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ポット出版
立ち読みコーナー●脱!ひきこもり
[2004-04-20]
脱!ひきこもり

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脱!ひきこもり
─YSC(NPO法人青少年自立援助センター)の本
[2004.04.20刊行]
著●工藤定次/YSCスタッフ/永冨奈津恵

定価●2000円+税
ISBN4-939015-64-5 C0037
四六判/248ページ/並製
印刷・製本●株式会社シナノ
ブックデザイン●沢辺均
写真●飛田晶子/永冨奈津恵

在庫有


【立ち読みコーナー】※本書所収原稿の一部を紹介

1…ひきこもりとは何か

「社会から引く」「空間に籠もる」
の二重鎖国状態


個人のみの空間を作り
社会から「引く」状態


 「籠もる」とはそもそも「神仏に祈るため神社や寺に泊まり込む」こと。もちろん神社や寺に泊まり込まなくても、自分の部屋や作業場でいい。思考を深めたり、芸を磨いたり、悟りを開いたり……。それらはすべて「籠もり」という行動である。つまり、「籠もり」とは「個人のみの空間、領域を作ること」なのだ。これは、歴史的に考えてみても「深み」を持った行為である。
 しかし、今、ここで問題にしたいのは「ひきこもり」のことだ。「引く」と「籠もる」という二重の行為の結果が、「ひきこもり」なのだ。
 「ひきこもり」には、「籠もる=個人のみの空間を作る」ことに、「引く=社会から、あるいは人との関わりから引く」という動作が加わっている。「人を遠ざけて一人の空間を作り、なおかつ社会的なものから逃げる」。この状態が「ひきこもり」である。それ故に、私は、「ひきこもりは二重鎖国状態だ」と主張する。厚生労働省のガイドライン(『一〇代・二〇代を中心とした「ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン』)などにも使われている「社会的ひきこもり」という言葉は、ひきこもりの中の「社会から引く」という特性と動作のみに焦点を当てた言い方なのである。
 さて、「ひきこもり」という言葉を使うとき、私の言う「二重鎖国状態」を連想する人は非常に少ないようである。
 たとえば、ある人々は「籠もり」という状態だけに注目する。だから、「ひきこもったっていいじゃないか」という論になる。一人の空間を持ち、哲学的命題に取り組む。この状態を「ひきこもり」と呼ぶなら、まさに「ひきこもったっていい」。私も同感だ。
 ある人々は「引く」という状態だけに注目して、「自分は外に出てはいるけれどひきこもりだ」という言い方で自分を表現したりする。しかし、こうした言い方で「ひきこもり」を自称している人々は、自分一人だけの空間をきっちりと作っているわけではない。
 それぞれ言葉の意味をはき違えたまま、いろいろな人たちが、やれ「ひきこもったっていい」「待つべきだ」だの、やれ「自称ひきこもり」「偽ひきこもり」だのと論争をしているんだとしたら、架空の土俵で相撲を取っているようにしか見えない。
 「ひきこもり」とは、「人を遠ざけて一人の空間を作り、なおかつ社会的なものから逃げる」状態だ。私は、それを狭義に「純粋ひきこもり」と呼んでいる。そして、私は、この人々を中心において、ひきこもりを考えていきたいのだ。つまり、私が今まで関わってきた人々、そしてこれから関わろうとする人々は、「二重鎖国状態から抜け出したいのに抜け出せない」人たちのことなのである。
 胸を張って、本気で、「自分は出たくない」という人がいるとすれば、それはその人の生き方の問題である。私とは関係ない。その人の哲学的選択にまで、私は立ち入らない。それは「余計なお世話」だと思うからだ。こうした意味では、「ひきこもったっていいじゃないか」と言っている人々に私は賛成だ。
 ただ、いまだかつて、私はそういう人に会ったことがない。おそらく、どこかにいるのだろうと想像する。いて欲しいとも思う。そういう選択も、また人生の一つだろうと考えるからだ。できることなら│本人はいやがるだろうけれど話をしてみたい。もし、自分の考えで「ひきこもり」という生き方を選択しているなら、穏やかで、満ち足りているのではないか。そして、その人の家族も、多少は心配するだろうが、思い詰めて悩んだりはしないのではないか。
 私がこれまでに会ってきたひきこもりは、全員が、陰鬱で苦しそうだった。これが、とても自らが選択した結果だとは考えられない。
 自らの意志とは関係なく、こもらざるを得ない状況が生まれ、かつ、「社会から身を引く」という状況が加味されている。求道的状況とはまるで異なっているのだ。「ひきこもり」の若者は、苦悩・苦痛のみが再生産されている状況の中にいる。自らの手によってそこから脱することは難しいだろう。

第三者の手助けが必要と
考える当事者は八割


 二〇〇三年から二〇〇四年にかけて、NHKは「ひきこもりサポートキャンペーン」を行なった。TV番組の放映はもちろん、インターネット上(http://www.nhk.or.jp/hikikomori/)で、メールによる相談やひきこもり体験記が公開されるなど、さまざまな試みが行なわれた。その一つに、「ひきこもり一〇〇〇人のネットアンケート」がある。これは、インターネット上でひきこもりの若者に呼びかけ、さまざまな設問に対してアンケートしたものだ。ひきこもりを対象にしたここまで大規模なアンケート結果は他にないと思う。
 この中のいくつかの質問と回答に、私は注目した。
 「現在の生活に満足しているか」という質問に対して、「不満」「やや不満」を合わせると七八パーセント。「好きでひきこもっているわけではないが、自分ではどうしようもない」に対して、「とてもそう思う」「ややそう思う」を合わせて八五パーセント。
 この結果を見れば、ほぼ大半の人たちが「自らのぞんでひきこもっているわけではない」ということがよくわかる。
 さらに、「ひきこもりから抜け出すためには、家族以外の第三者の手助けが必要だと思うか」という設問に対しては、実に四七パーセントの人が「とてもそう思う」と考えており、「ややそう思う」という人を合わせると、八一パーセントにもなるのだ。
 私は、この結果を納得しながら受け止めた。この数字は、私が三〇年に渡って不登校・ひきこもりの青少年に関わってきた実感とも一致している。もちろん、私の実感はあくまでも個人的経験の上であって、これをどんなに誠実に訴えたとしてもインパクトが少なかったのは事実。しかし、このアンケートは間違いなく当事者本人の回答結果であり、多くのひきこもりの若者が、「自らのぞんでなったわけではない状況から抜け出そうとして、第三者の助けを必要としている」と明らかになったことは、この上なく喜ばしい。
 「ひきこもったっていいじゃないか」と論じる人々は、なぜこの結果に目を向けようとしないのだろうか。どうして、数から言えばかなり少数の「のぞんでひきこもりになった」人々の話を、すべてのひきこもりに対して当てはめて考えることができるのか。私は不思議でならない。


ひきこもりへの対応策は
一つじゃない


 私は「ひきこもり引き出し人」なのだそうである。いわく、「ひきこもりたい」という本人の意志を踏みにじって、何が何でも家から引きずり出す……。
 家庭訪問をし、本人に働きかけ、外に一緒に出る、この私の行為を多くの評論家やカウンセラー、精神科医などの専門家たちが批判し続けてきた。
 この手法を日本で最初に取り入れ、その方法論を確立した(決して全員をこの手法で対応することはないが)と自認する私は、全身でこの批判を受け止めてきた。「現実を知らない、現実に関わろうとしない、馬鹿者のたわごとだ」と感情的には処理しつつも、なんとも暗い気持ちにならざるを得なかった。
 「このまま、ひきこもりの青年が放置され続けたら、本人たちの人生はいったいどうなってしまうのだろうか」。
 三〇歳、四〇歳、それ以上になっても、ひきこもりという孤独な生活。いつになっても自分の人生、姿が見えてこない闇の中での生活。この生活に意味はあるのか。この生活が「生きている」ということなのか。この生活が幸せなのか。この生活が夢のある生活なのか。
 私を「ひきこもり引き出し人」と呼ぶ人々の批判を聞くとき、私は不登校児への対応の歴史を思い出す。
 かつて「不登校は治療しなければ二〇代、三〇代まで無気力症として尾を引く」という記事が新聞の一面を飾ったことがあった。それは「不登校=病気」というイメージを増幅させてしまった。
 やがて、その反発により「学校に行かなくたっていいじゃないか」という不登校論が活発に議論され、フリースクール、フリースペース運動が盛んになっていった。「学校に行きたくなるまで待て」という考えの下、親や教師による登校刺激(学校へ行くように促すこと)は「もっともやってはいけないこと」だとされた。これが八〇年代後半から九〇年代初頭の不登校をめぐる論議の中心だったのだ。
 私はそのころから不登校やひきこもりの支援にたずさわっていたが、どちらの意見にも納得できなかった。「不登校は病気だ」という意見にはとんでもないことだと考えたし、かといってフリースクールやフリースペースの運動にも違和感を持った。私がそのころ切実に訴えたかったことは、このままではフリースクールやフリースペースにすら通えない人々が打ち捨てられていくのではないか、ということである。
 「待つ」という対応策がすべての不登校児に当てはまるわけではない。この対応策は、家から外に出ていけるタイプの不登校児にのみ有効だった。家から出ていけないタイプの不登校児は│当然のことではあるが│まずフリースペースにすら通うことはできないのだ。そんな人々に対して、「待つ」という対応だけでは、一〇年、二〇年経ってもそのままの状態が続くことになるのではないか、そう思ったのだ。そのときのこの予感は、不幸なことにほぼ的中してしまったようだ。
 今、「ひきこもり」をめぐる議論を見ていると、不登校のときとまさに同じ議論を繰り返しているように感じてしまう。
 「ひきこもるという本人の意思を尊重しよう」という人の意見に、私は「そうした方がいいケースもあるだろう」と答える。「親が『待つ』という姿勢をとることが大事だ」という人の意見にも、「そうした方がいいケースもあるだろう」と答える。
 しかし、「すべてのひきこもりに『待つ』という対応が有効だ」と言われれば、私は猛烈に反発する。まさに、すべての不登校児に対して同じ対応策を取ったからこそ、一部の人々が打ち捨てられていったのではなかったか。今、さまざまなタイプのひきこもりに対して判で押したように同じ対応をしていたのでは、また同じことを繰り返してしまうのではないだろうか。
 だから、私は「ひきこもり」を分類することをはじめている。なぜ分類しなければならないのか。それは、ひきこもりのタイプによって対応を変えなければならないと考えてるからだ。「待つ」という対応が有効な人々もいる。しかし、「待つ」だけではどうにもならない人々もいる。私が言いたいのはそういうことだ。
 私が関わってきたのは、後述するが「純粋ひきこもり」というタイプのひきこもりである。このタイプは、他者が外側から刺激して、人間関係を作り、そうした中で社会に向かわせるという構造を作ってやらなければ、打ち捨てられていく。そして、一〇年、二〇年と問題が長期化していく。それが私の実感である。


「待つ」という言葉の
無責任さ


 一人の母親が青少年自立援助センター(以下YSC)に相談に訪れる。子供は二〇代前半。大学受験に失敗した後、その後自宅で浪人生活をはじめるが、勉強しない。CDを聞き、ゲームをし、TVを見る。そんな怠惰な生活をしていても、大学受験に合格するわけがない。一浪目、二浪目こそ受験したものの、その後はひたすら家にいる状態が続いている。ときに、感情を爆発させ、家具を壊したりしている様子。私にしてみれば、きわめてフツウのひきこもりだ。
 YSCに訪れた母親が言うには「本人は家から出られないのに、『本人を連れて来い』と言われる」。「自分だけがカウンセリングを受けているが、『待ちなさい』と言われるばかり」。そんな話を聞きながら、こうした状況はいまだにあるのだ、と私は愕然としてしまう。
 家から出られないということは、当然本人が相談に行けるわけがない。しかも、「そのままじっと見守り続けましょう。子供さんは心に受けた傷を癒しているところです。やがて、傷が癒えたら、行動するときがやってきます」とアドバイスする。
 もしこう言われたなら、カウンセラーに直接聞いてみた方がいい。「いったいいつまで待てばいいのか」と。医療界には、セカンドオピニオン、インフォームドコンセントというシステムがある。疑問があったら、相談者はカウンセラーにどんどん質問した方がいい。
 ある女の子の話をしよう。
 二〇〇三年も数日で終わろうとするとき、サッチャン(一九歳)と両親が事務室に顔を見せた。サッチャンはその日が卒寮の日であった。
 私はサッチャンに聞く。「もし、タメ塾(YSC)に来てなかったら、サッチャンの人生はいったいどうなっていたんだろうね?」
 サッチャンは、中学一年生から不登校。家から一歩も外に出ることなく、ただひたすら無為の日々を送るひきこもり状態にあった。
「ずっとあのままで何も変わらなかったと思う」。サッチャンは答える。
「オレもそう思うな。二〇歳になっても、三〇歳になってもさ。そして、ついには病院に入院するか、死んじゃってたか……。サッチャンはこれから地元に帰って予備校に行って大学生になるんだろう。まぁ、ボチボチやりな。がんばっちゃダメだよ。肩の力を抜いて、のんびり前に進めばいいんだよ」。
「本当に、人生拾ったようなもんだね。あのまんまだったら地獄だったよ。自分の将来のこととか、やりたいことなんか、たまに考えたりしていたけど、一歩も家から出られないんじゃ、どうせできっこないとわかってたから……。考えれば考えるほど絶望的になっていって、きっと死んじゃってたと思う。それが楽になれる唯一の方法だと思っちゃってたから……」。
 サッチャンは、自分のひきこもりとしての長い時間を思い出しながら、しみじみと語る。その表情は暗くなく、むしろ明るい。何かを完全に吹っ切ったという表情だ。
「サッチャンの顔を見てると、もう二度とこもらないって感じだよな」。
「うん」。
 これが私にとっての至福の瞬間│YSCをやっていて良かったと心の底から思える瞬間だ。
 「やりたいことをやらせましょう」。「時間を十分にあげましょう。そうすれば自然にエネルギーがたまって動き出します」。「親は反省して、子供の心がわかるように努力しましょう」。こうカウンセラーは言う。
 ふざけるな、と思う。現状を固定化して、自己反省しろ、と言っているだけじゃないか。ひきこもりという現実をいったいどうすれば打ち破れるのか。一番肝心な、その方法にはいっさい触れることもない。
 「人生拾ったようなもの」という言葉。これはシャレで言っているのではない。将来や未来のある青少年が、自らがのぞんだわけではなく、たった一人の孤独な時間を、家という限られた空間の中で、何もすることなく、ときの流れさえ感じないまま、ひたすら意味のない「今」という時間を浪費せざるを得ない状況が、生きていて幸福な状態なのか。青少年を含めたすべての人間が、自分自身の人生を豊かに楽しく生活する権利を有している。その青少年を地獄の日々に突き落としているのは、何も手を下そうとしない傍観者の大人たち、とりわけ精神医療、教育分野にたずさわる専門家たちではないか。
 長期間放置され続けた末の「人生を拾った」ではなく、「人生は楽しい」という感覚を失わせることなく継続できるように、大人は手助けをしなければならないのだ。


それは「無駄な時間」
なのではないか


 私は本当に疑問なのだが、「待つ」期間について、誰も言及しないことが気になる。
 「考える時間を待つ」。これは十分に意味のあることだと思う。しかし、考えられるだけの情報、知識、経験が欠けていれば、きちんと考えることは難しいのではないか。
 社会と接していればこそ、遊びや仕事の仲間によって得られる刺激や経験があり、それでこそ「考え」が深くなり、多様化していくのだ。ところが、家というわずかな空間に、両親、兄弟という限られた人間関係の中で、ときを重ねている彼らは、断片的な言葉しか持ち合わせていない。それも限られた人間から与えられるか、新聞、TV、雑誌から与えられる情報ばかりだ。情報を判断の材料として使いこなしていくためには、実際の感覚や経験の裏打ちが不可欠だから、彼らにとって情報は単なる空想、夢想の材料でしかない。材料の乏しさは、同一の思想を循環させることしかできない。考えても考えても同じ結論しか導き出せない、苦しい作業となるだろう。
 考えることが苦しくなれば、考える時間を作らないように過ごすことになる。これは自己防衛として当然のことだ。今の時代、ゲーム、インターネット、テレビ、漫画、CDなど、暇つぶしの道具はたくさんある。そして、それらに熱中するふりをする。親から見れば、ただ怠けているだけにしか見えないこの行為は、「考える時間からの逃避行為」なのだ。逃避状況に入った彼らはいたずらにときを費やしていく。今日も明日も明後日も、状況は変化しないまま、ときの経過すら感じないまま。
 このような状況の中で「待つ」ことに何の意味があるだろうか。
 なぜ、カウンセラーたちは「待て」というのだろうか。
 私たちは、三年、五年、それ以上も「放置」され続けた青少年に対応している。もっと早く、もっと丁寧に、もっと綿密に対応されていれば、わざわざ「人生を拾う」必要はない。
 彼らは、長年のひきこもり生活にピリオドを打ち、私たちの寮へやってきたばかりのとき、たいてい小難しい言葉をえんえんと並べ立てる。聞いていても、私にはちんぷんかんぷんなので、「それ、どういう意味?」と聞くと、話が唐突にサッと変わる。こちらが何も言わないでいるなら、彼らはえんえんとしゃべる。しかし、その言葉は人には理解できない。相手に伝える気のない言葉、実体のない言葉だけをずっとつむぎ続けている。彼らはひきこもっている間、たしかに考え続けていたのだろう。しかし、誰からも批判を受けず、自分一人で思索を積み重ねていっても、決して思考は深まらない。
 もちろん、彼らも最初からこうだったわけではない。社会に触れることなく生活していれば、誰だってこういう状況になる。もちろん私だって、こういう環境に置かれたら、彼らのようになるだろう。
 彼らは言う。「無駄な時間だった。もっと早く出られれば良かった」。「自分ではどうしようもなかった。誰かが助けてくれたら……」。本人たちの真実の言葉。これは、前述のNHKのアンケートとも一致する。
 いい加減、現実というものを認識してほしい。勝手な想像や憶測、理屈、願望ではなく、事実を伝え、対応してほしいのだ。
 私は、ひきこもるのは半年〜一年で十分だと思っている。
 何もかもに疲れた心と身体を休め、ゆっくり休養し、自分の考えを静かに見つめるには、一年もあれば十分なのではないだろうか。それ以上続けば、悪循環にはまり、ひきこもりをいたずらに長引かせるだけで、本来彼らが過ごしているはずの、人生で一番楽しく健康的な日々を奪うだけなのだ。


ひきこもりは甘えでもあり
甘えだけではない


 とあるTV局の番組で、我々の団体が紹介された。その番組が終了するやいなや、私に一本の電話がかかってきた。「民族派」を名乗る人物からである。
 その人物の一種独特の話し方から、間違いなく右翼団体の人物であることが想像された。もちろん、どんな思想の持ち主であれ、話を拒否しようとは思わないので、その人物の言い分を聞く。
 彼は、「ひきこもり団体は国からの援助をもらっているのか」と問うので、「他は知らないが、自分のところではもらっていない」と答える。彼の言い分はこうだ。「学校に行かない子供は甘えているからだし、それを許している親は甘やかし過ぎている。そんな子供のために国が援助をするとしたら、学校に行かない子供がますます増え、国家の教育行政が危うい。そんなことは断じて許せん」。
 二〇年以上前までは、「子供を学校に行かせることができないのは親が甘いからだ」という考えがまかり通っていた。まさか、今、こういう考え方をする人はいないだろう。しかし、二〇歳を過ぎたひきこもりの若者は「甘えている」という考え方にさらされている。
 私は、「甘え」だけでは片づけられない問題がそこに潜んでいると考えている。教育の硬直化や画一化、偏差値偏向の状況、いまだに根強く残る学歴信仰、いじめ、体罰などから、家庭内や社会、地域の問題など、複雑な原因が絡み合っていて、とても一個人、一家族だけの力ではいかんともしがたい。
 しかし、一方で、ひきこもりの原因をなんでもかんでも社会的状況のせいにし、責任を追及するという姿勢が、ある種の人々に見られるのは残念なことだ。そして、不登校やひきこもりをひたすらに容認し、一方的に迎合するその態度は、反発、反感、反動を呼ぶのではないかと、私は恐れている。目の前にある事象をフェアに見つめ、考える姿勢が必要なのではないだろうか。それを失っては、「真実」に迫ることはできない。
 YSCでこんなことがあった。中学三年生のA君が、同じく中学三年生のB君の部屋に入り、一万数千円のお金を盗んでしまった。その事実が判明したときに謝りもしないA君を、B君は殴ってしまった。殴られたA君はそのことを親に報告。すぐに母親が抗議のために駆けつけてきた。
 スタッフは母親に説明する。「謝ってくれればB君はA君を殴りはしなかったが、盗んだ事実をA君が否定し続けるので殴ってしまったらしい」。しかし、母親は、「息子は盗んでいないと言っている」と主張し続ける。やがてA君がその事実を認めた後も、「たとえお金を取ったにせよ、殴ったB君を許せない」と訴え続ける。私は、「私も同じ年代だったらA君を殴っているかもしれない。悪いことをして謝りもしないのであれば、殴られても仕方ない。そうやって、いいこと・悪いことを覚えていくものではないか」と主張したが、わかってもらえず、母親はA君を連れて帰ってしまった。
 私は唖然とするよりがっかりしてしまった。社会的なしつけをする絶好の機会をみすみす逃してしまったことを、である。親が子供に味方するだけが、親の愛情ではないはずだ。社会の中で、仲間と生きていけるように育てていくのも大きな愛情だ。
 こうした経験を始終繰り返していくうちに、「ひきこもりは甘えだけでは説明できない。しかし、親や周囲は本人を甘やかしてはいないか」「親も、周囲も甘えてはいないか」と考えるようになった。親は、いい親、子供に好かれる親になりたがっている。しかし、それでいいのか。
 ひきこもりの若者たちは、家で注意されることも、禁止されることも、規制されることもほとんどない。それは、「何もかも社会が悪い」とする認識や良識に守られているからではないだろうか。
 前述した「民族派」を名乗る人物の言葉が、世間の大人の本音に近くなるのではないかという危機感が私の中にある。
 だから、「ひきこもりは甘えなのか」という質問にはこう答えたい。「甘えでもあり、甘えだけではない」と。本人や家族、周囲の人間が「甘えている」という状況もある。家庭をめぐる社会、教育制度などにも問題はある。その両方の側面を見ていかなければならないのだ。

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