日本図書館協会の中心にいた「栗原均」という存在がずっと気になっていた。
純粋な図書館人とよぶには、なまなましい現実の政治世界に足を踏み入れ過ぎている。
大胆な手法と同時に周囲への細やかな気配りを欠かさない。
「遣り手」というイメージとともに感じてしまった「胡散臭さ」の所以は何だったのだろう。
栗原氏は、私(たち)にとって不可解な存在であった。
栗原均年表はこちら>
聞き手・構成●東條文規・堀 渡
協力●氏家和正
東條文規(とうじょう・ふみのり)●1948年大阪生まれ。四国学院大学・短期大学図書館に勤務。本誌編集委員。著書に『図書館の近代』(ポット出版)、共著に『巨大情報システムと図書館』(技術と人間)、『大学改革』(社会評論社)などがある。
栗原氏に初めてお会いしたのは日図協創立90周年記念式典(1982年)の席上。以後、図書館大会や日図協評議員会で何度も栗原氏に噛み付いていた。[文・東條]
堀 渡(ほり・わたる)●国分寺市立恋ヶ窪図書館長。本誌編集委員。1951年生まれ。
さて出来はどうだったろう? 栗原さんを知ることは、抽象すれば、長く1990年代までに及ぶ日本の図書館界の関心と動向を照らすことになる。世代の違う自分だが、お話された前半生、「戦後」の匂いは、懐かしさをもってわかる気もする。わたし(たち)は栗原さんの時代を共有していた。それ以上だ。「俺はあの時は何をやり、今は何をやっているのか?」振り返る絶好の機会をもらった。答えはまだない。[文・堀]
氏家和正(うじいえ・かずまさ)●1951年生まれ。現在はフリーランスで編集、校正の仕事に従事。
日本図書館協会事務局に1991年3月まで15年ほど勤務し、栗原均事務局長の謦咳に接する機会を得る。私心を去るとはこのようなことなのかと局長の姿を間近にしながらも、果たせず、ドロップアウトした。きみはわしに似て短気じゃけ。いつかお会いしたときのことばに男らしいやさしさをかんじた。[文・氏家]
私が栗原氏と身近に接したのは一度しかない。一九九四(平成六)年七月。高松市内のホテルで開かれた熊野勝祥氏の『香川県図書館史』(一九九四年、香川県図書館学会)の出版記念祝賀会に東京から来ていただいた。当時、栗原氏は日本図書館協会の理事長。熊野氏のご著書に格調高い序文を書いて下さった。
熊野氏の『香川県図書館史』は、日本図書館協会創立百周年を記念して企画された『近代日本図書館の歩み 地方篇』(日本図書館協会、一九九二年)の香川県部分の執筆が契機となり、それをさらに発展させて大著にまとめ上げられたものである。インタビューにも出てくるが、この地方篇の企画は、当時事務局長であった栗原氏が指揮をとり、実現されたもので、祝賀会の会場でも地方図書館史研究の必要性を強調された。
会終了後、栗原氏を囲み、熊野氏、それに会をお世話した私と地元の図書館関係者とで内輪だけの懇親会を開いた。栗原氏は、ここでも地域の図書館が充実しなければならない、そのためには地元で働く図書館員がしっかりとした専門的知識を持ち、地域の資料に習熟する必要があると、図書館にかける思いを熱っぽく話された。
私は、栗原さんという人は、失礼を顧みず言えば、「そう簡単ではないな」と思ったのであった。
実を言えば、それまで私は、日本図書館協会の事務局長としての栗原氏しか知らなかったし、その栗原氏は、図書館大会でも、日本図書館協会の評議員会でも「遣り手」ではあるが、私(たち)とは図書館に関する考え方が相当異なっているな、と思っていたのである。
実際、若かった私(たち)は、インタビューに出てくる日本図書館協会が関係した事業や政策にその都度、異議を申し立て、批判や抗議をくり返し、独自の集会なども開いていた。その矢面にはいつも事務局長としての栗原氏、理事長としての栗原氏がいた。いわば栗原氏は、「敵」であり「悪役」であった。本誌『ず・ぼん』もまた、このような私(たち)の運動のなかから生まれたといってもよい。
栗原均氏は、一九七八(昭和五三)年、日本図書館協会事務局長就任以来、二〇〇一(平成一三)年、理事長として勇退されるまで、約四半世紀、この国の図書館界の中枢で活躍された。この間、公共図書館数は二倍以上、貸出数で五倍以上、資料費でも五倍近く、そして図書館を利用する人びと(登録者数)は、一九七八(昭和五三)年の六五二万人が二〇〇一(平成一三)年には三九六七万人にも増えた。それ以上に、図書館は質的にも変化した。
その過程も含め、私は、「栗原均」という骨太の図書館人に、もう一度お会いして、氏の考え方や思い、五〇年以上に及ぶ図書館活動をじっくり伺いたいと思うようになった。周知のように、栗原氏は何よりも実践の人であり、書かれたものはそれほど多くない。とくに、日本図書館協会の要職に就かれてからは、『図書館年鑑』の概況総説や『図書館雑誌』の公的な報告や挨拶がほとんどで、自らの思想や主張を公にされることは控えられていた。
だが、理事長という要職を引かれた現在、その抑制されていた部分をできるかぎり公にしていただきたい、公にされることによって後進の図書館人たちが学ぶことも多いのではないか。
そのような思いから、私(たち)は、栗原氏にロングインタビューをお願いした。インタビューには、日本図書館協会の元事務局職員で栗原氏の信頼が厚かった氏家和正氏に同席していただき、私(たち)の知識不足や事実認識の誤りなどを補なってもらった。
インタビューは、昨年(二〇〇三年)五月二四日(土)と六月七日(土)の二度、日本図書館協会会館の資料室で、堀と東條が前もってお渡ししていた質問に栗原氏が応え、氏家氏がときに補足するという形で始めた。しかし、とくに二度目は、栗原氏のお人柄か、質問・応答という形式からかなり自由に栗原氏のお話を伺うという雰囲気になり、その方が私たちにとっても魅力的であった。その分、貴重な証言や思いがけないお話も伺うことができた。もちろん、そのすべてが活字化されたわけではないし、私たちの未熟さや知識不足による誤りもあるかもしれない。だが、栗原氏の率直で誠実なお話は、この国の図書館史の重要な記録のひとつになると確信している。
1 現在の仕事
東條● 日本図書館協会(日図協)をお辞めになって二年になりますが、まず現在のお仕事からお聞かせいただけたらと思います。今、何をされているんですか。
栗原● 本来なら全部引くべきものなんですよね。しかし残念ながら私が辞める時に新しい理事長さんが「図書館関係のことだけは引き継ぐ」とこうおっしゃった。私が協会に長くおったもんだから、理事長時代にたくさん外部の仕事、たとえば読書推進運動協議会(読進協)の副会長、それから、日本経済教育センターの評議員や、日本新聞教育文化財団の理事、NPO法人「図書館の学校」の副理事長(現・理事)であるとか。いろいろ、そういう図書館と出版界、新聞、教育の関係とかという仕事で、年に数回、理事会や評議員会に出る仕事はやらしてもらっている。しかし、これもほんとうは早く協会の理事長、事務局長にお譲りすべきもの。一番それを強く感じるのは国立の子ども図書館。「国際子ども図書館を考える全国連絡会」の副会長。読進協もそうだけど「図書館界としてはこうした方がいいですね」と私が言っても、私が日図協に出向き、こういう話をしてきたからやってくれよ、というふうにはなかなかいかない。要するに本当の意味で代表しているわけでないから。そういう意味では非常につらいな。
東條● 今、お話になられたのは、昭和五三年ですか、二六年前に栗原さんが日図協の事務局長になられてそれから始まった外部との関係ということだと思います。それ以前の日図協は出版界や団体とはあんまり交流はなかった?
栗原● 読進協とだけはあった。前事務局長の叶沢清介[注1]さんが副会長をやってたかどうかはわかりませんが、理事だったんだと思う。叶沢さんは出版界の人びととの深い関係があったのでしょう。協会事務局長を終えられたあとは、出版学会の事務局長をしておられるから。その前の有山たかし[注2]さんの時も日販からの支援関係は深かった、と聞いています。しかし、トーハンとはほとんどなかった。日図協の事業部がシステム整理をはじめた時、太洋社と組んで仕事をしたので日販との関係が弱くなってきた。その後トーハンと関係の深い図書館流通センター(TRC)もできて、それ以来、出版界との関係は広くなったことは事実だと思う。昔はトーハンはSLA(全国学校図書館協議会)と協力関係、日図協は日販だったんだ。それが私の時代になってからトーハンともやり、日販とも関係が続いていた。いろんな仕事が増えたことは事実。それは私個人の力ではなくて図書館界が幅広い活動をすることが出来るようになって、そのことで出版界やらいろんな関係のところが注目してきたのだと思う。図書館にも一定の役割を担ってもらわなくてはならないというふうに。典型的なのが著作権ですよ。以前は著作権審議会(文化審議会著作権分科会)というのにも図書館からだれも入っていなかった。しかし、一九八〇何年だったか、図書館から必ず委員として入ってる。一番初め、理事長の高橋徳太郎[注3]さんを推薦して入り、次に私が入ったんかな、今は大澤正雄さんや酒川さんがやってるからね。
堀● 今おっしゃったのは協会の理事長時代の延長でやっておられる仕事だと思うんですが、そうではなくて、協会をお辞めになってから協会のつながりでないところで何かお始めになったり、どこかに教えに行ってらっしゃるとかそういうことはありませんか。
栗原● 全くやってません。家の方の仕事もあるものですから、外でやるということはしなくなりました。
2 海軍兵学校から敗戦
東條● 最初に戻って、栗原さんは私たちの父親の世代に近いんですが、まず図書館界に入る前、昔の『同志社大学通信』[注4]に出ていますが、神戸一中から海軍兵学校を出て、敗戦後中之島でボート漕いでいて大阪府立図書館の自動車文庫に就職したという、そのあたりのところをお話ししていただけたら。海軍兵学校に行かれたというのは、軍人になろうと思われたんですか? 当時すごいエリートですよね?
栗原● いやいや私はだめですよ。私は四男ですが、長男次男三男四男が全部兵学校に入っている家族。だから兄貴が行くから俺も行くって。一番上はゼロ戦のパイロットでニューギニアで戦死した。二番目は別の特攻隊。これは生きて帰ってきたけど。三番目は横須賀におって、みんな将校でした。で私は兵学校の最後の卒業生。敗戦の年の一〇月に山口県庁まで行って卒業証書もらったんだから。
東條● 実戦は行ってない。
栗原● うん。江田島の湾内の目の前で、最新鋭の巡洋艦も沈められるし、たくさん水兵さんが死んで供養したということもありました。しかし戦いの中に行ったわけではない。
東條● 飛行機の練習されてたんですか。
栗原● そうそう、航空班だったから。でも一番得意だったのは潜水艦。潜水艦の実習をやってて潜望鏡で作業していた時は褒められたことがあった。あと戦争が一年続いたら死んでいるわ。生き残った人間というところです。
東條● それで敗戦になって……。
土方の親分になろうと思っていた
栗原● 戦争がすんだあとは、八月の二二、三日やったかな、兵学校生徒は解散となり、母の里が山口県の大島(周防大島)だったから、ボート(カッター)に帆をはって、同じ島の下級生をつれて軍艦旗なびかして帰った。
親父も船長だった。商船学校を出て海軍の予備大佐だ。輸送船の船長で戦争中は7回も沈んでるんですよ。最後はね、昭和二〇年の一一月頃に帰ってきたかなあ。朝鮮からの引揚者を乗せて日本に連れて帰る途中に攻撃を受けて沈没。船長は責任者だから死亡した乗客の死亡証明書を書かんといかん。だから帰国したあとも毎日書いていたのが死亡証明書だった。私は判押し役。あの年は大変厳しい年でした。
翌年、一人で働こうと思って、岩国に出て土方をやった。帝人(帝国人絹)とかサンパル(山陽パルプ)とか、岩国にはそういう大きな工場がいっぱいあったが、爆撃で全部やられとった。それを復旧する。ヒューム管という大きなセメントのパイプね、それをつくって埋めて、それで工場の廃水路をつくるんです。それを私はやっとったね。それで二〇歳なのにね、仲間に入って三カ月で土方の小頭になってもうてね。もちろん土方の親方がおるわけやが。そのあと、廿日市の土方の責任者になってしまう。港にセメントが船で入ってくると、セメント袋を工場や工事現場まで運ぶ仕事がある。例えば朝の六時、満潮の時に間を計って陸に運び上げたり、トラックの用意をする。そのためには人足を何人雇って、何時間で仕事をするかという計画をたてて実行するのが私の責任やった。
そういう話をね、ずっとあとに大阪で日図研(日本図書館研究会)の理事のはしくれだった頃、なんかで石山洋さんに話したことがある。俺は昔こんなことやっとったんや言ったら、石山さんは日図協の仕事も同じと言う。そういう段取りを組むこと、それといろんな人と一緒になって仕事をすること、とね。そんなことを二年間やりました。それから昭和二三年の四月に大阪府立に入ったということで。
東條● それは、火野葦平の世界ですね。北九州の若松で火野葦平もそんな親分ですからね。それで、いやがられたわけですか、親方より偉くなりそうだから。
栗原● うん、冷とうなったな。親方やからそれなりの事情があったんだろうから。自分がもっと拡大せなあかん、言うたら暴力団系と結びつくようなところだから。
東條● はい。
栗原● まあ、トラック一台を持って宮島の辺りをこう走るわけだ。セメントを積んだり材料積んで岩国に運んだり、岩国のやつを廿日市に持ってきたりする仕事をやってたんだな。西岩国駅の近くで、岩国と徳山を結ぶ岩徳線の岩国駅の次にね。周東図書館のある周防高森の一つ隣。その西岩国に工場があって、作った製品をそこで貨車に積み込む仕事もある。そんな時、会社の工場長が工員の教養のために本を選んでくれというんで、サイエンス関係のポピュラーな本をたくさん買ってもろうてそれを私が抜き書きして、みんなに配って、悪い製品がでないためにはどうしたらいいか上申したということもあったよ。そんな土方の仕事をしながら、朝鮮や満洲からの引揚者の若者を働き手にしたり、またその親子の生活援助のため、地域の民生委員や今でいうボランティアのようなことも続けていた。ホントを言えば栗原組という土方の組を一つつくろうというのがあの頃の夢だったんだが……。
3 大阪府立図書館に就職
堀● 廿日市あたりで土方の親分をされてて、それでお辞めになるにしても大阪に行って今度は何で図書館かという?
栗原● うん。仲間に「おい明日からちょっとおらんぞ」というようなことで、月に一遍か二カ月に一遍かは休暇をとる。あの頃は米を持って大阪に遊びに行って、友達の家に泊まっていた。中之島図書館のあたりを歩いていたとき、図書館が人を雇うと知ってね。「どんな仕事ですか?」言うたら、オート三輪を運転をするやつがおらん、と。私はその時運転免許持ってなかったのだけど、岩国ではいつもトラックに乗っていて、自分で一台欲しいと思ってたくらいだから、車に対する愛着はあった。大阪府立のある課長は、「なんであいつを雇うか」と言ったけれど、私は「これから免許を取ります」と言って、大淀自動車教習所というところに行った。図書館の仕事が終わったあとの時間を使って一カ月ぐらい通った。
東條● 図書館にお入りになったのは、ま、図書館員の募集があったから、という。
栗原● 当時はとくに募集の試験はなかったように思う。実をいうと三男の兄貴が大阪府立図書館におったわけだ。
堀● お兄さんが大阪府立に入っておられたわけですか。
栗原● 短い期間だったけれども。その口添えもあってね。
大阪の田舎はぜんぶ回った
栗原● 大阪府立中之島図書館に入って自動車文庫、まだ昭和二三年ですからね。図書館の歴史からいうと自動車文庫の一番初めは高知県立図書館が二三年、それから廿日出逸暁[注5]さんがやってた千葉県立が二四年と出てくる。私も二三年だ。ただ自動車じゃないんだよ。オート三輪、バタバタ。あれに本を積んで、映写機やスクリーンももちろん積んで、大阪府の一番北端の能勢とか、二日がかりくらいでいろんな府の東西南北、田舎を走るわけだ。何しろ中古のオート三輪や。ただ、ナショナルの松下が協力してくれてスピーカーのいい最新の電気蓄音機を寄贈してくれたんだわ。それを積んで、音楽を流すってこともやったよ。ただあの頃、今の人は知らないだろうが、山ん中に行くと電圧が足らんもんだから映画の画面を映していると、音が出ないようにしとかなあかん、音を出したら画面を消さなあかん。両方同時にいくわけにはいかず、スイッチをパチパチパチパチと切り換えないとあかん。なかなか面白かった。
堀● そんなとこまで行って映画を映すわけですか。本を持っていくんではなくて。
栗原● 本も五〇〇冊か一〇〇〇冊そこらは一緒に持っていったよ。偉い先生にも来てもらって、翌日の朝は読書の話やら読み聞かせと貸出をやったりするわけだ。楽しい映画もするんだ。大阪府下のいくつかの町村を回ったよ。
大阪府立ではBMをまずやって、ブックステーションというのが生まれた、巡回文庫課だから。ブックステーションというのは、中村祐吉[注6]さんが図書館法ができた昭和二五年(一九五〇年)にイギリスに行った。それはイギリスの図書館法百周年記念の図書館大会に参加するため。むこうは一八五〇年に既に図書館法が出来てるわけだ。有山さんが中村さんのとこに来て、どうぞ日本図書館協会代表で行ってくださいって頼んだ。中村さんは帰国後、報告書を出している。それが『イギリスの図書館』(日本図書館協会、一九五三年)[注7]。昭和二五年だからね、よう行ったと思う。イギリスから帰りにアメリカに寄って帰ってきた。向こうで何を学んだかっていうと、マッコルビン[注8]なんかに会って、分館をつくらなけりゃいかん自動車文庫だけではだめだ、と。当時西村精一[注9]さんが京都府立図書館の小さな分館制度をつくっておった。しかし大阪府立はそこまでできないからってブックステーションをつくった。人と本は府立の責任。建物の部屋と光熱費、それに補助の職員は地元が出すということで、まず茨木市、枚方市、それから泉佐野市、古市町この四つに置いたわけ。当時、私は結核療養ということで半日勤務だった。療養所から帰ってまだ完調でない時に、茨木ブックステーションをつくるからお前行ってこいと言われたわけだな。この種の戦後の館外活動は創設の頃だから、だいたい私が四つとも関係している。
当時はまた慶応大学に図書館学科ができたでしょ。それで学生募集があった。ギトラー[注10]さんが校長で図書館学を勉強したい人は入学を許すと、試験ぐらいちょっとあったかもしれん。私はさっそく手を挙げたんだ。実はその時は同志社の商学部に編入していたんだが、一番先に行かしてくれと。英語で何もかも授業するという話を聞いていたからね。中村祐吉館長は私に、「卒業して大阪府立で働くならよい」と条件をつけたのだが、「それは確約できません」と返事をしたわけ。
東條● 何でそういうこと言うかな。
栗原● 「必ず大阪府立に帰るとは確約はできません」と答えたら、中村さんからは「おまえはあかん」。その後、「私は帰ってきます」と手を挙げた人がおるわけ。彼は行かしてもらったけれど、府立図書館には帰ってこんかった(笑)。
そんなことがあった直後に私は結核になり、そして療養のため半日勤務の合間を縫って、命ぜられるまま茨木ブックステーションや枚方ブックステーションをつくっていったが、それが今はそれぞれ市立図書館になったんだから感慨深いですよ。本は初め五千から一万冊くらいを持っていく。市は女の助手職員が一人出て、こっちは専門家ということで行きました。
自慢すべきことが三つある
東條● 一万冊いうたらかなり多くないですか、当時やったら。
栗原● そう。それに巡回文庫課の新しい本なんかを追加して持って行った。大阪府立の分館だからあの頃は日曜は休みで、五時には閉館していた。茨木の教育長さんか市長さんだったかが、「それはいかん、夜は九時まで、日曜日もやれ」と。「府立の方がそれはできん」、というと、市側が独立するとおっしゃる。府立は「独立するのは結構です、備え付けの本は全部寄贈します、自分たちでひとつ、やってください」って手を引いていくわけです。それが戦後の府下市立図書館ひろがりの初めです。大阪府下では当時、図書館らしいのがあったのは豊中市と堺市だけで、その他は名前は図書館と付いた施設でも図書館らしいのはなかった。小学校の一教室に何々町や村の図書館と書いてあっても鍵がかかっていた、いうのがほとんどだった。私は自動車文庫で回って、そこを使えるようにできんかな、と考え続けた。
考えてみると、私の大阪府立の時に自慢すべき要素が三つあると思います。一つは、全国的に早い方だと思うけども「図書館友の会」をつくったということ。
それから「参考室」という、単独専門のレファレンス・ルームを昭和三四年につくった。私はその時の初代参考室長。その後、昭和三四年から三六、七年にかけて「業務研究会」というのができて今後の大阪府立図書館はどうあるべきかを研究しました。その会の進行係(議長)を務めた。その結果が昭和三六年から三七年にかけての、日本で初めての主題別閲覧室制度を形成していった(その前に名前としては千葉県立がある)。幸いにして大阪府立には部屋が一〇以上あった。だから主題を全部で一〇に分けることが可能でね、完全な主題別制度をつくった(当時大阪市立中央の新図書館も主題化していたが)。その後で東京都立中央が主題別になったが、それは昭和四八年ぐらいだと思う。
そのほかに、ブックモビールの車両も新しいのを三台はつくっていった。一番初めにつくったのは二号車として中に利用者が入るんだけど、天井に明かりとりの窓をつけた。
東條● ああ、天窓みたいな。
栗原● そう天窓ふたつ。日が照ると暑いもんだからそこはカーテン閉められるようにして。内書架式のブックモビールは、どうしても中が暗いわけだ。だからそれを防止するために自動車の内部に天窓をつくった。それから二番目にはクーラー入りの自動車をつくった。自動車文庫っていうのは天気のいい時は停まってると暑いんだよ、四〇分も停まってんだから。だからクーラーを付けた。ただこれは失敗だったね。停まった時には出入口も窓も開けとる。人も出入りする。だからもう効果なしだ。それに当時のクーラーの音はやかましい。そして三つ目はね、外書架式の車の側面を開ける方式、普通は電気で上下にするのをダンプカーと同じ油圧式で開けるシステムをつくった。だから自動車文庫については私ちょっとアイデアマン。アメリカに行った時にその写真を持っていった。アメリカのブックモビールの図書館員たちがびっくりして、「うちのより上等だ」ってなことを言っとった。
堀● それは栗原さんが、当時、修理工場みたいな所にかけあってやったんですか。
栗原● うん、そうそう。寝屋川市にそういう車体加工の会社があってね。日産トラックの何トン車というのを、シャーシだけ買ってきて改造するの。上は全部つくるんだ。その仕様書案も私たち図書館員が書くんだよ。こういうボディで窓はこう……と。さっき言った内書架式の車はホントは窓がいらんわけだ。自動車の外壁に書棚があるわけで、人は中に入って見るわけだから。いらんわけだけども、せっかく自動車文庫っていうんだったら、全部窓をつけることにした。窓から本の裏側が見えるわけだけども、それが一つの宣伝でね。なんせ大阪府立は自動車文庫が最盛期には五、六台もあった。車体の色も課員に懸賞募集したりしたものです。
堀● あ、要するに一台一台特注していくわけですか。
栗原● そうそう、そういうこと。もちろん特注せんでもいいわけですよ。前と同じヤツってしてもいいわけだけども、せっかくつくるんだから……毎年つくっとったかなあ、あの頃は。
東條● ああいうものは、今は専門のメーカーがつくってくれるわけでしょ?
栗原● 林田製作所って専門会社がある。だいぶ古くからあるんだよ。ですが私らの時はまだなかったように思う。
東條● 最初お話しされた、あのバタバタのオート三輪、そっちはただ積んでるだけなんですか。
栗原● うん。車の後ろの台に書棚をつくる。もとは戦前の国民総動員文庫というのに使った五〇冊ずつ入るような本棚。それを四段か五段組み立てて、三輪車に鉄枠をつくってそこにぴたっとくっつけた。だから本は外へ降ろして見るわけだ。本棚の間にスクリーンをおいたり映写機を置いたりなんかして。昭和二三年ですから、ちょうど五五年前だ。
4 大学と結核の三年間
東條● 昭和二五年から、図書館勤務のかたわら大学にも通われてますよね。
栗原● 中之島はにぎやかで、兵学校の友達も中学校の友達も来る。彼らと島のまわりの川でボート漕ごうじゃないかと言って仕事の休みの時間を遊んどったんですが、これでええのかなあ、勉強せんでもええのかなあ、というのが発端でしてね。その時に同志社の商学部三年次の二次募集があった。兵学校出てますから高専卒の扱いで三年の編入試験です。それを友達が見つけてきて、受けてみるかということに。
東條● そうすると勤めのほうはどうされたんですか。
栗原● そうそう。仕事は初め巡回文庫係に入っとったでしょ。これは九時から五時まで。大学に入ったから閲覧課にしてもらった。朝の九時から晩の九時まで図書館は開いているから、閲覧課は午前勤務、午後勤務いうのがあるわけ。午前勤務は朝の九時から午後五時まで、午後勤務は午後一時から晩の九時まで。私は出納手じゃないから本当は朝に勤務してるんだけれども「すいません、こういうことで午後勤務させてください。午後一時に中之島に入り、夜の九時まで働きます」と。こうしてもらって大学と両方やっとったのだけど、当時の栄養不足や過労からたちどころに結核になってしまった。二六年暮れから七年八年、その間に半年くらいずつ二回の退院期間があって、実質三年寝てたからね。最終的に退院したのは昭和二九年の九月でした。
東條● エー、その間は休職みたいな感じですか。
栗原● あの頃は、三年間は結核療養で休職出来るわけ。病院(サナトリウム)に入って出て入って出て、入院期間を全部足したら丸三年。何遍も入ったり出たりするでしょう。結核で同じ療養所に二度目に入った時、「栗原の再入院祝」と書かれた酒瓶がおいてある(笑)。「歓迎!」やて。看護婦長が猛烈に怒ってね。ひどい部屋に入れられて、膿が出て毎日毎日油紙貼って膿を取って消毒ばっかりの患者さんと二人部屋だ。こっちは、気腹と気胸とここの首のところの腺も切っとるでしょ。あの頃は肋骨切ってピンポン玉を入れるのが流行りだったんだ。しかし私の病巣は心臓のすぐ裏のところがやられてるもんだから、さすがの外科の医者もお前を手術をしたらすべって心臓を切ってしまうかもわからん、だからようせんと言う。横隔膜はいまでもこのくらいだ、ぎゅうっと神経が横隔膜を押している。
あの時期、仲良くなった若い看護婦さんが「栗原さんこれから外出しますが買ってくるものありますか」と親切に言ってくれる。「すまんけどウイスキーを買うてきてくれたら嬉しい」と言うと、ポケット瓶を買ってきてくれました。それを私がニコッと笑って飲んでいるでしょう。隣のベッドの人が「うらやましいな、うらやましいな」と言う。私は蓋をコップにして一杯だけ呑んでいた。その人も「これくらいならだいじょぶ」とか言って呑んでくれたけど、三日のうちに亡くなられた。そんなこんなで療養三年間でたくさんの人の死を隣り合わせで見てきました。
東條● 重症の方は呑ましたらいかんのですか。
栗原● それは勿論。しかしその人は重症ではなかったと思うんだよ。年はこっちは二五、六、あっちは三一、二で独身だった。嫁さんみたいな美しい恋人がいつも会いに来とった。私が幸いしたのは、あの時はストレプトマイシンが初めて出た頃だった、それを三クールだったかな、そのお蔭でよくなっていった。ラッキーだったかもしれんな。
5 いろんな職能団体に入って
栗原● 要するに私は反抗精神が旺盛な若者だったのでしょう。当時、全日本図書館員労働組合(全日図)[注11]の大阪の書記もやっていた。あれは左の方でしょ。大阪では支部長は大阪市立図書館の事務長さんがやってくれたんだけれど、府立でもだれか助けるやつおらんかいうので、私が受けたのだと思う。これも中村さんはしゃくに障るもとだったろう。二五年の図書館法ができた時の図書館大会は京都。図書館法ができたから東京から全日図の人たちが大挙してやって来て気勢を挙げるというものでした。京都府立の西村精一館長さんが中心で図書館大会は会場を設定するのだが、全日図の方は誰も用意してくれんわけ。で、私に全日図が集まる場所を世話してくれとの話で、私は京都府立図書館に行って、次長に会って、こういうことですみませんけれどもどこか五〇名前後の人の集会場をお世話願えませんでしょうか、と。それに対し次長さんは電話をかけてくれたりして、お蔭で決めることが出来た。それで京都府立へ帰ってきたんですが、西村館長さんとお会いしたら、「栗原、お前今日ここへ何しに来たか」と問う。「実をいうと全日図のために会場を用意することで来ました。先ほど副館長のお世話で私が行って確認してきました」と。館長は「お前はなんでこんな左のやつのために助けるか」と、申し訳ないくらい俺の目の前で副館長を怒ってね。それでその場所は使えないようになった。結局、他のなんとかいうお寺でやったんだ。中村祐吉さんも「栗原はもう言語道断」というわけでしょう。
東條● それで図書館問題研究会(図問研)の結成の時も?
栗原● 昭和三〇年の図書館大会当時、私は結核療養退院後の半日勤務でした。午前九時から勤めて午後一時か二時には帰るというきまり。図問研というのをつくるというんで石井敦さんなどが多く集まるという。徳島の人たちも熱心でした。佃實夫氏などがいたと思う。
東條● ああ、佃さんは東京に出る前は徳島県立だったんですね。
栗原● 徳島から強い意見の人がたくさん来てね。大阪は神野清秀さんが中心で、当時和歌山におられた石塚栄二さんも参加するという。要するに天王寺分館が使えないかと。そこで、「よし、私が責任もつからこの天王寺分館の二階の会議室を使え」と言った。職員のなかには中村祐吉館長に怒られると言うものもいた。だから、私が鍵を持って行って会議室を開けたんだ。あれは午後五時からだったかな、創立総会になったのは。私はお茶ぐらい出したんだと思うよ。
東條● 栗原さんは創立総会のメンバーにも名前を連ねてた。入ってるんですね。
栗原● 自分だけ抜けるわけはない。こりゃもう石井敦さんなんか集まった人たちは立派なことを言ったよ。なるほどこれは偉いもんじゃのと思った。徳島の棚橋満雄さんもおられたんだと思う。みんな雄弁家だったからね。大演説をし、破防法をどうのこうの、「図書館の自由宣言」がどうのこうのの頃でしょ。そりゃ議論の勢いがすばらしい。このままじゃ日本の公共図書館がだめになると言うんだから、なるほどこりゃ聞いとかんならん、と思って、仲間に入れてもらうことにした。
東條● おもしろい話をどうも。それで図問研もずっと入っておられたんですか。
栗原● 今でも入っているよ。もうそろそろ私は役に立たなくなったな思うけど、会員の人がみんながんばってるから。三〇年前には私も図問研の委員長もやったことがある。引き受けたのは昭和四五年。石川県の穴水で全国大会があったときでした。それまで一〇年くらい委員長をおやりになった清水正三[注12]さんが辞めるとおっしゃる。あの時は京橋図書館長でした。東京には錚々たる連中がたくさんいた。森崎震二氏をはじめとする国会図書館の人たち。区立図書館にも論客がうんとおったよ。そこの人たちへもっていくんやろなと私は思っていた。それが東京で長いことやってたから今度は大阪でどうか、という話になった。そしたら図問研の中で私が一番年寄りなのよ、全国大会行っとった人のなかでは。西田博志君が横で「栗原さんやれよ」と言う。塩見昇君も。みんなもそんな顔してる。それで「たいしたこと俺はできないけれど」と言って、引き受けることにした。四五年から四七年だったか。あの時はまだ『みんなの図書館』になる前の『図問研会報』を編集したりせないかん時期でした。それは大変でした。
堀● そうすると栗原委員長を支えるのを関西の仲間がやられて、ということですか。
栗原● そうそう。あの時は事務局長が塩見昇君。それから三苫正勝君が事務局なんとか部長とかやって、西田博志君もやって。だから毎週土曜から日曜日には塩見君、三苫君、西田君、もう一人か二人がどっかで昼は集まって……図問研も忙しいからね。
堀● 塩見昇さんはまだその頃先生ではなかったんですか?
栗原● その頃は大阪教育大の先生になる直前だったと思う。彼は大阪市立のレファレンス担当で、なかなかいい仕事をしておったと思います。
図書館法を守れ!
堀● 栗原さんが委員長をされて大阪に事務局があった図問研は、どういうことをした時期になるんですか。
栗原● 昭和四五年前後はね、学習権問題が起こってた。森崎震二氏が、要するに図書館というものは個人の学習の権利を守るところであると。その時まで学習権という言葉は聞かなかった。それと、家永裁判。あの判決が出た頃でね。教育に関する国家統制反対と。それともう一つ、記憶に残る一番大きな問題はあれだ。社会教育法改正問題。社会教育法の中に関係法を全部一括するという問題が文部省から出された。それを一番初めに図問研に提起したのは私かと思う。文部省主催の広島の館長会議で話が出たと聞いた。しかしまだ図書館界ではあんまり問題にしなかったと思う。この話を当時の府立の館長から聞いたもんだから、これは大変なことやと思って、大阪の図問研で話をしてすぐ東京に知らせたんかな。国会図書館の田中隆子さんや森崎震二さん、後に鹿児島に行った伊藤松彦さんね。その人たちがそれを聞いて、図書館法を問題にしだしたわけ。そういうとこから問題が出て、図書館法を守れという意見が日図協の常務理事会などで言い出された。当時の公共部会長は都立日比谷の杉捷夫[注13]さん。どっかに書いてあったと思うけど、図書館法を守るということを決議して、図書館法が四月三〇日に成立しているから、翌年に新しく「図書館記念日」を提案していくわけ、全国大会で。
東條● そうですね。昭和四五年、全国図書館大会で決議された社会教育審議会中間発表に対する要望書を社会教育審議会長に提出と。次の四六年に「図書館記念日」の制定などを協議、と記録ではなってますね。
栗原● だから審議会から出た時は案文を聞いただけやったんだな。館界ではすぐその場では反対意見とはならなかった。その後、日図協の常務理事会の話題となりもめてきたんだ。その情報を一番先に図問研にもってきたのが私だったろう。図問研では図書館にかかわる重要な情報は必ず会員全体に知らせなきゃいかんということになっていたんだと思う。
堀● 図問研の委員長は二期くらいされましたよね。その後は誰に移されたんですか。
栗原● 誰にお願いしようかなと思って、考えて酒川玲子さん。その後、二期ぐらい後で酒川肇さん。
堀● つまり栗原さんの時だけ関西にあったってことですか。
栗原● その後、私が日図協事務局長になって東京に行く頃、もう一度関西でやってます。たしか三苫正勝さんが委員長になった。私がやっていた頃はちょうど東京都の図書館政策が発表されたり、住民と図書館とがどう結びつくかってなことが具体的に考えられるようになったわけでしょう。大阪でも図書館を町村の一番へんぴなところまでにどうつくっていくかってことで。それでまあ、塩見君やら西田君やらが提案したんだろうなあ。要するに、図書館に対する需要の実態調査をしようと。大阪府の一番北の端の、人口一千人かそのくらいの能勢という村。そこへ泊まりがけで行って、住民の人たちに図書館がどう役に立つか、とか。私なんかは前に自動車文庫では行ってたけれど、しかしそれは月一遍だし、日常的なところまで何にもしてこなかった。塩見君たちは、どういう需要があるかって、何カ所か行った。あの時の会報見たら出てると思う。行ってそこの住人と会って図書館に対する期待やら希望やらありますか、とか何とか。学校にも行ったのかなあ。なんせそうとう細かい、塩見君のことだからね。あの人達が案をつくったから。大阪だけじゃなく他にもやったなあ……、そうそう、神戸に行って兵庫支部づくりも働きかけたりした。
東條● 図問研の会員って多かったんですか。
栗原● うーん、次第に多くなる頃でね。五百から六百名くらい……そんなになる頃かなあ。原稿をガリで切ってたのを湿式複写に変えた。府立の連中も図書館の管理の方からはいろいろ意見があり、栗原がおるためにこんな仕事が増えてと思ってただろう。まあその頃は私も閲覧課長から整理課長になっていた。閲覧課というのは人が多いわけだ。昼夜二部制でやるんだから、しかも主題別の部屋が一〇もある。で、各部屋に二人から四人つけなきゃ。だから閲覧課だけで一番多い時は三五人くらいいたかなあ。そういう意味では、まあ会員の職員もよくやっていた。
東條● 府立図書館は僕も何回か行ったことがあるんだけど、昔の建物だから小さい部屋がなんぼかあるんですね。大閲覧室みたいなのはなくて。それで、受験生だけ別の自習室に並んどるんですよね。
栗原● 一番大きい社会科学、自然科学室で開架冊数が各五万冊かな。だから全部あわせても一五から二〇万冊くらいですよ。
東條● そうですねえ。部屋があんまり大きくないから。
栗原● 古い図書館で歴史関係の文献がたくさんあるから地理歴史室っていう主題別をつくったり、自習室とは別に学習参考室っていう、高校生などが来て勉強出来る専用の資料室をつくったりね。そこでは教科書や受験参考書を置いたり、いろんなことをしてますけど。そういう特色ある部屋をつくったりね。まあともかく、あの主題別の時が私は一番やってた時ですかな。業務研究会というのを毎月やってみんなが集まって議論して。それで、ある程度主題別を形づくっていった。あの時はね、大阪府立は中村祐吉館長が日図協の理事長やった。司書部長が木寺清一[注14]さん。この人が日本図書館研究会(日図研)の理事長。だから府立には理事長が二人おられた。で、木寺さんからみると日図協の理事長より日図研の理事長である自分が古い、と言う。すると、何言いよるか、そりゃ日図協の方が全国を代表する。と、こうなるわけだ。どっちでもよろしいと、私は(笑)。大阪府立全盛の時は両理事長がいて、人も多いし、全館で一一〇名くらいおったんかなあ。
東條● 栗原さんは日図研もやられていたんですか。日図研はもともと関西でしょう?
日図協に入ったのがいちばんあと
栗原● 日図研ももちろん入ってました。こっちの方が早かったと思う。木寺さんから言われてね。あの当時、日図研の前身の青年図書館員連盟の創始者である間宮不二雄[注15]さんが関西に来ると、関西地区の日図研の、もう五〇歳近くで館長になったような錚々たる連中が集まってくる。間宮さんは自分達の先輩、恩師だからご挨拶をするわけだ。奈良行ったり、宝塚行ったり。私はありがたいことに木寺さんに連れて行ってもらってた。その大先輩に互していくには私が一番若かった。ちょうどその頃、昭和三六年から桃山学院大学で司書講習が始まっていた。その司書補講習で「図書館統計」の講師を務める人が誰もいない。木寺さんに栗原やれって言われて、それで行くようになった。そんなこともあって日図研と日図協の狭間で双方からいろいろ教えられた。日図協に入ったのが後なんですよ。今言った主題別の閲覧制度で、大阪市立図書館ができたのが昭和三六年。大阪府立も今半分できた、昭和三六年と三七年にやったからね。しかし両館の閲覧室は単に部屋を分けただけであんなものは主題別とは言わん、と国会図書館の石山洋さんが批判の文を書いた。で、栗原これに反論書いてみんかって言われて、『図書館雑誌』(一九六三年六月号)[注16]の投稿欄に書いたんだよ。主題別ってのはこういう意味で大阪府立はやったんだと。菅原峻さんがあんたの論文載せたといってシャープペンシル送ってくれたよ、原稿代はなくて。日図協に菅原って人がおるなってその時はじめて知ったけどね。それが石山洋さんとの接触の始まり。
堀● 日図研や図問研よりも後になって、日図協との縁ができた。
栗原● そうです。原稿を書いて菅原さんからシャープペンシルをもらう、これでは日図協も入っとかんといかんなとなって、三六年に日図協に入ったのだと思う。
堀● 自動車文庫の後ではどういう実践をやったか、印象に残ることを教えてください。
栗原● 私は大阪府立で参考係長だったでしょ。京都府立参考係長というのが埜上衛[注17]さんっていう人ね。それから、神戸市立はもう志智嘉九郎[注18]さんの指導でレファレンスのメッカですよ。館長自らやってる。そこには二人ほど猛烈な、それこそ生き字引って言われてた人がいた。「あの人に聞けば何でもわかる」と。そこで京阪神三つの図書館がレファレンスの研究会、実践交流会をやりました、お互いに励まし合って。そういう意味では非常によかった。私が昭和三四年に参考係長を任命された直後に名古屋で図書館大会があったんですよ。文部省が青少年図書の推薦をやるっていうんで、それに反対して図問研の人たちがビラまいたり、大変やったんだけども。
東條● 日の丸が出て、君が代を歌ったという大会。
栗原● そうそう、そういう時に初めてレファレンスの分科会が出来て、その会場で私が提案したのが、日図協に参考事務の研究分科会をつくること。参考事務規定を制定すること。そしたら都立日比谷のレファレンス責任者の北村泰子[注19]さんが私の席まで来られて、「栗原さん、今後ひとつお互いに協力しよう」とおっしゃった。それから北村さんの東京都立と我々関西の三館とは、レファレンスの連携が非常によくなったと思う。その後北村さんは東京の人たちと一緒にボルチモアのイノックプラットライブラリーの参考事務規定というのを訳してるでしょ。
6 アメリカ図書館視察
東條● 昭和四一年にアメリカに行かれたんはどういういきさつで。
栗原● 中村祐吉さんは、もと英文学の先生。東大で市川三喜さんや福原麟太郎さんの教え子ですから、英語は得意で、戦後すぐ英米の図書館の視察に行った。日図協理事長時代にもマドリードのIFLA大会に参加した後、米国視察をしておられる。国際交流には非常に熱心だった。彼が日図協理事長になるとアジア図書館協会[注20]を日図協を事務局としてつくったでしょ。それで大阪府立を立派にするためには少なくとも複数の人間を外国に行かして勉強させて、新しい考え方を十分にもっておかんと図書館はだめになる。そうでなくても行政からやられること多いから、というんで、私の前に東大を出た職員がケネディが殺された時やから、昭和三八年ね、東京都立の当時の参考課長の北村泰子さんと二人で行ったんですよ。これはね「マルチエリア・ライブラリアン・プロジェクト」。アメリカ図書館協会の国際交流部が世話して国務省からの招待となっていた。三月から八月まで勉強。国務省が各国から一名だけを呼んで、一一名だったかな。大体、図書館の発展途上国中心なんです。イギリス、フランスなんかからはいなかった。チェコスロバキア、ポーランド、ユーゴスラビア、インド、フィリピン等、ラテンアメリカやアフリカからもいたね、いろいろ。
東條● 社会主義圏からも。
栗原● うん、特にチェコとユーゴスラビアから美人が二人。この人たちは大切にされていたね。
クリハラはアトラクティブパーソンだ!
東條● アメリカの世界戦略の一環?
栗原● そういうプロジェクトでした。これはたしか丸山昭二郎さんも後に行っているはずです。五年間くらい続いたのかな。私はその真ん中へんだった。昭和四一年、ちょうどLC(議会図書館)が、MARC
IIプロジェクト[注21]というのを本格的に始めた年ですよ。それからもう一つ、米国公共図書館界では戦後すぐ一九五六年くらいにライブラリーサービスアクト(LSA)[注22]というのが出来た。これは連邦政府が図書館をつくる援助金を出すという法律。それをさらに発展させる目的で、一九六四年にライブラリーサービスにコンストラクションアクト(LSCA)[注23]という法制度が加わった。これは図書館建築、建物をつくること以上に、より広い図書館サービス、要するにネットワークのシステムづくりをめざすというもの。ステーツライブラリー等が中心となって、郡(カウンティ)内、さらに州単位で図書館協会みたいなところに専門職が集まって、そこで公共図書館の振興計画をつくること、またその実施に対し、積極的に補助金を出したりと、あの頃はそのようにちょうど転換期の年だった。私はオハイオ州に一番長くいた。オハイオ州の州都コロンバスの市立図書館が公共図書館で初めてコンピュータを入れた年なんだ。それを見に行ったりしたんですよ。アメリカ公共図書館の機械化が本格的に始まった年でもありました。国家全体はLCのMARC
IIプロジェクトがあって、合体してる。大学図書館の方はメドラーズ(MEDLARS)[注24]という医学図書館のサービスというのがあり、メディカルインデックスが始まった翌々年だったんだ。そういうものも見たからね。
初めワシントンに行くでしょ。ワシントンに二週間ほどいて、すぐクリーブランドに行ったんかな。クリーブランド市立図書館で数日間の説明を受けた後、あそこのウエスタンリザーブ大学で数週間の講義を受けた。そこには慶応大学図書館学科のかつての教授がいた。ウエスタンリザーブが済んでから、シカゴのアメリカ図書館協会(ALA)に行って、そしていろんな図書館を二日か三日ずつくらい見ていく。シカゴのパブリックライブラリー行って、シアトルのパブリックライブラリー行って、サンフランシスコへという具合にね。南の方はニューオリンズ行ってそれからテネシーやアトランタにも行った。みんなそれぞれ別々に行くの。最後にもう一回ワシントンの近くに帰ってきて、解散式があったんだよ。そういうプロジェクトでした。私は自動車文庫の課長として行ったので、ブックモビールで一番活躍してるという、デイトンパブリックライブラリーへ行きました。オハイオ州デイトンはライト兄弟が生まれたところ。だからね、立派な飛行場があってエアホースミュージアムがあったりして航空事業に由緒あるところ。そこで一カ月半働いて、徹底的に自動車文庫を勉強した。本館各課の仕事に加わったり、分館を訪問してシステムの実際を学んでゆく。このプロジェクトでは参加者の仕事によって誰々はどこと割り当てられている。初めと最後だけワシントンで一緒になるだけや。後はもうまったく一人。だから三カ月か四カ月の間全く孤独だよ。それでも私はまあ、何でも見てやろう主義だったから、市の有力者の葬式に参列したり、館員家族の結婚式にも行った。館長や館員が一緒に行くかと誘ってくれたらオーイエスなんてついていくもんだから、「クリハラはアトラクティブパーソンだ」と言われた。図書館のことはあまり勉強せんだったんだけど、アメリカの図書館人から学ぶことは多かった。特にギトラーさんは親切にしてくれた。ニューオリンズからアトランタへ寄って、アトランタからナッシュビル。あそこのジョージ・ピーボディーカレッジ。ギトラーさんはそこの大学図書館の教授になっていたんだ。ナッシュビル空港に着いたんが夜の一一時半くらいだよ。栗原が来るからと聞いてわざわざ迎えに来てくれていた。感激したね。この年のALAの大会がニューヨーク市であった。開会式の前の晩一〇時頃から晩餐会があり、表彰やらなんやらセレモニーが進行する。その時もやっぱりギトラーさんが私の横におって、いろいろ教えてくれた。ほんと感激したよ。慶応には行かなかったが、ギトラーさんのお世話になったなと思ってうれしかったな。そういう、いいプロジェクトだったんです。
ただ、ちょうどベトナム戦争に大挙してアメリカが参加して、ハノイ爆撃が始まった頃だ。
アメリカの図書館員は偉いもんだと思った
東條● 北爆が……。
栗原● さっき言ったウエスタンリザーブ大学でもいろいろスクール・ティーチインというのがあるわけです。学生がバーッと集まってこう、私なんかにも話しかけてくる。こっちも、爆撃はそもそも間違いや、東洋人を軽く考えないほうがよい、と説明したりする。またある時はデイトンのパブリックライブラリーで仕事をしていて、選書会議にもしょっちゅう参加さしてもらう。館長と閲覧課長が本の選択の責任者でね。整理の方は目録つくったり、単なるテクニカルサービス。選書は全部閲覧の方の主題別のそれぞれのセクションの責任者がやるわけ。ある選書会議の時にオーストラリアの記者が書いたベトナム寄りの記録があって。そんな本を買うか買わないかで激論するわけだ。それとヌードの写真集を買うか買わないかと意見を交わす。彼らはどういう返事をするかなと見ていると、ときどき私の顔を見てから館長が「ミスター栗原どうする?」と聞く。私はこれらは全部買う、言うたけどね。
閲覧責任者の男はたいしたものだった。さっきのは政府と反対側の立場の出版物ですよね。これを買うことにしようと言う。要するに今のアメリカがやってることにも一定の批判がある本を図書館は買うべきだと主張しているのを聞いて、おお偉いもんだな、アメリカの図書館員は、と思うたね。日本ではこうはいかないもんね。
東條● バーチェットの『北ベトナムからのルポ』(読売新聞社、一九六六年)というのですか。
栗原● そう、ウィルフレッド・バーチェット[注25]。あの本なんかを買うか買わんか目の前で選択論議する。館長、副館長、閲覧課長、それから収書、整理の各課長、子供の本も入るから児童の課長。これくらいで本館用最初の選択はやる。それを並べておいて今度は分館の人たちが選択する。その選択をする時は必ずALAや専門の新刊書評速報みたいな出版物を参考にしている。
東條● 『パブリッシャーズ・ウィークリー』。
栗原● うん、それや『ヴァージニア・カーカス』など。そういうものを必ず置いてやる。ここは買っていないけどウチは買うとかね。私は大阪府に帰って、巡回文庫課長の次は閲覧課長をやった。それまでは大阪府立は整理課の課長が選書の一番の権力者だった。資料購入予算を全部握っとるから。これからは閲覧課長が責任を持つと私が言い出したんだ。そしたらウチの閲覧課の職員が、日常の仕事をしている中で新刊の選書まで忙しくて手が回らないと言って。そういう具合に、あちらのまねをしようと思っても必ずしもすぐはできなかったけど、向こうは選書をしっかりやっていたね。
東條● 公民権運動もその頃でしょ、黒人のキング牧師とか……。
栗原● そう、ちょうど独立記念日、七月一四日にニューオリンズに着いたんです。全然星条旗が出ていないの。「何故、ホリデーらしい行事をやらないのか」と聞いたら、「北のやつが勝った日にね、何で南が同調せないかんの」と。そういう雰囲気がまだ残っとった。
東條● 南部の旗を立ててた。
栗原● 今、公民権運動の話がでたが、アメリカに行ってる間に何人かの黒人の人たちに会うたけどね。アトランタで会った黒人の女の人の綺麗さね。目の輝きが。うん、やっぱり公民権運動なんかに携わって、精神的に高いものを見つめている娘さん、娘さんだろうと思う。あの女性の顔、今でも忘れられない。すごいな思うたね。精神が外に表れてる言うか……。今おっしゃったようにそういう運動をしている人たちから招かれて広島のこと聞かれた。海軍兵学校は広島にあった。「なら、原爆知ってるのか」と、近所の人達を全部集めて、話してくれと言うこともあった。日本人がくるというので酒を買ってきてくれて剣菱があるんだ。「これどうやって飲んだらええか」と言うから、その家の台所に行って、徳利はないわけだから、キッコーマンの醤油、ソイソースの瓶がいくつかあったから、そのひとつをきれいに洗い、やかんで湯をわかして「日本ではこうやって飲むんです」と言って、熱燗の飲み方を披露した。向こうは喜んだね。そのあとでニューヨークに行った時、高島屋へ入って、あそこに売っていた猪口と徳利のセットを二つ買ってお世話になったお礼に送った。いろいろ助けてもらったいい思い出が残っています。
東條● その頃は黒人の公民権運動は図書館活動に反映してるとか、……あんまりなかったですか。
栗原● ワシントンにいた当時、LCの図書館職員の懇親会の席上で私に話しかけてくる人たち、白人からも黒人のさまざまな文化を失ってはならないというのに出会ったことはある。デイトン図書館の目録係長が黒人の女の人だった。もう一人幹部職員におったかな、しかし少なかったな。デイトンはオハイオ州、中西部だから、必ずしもそういうのは強く意識しなかった。
7 堺市立図書館長から日図協へ
東條● 帰ってこられて、堺市立図書館に行かれたのはだいぶ後なんですか。
栗原● 昭和四七年だから、六年後ですね。府立の新しい館長が栗原は図問研の委員長までやっている、と使いにくいと思っていたかもしれません。堺市から相談のあった時、いちばん先に私が指名されたから。
東條● ああ、閲覧課長で閲覧課の力を強くしたわけだ。それで、うるさいやつや、みたいな感じやったわけですか。
栗原● その当時は桃山学院大学の夏期講習に非常勤講師に行き、樟蔭女子大には毎週土曜の午後に行っていた。職務に忠実な模範職員ではないわけです。堺市の図書館は府立図書館に次いで府下では伝統がある。大正五年にできてるから。しかも大阪でも有名な熱心な館長が歴代おった。話のあったちょうど前の年に栗原嘉一郎さんが設計した新館ができた。堺は古墳の町、だから古墳の家の形をした建物。四千何平米あって、当時では立派な図書館だった。しかも大仙公園といって仁徳天皇御陵の真ん前だからね。それまでは戦災後の職員五人か六人かの小規模図書館だったのがいっぺんに三〇人くらいの大図書館になった。だから二十何人は新しく採用したわけだ。ことに意気盛んな大学出の女性の未経験有資格職員が多く、同時に利用に慣れていない来館者の多さに館長が困ってしまっていた。それでもう「俺は辞めてもよい」。しかし後には専門家を入れないかん。大阪府立に相談したという経過がある。府立の館長は自治省出身のエリートで、府の部長から図書館長になった人。おまけに大阪府図書館協会という協会の会長は従来は府立の館長がやることになっていた。お前これもやってくれ、と言われて、堺市の図書館長に加えて、大阪府図書館協会の会長をも引き受けることになった。それで府内の図書館界代表として大阪府教育委員会の社会教育委員にもなったわけ。
河井酔茗・与謝野晶子の詩碑をつくった
栗原● 堺の図書館長の時は『堺市史』いう三浦周行監修の十何巻の立派な郷土史と、与謝野晶子全集。それは必ず館長室の机の上に置いてね、どんな人が来ても与謝野晶子についてはしゃべれるし、堺の歴史については何があってもしゃべれるというふうに努めました。だから今まで図書館に足を運ばなかった地方史の研究家、郷土愛好者、そういう方が来ていろいろ教えてくれた。そのおかげで堺市立図書館の前庭には堺出身の河井酔茗の詩碑をつくったし、晶子の詩碑もできた。来館者はこの二つの詩碑の間を通って図書館に入れるようになった。それをつくらしてもらうために、東京の目黒に住んでいた奥さんを訪ねたりしてね。
東條● 河井酔茗の奥さんは有名な人ですか。
栗原● 小説家、島本久恵さん。大変立派な女性だった。詩碑なんかいらん、と言ってね。その人が生きてる間は少しは大事にしてくれるかもしれん、でも一〇年も経つと草ぼうぼうです、だあれも顧みることがない、と。河井酔茗は堺市出身の人。詩人として初めて芸術院会員に推された人。ぜひどうしても、って二時間粘った。ようやく許してくれて、「あなたの熱意を聞いてお願いをしたい。碑の文字は教科書体で書いてください。達筆な字の碑文はだあれも読めないようになる。だから教科書に出ている書体で」って。だから私は教科書体にしました。
堀● ずいぶん新しい考えの奥さんでいらっしゃる。
栗原● そうそう。なぜそういうかと思ったら酔茗の詩碑は昭和女子大にある。「新体詩祖の碑」ということで酔茗ともう一人、詩人の詩碑があります。それを聞いたもんだから大学の門を入っていって「河井酔茗の詩碑はどこにあります」と学生さんや守衛の人に聞いたが、だあれも知らん。学生が通る体育館の前にあったんだが、誰も教えてくれないことを経験した。昭和女子大っていったら文学史研究にかかわる大学として有名なところ。全集もつくっている。
東條● 『近代文学研究叢書』。
栗原● そこですら、そうなんだ。だから、よく目立つくらいの大きなやつをつくりましたよ。河井酔茗と与謝野晶子のものも。両方ね。それから「河井酔茗生誕の地」の木柱も。だから堺には、私の字が残っとるよ。堺市は河井酔茗の兄貴分、チベット探検のオーソリティ河口慧海の出身地でもある。このような先人達の足跡をたずねる仕事は図書館長の幸せのひとつだね。
図書館大会に武村知事を招いて
東條● それでまた、大阪府立に戻ってこられたわけ。
栗原● そうそう。堺に五年いて。帰ってきたのは昭和五二年。そして五三年には日図協に来るんだから。
五二年の三月に堺を辞めて、四月に府立図書館に帰るわけ。これは、その前の五一年の全国図書館大会が東京であった。その前年が松江なんだが、実はその前も東京だった。東京、松江、東京ときた。この二度目の五一年の会場は品川の隣、大井町の公会堂だったんだ。それまで全国大会は通常三日間。その五一年の大会だけは、協会が苦心して開いたもの。
東條● ああ。これ二日間ですね。
栗原● うん。二日間。あの時私は日図協の監事だったので、大会が済んで大井町の阪急ホテルの食堂だったかで日図協役員の夕食会があった。二〇人くらいいたと思う。その時事務局長の叶沢さんが、「実は来年やってもらうところがない、どこも引き受け手がないんです」とおっしゃる。本当にお困りの様子。話聞いたらT義を見てせざるは勇なきなりU
です。その時の府立の図書館長と森耕一[注26]さんに「来年は大阪で引き受けましょうよ。東京がこれだけ困ってんだから」ということを言い出した。一〇月も過ぎていたから府立図書館は翌年の予算要求を提出した後だった。大会の予算など当然組んでない。森耕一さんと大阪府立の館長に「私が堺から帰ります」「この大阪大会を引き受けましょう。金がなくてもやれるはずですから、やりましょうや」と言い出したわけです。それで、「大阪だけでやれるか?」と言われるので、私が前に近畿公共図書館協議会の世話係をしていたので、近畿ブロックの助力を含めてやることになった。開会式は大阪、閉会式は京都でした。
東條● 大阪、京都になってます。
栗原● それから開会式に、今でいえば記念講演とか何とか行事をやるところ、若い人の意見でシンポジウムをやることになった。
東條● 「現代社会が求める図書館及び図書館員像、その未来性と責任」。
栗原● なんや、いい格好のテーマが出たわけやね。言うは簡単だけどそれをどういう具合なものにするかが大変でしょう。それで、近畿の日図研・図問研を含めたさまざまな図書館員の意見のなかで、当時の滋賀県知事の話もというのがあった。
東條● 武村さん……。国会議員になり「新党さきがけ」をつくる武村正義さん。
栗原● 武村さんには、要するに行政の責任者として。それから文化人の代表者としては、映画評論家の佐藤忠男氏ね。それからもう一人は学者、経済学者だ。
東條● 水田洋先生。
栗原● 三人全部、私が交渉に行った。「俺がやる」って偉そうなことを言うたわけだから。知事に図書館大会に出てもらうというのは初めてだろう。彼は八日市の市長から知事になった。それで、あの時滋賀県立図書館は新館の企画が進んでいたがまだ決まっていない。武村さんは革新的な仕事をやっていたから知事としての図書館への思いを聞きたい。会いに行きたいと何遍か関係者に紹介を頼んでいたが、県の秘書課長が忙しいとか時間がありませんとか言って、ぜんぜん会わせない。プログラム決定の締め切りが迫り、作戦として大会実行委員長の大阪府立図書館長を連れて、「近畿の全知事にご挨拶に行っとります。滋賀県は武村知事にご挨拶に参りたい」ということでね。一分間のご挨拶と約束をとって知事室に入った。で、知事さんとお会いしたらこっちのもんだよ。「実は」とこうや、「全国図書館大会が一〇月何日からあるんですが、知事さん、この大会来て、図書館について話をしてくれませんか」とシンポの計画を言うたら、「行きましょう」ってすぐ決まったんだ。武村知事がいい話をしましたよ。それから一〇日か二〇日ほどあったかもしれませんが、知事は図書館のことについて勉強してきてね。その力があったあとに、西田博志君が努力した八日市市立図書館が出来たんだ。八日市の開館式に武村さんは来てくれた。「武村さん、私は何年か前にお会いしましたがね」って言うたんですけどね。もちろんその時は滋賀県立図書館長になった前川恒雄さんも来ていました。
東條● なぜ、武村さんに目をつけたんですか?
栗原● ちょうどその一年か二年前に大津の市立図書館が初めて出来ていたんだ。しかし滋賀県立図書館はじめ県内の図書館はまだミゼラブルな状況だった。県民会館の二階に県立図書館があった。あの新しい知事に図書館のことを知ってもらいたい。そのためには知事を全国大会に出さしてくれ、とそういう熱心な地元の人の声があったんです。うれしいことだ。近畿の知事として一番若かった。武村さんは県民の草の根文化を充実したいという話をしてくれた、勉強してきてね。
佐藤忠男さんの自宅では応接間で二時間ほど待ってね。お話をしてお願いした。結果は承諾して来てくれました。水田洋さんは九州かどっかの出張講演の帰り、新幹線の新大阪の駅でお会いして頼んだ。水田先生は大学の話だったかな、シンポジウムの発言はすこし言葉がすべって問題にされた点もあった。
堀● 図書館大会やられた時は、どういう役職でやられたんですか?
栗原● 府立図書館主幹でね。図書館大会専任。だから、私は大阪府立の中でも一番いい部屋で仕事をした。絨毯が敷いてある、歴代館長が使っていた部屋。大会準備係として特別に一人秘書が付いてね。
堀● 図書館大会が終わると「次は何を」ということになるんですか。
浜田敏郎さんがスカウトにやってきた
栗原● その年に日図協の理事長に就任したばかりの浜田敏郎さんが大会の時に府立図書館長に会いにきて、「栗原を日図協事務局長にくれ」とおっしゃったらしい。私はぜんぜん知らんこと。大会以前に日本図書館学会が大阪で開かれた時、浜田敏郎先生がご自分の研究発表をしたのを憶えていました。図書館大会の時に初めてお会いした。館長からは私に「もらいに来たからええというておいたよ」と言ってました。
東條● 相談なくて「ええよ」って……。
栗原● これは背景から考えると、私が堺市から帰って、大会のことは一所懸命やっとるが、しかしこれもいつか種切れになるといって、一番心配しとったのが西田君なんだよ。彼が、栗原あとどうするつもりなんだ、と気をもんでいたんでしょう。まだ、五一になったかならんかくらいだからね。五五が定年だからすぐには首にならんと私は思っておったわけ。しかし、栗原をどうにかせないかんなと西田君が森さんに言ったとか聞いたような気がする。
堀● 森耕一さん。
栗原● 森耕一さんと浪江虔[注27]さんが常務理事会かどこかでお話をしたとか。堺の図書館にも浪江さんは来てくれたことがあります。館長だった時。だからお会いしたことはある。その次にも、さっき言った七六年の図書館大会の時に私も大阪の実情の発表を頼まれていた。大阪の図書館協会会長だからね。東京を代表しては酒川肇さんのいた町田の大下勝正市長が、私と並んで発表したわけ。「東京みたいにはいきません、大阪は金がないから」と市長に話をしたら、私も大阪人なんだと言う。大下さんは豊中市の出身とか。「あ、そうですか」ということで話が合いました。市長とはその時初めて会って話したんだけども。大下さんを心から支持している浪江さんのはからいだったと思う。大阪府図書館協会の会長に就任した時、私は大阪市立図書館長の森さんに顧問をお願いした。だから森さんと浪江さんが推薦してくれたのかもしれない。当時、事務局長の叶沢さんはお辞めになる。次長の菅原峻さんの昇任については誰かから反対意見があると聞いたことはあります。菅原さんはたしか昭和二八年に日図協に勤めはじめたんだ。だから昭和五二年で、ちょうど二五年になるベテランの人と思っていた。
東條● 日図協事務局でね。
栗原● それまでは当然、次の事務局長になるということで勤めておられたけれども、なんかのお考えがあって辞めることになったのかもしれません。私はそのことについては全然わかりませんでした。菅原さんがやるとばっかり思ってたから。だから、私に話が急に来て、浜田さんの話では叶沢さんは今すぐにでも辞めるとおっしゃっている。栗原が来てくれるんなら一月の初めから来てほしいとのことでした。だから私の大阪府立退職は一二月末になっているはずです。しかし、その後、叶沢さんが三月までおやりになるというので、私の着任は三月三一日になった。普通なら新任は四月一日になるはずだから。三月三一日に叶沢さんが辞めて同時に栗原が就任となったわけです。
8 日図協事務局長就任前後
堀● 堺市立におられ大阪府立におられ、図書館の現場にいらっしゃったわけですよね。図問研なり、大阪府図書館協会の役員もされたが、現場で利用者との関係でずっと仕事をされていたわけですよね。日図協にスカウトされた時に、受けていく動機があると思うんですけれど。協会がその時どういう風に見えて、じゃあ俺やろうかな、と思われたのですか。俺がやってここのところは立て直せるかなとか、入る前にはどういう風に見えていましたか。
栗原● 私はかねてから協会は立派な組織やと思っていた。府立に入った次の年に大阪で図書館大会があったでしょ。有山さんが事務局長で、三七か三八歳くらいのまだ四〇歳前の若い時だ。背のあまり高くない顔色のいい有山さんが図書館に来てうちの館長に話したりしている充実した男性の印象が残っていた。有山さんは天王寺公園のすぐ近くのホテルを定宿としているとも聞いていた。私なんか下っ端の下っ端だから、協会の事務局長は立派なものだと思っていた。それからうちの中村さんが理事長になって東京に行ったり帰ったりがあり、有山さんの後に叶沢清介さんが事務局長になると世田谷区三宿の会館を建てる計画を発表される。私は大阪府立の整理課長だったんかな。それで、大阪府立の館長が近畿全体の公共図書館協会の会長で、私はその事務局のお世話をしていた。年に一遍は総会をするのですが、「どういうことをやったらいいか」と、その時の館長が聞くもんだから「日図協は今、会館を建てるという話をしてまして、一番苦労しているのは叶沢事務局長でしょう。叶沢さんを呼んだらどうですか」と答えた。それから募金のことはあまり関西の人の関心になっていないから、「寄付金を集めるお話を叶沢さんにしてもらったどうでしょう」と言って、立派な会場を用意して、叶沢さん呼んだんです。で、なぜ会館を建てるか、寄付金を求めるのかを話していただいた。日本の図書館振興の理論と実践の中心団体が日本図書館協会ですから、図書館協会に対する尊敬の念は私は若い時から持ってたと思うんですよ。だから、日図協に来いと言われた時には、何が出来るというのは全然なくて、ただ大変な仕事をやらせていただく、ということだけじゃなかったかな。年も五〇で、あと大阪におれば五年間一所懸命やれると思うけれども、日図協でまた違った新しい図書館人としての仕事は確かにあるだろうと考えた。ただ、協会に行って何が出来るというのはなかったね。うれしかったのは、国立国会図書館長の岸田實さん。「図書館協会と国立国会図書館というのは車の両輪である」とおっしゃったのは、昭和五三年の青森大会。あの人が初めてですからね。協会事務局長の歓送迎会をやってくれた時、原宿の南国酒家だったか、あの時に「栗原さん、あなたの笑顔が一番いいですね、しょっちゅう私んとこへ来てくださいよ」と言ってくれたことは有り難かった。
東條● 岸田さんが?
栗原● うん。もちろん初めて会った人だった。それでうれしくなって時々、岸田さんのところへ行ったですよ。国会図書館の館長室には、後で出てくる図書館事業基本法の時も何度意見をいただき相談したかわからない。とにかく偉い人だった。あの歓送迎会の時はたくさんの人が、加藤宗厚[注28]さんとか、もう、きら星のごとく館界の大先輩がみんな来てくださった。これは私のためではなく、歓送迎会だから叶沢さんを送るということで出てくださったと思う。私にはそれまで名前だけ聞いているというような人がいた。だから今の質問に対してだけれども、図書館協会は尊敬してたし、協会事務局という大変な仕事が出来るんだとは思ってはおりましたけど、私が何が出来るというのはぜんぜん、理解は不足していた。
堀● まだ、具体的な職場としては中身はそれほど見えてない。一方で現場を離れて事務局をするっていうことに対しての感じって言うのは……。
栗原● もちろん、一生の図書館員を志した者としては寂しいことではあった。だから職員には「私は長い間図書館現場におった。現場の図書館員というのは市民、来てくれる利用者にサービスをする、その人のために働く仕事人である。我々協会事務局は、そのような全国の図書館員、現場で市民のために働いている図書館員にサービスを尽くす人間だ。その姿勢と気持ちは同じなんだ」ということは何遍も言いました。ただ残念ながら協会の事務局にはそういう現場経験のある人はほとんど、小川俊彦次長を除いて、いなかった。ややもすれば、たまたま協会を訪ねてくれた人に失礼な……。要するにある県や市の図書館長に「どなたですか?」というような態度がみえる。これは、前川恒雄さんが言ったということを聞いていたんだけれど。協会までわざわざ来る人っていうのは地元では大変に尊敬されてる偉い熱心な人なんだよと。協会に寄ってくれるということは、本当に丁寧に接しなければいけない、と。私はその通りだと思う。だから私は、叶沢さんや浜田さんが来て、お帰りにドアを出る時までお送りして、必ず最敬礼をしていました。事務局長がその先輩やなんかに尽くす姿を見とったら、うちの事務局職員もそういうことをやってくれるだろうと、かすかに思ったけれど、あんまり効果はなかった。実をいうと次の事務局長の酒川玲子さんにも同じことを言いました、私はこうしたと。それから酒川さんも、何年か経って同じ思いになったのでしょう。必ずそういうふうにしてくれた。それは礼儀としてね。全国組織の職員としての。
東條● 地方にいたら、おっしゃるように日本図書館協会って、すごく偉い人がおると思いますよね。
氏家● 僕なんかも経験しましたけれども、『図書館年鑑』を編集し始めた頃、地方ブロックの会議なんかに行くとホントにそうですね。ブロックによって違うんですが、近畿ブロックの編集会議に行くといろんな人がたくさん来るわけね。会場も大学だし、文庫の方も市立の図書館員もいる。そうじゃないブロックは県立図書館の人だけというのが結構多かったですよね。僕みたいな若造が行っても大変持ち上げられ接待されて。その逆もあります。JLAなんぼのもんだ、というくらいな人ももちろんいらっしゃる。そういうのは地方に行くとすごくわかる。だいたい県立で開かれるので、僕はブロック会議や何かに行く時は市の図書館に行って市の人と話したりしてましたけど。やっぱり、図書館協会は『図書館雑誌』を出しててナショナルセンターみたいなところなんだって見られてる。
日図協が持っているデータを何とかお伝えしよう
栗原● ようするに地方の現場の人にとっては、自分の知らない情報をたくさんもっているのが日図協事務局だと考えられている。日図協に教えてもらわないかん、さまざまなアイディアや実例を聞かしてもらわないかん、という頭がいつでもあるわけ。私が『図書館年鑑』を出さなきゃならんと思ったのは、事務局が持ってる情報を全部出す、お伝えする、これですね。もちろん、出版したいという職員がいたからですけれど。最大の意義は、自分たちの仕事の位置づけを自らしてもらいたい。年鑑というのは一年間、どれだけ苦労しても図書館にかかわる情報を全国的に集めて、公共だけでなく、大学も短大も障害者問題も、ほんともうあらゆるところに目配りをして、出し続けるということが協会の役目だろうな、と私は考えました。
というのは、私が堺の図書館長時代の昭和四七年から五二年までの五年間。あの頃協会は菅原さんが一所懸命に新しい公共図書館運動を進めていた頃ですよ。その時に私は、図書館長だから予算要求しなければならない。堺に行った時、図書館の資料費が三五〇万円だったかな、これではあかんと翌年七〇〇万円要求して、新館長は役人の心得がない「変人」と言われたけど実現した。その次の年に一二〇〇万円を実現した、その次の年に一五〇〇万円にしたと。どうして出来るかというと、あの時菅原さんらがいっぱい出してたいろんなプロジェクトの資料とか『日本の図書館』だとかいうようなデータを自分なりにいろんな形にひっくり返して説明書をつくって、それを教育長や助役や市長にぶっつけて実現していくわけでしょ。だから、全国の図書館の人が自分の問題の位置づけをああいう資料の中でつくれるような役立つ情報を出していかないかん、というのが基本でした。協会事務局がえらいわけでは全然ない。そりゃ集める仕事は協会事務局が苦心するんです。だが中身は紙の上に出された情報に意味があるかどうかなんだなと思ってました。私は協会に来てからいろんなとこに行きましたが、話すのは日図協がもっているデータをなんとかお伝えしていこうと、こういうことでした。
氏家● 『図書館雑誌』の担当をしている時に、極端に言えば、ほんの小さな一つのニュースでも三行、四行、書いて形を整えなければと思う。でも事務局長はニュースなんかは一行でええと言うんですよ。
栗原● 私が協会に着任した時の『図書館雑誌』を見てご覧なさい。全国からたくさん新聞の切り抜き情報やら何やらが来るわけですが、詳しく解説加えたらその中から一ページに三つくらいしか書けんのですよ。私は、「これではだめ、見出しだけでよろしい」と言って、あの欄は見出しばっかりのデータに変えたでしょ。全国的な図書館の躍動を伝えたかった。
堀● ああ、今の「新聞切りぬき帳」の体裁ですね。
栗原● ああいう具合にしました。詳しい情報見たければ、協会からその記事をコピーで求めるか、どこかに行ってオリジナルの新聞を見ればいいんだから。
氏家● 出来るだけたくさん情報を載っけろとおっしゃってました。
「東京」は純粋な人が多い
東條● 栗原さんが日図協に来る少し前の時期なんですが、一昨年に出た薬袋秀樹さんの本(『図書館運動は何を残したか——図書館員の専門性——』勁草書房、二〇〇一年)で、東京の二三区で司書職制度を確立するいいチャンスが昭和四二、三年頃にあったんだが東京の図問研が潰したみたいなことを書いておられて、ちょっと問題になったんですが。大阪は、一応司書職制度みたいなことが確立されてますよね。
栗原● 司書になる資格のある人を選考試験で採用する。
東條● ですよね。私も受けて落ちゃったんだけども。大阪はどういう形で確立したんですか?
栗原● 司書職員については戦前からだなあ。
東條● あ、戦前からなんですか。
栗原● うん。戦後すぐの頃は必ずしもはっきりしていなかった。私の場合は一番初めは主事補、普通の事務員で入ったんだと思う。それで主事試験というものがあったんだよ。大阪府全体で該当職員の試験がある。その結果で主事にはなる。そこで図書館にずっといる希望があるかどうか、希望者は司書という職名になる。どこかまた府庁に帰りたいって言うんだったら主事という名前で置いておく、と。それで私は司書という職名でずっと残っていた。図書館にずっといる人間は、決めたら司書という職名を付ける、ということでした。
東條● それは市もそうですか。
栗原● 市はね、初めっから司書採用の試験をしたんだと思う。府も後の時期からは司書の試験もあったけど、私なんかもっと前だから、主事補でおって、試験を通って主事、司書。
堀● 試験内容はともかく、職名は司書という職名で。
栗原● そうそう。そこでその人間は将来について考えるわけ。将来も自分は図書館におるか、それとも図書館よりも府庁に行った方が出世も早いしなあ……と思う人は、私は司書はいりません。と、こうなる。だからそれで府庁に行ったのもだいぶおります。
堀● 東京二三区はそのへんで問題を抱えてるから、図書館関係のメディアにも載ることが多いんですけど、大阪は出ませんね。そういうことで揺れてたというようなことはあまりなかったんですか。
栗原● 大阪では特に大きな問題とはならなかった。
私は薬袋さんの本読んでないけど、東京の二三区の司書職制度の話については、大阪で漏れ聞くところによるとね、図問研だったか何人か都の教育委員会事務局に行って、今の案の制度に断固反対するとやったもんだから、その時の社会教育課長とか担当者が、図書館員って俺達がせっかくそういう専門職の制度化をつくろうとしてるのに反対するのかと嘆いたという。都立図書館の人でその時のことを知ってるのは朝倉雅彦さん。後で府中市の図書館長になってから、「あのチャンスを失って……」ということは彼も言ってた。朝倉さん、その上司の佐藤政孝さん、あの人たちはそのことを含めて専門職制度の問題は、その後も一所懸命やっていたと思う。
氏家● 薬袋さんは朝倉さんからも聞き書きをしているんです。当時の人の証言と資料を集めて。知らない人はそれで初めて知ったっていう形なんですよ。
SLAと日図協の対立も
栗原● 私が日図協に来た翌年か、その後に都立図書館の図書館協議会の委員になった。都立の委員やっとる時、特に管理部長だった佐藤さんは熱心でしたよ。東京都公立図書館長協議会で二三区長会に司書職制度をつくれと要望書を出した。しかしそれは認められなかった。以前の苦い思い出が関係者の記憶として残っていたのかな。影響を残していたと思う。
どうも東京の図書館人……純粋な人が多いんだよね。こうと思ったらそれ以外はノーなんだよなあ。その典型に学校図書館とのかかわりがある。全館種と関連のある日図協の事務局長になったんだから私はさまざまな機会に各館種の人に挨拶に行ったよ。一番厳しかったのは全国学校図書館協議会(SLA)だった。ようやく日図協の事務局長がここに来てくれた、驚きだと言うんです。びっくりした。今まではもう対立関係というか不自然だった。向こうは昭和二五年からずっと運動して昭和二八年には学校図書館法をつくった。しかしその後、学校図書館部会は協会内にないも同然。昭和四一年、有山さんが日野の市長に当選された。事務局長はもう無理だろう。しかしやっぱり有山さんの立派な経験を我々の運動に反映させていただきたいと、なにかお願いする協会組織内の理事名がないかなあということで学校部会長をお願いしたと聞いている。それから協会に学校図書館部会というものがあらためて出てくるわけです。それで、そんなことでごちゃごちゃ言っとったらいかんじゃないか、同じ図書館運動の大切な問題を考えて行くんだから双方が手を取ってやろうということで、話し合いの糸口をつないだんだけどね。
東條● 昭和四五年に設立してる?
栗原● 有山さんが一年ほどやられて、やっぱりそれは無理だというんでお辞めになる。その後、四五年に東京都立日比谷高校図書館の司書教諭だった筒井福子[注29]さんたちが中心になって再発足した。
堀● 日比谷高校は広松邦子さんの前ですか。
栗原● 何遍も何遍も学校図書館法の改正問題っていうのがあったでしょう。私がちょうど図問研の委員長をやっている時だった。東京の日図協では反対。私は大阪府立にいて、館長が日図協の常務理事会に出ていて、「SLAが出している学校図書館法の改正、日図協は反対でええのかなあ」と言う。「学校図書館がようなるんだったら反対だけでええんですかね」と言った覚えがあります。要するに司書と司書教諭という資格の問題がぶつかっていると考えるから。純粋な意見のすり合わせだけだとまとまらない。
東條● 司書教諭といわゆる学校司書というのと。教諭の資格もってる司書教諭っていうのは司書と別やから。SLAの言うのは、司書教諭になるんですよ。たぶん図問研の方は、学校司書を忘れるなということですよね。
栗原● そうそう。そうでなかったら、公共図書館の司書が学校に行ったら学校司書になる。司書教諭にはなれない。そこで協会の立場としてはなかなか一致した意見になりにくい。私のいた大阪、広く関西の図書館界はさまざまな館種の人の交流があることが特徴だった。東京へ来たら全国の各館種の団体の本部が全部東京にあるわけでしょう。日図協はもちろん、SLAの本部も、大学図書館協議会の本部も……ひとつひとつ全国の館種別の協会や協議会の事務局があっても、これがお互いの交流が少ない。せっかく日図協の中に大学部会とか何々部会とかがあっても、図書館職員の個人的な付き合いはあっても、組織としての協力までに至らない。その理由のひとつに各協議会の会長等が図書館専門の有資格者でないことが多く、共通した運動理念を持ち得なかったからかもしれない。
9 日図協財政問題の整理からTRCの成立へ
堀● それでいよいよ、協会に来たら、びっくりされて……。
栗原● そうね。最初に事務局職員に言ったのは「三つプロジェクトをつくります」ということ。一番初めは、三宿の建物が五年以上たって仕事の組み合わせが固定化しているなあと思ったから、レイアウトのプロジェクト。机の配置をやり直してみようと。それから財政が、若干、問題になっているから協会財政を検討するプロジェクトをつくる。それからもう一つは会員増加をどういう具合に図っていくか、三つのプロジェクトをつくった。一番協力してくれたのはレイアウト・グループをやった加藤恵子さんや小林帥男君たち。部屋の使い方や何やら大きく変わったですよ。私が堺の図書館にいる時に部屋の備品の配置と入れ替えを一年に一遍は見直せと、部屋は同じだけれど、置いてある机の向き方を変えるだけでものの見方が変わるぞ、と。いつでもここにいると思っていた職員が別の向きに座っていたら、お客さんが話しやすうなるかもしれない。そうみんなに言っていたですから、協会に来ても配置を変えて職員と来訪者の気分の変化を期待して。そのために加藤さんらは机の形をボール紙に切って一所懸命こんな方法もあると考えてくれた。ありがたいなあと思いました。あとの二つの財政と会員増加の取り組みを分担したものからはあんまり報告がこなかったな……。私も初めての人ばっかりで職員の名前がわからんのだから、せめて胸にネームプレートを付けてくれ、図書館協会は全国からいろんな人が来るんだから、あ、この人は何々さんだな、という具合にわかるように付けてくれ、と言ったが反対する職員がおってできなかった。こんなことでけんかしても始まらんと思って強制しなかったけどね。
氏家● 僕はそこにはいなくて、飯田橋の事務所で委託整理、印刷カードをつくっていました。
日図協事業部の仕事を改革する
栗原● 事業部の事務所のあった飯田橋には毎週木曜日に行くことにした。当時の事業部は森田昇さんが部長さんで、その部下の職員の人達が一所懸命、大変よく働く。しかも森田さんにいたっては、椅子を並べて寝て、翌朝早くからまた次の仕事をするという、誠に全精力を打ち込んだ仕事ぶりでした。
氏家● 日図協に事業部というのがあって、三宿に会館ができた時に事業部だけが上野に残っていた。上野の旧帝国図書館の裏側の一部で、木造だが結構いい建物。僕は大好きだったんですけど。それから飯田橋ヘ移った。どういう仕事をしていたかというと、整理と斡旋とふたつの仕事をしていて、整理は印刷カード作成と委託整理、当時はいわゆる新館立ち上げに伴って広がったのが委託整理なんですね。僕が担当した図書館は台東区の台東図書館と石浜図書館と根岸図書館の三つでした。それから葛飾区立などの図書館の委託整理、都立江東とか福岡市民、福井市立など新館開館へ向けての一括納入とか。あと、大学図書館の蔵書の整理、和洋女子大だとか日大だとかいくつかやってたんですけどね。斡旋は選定図書に印刷カードをつけて図書館へ送付する仕事が主でした。飯田橋に移ってから『新刊案内』を毎週出して、いわゆる「システム整理」というのを始めていました。TRCの前身ですね。毎朝太洋社の仕入れに行って新刊の目録をとっていました。
栗原● あの頃は、四七年の東京都の図書館振興プロジェクトが出たもんだから、東京だけだけど大変な新館ラッシュで、都内は図書館が一時にたくさん出来る。専門家はおらん。もうどんどん需要はあるんだが注文するところがない。図書館協会は図書館をつくれって言ってた方だから、いやでもそれを受けて手伝わざるを得ない。
堀● その頃の仕事のつまり具合は、いわゆる「日図協百年史」(『近代日本図書館の歩み 本篇』)に結構書かれてますよね。
栗原● 小川俊彦さんが書いてくれた。それで、取次会社の変更があった。それまで本を日販から入れていたのが太洋社に変わった。叶沢さんからその背景として、太洋社は森田君をはじめこの人たちの仕事ぶりを見てて「ああこんなに働く連中の仕事は我々が支援してゆきたい」ということが始まりだ、と聞いたことがある。しかし、図書館協会は有山事務局長時代から日販にさまざまなかたちでお世話になってきた。取次会社の変更、私は難しい課題にぶつかることになった。
日図協に四月に入ってきて一〇月くらい、来年度の予算を立てる時期になった。今までは事業部が二億か三億の予算だったのが、その時に森田君が出してきた案が一一億だった。「こんなに上げていいのか?」というと「いいんです」と。「こんだけ注文がどんどん来るんです」。しかも注文が殺到するから、埼玉福祉会というのに頼って整理にともなう作業を委託している。今までみたいに家内工業的にやっていたのを外部に出してやるんだという。それで増える仕事をさばくことが出来るはず。そういうことで森田君が出してきた予算が一一億。「大丈夫かこれ?」「大丈夫です」。もちろん経費も増えるが、少なくともこれでより収益が増加するという。
大丈夫かと思っていたら、その後の福祉会との交渉で大きな変化が起こった。これは困ったなと思った。だから五三年の年度末、三月の評議員会で翌年度の予算を認めてもらって、その直後五月の総会直前の評議員会では違う予算案を出した。たった二カ月くらいしかたってないのに。その間に大転換が起こっているわけだ。何故こういう具合にするかという質問が集中し、その説明を私が引き受けることになった。その後も九月にも臨時理事会を開いて今まで通りではいかない理由を説明した。
堀● 昭和五四年ですね。
栗原● さまざまなかたちで私を支援してくれた三上強二さんが、この時は熱心に質問するんだよ。要するに「事務局長はこれについて、変化の事態に取り組む決意を述べたけれど、今の説明では非常に甘いだろう」と。「おおざっぱに日図協が金を使って事業をする相手は二つあるじゃないか」と。一つは注文してきた図書館ですね。実際問題先の決算段階で四億近い在庫と未収入金が入っていると。更にもう一つは取次支払い。それで私は言った。「このことに詳しい三上さんのご指摘ですから甘いと言われればその通りですが、三上さんは相手は二者であると言われた。しかし私の立場としては四者であるんだ」と。「一つは確かに図書館。注文してくる図書館。仕事をせんならん。二つ目は仕入れ関係の業者。ようするに太洋社等の出版取次業者。三つ目は委託している作業工場、これに金を払わなければならない。四つ目はあえて言いますと一緒に仕事をしている職員であると。これら四者にぜんぶ金を支払わなければということなんです」と応じた。戦後の一時期に、はじめに言ったみたいに、土方で、セメントを岸に上げて何時から何時まで整えておかないと、というのが私の仕事だった頃のことをかつて石山洋さんが聞いて、「図書館協会にもそんな仕事はあるんだ」と言ったことがこのことだったんだと、それを頭の中で描きながら日々過ごしていた。これだけの仕事を一遍にやらないかんのだということを。だから申し訳ないけれどもこの仕事をちゃんとするためには予算の変更を認めてほしい、仕事のやり方を変える、と申し上げたように思う。
事業部に行ってみたらね、年鑑類など同じ本が何冊かある。「こんな本どうすんの?」って言ったら、「目録のカードを全部とらなければならないので」と。注文は後からくるわけだ、その注文に応じてカードと本を納めるわけだ。だから仕事の性質上、本は全部出来るだけたくさん、多様に集めておかんと、ジャパンマークと一緒だね。しかしこれがみんな残るわけ、堅い本ほど残るわけ、ホントに売れてない在庫がたくさんあるわけですよ。二年後、三年後にこの在庫を処分するのに、猛烈苦労した。この未処理在庫だけで何千万円分かあった。あの時、講談社社長の服部敏幸さんに「栗原君、借金の額はいくらあるんだ」と問われて「三千万から、三千五百万です」と答えたが、最終的には一億近くあった。要するに図書館に納めるために集めた本がたくさんあって、全部は売れないんだ。
堀● 日図協は整理のために本を買ってたわけですか。
氏家● 整理だけのためじゃないと思いますけれども。例えば福岡市民図書館なんかで新館つくるといったら、そこの開館時の蔵書を全部入れるっていう、そういう仕入れじゃないかと思うんですけれど、僕は当時はどっちかというと目録バカでしたから、あんまり、そういうことは……。
TRC成立は劇的な瞬間だった
栗原● やはりお世話になったのは学校図書サービスの石井昭社長。この人とはこの時に初めてお会いしたのだが、それから二〇年以上、私が協会を辞める時までずっとお世話になった。本当に最後まで支援してくださった方です。
東條● 図書館流通センターが出来た時に、取締役をやっているのは、平凡社、新潮社、偕成社、誠文堂新光社になってますね。
栗原● そうそう、各社長さんが集まって私を助けると言ってくれて、その人達のお陰で新しい会社がつくれた。布川角左衛門[注30]さんの神保町のスズラン通りの事務所に何遍も相談に行った。布川さんはあの時、筑摩書房の社長になって、会社を立て直す最中だった。それから、講談社の服部敏幸さんのとこにも行って、ひとつお願いしますと。出版界の代表者のお一人だ。それに日本書籍出版協会の理事長の下中邦彦さんの許可も得なければいけない。図書館流通センター(TRC)を生むための厳しい数週間の後、劇的な瞬間とも言える一日がありました。ホント出来るかできんかの境みたいな、厳しいやりとりだったのです。支援者のお陰でできて、その結果、協会事業部はTRCに移った。問題は借金の処理があります。今言ったように一億円近い借金。五年間かかって、毎年二千万円ずつTRCから協会の暖簾分けみたいな形で、図書の整理と目録作成指導費用として支払ってもらった。日図協は弥吉光長[注31]さんの案で、目録は日図協の責任でつくる。本を集めたり、売ったりするのは新しい流通の会社がやると、すみ分けしたわけだ。図書館協会は専門的な機能は維持することとした。その会社が出来る時には名前はまだなかった。名前を付けたのは弥吉光長さんだ。「図書館流通センターでいいでしょう」と。「弥吉さんはどういう役についていただけますか?」「私は、副社長でなかったら入りません」と、こうだ。ああ、なるほどグッドアイディアだなと思って、すぐ石井さんに「弥吉光長さんが副社長に日図協の代表として入る」と連絡した。だからあの時は株主として協会側は弥吉さんだけです。弥吉さんに個人印をついてもらって何株分か入れたんです。それで一年か二年経って協会が弥吉さんから買い戻したという形にしたんです。もちろん、金は協会が出したんですよ。
堀● TRCに五〇〇万円出資した。
栗原● このようにして事業部の仕事は主に新しい会社に移ることになったが、その前にもう一つ問題は埼玉福祉会とのお金の処理があった。これには協会の会計を見ていただいていた西尾公認会計士の格別のご協力をいただけた。西尾さんはよくやってくれました。向こうは協会に多く要求し、それに対して協会は要求通りには払うわけにはいきません。前提になる「委託契約」の解釈がどうしても我田引水的になりがちです。だから激論になる。私は新座市には何回か参りました。結局は会計士の提案に従って事態を収めることができました。これにも数カ月を要しました。
東條● 取引はもう終わり。
栗原● 福祉会との取引は一時まったくなくなった。後に関係はまた復活しましたけどね。理事長の北村さんが退任され、新座の土地を提供していた並木さんがその後に自分で理事長になっていた。
氏家● そうですね。埼玉福祉会はTRCともふたたびつきあうようになりました。
10 「図書館事業基本法」問題
東條● 同じ頃に「図書館事業基本法要綱案」[注32]が出るんですよね。当時、昭和五六年の『図書館雑誌』に栗原さんが毎号経過報告を書かれています[注33]。僕らもその後反対したけれど、反対運動があってつぶれたというのはどうも怪しいんですが。あれ元々はどこから出てきたんですか。
栗原● まず、私が日図協に着任した直後の昭和五三年に図書議員連盟(図議連)[注34]が発足した。国立国会図書館の副館長酒井悌[注35]さん、あるいは総務部長の高橋徳太郎さんらのお働きかけがあったのだと思う。国会図書館は創立三〇周年に当たり全国的に図書館の機能と運動を国会議員に理解してもらい支援を得たいと考えてのことだったでしょう。高橋徳太郎さんを偉いなと思ったのは、総務部長やっていた高橋さんのところへ行くと「栗原君、衆議院の議運委員長の何とか先生がこれから外国に行くから、成田まで送りに行かなければならない」。翌日行ってもまた別の人を送ることを言っているわけだ。加えて、「向こうへ行ったら国立図書館に寄ってください。そこの図書館長にちゃんと連絡しときますから」と、図書館のことをどうにかして議員に理解してもらおうとしている姿に感心していた。図議連をつくったのもそういうことね。国会図書館だけでなく全国のさまざまな館種の図書館のことを議員が頭に入れられるようにしようと、案をつくったんですよ。それはもちろん酒井副館長と高橋総務部長のご努力でしょう。お二人が岸田實館長にこういうことをしたいと言った時、岸田さんが、「それもやってご覧なさい」と言ったに違いない。「栗原さん、図書館の人が国会議員に図書館のことをホントに解ってもらうようにしなくちゃだめですよ。やれることをやってください」と岸田さんは言ってくれましたからね。
全国図書館大会では昭和五五年の鹿児島から、図議連の代表に祝辞を述べてもらうというのを始めたんです。その時は鹿児島県出身だから図議連の事務局長だった有馬元治議員が行なったわけです。それまでいろんな形で理解されてきた図書館への想いを、有馬さんは祝辞の中で「図書館振興の議員立法をつくろう」と話した。何故かというと、図書館のうち、国会図書館は議会に属している。大学図書館は文部省の中でも大学局図書館情報課に。公共図書館は社会教育課に、学校図書館は初等中等教育局の小学校課。それから、専門図書館はそれぞれの関係省庁や団体・企業に属している。図書館事業の振興のためには、これらバラバラの図書館所管の国の体制を総合的に一元化できないかと考えたのだろう。
私が来た年に国が五四年度の予算を立てるのを見てると、私は何も知らなかったんだけど、公民館振興の国庫補助金が九〇億円で、図書館に対する補助金が五、六億円だった。これは馬鹿なことだ。公民館は文部省が提唱してつくったから一番かわいいかもしれないが、そんな比率では不満だと怒って東京都立中央図書館の奥野定通館長のところへ「こんなんでいいのか」と相談に行った。その後、自民党文教委員会の前で予算要求、説明会するわけですよ。山東昭子議員も来ていて、「あなたは大阪出身でしょ、私も大阪ですねん」とやったんですけどね。ともかく、そういう風に図書館予算を増額してくれと主張した。一方、文部省の当時の社会教育局長は、今度の日図協の事務局長は国の行政を知らん男だ、そうしたやつが大阪から来たらしいとのことだ。だいたい、これまでの日図協の事務局長は、初代が有山さん、二代目は叶沢さんでしょ、文部省の出身の人たちだ。今度の者はホント言って何もわからんらしい、だから相手にせんとこう、と。
それで私がいよいよ不満に思い国会図書館の高橋さんとこに行って、図議連に相談したいと申し出た。高橋さんが「図議連の理事長の亀岡高夫氏に会ってみたらどうか」と連れて行ってくれた。そこで亀岡氏が私の話を聞いた後に、約三〇年前に図書館法の原文を起草した人、井内慶次郎さんに「図書館協会の新しい事務局長が来てこういう予算配分はけしからんと言ってる。自分もそう思う、何とかできんのか」と言ってくれたそうだ。それで、井内さんのはからいで翌年の予算が五億円から十何億円になった。というのは、予算決定の後に局長が保留している予算、一応の配分をしたあとでいくつかあとで使う。それを全部図書館に使うということにしてくれたわけ。条件は、図書館法で決められている館長が司書資格を持ってるとか、その他の条件を満たした図書館が新設される時には必ず補助金を支出するということをしてくれた。それで一遍に図書館予算が増えたわけだ。それ以後、例年新設館の増加に応じて補助金予算も増えたと思う。亀岡議員は福島県出身で農林大臣をやったね。早くに亡くなられて残念だった。
図書館界の合従連衡を目指したのだが……
栗原● そういう意味では、図書館事業振興法の一番の背景は、図議連ができていたことです。その頃に各館種の全国組織が出揃うんですよ。国立大学図書館協議会は前からあります。公立大学にもあった、私立大学にもあった。しかし、その三つが組織的に協力をしていることは少なかった。あの年に国公私立大学図書館協力委員会というのが出来る。『大学図書館協力ニュース』も出るわけ。公立短大と私立短大の全国組織がそれぞれ初めて出来る。公共図書館も、日図協のそれまでの図書館運動に加えて、都立の館長の奥野定通さんが全公図(全国公共図書館協議会)の方にやや重点をおいてゆこう、とこうなってきた。
だからあの時は一一団体ね。大学が国公私で、それから公共が、日図協と全公図でしょ、それから専門図書館と学校図書館、国立国会図書館、そして専門図書館組織に類する医学、薬学、音楽等の図書館協会など。そういうものの全国組織が相次いで出てきたわけで、組織としての全国組織が整ってるわけね。しかし、それぞれの相互の連携というのはあまり強くないわけだ。同じ大学でも国、公はある程度同じ組織でやることもあるんだけれど、私大は特別な国際交流等の場合以外はバラバラの状況がある。短大もまたしかり、一番後からでてくるのは私立短大ですから。だから国会図書館からみたら、これだけ整ってきたんだから、図書館の運動がバラバラでなくて何とか一緒になれんかな、結びつく場をつくれないかなという考えがあった。それが図議連の成立の背景にもあるし、議員立法の運動のもとにもあるんです。
それぞれの図書館の繋がっている上の役所は全部違うんだ。その縦割りの役所の違いを越えて、図書館の立場で横に連ねる、連携の幅を広げられないかとの考えが強く出てきた。だからあの時出した案にいろいろあるでしょ。内閣の中に図書館政策委員会をつくるとか館種を越えた図書館振興財団とか。それらは全部文部省とか、その所管の課など、役所の枠組みを外してるんですよ。図書議員連盟もそう思った。それだけに、合従連衡の時代ですか。行政の管理と支配とは別に図書館は、横で繋がろうと。これ合従でしょ。連衡というのは一つ一つが親玉みたいなものに結びついて、なんとか自分の地位を保とうというわけでしょ。
しかし、典型が国立大学。結局は国立大学図書館協議会が、要するに我々は文部省指導から離れられないという意識にもどってしまった。あの時、大学図書館は学術情報システム[注36]がまさに出発する時期だった。文部省は学情で大学図書館を束ねようと思ったのでしょう。毎年やっていた国立国会図書館長と大学図書館長との懇談会は形式的には続いていましたが。それと当時文部省は大学図書館に洋雑誌のセンターを特定大学につくったでしょう。理工系は東京工業大学。医学は大阪大学、九州大学、東北大学。農学は東京大学、鹿児島大学。社会科学系は一橋大学など。
東條● つくりました。はいはい。
栗原● 要するに、文部省と国会図書館のどちらが日本における図書館全体の組織的な運営の牽引車となるか。文部省は大学だけ見ているわけ、それも四年制大学だけ。短大なんかは全然見ていない。残ったのはどこがということになると、文部省の社会教育課も公共図書館の振興を積極的に見るわけじゃない。そんな情勢の中で国会図書館が図議連を通じてなんとか見よう、俺たちに責任があるんじゃないかというような姿勢をとっていた。文部省と国会図書館の双方の考えがぶつかり合い、結局、私たちが出した意見に対して国立大学図書館協議会がノーを出してきた。国大図協の副会長の京大の林良平館長から私のところへ、問題点の指摘とともに協力できないと手紙が送られてきた。私はそれに返事を出した記憶がある。それでもポシャったんですけどね。
今言ったように国会図書館と文部省との関係はあったけれど、毎月の論議の過程でいちばん一所懸命にやったのは学校図書館。SLA(全国学校図書館協議会)の佐野友彦事務局長[注37]だった。彼らは学校図書館法改正にかかわる案をたくさんつくって私に持ってきて、また全体案作成にも一番熱心だった。私は広報責任者だから事務局の仕事をやることに努めた。こんな時こそ全館種を世話しているのは日図協だけですよ。他の団体は全国団体あるけれど、みんな自分たちだけしか関心がないわけ。だから日図協が全ての館種の動きに目配りしてまとめていかなければ、と思って、常務理事会と『図書館雑誌』でことごとく報告することにしました。隠してはいけないと思うから。しかし、突如として国立大学図書館協議会が参加しなくなった。日本の図書館運動の残念なところだと思う。
東條● 結局文部官僚ですか。
全国に図書館を!
東條● それでね、図基法ですが、あれは国立国会図書館が主導してやろうとした。その時に集まるのが全部、全国組織の会長や事務局長ですよね、喧嘩しとるやつばっかり(笑)。それをまとめようとしたのが国会図書館なのか、日図協の栗原さんなのか。栗原さんの立場はどのへんで……。
栗原● 私はそういう人達のいろんな思いがまとまるようにする。だから私がリーダーシップをとったわけじゃないんだ。意見が違ったら、ここはどうするんですかって皆にはかって、こういう考えにしましょうや、とまとめていく立場でした、私は。
東條● リーダーシップとったんは、あくまでも国立国会図書館の高橋さんとか。
栗原● うんうん、やっぱり誰がまとめるんかなと思ったら、高橋さんが一番。図議連の事務局長がついていますから。
東條● 「日図協百年史」の中にもこれは書いてないんで、そのあたりをもうちょっと語っていただけたら……。
栗原● 公共では都立中央の館長だった奥野さんが一番喋った。ちょうど全公図で公共図書館の全国計画の試案[注38]をつくっておったから。
東條● 「日図協百年史」の記述では例えば、「一九七七年一一月、国土庁『第三次全国総合開発計画(三全総)』が閣議決定をみ、いわゆる『定住圏構想』……」(本篇二七三頁.)云々とあって、「文部省も一九七九年に定住構想にかかわる調査研究を日本図書館協会に委託、八〇年『公共図書館サービスのネットワークの整備に関する調査研究報告書』を発表した。また民間の調査機関も国の調査委託を受けて」とあり、「一方国民の図書館への強い関心に影響されて」と。「こういう国民の図書館利用の進展は衆・参両院の国会議員をも動かすことになったのであろう。すでに七八年五月に二五〇名以上の議員が加盟し、超党派で『図書議員連盟』がでてくる」と。で、有馬元治さんがぶちあげたという鹿児島のお話になるんですが。これを工作したんは、国会図書館ですか。
栗原● うん、そういう情報を集めて、図書議員連盟っていうのをつくらないかんだろう、としたのはそうですよ。図議連理事長の亀岡高夫氏が予算をばっと増やしてくれたって言ったでしょ。彼の言葉として当時納得させられたのは、「学校卒業したら福島から青年がみんな東京に行ってしまった。なぜかというと、地方の田舎には彼らの足をとめる楽しみの施設がない。文化的な雰囲気がないということが、過疎化をますます進める。東京一極集中にすることになる。だからそれぞれの地域に文化的な施設、音楽も聴け、本も読め、芝居も見られる。そういうような雰囲気はなんかできないか。そのもとになるのが公共図書館だ。図書議員連盟で各地方に図書館的な要素を、文化的な施設をつくることを考えていく」というもの。そういうことを彼は言ったですよ。三全総には、図書館は各市町村に最低ひとつずつつくれとは言ってない。川の流れに従うように、図書館の機能、本を見られる機能が出来るようにネットワークをつくろうと。小さなところには、公民館的な施設にでも本を置いとけばいい。しかしそこに住民が来れば近くの市立図書館から本が流れるように、そういう組織をつくるべきではないかと。要するに、川の流れに従って図書館ブロックをつくって、それで市町村民の文化に対する欲求が行き渡るようにしよう。こういうことだったね。
もうひとつは奥野さん。あの人は美濃部さんに呼ばれて行政管理庁から来た。統計局にいたから統計には一番詳しい。それであえて出身母体である内閣の世論調査をするところに、図書館に対する世論調査をと働きかけた[注39]。
氏家● そうですね。昭和五四年。
栗原● そしたら図書館はまだあまり利用されていない。これはなんとかしなくては、と。
東條● 二割に達していない。
栗原● だから奥野さんは猛烈元気が出てきたわけだ。三全総の方は、今でいうネットワークで図書館空白地帯をだんだん少なくしていけという考えだ。そういう雰囲気が他の図書館の人々の動きになっていった。図書館ということで言えば国会図書館からみても日図協から見ても各館種が一緒じゃなかったらおかしいわけだ。それで大学図書館も入った。しかし大学はどうしても積極的でないことだけは確かで、まあせっかく図議連の事務局長が主張しとるんだからみんなで考えよう、という形でした。一番熱心だったのが学校図書館。これを期に、学校図書館法の改正を実現したい。今までも何遍も国会の文教委員会までいったけど、最後には必ず廃案になってるんだ。それでこの機会を使おうと佐野友彦氏が、本当に死にものぐるいだった。だから一番熱心なのがSLAの佐野氏、それから全公図の奥野さん、それから国会図書館。日本図書館協会はそれを、各館種の意見を全部まとめる立場。私はまとめることに専念した。
堀● 栗原さんは『図書館雑誌』に検討委員会報告を盛んに連載されてて。それこそ栗原さんが日図協関係の雑誌で、たくさん文章を書かれてるのはあの時だけだと思うんだけど。協会の中での議論っていうのは、どういう感じだったんですか。「いやあまり議論してないじゃないか」みたいなことが、二年くらいあとで出てきますよね。それは結果的なところでそうなっちゃってるわけですけど。報告されてた、あの時期の実際は。
栗原● 日図協の常務理事会には当然みんな出ていましたよ。常務理事の清水正三さんやらは後で反対するんだけども、みんな出ておられる。それで私が毎月報告をするわけだ。こういうことが前回何月の検討委員会でありました、と。たしかに「そんなうまいこといくかなあ」、「そういうことが出来るかなあ」という雰囲気はあった。しかし日図協ってのはそもそもが各館種が集まるところでしょ。だからノーと言えないわけ。当時の大学の部会長校が横浜国立大学で雨森弘行氏は横浜国大図書館の専門職の課長だったかな。部会長代理として雨森氏が出てきていた。私がそこで説明すると、彼はまじめな人だから、聞いてて、大学も何かせんといかんと思ったんでしょうね。大学図書館研究集会というのを考えられ、翌五五年から始められたんだ。横浜で第一回。あれは雨森氏の努力ですよ。
東條● 今、二年に一回やってるやつですよ。前は毎年やってましたね。
栗原● 栗原がああ言うとるから、大学もそれに呼応して、大学自体の問題を考えようと研究集会をやった。専門図書館もあまり熱心じゃなかったけど、しかし北海道の専門図書館関係団体が道内の情報ニーズの研究を始めた。短大は森清[注40]さんが代表者だった。あの人は真剣に取り組んでくれた。私立大学は立命館大学の杉田嘉一郎先生。あの人は一番紳士やったね。一番元気がなかったんは、公立大学だ。公立というのは難しいことは難しい。数が少ないから。
いずれにしても熱心な人は応えてくれた。だから今の質問に答えるには、さまざまな館種のご都合によって受け止め方が違った。その機会を利用して何かをしようという人のいたところでは、論議が進むということはあったし、日図協の理事会の中では、全体を報告しても反対論はなかったと思う。「それおかしいからやめとけ!」とか、「栗原は検討委員会へ行って何しとんだお前は!」というようなことは何一つなかったですよ。「そんなこと言うたって出来るかい」というような冷ややかな人は、いないではなかった。
浪江虔さんもおり、森耕一さんもおり、それから清水さんもみな常務理事会にいらして、そこで私は報告していました。どれだけそれを受け止めてくれたかなっていうのは、私自身は不安はあった。それでも最後の図議連事務局長への報告をまとめる段階になった。その時点で今度は国立大学の方から反対が出たんだ。さっき言った京大図書館長の林良平先生から手紙をもらってね。それには返事を出したのですが……。
国立大学・文部省が「こんなことやったらあかん」と
栗原● 国立大学は、こんなことやったらあかん、我々には何の利益もないと言って反対意見を出してきた。東大図書館長の裏田武夫[注41]先生はじめ国立大学図書館協議会として、我々の大学図書館改善の方法としては異なるところがある、我々はこれと一緒にやるわけにはいかないというのを出したんだ。あの当時は図書館というものをどう取り扱うかということで、全体的に、図書議員連盟つまり国会議員さんと、行政の双方が我田引水というか、自分のところに取り込もうという軋轢・確執が裏にあったに違いない、というのを私はこのごろ思うなあ。一昨年に私が辞める頃に、かつて文部省の課長をしていた人が、「あなたたちは今まで図書館のことをよくしてもらおうと、わざわざ文部省に要請に来ていた。しかし文部省には公共図書館について考えられる特別の力はあんまりないんですよ。これからは国会議員に言って、国会議員の世界で図書館というものを取りあげてもらったらよろしい。そこで決まれば我々は行政としてやらざるをえんのだから」と。こういう論理をもってきてね、へえ、役人ってのは好きなことを言うもんじゃのうと思ったけどね。約二五年前のあの時に出ていたように思います。文部省と議員連盟との綱引きが。
私は文部省と時には議論しながらも仲良かったから、徹底的にお願いもした。『図書館年鑑』を創刊した時も、まず文部省の社会教育課や大学図書館の担当課にも持っていったんだから。それで、「日図協は大学図書館のことをこれだけ把握しとりますよ、足らんかったら教えてください」って。それまで日図協の資料には『日本の図書館』以外には大学図書館の全国的状況なんかはあまり出ていないんですよ。公共はある程度出てたけど。だから『図書館年鑑』ではもう全部載せるようにした。あの頃が館種を越えて図書館の課題を全国的な規模で考えようとする第一歩だったんだな。
で、その背景には、アメリカのライブラリーサービスアンドコンストラクションアクトが昭和四一年に改訂されて図書館がどんどん建てられて、日本も負けちゃおられないぞというのがあったわけでしょう。ちょうどその頃、ホワイトハウス・ライブラリーカンファレンスというのがあった。図書館・情報問題に関して、ホワイトハウスが主導してさまざまな関係者が集まって討議する。そういう雰囲気があって、やっぱり日本でもなんとかせんとあかんだろうと。特に図書館振興財団の提案が出たのは、アメリカの事情を酒井さんなんかよく承知なさっていたからね、日本にもこれが必要だって思ったんだな。それから何年かして、日本の工業生産がどんどん発展していく、それに反してアメリカは予算が減ったりなんかして、それでアメリカの図書館を愛する人達が『だれのための図書館』(H・N・シーモアJR、E・N・レイン共著、京藤松子訳、日本図書館協会、一九八二年)を書くわけですよ。その頃はアメリカのALAの機関誌には、日本は高度成長時代で図書館に対する支援がどんどん出てくる。図書館が発展するとそれが国の教育や文化・情報力の次の成長を支える、図書館が高度成長と結びついていると。アメリカではいまそれが行き詰まっていると。向こうの図書館界ではそれが議論の的になったんだよ。アメリカも日本に負けないように、図書館ではこんなことが出来るんだということを書いた本を出した。それを京藤松子さんが五七年に訳してくれた。
堀● あの本は誤植でけちがついたのかその後あまり引用されないけど、とても印象に残るいい本だと思っていました。日本では「ビジネス支援」なんて、急にこの頃言い出してるけど。それで図書館事業基本法の、図書館政策委員会だとか図書館の振興財団をつくろうとか、細部のプランって誰がつくられたんですか。
栗原● まあ公共図書館では都立図書館の奥野さんと、国立国会図書館の高橋総務部長に協力する立場の金村繁図書館協力課長ですね。それと学校図書館協議会の佐野事務局長。
「闇夜に注意しろよ」と言われたことも
東條● で、反対の方は図問研とか?
栗原● それは済んでからです。発表したあとでは「図書館事業基本法に反対する会」というのが……。
堀● 僕の家が当時「反対する会」の連絡先だったんですが、僕自身がそれを知ったのは感度が悪いかもしれないけど、それこそ昭和五六年の浦和の図書館大会ですから。大勢が動いてから反対が出たというその通りだとも思うんですけど。
栗原● 「夜はいつでも月が出てるとはかぎらんぞ」と言われたこともあった。東村山市の図書館に呼ばれて話をした説明会場を出た階段で。誰やったかな。
堀● 僕たちの仲間でした。すでに図書館も役所も辞めてしまっていますが……。
栗原● 「闇夜に注意しろよ」。帰ろうとしていた時言われてね、たいへんなことと思った。
堀● 図書館界の大勢は反対もなかったかもしれないけれど、やろうやろうという感じでもなかった。
栗原● うん。出来たらええな、くらいの雰囲気はあった。しかしそんなうまいこと出来るかな、こんな感じだった。自分が苦労してでも実現しようという人は協会にはいなかったようだ。それと同時に、ずーっと戦前の公共図書館の反省から、お上が図書館のことをやったらろくなことない、言論の自由を阻害するし、必ず裏切られる、という雰囲気はないことはなかった。しかし、それをあからさまに言う人はいなかった。後でですけれども「これができたらいいですね」って言ったのは、京都の埜上衛さん、九州の永末十四雄[注42]さん。永末さんは、福岡県の田川ですから、教育長までやってたわけですから。やっぱり物事進めるには国の力がなかったらいかん。そういうのを図書館員もつくらんとだめだぞ、国の力が入っても必ずしも悪い方にねじ曲げられる必要はないとおっしゃったですね。それから反対に、国、行政っていうのは図書館を常に裏切ると、だから注意せないかん、っておっしゃったのは元独協大学の関野眞吉[注43]さん。
東條● 目録の大家かな。
栗原● うん、あの方はわざわざ私のところへ来て、あの人のことだから小さい声で、「栗原さん今いろいろあるけれども、役所というのは信頼したらだめですよ」と一言だけおっしゃった。あの人は戦前からの図書館人だから忠告をいただいたということで。私はそういうものを受けながら、自分はどういう風に結論づけるかと自身思っていたけどね。しかし、一つのステップの時ではあったんですよ。今言ったようにいろんな条件ができかけて。
東條● そうですね。
文部省に図書館課をつくってやろう
栗原● ただそれを実現するにはみんなまだ弱かった。酒井悌さんの叙勲の祝賀会をやった時に、あの人はいろんなお友達をもっておられたから銀行の会長もお祝いに来てた。「銀行が私に何億円か出してくれたら、図書館財団をつくってこういうことが出来るんだがな」とおっしゃった。国会図書館でも自分とこの予算をとるのに精一杯。またそれぞれの館はそれぞれの資金をとるのが精一杯で、図書館全体の振興策をまとめて、文部省なり国の支援機関に持っていく力はない、持っていってもだれも相手にしない。結局それが出来るのは議員立法しかない。国会議員の力を借りなければならない。それが出来るかどうか。学校図書館法は議員立法で出来た。
中曽根内閣の時に行政改革が進んでいって一省一課廃止ということがあった昭和五九年だったと思う。一番最初に文部省がやったのは視聴覚教育課の廃止。役所の人は賢いから、その時に名前を変えて学習情報課をつくったわけです。時の社会教育課の次長が私に、「栗原さん、こういうふうに変わるから、図書館は学習情報課の方に入れたい思うんだけれど」って言う。今まで社会教育課が社会教育局の筆頭課で、次は青少年教育課、その次が婦人教育課、それから視聴覚教育課があった。学習情報課というのは位置づけがどこにいくかわからない。しかし私は「『鶏口となるも牛後となるなかれ』という言葉もありますから、社会教育課の下の方でいるよりは学習情報課の筆頭係になる、その方を私は選びます」と言った覚えがある。それで学習情報課の中では図書館の担当は初めは施設係だったのが、その後、図書館振興係と名前を変えた。そういう係が出来た。私は文部省の中に出版情報と公共図書館の振興を一緒に考える図書館課というのをつくりたいと思っていた。図書館振興係が後に発展して、日本全国の図書館充実の基盤づくりを所管する。今の学習情報課が図書館振興課になるよう願っていた。これまで大学図書館所管は学術国際局の情報図書館課だったでしょ。それがこの時「学術情報課」と名前が変わった。私は「これで図書館という文字が文部省の課から消えた」と『図書館年鑑』(一九八五年)の「概況」に書きましたよ。だから、今度は逆に公共の場で図書館課という名前をつくったろう、という具合に私は思ってね。
全館種にわたる図書館振興策を目指した
堀● ただ、図書館事業法要綱案が批判をあびて、一一団体ではなくて日図協では、その後「公立図書館の任務と目標」づくりを始めますよね。改めて他の館種にわたるということじゃなくて、公共図書館に限った振興策ってことで。
栗原● いや、個別か全体かは別にして全館種やるつもりやったんですよ。一番初め、日図協の振興策づくりは裏田武夫さんの図書館政策特別委員会がやってきた。あれは私が協会に行った翌年の五四年ですよ。それまでも『図書館雑誌』の編集委員などやってもらっていたから東大教授の裏田武夫さんに図書館政策委員長をまかせよう。政策委員会で常務理事会に方針を出してきてくれと。その後、振興法がらみの問題が出て裏田さんは五五年に辞任。後を奥野さんが引き受けた。奥野さんは図書館振興法検討委員会に入って、五六年の第一次報告をまとめた。その間、国大図協が抜けるとかなんとかが出て振興法は立ち消えになってしまった。だから日図協としての政策委員会はほとんど開店休業で、その間鈴木四郎さんにお願いしていた。
堀● 浦和市立の館長ですね。
栗原● 彼はイギリスも見ているから。しかしその後、鈴木さんはある人からの強い意見によって、考えた末に引いたんですよ。それでどうするかなあと考えて、森耕一さんに頼んだ。そしたら森さんが「わかった、全館種やるよ」と。一番初めは公共がやりやすいから公共をやる、とおっしゃる。その途中で森さんが「栗原、大学を次にやろうと思ったけど、やっぱり大学は難しいわ」と。あの人も京大の先生やったからね。「大学はまとまらんなあ、やっぱり公共だけをもっと深くやらんといかんなあ」と山口の図書館大会の時に私に言ってきたですよ。「これを『任務と目標』という形でまとめていいか」ということで、「ああいいですよ、結構です、お願いします。大学はまた時期が来れば出来るんじゃないでしょうか」と。その頃ちょうど大学は学術情報システムに向けて文部省はそれに集中して取り組んでいったんだね。学情システムで図基法とは違った振興策。
東條● なるほど。
栗原● 「全国の大学の図書館は図書館長と一般の事務職員がおればいい、あとは全部コンピュータで出来るんだから」というような論まで文部省から出たりした。だからもうあの頃は大学図書館の人はピリピリしていた。文部省によって統一されると。だから振興法論議の時には、大学の専門職の人と何遍か協会でも説明会やったと思うな。これが出来たら今働いている大学の司書はどういう待遇になるんか、首になるのではと心配もあってね。法が出来たって働いている人達が職を失うことはありっこない、というようなことを私は答えたように覚えてる。
堀● それこそ裏田武夫さんなんかも図基法反対って言ったでしょ。
栗原● 私ははもう完全にあの時ね、かつて志智嘉九郎が言ったように、「会シテ議シ、議シテ決シ、決シテ行ワズ」というのが図書館員の通弊だと。戦後の図書館法策定議論のところで出ていたのを思い出しました。
堀● 私は公共図書館しか知りませんし、大学は嫌い、公共図書館の現場は面白いなというところが当時ありましたから。館種の違いを越えていっぺんにまとめるという視点が見えなかった。全体をくくる議論ってのはどういうものかって疑問があったんですけど。それで、図基法のあとの収拾の中で、日図協としてはまず公共図書館振興の議論になったのは納得がいった。森さんとか塩見さんとか伊藤昭治さんとか、森さんの政策委員会は、系譜としては、たぶん、典型的な大阪の公共図書館型の人が役員をやられてたですからね。今のお話だと、森さんご自身も政策委員会としては他の館種も含めて全体にまた詰めていく気があったんだ、って言われたんで驚いたんですけどね。
栗原● 要するに関西は、森さんもそうだし塩見さんもそうだと思うけど、各館種の差をあまり感じないのよ。近畿だけでしょ、塩見さんが最初『図書館年鑑』のブロックの責任者やってた時から、大学も短大も公共も学校も全部一緒、総合的に概況報告が出てくるのは。塩見さんは全部その線で見ていく。お前の館種はなんで情報をくれんのやと。しかし他の地域はそれが出来ないのね。もう公共だけ、しかも県単位で。それぞれの県しか視野に入ってないわけ。それであとになって、これはもう典型だと思うけど、「日図協百年史」をやる時に、全館種が日図協を支えているのだからそういうふうにつくらないかん、と思って、本篇には全館種をやったんですよ。地方篇は、それぞれ地方ごとに大学も公共も全部出してくれとやったんだけど、出てきたのはほとんどない。だからそういう点がね、東京と関西の違い。どっちがいいとは私は言いませんけどね。
氏家● 僕なんか事務局にいた場合に、担当部署がまだ目録の仕事ですからほとんど外に向いてませんけど、印象としては、言ってみれば左翼というか新左翼も含めて、その部分での反対しか見えてこなかったですけどね。現実的にはそれでつぶれたかどうかはわからないけども。事務局にいると、「公共で反対」。そして前川さんは怒ってるとか、森さんだって怒ってるとかなんとかね、聞こえてくる。僕なんかはどうしてかなあというのがあったんだけどね。結局なんでつぶれたのかわからなかった。いずれにしても当時の図書館界はあの動きを救うことができなかったことは確かだ。で、今になって、住んでいる地元の「図書館友の会」に入ってから僕も少し図書館を見直すようになった。『二〇〇五年の図書館像——地域電子図書館の実現に向けて(報告)』(文部省地域電子図書館構想検討協力者会議、二〇○○年)とかが出てきて、やっぱり国の施策が本当は必要だ、って今頃になって言ってますよね。「今頃」って言うと非常に語弊があって、いや中にいたら大変だったってことが一杯あるにしてもね。あの時できていれば、みたいなね。ありえない話だけど。
東條● 「今頃になって」って誰が言うてるの?
氏家● いや、出来ていればなあ、と僕が思ってるんです。いま図書館のことを真剣に考えている人たち、たとえば浦安の常世田良館長は国としての図書館施策がないからだめなんだとか言って、ロビー活動にふれてますよね。
東條● つぶしたけどね。
氏家● “図書館界”はつぶしたじゃない、とか僕は思うんだけどね。
栗原● 自分たちがつくるものはいいんだけども他人がつくるものは反対だと。反対だと言ってるだけならまだいいんだけど、それが「悪の道に進む」、とこうなってくるからね、非常に怖いわけで。
東條● ただね、まあ二〇年も前の話になるけどね。僕らが反対してつぶれるなんて思ってないわけですよ。とりあえず反対しとこ、みたいな感じで……(笑)。学情にしてもなんぼ反対反対いうてもやられちゃって。図問研とよく似た組織の大図研(大学図書館問題研究会)というのがあって、あれも最初反対してたんだけど、わけわからんようにからめ取られちゃった。
11 国際図書館連盟東京大会
東條● 国際図書館連盟(IFLA)東京大会の話に入りたいんですが。お金集めとかかなり大変でしたか。
栗原● 全部私の責任でね。IFLA総務委員長だったから。
堀● IFLAをぜひやろうとか、やらざるをえない経過ってのがよくわからないんです。「日図協百年史」を読んでも、やることになって財源も基盤もなく非常に苦労してやって、それなりの成果をおさめ、その後視野が広がった……みたいな書き方なんだけど。やるにいたる流れというか、やらざるをえない理由というか、そこがよくわからない。
栗原● うん、あの頃から日本が経済的にはそれなりの形がとれてきた。昭和四八年のオイルショック後の混乱を克服したのは日本がアメリカよりどこより早かった。それなりの余力が昭和五〇年代はあった。五一年に、IFLAが日本で理事会を開きたいというのがあった。それを日本では開けなかった。協議会なら出来るのでは、という考えもあったが、日図協では力がないこともあって、それにも反対があった。それを韓国が引き受け、その協議会をやることになった、と聞いています。向こうは軍事政権時代で、その政権の韓国に日本の図書館界は批判的だった。しかし、あの時日本からは一〇人か二〇人か行ったそうだ。日本でやってくれと言ったのに、日本が断って韓国にやってもらったのだ。そういうことがあったからIFLAの日本開催はちょっとあきらめたんだよ。そんな時にフィリピンの大統領、マルコスが引き受けた。一九八〇年、昭和五五年のこと。それまでアジアでどこもやってないから、どっかがやらんといかん状況だった。ここで初めて、フィリピンがやるのになぜ日本ができんのか(笑)ということになったわけね。
それゆえ今度は引き受けざるをえんでしょうなと。しかしそれも来年というわけにはいかん。そういうことに一番積極的というか、難しいことを難しく思わないのが理事長の浜田敏郎さんのいいとこでね。浜田さんが、向こうへ行って日本でやってもいいって言おう、とおっしゃる。私を含めてフィリピンへは大勢行った。国会図書館からは館長、副館長はじめ、一五名くらい行ったでしょう。偉いなあって思ったのが浪江虔さん。あの人は必ずしも国際派じゃないわけだけど、私も行って見てくると言ってくださった。森耕一さんも行ってくれた。フィリピンは近いから全部で五〇人くらい行っただろうな。その時に、日本でやりますって言うのは日図協の役割だ。国会図書館長が行っても、国会図書館ではそれが言えない。それで日図協の理事長の浜田さんが、招致の演説を最終日にした。大変だなあと思ったのは、開会式の時には、大きな会場の正面壇上にずーっと並んでるイスを全部上げて爆弾がしかけられていないか多くの警官が点検したりして。しかし結局日本が、アジアでは二番目に引き受けようということになったわけです。
氏家● 僕がその当時、国際交流委員長の今まど子さんから聞いたのでは、IFLAに言わせると、どうしてジャパンでやんないんだってことは、相当あったとのことでした。日本の経済力から考えるとね(笑)。
東條● それはありますね。
栗原● 図書館協会はIFLAに戦後、昭和二七年に再加入したんだ。私は大阪府立の館長中村祐吉さんが、昭和三三年にマドリードでやった時に参加したのを知っている。でも、その前後は違う人が行ってるんですね。たまたまヨーロッパに行く人に日本の協会の代表として行ってくれと、お金も出してなかったと思う。人のフンドシで協会は全部やっていたのです。日図協は二〇〇万円以上のIFLAの会費が全額払えないので、叶沢さんの時に国会図書館と話し合って半分負担してくれるようお願いした。それで半分を国の予算で国会図書館が、半分を協会が出すということになっていた。その頃にはいやでも引き受けざるをえない時期にきていたということですよね。ありがたいことに図書館事業基本法の動きの中で、立法化は途絶えたけども、全体的に図書館界がまとまろうとする雰囲気があったから。IFLA日本委員会をつくり、委員長に永井道雄[注44]さん。副委員長が国会の副館長酒井悌さんと全公図会長の前田陽一さんね。そして一年後に、実行委員会をつくって。
大変だった資金集め
東條● お金集め大変やなかったですか。
栗原● うん、それはね、日図協で私は毎年一千万円積み立てていた。それが三年で三千万円。それを「IFLA大会準備積立金」にしといたわけで、実を言うと資金集めの一番は文部省の理解と支援、そして次に大蔵省との免税許可の戦いね。寄付を免税にしてもらわないといかん。だから大蔵省の主税局に何日くらい行ったかなあ。まず行くとね、「栗原さん、これは単に図書館員組合の集まりでしょ。そんな会に世界から集まるいうだけで免税にするわけにいきませんよ」、「日本で社会教育関係の国際大会で免税にしたのは、神戸でやったユニバーシアードの時にだけですよ」と。免税をするには閣議決定しなけりゃいけない、閣議決定の前に次官会議での承認が必要。次官会議で承認するためには、文部省としてはどうしても免税にしなければいけない、ということを認める理由がいる。そこでまず文部省を説得することにしました。文部省には予算をつけてほしいと言ったが、これはつけない。予算がないのなら免税の許可を大蔵省にとってほしいとお願いした。私がその担当の係長のところに行って、大蔵省に一緒に行ってほしい、文部省として図書館の世界大会をやる必要性を是非喋ってほしい、と頼んだ。大蔵省は話は聞いてくれたんだけれども、一向にいいとも悪いとも言わんのだよ。何日間通ったかな、しまいには朝八時半から行く。私は毎日通ってじーっと待っとったんだ。しまいに係長が、「あなたは毎日来てますけど、どういうご用件ですか」「私は図書館の世界大会をやるので、寄付金の免税の許可をお願いしているのです」と言うと、「まだ課長も来てませんしなあ」って言うんだ。で、最後に「毎日来ていることはわかったから、後で返事します」。それで思い出したんだが、当時の大蔵省事務次官が神戸一中で同級生だった。それで私は大蔵省の次官室に入り、普通なら役所での面会はアポイントを取ってからでないと怒られるんだけど、この場合はしかたがない。4階まで上がって次官室に行って。大臣室の隣だよ。実は俺は図書館の人間でね、こういう世界大会があるんで前から申請を出して寄付金の免税許可をもらいたいと。願い出ているが、何遍ここへ来てもまだ返事が出んのだ。次官の権限で早い許可を願いたい、と。今やったらえらいこったろうけど。一週間たった頃、大蔵省主税局のほうからの承認が寄せられた。
寄付金は七千万円集めることにした。それで経団連に行って、あの時は……花村仁八郎事務総長に会って、図書館世界大会をやるので、財界・産業界からの寄付をしていただきたいとお願いした。「わかりました」と。一週間たったら総務部長から、あなたのところへの企業・団体からの寄付金の一覧です、といただいた。百貨店協会とか何々物産とか、割当ての名簿。こんどはそこへ説明してお金をもらいに行かんといかん。これがまた大変だよ。ちょうど高橋徳太郎さんが国会の副館長になっていた。で、「高橋さん、私と一緒に行ってください」と。高橋さんは「俺も忙しいんだけどな」って言うんだけど、全体の何割かはお供することはできた。少なくとも私の回ったところは五〇社はあったかな。三井物産が七万円、三菱商事も七万円、伊藤忠が五万円、百貨店協会がいくら、松下電器がいくらとか。ある電機会社に行ったら、不況でね、あんたのとこに出す金はないって言われてね。大阪にも行ったよ、日本紡績協会。花村さんのリストではちゃんと一〇万円って書いてあるんだよ。でも全然相手にもしてくれない。ともかくそれでもなんとかお願いしていった。それを元に今度は出版界にお願いした。服部敏幸さんを委員長に、大日本印刷の北村義俊社長と紀伊國屋書店の松原治社長の三人に募金委員会の委員をしていただいた。服部さんが、ありがたいことに、用紙組合まで入れて出版界全体で二千万出しましょうと言ってくださった。で、あと五千万円だよ。それで今話したような形であっちこっち行って集めていった。寄付金募集というのも難しいんだよ。ようやく七千万円になった頃に、また別のところから二百万円くらい寄せられてきた。あちこちお願いしていたから。寄付した会社や人は免税になるから寄付するわけだ。しかし限度額をオーバーした場合の寄付金は、今度は税金取られるわけ。だから、「お志はたいへんありがたいことですけれど、お金は一応限度目標額に達しましたのでお返しします」と言ってお返しした。それともうひとつ大きな予算は、開会式のあとの歓迎・晩餐会。皇太子ご夫妻も参加くださる。なんとか恥ずかしくないものにしないといかん。それには最低一千五百万円くらいはかかる。それでホテルニューオータニの一番広い部屋をとり、しかしこれはね、鈴木都知事に地元の開催地の首長だからということで、都知事招宴という名目にして都から支出してもらった。
東條● 東京都は一千五百万円くらい出してる。
栗原● ちょっと足らなかったよ。実際は一千八百万円か二千万円だったか、オーバーした請求が来た。しかしその超過額は実行委員会から出した。あれだけのごちそうがあって、その上に皇太子・皇太子妃のご臨席の上で、知事のご挨拶があり、盛会だった。都からの出資金は有効だった。あとは国会図書館が一千八四〇万円。これはね、会議の時に渡す資料。ペーパー、発表文、それも英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、公用語が五つだからね。みな五通りつくらなければならない、だから大変だった。それに加えて毎日のニュースレターも出さねばならず、そのコピー代も国会図書館が引き受けてくれ有り難かった。
皇太子夫妻招聘はあとあとまで抗議を受けた
東條● 皇太子にはどうやって頼みに行ったんですか。
栗原● 私は二度、皇宮御所に行ったんだよ。浜田さんとご一緒だったかな。
東條● すぐに引き受けてくれたんですか。
栗原● 初めは大会名誉総裁のご就任をお願いした。しかし図書館のことはたいへん関心はあるけれど、特別の会を除き通常は名誉総裁にはなりません、来賓として行きましょう、と。そういう侍従からのご返事だった。その後もIFLAの趣旨・内容や今大会の規模と企画内容等についてもお話しした。このほかに大会組織委員長の永井道雄日図協会長からもご説明申し上げたと聞いています。皇太子とご面識があって、文部大臣にもなられた永井さんがフォローしてくださった。
東條● 皇太子を呼ぼうと言うたんは誰ですか。
栗原● 一番そういうことを積極的に言い出だしたのは、浜田さんではなかったかと思う。しかし実行委員会でも可能ならお願いしたいという話だった。
この皇太子・皇太子妃両殿下の開会式ご臨席には、その当日も、その後も種々抗議などがあったね。抗議団は開会式当日朝、主会場の青山学院に来て「栗原に会わせろ」と、その時は小川次長が「栗原は国立劇場に行っている」と応えた。「栗原に会いたい」って言ったら、そう話したらしいんだ。しかしこの場合、私は小川次長のミスジャッジと考えた。自分のところで止めとかなければならなかったのを、国立劇場まで行けと言ったのは間違い。国立劇場まで回ったが会えなかったと、あとで協会に抗議に来て「小川次長を出せ」と言うが、「出す必要ない、俺が全部相手にして応える」と言って私が会った。それから何遍もその問答が繰り返された。
東條● その頃日図協の近くの小学校に勤めてたのが宮崎俊郎君というんです。その宮崎君が日図協に抗議に行ったと聞いて、栗原さんには会うたかって聞いたんですよ。そしたら、会った言うて。僕はあの後、宮崎君に言うたんですよ。栗原さんを見直した、てね。
栗原● 毎回三時間くらいの抗議と応答だったよ。
東條● 普通会わへんぞって。それで栗原さんの勝ちやなって思って、「もういいやん、宮崎君」と言うた記憶がある。彼も二十代で若かったからなあ。普通は会わないよ、「向こう行け」、言うて。
栗原● IFLA以後の全国図書館大会でも、受付をやっとるところに、ビラを持って集まってきて「抗議!」ってやられたよ。
東條● IFLA東京大会の支出経費は全部で二億六千万円くらいですね。
栗原● かかった経費と参加費を差っ引いて、ともかく全予算収入から三千万円ばかり残った。もともと協会で積み立てていた金額と同じなんだが、そしたら協会事務局の労働組合が、IFLAが成功したのは我々が協力したからであるって(笑)。
あの残った三千万円をみんなに配れと、事務局職員に。私は配る必要ない、と。あれはそれこそみんなが努力して、その結果が幸いにしてあれを使わずに済んだだけだと。あれがあったから寄付を頼みに行けた。寄付を頼みに行った時、先方から肝心の日図協さん、あなたのとこはどうしていますか、我々には寄付せいと言って、あなたのところはどう責任を持ってやっとるんだ、と。私としては「うちは準備資金として三千万円貯めて用意しています」と言ってきた。だから寄付に応じてくれた。それだから、これを全額みんなにボーナスとして出すわけにいかん。IFLAが成功したのは職員を含む館界全体のお蔭でよかったけど。
堀● 組合になんかされたんですか。
栗原● 赤い腕章巻いた何人かが私のとこにきて、「金出せー」って。私が大阪府立に行った時、館長に「組合がこんなこと言うんですがねえ、あなたならどうします?」と聞いてみた。「出したらいいやんそんなの」って(笑)。それでも帰って、「確かにみんなの協力でIFLAは成功した。しかしこのお金は協会の退職給与積立金ということで貯金すると応えた。いずれ職員皆は退職する時が来る。辞める時の退職金の積立を今から考えておきたい」と。
IFLAで館種を越えた連帯が芽生えた
堀● IFLAをやったことによって協会に残ったものとか、それによって日本の図書館界が財産として持ったものっていうか、お考えを話していただけたらと思うんですけど。
栗原● IFLA東京大会っていうのは、それまでの五一回の大会に比べてもいちばん参加者が多かった。二二五二名。そういう意味でのちに日図協百周年の時に来たアメリカの図書館人のIFLAの会長ウェジワース氏が、「東京大会がそれまでのIFLA大会の中でもっとも優れた大会である。私の心に残る大会である」とこう言って、彼は誉めてくれました。次の年がイギリスのブライトン、その次がオーストラリアのシドニーだった。いずれも日本でやったほど人が集まらなかった。一八〇〇人前後。そういう意味では参加者の多い大会としても画期的だったの。
堀● それは国内参加とアジアの人の参加が多かった、ということですか。
栗原● そうそう。アジア、ことに韓国からたくさん来た。
で、協会ないし日本の図書館界にとって一番よかったのはやっぱり、失われた図書館事業基本法当時の精神、まあ私はそう思っているが。館種をこえた協力を願う精神というのがその時初めて芽生えた。国際的な関係を一緒に努力したというんで、それからは物事、関係がスムーズになる面が多かったですね。これはやっぱり国内の人間が国際会議を一緒にしたということの共通意識が出来たんだろうと思う。
それからあれに参加した人がみんな「ああ、われわれは世界の中での図書館人なんだ」と思ったのと違いますか。その、さっき言った開会式後の盛大な晩餐会でもね、皇太子・同妃殿下も来てくださってね、外国人は皇太子やら美智子さんと握手したからその手は今夜は洗わないでおいとく、と。外国人が非常に喜んだ。喜んだのを日本人が見ていて、こういうことでよかったんだなと思う。参加した人はですね。参加しなかった人の中には文句を言う人がたくさんおったけど。
あと問題として指摘されたのは、ご承知のように多文化社会の問題です。翌年に、私は森耕一さんから理事会で怒られた。要するに向こうの世界は多文化社会。私は実はあまり意識してなかったんだけども、IFLAには多文化サービス問題の分科会がある。それに日本から発表することがあんまりない。ある人が大阪のアジア図書館のグループに発表してもらおうとのことで依頼した。この図書館は大阪にある、アジアに関心のあるボランティアの人びとがアジアに関する本を寄贈してもらって各種の活動をしている。後にはこれを発展させて大きなアジア図書館をつくろうという計画です。それを発表された。その発表を受けたIFLAの委員会が日本図書館協会に対して多文化社会にかかわる図書館サービスについて考えるよう、という指摘をしてきた。
森さんは、「IFLAの国際会議の中で指摘されたことを、全然その後何にもしていないとは何ごとだ」と怒ったわけだ。その後に日本の図書館界もいろんな人が多文化サービスのことを言い出し、特にカナダの多文化社会対応の例の紹介とかいろいろ発表されだした。アイヌ民族を含む同一民族でないものを日本は抱えてるんだから、そういうものに対する適切な配慮をしなければならない。まあIFLAを経験した上で新たな課題はそれでしたよね。
それで逆に一番よかったことは、配布資料を多種類のものを何千部もつくらなければいかんっていう作業が担当願った国立国会図書館の方たちのお蔭で極めてスムーズに処理できたことです。IFLA大会でいつでも一番困るのがあれなんですよ。
堀● ええ。
栗原● 発表ペーパーが発表者からもうギリギリで持ち込まれる。われわれ日本人だけで考えると日本語で出すか英語で出すかだが、それをロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語のIFLA公用語に訳さなければならない。それをそれぞれ何十部かコピーして用意するが、誰が何部、いつ取りに来るかわからない。だからいつもこのことは問題になるんですよ。それを日本の大会では非常に順調に処理し満足させられた。
堀● 私は直前のシカゴ大会には行ったんですよ、本当にそういうペーパーが足りなくなったりしてね。栗原さんがさっき話された国立劇場の抗議行動を仕掛けた一人と一緒に偵察に行ったんです。僕は英語もわかりませんから、IFLAってどういうもんかって見ただけでしたけど。夜になると欧米の旧知の図書館員たちが社交ダンスを始めたりして、一面は専門家のサロンだな、と思った。まあしかし、あの頃の僕たちの感じっていうのは、公共図書館だけじゃなく全館種に渡るような、しかもあまり現場には見えない政策が国との連繋で出てくるみたいなことが、もう一回IFLAを機会に復活するのかなっていう危惧です。そんな中でIFLAそのものがどういうものかって見に行ったですけどね。自分は前の年のシカゴで何もわからず帰ってきて、日本でのIFLAではプログラムに皇太子が出てきたから図書館界が皇室行事をするって、それに引っ掛けて抗議ビラ配ったりというのができなかったから当日動かなかったけれども。自分の見知っている文庫のおばさんたちの中にもIFLAに参加したりという人も出て。ただIFLAをきっかけに、もう一回、いろんな館種の者が仕事で寄り集まるというようなレベルじゃないところで、また図議連なりとの関係で政策的なことが提案されてくると思ってたところがあったわけです。なんかそのへんはそうではなかったというか(笑)。正直なところ、そのへんの流れをつくるという意図はなかったんですかね、IFLAの後でいろんな館種のヘッドや議員さんや政府関係者が集まって、もう一回図書館政策について提案するテーブルをつくるというようなことはなかったんですかね。
栗原● 政策づくりまではいかなかったですなあ。お世話になった方がたにその後会った時は、この前のIFLAの時はお互いお世話になりましたということはあったけどもねえ。たしかに図議連ではその後「図書館の振興」について毎年の総会で話し合ってくれていました。
それでねえ、もうちょっとあとかなあ。日図協百周年の後だったかもしれない。文部省の担当課が公共図書館のことについて非常に関心を深くしたことは事実です。
東條● IFLAがあったから。
栗原● うん、IFLAのこともあったのでしょう。そのあとの文部省としては、昭和六三年に社教審の『新しい時代に向けての公共図書館の在り方(中間報告)』が出され、平成四年に出た生涯学習審議会の「公立図書館の設置および運営に関する基準」にいたる過程ね。
12 日図協百周年の取り組み
東條● 日図協は去年、創立百十周年だったんですよね。それはやらなかったけど、記念事業はずっとやってるんですよね。
栗原● うん、大正二年(一九一三年)の二十周年記念からさまざまな行事をしています。
東條● 一〇年ごとに?
栗原● うん、欠かすことなく記念事業に取り組んできた。戦争中の昭和一五年にも五十周年事業をやろうとしたんだよ。『五十年史』を出したんだから。なんで百十周年でこれができないのか不満でした。特別に予算のかからないのならやれるはずでは、と。
東條● で、日図協の百周年に、百周年の記念行事と「日図協百年史」(=『近代日本図書館の歩み』)の分厚い本篇と地方篇。その前の九十周年の時に『図書館年鑑』を創刊するのは大変だったみたいなんですけど。
栗原● 九十周年記念を期したあの『図書館年鑑』は担当の事務局員が苦労して立派なものをつくってくれました。私はTRCが出来る時からお世話になった布川角左衛門さんに一番先に持っていった。「布川先生こんなの出来ました」ってほめてもらおうとしたんです。そしたら逆に怒られた(笑)。「図書館協会は金がないのに、こんなに金のかかる装幀の本を出すもんじゃないよ、贅沢の限りだ」とおっしゃった。
氏家● まあこれは見ればわかりますけど、装幀の話をすれば、図書館=宇宙のイメージなんですが……。
東條● 最初ハードカバーでしたね。
栗原● 中にカラーページをはさんで。浪江さんにも「図書館協会は中身はなんぼ上等にしてもいいんだけど、こんな金をかけた本は」と意見された。
私は事務局長だから、営業努力をしなければならない。この本でその年の新館紹介が出てるでしょ。あそこに出ている全部の館に「あなたの図書館が出来た情報がこれに載っています、ぜひこれをお買い求めください」という文書を担当者に出すよう言って。で、ここに載ってる新設館や名簿欄で紹介している団体にも送らせた。しかし高いからなかなか買ってもらえない。この『年鑑』の必要性を訴え「日本図書館協会事業として取り組むよう」との意見は第一二回(大正六年、一九一七年)の全国図書館大会の協議題ともなっていて、永い間の図書館界の夢でした。私はその夢を果たしたいと思っていたのです。
これが協会の九十周年(昭和五七年、一九八二年)のひとつの産物。それ以外に九十周年はふたつあって、ひとつは永井道雄さんを日図協の会長に推戴したこと。この課題も当時は行き詰まっていました。前会長の森戸辰男[注45]さんがお辞めになってもう三年ぐらい経っていたので、どうするかどうするかと、話が常務理事会ではいっつも出るんだけども、いろんな人の話が出てきてはダメだと。当時、高橋徳太郎さんも常務理事におられた。高橋さんは子どもの頃、東京教育大学附属小学校で永井さんの一年後輩なんだよ。だから永井さんとはお知りあいだった。しかし、永井さんからはそれまでお願いしたけれど断られたままだったという。浪江さんと相談したら、永井さんにもう一回お願いしてみようと。日教組の研究集会の助言者みたいな立場で浪江さんも永井さんも出ておられた。当時、永井先生は国連大学学長特別顧問だった。どう頼んだらいいかな、私は都立中央図書館館長の前田陽一さんのところに行って、「実を言うと相談にまいりました。協会の会長を永井さんにお願いしようと思うんです。いかがでしょうか」。横にいた当時の副館長が「日図協は左が多くてねえ。会長になったら迷惑をおかけすることもあるから」って言った。そうしたら前田さんが、「永井さんは右も左も対応が出来る人です、いいじゃないですか、なってもらったら」。前田さんと永井さんは国際文化会館の理事会でお会いになる。前田さんがちょうどありがたいことに都立の館長で、そのお口添えで永井さんの会長推戴のお許しができた。森戸さんには、後任には永井さんにお願いできたからと、九十周年記念式の時に来ていただいて、お二人の間で引き継ぎ。本当はもう三年前に辞めておられたんだけれどそういう形にした。永井さんは非常に喜んでおられた。前の森戸さんから私は頼まれて会長になったんだ、と。
もう一つは石塚栄二さんが委員長の「図書館の自由調査委員会」で、「貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準」というのをつくったでしょ。あれが九十周年の総会で承認されたということで、私はよかったなあと思った。
東條● ぼくはあの時のパーティはタダで行ったんですよ。
栗原● あ、そうか。九十周年記念論文募集で、あの時あなたは二等賞だったんだな(笑)。
「日図協百年史』には苦労した
東條● 百周年で「日図協百年史」をつくった時の話をしてください。
栗原● 理事長を辞める時にも『図書館雑誌』に書いたけど、私はおおむね後にやらなければならない事業に対して、対応する委員会を何年か前につくってきた。だからこの百周年事業も、もちろんIFLAもだが、三年くらい前に委員会をつくって準備した。一番初めに百周年委員会をつくったのは四年ほど前かな。そこでどういう具合にするかをいろいろ議論してもらう。
東條● 「百周年記念事業委員会」を八九年一二月につくってますね。その年の三月には「百年史編集委員会」も。
栗原● その前に私はいろんなものつくりはじめたでしょう。「百年史年表」や「資料集」みたいな形で。私は自分で出来ることはやっていこうと思って。
東條● あれはその、資料はいくつくらい、四つ?
氏家● あれは全部で四冊[注46]……ひとつは「年表」がありましたよね、年表と和田万吉[注47]の書簡集など。
栗原● あの資料集出版のもとになったのは、『東京市史稿』。だから協会の「百年史稿」のような資料になればと考えました。
氏家● そう言われて私が編集したんでした。
東條● 「百年史」編集では地方篇の方が大変だったとか。
栗原● まず委員会を開いた。その時たまたまだけど、弥吉光長さんが佐賀に行かれることがあった。そうしたら佐賀の図書館の人が、当時発見されたばかりの吉野ヶ里遺跡に連れてってくれたという。建物なんかまだない時。それで弥吉さんが百年史のことを考えるには、各県の地方篇をあわせてつくらなければ、とこう言われはじめたんです。こっちは初めは通史的なものだけ考えていたから大変だなと思ったが、それで各県の地方協会の会長宛に地方篇を編集する責任者を指名してほしいとお願いしたわけ。高知県のように自分が歴史好きな人が館長をやっていたというところもあるし、長崎みたいに戦前からの旧職員、もう大ベテランの方がいたりして……。
だから地方篇を出すことに決めるのがひとつ。それから「百年史編集委員会」の委員長として初めは私は石井敦さんに頼んだ。石井さんは、「私が委員長じゃ具合が悪い、弥吉さんを委員長にしてください」と言う。それで弥吉先生に頼んだんだが、その後弥吉さんが病気で倒れて、それから公共図書館をお願いした清水正三さんもまた病気で来られないようになる。
東條● さっきの長崎の方は石田保さん。
栗原● そう、本当に長崎の資料のオーソリティでね。あの人は定年で辞めたのかな。そのことではなんであの専門家の司書を辞めさすか、って小説家の吉村昭が書いてる[注48]。もうあそこの資料については隅々まで知っていた。その後地方で全国図書館大会を開く度に必ず、地方篇の委員さん方の会を開いて、それでごちそうしてお願いをした。お願いした原稿枚数以上に書きすぎて困る人もいたな。学のあるところ見せようと思って(笑)。まあ図書館人っていうのは多士済々で難しい。で、本当言うとそれぞれの府県ごとに学校図書館や大学図書館の歴史もみんな書いてもらおうと期待したのだが。それが必ずしも……。
東條● 学校・大学が詳しいところとほとんどないところとありますね。全然別の人が書いてるところもありますし。
栗原● そうそう、最後まで編集に一番協力してくれたのは奥泉和久さん。
氏家● 彼が本篇のほうの年表をやって。
東條● なんか戦前の松本喜一さんのとこは、かなり松本さんが悪者になってますね。
栗原● 松本さんも国立の中央図書館長だから文部省の言うこと聞かざるを得んかったと思っとったんだけども、松本館長に対する恨みっちゅうのはきついんだなあと思ったね。
13 新しい図書館会館の建設
東條● それであと、この新しい日図協の会館が出来る、これも一〇年くらい前のバブルの頃から……。
栗原● これはそうじゃなくてね、会館問題は私の頭では、百周年記念事業のひとつとして。
東條● でしょう。出来たんは一〇年くらいあとで。
栗原● そう、百周年記念事業のひとつにしようと。前の世田谷の協会は、当時の役員会で八十周年記念事業のひとつとして考えたということがあるから。建てて二〇年、あそこももうどうにもならないくらい協会出版物や資料類がいっぱいだった。隣の消防署が検査に来る度に消防法違反に近いとか言って。
東條● 火事になったら歌舞伎町みたいなもんだ。
栗原● どういう具合に利用構造を変えたらいいかと思ってるうちに、いくつかの係の部屋をつぶして六階に全部上げてしまった。だから総会などの会議が協会の建物でできないようになった。しかし私は運がよかった。当時会館準備金を必ず一年に三千万円ずつ貯めていた。その時点で三億円あったんだ。
東條● そんなに(笑)。
栗原● 同じ場所に建て替えるとしても五、六億円はかかるだろう、それで三億から四億貯めといたらいいと思ってね。それで隣の消防署との関係を東京都に土地交換の話としてもっていった。消防署は喜んでね。今日では消防署っていうのは、消防車が四台並べられる間口が必要。あそこは二台しか置けないわけ。だから私が言ったのは、協会と消防署を一体にして一階二階は消防署に使ってもらって、三階から上は協会に使わせてくださいよ、合築のかたちで建てませんかと。東京消防庁は皇居のお堀の前にあるけど、あそこに五回くらい行ったかな。向こうの施設改修費の問題もあったし話が進まない。そうしたら今度は東京都立図書館の館長が、東京都との土地交換を考えたらどうだろうか、と言う。今の土地を協会が東京都に渡して、東京都は土地はいっぱい持っているんだから等価交換という形はどうかと。それで今度は私は東京都庁に直接相談に行った。都の意見は、まず更地にせよという。建物を壊して更地にするだけで一億円かかるし、都からの用地売却費も相当な見込みの意見であった。これじゃあ三億貯めといても全然だめです。これに大分時間かかったよね、土地の選定ももちろんあったんだけど。それでさしあたりとして、まず現在の建物の大改修をやろうと。
東條● うんうん。
栗原● 会館全体を綺麗にしたり雨漏りを直したりした。私としては新館のために用意していたお金は、新しいものに使いたいなと思ったけれど、あと四、五年もたすためには、新館の準備費の一部を使うより仕方ないなと。施設委員会にも相談してあの建物をつくった鹿島建設にやってもらったんだ、一億一千万円。
東條● 前川恒雄さんが理事を辞任したのは新会館建設の提案と関係があるんですか。
栗原● 必ずしもそうではないと思う。あの人の辞任はこういうことなんだ。常務理事会の記録は事務局職員が交代で論議の概要を簡単に書いていた。主な課題と結論を中心にして。それに対してもっと詳しく書くように言い出す人もいたが、議論はたくさんやるんだからなかなかそこまで書けませんと、事務局職員が言い訳をした。そしたら前川さんが怒ったん。細かく書かなくては理事会の協議の状況がわからん。ようするに、発端は『図書館雑誌』の常務理事会記録の問題からです。前川さんの辞任は常務理事会の記録の問題と会議の終了時間が予告どおり終わらない等、議事進行の問題だったと思う。
堀● 前川さんは常務理事になって何をされるんかなって注目してたら、すぐに辞められたという感じ。
新会館建設が私の最後の仕事
東條● それで元に戻るんですけど、百周年が終わって九三年に事務局長から今度は理事長になられるんですよね。高橋さんが辞めて栗原さんが理事長になる時にはもう、会館の問題とかあるから全部栗原さんにやってもらおうと、そういう雰囲気だったと思うんですよ。
栗原● いや、私はそこまで考えてはいなかった、私は理事長になるとは全然思ってなかった。高橋さんが、その前年の五月の定期総会で七〇歳になるから来年で辞めると宣言された。それで、高橋理事長、次の人を決めておかないと辞められませんよと私はもちろん言っていた。しかし、あの人はいろいろ考えられたが、次に適当な人をお決めになれなかった。
東條● 「栗原やれ」とは言われなかった?
栗原● 言わなかった。私は、会館の目処さえついたら事務局長は辞めるつもりだった。高橋さんが辞めるっていった時、困ったんだ。
東條● ほお。九三年の五月の理事会で……。
栗原● 私は事務局長を嫌いで辞めたわけでもないし、引き続いて無理矢理にやりたいとも思わなかった。一五年もやらしていただいたのだから、大阪に帰って家で寝ようと、こう思うとったぐらいだ。
東條● それでさっきの会館問題になるんですけど、三年間くらいは頓挫するというか具体的な話はなかったんですよね。裏であったんかどうかは知りませんけど。『図書館雑誌』には「進展せず」って。当時バブルが崩壊してて。で、ここに決めたのは? …あといくつか候補はあったんですか。
栗原● うん、四つか五つあった。会館問題に一番熱心だったのは三上さんと酒川さんだった、まだ彼女が常務理事になりはじめた頃で、委員長をしていて会館の狭さを身をもって知っていたから。「栗原さん、なんでこの事務局を移さんのか」と。で、「俺は隣の消防署長と新館の計画をしょっちゅう話してるよ。君が意見を言いたかったら連れて行くから言ってごらん」って、酒川さんを消防署の署長室に連れて行ったことあるよ。三上さんは賢い人だからいろんな案を私に教えてくれた。東京都から三つ案が出てきた。ひとつは大田区の蒲田駅の近く。それからもうひとつは江東区の都営新宿線の住吉駅のところ。どうもそこも気に入らんもんだから、高橋さんが、大蔵省管財課が国有地を持っているわけだから大蔵省に話に行こうと。それで高橋さんのお供して一緒に行った。向こうの課長に話して、日本図書館協会は今から二〇年前に大蔵省のお世話で国有地を譲ってもらって、そこに建物を建てて、今があるんですけど、狭くなって、という話をもってったわけ。そしたら一ヵ月後、わざわざ向こうの課長がきたんですよ。「栗原さん、あなたもう東京都と話してるじゃないですか、国有地ですぐ譲るというのは今ありません。東京都から大田区のところを推薦されてるでしょう。あれをお受けになったらどうですか」と。あそこは好条件で駅からもそう離れてない。ただ土地の形がちょっとややこしくて協会としては使いにくい。まあいろんな話があったよ、市川市にも行ったし。
東條● 外神田いうのも。
栗原● うん、神田明神のすぐ近く。それから中央線の信濃町の国立競技場の反対側のあたりね。その他にも紹介があったが、全部見に行った。しかし実際はどうだったんかな、お金の問題もひとつあったし、やっぱり条件が合わんかったんかな。当時の常務理事会とは別に評議員を含む広い意見の場をつくって諮ったんだが、会館を建てるより先に会員を増やせとか、研修を充実させろとか、そのための委員会をつくれとかの意見があった。そういう中で理事長として私は、まあこれが私の最後の仕事やなと思ったから、「栗原に任せてくれ」と。そうしたら今の場所の話が出てきた。
今度はもう建物のことだから施設委員長の冨江伸治さんに委員会を開いてもらって、ここの土地がいいか、建物はどれだけのものを建てるか、設計委託はだれにしてもらうか、いくらぐらいかかるのか、というのを見積もりを出してもらった。施設委員会が協議して、「ここはいいですよ」との意見だった。
もうひとつ残ったんが、前の建物の売却の問題。どこが買ってくれるかに腐心した。そのうちにバス停の前の国土開発株式会社いうのが新たに必要な事業のために譲ってくれといってきた。最後にあそこを売ったのが二億だったね。だから全部足して一〇億できた。協会は貧乏のかたまりだから、最終的に一億が赤字になり、広く募金をお願いすることにした。
東條● 目標額が一億円。かなりとりましたよね、びっくりしたもん。九七年二月号の『図書館雑誌』に募金趣意書は載ってますが。
自律して外に恥ずかしくない協会を
栗原● 永い年月同じ仕事を重ねると、人間というのはね、初心と元気はどうしても失われていくもんだ。私はいつもそう思うんだけど、図書館員というのはね、自ら律する力をもってなきゃいかんと思う。自律するためにはいろんなアイデア、勇気、協調、協力、いろんなものが必要です。同時にお金がなかったらね。人に借金ばっかりしていては立派な事業はできない。幸いに私の事務局長、理事長時代は、日本の経済は上向いている時だった。だからそのおかげで、私の力じゃ全然ないんだけど、これだけの事業をしながら二三年を過ごすことができた。まあ批判はたくさんいただいた。いま協会で一番悩んでるのは新しい理事長の竹内さとるさんだろう。横山君も事務局長を一期で辞めたから。
東條● ああ、今度は松岡要さんが事務局長。
栗原● 協会は今、転換期っていう言葉は使いたくないんだけど、もうひとつこう、脱いで大きくならんといかん時期と思う。そういう点では手伝いたいんだけども。竹内
新理事長を一昨年訪ねたら、理事長室に壷やらなんやら置いてあった。「竹内さん、これは有山さんの奥さんが有山さんが亡くなられた時に香典返しに届けてくださった壷ですよ、これは韓国の図書館協会から日本の図書館協会百周年の時に寄贈してくださった壷ですよ」って全部説明したんだ。「だからぜひこれ大切にしてください」と。
東條● 全部歴史があるんだ。
栗原● そしたら、「わかりました」と。で、有山さんのだけはまだあるのかな。また事務室入ったところに大きな絵の額があるでしょ、あれはTRCの石井社長が新会館のお祝いにと寄贈してくれたんだ。そういうのいっぱいあるわけだ。なんで石井昭氏寄贈って書かんのかなあって思う。そういう多くの人の善意の協力や支援のことを忘れたら協会という組織はもう成り立たない。私は、IFLAの時も、百周年の時も、新会館の時も、『図書館雑誌』に載せるのとは別に寄贈してくれた人には必ず礼状を書きました。戦後の協会再建当時の衛藤利夫理事長が言われたように「協会は『釜の下の灰』まで会員のものだ」というのなら、それこそ何かつくる時には、それなりの自分の出来る範囲は会員皆が応えてもらわんといかん、と思ったね。
そういう意味では、協会のこれからは自律。自律ということはまず自分を律することの判断力と、立つための経済力が必要だ。もうひとつ、ある人が言うたかな、協会には地方から人が来るんだと、くれぐれも来た人に丁重にしなければいけない。事務局の人たちはその人たちの力のお蔭で仕事をさせてもらっているんだから。図書館で働いている新入職員が会費払って協会事業を支援してくれていることを考えるなら、その人にも最敬礼せないかん。もちろん図書館長や役員の人には敬意をもって挨拶せないかん。それがなかなか、自分の仕事が忙しいからでもあるけどね、できないね。私の心配はそれ。そういう広くこの協会の外から見ても恥ずかしくない世界を事務局職員がつくらないといけない。
堀● 栗原さんは先に評議員や監事をやっていたとはいえ、日図協の事務局の仕事は東京に着任して初めて覚えていかれたんですね。
栗原● そうでしたねえ。土方時代からいろいろ仕事変えて違うところでやってきたから。堺に行った時も着任して初めてその建物を見たんだし。なんでも初めてのとこに行くから、あまり抵抗がない。
東條● やっぱり関西なんですかねェ。いや、僕も大阪なんで関西の方に親しみがあるというか、ひいき目に見てしまうんで………。
まだまだお聞きしたいこともあるんですが、このへんで。長時間お付き合い下さって本当にありがとうございました。
栗原均年表はこちら>
インタビューを終えて
延べ二日間、八時間以上におよぶインタビューは、とても楽しかった。実を言えば、このあと、東京駅近くの小料理屋で栗原氏を囲み、二時間以上も「続き」のお話を伺った。私にとっては、インタビューと同じくらい貴重な時間であった。
栗原氏のお話を伺いながら、私は、この国における図書館の位置というものをあらためて考えさせられる思いであった。明治以降、何人もの先人達が悲憤慷慨し、ときには志半ばで絶望していった歴史は、そう簡単にはあらたまらない。
栗原氏は、そのような困難な状況に、誠実で社交的な人柄と大胆な経営手腕で立ち向かわれた。いま、私(たち)は、栗原氏の五〇年以上に及ぶお仕事を、云々しようとは思わないし、その能力もない。だが、少なくとも、四半世紀図書館界のリーダーであった「栗原均」という存在を説く材料のいくらかは提供できたと思っている。
最後に、私(たち)の失礼な問いにも終始快く応じてくださった栗原均氏に心より感謝いたします。また、お忙しい日程のなか、ずっとお付き合いくださり、編集にもご協力くださった氏家和正氏にお礼を申し上げます。さらにゲラの段階でお読みいただき、貴重な文章をお寄せくださった塩見昇氏と増田忠夫氏にもお礼を申し上げます。
[東條文規]
[注1] 叶沢清介(1906‐2000)。1949、県立長野図書館長。1950年代に「PTA母親文庫」活動を推進。1966‐1978、日図協事務局長。
[注2] 有山たかし(1911‐1969)。1949‐1966、日図協事務局長。1965、日野市長。
[注3] 高橋徳太郎(1923‐1997)。1948、国立国会図書館。1983‐1993、日図協理事長。1985、国立国会図書館副館長。
[注4] 『同志社大学通信』41・1982年10月号「同志社人訪問22栗原均」。
[注5] 廿日出逸暁(1901‐1991)。1935、千葉県立図書館長。1959、国立国会図書館連絡部長。
[注6] 中村祐吉(1901‐1985)。1950、大阪府立図書館長。1957‐1961、日図協理事長。
[注7] 『イギリスの図書館』。その後1985年になって、他の海外視察を含めて『図書館長の欧米旅日記―1950年代の国際交流―』(同刊行会、1985)と題して刊行。
[注8] L.R.マッコルビン(McColvin)。『現代の図書館』斎藤毅訳(河出書房、1953)は当時大きな影響を与えた。
[注9] 西村精一(1906‐1981)。1947、京都府立図書館長。1967、京都府立総合資料館初代館長。
[注10] R.L.ギトラー(Gitler)(1909‐?)。1951年、慶応大学に図書館学科を創設。1956年まで主任教授。栗原氏の米国視察時にあたる1964-67までジョージ・ピーボディーカレッジの図書館学教授。
[注11] 全日本図書館員労働組合。図書館の職能別による唯一の全国的単一組合として昭和24(1949)年に結成された。東京、大阪をはじめ800人ほどの図書館労働者を組織したが、昭和28(1953)年に解散。
[注12] 清水正三(1918‐1999)。1938、東京市立日本橋図書館、淀川、江戸川、京橋各図書館。 都立中央図書館、等。1976、立教大教授。「中小レポート」の責任者。
[注13] 杉捷夫(1904‐1990)。フランス文学者。1969‐1972、都立日比谷図書館長。
[注14] 木寺清一(1908‐1984)。上海自然科学研究所図書館、大阪大学図書館、大阪府立図書館。
[注15] 間宮不二雄(1890‐1970)。1921、間宮商店創立。青年図書館員連盟書記長。
[注16] 「石山氏の疑問に答える―主題別閲覧室制度実施館の側より―」(北から南から)
[注17] 埜上衛(1925‐1999)。京都府立図書館。京都府立総合資料館。
[注18] 志智嘉九郎(1909‐1995)。神戸市立図書館長。
[注19] 北村泰子(1912‐1973)。1957、都立日比谷図書館。
[注20] アジア図書館協会連盟。1957年11月東京で参加12ヵ国、オブサーバー、4ヵ国で結成大会、会長金森徳次郎。事務局長有山。しかしその後活動はできず、1960年で空中分解。
[注21] MARC IIプロジェクト。機械可読の目録情報としてLCMARCの磁気テープによる配布を開始し、全米のみならず世界の書誌情報の標準化を目指した。
[注22] ライブラリーサービスアクト。「図書館サービス法」。人口1万人未満の地域の図書館の振興を図るために連邦政府が公立図書館に財政的援助を与えるという点で画期的な法律。
[注23] コンストラクションアクト。図書館サービス法に加えて、「図書館サービス・建設法」として、対象地域の制限がはずされ、図書館建設にも補助金が交付されることになった。
[注24] MEDLARS Medical Literature Analysis and
Retrieval System。国立医学図書館が行なった医学文献を対象とした検索システム。
[注25] バーチェット (W. G. Burchett)。『十七度線の北―ヴェトナムの戦争と平和』(岩波新書、1957)、『素顔の解放区―南ベトナムゲリラ戦線を行く』(弘文堂、1966)など多くのルポを書いた。
[注26] 森耕一(1923‐1992)。1951、和歌山県立大図書館。1961、大阪市立図書館長。京都大学教授。日図研理事長。
[注27] 浪江虔(1910‐1999)。私立鶴川図書館を50年間経営。詳細は『ず・ぼん』5号(1998年)参照。
[注28] 加藤宗厚(1895‐1981)。帝国図書館、富山県立図書館長。1948、国立図書館長。1949、国立国会図書館上野支部図書館長。
[注29] 筒井福子(1918‐1995)。1952年から都立上野高校、1960年から都立日比谷高校図書館司書。
[注30] 布川角左衛門(1901‐1996)。岩波書店、栗田書店、筑摩書房。元日本出版学会会長。
[注31] 弥吉光長(1900‐1996)。内田嘉吉文庫、満洲国立中央図書館籌備処、国立国会図書館。 1979、TRC副社長。
[注32] 「図書館事業基本法」。表向きには、昭和55(1980)年の鹿児島の第66回全国図書館大会での有馬元治図書議員連盟事務局長の発言で浮上。翌昭和56年5月、日図協を含む図書館関係団体の代表が集まって図書館事業振興法(仮称)検討委員会が発足。9月に第一次案が発表された。中身は、1.図書館政策の確立、2.公立図書館の義務設置、3.学校図書館の充実強化、4.障害者へのサービス、5.専門職員の充実と必置、6.ネットワークの確立、7.共同保管図書館の設置。これらを実現するために、内閣に図書館政策委員会を置き、図書館振興財団をつくるというもの。第一次案発表後、図書館の国家管理につながると多くの反対の声が上がった。たとえば、『季刊としょかん批評』第1号(せきた書房、1982)は、「『図基法』状況を考える」を特集している。
[注33] 『図書館雑誌』第75巻第5号〜第76巻第2号(第75巻第11号は除く)。当時、日図協事務局長の栗原氏は、「(仮称)図書館事業振興法の推進について〈報告〉」を、昭和56(1981)年5月号から翌昭和57(1982)年2月号(昭和56年11月号は除く)まで9回にわたり連載している。
[注34] 図書議員連盟。昭和53(1978)年5月に発足。事務局は国立国会図書館内。初代会長は前尾繁三郎。超党派で議員240名が参加。
[注35] 酒井悌(1913‐1992)。国立北京大学。1992、国立国会図書館副館長。1980、金沢工大図書館長。
[注36] 学術情報システム。昭和55(1980)年、学術審議会が文部省に答申した「今後における学術情報システムの在り方について」に基づいて、大学図書館等をコンピュータ・ネットワークで結び、図書や雑誌資料を共同利用しようとするもの。昭和53(1978)年に設置された東京大学情報図書館学研究センターを昭和58(1983)年、同大学文献情報センターに改組、昭和61(1986)年からは、東大から独立してナショナル・センターとしての学術情報センターが完成。さらに平成12(2000)年4月からは国立情報学研究所に改組転換された。
[注37] 佐野友彦(1925‐1996)。元全国学校図書館協議会事務局長。
[注38] 公共図書館の全国計画の試案。昭和53(1978)年、全国公共図書館協議会が文部省の補助を受けて6年間の年次計画でナショナルプランの策定に着手。『豊かで住みよい地域社会と公共図書館―全国計画策定のための図書館の理論(第一次草案)』(1979)をはじめ、『図書館全国計画のための基礎資料集』全4巻(1983)等を刊行した。
[注39] 「図書館に対する世論調査」。正確には、総理府の内閣総理大臣官房広報室が昭和54(1979)年9月に調査した「読書・公共図書館に関する世論調査」(『図書館雑誌』第74巻第4号、1980年4月号、所収)。
[注40] 森清(1906‐1990)。間宮文庫、鳥取県立図書館、神戸市立図書館、上海近代科学図書館。 国立国会図書館等。
[注41] 裏田武夫(1924‐1986)。元東京大学附属図書館長。
[注42] 永末十四雄(1925‐1995)。元福岡県田川市立図書館長。
[注43] 関野眞吉(1896‐1985)。京城帝国大学図書館、元獨協大学図書館事務長。
[注44] 永井道雄(1923‐2000)。1982‐2000、日図協会長。元文部大臣。
[注45] 森戸辰男(1888‐1984)。1964‐1979、日図協会長。
[注46] 「日本図書館協会百年史・資料」として第一輯から第四輯まで発行された。(1)弥吉光長・栗原均編『和田万吉博士の今沢慈海氏宛書翰集(抄)』1985、(2)日本図書館協会編『日本図書館協会五十年史事蹟年表』1986、(3)弥吉光長編『和田万吉博士宛書翰集(抄)』1987、(4)樋口龍太郎『日本図書館協会五十年史』1989。
[注47] 和田万吉(1865‐1934)。明治・大正時代に3度日図協会長。
[注48] 吉村昭 「図書館」『図書館雑誌』第74巻10号、1980年10月号所収、『群像』1980年7月号より転載。
[注作成者・東條文規]
●参考文献
『図書館年鑑』各年度(日図協)
『図書館雑誌』(日図協)
『図書館ハンドブック』第5版(日図協、1990)
『図書館情報学ハンドブック』第2版(丸善、1999)
『近代日本図書館の歩み 地方篇』(日図協、1992)
『近代日本図書館の歩み 本篇』(日図協、1993)
『図書館関係専門家事典』(日外アソシエーツ、1984)
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