の中に書かれたセリフを抜き出し、セリフに込められた世界を読み解くエッセイ集です。
ただし、抜き出された言葉は、意味を重ねた数々の言葉よりも多くのことを伝える、ひとつの溜息に似た言葉──。
連載を単行本化するにあたって、岩松了が読み解いた40のセリフを、5人の写真家が各々8作品ずつ表現した写真も収録しました。
撮影後に岩松了と写真家が行なった対談は、対談の中で写真家が発した1つの言葉から描く人物エッセイ「写真家の言葉」として単行本に収録しましたが、ここでは劇作家・岩松了と若手写真家の生の言葉を掲載します。
第1回目、中村紋子との対談は、主に「人に見られるとはどういうことか/世間に対してどう立ち向かっていくか」。「演技をする/言葉を発する」とは、どういうことなんでしょうか?
すべての収録作品など、詳しくはこちら。
写真家●中村紋子
プロフィール
1979年、埼玉県生まれ。
2003年、東京工芸大学芸術学部写真学科卒。
2005年、東京工芸大学大学院メディアアート専攻写真領域卒。
Web:http://ayaconakamura.sub.jp
撮影した作品
「房子はまた風呂敷をさげてもどるんでしょうか」
─『山の音』川端康成/新潮文庫
不意の目覚めのひと言が、あなたの深層心理を表出させているとしたら?
「女って、お金をかけてくれる人がなくちゃ、綺麗にはならないもんなのね」
─『浮雲』林芙美子/新潮文庫
女にあっさりとこんな言葉吐かれたら、男はヘラヘラ笑うしかありません
「あたしちょっと散歩をしてきます」
─『死の棘』島尾敏雄/新潮文庫
無表情こそがケンカの王道。静かに勝利したくば「散歩に出る」と言うべし
「そんな笑いを浮かべちゃ、厭」
─『ある平凡』(『金輪際』より)車谷長吉/文春文庫
人が精神のみで生きてゆけるなら、とりあえず滑稽からは逃れられよう
「こんなに生きることの有難さを知った以上、それをいつまでも貪るつもりはございません」
─『豊饒の海(一)春の雪』三島由紀夫/新潮文庫
恋をして生活から遠く離れた言葉を吐くとき、あなたはだれかを救っている
「ねえ、私の顔、どう?」
─『秋風記』(『太宰治全集2』より)太宰治/ちくま文庫
自分の姿を客観的に見ることが出来ないしあわせを放棄する不しあわせ
「おい大変だ、伊藤さんが殺された」
─『門』夏目漱石/岩波文庫
結婚して口をきかなくなったって、そんなこと……ふたりが賢いだけのこと
「真剣になるなら、自分ひとりでなりたいわ」
─『花のワルツ』川端康成/新潮文庫/絶版
この言葉に得心するあなたなら、私はあなたの人生に幸多かれと祈るだろう
対談●世間に対してどう立ち向かっていくか?
岩松 今回、小説全体を読んでる時間なんてなかったでしょ?
中村 いや、読みました! 高校以来の読書に明け暮れて、風呂の中でも、ご飯食べてるときでも、必死で読みました。最初は苦行になるかと思ったんですけど、川端康成の『山の音』から読み始めたら面白くて「あれっ」って。川端康成は『花のワルツ』も面白かったです。
岩松 この中で、小説として一番面白いと思ったのは川端康成ですか?
中村 小説として面白かったのは、三島由紀夫です。劇画みたいじゃないですか。私、梶原一騎とか劇画が好きで、「『愛と誠』みたいだな〜、10代の男の子の精子っぽいな〜」と思いながら読みました。
岩松 写真にするために、どういう経路で考えました?
中村 まず、セリフだから「人じゃなきゃいけない」。それから、セリフの気持ちをわかってくれそうな人がいい。
でも「こんな人まわりにいない」というのもありました。三島由紀夫の『春の雪』に出てくる「ございません」と言うようなご令嬢はいない(笑) だから『春の雪』は花を撮ろうと決めて、三島由紀夫といえば薔薇なので、薔薇か、私の好きな白い紫陽花か、蓮か芍薬を撮ろうと思ったんです。
他はお友達にモデルをお願いしたのですが、『秋風記』の「ねえ、私の顔、どう?」というセリフだけは佐々木ユメカさんという女優をやってる子にお願いしました。このセリフで普通の顔を撮って本に載っても、女として嬉しくないんじゃないかと思って。
岩松 それはどういうこと?
中村 弱ってる女の人のセリフなので、もし素人の人を撮るんだったら、弱ってる人を撮らなくちゃいけない。それは残酷だから、『秋風記』のセリフは最初から佐々木さんにお願いして「こういう人になって欲しいから、こういう空っぽの眼をして欲しいの」と言って、演技を付けてもらいました。
岩松 俺、浮雲のセリフは一杯あったのよ。基本的には、読んで意味がわかるセリフは嫌だったんですよ。だから例えば『山の音』の「房子はまた風呂敷包をさげてもどるんでしょうか?」というセリフは、そんなに意味がないでしょ。そういう意味での「意味のなさ」を求めたんだけど、『浮雲』の中には、「ああ! 女にこんなこと言われたら男は堪らないな」みたいな意味のあるセリフが一杯あるんですよ。だから『浮雲』に関しては、どれにするか迷った記憶がすごくありますね。
『浮雲』は映画にもなってるんですよ。それは観た?
中村 えっと……。寝ました(笑)
岩松 本当!? 本当かよ……。それは白黒だから?
中村 高校生の時に、連れて行かれて観たんですけど。名画座みたいな所で、3本立ての3本目で眠かったのと、モノクロなのと、ダブルパンチで興味を削いだんです。眠気の方が勝ちました。少し背伸びをしよう、名画を観よう、という心意気だけで行き、入って挫折(笑)
岩松 でも、今観るとわからないよね。『浮雲』は男が観るほうが面白いと思うんだけど、どうなんだろう?
中村 女優さんが滅茶苦茶綺麗だったっていうのだけは覚えてます。
岩松 高峰秀子ね。『浮雲』は、男も情けないんだけど、女が情けなくなる話。男性は情けない男を見ると面白がるんだけど、女性は情けない女を見るのが嫌だったりするでしょ?
中村 なんか、哀れな感じがします。好きだったのに、と。1回でも本当に好きだという実感があったら、スパっと別れられたかもしれないのにな、この人、って思う。でもズルズルやられてたから、向こうにいた時の気分が嘘みたいになって、不安になって、「私なんだったの?」みたいな感じで。本当に嫌な男です、この人は。私はこういう男とはつき合わないです。駄目でも心が凄い純粋だな、と思ったらいいけど、この人はピュアじゃなくて、ただの弱い男ですよ。
岩松 「駄目だけど純粋」というキャラクターで、思いつく人はいる?
中村 うーん。駄目だけど純粋な人は、そもそも世に出ないと思うんです。ヘンリー・ダーガーとか。
岩松 その人は世に出ていないの?
中村 80何歳で死んだんですけど、それまでは全く気づかれてもいなくて。死んでから、身寄りがいないから部屋を開けたら、部屋から1万5千ページくらいの物語と、絵がすごい一杯出て来て。たまたま大家さんがバウハウスの人で、アートがわかる人だったので、世に出た。友達もひとりもいなくて、ひとりで声色を変えて家の中で会話をしてたんです。そのダーガーのドキュメンタリー映画を観たんですけど、その後で私、ゲロを吐いて……。辛くて……。
友達がいないから、綴りはわかっても、誰も彼の名前の本当の読み方を知らない。ダーガーって読んでるけど、もしかしたらダージャーかもしれない。女の人と付き合ったことがないから、女の人にもチンチンが付いてると思っていて、彼の描く女の子にはチンチンが付いてたり。
でも、ものを作る純粋さって、そういうのだと思うんです。私がゴッホを好きなのも、人として欠けてる部分があるからで。その欠けた部分は何かを作ったから埋まるわけじゃないけど、でも作らないと生きていけない、というレベルのものだなって感じて。ダーガーの作品を見た時に、そう思ったんです。
かわいい女の子が描けないから、かわいい女の子の写真や絵を切り抜いてトレースして描いたりもしていて、そういうピュアな人なら私は付き合いたいと思う。でも、振られると思う(笑) だめんずでも許せるのはそういう人で、決して『浮雲』に出てくる男ではありません。
岩松 『春の雪』の男はどうなの?
中村 『春の雪』の清さまは「キングオブ童貞」みたいな感じで、別に駄目でもなんでもないと思います。ハウス栽培で育った綺麗なマスクメロンみたいな人で、ダメ男になる前に死んだから、いいんじゃないかな。駆け落ちして世に放り出されたらダメ男になる可能性はあるんだけど、その前にさっさと死んだので、ダメ男ではなく、キングオブ童貞です。ヤったけど、美しく果てた。
岩松 『ある平凡』に出てくるような男は?
中村 この人もダメ男ではありません。高校の先生になって、世間の中に、嘘でも溶け込んでいるので。
岩松 でも、嫌なやつっぽくない? ちょっと女をクールに見てるでしょ。
中村 私は、良いやつだと思います。彼は、女があんまりわからなすぎるから、絶句してぽかん顔で見てたんだと思うんです。男と女で、家庭環境が全然違うじゃないですか。「私、アイス食べに行きたいから。あそこにおいしいアイスがあるの。アイス食べに行こう」って行って、ウエハースぽりぽりってやっているのを「こんな女いるんだ」と呆気にとられて見てたんだと思う。「何だこの幸せ一杯な女は。そんな幸せ、俺は人生で直面したことない」という、「なんじゃそりゃ」くらいの変な笑いだったと思います。女の子の方は自分の何が変だかわからなくて、「もう、やだ〜」くらいの言いっぷりだと思いました。
岩松 確かこれ、男は極道の子どもで、女は商社の重役さんみたいな良いとこの娘なんだよね。つぶさに覚えてるわけじゃないけど、俺の記憶では、そういう屈託のない女に対して、男がちょっと冷たい側に立つような書き方をしているところがなかった? だから、その女個人に対して敵意はないんだけど、自分が育った歴史があるから、屈託なく育ったやつに対しての敵意がある。すごく大げさに言えば、その背後にあるものに対して敵意を抱いいてる。その視線の延長として書いているんじゃないかという節がある。
確かに、「何じゃこの女は」みたいなのもあるんだけど、「こういう風に生きているのを少しいじめてみたい」という感情が働いた結果の視線なんじゃないかな。女の方はそれを理解してるかわからないけど、「そんな笑いを浮かべちゃ、厭」と言ったのは、極端に言えば女にとってその笑いが凄く深い何かに突き刺さるということを察知したからだ、という印象を俺は持っちゃってて。
その後どういう事情で別れたのかを忘れちゃったけど、別れて13年後に会ったときに、生活にまみれていた女が、残ったコーラの缶を鞄に入れていたとき、初めて男は女を許せた、という話なんだと思った。それで「肉体を得た」とか書いてるんだと思う。
それまでは精神的に見ていて、本当に触れあってはいないと思うわけ。仮に付き合いがあったとしても、いつも客観的に見ていた。自分が教師やって、同じように13年間生活にまみれた女を見た時に、お互いに肉体を持った人間として同等になれたというかね。それをして、『ある平凡』というタイトルを付けたという印象。
始まりに戻って「嫌な印象ない?」と聞いたのは、仮に俺と中村さんが付き合ってるとして、中村さんがよく喋って、俺がずっと見ていてたら、「そんな目で見ちゃ嫌」って言わないかな、と思ったから。自分は自分のペースで生きていて、それとは違うペースの目線で見られるというのが凄く嫌だ、それは言ってみれば、人の恐怖に繋がることだ、という印象を持ちやしないかな?
中村 私がもし付き合っていて、このセリフを吐くとしたら「まあ、家が違うのね。だから何よ。もうイヤ! 付き合ってるんだもーん!」みたいに、すごく軽く言います。
あと、これは2人がセックスする前の話なんですよ。大学3年生くらい同士が付き合ってるから、下手したら初めて同士だと思う。だから女の子の一挙一動を「女の子って超かわいい!」って見てて、むしろそっちのほうを男の子は考えてると思うんです。「アイス食べてる、あ〜かわいい」みたいな。「丸い胸がどうのこうの」って書いてあったりもするんですよ。
ヤッた後には、友達に紹介されるシーンがあるんです。そのときに、女の子が彼を良く見せようとするんですよ。それで彼はすごくむかついて、落語の話に乗っかってわざと道化をやって、後から女の子が「あれちょっと酷いことしたね、ごめんね」というシーン。
あれは、ヤッた後、恋愛が終って急にリアルなものが出来始めて、そしたら良く見せようとし始めて。私はその辺から、「リアルになってきたな」と感じたんですよ。だから自然消滅したんだと思います。それで「好きだけど、これ無理でしょ」というのを決定打にするために相手の家に行ったんだと思います。家に行って、お母さんに会って、この人と本気で一緒になる自信がなくて、好きだけど、恋愛と結婚は違うんだー、みたいな感じで自然消滅したんじゃないかな。
岩松 さっき『浮雲』の話の時に、似たようなこと喋ったよね。好きだとわかれば別れられたのに、それがわからなかったから、ズルズルいったって。
中村 でも、『浮雲』の彼女は持ってるものが何もないから、男しかない。『ある平凡』の女の子は普通の家の子だから、これより良い人と結婚して良い生活を得る可能性がある人だから、男にすがりつく度合いが天と地ほど違うと思う。『浮雲』の女の人は男しかないから、本当に真剣に愛されていれば本気で満足できたと思うけど、『ある平凡』の女の子はどん底を知らないから、上を見てしまうと思う。
岩松 中村さんは結婚願望はあるんですか?
中村 ……あります。
岩松 どういう男が良いとかありますか?
中村 私は、作品を作っているのを許してくれる人じゃないと駄目です。でも、それだけでいい。職種も問わないです。私は作品作りが一番だって自覚しているから、作っている時に「俺のほうを見てくれない」とわがままを言う人は絶対ダメだと思う。作品を作っている時には、好きだけど見てあげられない。つき合うだけなら「いいよ、いいよ」で続けられるけど、結婚したらずっと一緒にいるわけだから、毒みたいに、その人に溜まってっちゃうと思う。
岩松 じゃあ、旦那さんも物を作る人だったら理解し易いんじゃないの? 自分でも、そういう時間が欲しいという実感がある人が。普通にサラリーマンをやっていて、家庭というのは妻が癒してくれる場所だ、なんて考えられた日には大変かもよ。
中村 アートでなくても良いと思うんですよ。建築士さんとか、要は「俺もあるー!」みたいな人じゃないと結果的に傷つけるから、付き合ってはいけないと思うんですけど。違うのかな……。
岩松 俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
そうすると、恋愛は良いこととばかりも言えなくて、わかっていながらそこに入り込む、破滅に向かう運動だという感じがあるんですよ。
似たようなものに、例えば家族がすごく楽しく過ごしている感じがあって。俺は、揉めてこその家族だと思うから、みんなでワッハッハって笑ってるのはどうかな、と思う。だから俺、仮に家族が皆で死ぬんだったら、楽しい時間に死にたい。それ以上の死に方はないよ。逆に言うと、言い訳に近いんだけど、家族で楽しい時間をなるべく避けたいと思っていて(笑)
もう、何も残ってないだろうという感じ。そういう時間を非常に避けたがる傾向があるんですよ。
中村 それは、幸せに思ったら後は失う一方だから、怖いんじゃないですか。秋の切なさ、夏の終わりと似たような。
人生のトータルで得るものを数値化したら、100持って生まれて来て下がっていく人と、持たずに生まれて100までいく人と、合計は一緒だけど、絶対後者のほうが幸せではないですか。絶頂感ってすごい孤独の始まりだし、切ない。
岩松 さっきの恋愛の話と同じで、人間の行いの矛盾してることというかね。恋愛をしているときってすごくハッピーになる、幸せになるっていう面もあるけど、それは恋愛する2人が無自覚に反対のほうに向かっている面もある。
単純に「恋愛は良い」では世の中を見ることは出来ないし、人間の移ろいを色々観察するにつけ、恋愛っていうのは、例えば「夏は暑い」って言うだけでは夏は表現できない、みたいなことのように思える。
じゃあ何で繰り返し繰り返し人は恋愛をするんだ、というのも、何で繰り返し繰り返し人は戦争をするんだ、というのを「戦争は良くない」と言うだけじゃ解決がつかないのと同じ。人が死ぬからとか、人が人を殺しちゃいけないとか、だけじゃない、もっと何か理由があるはずでしょ、多分、そこには。
そういう風なことを考えると、人間が恋愛するというのは、みんな良いことだと思ってやってるけど、本当は悪い方向に向かってるんだ、というようなことを、自分の思想としてちゃんと語れれば、もしかしたら世の諸々の不幸に対して対処できるかもしれないと思うわけだよね。それで、例えば「家庭がみんな幸せであればいい」という理屈があって、「確かにそれはそうだけど、でも、そういうことがないときにどうやって対処するの?」と考えたときに、「家庭が笑いに満ちて楽しい時は、もしかしたら戦争をする時間と等しいんじゃないの?」という理屈をどこかで考え出そうとする。
ワッハッハって笑っている家族があったときに、泥棒が入って来たりしたら、家族みんなでその人を殺そう、襲おうとするという単体になってるわけでしょ? 戦争も、そうやって何かを守ろうとする行為で、何かを守るというのは善だと思われてるじゃない。
例えばハリウッド映画なんかで、家族を守るために戦うという理屈を、あたかも正義のように言うけれど、何かを守ろうとする善のような行為は、実は戦争と同じようなことをやってるということでしょ。戦争の結果である「戦って殺す」という二次的なものを見てるけど、本当は人間にそもそもある「何かを大切にしたい」という思いが戦争を生むんだ、と考えたとき、「家族が楽しい」とか「誰かを愛している」っていう時間は、実は他人を排斥している行為だから、すでに「戦争反対!」って叫ぶ根拠はない! 家庭を大切にしているんだったら、戦争反対って言う権利はあなたにはない!という理屈になるわけよ。そういう風に、自分なりに世間を読み解く秩序を自分の中に持ちたい、と思うわけだよね。
中村 思ってる……。私、善悪は信じていません。絶対先祖の誰かは人を殺してると思うし、それだって自分は肯定したいから。人が死なないと私が生まれなかったかもしれないし、今イラクで人が死んでるっていうのも、その後平和になったら、「あれは良かったかもしれない」となるかもしれないし。
岩松 良いとか悪いとかじゃなくて、人間の行ないを全段階で見ようとしないと、なかなか人の成り立ちを理解するところまで行かないような気がするよね。
例えば主婦が軒先のうわさ話で「ねえ聞いた? あそこの奥さん浮気してるらしいわよ」とか言うのもまた、人の行ないとして悪いとは言えないんだけど、そこの基準で物を考えていく限りは、ほとんど創作するエネルギーにはならないような気がするんだよね。そんなのは「夏が暑い」というのと一緒だから。「じゃあ、夏っていうのはどういう季節なの?」というのを自分なりに考えないと、夏について考えることにはならないわけだから。
それは別に、「しち難しいことを言え」というのではなくて、ちゃんと、自分の言葉で喋るということ。人は、難しいことを言ったからって「この人は頭がいい」とかストレートな取り方はしないから。「いや、僕は何か、朝、目が覚めるとどうのこうの」と一言言った言葉が、すごい力を持つ場合もある、ということでもいいわけじゃない?
世間に対してとか、自分が生きていく上で他人と接する時に、相手に自分という存在がどう響いていってるのかという問題は、何も主張するばっかりじゃないから。そうすると、ある時主張することの無駄を知った人は、そういう方法は取らないと思うし。だけどそれでも何か「なにくそ」とか、そういう気持ちだけはあるから、それをどういう形にするか。
どういう風に世間に表情を向けてるかとか、どういう態度を取ろうとしているかとか、真正面に向うとしてるのか、後ろ向きを見せようとしてるのかとか、斜めを見せようとしているのか、ということにもちょっと近いと思うけど、自分の表情っていうのを他人にどう見せようっていう気持ちだけはあると思うのね。
そういう意味では、演劇というのはまさに、「目の前の人間に自分はどう感じられてるかということを感じる作業」のような気がするわけ。
そして、作家もそうだと思うんだよね。作家というのは、例えば「馬鹿にされたくない」とか「こんなこと書いたら馬鹿に思われる」という意味では、自分がどう見えるかということを言語化してるに過ぎないわけじゃない? だから、煎じ詰めていえば、今、人がどういう印象を自分に持っているのかということを、絶えず人間は意識し、そのことによって自分のポジションを決めていこうとしている。人間はそういうリアクションに長けた動物だから。人の目は絶えずあって、どういう風に人に見られるかということに対して絶えず演技している、というのが人間だから。
演技というのは、別に「お芝居する」ということじゃなくて、極端な話、僕がいま中村さんに喋ってる、この音量すら問題なわけでしょ? この音量で喋ることを、今、僕は選んでるわけじゃない? それは、このシチュエーションの中で、僕はリアクションしてるってことだよね? しかも、表情もそうだし、体勢もそうだし、全部世界に対するリアクションでしょ、僕は今。喋っている内容を、自分の中で再評価しながら喋ってるわけだし、「この言葉が相手に響いているだろうか?」とか思いながら喋ってるし、あ、響いてないと思ったら空回りして、そこでまたある意味のリアクションがあって、という風に絶えず人に対して、人の目に対して演じているのが人間だから、その「演じる」ということからは人は逃れられないと思うんだよね。
だから「演じる」というとお芝居するみたいだけど、何にもしないことを選んでいるという意味では、何にもしなくたって演技してるんだよ。だから、世間に対して訴えるには、一本ではなくて、色んな訴え方があると思う。
難しいよね。例えば俺も、外国とかで芝居やってみたいな、とか思うんだけど、結構、外国語に翻訳して、率先してやる人もいるのよ。それをねたみ半分で「さもしいな」と思ったりもするわけ。「本当に良かったら、外国から来るだろ」みたいな(笑)
それに対して例えば「ただ待ってるだけじゃない」という非難もあるだろうし。だからそこは微妙な駆け引きがあるけど、それもやっぱり、さっき言った「人に見られる」ということに対する問題がそこに介在しているような気がするんだけど。だから中村さん、この先どういう形で世間に打って出るかわからないけど、とりあえず、「地道に努力いていくしかないよね」という言い方しかないよね。
中村 うん。そう。それは、出来る!
岩松 そういう問題は人が解決出来ない問題だけど、解決出来る問題というのは一つ、地道に、一人一人自分が出来ることをコツコツやっていくことだから。それだけは確実なことだけど、「世の中の人がどういう風に受けとってくれるか」は、もう、手から離れてる問題。だから最低限言えるのは、「自分の信じる道を、ただひたすら歩きなさい」しかないじゃない。
中村 そう、それしか、出来ない。
岩松 うん、それしか出来ないんだよ。そうすると、それが空しいと思い始めたらやらなくなるだろうし、ただ、それをやらなきゃならないと思ったらやるだろうし。それが自分の中のどういう倫理観に基づくのかわからないけど。みんなそうだと思うよ。みんなコツコツ、コツコツ。で、それを見た時に人は、ちょっと感動したりするわけでしょ?
結局、「一人のすごく個的な世界が、実は普遍的だ」という問題になってくるような気がするわけ。レールが敷かれているみたいに最初から普遍的な問題があるんじゃなくて、ある時、例えば「中村紋子」という人が個人の中でずっと考えたことが、実は普遍的だというところに広がっていくから、個人のコツコツが意味も持つ、みたいなところがあるわけでしょ? それを信じないと。多分、色んな人はそうやって新しいものを作ってきたでしょ?
中村 うん。
岩松 最初は人に認められなくても、自分が信じるものを書いた。さっき言っていたダーガーだってそうだけど、カフカだってそうだよね? カフカという作家みたいに、生きてる間ずっと「発表しないでくれ、発表しないでくれ」と言って書き続けた未完の小説が一杯あって、それを死後、友達が発表したために、今世界中に広がっている、ということもある。それはすごい個人的なこと、個人的な思いで書いているはずで、だけどその個人的な思いが、実はみんなの共感を得た、ということだから。
最初からみんなの共感を得ようと思って書かれたものには、あんまり琴線が振れないような気がするんですよ。みんな個人の孤独に苦しんでいる人ばっかりだから。だけど孤独に苦しんでいる人たちの、一人の人間の苦しみが公になった時に色んなものと結びつく。
中村 そう。そう。そうです!(笑)
岩松 ただ、コツコツやるとは言いながら、時々、まあ、中村さんの世界はわからないけど、俺たちの世界は、言葉に変える力がないと駄目なんですよ。たぶん。
時々、助言してくれる写真家とか、キュレーターの人がいるわけでしょ?
中村 キュレーターの人からは、「君は、君の言葉を文字にしてくれる人と出会いなさい」とよく言われます。
岩松 それは「言語化してくれる人を」っていうことでしょ? 言葉っていうのは、やっぱりすごい重要だからね。
●対談を終えて
文:中村紋子
先日、岩松さんと対談をしました。
岩松さんは劇作家で役者さんでお芝居の世界にいるひとです。
私は、普段は絵と写真をやっています。
表現のひとつとして、その中でながくやっている方とお会いして、
一生懸命はなせる機会はそうあることではないので、
今回の対談はとてもとても、よかったです。
ものをつくるということと、自分の核みたいなものを一生懸命話せてよかったです。
作品もみせれてよかったです。
それに岩松さんが一生懸命こたえて、
いろいろ話してくれたことがすごくうれしかったです。
自分の核を露呈することはとても恐ろしいことです。
私は対談したあと、ひょっとしたら私は喋りすぎたのではないかと思いました。
でも一生懸命喋りたいと思いました。
だから対談の日はすなおに自分なりに頑張りました。
終わってからすごく怖くなったけど、もうなるようになれと思いました。
思ったことを全部言って不安になったけど、素直に話せたし、
岩松さんがすごく受け止めてくれた感がありました。それがありがたかったです。
帰りの電車でものすごい頭が痛くなりました。
頭がすごいボーボー燃えるみたいな気がしました。
対談から数週間あとに、ポット出版で岩松さんが書いた対談の日のことの書き下ろしの文をもらいました。その場で何回か読みました。
なんだか胸がくるしくなりました。
うれしくなったり、せつなくなったり、かなしくなったり、愛も感じたり、上手く言えません。
見抜いてもらえたというか伝わったというか、
あの日、ちゃんと話せて、ちゃんと通じることができたんだなあと思いました。
最初はくるしいでいっぱいだったけど、うちに着くころになぜかものすごくうれしい気持ちになってしまい、なにかちゃんと伝えて、会話ができたんだとすごくうれしくなり、ぴょんぴょんと歩きました。
対談のとき、一番印象に残っているのは岩松さんの目です。
岩松さんもすごい一生懸命喋ってくれていると感じました。
眼からビームがでてるみたいでした。
ほんとうに良くも悪くも私はばかみたいに全部話していたので、それにすごく真剣に応じてもらっている、わたしはすごくうれしかったのです。
ものをつくってきて、こういう機会が得られて本当によかったです。
対談の文をもらったあと何日かして、お天気の日の東京行きの電車に乗っているとき、
私は岩松さんの顔を考えました。
私は岩松さんはジャムおじさんに似ているなあ と 思いました。
アンパンマンが実写化されたら、岩松さんに是非ジャムおじさんをやってほしいです。
おわり
溜息に似た言葉─セリフで読み解く名作
著者●岩松了
写真●中村紋子、高橋宗正、インベカヲリ★、土屋文護、石井麻木
定価●2,200円+税
ISBN978-4-7808-0133-0 C0095
四六変型判 / 192ページ / 上製
目次など、詳しくはこちら。