2005-12-08
ジョン・レノンに捧ぐ
またまた懐古趣味的な日記になるが、本日、12月8日はジョン・レノンが暗殺された日。もう四半世紀も前のことになるが、伏見はそのとき、高校2年生。音大の付属高校でクラシック音楽を勉強していたのだが、バッハとかモーツアルトには全然関心がなく、遅れてきたビートルマニアだった。とくにジョン・レノンの大ファンで、彼のちょっと神経質で尖った雰囲気に憧れていた。
といっても、1980年頃のジョン・レノンはパッとしていなかった。ビートルズ解散直後こそ注目されていたが、レコード売り上げは下降線をたどり、ウィングスで大ヒットを連発していたポール・マッカートニーに比べると過去の人という印象だった。判官びいきの伏見は、それでジョンに肩入れしたのかもしれない。
ジョンは75年からは半ば隠居生活に入っていて、80年に鳴り物入りでカムバックしたものの、オノ・ヨーコとのアルバム『ダブル・ファンタジー』は初動ではそれほどの勢いはなかった。シングルの『スターティング・オーバー』も、心待ちにしていた伏見少年でさえ、内心、ん?という疑問符が浮ぶほど肩すかしな作品だった。
それが彼が暗殺されるや、新作は大ヒットし、72年の発売当初はスマッシュヒットにすぎなかった『イマジン』が、世界中でもてはやされるようになった。70年代後半は滅多にラジオでかかることもなかったのに、だ。反対に、『イエスタデイ』と並ぶスタンダードと言われていたポールの『マイ・ラブ』は、今日では稀にしか流れなくなった。何が楽曲を普遍化していくのかわからないものだ。
でも、すっかり平和の伝道者として語られるようになったジョンは、伏見のアイドルではなくなってしまったみたいだ。彼はそんなに立派な人でも政治的に正しい人でもなかった思う。もっといいかげんで、直情的で、暴力的な人間だったのではないか。もちろん理想論の人でもあっただろうけど、ヨーコの語るレノン伝説は美化されすぎている。それが疎ましい。
とは言え、25年前の今日、伏見はジョンの死にショックを受け、平和を願ってもっと行動しなければ!とか純粋に決意したものだった。後日行われた日比谷公園での追悼集会(写真はそのときのチラシ)にも参加し、数千人もの参加者と行進をし、一体感を味わった。おめでたい左翼であることがまだ許された時代だった。
でもあの頃の反逆精神は伏見のゲイリブにもつながっていったし、いまだって、「あたしゃ、闘うときゃ、からだ張ってでも闘うよ!」てな気持ちは失っていない。ただ、それが左翼的な方法論ではもう駄目だと考え直しただけ。つまり転向なんだけど(その辺りのことを人間学アカデミーの講演で話せたらいいのだが)。
*写真は、当時の新聞記事などを集めたファイルの中から取り出したもの。