2007-07-14
井田真木子『同性愛者たち』
● 井田真木子『同性愛者たち』
僕はときどき自分がすっごく幸運なんじゃないかと思う。何をって? 1960年代にゲイとして生まれたことを。
考えてみれば、僕らの世代はみーんな団塊のオッサンやオバサンたちのお古をリメイクして使ってきたのだ。ロックだって、アニメだって、ファッションだって元をたどればたいがい60年代に遡る。80年代を席巻したエコロジーやフェミニズムでさえ、その担い手は全共闘の残党だ。キャツラときたらまるでイナゴの大群のように押し寄せては、そこいらじゅうを食い尽くしてしまうのである。結果、後続世代は二番煎じに甘んじるしかない。そう、僕らには自分たちに固有のテーマなんて残されていなかった。カウンター・カルチャーにも、共産主義にも、フェミニズムにも、エコロジーにも、ぜ−んぶ乗り遅れて来たのだ。
しかし、しかしである。ゲイ・リベレ−ションというテーマは、幸い手つかずで残されていた。リゾートで足跡ひとつない雪原を見つけたような喜びを感じてしまうではないか。
おかげで、この国ではいまだ珍しいゲイ・リブの物書きである僕も、日々、有意義に過ごさせていただくこととなった。先に誰も歩いていないのはなんてやりがいがあるのかしら。中には、カミングアウトして被差別者のフロントに立っていろいろと苦労も多いでしょうと、心配してくれる向きもあるが、なんのなんの、こんな快感はない。なんせ、はからずも、やることなすこと日本初になってしまうのだから。また、心ある人々からは「勇気ある行動!」などと赤面ものの評価もいただける。何であれ、新しい分野を開拓するってことは、その苦闘をはるかに凌ぐ悦楽と自己陶酔があるのである。ああ、大学卒業して中途半端なサラリーマンにならず、ゲイの道を極めて(?)よかった。
井田真木子著『同性愛者たち』は僕と同様、いまどきそういう「幸運」を手にした若者たちの青春ヒストリーである。アカーというゲイの市民団体で活動する7人のナイーブなゲイたちの軌跡が、情熱的な筆で描かれている。
著者はアカーが府中青年の家の使用拒否をめぐって東京都を相手に提訴した件で彼らに興味を持ち、約3年に渡って彼らの活動を追った。その過程で異性愛者としての自分を問い、同性愛に対する社会的偏見を洗い出すという展開は、問題構成としてはよくできているし、アカーという団体の活動の様子や、中心人物たちの人物像も肉厚に語られる。その筆の巧みさに思わずうなってしまうほどだ。そして、この、テーマなき世代のゲイの若者たちが、社会から自分に押しつけられた差別に気づき、それに向かって「NO!」を叫んでいくという、あまりにもまっすぐな物語は、読んでいる者を素直に感動させるだろう。ある意味で、今日び体制に異議申立てすることに自己実現を重合わせられる彼らの役回りに、羨ましさを感じながら。
一方、著者が最初に持っていた異性愛者としての自分への問いかけをそれほど深化させたようには思えない。同性愛者への共感からか、個人的な関係の親密さからか、いつのまにか著者は視線を彼らとぴったり一体化させ、「幸運」の快感をいっしょに享受してしまうのである。自分への問いかけは異性愛者であることに無自覚であったことを反省するに留まり、それを女という被差別者としての自身の問題にまでは繋げない。
まあ、それはノンフィクションの役割は対象を追い語るものなのだから、僕が多くを望みすぎているのだろう。
けれども、ノンフィクションとしても、ゲイのギョ−カイの内情を多少知っているものとしては、まったく憤懣がないわけではない。アカーの彼らを主役として追いかけるにしても、『同性愛者たち』というタイトルを掲げるにしては、周辺取材をしていないのか、ただ取り上げなかったのか、当然触れてしかるべきところ、アカーという団体を多角的な視点から捉えるのに必要な周辺を押さえていないのである。
著者が対象に入り込みすぎていることは否めず、ノンフィクションのありようとしては、少し疑問を感じざるをなかった。
ともあれ、この作品が異性愛者の読者に大きな衝撃を与えることだけは間違いないだろう。
初出/「VIEWS」(講談社) 1994.4.13
*『もうひとつの青春』と改題して文春文庫に収録