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ポット出版欠歯生活
第1回平和は終わった

書き手北尾トロ
[2003-02-07公開]

 2002年12月8日の、なんの変哲もない午後だった。一仕事終え、家で妻と食事をしていたのだ。メニューはオムレツにパン、スープといったところ。オムレツの一切れをフォークで口に押し込み、右側の歯で噛みながらコーヒーカップに手を伸ばす。
 事件が勃発したのはそのときである。噛んでいた右側のアゴが急に軽くなったような感じがしたかと思うと、つぎの瞬間には明らかに食べ物ではない、堅く重量感のある物体が、下の歯茎に落ちてきたのだ。
 そのときのぼくの気持ちは、とうとう恐れていた日がやってきてしまったという絶望感と、まさかという思いが混じり合った複雑な感じだった。といっても一瞬のことで、実際にやったことといったら「あぅ」と唸り、口元を押さえただけだったが。
 舌先で、おそるおそる探ると、やはり右下の歯が丸ごと取れてしまったようだった。そして、そこにあったセラミック歯のカタマリが、食べ物と一緒に転がっている。予想どおりだ。
 だが、舌はさらに別な物体を探り当てていた。固い金属らしきものである。これは何だ。「どうしたの、歯が痛いの?」
 食事の途中で固まっていると妻が質問をしてきたがそれどころではない。逃げるように洗面所に駆け込みすべてを吐き出すと、セラミックと銀の4本連結歯と、金属片のいくつかが出てきた。「インプラントの被せ物が取れた」
 リビングに戻り、妻に状況を説明する。「げーっ、歯なし。信じられない」
 そして、落ち込むぼくを前に、健康な歯の持ち主である彼女は腹を抱えて笑ったのだ。「入れ歯のほうがマシじゃん」
 傷つかないと言えば嘘になるが、しょうがないのだ。オムレツ食べて4本も歯がなくなるなんて滑稽としか言えない。立場が違えばぼくだって大笑いする。ぼくがインプラントを入れたのは10年と少し前。結婚以前のことだし、自前の歯が何本もないことを自ら話すわけもなく、最低限の説明しかしていないのだ。「でもさー、インプラントって取れたりするものなの」
 いい質問だ。取れないのだ普通は。「これは一生ものです」と言われて装着したのだ。それがポロリとハズレたから、うろたえているのである。「壊れたってこと? インプラント、高かったんでしょう。いくらかかったって言ったっけ」「‥‥ざっと70万」「げーっ。まさか、また70万かかるんじゃないでしょうね」「それはない‥‥と思う」
 インプラントについては後に詳しく触れることになるが、一言でいえば骨に直接、金属の柱を立てる形式の人口歯。入れ歯と違って着脱の必要がないため手入れがラクなのだが、保険が利かないので治療費がべらぼうに高いのが特徴だ。だから、ぼくはこの10年、いつも頭の片隅でトラブルを警戒しながら過ごしてきたのである。
 でもまあ、上物が取れただけなら装着し直せば済むことである。ぜひ、そうあってほしい。だが、嫌な予感がしていた。取れた金属片は、いちばん奥の銀を被せた歯に入っていたものなのだが、ひとつだけ細い棒のようなものが混じっているのだ。これはどう考えても、インプラントの柱としか考えられない。そうでないなら、骨から生えた柱が、取れた連結歯の下に突きだしていなければおかしい。抜けてしまったのか。でも骨に異変は感じられない。
 冷静に棒を観察すると、どうも途中で折れているように見える。素材はチタンのはずだが、折れたりするものなのか。舌で歯茎を探る。インプラント部分の金属柱は内側が空洞になっているみたいだ。たしか、ぼくのインプラントは骨に筒状の柱を立て、木ねじのように棒を装着させる方式だった。ということはやはり、棒が途中で折れてしまっているのだ。
 すぐに最寄りの歯科医に電話をかけ、状況を説明して予約を取った。インプラントについては残った棒を取り除いて新しいものと交換するとしても、上物は作り替えなければならないだろう。なんやかんやで10万円くらいはかかるかもしれないな‥‥。
 ところが、話はそんなにカンタンではなかった。翌日、いつもの歯医者に行くと、医師はインプラント手術をした歯科医に行くべきだという。「ウチではインプラントはやっていませんし、こういう場合は執刀医に見てもらうのがいちばんですよ」
 そこでぼくは、かつての仕事場のそばにある歯科医にアポイントを取り、取れた歯を持参して相談することになったのだった。

第2回●再生不能?!
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