2008-11-23

飯野由里子『レズビアンである〈わたしたち〉のストーリー』


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● 飯野由里子『レズビアンである〈わたしたち〉のストーリー』(生活書院)

★★★★ 著者には現在のレズビアンたちの感性を掬う仕事をしてほしい

どんな人でも経験することであろうが、人はいま自分がどんな時代を、どんな流れのなかで生きているのか、その時点ではわからないものである。筆者は九十年代以降、性的少数者のムーブメントを生きてきたが、その活動をはじめた当初、自分がどんな道を歩んでいるのか見えていたわけではなかった。なので個人的にも、本書の第一章、レズビアン&ゲイの運動や思想の歴史についての概観は興味深かった。

そこで明らかにされているが、現在の性的少数者をめぐる理論研究の主流は、アイデンティティをもとにした政治を批判する社会構築主義やクィア理論である。かつては、「ゲイ」とか「レズビアン」という抑圧された人たちが存在し、その人たちが解放されることが目標とされる「解放の政治学」が運動の中心だった。が、フーコー以降のアカデミズムでは、「ゲイ」「レズビアン」といったアイデンティティ自体が権力の産物であり、その土俵を踏襲することは、近代の「同性愛/異性愛」の二項対立的な構造を再生産することになってしまう、という議論が支配的になっていて、この本の著者もその思潮に乗っている。

しかし本書は、そうした近代のカテゴリー自体を自明視はしないが、例えば「レズビアン」というカテゴリーを用いることでエンパワーメントされた過去の当事者たちのことを批判するのではなく、むしろ肯定的にその「経験」を読み直そうと奮闘している。ミニコミ誌の文章を分析し、レズビアンであることを女性解放の問題だと主張した七十年代のフェミミスト・レズビアンや、日本人のレズビアンのなかにある差別意識を糾弾した在日コリアン、エイズ予防法案でゲイと共闘したレズビアン活動家などの「経験」を、それが必要とされた特定の歴史的・文化的文脈で捉え直そうとしている。

それはある意味で「解放の政治」を批判するアカデミックな言説と、「解放の政治」以外やりようがない運動の現場を架橋しようという、著者の「配慮」なのかもしれない。その眼差しは相対化のなかでこぼれ落ちてしまう人々の思いを掬い上げていて、好感が持てるものだ。

とはいえ、本書の立ち位置として、社会構築主義は「解放の政治」を肯定的に読み直すことと矛盾しない、と著者が記すほどには、この問題は論理的にすっきりしていない。フーコーを援用しようが、ハルプリンを根拠にしようが、同じ思潮のなかにいる専門家は納得しても、門外漢にはどこか煙に巻かれた気分が残る。

性的少数者の歴史を捉え返す仕事は他にもある。中央大学の矢島ゼミでは、ライフストーリーのインタビューなどでこれまでも本を刊行してきたが、『戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書)』はその集大成と言える一冊。女装の歴史を記述した三橋順子の論文、戦後日本の同性愛言説を社会構築主義的にたどった石田仁の論文などは、資料価値も含めて一読に値する。

ある意味でこれらの仕事で、九十年代以前の性的少数者の歴史は総括されたと言えるかもしれない。けれど、そこから今後の当事者の運動の展望が見えてくるかというとそうでもない。もし、それが筆者の直感でないとするのなら、これら相対化の言説群も、一つの時代思想としてまた相対化される必要があるのだろう。

初出/現代性教育研究月報