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[図書館の歴史を振り返る]図書館界が「紀元2600年」にかけた夢

東條文規
[2002-10-03]

一九四〇(昭和一五)年一一月一〇日、宮城前広場に国内外から五万五〇〇〇人が招待され、「紀元二千六百年祝典」が挙行された。
この年、植民地を含めた全国で一万三〇〇〇件の行事が行われ、延べ五〇〇〇万人が参加したとされ、日本中が「紀元二千六百年」で明け暮れた。
日中戦争のさなか、オリンピック、万博は中止になり、政府の抑制要請にもかかわらず、全国で計画された記念事業は一万五〇〇〇件を越えた。
この日本の歴史上最初で最大の国家プロジェクトに図書館も無縁ではなかった。

文●東條文規
とうじょう・ふみのり●一九四八年、大阪生まれ。
一九七五年から四国学院大学・短期大学図書館に勤務。
著書に『図書館の近代』(ポット出版)、共著に『巨大情報システムと図書館』(技術と人間)、『大学改革』(社会評論社)などがある。本誌編集委員。

はじめに

 戦前期、日本の図書館界は国家的慶事に便乗して図書館の発展を画策した。「日露戦勝記念」、「行啓記念」、「御大典記念」、「御即位記念」などの冠をつけた図書館が各地に建てられた。
 国家に冷遇され続けた、少なくともそう考えていた図書館界にとって、国家的慶事は図書館を発展、充実させるための数少ない契機ではあったけれども、必ずしも成功したわけではない。それどころか、図書館を働きとしてではなく、建物だけのモニュメントとして捉え、専門的職員や継続的な資料収集を軽視する考え方を行政や大衆に植えつけたのである。
 これから見ていく「紀元二千六百年」記念に因んだ図書館発展、充実策も結果的には失敗に終わった。だが、当時、図書館界が大きな期待をもってその実現にかなりの精力を傾けていたことは事実であった。以下、政府の公式記録である『紀元二千六百年祝典記録』[*一]を参照しつつ、この日本歴史上最初で最大の国家プロジェクトと図書館との関係を見ていきたい。


†…… 一章  図書館界の取り組み

大図書館そして府県立図書館の設立を!

 図書館界が「紀元二千六百年」[*二]奉祝事業の一つとして図書館充実策に取り組みはじめたのは一九三五(昭和一〇)年であった。第六七回帝国議会に「皇紀二千六百年記念図書館に関する建議」が提出され、三月一四日、衆議院建議委員第二分科会で可決される。建議は、眞鍋勝、青木亮貫、田中祐四郎の三議員によって提出されたものであるが、もちろんそれには日本図書館協会の意向が反映されていた。

皇紀二千六百年を期し神武天皇曠古の御偉業を憬仰記念する為帝国文化を表徴するに足る一大図書館を設立せられむことを望む。

 この建議に付せられた「理由書」によれば、国民文化の表徴といえる図書館整備は列国のそれに比べて極めて貧弱である。世界には蔵書一〇〇万冊を越える図書館がいくつもあるのにわが国最大の帝国図書館でも約七五万冊で世界の六七位だ。これでは悠久三〇〇〇年の文化を誇る日本の国辱だ。英国では一八八七年のヴィクトリア女王即位五〇年の祝典に公共図書館の充実を企てた。来たる昭和一五年は皇紀二六〇〇年に当たる。わが国の悠久深遠なる文化史上光輝あるこの盛典を永久に記念するためにもまず文化の表徴たる一大図書館を設立し、名実ともに世界の列国に伍すべきで、これはオリンピックや万国博覧会開催と同じほど重要な記念事業である。
 だが三月一四日の衆議院建議委員第二分科会での討議内容を見ると、同時に建議された「図書館普及」、「帝国図書館完成」、「帝国議会図書館並議員事務室完備」と合わせて審議され、「皇紀二千六百年記念図書館建設」には、政府委員から積極的な答弁を引き出していない。
 帝国図書館の完成すら建議にあるように未だ不十分な状態であるから、記念図書館を新築するよりは、まず帝国図書館の完成促進に従事する方が先である。とにかくいずれにしても社会教育の普及徹底を図る上において図書館の完成、内容の充実、利用の普及は政府もみなさんと同じ志である。
 要するに、記念図書館どころか帝国図書館の完成に関しても具体的な計画は一切示されなかったのである。じっさい、この「皇紀二千六百年記念図書館に関する建議案」は、「政府の参考に資するという意味に於て可決」というまったく実質的内容を欠いたものになり、他の建議案も「図書館普及」というほとんど意味のないものに解消されたのである(「第六十七回帝国議会に於ける図書館に関する諸問題」『図書館雑誌』第二九年第五号、一九三五年五月)。
 続いて図書館界が「紀元二千六百年」に触れたのは一九三六(昭和一一)年五月一二日から一四日、東京で開かれた第三〇回全国図書館大会の席上であった。日本図書館協会理事長松本喜一は国歌合唱後の式辞で次のようにいう。

思ふにわが国現代の文化は実に三千年に亙る国家発展の歴史を表現するものでありまして、今この昭和の聖代に於て皇紀二千六百年を記念せんとするに当りて、これが国民慶祝の誠意を表現する事業として、文化の殿堂たる図書館の建設を計り、次代文化の進展に資せんとする事の如きは、極めて時宜に適した最も有意義なる記念事業であると存ずるのであります

 さらに、一般協議題でも大垣市図書館長寺澤智了から、〈市立図書館を有せざる市へ皇紀二千六百年記念事業として之を創設せしむる様日本図書館協会幹部にて適当なる方法を講ぜられたし〉が提出される(「第三十回全国図書館大会会議録」『図書館雑誌』第三〇年第七号、一九三六年七月)。
 結局、この提案は、文部大臣諮問「一般社会人の図書館に対する認識を高むる方法如何」に対する答申に盛り込まれ一九三六(昭和一一)年五月一八日付で、文部大臣平生釟三郎宛に提出された。

皇紀二千六百年を迎ふるに際り其の記念事業として全国道府県市町村に実力ある図書館を設けしめ国内的に一大図書館網を完成して我国文化の発展上一新時代を画するやう大方針を樹立すること。

 同じく、以下の建議書を五月二六日付で、総理大臣、文部大臣、内務大臣に提出する。

皇紀二千六百年記念事業として図書館を有せざる府県市町村をして之を設置せしめらるる様適当なる措置を講ぜられむことを望む。

 「理由」も付されていて、図書館は学校とならんで国民教育の重要な機関である。だが現状は、府県立図書館がない府県が一一、中央図書館は一五もない。市町村立に至っては半分にも達していないので図書館を利用し得る者は全国民の一小部分だ。地方開発、国民文化向上にとって緊急問題であると信ずるので、未設置の府県市町村が皇紀二千六百年の記念事業として図書館設置ができるよう特に適当なる措置を講じることを切望する。
 どこか現在でも通用するような内容であるがとにかく、府県立図書館未設置の一〇府県知事、市立図書館未設置の大都市市長、公立図書館のない二四市長に対し、松本喜一日本図書館協会理事長より「皇紀二千六百年記念事業」として図書館設置方を懇請する意見書を六月二五日に発送している(「彙報」『図書館雑誌』第三〇年第八号、一九三六年八月)。
 具体的にどの府県に提出したかは明記されていないが、一九三六(昭和一一)年当時、府県立図書館が設置されていないところは、栃木、群馬、富山、福井、愛知、三重、滋賀、兵庫、島根、広島、そして東京府の一一であった。その内、三重は一九三七(昭和一二)年一月に文部省から三重県立図書館の設置許可が下りているので三重を除く一〇府県に意見書を発送したと思われる。
 続いて同じ年(一九三六=昭和一一年)の一一月に文部省で開かれた第二回中央図書館長会議でも「紀元二千六百年」に因んだ協議題や建議事項が秋田、岡山、山形、富山の四県から提出される。これらは一括して以下のような建議案にまとめられた。

皇紀二千六百年記念事業として図書館の新設並に改善充実を加ふる様文部大臣より地方長官に通牒せらるる様建議する件
(「図書館時事」『図書館雑誌』第三一年第一号、一九三七年一月)。

 以上のように一九三五(昭和一〇)年から一九三六(昭和一一)年にかけて、「紀元二千六百年」に因んだ図書館充実策は日本図書館協会を中心に何度も提起された。それは、代議士を通じての帝国議会への建議や全国図書館大会での文部大臣諮問に対する答申に盛り込まれたり、県知事や市長への懇請、意見として提出された。さらに各地域や県レベルでの図書館協議会などでも記念事業として協議題にのぼった。
 とはいえ、かねてからの懸案である帝国図書館の完成すら具体的な日程が定まっていないなかで、新しい大図書館の建設などは夢物語である。案の定、政府には帝国図書館の完成の方が先決だ、と事実上逃げられたのであった。だから、建議書や懇請もまだ可能性のある府県立や市町村立図書館の新設・充実策の方に重点が置かれていったといえる。


植民地にも記念図書館を!

「紀元二千六百年」記念の図書館建設の要請は、翌一九三七(昭和一二)年六月三日〜十日、「満洲」で開かれた第三一回全国図書館大会でも討議される。
 協議題には、「皇紀二千六百年文化記念事業」(提出者、浦和市教育界理事、長沼依山)、「皇紀二千六百年に際し図書及図書館に関する専門記録文化博物館の建設」(提出者、市立函館図書館長、岡田健蔵)、「皇紀二千六百年に全国図書館増設運動に関し日本図書館協会に於て図書館創設標準案を作成発表する件」(提出者、朝鮮総督府図書館、宮内信美)といったものがならび、いずれもかんたんに可決される。
 というのも、「皇紀二千六百年文化記念事業」の中身が帝国図書館の完成や府県立図書館のない地方の府県立図書館の設置という、すでに以前の図書館大会での討議や日本図書館協会の建議書として提出されたというせいもあるが、他方では、図書館界の要望をいくら提出してもほとんど実現しないという事情もある。いわば言い放しでも仕方がないという半ばあきらめの感もある。
 たとえば、岡田健蔵が提出した「文化博物館の建設」に関し「日本図書館協会内に建設期成委員会を設置」という案に対し、弥吉光長は、〈「言ふは易く行ふは難し」の言葉は吾国の図書館界にもそのまま当て嵌まることで、(中略)今までに建議された議案は夥しい数に上るが、実現されたものは甚だ少い〉と指摘する。
 さらに、この一日前に協議された文部大臣諮問「大東文化進展の為図書館の採るべき方策如何」も極めて抽象的なものであり、協議会でも〈時間が少ないのに、こんな大問題を討議しても到底纏まらないから、別に委員会を設けて研究されんことを望む〉(西海枝信一米沢図書館長)という意見も出ていたのである(以上「第三十一回全国図書館大会議事録」『図書館雑誌』第三一年第八号、一九三七年八月)。
 それでも結局、この大会で協議された建議案は、一九三七(昭和一二)年七月三一日、松本喜一日本図書館協会理事長から文部大臣安井英二に提出される。その内、「紀元二千六百年」関連については以下のようなものであった。

一、皇紀二千六百年文化記念事業として左記事項を実施せられむことを望む
一、現帝国図書館の内容及形式を拡充し権威ある国立図書館たらしむること
一、府県立図書館の設置なき地方当局に対し之が建設の促進を図ること
一、全国公私立図書館に対し愛郷心涵養の為め郷土博物室若は郷土博物館を附設すること。
一、皇紀二千六百年に際し帝国図書館に図書及図書館に関する専門記録文化博物館を附設せられむことを望む。
(以上、「彙報」『図書館雑誌』第三一年第九号、一九三七年九月)。

 ここで見られるように、今回の建議では図書館附設の郷土博物館と帝国図書館附設の図書及図書館に関する専門記録文化博物館が加わった。この間の帝国議会での審議の経緯から新しい大図書館は実現不可能になったけれども要するに、図書館界の永年の要望を「紀元二千六百年」という国家的慶事に便乗して実現させようというもので、明治以来、この国の図書館界が何度も取った方法の踏襲であった。
 とはいえ、注目すべきは、この国家的慶事に因んだ図書館充実・建設運動を国内だけではなく、植民地までに広げたことである。
 さすがに、独立国=「満洲国」の総理大臣張景恵と民生部大臣孫基昌に宛てた建議には〈満洲国に於て近代的国立図書館を新京に建設せられむことを望む〉というように、「皇紀二千六百年」という文言は見えないが、朝鮮、台湾への建議には何の躊躇もなく、「皇紀二千六百年」という文言を入れ込む。
 朝鮮総督南次郎への建議書には、〈道立図書館設置なき地方当局に対し皇紀二千六百年文化記念事業として道立図書館を建設せしめられむことを望む〉 同じく台湾総督小林蹐造への建議書には、〈州立図書館設置なき地方当局に対し皇紀二千六百年文化記念事業として州立図書館を建設せしめられむことを望む〉
 植民地の台湾、朝鮮への建議は、国内への建議と同趣旨のもので、要するに「紀元二千六百年」記念に、未だ図書館のない地方に新しい公立図書館を建てることを望むというものである。


†…… 二章  事実上の敗北宣言

戦時の影響を受ける

 ところが、枕詞のように使われていた「皇紀二千六百年」という文言は、この「満洲」での大会以降一九四〇(昭和一五)年のその年まで、『図書館雑誌』上ではほとんど使われなくなる。
 たとえば、翌一九三八(昭和一三)年三月の第七三回帝国議会衆議院に山本厚三、牧野良三両代議士より提出された「帝国図書館完成に関する建議」には「皇紀二千六百年」という文言は出てこない。

政府は現下の非常時局に際し社会教育振興の必要益々急を告けつつある情勢と此の必要に応する中枢機関としての帝国図書館の設備不完全にして社会の進運に伴はさる実状とに鑑み速に之か拡張完成を実現し以て時代の要求に応せられむことを望む。

 衆議院建議委員会に於ける討議でも、この建議どおり帝国図書館の不備、貧弱さは政府委員も認め、建議案は可決されるが、ここでも「皇紀二千六百年」という文言はまったく出なかったのである(「第七十三回帝国議会に於ける公共図書館費国庫補助法制定に関する請願 帝国図書館完成に関する建議」『図書館雑誌』第三二年第五号、一九三八年五月)。同じように一九三八(昭和一三)年五月に東京で開かれた第三二回全国図書館大会、続いて開かれた日本図書館協会総会でも「紀元二千六百年」の議論は一切出なかった。
 以後「紀元二千六百年」にあたる一九四〇(昭和一五)年まで『図書館雑誌』上に「皇紀二千六百年」という文言は地方の図書館のわずかな例を除き、見られなくなったのである。
 そして一九四〇(昭和一五)年一月号の『図書館雑誌』(第三四年第一号)の巻頭言「皇紀二千六百年を迎ふ」で日本図書館協会理事長高柳賢三は次のように書かざるを得なかったのである。

惟ふに皇紀二千六百年を記念するの事業多々あるべし。然れども二千六百年記念事業は必ずしも敢えて有形のものたるを要せず、我等図書館員は積極的に社会の進運に添い、国運国力の無形の一城郭たるの地位を獲得せんとする覚悟の如きは、蓋し好固の記念事業たるべし。

 つまり、図書館を新設することだけが記念事業ではない。国の方針に従ってしっかりした仕事をしようとする精神などはちょうどよい記念事業だと思う。要するに事実上の敗北宣言である。
 このような「敗北宣言」の背後には、一九三七(昭和一二)年七月七日の蘆溝橋事件からの日中戦争の全面化、八月二四日閣議決定の国民精神総動員実施要綱、翌一九三八(昭和一三)年四月一日の国家総動員法公布、一九三九(昭和一四)年には満蒙国境ノモンハンでの日本軍の敗北、九月一日には第二次世界大戦開始という一連の戦時体制が存在した。
 先に引用した高柳賢三の「巻頭言」の一節に先だつ文章がまさにそれを証明している。

顧みれば聖戦巳に三星霜に垂んとし、今尚支那の地に害敵と戦ふ将兵数百万、その労苦を思へば晏如たるを得ず、その地に委ねたる尊き血潮を思へば、銃後国民たるもの如何にして之に報ゆべきか、方寸最も熟慮を要すべし。東亜の新秩序を建設せんとする尊き使命達成には吾人の最大の努力を要する秋、我等図書館員としてこの国民精神総動員の一翼に参加し、些か皇恩に報ずる処なくんばあらず。

 それでも『図書館雑誌』には各地での「紀元二千六百年」記念の小さな図書館の設立計画や展覧会、展示の記事が載る。雑誌編輯部も一九四〇年三月号と四月号、さらに一〇月号に「紀元二千六百年記念事業に関する報告募集」の記事を載せ、各地の記念事業の計画や実施状況を報告するように求めた。
 けれども一括掲載予定の一二月号でも日本図書館協会主催の「文部省推薦図書等陳列」(於東京市内重要百貨店、大書肆等)、帝国図書館での「二千六百年奉祝記念秋季展覧会」等の記事が見受けられるが各地の事業が網羅されてはいない。
 それでは「紀元二千六百年」記念事業とはどのようなものであったのか、そのなかで図書館はどう位置付けられたのか、政府の公式記録である『紀元二千六百年祝典記録』(以下『祝典記録』と略記)から見てみたい。


†…… 三章  政府の公式事業

図書館は善戦?

 「紀元二千六百年」と何らかの事業の実施を結びつけ、その力を借りて成功させようとする試みはもちろん、図書館界だけに限られたわけではない。いずれも幻に終わった東京でのオリンピックと万国博覧会が最もよく知られているが、いろんな団体や個人がそれぞれの思惑をもってその一〇年も前から政府や地方当局に働きかけていた。[*三]
 一九三〇(昭和五)年、まず東京市がオリンピック誘致を「紀元二千六百年」と結びつけ、続いて同じ年、奈良の橿原神宮が一〇年計画で整備拡張事業の実施を内務省に申請する。その完成年が「紀元二千六百年」にあたり、かつ橿原神宮創建五〇年にあたるので、事業の完成と式典の挙行を国家事業とするよう求めた(古川隆久『皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展―』中公新書、一九九八年)。
 オリンピックと並んで大イベントとなるはずの万国博覧会は、古く日露戦争以後、政府や民間から開催の話が持ち上がっていたが、「紀元二千六百年」と結びついて具体化したのは一九三二(昭和七)年になってからであった。その中心人物は貴族院議員阪谷芳郎。阪谷は一八六三(文久三)年生まれ。渋沢栄一の女婿で大蔵官僚から大蔵大臣、東京市長を歴任。あらゆる公益団体の役員に名を連ね「百会長」とも呼ばれていた(古川隆久、前掲書)。阪谷は後に、「紀元二千六百年祝典準備委員会」の委員、それを引き継いだ「紀元二千六百年祝典評議委員会」の委員長、さらに「紀元二千六百年奉祝会」の委員長もつとめる。
 一九三三(昭和八)年三月二〇日の第六四回帝国議会貴族院で、その阪谷が国家的行事として記念事業を施行することを提案した。政府はこれに応えて、一九三五(昭和一〇)年一〇月に内閣に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を置いて、祝典その他奉祝事業の準備連絡に関する事項を調査審議させ、翌一九三六(昭和一一)年七月には、官制で「紀元二千六百年祝典評議委員会」を設けた(『祝典記録』第一冊)。
 準備委員会、それを引き継いだ評議委員会の委員には、何度かの異動はあったが、先の阪谷をはじめ、各官庁の次官、東京府、神奈川県、奈良県の知事、財界人、歴史学者、大日本体育会関係者など四〇名が選ばれた。
 さて、この準備委員会、評議委員会で政府が行う記念事業が決められるのだが、何度かの討議のなかで図書館の建設に触れられたのはたった一度しかない。一九三五(昭和一〇)年一二月一九日、内閣総理大臣官舎で開かれた準備委員会第二回総会での植原悦二郎衆議院議員の発言である。
 この発言は、万国博覧会開催に際して、国民に強制的な負担をかけないためにも、提案されている万博の割増金附前売入場券の発売を支持するという内容で、その余りを大規模な博物館、図書館等の建設に充てよ、というものである。
 それでも膨大な数にのぼる建議、請願、陳情のなかから内閣紀元二千六百年祝典事務局が選別し、各省とも協議の上、取りまとめた三六の候補のなかに図書館建設は残っていたのである。一九三六(昭和一一)年一〇月二九日の評議委員会第三回第一特別委員会に審議の参考として提出された三六件の建議、請願、陳情は大きく五つに分類されている。第一、橿原神宮等に関するもの。第二、神武天皇聖蹟に関するもの。第三、記念建設物に関するもの。第四、各種大会展覧会等に関するもの。第五、其の他。その第三の記念建設物に関するもののなかに、「図書館の建設」が挙げられている。中身は、「皇紀二千六百年を期し神武天皇曠古の御偉業を景仰記念するため帝国の文化を表徴するに足る一大図書館を建設せむとするものなり」。提出者は衆議院。もう一つあって、大阪府が提出した大阪市内に国際見本市会館の建設という提案のなかに「図書館の開設」と出ているが、これは内容的には国際見本市会館のなかの図書館と考えられる(『祝典記録』第一冊)。
 衆議院提出の「図書館の建設」はいうまでもなく第一章で見た一九三五(昭和一〇)年三月の第六七回帝国議会衆議院に提出され、「政府の参考に資するという意味に於て可決」されたもので、考えようによっては、よく最終選考まで残ったというべきかもしれない。
 いずれにしてもしかし、以後、図書館の建設に関する発言は一切出ず結局、一九三六(昭和一一)年一一月九日の評議委員会第二回総会で決議された国家が行う奉祝記念事業は以下の六件であった。一、橿原神宮境域並畝傍山東北陵参道の拡張整備。二、神武天皇聖蹟の調査保存顕彰。三、御陵参拝道路の改良。四、日本万国博覧会の開催。五、国史館の建設。六、日本文化大観の編纂出版。四の万博以外は紀元二千六百年奉祝会が直接または国・公共団体もしくは私設団体に委託し、参考案としての予算も一般寄付金五〇〇万円、国庫補助金五〇〇万円の計一千万円と決められた。
 その後一九三八(昭和一三)年七月一日の評議委員会第五回総会で「宮崎神宮境域の拡張整備」が加えられる(『祝典記録』第一冊)。以後、四の万博を除き宮崎を加えて「六大事業」と呼ばれた。
 ここで注目すべきはオリンピックがこれらの事業に入っていないことだが、すでに一九三六(昭和一一)年七月に、ベルリン大会に際して開かれたIOC総会で次回の東京開催が決定されていた。だから実質的には記念事業の一環であることには間違いない。事実、当初は準備委員会でも積極的な意見も出たが、オリンピック招致は国内だけでは決定できないこと。IOCが万博などと抱き合わせでオリンピックを開くことを嫌っていること。都市が主催すべきで国において決定すべきではない等の意見が出て形式的に記念行事からはずしたのである。その代りに文部省所管の奉祝記念事業に入れられたのが五の「国史館の建設」と六の「日本文化大観の編纂出版」だったのである (古川隆久、前掲書)。
 一方、万博の方は、一九三七(昭和一二)年八月に「紀元二千六百年記念日本万国博覧会抽籤券附回数入場券発行に関する法律」を発布するなど日本万国博覧会協会を中心として着々と事業をすすめていた。翌 一九三八(昭和一三)年三月には第一回の入場券も発売(売捌額五六〇万四一七〇円)した(『祝典記録』第七冊)。
 オリンピック、万博、両者の会場となる東京市も一九三八(昭和一三)年二月中旬に、三年間の継続事業として、市債を財源とするオリンピック、万博開催にともなう道路、水道など関連施設の整備予算(オリンピック関係約一〇〇〇万円弱、万博関係約一〇九〇万円)を作り、市会でほぼ原案どおり可決された(古川隆久、前掲書)。
 しかし、当時「支那事変」と呼ばれた日中戦争遂行と軍備拡充が至上命題とされ、長期戦態勢確立を国民にアピールするためにも、一九三八(昭和一三)年七月の閣議でオリンピックの中止、万博の延期(すでに入場券を発売しているので)を決定した(古川隆久、前掲書)。
 以上のように、「紀元二千六百年」に因んだ記念事業も、日中戦争の泥沼化、それによる長期戦態勢確立のため国民統合の手段化としての役割をはたすことになったのである。すでに一九三八(昭和一三)年四月一日には「国家総動員法」が公布され、同じ四月に電力の国家管理も実現していたのである。
 このような時代に図書館の建設などはまさに「不要不急」である。日本図書館協会を中心とする図書館界の幹部たちが、格好の機会だと目論んだ「紀元二千六百年」記念の大図書館の建設も所詮、夢物語でしかなかったといえる。
 それでは、一九三六(昭和一一)年一一月に政府が行ういわゆる「六大事業」の決定後の図書館建設や充実の要望や建議は意味のない無い物ねだりだったのであろうか。とすれば、なぜ、図書館界は第一章でみたように、一九三七(昭和一二)年七月の段階でも無駄とも思える建議や要請をしたのであろうか。
 一つには、この時期、未だ政府が十分な広報を国民に行っていなかった事実がある。一九三七(昭和一二)年二月に次官会議で「紀元二千六百年に関する宣伝方策大綱」が決定されるが、その中心は、一九四〇(昭和一五)年にオリンピックと万博が行われるというものであって、それも実際に広報が開始されるのは一九三八(昭和一三)年二月以降であった(古川隆久、前掲書)。
 しかも一九三七(昭和一二)年七月、蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争が開始され、直後政府は、「国民精神総動員計画実施要綱」を決定、内閣訓令を発した。先の「紀元二千六百年に関する宣伝方策大綱」もこの国民精神総動員運動のなかに包含されていったのである。じっさい『図書館雑誌』にも一九三七(昭和一二)年十月号の冒頭に、この「実施要綱」とともに、文部次官伊東延吉名での日本図書館協会理事長松本喜一宛の「国民精神総動員に関する通牒」、「国民強化運動に関する宣伝実施基本計画」が大きく掲載された。要するに、当時一般の人びとには「紀元二千六百年」とは、オリンピックと万博ぐらいしか知られていなく、当時の新聞を見てもオリンピック関係は多数載っているが、それ以外は万博関係が少し見えるだけで、他は一切報道されていないのである。
 二つには、それでも図書館界が「紀元二千六百年」にこだわったのは、政府の「六大事業」以外にも各地方公共団体が奉祝記念事業を計画しているので、そのなかに図書館建設・充実を折り込もうとしたことであった。そのあらわれが第一章で見た府県立図書館のない府県知事への図書館建設の要請や植民地の図書館建設への要請であった。
 それでは、「六大事業」以外に各道府県の奉祝記念事業のなかに図書館関係はどれほど含まれていたのであろうか。次にそれを見ておこう。


†…… 四章  各地の記念事業で図書館の建設充実を

橿原文庫完成

 一九三六(昭和一一)年七月一日に官制によって設置された内閣紀元二千六百年祝典事務局は「六大事業」以外の各道府県市町村等の奉祝記念事業の計画の調整をはかった。その趣旨は、奉祝記念事業として適切でないものを避けること。第二に、「六大事業」と重複するような大規模な寄附金募集は避けること(『祝典記録』第一冊)。要するに国民の経済的負担を出来るだけ少なくせよということであるが、その背景には何度も言うように、一九三七(昭和一二)年七月七日の北京郊外蘆溝橋での「支那事変」(日中戦争)の勃発、全面戦争化があった。
 調整に関する内閣書記官長からの通牒は、各省次官、地方長官宛に第一次(一九三八=昭和十三年八月四日)、また第二次(一九三九=昭和十四年七月一九日)は、内閣書記官長、内務次官、大蔵次官連名で地方長官宛にほぼ同じ内容で発せられた。さらに第一次には、植民地である朝鮮、台湾、樺太、南洋群島を管轄する拓務省宛、関東州を管轄する対満事務局次官宛にも同趣旨の通牒を発した。
 その結果、祝典事務局で検討、内閣書記官長に上申し、承認(栃木県は認定だけ)されたものが『祝典記録』に列挙されている。その数は七〇件余。そのうち図書館関係のものは次の四点であった。
 一、大阪市奉祝記念事業の一つとして一九三七(昭和一二)年度以降一〇年間で中央図書館を経費一七〇万円で創設する。
 二、栃木県奉祝記念事業の一つとして下野文化施設を経費三八万円で創設し、そのなかに図書館をつくる。
 三、奈良県奉祝記念事業の紀元二千六百年記念永久事業施設(橿原道場施設・経費一五〇万円)のなかに橿原文庫(二階建延坪約二三〇坪)を創設。
 四、富山県奉祝記念事業として、紀元二千六百年記念県立図書館の設置。経費九万五六七一円。
 以上四点であるが、じっさいになんとか完成したのは奈良県と富山県の二件であった(『祝典記録』第一冊)。
 奈良県は、神武天皇を祀る橿原神宮の地であり、「紀元二千六百年」奉祝にはどこよりも力を入れていた。その背景には奈良を観光立県として躍進させようとする地元の思惑があり、それは同時に日中戦争勃発以降の政府による国民統合のシンボルとしての皇室ブランドの利用ともうまく一致していた。事実、奈良県の計画は橿原神宮の整備拡張を中心にほぼ実現した。県の事業として認められた橿原道場建設工事には、大阪朝日新聞の協力も得て、建国奉仕隊が組織された。その数は延べ一二一万四〇〇〇人。その三分の一は青少年であった(古川隆久、前掲書)。ついでにいえば、私の母は、当時大阪のカトリック系の高等女学校の生徒であったが、建国奉仕隊の一員として動員されたことを鮮明に記憶している。
 さて、そのなかの橿原文庫については天理教団が建築、調度、収集図書の選定、収書(図書寄贈は公募された)、整理一切を引き受けた。その中心にいたのが天理教第二代真柱中山正善。中山は東京帝大の学生時代姉崎正治の薫陶を受け、古書の収集家としても有名で弘文荘の反町茂雄が「顧客の横綱格」、「第一の勇将」(反町茂雄『一古書肆の思い出』三、四、平凡社、一九八八年、一九八九年、後に平凡社ライブラリー、一九九八)と記している。一九三〇(昭和五)年には天理外国語学校附属図書館を創設し、一般にも開放した。橿原文庫は一九四〇(昭和一五)年一月から閲覧を開始し、戦後は奈良県立橿原図書館として現在も活動している(日本図書館協会編『近代日本図書館の歩み 地方篇』日本図書館協会、一九九二年)。
 当時文部省嘱託の有山(戦後、日本図書館協会の再建に尽力)は「奈良県図書館状況視察記」(『図書館雑誌』第三四年第三号、一九四〇年三月、『有山著作集』第三巻、日本図書館協会、一九七〇年所収)のなかで橿原文庫に触れて以下のように記している。

工費十五万円を費して出来た古代和風の木造コンクリート一階建て、延建坪二百三十坪、二階建の書庫は防火防湿の設備がなされ、閲覧室、職員室などすべて合理的配慮が施されて居て立派なものである。蔵書は東京、大阪、京都の出版業者より奉献されたもので現在約六千冊ある。
 文庫の意図する所は、特殊図書館と一般図書館とを兼備せんとするにある。特殊図書館としては、神武天皇に関する図書を中心として国史研究に必要にして且つ重要なる文献資料を豊富に網羅して研究者の便に供す。又一般図書館としては、来場の修練生を初め一般国民の為めに一般図書を置いて日本精神の養ひとする。
 大和創業の聖地に道場を作り、その道場の精神的中枢として文庫を作るは、誠に適当な事であると思はれる。
 願くば文庫に相応しき士を得て、その設備に立派な効果を収められん事を祈る次第である。

富山県立図書館

 一方、富山県の県立図書館では、承認された段階で経費九万五六七一円。財源は一般県費。事業概要は県の所有する元の県会議事堂(大正会館)を〈適当に模様替〉し、県が使用していない〈倉庫を移転修築〉し書庫とする。だから資材はほとんどいらないという極めて質素なもので、〈資材の需要調節に支障を来すことなきものと認められる〉と『祝典記録』にも記されている。
 この富山県立図書館の設立は県下の図書館界の永年の要望であり、県に対して建議、請願が何度もくり返された末にやっと実現したものであった。
 具体的には、一九三四(昭和九)年、県会で県議片口安太郎によって県立図書館設置の要望が中央図書館の補助金と関連して取り上げられる。翌一九三五(昭和一〇)年には富山商工会議所総会一致の決議で知事に県立図書館の設置の建議、一九三六(昭和一一)年には富山市長が富山市立図書館の県への移管を上申するが、県は県立と市立との役割の違いを認め、県立新設の意図を固めた。
 そして一九三七(昭和一二)年二月、県学務部長は中央図書館報紙上に「皇紀二千六百年」記念の三大理想事業の最後に「郷土博物図書館の設置」を加える。一九三八(昭和一三)年、県会で先の片口安太郎県議が「皇紀二千六百年」記念事業に関連して設置を強調し、矢野知事が同感の意をあらわし、翌一九三九(昭和一四)年、県会にやっと予算が上程されるに至る。
 以上のような経過をたどり、一九四〇(昭和一五)年、つまり「紀元二千六百年」二月一一日付で県立図書館は認可され、三月三〇日付で帝国図書館司書加藤宗厚を初代館長に迎えた。次いで五月一〇日付で中央図書館の指定を受けたのである(「富山県図書館概況」『図書館雑誌』第三四年第一〇号、一九四〇年一〇月)。
 けれども、このようにようやく完成した図書館も当初の構想からは何度も縮小されたものであり、帝国図書館から迎えられた加藤宗厚館長自らが開館当初の蔵書六〇〇〇冊の分類もしなければならなかったという(『近代日本図書館の歩み 地方篇』)。
 その後加藤館長は、一九四四(昭和一九)年一二月まで富山に留まり、以後東京都立深川図書館長兼日比谷図書館事業係長として戦時下、中田邦造日比谷図書館長の下、空襲からの図書疎開事務に従事することになる。
 富山在住時、加藤館長は、市立図書館とは異なる県立図書館の役割を啓蒙し、学校教育と社会教育としての図書館の連携、文化活動、貸出文庫の利用宣伝、読書会指導などで県下を廻り、知事との交渉では図書費の倍増(五〇〇〇円を一万円)などの成果を上げた。
 だが、戦時下の類同機関の統合問題により、一九四三(昭和一八)年四月に市立は県立に合併され、〈中央図書館部と書庫を残し、閲覧部と図書整理部の大部分は旧市立図書館の官舎に移す。市立図書館の年経費一万五千円は向う三ヶ年継続して県に寄附、旧市立図書館職員全員を県立図書館に採用することとなった〉。合併後の職員数は三一名となり、経営費は県民一人当り四銭(全国平均一銭三厘)、絶対額は東京、大阪、京都、福岡に次ぐ第五位となった(加藤宗厚『最後の国立図書館長―ある図書館守の一生―』公論社、一九七六年)。
 要するに、加藤の努力にもかかわらず「紀元二千六百年記念」と銘うたれた富山県立図書館は、実質的には富山市立図書館に吸収され、名称だけが県立図書館として残った。だが、この県立図書館も一九四五(昭和二〇)年八月二日の富山大空襲で疎開中の図書を除き、館舎と約三万五〇〇〇冊の蔵書を焼失したのであった(『近代日本図書館の歩み 地方篇』)。
 あと二件、大阪市の中央図書館と栃木県の下野文化施設の中の図書館は、政府が認めたにもかかわらず結局、実現しなかったのである。
 なかでも大阪市立中央図書館は真田山騎兵連隊跡に地下一階地上三階、書庫九階、総面積三〇〇〇坪。設計図も完成し、一九三八(昭和一三)年の『大阪毎日新聞』(二月二五日)には、〈「書籍の自動車」も二台、豪華・商都図書館、市が二千六百年記念に建設の明朗宝庫の設計成る〉と大きく報道されていたのである(石井敦監修『新聞集成図書館』第一巻、大空社、一九九二年)。

†…… 五章  政府の公認以外の図書館設立

実現したのはわずか?

 これまで見てきた事業は内閣書記官長に「紀元二千六百年」記念事業として承認されたもの、つまり政府が公認したものであるが、それ以外にも各官庁、各地方で記念事業は数多く存在した。
 先の『祝典記録』全一三冊中、第七冊から第一〇冊までが奉祝記念事業の記録である。
 それによれば、紀元二千六百年祝典事務局の照会に回答したものは〈官庁及内地・外地・海外を通じ〉て一万五四〇〇件。金額一億六二九五万七〇〇〇余円。内、官庁関係一〇九五件、金額八五一万五四〇〇余円。
 その他内地における事業は一万九五〇余件、金額一億四二三一万九八〇〇余円。外地における事業三二〇〇余件、金額一〇六四万二三〇〇余円。〈満洲国を始め海外に於ける在留邦人が遠く異域に在りて故国の紀元二千六百年を心から祝福しつつ行へる記念事業〉は、国際情勢緊迫のなかで外務省を通じてごく一部の回答しか得られなかったが、一四九件、金額一四七万九八九〇円。
 『祝典記録』第七冊、第十一輯「奉祝記念事業」第一編「総説」は、以上の数字をあげて、時局により、生産力拡充に必要な物資や労力の需給調整のために自粛の通牒を発したにもかかわらず、このように膨大な数の記念事業が施行された。これは、ひとえに官民協力、国を挙げて〈光輝ある紀元二千六百年を奉祝記念〉しようとする〈赤誠の凝結〉にほかならない。時、あたかもわが国未曾有の重大時局に際し、〈肇国の大精神を高揚すべき秋、国体尊崇の実を顕現し、国民精神を作興して時艱克服に寄与するところ頗る大なるものあるを思ひ洵に感激に堪へ〉ないという。
 まさに、「紀元二千六百年」を官民協力して奉祝し、この感激をもって、次は国体のために官民一体となって闘え! ということである。
 さて、このような膨大な記念事業のなかでも図書館関係の事業はかなりの数にのぼる。以下、『祝典記録』から見ておこう。
 まず官庁における事業の内、記念文庫、図書室等整備は二二件。そのほとんどが文部省関係の事業で学校図書館の設置、記念文庫の設立である。主なものを列挙すると、東京女子高等師範、宇都宮高等農林、和歌山高等商業、横浜高等商業、高松高等商業、高岡高等商業、福岡高等学校、山梨高等工業、弓削商船学校、大阪外国語学校、京都府立女子専門学校、明治学院、実践女子専門学校、昭和女子薬学専門学校、横浜市立横浜商業専門学校。
 それぞれ規模、経費等まちまちであるが蔵書については、国体明徴、日本精神、大陸に関するもの等という注釈がつけられている。また帝国図書館は、〈紀元二千六百年の真意義を闡明せんことを期し、記念図書として歴代聖徳・肇国の精神・国体の本義、皇国精神・国史の発展に関する図書百七部百二十三冊を特別書架に陳列して閲覧者に展示し、昭和十五年一年を通じ其の閲読に供したり〉と記されている(『祝典記録』第九冊)。
 次に内地における事業、つまり各道府県における事業を大別すると表一のようになる。教育関係は件数で第二位、金額で第四位である。教育関係をもう少し詳しく見たのが表二である。まさに「時局」がそのまま反映されているといってもよい記念事業であるが、図書館は件数にして五五件、一六番目である。記念文庫を加えると一七九件となるが、金額を見ても明らかなようにいずれも町立、村立の小規模なものに過ぎない。それも実際に完成したのかどうか疑わしい。というのも『祝典記録』に記載されている三つしかない市立図書館がいずれも完成したのは戦後になってからで、当時の計画がそのまま継続、実現されたとは考えられない。
 一つは、神奈川県藤沢市。市立図書館及公会堂営繕資金積立として、一九四〇(昭和一五)年から毎年市費より五〇〇円の積立、寄附金積立で一〇万円目標。じっさいに藤沢市図書館が開館したのは戦後の一九四八(昭和二三)年である。
 二つは、石川県七尾市。一九四〇(昭和一五)年度以降、〈市費及寄附金を積立て継続事業として建設するものとす〉として予算六万円を予定。じっさいに七尾市立図書館が設立されたのは戦後の一九四七(昭和二二)年である。
 三つは、愛媛県八幡浜市。寄附金を一九四〇(昭和一五)年度と一九四一(昭和一六)年度に募る。〈市立図書館設立費四万二千円の内敷地購入費一万円、館舎建設諸費三万二千円なり、財源の内訳は一篤志者の寄附に依る不動産売却代金一万円及一般寄附三万二千円とし、寄附募集竝に実施設計に着手す〉とあるが、設立されたのは一九四八(昭和二三)年であった。

植民地でも同じように

 最後に、当時「外地」と呼ばれた植民地、さらに実質的には植民地で外国からはほとんど承認されていなかったが一応独立国と称していた「満洲国」での「紀元二千六百年」記念の祝典事業にも触れておかねばなるまい。
 第三章でも触れたように、「紀元二千六百年奉祝記念事業の調整に関する件」という通牒は、朝鮮、台湾、樺太、南洋群島については拓務次官宛、関東州については対満事務局次長宛にそれぞれ内閣書記官長名で発せられていた。日本図書館協会もまた、第一章で見たように、「満洲」での第三一回全国図書館大会(一九三七=昭和十二年)の決議を踏まえ、朝鮮には道立図書館を、台湾には州立図書館を建設するよう総督に建議していたのであった。さらにさすがに独立国=「満洲国」には「紀元二千六百年」という文言はないが同趣旨で新京に国立図書館の建設を建議していた。
 その「外地」での記念事業をまとめたのが表三である。「内地」とあまり変わらない内容であるが、金額的には社寺関係が最も多く、植民地に日本の神社や寺院をいかに押しつけたかが窺える。
 教育関係をまとめたのが表四であるが、記念文庫・図書館・図書購入がまとめられて七一件、第四位である。この順位も「内地」の記念文庫と図書館を合わせて六位というのとほぼ同じである。なお、三位の楠公像は楠正成の像、九位の誓詞塔は、一九三七(昭和一二)年朝鮮総督府が制定、朝鮮人に対する皇民化の促進として各学校、役所で斉唱させた「皇国臣民の誓詞」を刻んだものである。
 ところで「内地」と同じく、植民地でも図書館建設はじっさいにはほとんど実現しなかった。当初は「内地」と同様、「紀元二千六百年」記念と称して図書館建設の気運は存在した。一九三六(昭和一一)年一〇月三一日付『京城日報』紙上で朝鮮総督府図書館長荻山秀雄は〈皇紀二千六百年と恒久的な記念事業、それには図書館が第一〉といい、各地に小図書館をつくることを提案している(『文献報国』第二巻第四号、一九三六年一一月、復刻版『文献報国』第二巻、緑蔭書房、一九九三年)。
 しかしその後の「時局」の進展によって新しい図書館はほとんど出来ていない。朝鮮総督府図書館報『文献報国』に記されているのは、一九三九(昭和一四)年二月開館の全州府立図書館、一九四〇(昭和一五)年四月開館の大田府立図書館ぐらいであるが、いずれも蔵書三〇〇〇冊足らず、建坪一〇〇坪ほどの小規模なものに過ぎない。「皇紀二千六百年を迎へて開館せんとする大田府立図書館」のなかの記事は次のようにいう。

事変前には朝鮮に於ても、図書館運動に対する一般の理解も一段と深まり、図書館の設立も相当行はるる様な状態にあったのである。おそらく聖戦下でなかったならば、この皇紀二千六百年の記念事業として図書館網の確立も計画せられたであろうが、現在の情勢にあっては今暫く時を待たなければならないものがあるであろう。
(山本春喜「後凋録」『文献報国』第六巻第一号、一九四〇年一月)

 また朝鮮総督府図書館は、「紀元二千六百年」記念の三大事業として、一、参考図書館建設、二、文国殿新築、三、蔵書無欠本記念碑建設を計画した。『祝典記録』によれば、予算三五〇〇円で、従来通俗図書館として経営していた総督府図書館を一九四一(昭和一六)年度から参考図書館に昇格させ、通俗図書館部門は新たに分館を建てるというもの。だがじっさいは館内の機構が少し変わっただけで分館は建てられなかった[*四]。 二の文国殿は、予算三九〇〇円が予定されていたが、初めは館長室、その後庶務室にあり、教育勅語謄本と過去の館員功労者の合祀をはかったに過ぎなかった。
 文国殿とは文献報国殿の略称。この文国殿も一九四一(昭和一六)年八月二〇日には、〈勅語謄本及文国殿神霊は大風呂敷に包み本書庫地階に避難し尚危険ありと認むる時は之を背負いて避難す〉ることに館内打合会で決められるに至る(『文献報国』第七巻第一〇号、一九四一年一〇月)。
 三の蔵書無欠本記念碑建設は、予算一五〇〇円とあり、〈本館全蔵書は紀元二千六百年に因める二十六万冊に垂んとせり、而かも一冊の欠本なきことは我国は勿論外国に於ても類例なき所なり此の良風美俗を記念し此の精神を永久に伝承するため記念碑を建立す〉と『祝典記録』に記されているが、『文献報国』を見るかぎり、この記念碑が建立された事実は確認されない。[*五]
 なお海外については、在郷軍人分会設立、植樹、日本人小学校校地拡張竝に校舎建設、神社造営竝に境域及参道拡張などが記されているが、記念文庫、図書館の建設は見あたらない。また『祝典記録』に附設として「日本紀元二千六百年満洲帝国慶祝事業」が詳述されているが、図書館建設は記されていない。
 かつて一九三七(昭和一二)年、「満洲」での全国図書館大会で決議し、建議した新京に国立図書館を建設[*六]という「夢」は幻に終わったのである。


おわりに

 日本図書館協会を中心とする図書館界が図書館の充実・発展を目指して取り組んだ「紀元二千六百年」奉祝記念事業も、見てきたように、ほとんど成果を挙げることは出来なかった。
 日中戦争下、いわゆる「時局」のなかで、図書館のような国威発揚も経済的効果も期待できない存在は「不要不急」の施設としていっぱんに軽んじられてきた。だから、その多くは計画倒れ(帝国文化を表徴する大図書館、帝国図書館の拡充。大阪市立図書館、新京の国立図書館など)か、完成したとしても極端な規模の縮小(富山県立図書館や名前だけの町村立図書館)されたものでしかなかった。
 とはいえ、計画倒れや規模が縮小されたのは必ずしも図書館だけではなかった。政府の公式事業(先の六大事業と万博)でさえ、何とか計画通り実施出来たのは、橿原神宮、宮崎神宮、御陵参拝道路、神武天皇聖蹟調査の四事業、いずれも神武天皇あるいは皇統に直接かかわる事業だけであった。『日本文化大観』は、古代から中世までを扱った第一巻が一九四二(昭和一七)年に少部数出版されたが、第二巻以降は未完。国史舘の建設は、帝国議会旧議事堂跡(鹿鳴館跡。現在のNTT本社付近)に予定され、設計案もほぼ固まっていたが実現されなかった(古川隆久、前掲書)。言うまでもなく、戦争の長期化が原因である。
 ついでに付け加えるならば、国史館の計画は戦後、アカデミズムを中心とする「国立民俗博物館設立運動」として引き継がれ、ようやく一九六六(昭和四一)年、総理府に設置された明治百年記念準備会議が「歴史の保存顕影」の一つとして、「歴史民族博物館の建設」を決定する(金子淳『博物館の政治学』、青弓社、二〇〇一年)。
 現在、千葉県佐倉市にある国立民俗博物館である。設立は一九八一(昭和五六)年。明治百年(一九六八=昭和四三年)から一三年後、「紀元二千六百年(一九四〇=昭和一五年)からは四一年が経過していた。[*七]
 本稿では、図書館の建設や充実など記念事業を中心に論じてきたが、一一月一〇日の宮城前広場での式典に合わせた記念行事も各地で開催された。圧倒的に多いのが子供たちを動員した運動会の類であるが、各地の図書館でも展示会や展覧会が開かれた。中身の詳細は明らかではないが、第二章で少し触れた日本図書館協会主催の「文部省推薦図書等陳列」でもわかるように、いわゆる皇室中心の歴史書や「時局」関係の図書、資料であった。
 このような事業が一般の大衆に魅力的で特別な関心を惹いたとは思えない。『図書館雑誌』の編集部が再三呼びかけたにもかかわらず、各地の図書館の記念事業の報告が少なかったことが、そのことを何より物語っている。おそらく図書館側も多くは「お付き合い」として行事をこなした、というのが本音ではないだろうか。
 いずれにしても、「紀元二千六百年」は、図書館関係者の意気込みほどには成果を挙げることが出来なかったのである。


●注

[*一]

政府が昭和天皇伝記編纂用などの内部資料として一二部のみ作成した公文書。原本は全十三冊、写真帳三冊、A4判で各冊平均九五〇頁の壮大な記録集。奥付はないが発行は一九四三年。現在確認されているのは四部といわれる。一九九九年に、ゆまに書房から「近代未刊史料叢書」2として第一冊から第六冊までが全十二巻として復刻刊行された。第七冊以降は未刊。図書館建設など各地の「奉祝記念事業」が記されているのは主に第七冊から第十冊。復刻版未刊部分については、国立公文書館と同志社大学人文科学研究所所蔵の原本を利用させていただいた。なお引用は他の資料を含め、漢字は一部常用漢字に、カタカナはひらがなに改めた。

[*二]

『図書館雑誌』では「皇紀二千六百年」が使用されている。当時、「紀元」、「皇紀」両方が用いられているが、一九三六(昭和一一)年七月二一日の紀元二千六百年祝典評議委員会第一回第一特別委員会で、黒板勝美(歴史学者)委員の意見で「紀元」と決まり、官制にも「紀元」を使用することに決定した。しかしその後もいろんな組織、団体が「紀元」、「皇紀」を使用し、完全に「紀元」に統一されたわけではない。本稿では原則的に「紀元」と記するが、引用文ではそのまま「皇紀」も使った。

[*三]

「紀元二千六百年」に因んで政府、公立団体、各界がそれぞれの思惑や経済的利益も考慮してさまざまな記念事業や記念行事を実施した。「紀元二千六百年」関係の研究書としては、学校との関係で詳述した山中恒『ボクラ少国民』(辺境社、勁草書房発売、一九七四年、後に講談社文庫、一九八九年)が画期的な業績。私も多く負っている古川隆久『皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展―』(中公新書、一九九八年)をはじめ、前掲書記載の他の古川論文も『紀元二千六百年祝典記録』という公文書をもとにした貴重な研究である。さらに金子淳『博物館の政治学』(青弓社、二〇〇一年)は、博物館の側から「紀元二千六百年」を見たものとして貴重。他に津金澤聰廣、有山輝雄編著『戦時期日本のメディア・イベント』(世界思想社、一九九八年)所収の古川隆久「紀元二千六百年奉祝会開催イベントと三大新聞社」、山野英嗣「紀元二千六百年奉祝美術展覧会とその周辺」、畠山兆子「紀元二千六百年・全日本童話教育大会」などもいかに当時「紀元二千六百年」と各界が関係していたかを窺わせる。また、一九九七年ベストセラーになった妹尾河童『少年H』(講談社、一九九七年、後に講談社文庫、一九九九年)も「紀元二千六百年」に触れているが、これについては、先の山中恒と山中典子が事実誤認、歪曲があるとして大部の『間違いだらけの少年H―銃後生活史の研究と手引き―』(辺境社、勁草書房発売、一九九九年)を書いている。

[*四]

一九四二年一二月一九日に出来た阿洞分館は一九八坪の書庫と五一坪の附属建物であるが、「全く利用されない図書の保存」のためで「紀元二千六百年」記念とは関係ないものと思われる(河田いこひ「アジア侵略と朝鮮総督府図書館」2『状況と主体』一四一号、一九八七年九月参照)。なお河田いこひ「アジア侵略と朝鮮総督府図書館―もうひとつの近代日本図書館史序説―」1〜5『状況と主体』一四〇号〜一四四号、一九八七年八月〜一二月)の第三章は、韓国国立中央図書館編『国立中央図書館史』(ソウル、国立中央図書館刊、一九七三)の本篇第一章「朝鮮総督府図書館時代」の全訳であり、現在のところ日本語で読める最も詳しい朝鮮総督府図書館の歴史である。

[*五]

朝鮮総督府図書館報『文献報国』(第七巻第一号、一九四一年一月)によれば「本館は二六〇〇年記念の三大事業として、参考図書館としての体制確立、文国殿の鎮座、王仁博士像の建設を目論んだ」と記されている。また一九四二年五月一日第一次改正の朝鮮総督府図書館職域奉公の「使命」のなかに「文献報国(図書ノ蒐集・保存・閲覧)本館蔵書は一冊の不明本亡失本あることを許さざる規程なり全館員は日常此の掟を忘るべからず」とある(『文献報国』第八巻第五号、一九四二年五月)。

[*六]

新京に計画された満洲国立図書館については、岡村敬二『遺された蔵書―満鉄図書館・海外日本図書館の歴史―』(阿吽社、一九九四年)参照。また直接その建設計画に携わった弥吉光長「国破れて図書館存す―国立瀋陽図書館前史」『弥吉光長著作集』第二巻(日外アソシエーツ、一九八一年)、「東北地方(旧満洲)図書館の回顧史」『図書館大道』五号、六号、一九七九年、一九八〇年、『著作集』第二巻所収、「氷の裂ける音―満洲で迎えた終戦―」『日本古書通信』三八八号、一九七六年八月、『著作集』第六巻一九八三年所収、等も貴重な記録である。

[*七]

国立歴史民俗博物館設立の経緯については、国立歴史民俗博物館編『国立歴史民俗博物館十年史』(国立歴史民俗博物館、一九九一年)を参照。

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