2007-10-05

QJr 座談「ポストマッキー世代のリアリティ」

126_127.jpgポスト「マッキー世代」のリアリティ
REALITY of post MACKY generation

*初出/「クィア・ジャパン・リターンズ」vol.1(2005/ポット出版)

相対的に差別や抑圧感が軽減している時代に青春期を迎えた二十代のゲイたち。
彼らはどんなふうにコミュニティに関わろうとしているのか。先行世代に対してどんな視線を向けているのか。
その本音を語ってもらった。(司会・伏見憲明)

田辺貴久●23歳
たなべ・たかひさ
1982年、千葉県生まれ。2004年、早稲田大学第一文学部卒業。
元GLOW(Gays and Lesbians Of Waseda)代表。
現在、某業界の情報誌を発行する出版社に勤める会社員。

ぼせ●25歳
ぼせ
1980年生まれ。現在医療関係の仕事をしながら、愛知県で地味に暮らしている。
よく偉そうなことを口にして怒られてしまうのが悩み。将来の夢は専業主夫をしながらスローライフを送ること。第15回バディ小説大賞受賞。本誌掲載の小説「黄色、緑、廻転燈」、読んでね。

カズ●26歳
カズ
1979年、愛知生まれ。現在は静岡県で教育関係の仕事に勤しんでいる。
「キャリアウーマン」を目標に,仕事に明け暮れる毎日。将来の夢は,子供と犬とペンギンを育てる事。優先順位は,子供>犬>ペンギン。子供は自分の子が良いけど,どうやってGETすれば良いのかよく分からない。戸籍とかどうなるんだ? 誰か教えて。

バルバラ高尾●30歳
ばるばら・たかお
1975年、大阪生まれ。京都の私立大文系科卒業後、そのまま京都でモラトリアムを過ごす。が、昨年華やかな都会に憧れ突然上京。夢はいつだってオカマ界のマルグリット・デュラス。けれど現実はいつもどこかの店員。現在二丁目で勤務。文筆稼業に携わるのは今回が初めて。続けたい。

ゲイ全体
という視点はない

伏見  前号の「ゲイの肖像」では、田辺さんに40代、30代、20代のゲイ三人のルポを書いていただきました。20代はご自身についてでしたが。編集サイドとしてはゲイの世代差が見えてくれば面白い、という狙いでしたが、田辺さんは自分で書いてみてどうでしたか。
田辺 取材をしている間はその世代差を意識していたんですが、書いているうちに各個人に意識が向いてしまったので、結果、それぞれを世代の代表として書いたというふうにはなりませんでした。ただ、ゲイという期間をすごした厚みのせいかもしれませんが、二丁目ってものの捉え方がずいぶん違う気がしました。
伏見  それはあなた個人が二丁目のバーにあまり行かないからということではなくて?
田辺 僕より上の世代の人たちはゲイを語る時に二丁目ひとつで語ることができるんですよね。吉田利信さんや映(はゆる)さんも二丁目をゲイの母体として捉えて語っているっていうか。僕たちの世代だとイベントならイベント単体にコミットしているけど二丁目でゲイとして何かをしているという感覚はないように思います。そういうふうにゲイの母体としてのコミュニティを意識できているのは30代より上の世代特有のものかもしれないですね。
ぼせ 上の世代のゲイには、ゲイ全体に何かを伝える、ゲイ全体の中にいる人間として考えるといった視点がけっこうある。それは僕には絶対ないと思っていたら、ブログで田辺君に「ぼせ君はゲイとして何かをしたがっている人ではないでしょうか」と書かれてものすごくびっくりした。そんなはずないのに、って(笑)。
田辺 世の中でブログってものが騒がれはじめた頃にブログ布教活動を一時ぼせ君が熱心にやっていて、ブログでゲイのコミュニティを焼きなおそうとしているのだと思ったんですけど。ブログを広めようとした動機って、それじゃあ何だったの?
ぼせ まずは、僕の中でもネット全体でもブログというツールに対する期待感が非常に強かった時期で、ブログを使ってできることはないだろうかと思っていたんですね。そして、その時期はパレードが二年間休止になっていて、3年目はどーなるのよ?とパレードを含むゲイイベントやゲイコミュニティのあり方について不透明感・不安感が強い時期でもあったんです。ですので、そのようなゲイ業界にまつわる議論やコンセンサスを得る場をブログを用いて作っていけるんじゃないかと思ったんですよ。
 でも結局、しばらくしたら面倒くさくなってしまった。理由はいくつかあるんだけど、一番大きかったのはブログの普及が思ったよりも速かったこと。最初の頃は比較的目に見える範囲で目に見える議論ができていたんだけど、ブログが一気に大衆化する過程で、日々のとりとめのない話とかどうでもいい主張が増えて、今までの人が埋もれてしまった。横の繋がりっていうにも数が多すぎて逆に繋がれないし、僕たちがブログでどうこう言っても僕たちの知っている中でやりとりをしているだけになった。結局ネットを通じて意見を伝えるということにはならないんだなと途中で感じたんですよ。ゲイくらいの人口だったらちょうどいいかと思っていたけど、まったくそんなことはなく、騒がしいクラブの中でそれぞれが好き勝手にお喋りしてるような状態になったんですね。
 それがちょうどミクシィが広がり始めた頃で、ミクシィの中を見ていてもまったく同じことを感じたんです。ミクシィというツール自体、個々人の人間関係を可視化するものだけど、やっぱりそれ以上の広がりはなく、自分たちの人間関係の中で喜怒哀楽のリサイクルをしているだけ。ミクシィだってやりようによっては「ゲイ」という大きな枠を活用できると僕は思うんだけど結局そうはならないし、そんな使い方はどうやら誰も期待していないんだなとブログの普及で感じたことと同じことを感じたんですよ。言ってしまえば、パレードや同性婚よりも足あとチェックやコメントの数のほうが大事。それが、ぶっちゃけたところのリアルなのかなと。
 そんなこんなで、自分のブログはもう個人サイトと割り切って勝手にやっています。僕の偉そうな提案に乗っかってくれた人には「ほんとごめんなさい!」って感じですけど(笑)。
田辺 なんかブログって、一時期ミクシィに持っていかれちゃった感があったよね。
ぼせ でも、時代の流れとしては「全体で」というより気の合うところでやりとりをしていればいいのかなとも思うし、現にそういうスタンスが求められているのならば、もうなにもするまいと僕は思ったかな。
伏見  ぼせさんの中にも今や上の世代が持っているような「ゲイ全体として」という視点はない?
ぼせ 僕ももともとはゲイサークルでカミングアウトについてのディスカッションを企画したりするお固めなタイプだったので(笑)、「社会の中でのゲイ」であったり「ゲイコミュニティ」といったものに関心が高い方だったんですよ。なんたってデビューのきっかけは「同性愛者は差別されています」というインターネットの文章だったし(笑)。でも、デビュー後の解放感や肯定感なんてすぐに目減りしていくし、さらに今言ったようなブログやミクシィでゲイ全体のダルい空気をしっかりと感じてしまったこともあり、このところ「ゲイ全体を考えよう!」という視点は急速になくなっています。
田辺 僕もそう。例えば早稲田のGLOWっていうゲイサークルなんかでも、ゲイとしてという部分にこだわって何かをやろうとして、やれカミングアウトについて語ろうとか、みんなで一緒に遊びに行こうとかってやってみても、それこそ地を這うようなテンションで、まったく盛り上がらなくて。だいたい、今さらカミングアウトなんて言っても誰もついて来ないし、言ってる自分自身もちょっとさむいなとか思ってしまう(笑)。
ぼせ 話をしてみても、完全に個々人のレベルにまで降りてきてて、社会のレベルじゃないんだよね。「カミングアウト? したけりゃすればいいんじゃないの?」で終わっちゃう。
田辺 そう、終わっちゃうんだよね。あんな小さなサークルでも、そういうことを語りたい派、セクハラしたい派、女装したい派みたいに、みんないろんなこと考えながら集まっているわけだから、みんなで共通の目標をもった母体としてまとまるっていうのがムリだったの。
 伏見さんも若い人からの発信がない、みたいなことをよくおっしゃいますけど、それはゲイというものが個人で扱う単位のものになってしまっていて、「全体として」という発想がピンと来ないからじゃないかと思います。
伏見  ゲイということで何かをやっていこうというモチベーションがないんだよね。
 それなりに差別とかも残っているにしても、大きく対抗するような空気がなくなってしまった。それは以前、野口勝三氏がゲイシーンの個人化と不透明化のことを「超越的な価値基準の喪失」と指摘したことですね(『ゲイという[経験]増補版』ポット出版・2004年)。だから今の20代くらいの世代になると、「ゲイとして」なんて意識は希薄になるし、ゲイカルチャーなんていうのもそこから生まれるはずもなく……。でもそれは悪いことではけっしてなくて、世の中がよくなった結果でしょう。
 それから、もっと正確に言うと、上の世代にしても、その一部が90年代以降そうした傾向を強く持っただけで、それが「全体」だったことなんか一度もない。あれは一瞬の幻だった(笑)。後続世代にはその部分が全体のように見えただけ。でも、まあ、それが時代性だったとも言えるわけで。
ぼせ さすがに全員がそうだとは思わないけど、女装にしてもボランティアにしてもネットでいろいろ書いている人にしても、その行為が好きだからやっているのであって、決して大きな意味を感じてやっているわけじゃない。僕がブログ活動をふっかけた理由にももちろんそういう動機が混じっていて、「ブログ使ってみたい! トラックバックしてみたい!」という目新しいネットツールに対する僕個人の興味は確かにあった。
伏見  そう言いつつも(笑)コミュニティで活動的な田辺さんやぼせさんよりは、カズさんは遠いところにいる普通の会社員ゲイですが。
カズ そうですね、自分なんかはぼせ君を通じて玉野真路さんや野口勝三さんの勉強会に参加していろいろ考える機会を貰っているという感じですね。だからぼせ君と出会っていなかったらそういう場所にも出て行かなかっただろうし、仲の良い友だちがいればいいかなという感じだったでしょうね。それまでの若い友だちの中にはゲイ全体として何かを考えている人なんていなかったから、そういう考え方がピンと来ない気持ちはわかります。ただ、勉強会に参加して話を聞くと、ああ、なるほどと思わされることが多い。
ぼせ 僕も同じような考え方だと思うんですが、そうやっていろいろ参加してゲイのことを喋ることは面白いけど、それは単純にその人たちとそういう話をすることが面白いから。結局、その話を聞いて自分なりに突き詰めて考えたり自分で動いたりといった発想にはまずなっていかない。

ゲイであることと、
個性の関係

伏見  バルバラさんは世代で言うと団塊ジュニアであるところの「マッキー世代」に当たるわけなんですが、その辺りはどうですか。
バルバラ(以下、バラ) ピンと来ないのは私もそうですね。そもそも私はそういうゲイ団体に所属したり運動に参加したりしたこともないし、個人的にもゲイ全体の視点を持って動いたことはないような気がします。
伏見  でも今は二丁目に来てゲイ産業で生きているわけでしょう。傍から見るとすごくゲイにこだわって生きているように見えるのですが。一度は自分がゲイであることで悩んで痛い気持ちがあって、そこを通過したという感じはあるんでしょう。
ぼせ そういうのって忘れちゃうんだよねー。
バラ そうですね、振り返ってみてもコレと言ってそういう通過点みたいなものは見当たりません。ただ学生の時には周りにいろんな運動をしている人たちがいたので、ゲイじゃなくても彼らと一緒にいたことで、ぼせさんがQJrvol.0の感想としてブログで書かれていた(139ページ参照)「ゲイが個性を補填する」という意味はわかる気がします。「社会運動が個性を補填する」という意味で。だから団塊世代が持っている安保の後の喪失感のようなものまでは想像できますね。
伏見  ちょうど上と下の世代の狭間にいるような感じですね。ぼせさん、「個性の補填」というのを説明して。
ぼせ 毎日生きるためにはそれ自体に理由がいるし、それがあった方が生きやすいと思うんですね。その理由として「ゲイであること」が団塊ジュニア世代にはヒットしたのではないかと。若くて元気のある頃にクラブやゲイカルチャーがいい具合にハマったおかげで、ゲイを楽しむことと若さを楽しむ・人生を楽しむってことがオーバーラップしながら今に至っているように見えるんですね。デビューへのハードルも今よりは高かったはずで、そのぶん解放感や肯定感をより享受できた側面もあるかもしれないです。そして、そんなポジティブなエネルギーを与えてくれた「ゲイ」というツールに信頼感がある。
 でも、僕たちの世代になるとハードルもどんどん低くなっているし、クラブもイベントも「しょっちゅうやってること」でしかない。そうなると、ゲイというリソースから肯定感を引き出せないので、田辺さんが自身ルポで書いていたように「タダの人」になるしかない。つまり個性のないその他大勢な自分。それはゲイということに囚われないぶん強みだけど、ゲイということへの連帯感やコミュニティ意識は希薄になるし、根本的な「自分」というモノの安定感もよくない。視点も小さくなって、ミクシィ的な極至近な人間関係の重要性は増すんだけど、「ゲイコミュニティ!」とか言われても響きにくい。
カズ 自分はゲイであることを全然悩んだことがないんですね。中学の頃から部活の人がゲイだらけだったというか、キャプテンが男に手を出しまくっていたんですよ。ほとんどみんなその人に喰われていて、伝統のように(笑)。
田辺 なんかすごくいい部活に入ってたんだねえ。
カズ セックスをするのに性別がないというか……。女と付き合っている人もいたし、それで男とエッチする人もいたし、バラバラでした。
伏見  なんか夢のような世界!(笑) カズさんはその時は自分のことをゲイだと思っていたの?
カズ ゲイという言葉は知らなくて、ホモだと思っていました。
伏見  そういうパラダイスな環境だとどこで自分がホモだって確認するんだろう。
カズ それはやっぱり、テレビドラマでは男と女の話ばかりだし、それが当たり前のことなんだとは思っていましたから。それと自分は違うなと思っていて、何だろうなって感じ。
伏見  馬鹿にされたりいじめられたりはしなかったの?
カズ それはなかったですね。
ぼせ あるって言ってなかった?
カズ そのキャプテンと付き合っていた時に、女の先輩に、「下品!」って言われたことはあったけど……(笑)。
伏見  カズさんはゲイに対するこだわりみたいなものはないんだ。
カズ 以前勉強会に行った時に、レズビアンの人が「女性の権利を!」とか言ってるのを聞いてすごく衝撃を受けたことは覚えています。同性が好きなことを社会の問題として考えている人がいるんだなあと。だから、ゲイということが社会的に特別だから個性を補填できているという感覚は自分の体験にはないけど、今は想像することはできます。
バラ 順序が逆になっていますよね。上の世代の人たちは、同性を好きになったことで周りから排除されて、なんでそれが悪いんだってことで言葉を覚えていくのに、カズさんの場合は、同性を好きになっても排除されない環境があって、でも排除される環境もあるんだよと人から言われて言葉を覚えていく。そういう状況はもしかしたら、社会から排除されてきた上の世代の人たちにとっては理想郷かもしれないですよね。
田辺 僕はカズ君と同世代だけどそういう話がまったくなかったです。僕の場合、それこそゲイということをおくびにでも出したら石でも飛んでくるんじゃないかくらいに思っていたけれど、でも本当は、カズ君のようにあけっぴろげにしてもべつに石なんて飛んで来なかったんじゃないかと今では思います。周りの環境が閉鎖的で排他的だったから隠していたのではなくて、僕自身が勝手に自分を抑えていただけで、周りはもっとユルかった気がするんです。クラスにもオカマキャラが何人かいたけど、いじめにまでは発展していなかったし。
ぼせ 僕もいじめられたことはないんですけど、ゲイは良くないことなんじゃないかとは思っていましたね。でももともと周りからは女の子っぽいとか可愛いって言われていて(笑)、修学旅行の時は入れ替わり立ち代り男の子たちが僕の布団の中に遊びに来ました。
伏見  狭間世代のバルバラさんはどうでしたか。それだけのベッタラおねぇキャラだと(笑)ずっと地で来たわけでしょう、あなた。
バラ ええまあ、このキャラが完成されたのは20歳前後ですけど(笑)、それまでは私もクラスの中では中間的な存在でしたね。女の子からは恋愛相談されて男の子からはセクハラを受けるという。私は好きな男の子のことばかり考えていて、どうやってデートに誘おうかとか、それは自分がゲイだから悩んでいるというより、相手が振り向いてくれないことに悩んでいる感じでした。
伏見  さっき言っていた、ゲイにこだわってみようと思ってゲイ産業で働くようになったという経緯は。
バラ 私はモノを書きたいというのが先にあって、じゃあ得意分野を見つけようと思って、それが「ゲイ」だったっていう。
伏見  ぼせさんの「個性の補填」理論とは逆になってるんだ。ということは改めてゲイということを利用してみようってことね。まあ、その選択が正しいかどうかはわからないけど(笑)。わかった、じゃあ一人ずつ聞いていこう。田辺さんはQJrに関わったりパレードに参加したりして、比較的ゲイコミュニィティと呼ばれるものの近くにいるわけなんだけど、自分の個性とゲイの関係についてはどうですか。
田辺 僕の場合は大学がゲイデビューだったんですね。その時はゲイである自分をクリアしようとしていたので、個性をゲイで補填する割合は高かった。でも時間が過ぎていくにつれてその割合は減っていって、いつかその感覚はなくなってました。今は特にゲイということについて考えることもなく、どこにでもいる社会人になりたての20代として生活していて、オマケとしてゲイというアイテムを使っている感じ。パレードに行ったら楽しいし、こういうふうに雑誌に関わるのも、面白いなぁって思うからやっているわけで、ないならないで、べつにどうっていうのもないんです。だからゲイ関係の活動は、「自分が生きていくために」みたいに必要不可欠だからやっているというわけじゃ、ぜんぜんないです。
伏見  カズさんはセクシュアリティで悩みのない思春期を過ごしてきて、今、自分とゲイの関係はどういう感じですか。
カズ 全部に共通していることは「楽しい」ということです。パレードも今回初めて参加したんですけど、すごく面白かった。特に聖子フロート(笑)。あとは沿道を歩く感じも新鮮でした。
伏見  僕みたいに古式ゆかしき世代からすると、パレードに行けば仲間がいっぱいそこにいて、みんな幸せそうにしていて、自分もゲイとしての存在が肯定されて感動しました! というのが正当な感想になるはずなんだけど(笑)。
ぼせ というより、松田聖子を歌い踊りながら歩けたことが嬉しかったって感じだよね(笑)。
カズ そうそう、普段はそういう機会がないから(笑)。でも振り向けば女装の人がいたり沿道の人が手を振ってくれたりして、ああこれはレズビアン&ゲイパレードなんだ、と時々確認するくらいで。
伏見  ゲイという属性が楽しみのアイテムなんだ。で、ぼせさんはどうですか。
ぼせ 僕はもともとすこたん企画から入ってずいぶん悩んだタイプで、自分が悩むことはない、社会が悪いんだ、ってところで肯定感を得たんですよ。大学の初めの頃はネットで探したサークルに行ったりしていました。もともと集団生活が苦手なうえに大学生活もタルいなと思っていた頃にゲイではじけたから、一時的に「ここに本当の自分が!」というのもあったんですけど(笑)今はそれもすでになく。ゲイ全体としての視点も若いゲイの中ではある方だとは思いますし、何かに関わっていたいなとHIVのイベントにも参加したりもしましたが、それでも段々そういう動機は落ちて来ていますね。まあでも、やっぱり自分の一部としてゲイはあって、ツールとしては楽しい業界だし面白い人がたくさんいて飽きない。ゲームも映画もアニメも適度に楽しむ感じで、どっぷりハマル趣味がない人間なので、ゲイ業界ではいろんな業界の人と知り合えてそのお話を聞くのも面白いし便利かなと。
田辺 おいしいとこ取りしないと、損な感じだよね。
ぼせ どっぷりハマってつらいことも苦しいことも引き受けるようなことはしたくないけど、ツマミ食いのボランティアでいい汗かいてみるとか、社会のことを考えて偉くなった気分になるとか、それくらいの関わり方だといいかな。動機としては不純だよね。
田辺 めんどくさいことを全部引き受けて自分の生活犠牲にしてまで、とは自分の気持ちを仕向けることができないけど、あったらあったで楽しめるから、要らないといって切り捨てるわけでもない。自分にとってゲイ的な活動はそういうスタンスのものだと思います。
カズ 手伝ってみたら面白そうだからパレードの実行委員をやってみたい気はします。

パレードは継続
するのか?

伏見  僕は今回のパレードを見ていて、どういうものか、全体的にどんよりというか黄昏れている感じがしたんだよね。一方ですごく盛り上がっているのもわかっているんだけど。それは僕がもう何回も参加しているから初期のような「自分がそこにいること」だけで感動ができないとか、今体調が優れない(笑)といった自分の問題かもしれないんだけど。
田辺 今回のパレードで感動して号泣した人の話を聞いたんですが、それは、今までよくあった「ゲイとしてオープンエアを歩いた」という感動っていうんじゃなくて、ずっと準備してきた出しものが成功したから感動したってことでした。つまり結局、部活ノリ文化祭ノリなんですよね。
 いかにみんなでひとつになって事を成し遂げられたかっていうのが大切で、パレードはそれをやる場でしかないんじゃないかと。だからこそ、聖子フロートがいちばん一体感があって盛り上がっていたわけで。
伏見  聖子フロートは確かに盛り上がっていたんですけど、以前のパレードで尖った表現をしていた人たちが抜けていて、プレゼンとしてはテンションが高くなかったのね。例えば抜きんでてかっこいいゴーゴー軍団はいないしドラァグクィーンもそれほど目立たなかったし、マッチョ系もエロエロな感じの人は少なくて、なんか地味だったかな。ブラスバンドは新しかったと思うけど、ゲイ的な新しさとしては「これだ!」と思うようなものはあまりなかった。団塊ジュニア世代までのストックの中でやっている気がしたの。上の世代の遺産で保っているというか。だいたい聖子自体が30代のアイドルだし(笑)。
田辺 でも、パレードとしては今の等身大なゲイコミュニティの形が素直に表れていたいい雰囲気だったと思いませんか? 一部のとがった人が目立つんじゃなくて、みんなでなんとなく盛り上がれたってことで。僕が見ていていいなぁと思ったのは、GLOWの若い子たちがサークルの看板持って楽しそうに歩いていたことです。僕の下の世代のノリはまた違うのかなあって思いました。僕なんかは、自分はどういう気持ちでパレードに参加しようかとか考えたりしたけど、下の世代は、ただ楽しそう。たぶん、ゲイってことは、乗り越えるべきハードルですらなくて、たぶんサッカーが好きとか、マンガが好きとかいうのと同じようなレベルの話なんだと思います。だから楽しみ方が、素直なんです。
ぼせ 今回のパレードに参加して、僕は伏見さんの言う「黄昏れている」感じは肌に合いましたね。まったりしているというか。もともと東京のパレードは「プライドだぜ!」みたいな気負ってる部分があったと思うんです。でも、今回のパレードからはそういうピリッとした印象はあまり受けなくて、和やかな空気を感じました。とりあえず参加してみれば屋台も出ているしフロートもでているし、なんかやってて楽しいし、みたいな。僕的にはああいうイイ意味でだらっとした感じがいい。例えが分かりにくいかもしれないけど、名古屋っぽくて(笑)。
カズ 自分にとってはNLGR(名古屋レズビアン&ゲイレボリューション)がそんな感じでしたね。会全体の雰囲気はゆったり時間が流れているというか。
ぼせ NLGRのイベントに、「夜中の公園でキラキラした衣装を身につけたメイクもカツラもしていないオッサン二人が無表情なままピンクレディーの曲に合わせて踊り続ける」という、素晴らしく力の抜けるショーがあったんですよ。その脱力したショーと今回のパレードって、実は同じ距離感なのかなって思います。オネエ的なゲイ的なノリで楽しんでいれば、張り詰めた突き抜けた部分はべつになくていいんじゃないかっていう。
伏見  今回のパレードで実行副委員長をしたエスムラルダさんに当日、「すごく盛況で良かったじゃない」って声をかけたのね。そしたら、彼はボランティアで身を削って時間を削って大変な思いをしてやってきたから、そう言っただけで、「それだったら嬉しい……」ってブスの目にも涙で(笑)。つまり、あなたたちがユルく楽しめたものをつくるのにものすごいコストを払っている人たちがいた。そのコストを払うエネルギーは、団塊ジュニア世代以上に残っているゲイネスみたいなものなんだよね。それを収奪しているわけだ、オマエらは!(笑)
田辺 でもそれを「ありがたがれ」って言うのって、どうなんですかね。さっき部活ノリと言いましたけど、部活で大変な思いをして練習するのはその後の成功が嬉しいからで、そういうノリで実行委員もやるべきなんじゃないかなって思います。自分の中のゲイネスをぶちまける感じでやるのは無理ですよ。
伏見  じゃあ、こう訊きましょう。そういう動機をみんなが持ち寄ることによって、ああいうゲイイベントが今後も可能になると思いますか。
田辺 僕は思いますよ。仕事以外のことで学生みたいに何かに本気で打ちこむなんて、よっぽどいい趣味でもないとムリじゃないですか。生活が何かもの足りないミクシィ中毒の人とかが、青春とり戻すつもりでやればいいと思います。それであれだけ盛り上がって感謝されるなら願ったりかなったり!それに、ミクシィでたくさんのゲイがいることは日常として目にし得るけど、それを実際に生身の人間として、あの人数見られたのは感動的でした。だからそういう同窓会イベントみたいな形があると嬉しいです。
ぼせ 僕は小さな動機を持ち寄っても所詮小さな動機のままだと思うんですよ。あの手の大きなイベントは小さな動機の集合体でできるものじゃなくて、大きな動機が燃え上がってできるものだと思うので。だから、僕は伏見さんの質問に答えるとしたら「無理じゃない?」となるかなぁ。
 でも僕は、イベントがないならないでいいんじゃない?とも思うんですよ。大きなイベントって年数を重ねるとマッタリしてくる傾向があるみたいで、それはそれで面白いんですけど、それならイベントの代わりになるものはあるんですよね。巨大なゲイクラブイベントだったら商業ベースで行われるだろうし、細分化されたイベントの中にはヘンテコな面白いモノもいっぱいある。聖子フロートじゃなくても聖子ナイトに行けばいいし、真面目に考えたいなら数は減ったけどゲイを取り巻く状況について真面目に考えているサークルやホームページもある。パレードで味わえる体験は別のリソースから疑似体験ができるんですよね。だからパレードという形にこだわらなくてもいいんじゃないかと。
田辺 でも規模の力って大きいと思うよ。小さいライブハウスでロックイベントを見るのと何十万人規模のロックフェスだったら、感動具合が違うんじゃないかな。パレードっていう大きさだからこそ意味があると思うけど。
ぼせ だったらオリンピックみたいに4年に一回でもいいんじゃないの? 毎年やっても毎回みんな来てくれてきちんとお金を落とすかといったらそうでもないだろうし、「もうちょっと欲しいな」くらいが一番ちょうどいい気もする。
伏見  ということは、ぼせさんはパレードじゃないにしてもゲイの共同性において自らコストを払って何かをやろうというのは無理ですか。
ぼせ やっぱり無理かなぁ。むしろ僕はゲイのことで頑張って活動している人たちを見ると、なんでそこまでやれるんだろうと聞きたくなるくらいなんですよ。聞けばすごく失礼だろうから聞けないんだけど。
田辺 いろんな人に話を聞くなかで「コストを払うから、喜びも得られる」みたいな話が、偶然、いろんな人から出てきたんですけど、そういう考え方って、これから増えるんじゃないかと思います。さっきのパレードと文化祭の話と重なるけれど、お金にしても労力にしても、それを払うことによって自分に返ってくるものがあるんだったらコストを払うのも全然アリだと思います。
バラ そのコストを払う喜びというのが、個人が社会参加をしている実感がするから、というのだったらわかるような気がするんですが、それが部活ノリをしたいからとか聖子が好きだからというふうにシフトチェンジできてしまうものだとすると、私にはよくわからなくなってきます。そもそもパレードの前提としてあるのがレズビアンやゲイといったセクシュアリティの社会問題なのに、はたして個人のゲイの趣味嗜好ノリだけであのイベントが成り立つのかどうかは疑問ですね。なんかくやしいのかな? 私、今みなさんのお話を聞いていて(笑)。

ゲイ
という枠の意味

伏見  ああ、やっぱ、バルバラさんには上の世代の怨念みたいな感覚が少し入っているんだ(笑)。田辺さんは部活ノリでやれるというけど、ゲイ&レズビアンというアイテムはどこまで持つと思う? いつまでゲイ&レズビアンという歴史的な枠組の中でみんながコストを払って楽しもうと思い続けることができるかな。
田辺 それは一生続けられるんじゃないですか。ゲイってことは乗り越えるべきものではなくなったとしても、人間関係の土台というか、友だち関係も恋人も、結局ゲイはゲイ同士、繋がっているものだから、今の連帯感っていうか、繋がり方みたいなものが、なくなるわけではないわけで。
伏見  ちょっと待って。その友だちの大部分がゲイということは、差別が背景にあるからでき上がっている社会的な条件なの?
田辺 うーん、差別されて二丁目においやられた寄せ集めの集団っていうんじゃなくて、自分は男が好きだから、ゲイの集まるところに自分も行こうっていう、どっちかっていうと積極的なもの、じゃないですかね。
伏見  ということは、恋愛や性愛はやっぱり人間にとってものすごく大きくて中心にあるものだってこと?
田辺 そりゃ、そうじゃないですか。仕事もあるし、趣味とかもあるけれど、結局一番大切なのは、人とのつきあいですって。
伏見  結局、ゲイ&レズビアンをきっかけにした枠は残ると。
ぼせ 枠としてはイメージできないんですけど、仲のいい友だちを選んでいくと結果的にゲイになるというか。
伏見  性愛の、セクシュアリティの共通性みたいなものを土台とした人間関係が、一番気持ちのいい関係をつくる感じ、予感がするわけだ。職場や郷土や学校歴ではなくて。
田辺 それはそれで大切な人間関係ですけど、こと恋愛や性欲に関しては、それだけじゃ満たすことはできないですからね。もちろん仕事でのつきあいにウェイトを大きく持つっていう人がいてもいいし、どういう繋がりが一番気持ちいいかは個人の価値観だけど。少なくとも僕は、ゲイっていうことで繋がっている人間関係が一番です。
ぼせ 働き始めるとなかなか新しい出会いもないじゃないですか。でもゲイだったらそのことだけでとりあえずキッカケになるし、人間関係で常に新陳代謝が起きていて面白いし、そういう意味でも自分にとってもゲイ関係が残りやすいかな。コアな話し合いができるような趣味があれば替えがきくのかもしれないけど、恋愛の話はゲイとしたいから、結果的にはゲイの割合が増えていくのかな。
カズ 恋愛を中心にしてゲイの関係が成り立っている感覚は自分にはないですね。恋愛話は女の子ともできるし。楽しい話ができる友だちの大部分を占めているのがゲイなのかな。
伏見  そんなにゲイはノンケの人と楽しさが違うの!? 
カズ ノンケの人は頭が固い感じがする。
ぼせ 自分の出会いに運がなかっただけかもしれないけど、いまいち自分を落とせないというか、くだらないプライドを持つ人が多い気がする。
バラ それこそノンケもゲイも関係ない気がするんですけど(笑)。ゲイでも自分を落とすことができない人はいるでしょうし。私も今まで恋愛の話では特にゲイの友だちを必要としてこなくて周りの女友だちに話していれば満足だったので、恋愛は重要ですがそのことでゲイ枠を必要とする感覚はないかもしれません。ただ、初めてゲイだらけの職場で仕事をすることになってとても楽になっている部分はありますね。でもそれはゲイだからというよりフェミニズムが入るからかも。威張ってるノンケの男がいないから、みたいな。
伏見  そういうバルバラさんにとっては、みんながセクシュアリティにこだわらなくなったらゲイ&レズビアンの枠は消えていく感じがしますか。
バラ そうですね……、うん、消えてくれたらいいと思います(笑)。
田辺 えー、消せるもの、ですかねえ。消えたところでどうなるんですか。
バラ 消えても大丈夫なの。なんて。
伏見  バルバラさんの「消えてくれたらいい」という感覚は、上の世代の人たちの反動のありように重なるんだよね。田辺さんの感じだと、その反動の力みさえ鬱陶しいのかな。
田辺 ていうか、そんなことあり得ないじゃないですか。もし僕がカミングアウトをしているノンケの友だちがいて、そいつとは下ネタもできて楽しく喋っていても、じゃあその友だちとセックスできるかっていったらできないわけだし……。
ぼせ なるほど、ゲイだとセックスできるんだ(笑)
田辺 うるさい(笑)。なんかそういう理屈って現実に根ざさないきれいごとですよね。
伏見  クィア・スタディーズのように、ゲイの成り立ち自体が差別と抑圧の結果として生じたものなんだから、そうした社会的条件がなくなればゲイアイデンティティ自体も解体していくんだって考え方もある。ぼくはそこに隠れて流れている「解体すべき」というニュアンスに、さっきと同様の反動の感覚をまだ感じるの。ゲイということで肩の力が入っているのも、性急にもうゲイなんて意味がないって言いたいのも、同じところを根っ子にしているものだ、と。
田辺 伏見さんの世代はどうなんですか。ゲイ的なものは消えもしないし僕たちとも違うんですよね。
伏見  うーん……、たとえばリブなんて関係なく過ごしてきた連中が、今30代後半とか40代くらいになって生活に余裕もできて、時代もこのようにだいぶ良くなっていて、ゲイであることも肯定できるし…ってことで日の当たるところに出てきた。彼らはコミュニティ活動みたいなものに参加して、過去に得られなかったものを回収しているように見えますが。
ぼせ 青春を取り戻しているんだ。
伏見  目を塞いできた問題に今取り組むことで、否定的だった過去の自分も癒す。だからコミュニティ活動の一番コアな部分を支えている30〜40代のモチベーションは古式ゆかしい解放の物語で、そこからくみ上げられる感動も大きいと思うわけ。でも今回のパレードではその世代のモチベーションも徐々に落ちてきてるように感じられた。もちろん局所局所ではあの物語の「快」が残っているわけで、今回も議員の方がカミングアウトしたりね。
 そういえばぼせさんはブログで、上の世代に老後の問題を準備して欲しいと書いていたけど、上の世代だってゲイイベント的なものは数年できっと飽きる。その飽きるということをどう補うのか。
ぼせ いいんですよ、イベントは飽きるけど生活はしていかなくちゃいけないから。生活の部分で勝手に生きてくれて、もしそれで上の世代が失敗してくれたら、そうかこう生きたら失敗するんだってこっちは分かるから。逆もまたしかり。
伏見  ほんっと、この子たち嫌い。そして涙が出るほど好き。徹底的に上の世代から収奪しようっていう浅ましい根性!(笑)
田辺 同性婚の話もそうだけど、そのこと自体がどうかっていう議論はもうとりあえずいいから、実際どうやったらそれができるのか、という方法だけを指し示してくれたほうが、よっぽど生産的だと思うっていうのはあります。そういう意味ではぼせ君の書いていた「見本をみせろ」に賛成。
カズ 自分は「見本をみせろ」とは思わないけど、でも自分がどう生きていくかの指標にはなるかなと。どういう人たちがどんな生き方をしていくんだろうって。何かを造れとは思わないですね。
ぼせ むしろいろんな生き方をしてもらった方がいい。というか、ほっといてもいろんな生き方をしてくれると思う。事実婚だったり、養子縁組だったり、親と同居だったり、エリートサラリーマンだったり、専業主夫だったり、その中には下の世代にとっての有用なサンプルもきっとでてきます。だから上の世代は「あなたらしく」生きてさえくれれば、それでいいんですよ。「下の世代に向けて俺たちが!」と気負う必要も、「下の世代のことなんて考えてられるかヴォケ!」と憤る必要もない。
田辺 そういう具体策を誰も提示できなくて俺たちの世代がやることになったらしんどくない? っていうか、なりそうだよね。
ぼせ それはそれでいいんだと思うし、その時に恨み節も言わないよ。で、今度は僕たちが僕たちの下の世代からまったく同じ視線を向けられるだけ。そのときに僕たちが何か残せるかどうかは分からないけどね。でも、そういう状況になったとしても、僕たちは僕たちらしく生きれば下の世代は勝手にいいとこ取りしていくと思う。それは僕たちの世代が社会運動的なものを避けていったことにも言えると思うけどね。平たくいうと、伏見さんみたいにはなっちゃいけないなと(笑)。
伏見  あい、わかりました(笑)。