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「折れた箇所の除去については無償でさせていただきますが、あなたの場合は他の歯もかなり悪いようですね」
執刀医がすでにやめてしまったことを言い訳に、なぜ取れないかについての十分な説明が得られないまま、赤坂の院長はX線写真を見ながら話し始めた。
インプラントをしたのは口内右下部分だが、右上、左の上下もホメられた状態ではないという。院長はどうするのがいいと思うかを尋ねると「抜くことになるでしょう。抜いて、インプラントにすることをおすすめしますね」と即答。インプラントにするには自前の歯を抜かねばならず、抜けば二度と後戻りできない。費用もかかる。にも関わらず、その言い方はあくまで軽い。「そうですか。で、仮にインプラントにするとしたら予算的にはどれくらいのものですか」
「そうですね。4本とすると、350万ほど。5本だと400万というところですね」
ひぃ。なんだそれは。バリバリの新車が買えるではないか。それとも、ここへは新車代をつぎ込んでもインプラントにしたい患者がわんさかくるのだろうか。
もちろん、ぼくにはその気などない。経済的な事情が許さないこともあるが、もっと大きな理由はこのクリニックへの不信感だ。10年後、またインプラントが折れない保証はどこにもない。技術的な信頼度が低く、折れた原因を突き止めようとする姿勢も感じられず、自前の歯を残す治療の可能性を追求するよりインプラント治療を優先的にすすめる営業方針にも疑問が一杯だ。これで同意したらアホである。
では、インプラントにしない方法には何があるのか。
「入れ歯しかないですね」
やはり‥‥。10年前もそうだったが、いまでも入れ歯しかないのか。そうだろうとは思っていたが、断言されると気持ちが沈む。だめな歯、どうにもならない歯の持ち主だと言い渡されたようなものだ。
入れ歯だといくらでできるのだろう。
「いろいろありますが、保険の利くタイプなら患者さんの負担は1万円ほどです」
むちゃくちゃ安いじゃないか。これは魅力的だと思ったが、1万円入れ歯を見せてもらうとたちまち気分はブルーに逆戻り。ギラギラした銀のコーティングに肉厚ピンクの人口歯茎なのである。しかも歯の裏側を通って反対側までガッチリ固めるので舌先に金属がしじゅう触れるのは必至。なおかつカギ状の金属でフックをすると、その部分は丸見えになってしまいバレバレ確実である。
「保険の利かない入れ歯とはどんなものですか」
「ありますよ。おーい、入れ歯持ってきて!」
すごいのが出てきた。1万円のより高級感がある。金属が薄いのはいいけれど、入れ歯は入れ歯。高級感などあってもしょうがない。舌先に金属、丸わかりの二重苦はそのままだ。丸わかりを避けられる入れ歯もあるらしいが、セールストークを聞きたくないので見るのはやめておいた。
さて、次回をどうするかだ。残ったインプラントをタダで取り除いてくれるのは誠意を示しているつもりなのだろうが、それが誠意だと言えるのは、本当に取り除くことができない場合である。商売優先のヤブ・クリニック(すでに決めつけている)の見立てが信用できるだろうか‥‥。
できるわけないよな。ここの技術力では無理だとしても、よそなら取れるかもしれない。最悪、除去治療費を払うことになろうとも、他の歯科医の意見を聞くのがベター。近年、セカンド・オピニオンの重要性が説かれているし、“急いては事をし損じる”のことわざもある。
請求されても払う気はなかったが、さすがにこの日の相談は無料。「よそでも相談したいから」と、持参したインプラントの残骸は返却してもらった。頭のなかでは350万という数字と、入れ歯という単語がぐるぐる回っている。もし他に方法がないのだとしたら、あまりにもツラすぎる二者択一だ。
帰宅して相方に報告すると、案の定「入れ歯にすればいいじゃん」と言われた。冷たく突き放す言い方ではないけれど、両者を比べたら問答無用で入れ歯だと考えたようだ。借金してでもインプラントだとは考えない。悪気はないのだ。彼女はうらやましいほど健康な歯の持ち主だから、歯がだめな人間の気持ちはわからないのである。
今後は、相談したりなぐさめてもらおうとするのはやめよう。自分の問題なのだ。自分で考え、行動し、決断しなければならないのだ。
最初に行った最寄りの歯科医に再度相談すると、東京医科歯科大学のインプラント科に紹介状を書いてもらえることになった。ぼくとしては、そこで治療してもらいたかったのだが「私はインプラントやってないんです。あまり好きじゃないので」とのこと。これも気になる発言ではあるが、とにかく大学病院に足を運ぶことにした。最先端の技術を持つとは限らないとしても、商売優先のセールストークはしないだろう。
翌週、お茶の水の東京医科歯科大学へ行く。平日の午前中だというのに驚くほどの人が治療にきていて、歯で悩んだり困っている人の多さを思い知らされる。30分順番待ちし、番号を呼ばれて7階のインプラント科に。
わからないことは質問責めにしようと気合いを入れて入室。緊張のため、固い表情になっているぼくに、30代ぐらいの医師が微笑みかけてくる。
「どうされましたか?」
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