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特集:破天荒な図書館人 浪江虔
[浪江虔・ロングインタビュー] 私立図書館を五十年やってきた

聞き手 ◎編集部
[1998-10-24]

農村での図書館開設を思い立ち、以来、50年にわたって私立図書館を運営してきた。
そのきっかけから、実際の活動まで私立図書館での浪江虔の50年。


インタビュー ◎1997年5月27日
聞き手 ◎編集部(手嶋孝典・東條文規・堀渡)


キリスト教信仰に入ったきっかけと離脱の理由

編集部 お忙しいところをお越しいただきありがとうございます。さっそく本題に入らせていただきます。まず、「キリスト教信仰に入ったきっかけと離脱の理由」について、お話しいただければと思います。
浪江 両親がクリスチャンで、子どもの時から日曜学校には行っていたので、ごく自然にですよね。
 離れたのは1920年代の終わり頃です。キリスト教は社会問題にちっとも力を入れないじゃないかという批判がありました。正直言うとぼくは武蔵高校の3年間はバイオリンのほうに夢中になっていてあまり勉強しなかったんですが、兄貴[*1]のほうは一生懸命勉強していて、その影響ですよね。わりあい真面目なクリスチャンがキリスト教に愛想をつかしたのとほぼ同じ理由です。
 時期的にいうと1929年の世界大恐慌と、その1年前に始まった社会主義建設5ヵ年計画の着々たる成功ね。その裏でどんなひどいことがあったかなんていうのは当時はほとんど知らされていなかったし、仮にそういう情報が流れてきたって、それはブルジョアのデマだといって耳を傾けなかったから。ですから1930年の頃というのは、真面目な学生、若者はそうなるのがごく当たり前でした。


マルクス主義のどこに共鳴し、農民組合運動へと進んだのか

浪江 農民運動に入ったのは、これはまったく偶然ですよ。そもそもの振り出しはプロレタリア音楽家同盟です。入ってみたら音楽家は少しだけで、あとは将来音楽家になるかもしれない連中なんですよ(笑)。それでやれやれと思っているうちに農民組合と縁ができちゃった。全農東京府連に招かれて、夏の農閑期に闘争歌なんかを教えに行ったんです。2日目の晩に無届け集会だというわけでみんな引っぱられてね。もちろん48時間以内に釈放された微罪ですけど、引っぱられたから後々農民組合の諸君との付き合いになるわけです。
 「どうだい、組合の仕事手伝わないか」ということになった。あの頃の農民組合はボランティア書記をタダで使うのが上手でね、ガリ版でビラを刷るなんていうのはできるでしょう。手伝っているうちに、1931年になって鶴川村で小作争議が起きました。前年の小作料の減額要求を地主側が容れないものだから膠着状態になっていって、そこへ手伝いに行けということになったんです。
 いま、町田で弁護士をやっている大森鋼三郎さんのお父さんが布施事務所の若手弁護士で、この人が引き受けてやってくれて、持久戦になりました。それで、誰か1人専任のものが鶴川に住めということで、私が1931年の3月に派遣されたのね。それで農民運動に入ったわけです。プロレタリア音楽家同盟のほうはさっさとやめちゃいました。
編集部 そのときは東京大学へ入学されて即、休学されていますよね。それは音楽の勉強をしたいということでもあったわけですよね。そのあと農民組合運動に入られたということですが、そうすると結局は一度も講義には出ていない?
浪江 そうです。
編集部 そういうのが当時は当たり前だったんですか。
浪江 まあね、そもそもが、大学に入らないで音楽をやろうと思っていたんだからね。そうしたら、武蔵高等学校じゃ大学に入らなければ卒業させないっていううわさがあって、文学部の音楽美学に入学だけはしました。
編集部 音楽は子どものときからやっておられたのですか。
浪江 いえ、子どもの時から好きは好きでしたけどね。小さな教会でオルガンを弾ける者がいなくて、しょうがないから私が少し勉強してオルガン弾きになったんです。そうしているうちに、やっぱりもうちょっとちゃんとやりたいということで高等科に入った年からバイオリンを始めました。学校の音楽の先生が休み時間を利用して希望者に教えてくれていたものだから、月謝も何もいらないで教わったんですね。高等科の3年間はそういうことで先生についてバイオリンをやってたんです。
 それで、最初は鶴川村に実際は10カ月しか住んでいないんですけれども、それがなんといっても私にとってはいちばん大事な人生勉強の時期になったんですね。ほんとうに農業問題も農村生活も何も知らなかったんだけども、とにかく貧農小作人の家族の一員のように暮らしましたからね。下堤という小さい部落があって、そこに萩生田仙之助という、まだ独身でしたけど、鶴川農民組合の組合長で非常に優秀な人物がいました。その活動ぶりを見よう見真似で学びながら、農民の問題、農民運動のあり方なんかが少しわかったんじゃないかと思います。
 ところが、組合の力もそんなに強くないし、警察のほうがだんだんうるさくなってきました。よそ者が来て悪知恵をつけるといかんというので隔離政策をとるわけです。それで鶴川に常駐できなくなったところで共産党の東京市委員会西部地区オルグなんていうのになっちゃったんですよね。
 当時はもう弾圧に継ぐ弾圧で、しょっちゅう上が空きますから、若僧が引き上げられてしまいます。私はほんとうに能力のないオルグだったと思ってますよ、自分でも。しかも半年ごとに部署を変えられて、次は千葉県オルグをやり、最後の全農全国会議派の書記局の仕事なんかは、1ヶ月、実際やったかどうかというぐらいだね。合法的な全国集会をやるということになって、「おまえはまだバレてないから、表に出て書記をやれ」なんていうことで、会場に行ったら到着順に総検束で、亀有署で1ヶ月暮らしました。出て来て3日ぐらい経ったら兄貴の産業労働調査所の一斉検挙にぶつかって、巻き添えをくって、またひと月入れられて……。そしたらもう本当に連絡が途絶えちゃいますよ。この機会に勉強しようなんて思って、1933年の夏はものすごい勢いでマルクス主義の基本文献を読んだんです。
 そんなことをしているうちにやっと連絡がとれて、何回か全農全国会議派の本部フラクションの会議をやって、もうどんなことを決めたってそれは実際の農民諸君のところになんかぜんぜん伝わりっこないことはわかってました。そのうちにかたっぱしから引っ張られちゃって。
編集部 そうすると、何回も検挙されたけど、最初は起訴はされていないわけですね。
浪江 そこまでは起訴はされていません。初めは一応合法運動でしょう。こっちは組織に入ってもまだ敵のほうはそれをつかんでなかったから、引っ張ってもひと月かそこらで出すわけですよ。
編集部 そういうことですね。それで、オルグというのは具体的には何をするんですか。
浪江 「組織をつくる」というのだけど、千葉県オルグで半年、一応千葉県警から検挙されずに歩いたわけね。千葉県の特高が後で私の身柄をくれと言ったらしいのよ。そしたら警視庁は「いや、その後またやっているから渡すわけにはいかない」というので、それで助かったんです。千葉に行っちゃったら絶対に執行猶予なんてならない。千葉の特高が私のやった千葉の活動を調べに市ヶ谷刑務所に来たんです。そのときに、調べ終わって何て言ったかというと「君、一斉検挙というのはね、全部はやらないでちゃんと残しておくんだよ」。
編集部 そんなことまで言うんですか。
浪江 「そして見ていると、君らはちゃーんとそこに来るからな」と言うわけです。これはもう、本当に負けたと思いましたね。こっちはいつも、完全に振り出しに戻っている。経験した者はみんないなくなって、未経験の者がまたあとを継ぐわけでしょう。向こうは経験をちゃんと蓄積するでしょう。もう力の差は歴然ですよね。こっちは、あそことあそこはまだ敵が気づいていないと思って行くわけだから(笑)。向こうはちゃんと見ているわけです。もう、どうしようもないですよね。
編集部 農民組合はオルグしに、どこに行くんですか。
浪江 それはやっぱり、全国会議の、つまり共産党系の組合員になりそうなところを狙って行くわけですよ。ですけれどもあとから考えると、大衆との結びつきが合法時代の立派な農民闘争と較べて格段に貧弱になっている。実は千葉県で私が入党させて、あとで引っ張られた林邦美という人が本を何冊か書いているんです。いちばん新しく書いたのが1994年で、『米はこうしてたたかい守られてきた』(筑波書房)という題なんだけれども、「戦前の千葉県農民運動史」という副題がついていて非常に詳しく書いてある。非合法でなかった時代のほうがずっとちゃんとやっているんです。だから農民運動が非合法に、あるいは半非合法になったらもうだめですよ。どうしようもないですよ、これは。
編集部 それは合法的に活動をするということではなくて、あえて非合法的な活動を共産党の路線として当時は進めたわけですか。
浪江 正論を主張してやっていくと非合法に追い込まれていくんだね。1933年になるともう権力の側が断然優勢になっちゃって、手も足も出ない感じだった。そして私自身も当分出られない形でブチ込まれちゃったわけです。
編集部 そこで将来の計画を練り上げられるわけですね。
浪江 鶴川の農民組合員と一緒に過ごした10ヶ月は一番大事な体験だったし、地主制度というのが人道にもとるものでしょう。これとの闘いを日本の農民がやらぬはずはないという、基本的な考えがありましたからね。それで非合法運動はまったくだめだけれども、地主制度の下で呻吟している農民といっしょに暮らしていることで、いつの日か一緒に闘うことになりうるだろうという考えに達したんですね。それで、農村に住みつくことを決心して転向を表明しました。だから、明らかに偽装転向ですけれども、非合法運動をやってもだめということは確信しましたね、本当に。
 それで執行猶予になるまで半年あったから一生懸命将来の計画を夢見て考えて、それで獄中で立てた方針というのが、「何が何でも農村に住みつく」ということです。そのためには「結婚すること」、「農業の勉強をすること」、「自活の道をちゃんとつくっていくこと」、ごく当たり前のことですけど、それをやらない限りしょうがないだろう、ということを半年かけて考えたわけです。農村図書館をつくろうという思いつきは1935年の秋に生まれました。
 図書館の本題に入りますけれども、私が農業の勉強をやろうということを決心したのは、たいへん大事なことだったんです。ずっと後で『季刊としょかん批評』第2号に「生産農民が見えなかった戦前の図書館」(1983年4月)と書きましたよね。戦前の村立図書館の白眉といわれた山口県明木の司書・伊藤新一も、農業技術の本は全然無視しています。
 それで農業の勉強を園芸学校でやりながら本集めをしていました。本集めはほんとうに一生懸命やりましたけれども、その本の選び方が非常に変わっていくわけですね。農業の勉強をやってたもんで。当時、ちゃんとした農業の技術書は、専門書でも通俗書でも買えるものは大体買いました。それと雑誌も、『農業及び園芸』を新しいのだけでなくバックナンバーまで揃えたし、それから『農業世界』なんかも何年分も揃えたし、それは一生懸命やりました。
 農民はどんなに貧しくても小生産者で自分で物をつくるんですから無知じゃしょうがないわけですよね。ところが、小地主か上層の自作農ぐらいまでは農学校という勉学の場があったけれども、それ以下の者にはほとんど無縁ですね。
 それで高等小学校の農業科と実業補習学校ですか、その程度のものしかないのですが、これがまたひどくてね。これを戦後になって調べてみたんだけど、高等小学校の農業教科書というのは、できるだけわかりにくくつまらなく書こうと思って書いているというのがぴったりですね。これくらいおもしろみのないものはないですよ。それで、戦後、農村の青年をつかまえて、「高等科でいちばん嫌いだった学科は何だったか」と聞いたら、9割ぐらいが「農業」と言うんです。高等小学校で農業科を習ったから多少なりとも農業に役立つ知識が身についていくなんていうことはありえない。
 とにかく農民にとって農業の勉強が大事だという一般論だけは、わかりました。自分が書籍学問をやったから、余計そうなんですよ。体験しなくったって役に立つ知識というのは一部はちゃんと入りますよね。生物学の植物生理とかそういうものは勉強しただけでもずいぶんと役に立つんです。それで農村図書館は農業図書館でなければならないというような考え方が次第に固まってきたわけですね。
 ところが実際に、1939年9月に私立南多摩農村図書館を開いてみたら、鶴川の農民は農業の本なんか借りていかないんです。『図書館運動五十年』(日本図書館協会、1981年)にも書いてあるけど、岡上村の農事研究会の代表が来て、団体で利用者になったことがあったんですよね。こっちは嬉しくてね、すぐに翌日、東京に行って、『実用農業全書』の残りを全部買ってきたりしたんですけど。後で考えると、1940年の正月に岡上村の農事研究会に一升下げて行って懇談でもする、そういうような才覚が働けばよかったんだけど、そういうことをしなかったんだ、私はね、まじめ一方で。


再検挙ー図書館休館ー再開館までに至る経過

浪江 再検挙ですね。これは日本共産党の活動を続けていた兄の、もうまったく巻き添えなんですけれども、これくらいくやしく思ったことはないですね。ほぼ五年、苦心惨憺で準備したものがいっぺんで打ち砕かれたんですからね。共産党の再建運動の中心になっていた加藤四海[*2]は、私が農村に住みついて図書館をやるということを聞いて、「それは児戯に類することだ」というひどいことを言った男です。非転向のまま自宅にいて、そして資料から何から全部自宅に置いて再建運動をやっていたんですから、もう信じがたいですね。運動をやらないなら、国内亡命者だっていばって大ボラふいたっていいけども、実際に運動をやり始めちゃった。地下潜行の条件なんかをつくることができなくなってたことは事実なんです。私の兄貴が「弟との対話」というかなり詳細なものを書いてキャップの加藤に提出したわけですね。検挙の1週間ぐらい前に鶴川のわが家に泊まり込みで来て話し合った、そのレポです。
編集部 それは加藤がお兄さんに対して、要するに先生をオルグしろということですよね。そういう指示に基づいてやれということですよね。
浪江 兄が非常に公式的なことを言っているうちはこちらもポンポンはねていたんだけど、このときはずいぶんうちとけて、やはり兄弟ですからいろいろ話をしてます。仲間にはならないけれども、こういうふうにちゃんと考えているからなんていうことを言ったのも全部書いたらしいですね。だから、私を連れに来て町田署に一緒に行った特高の田中というのが警視庁の警部で、そのときは町田署の署長はまだ警部補ですからね。私も一緒に応接室に通された。椅子に掛けたとたんに田中が「君、これ見ろよ」といって出したのが「弟との対話」という兄貴の筆跡のものでした。何から何まで書いてあるに違いない。本当に絶望しましたね、その時は。
 1944年の2月、私は満期釈放になった後警視庁に半月通って手記を書くんですけれども、そのときに警視庁の伊藤猛虎という警部が「君を兄貴のようなウルトラと一緒に引っ張ったのは警視庁の重大な失敗であった」なんて、言うんです。1940年に私が引っ張られたときには、教育科学研究会のことはちょっとは調べはしたけども、「目的遂行のためにする行為」にはしなかった。検事局が取り上げなかった。それがもう満期で出てきたときには、生き残りの最左翼組織ですからね。それで、みんな引っ張られているんです。
 それでわかったんだけども、もし兄のヘマがなかったらどうかといったら、ずっと後になって、そしてはるかに悪い条件で引っ張られて、栄養失調で獄死した兄と同じ運命をたどったかもしれないと思っています。私が出てきたときは外の配給制の食事よりはまだ中のほうがマシなぐらいでした。私が出て間もなく、非常に質が下がったそうです。ですから、本当に何が幸せになり不幸になるかわからないですね。
 それで1944年2月1日にちゃんと満期で釈放になったわけです。その間に自分の農村図書館運動を徹底的に反省をして、個人の善意で立派な図書館をつくるなんていうことは農村読書運動の基本線とはまったく別のもので、それ自体はほとんど価値がない。もし自分の図書館に存在の意味があるとすれば、部落文庫の親図書館としての役割を果たせるという、そういう状況をつくったときであろうということを獄中で考えたわけですね。
 話を戻して再検挙のときの図書館ですけども、翌年の1月までは八重子がやったんです。利用者が来てましたからね。ぼくのほうは「弟との対話」の報告を取られちゃっているからもうだめだと思って、図書館はやめたほうがいいなとまで思ったんです。幸いに図書館は問題にならずに済みました。
編集部 農村図書館をずっとやることはやるんだけど、最初の農村図書館をつくる時の考え方と、親図書館・部落文庫の考え方は、2回目の獄中で変わったわけですね。
浪江 私も引っ張られる前に、『農民新聞』だか何だかに「農民が部落文庫をつくるのが本当だ」なんていうことは書いてはいるんですよ。だけども、自分の図書館が、あれだけ苦心してつくった農村図書館が、これが本物じゃないという、その断定はできなかったですよね。それはやっぱり2度目の獄中ですね。それまではやっぱりたいへんいい仕事をやってきていたと思っていたからね。
編集部 本物じゃないというのはもうひとつよくわからないのですが、要するに部落文庫というのは農民が自分達で勉強するための本を集めてやるということですよね。それで先生の図書館は、農民がそこへ団体で借りにくるという感じなんですか。
浪江 ええ。現に戦後すぐそういうふうにやりましたからね。
編集部 それまでは、最初につくられた時は農村図書館は農民が個別に借りにくるということだけを発想されたんですか。
浪江 そうですね。そして利用者の利用の仕方についてはこっちのほうにも不満があったけれども、ああいうふうに苦心惨憺してかなり犠牲的精神を発揮して育ててきた農村図書館が、それはそれとしてちゃんと存在価値があるんだという、それには疑いの目を向けないでやっていたというのが事実でしょうね。
編集部 それは実際に私設図書館をやりながら体験の中で、農村の青年集団運動みたいなものが基になければいかんのだみたいなことを……たしかに実感を持って反省してきたというか。
浪江 だけど、実際に開いてから8ヶ月で検挙されてますからね。だから、本当にそういうことについて実際に農村図書館をやりながら考え直したり、吟味したり、何か違うあり方を農民に働きかけたり、そういうことがまだ全然できないうちに引っ張られたわけです。
 それともう1つは、戦後になってすぐ部落文庫は生まれたんだけども、戦争中はやろうたってできないですよ。それ自体がもう、すぐ「けしからん」となっちゃいますからね。それと、大体人がいなかったですよ、農村には。
編集部 そうですよね。だから、「生産農民が見えなかった戦前の図書館」ですか。『図書館雑誌』の古い記事を先生は全部チェックされておられましたが、ほとんど農村の図書館のことを書いているものがないという、それは事実だと思うんです。図書館といっても農村の小学校なんかにあって。100冊ぐらいしか本がない、名前だけの図書館で、ほとんど利用されなかった。されても小説ぐらいですか。
浪江 橋本義夫[*3]さんの案内で、農村青年の自主的な図書館を見に行ったんだけども、その中味はほんとうに娯楽ですね。それから当局の方は修養です。修養のために役立てようみたいなところと、本は娯楽だという考え方とがまったく別々にあったわけです。自主性の強いところでは娯楽ですよ。それは、さっき触れた萩生田仙之助君に、最初の鶴川の生活のときですから、こっちは図書館の計画は何もなかったんだけども何かの機会にちょっと本のことについて聞いたら、一言で「本は娯楽だ」と言ったものね、仙之助君がね。
編集部 日本図書館協会も文部省も含めて、修養と思想善導、利用者のほうは娯楽なんですよね。だからその間に自分の生産とか、たとえば農民だったら農業生産をやらなあかんし、工員なら工業生産やらなあかんのやけど、そういうのはぜんぜん結び付かないわけですね。
浪江 結び付かないし、農業以外のことはよく知りませんけれどもほんとうに役に立つような本なんか誰も書いてないんですよね。そういう角度で本を書くような人がいなかったわけです。
 それで、さまよいながら、だんだん図書館についての考え方はいい方向に進んでいったと思うんですけれども、戦後、はりきって鶴川に3カ所、恩方にも1カ所、部落文庫をつくって、そうとう大量に貸出しをして、それで初めて本当にすすめたい本がないということをはっきり確認したわけですね。それを本当にいつ頃気が付いたか自分でもちょっとはっきりしないんだけども、『農村図書館』では永井威三郎[*4]さんの『日本の米』を褒めてますよね。だけども、あとで考えたら、あれはだめですね。農民の読み物ではありませんよ。福島要一[*5]の『農学の学校』(八雲書店、1947年)は、少なくとも進歩的インテリの間では絶賛を博したものですよ。10人のうち8〜9人が「これは農民のための最高の本だ」なんて褒めたぐらいの本ですけれども、ぜんぜんだめですよ。農民組合の諸君が読むような本じゃないですね。
 それで暗中模索をするわけですが、ちょうどその頃、新しい教科書を検定で出版できることになって、民主主義科学者協会の農業部会が中学農業の教科書をつくろうということで非常に張り切っていました。それで鴻巣試験地が本拠になって、私もずいぶん鴻巣通いをしてその諸君と一緒に中学農業の教科書の編集をやるんですけれども、そこでわかったことは、農民に親切な技師になろうという意欲を持っている進歩的な若手中堅の農学者が、わかる本の書き方については全然だめなんです。発想が全然違うんですよ。
 いい実例を話しましょう。農業の本じゃなくて受胎調節の本で私が体験したことですが、高口保明という神奈川県のお医者さんで非常によくわかる受胎調節の話をしてくださる人がいました。私も傍聴させてもらって、この人ならばきっといい本が書けると思って書いてもらうことにしたんです。自分が理事をしていた農文協(農山漁村文化協会)から出すことにして、そしていよいよ原稿をもらったら、ぜんぜんだめなんですよ。とにかく妊娠に関する生理を説明するのに、卵巣から話が始まるんです。学者はそうとしか考えられないんです(笑)。ところが農家のかあちゃんは自分の卵巣なんて見たことも触ったこともないわけで、知っているのは鱈の卵巣ぐらい。だから初めから霞がかかっているんです。それで、とうとう全部私が書き直しました。私の書き直しでは、卵巣は後まわし、書き出しが「入口とそのまわり」です。そこから始まって奥の院の卵巣まで行くと、話はわかるのです。
 作物の病気でも、学者が書いた本では顕微鏡で見た病原体の図が×600なんて説明で出てるでしょう。あんなものは、毎年イモチ病に悩まされた農民だって自分の目で見たことなんか一度もないでしょう。要するにナマの五感でわかるところから説いていってくれなければだめなんです。専門学者では、どんなに良心的で農民のために書こうと思っていてもだめだということをやっと悟るわけですね。
 それで何をやったかというと、農民の常識を調べたんです。農文協の文化運動なんかでしょっちゅう講演などに引っ張り出されていましたから、とにかく農民の常識がどの程度のものかということをちゃんと調べることにしました。それで講演のときに紙と鉛筆を持って行って、問題を出して答えさせるんですね。最初に非常にたくさん使った問題というのは、1つは硫安をどれくらいの濃さに、何倍に薄めたら下肥と同じぐらいの濃さになるかという問題です。答えは、2倍から1500倍まで出ちゃった。普通だったら正解のところが一番多くって、正解からはずれるに従って少なくなるでしょう。グラフにすると富士山になる。それが山脈になっちゃった。5倍とか10倍とか100倍とか、そういう切りのいいところが高くなるんですよ。要するに、何もわかっていない。
 しばらく経って気が付いたのは、硫安を何倍の水に薄めるかなんていう発想そのものがないんですよ。ここにプンプン臭う下肥の桶と、水が入っている肥桶を並べて、同じぐらいの濃さになるように硫安を入れてみろっていって計ったらそんなに狂わないんです。だから問題の出し方も悪かったんですが、その頃は肥料が配給制ですから、少ない肥料をいかにうまく使うかというのがもっとも大事な増産技術だったわけです。だから、そういう問題を出したんですよ。例えば鶴川あたりだったらトラックの運転手に白米を用意して、下肥を持ってきてもらうか、ヤミ硫安を買うかどっちが得かというのは、どの程度薄めるということがわからなければ、いけないわけです。
 もう一つは、だいたい農村へおしゃべりに行くのは農閑期ですから、麦はまだチョボチョボでしょう。行って見ると、みんな葉っぱの上から下肥をかけている。かけたときはわからないのだけども、しばらく経つと、下肥の中の落とし紙が葉っぱにこびりついちゃうわけですよ。これはね、ほんとうに悲惨ですよね。つまり、葉っぱを汚すことが大きいマイナスだってことがぜんぜんわかってないんです。それから、2月頃になったら麦の根は畑一面に広がっているということがわかっていない。その2つがわかっていないから、頭からかけるわけですね。一目見てそういう無知がわかるでしょう。
 それで、麦の根というのはいったいどれくらい伸びるかというのを、もう1つの設問としてどこでもやっているんですよ。その答えも一寸から一丈五尺まで、これもグラフにすると富士山でなくて山脈になっちゃう。昔から伝えられた科学常識で、地上の部分と同じぐらいに地下があるというのがあるんですよ。これは、かなりいい線です。実際は地下のほうが広くて深いですけどね。引っこ抜いたときに付いてきただけが根だと思っているのが最低ですね。それを私は「引っこ抜き組」と言っているんです。その次が「もう少し深そう組」。ずいぶんいろんな試験をしました。
編集部 『図書館運動五十年』に採録されている「ウンコは落第生でオシッコは及第生」という話なんかすごく印象的で、ぼくも知らなかったのでよく覚えているんです。
浪江 仙之助さんなんかは小便のほうが大事なんだと言っている人でしたね。多くの答えはこってりしているほうが(笑)。仙之助さんは、途中で小便したくても我慢して自分の畑へ行ってからやるんだなんて言ってましたからね。
編集部 直接かけても効果があるんですか。
浪江 直接はだめですよ。自分の畑の土に吸わせるんです。そういう常識調べをやって、もう私が書くよりほかないという結論に達したわけですよ。それで農文協の『農村文化』というおかしな題の、それの1950年の1月号から「肥料の上手な使い方」という連載講座を始めたんです。これが、雑誌の部数がどんどん増えるぐらい評判がよかったものですから、8回ぐらいをまとめて単行本で出したんです。出たのがこの『誰にもわかる肥料の知識』(農山漁村文化協会、1950年)です。これは本当に、必ず農民の知っているところからたどっていくという発想ですね。それから、必ず役に立つというものです。そういうことが徹底的に書いてあります。
 これで部落文庫をつくる上での最大の障害である、実際に役に立つ農民向きの本がないということは理論的には克服の道が開かれたはずだけれども、いろんな分野についてひととおり農文協が品物を揃えることができるのにはやっぱり10年かかりましたからね。1950年からの10年間の私の主力はほとんどはそっちに注いじゃったわけです。図書館のほうは、全国図書館大会にもほとんど出てなかったしね。1954年の大事な大会なんかにも出ていないんですよ。
編集部 「自由宣言」の大会ですね。
浪江 10年経ってやっとほぼどんな分野にも農民のよくわかる本ができる。もちろん農民の読書力もずいぶんと上がりました。私が『誰にもわかる肥料の知識』を書いた頃はまだ農地改革で自作農になった諸君というのは、本当になんにもちゃんとした知識を与えられていなかった時代でしょう。だから鶴川の農民組合の、あの人達が読んでわかる本じゃなくちゃという、そういうイメージをもって書いていました。
 その『誰にもわかる肥料の知識』をはじめとする、本当にわかってもらえる本を一生懸命に書いていたときに、共産党が「農地改革は偽りであった。無償没収でなくて有償買い取りであったから貧農小作人は土地を手に入れることはできなかった」というひどい農業綱領を作っちゃったわけです。これには憤慨しました。
 そのときには私は農文協細胞のキャップですが、大事な問題だから鶴川の農村細胞の農業綱領討議の場へちゃんと出席しまして、「これは百姓党員にとって大事な問題だ。ここにはこう書いてあるけれども、鶴川の百姓で小作地を買い取ることができなかったというのがいるかね」と聞いたら、「いねえや」というわけですよ。そしたら地区委員会から2人ちゃんと来ていましてね、「それは解釈の相違だ!」。癪にさわってね、「私は農文協細胞のキャップで、こっちは協力党員だからこれ以上言わないで帰るが、農文協細胞では事実と違うといって上申書を書いている。私は帰るが大事な問題だよ」といって、席を蹴って立ったんです。
 農文協細胞では上申書を書いて出しましたが、しばらく経って、「いろんな意見があったけど、原案どおりに決まったから、農文協細胞は自己批判しろ」というわけです。「自己批判するのはやぶさかじゃないけれども、こっちはちゃんと文書を書いて出しているんだから上申書のどこがどう事実と違うか指摘してくれ」と突っ返したんです。そしたらウンともスンとも言ってこないでね、うわさ話で「農文協細胞は傾向が悪い」とか、そんなことを流す。その当時、農文協の常勤の四人の理事のうち3人が共産党員だったんですから、これはまずいだろうというので、岩渕と浪江は脱党届けを出して、浮田左武郎は残るという細胞の決定をしました。それで脱党届けを出したのに、岩渕のはすんなりと受け取り、私のは突き返されて、「農文協細胞は浪江を除名しろ」と言ってきたんですよ。もちろん握りつぶして自然脱党になったんです。それはよかったと思うんです。その時に除名になっていたら、今でも町田で共産党の諸君と一緒にやれないですよ。
編集部 今でもそうですか。
浪江 今でも除名者排除の考え方は変わっていないでしょう。たぶん。


浪江八重子さんの功績、思い出について

編集部 では八重子さんのことをお聞きしたいと思います。
浪江 一九五〇年代はそういうふうにして農文協の仕事を、それも本部の仕事と講演と両方あるんですが、非常に精力を注いで、自分の図書館の面倒は七〜八割は八重子にやってもらってましたからね。もちろん子ども達にとってはおばさんのほうが話をしやすい。だから利用者の気持ちなんていうのは八重子のほうがずっとよくつかんでいて、そのいちばん典型的なのが少女雑誌を入れ始めたことですね。
 私は『少年少女の広場』なんていう、戦後すぐ生まれたいい雑誌なんかに少し関わりをもっていたものだから、変な雑誌を入れたくなくて。次から次といい雑誌はつぶれていくんですけど、建前としてはそれしか入れなかったですよ。でも、とうとう八重子に口説かれていろんな少女雑誌を入れて、それが圧倒的に好評で、『図書館運動五十年』に書いてあるとおり、第二の黄金時代をつくったわけです。
 これが長続きしなかったのは、一九六〇年代にテレビがダーッと入ったからです。ですけども、鶴川図書館に来ている利用者の気持ちをつかむという点でも、利用者に慕われていたという点でも、私よりも格段に八重子のほうがよかったですね。
編集部 特に一九四〇年に再検挙になってから休館しないで翌年の一月まで活動を続けられたとか、それから一九四三年七月に開業助産婦ということで八重子さんはお産婆さんを始められていますね。それまでは個人的な、頼まれたら行くというそういう感じだったのですか。
浪江 そうです。それは断れない場合もあって。
編集部 そうすると、本格的に仕事として始められたのが一九四三年の七月ですね。
浪江 登録される前は現金ではお礼をもらわないことにしていました。八重子が助産婦の資格を取ったというのは、いろいろな意味でほんとうに役に立ちましたね。鶴川の昔の農民組合の諸君が私たちを受け入れる気持ちになったのは、明らかにそれですからね。私たち二人の親友である山代巴[*6]さんも、八重子が助産婦の勉強をし資格を取り、そしてその仕事をずっとやっていたということをえらく高く評価してくれたんですよね。
 八重子にとって助産婦という仕事がもしなかったら、村人との結び付きも、私を媒介にしてになります。助産婦の仕事をやっていると、その家族の人達との結び付きは文化運動なんかと桁違いの密度ですよ。ちゃんとその家へ行って、そして産気づくのを待って、それから「オギャー」と産まれてからすっかりおぶつかいをしてというのを、家族が聞き耳立てたり、そばにちゃんと寄って来て見たりしている中でやるわけですからね。
 医者と基本的に違います。医者のほうは来てくれるのはありがたいけれども、悲しいことでしょう。助産婦の場合は、とにかく事故さえなければ全部嬉しいことなんですから。これはほんとうにいい商売ですよ。
 お産の変遷について書いた『助産婦の戦後』(勁草書房、一九八九年)という本で、第九回山川菊栄記念賞をもらった大林道子さんという人がいます。今のアメリカ式の、病院で強制的に産ませるということに対して非常に厳しい批判をしている人です。この人が八重子の大学(東京女子大)の後輩だったんです。やっぱり東京女子大の出身者と親友で、たまたま鶴川団地に住んでいて図書館の利用者だった方が大林さんと、この本を持って二人で来てくれたことがあるんです。そのとき、残念ながら八重子はアルツハイマーがだいぶ進んでいたものですから、直接その人達と話をすることはできませんでしたけれども。


日本図書館協会とのかかわりと 「中小レポート」の評価について

浪江 初めは図書館協会とは疎遠でした。「中小レポート」[*7]からですよ、考えが変わるのは。図書館協会との親近感なんていうのは、まったく「中小レポート」が出て初めて持ったようなものですね。これで本当に日本図書館協会を見直しましたね。基本的な発想が、本当にすばらしかったと思うし、有山[*8]君がよくあそこまで到達したなと感心するんです。
 彼が個人的にもらした話の断片を覚えています。市町村の図書館は県立をお手本にしている、あれをひっくり返さなくてはだめだということを言ってましたね。しかしこれは文部省の援助をもらって協会の事業としてやったのですから、そういうトゲをあまり表に出さないようにやりましたけども、勇み足もありましたね。
編集部 皆さん若かったですものね。
浪江 基本的な考え方が非常に正しかったと思って、それでたいへん共鳴しました。しかし、図書館法ができてからずいぶん年が経ちましたよね。「中小レポート」ができたのは一九六三年ですから、図書館法が成立してから十三年ですか。それで、日本の図書館を変える運動を、主として協会の仲間の人達とやれるという考えに到達するわけですね。図問研[*9]はもっと前からできていまして、私も初めはずいぶん熱心に会に参加しましたけれども、図書館を変える運動を図問研の諸君と一緒にやろうという考えには、あまりならなかったですね。何かちょっとしっくりしないものがあったような気がしますね。それで、「中小レポート」が出たので、これならなんとしてでも協会の中で多くの同志をつかまえてこれの実行を推し進めようという考えに立ったんです。しかもそれを私は町田市民として町田市立図書館を変革することで実行していこうと考えたわけです。これがやはりたいへん大事な発想だと思うんです。


「自治研」助言者としての活動について

浪江 自治労[*10]が主催する全国自治研集会の助言者になったのはまったく『村の政治』(岩波書店、一九五三年)その他を書いたからです。でも『村の政治』はやはり先ほど言った『誰にもわかる肥料の知識』と同じ発想ですよ。戦後、民主的な地方自治法によって初めて主権者になった。自治体の政治のことがよくわかっていないけれども、このままでは困るという気持ちをもっている人達が、どうしたら少しは自分の住んでいる自治体の政治をよくすることができるのかという、そういう角度で、それ一本で書きました。それを典型的に実行してくれたのが国立町の火曜会で、宮本憲一[*11]君あたりが、「浪江を入れようじゃないか」と言い出して、第四回からかな、入りました。私にとってはやはりいい勉強の場でしたし、多くの活動家を知りました。
 初めは「住民組織、住民運動」なんて分科会でずっとお付き合いしていて、それから農業問題のほうにまわされて、だいぶ後になって教育分科会等で社会教育をやったんです。自治研助言者としてはあまり図書館とは関係なかったですね。
編集部 今でもそうですね。分科会というのは、やはり図書館としてなかなか独立できてないというか、社会教育として一括ですからね。
浪江 社全協でもそうですからね。一セクション。


地域文庫づくりの提案と運動の拡がり

浪江 一九五八年の合併で町田市民になりました。それまでは隣の町の図書館でしたから、いくらひどいったって、こちらは口出しはできなかったんです。
 私は図書館人であると同時に自治体問題の実践活動家でしたから、とにかく町田のこの図書館をどう考えたって黙って見過ごすわけにはいかないという気持ちが、合併の時からありました。また、自分の市の図書館が落第品だということが客観的にわかっても住民運動は起きるものではないということも、したたかに思い知らされました。それで、やはりチャンスを待つよりほかないと思ったわけです。しかしチャンスは絶対逃さないという、そんな心構えで、一九六三年まで待っちゃいましたね。「中小レポート」の出た年の暮れですが、町田市青少年読書普及会で、すでに町田の中には近所の子どもたちのために家庭文庫を開いている人たちがいることがわかりました。しかもロクに本のない市立図書館が、そこへ本を貸しているんです。ただ一人の司書であった城一男君には、図書館を変えようという意欲が非常に烈しくある。彼と私の「あうんの呼吸」がピタリと合った。
 「文庫をつくって子どもたちに本を読ませたい」と考えている人は、もっといるに違いない。図書館からまとめて百冊貸すことにして市民に呼びかけようという方針が一九六四年一月に読書普及会で決まりました。
 これが予想以上にうまくいきまして、一九六四年の一月に呼びかけてどんどん文庫が出来るのですが、図書館から百冊貸しますというのが、たちまちむずかしくなりました。私の図書館も全力投球で応援しましたが、とてもムリです。実は城君も私も覚悟の上でとった捨て身の方針で、市民が図書館の充実を求めて動き出すに違いないと期待していたのです。その年の秋には来年の予算編成期を前に市長に会おうということになって、文庫連のおばさん達が市長室に入ったんですよね。そのとき私は、やはり口をきくのは自分でなきゃだめかなと思ったのだけども、きっかけをつくっただけで、あとはもうしゃべる必要もないというぐらいみんな雄弁でした。もう「見に来て下さい」という一点張りですよ。「市長さん、ぜひ見に来て下さい」、確信に満ちていたわけですね。いかに子どもが喜んでいるかということ、いかに本の不足に悩まされているかということは、市長が見さえすればわかると思ったんでしょうね。みんながそう言いました。結局、市長は一度も来ませんでしたけど。私の図書館にさえ、とうとう一度も来なかったんですからね。でも図書費はだんだん予算が増えました。
 ちょうど文庫連絡会の人達が市長室に入り込んだのは、日野市立の自動車図書館がスタートして一ヶ月か二ヶ月後、そういうタイミングです。日野の場合は明らかに有山市長だったから出来たことです。あの立派な「中小レポート」も実践する市がなかったら、それまでのいろいろな名案と同じ運命をたどっていたかもしれません。なんといっても有山さんが一千万円の資料費を組んだという、これはやはり市長でなくてはできない。館長の前川恒雄[*12]君だけだったら、やっぱり五百万円が限度だったでしょうね。ですから、日野は日野で「中小レポート」の文字通りの実践をする、町田は町田でまったく浪江式に、地域住民の主権者としての自覚と運動でいく、この二つが並行して進行したわけです。
 幸いにして府中がすでに、多摩の中でそれまである公立の中では一番よかったし、それから調布は例の革新の本多市長[*13]が一発やろうという気になって、それで四つの市が先頭集団を形成して図書館革命を引っ張るわけです。話が戻りますが、町田市立がいかに悪かったかということは、今度、『知恵の木』[*14]に書いた「夜明け前の図書館物語」でこってり書いたとおり、およそこれくらい悪い図書館というのはなかったですね。
 よくもまあこれだけ悪いやり方をやってたなと思いますね。例えば国立国会図書館の児童図書の大量貸出について町田ぐらい熱心な図書館はなかったですね。最高の利用者ですよ。そして全部返しきったとき町田の児童書の総冊数が六十三冊ですからね(笑)。これはひどいですよ。
 しかし、あの運動はほんとうに見事にいきました。それで、私はなんとしてもこの町田で確立された住民運動の方式を拡げたいと思って、図書館協会に申し入れをして文庫の調査[*15]をやるわけですね。あれは安井辰雄[*16]さんが委員長になって、非常に慎重に、またみんな片手間ですから、非常に長くかかっちゃいましたけど。この調査報告が進行中に、もうあちこちで文庫が生まれ始めました。まさにいろいろなことが文庫づくり運動が育ち上がる条件になったのだろうと思います。住宅とマーケットしかつくらないというそういう粗末な新興住宅地がどんどんと続出して、それで居ても立ってもいられなくて住民が保育所づくりをやったり文庫づくりをやったりする。文庫ができれば必ず子どもが押しかけてくる。とても本が調達できないということで、自治体に体当たりする。それがだんだん時代とともに新しい情勢に合った運動に育ってきて、とにかく住民が自分の住んでいる地域の図書館をよくする運動というのがずっと引き続いて伸びております。今は九州がいちばん活発のようですけど。
編集部 全国的に見ると、地域文庫が広がったというのは一九七〇年代に入ってからだと思うんですね。その先鞭を付けたというので町田はかなり先駆的だったですよね。
浪江 かなりというより、まったくそのとおりです。あの前は村岡花子[*17]や石井桃子[*18]のような児童文学者がやっている家庭文庫、そういうのしかなかったんです。あれとはぜんぜん違いますよ。石井桃子さんの『子どもの図書館』(岩波新書、一九六五年)は大いに役に立ちましたけどね。だけども石井桃子さんには杉並区を動かそうなんていう考えはぜんぜんなかったでしょう。普通のおばさんの場合は、ああいう人達のように本を手に入れることなんか出来っこないから、どうしたって市に体当たりしなくてはならないんだけども、体当たりしていくうちに主権者としての自覚が育ってくるわけですね。
編集部 そのときは、かっての部落文庫と親図書館という関係を、いわゆる地域文庫と公立図書館という図式に見られたんですか。
浪江 さっき言ったように戦後すぐの農村の部落文庫づくりは完全に失敗しましたよね。だけども、あの発想そのものが間違っていたとは思っていません。いちばん大事な本が、世の中になかったんだから、これはもうしょうがないです。実際に役に立つ本がなかったら、忙しいのに生産農民が一生懸命になって文庫をやるはずがないです。自発的な小さな読書施設が多くの人によってつくられて、それを公立図書館がちゃんとバックアップすれば、それが広がり伸びるだろうというあらっぽい考え方でかつての部落文庫と親図書館の再現だと思ったね。それはほんとうに予想以上のスピードで広がりましたね。
編集部 「地域文庫」という言葉も町田で最初に使われたという説が『図書館用語辞典』(角川書店、一九八二年)に載っていましたが。
浪江 文献的に調べたことはないんですけれども、一九六四年の城君が書いた、あれが多分最初じゃないかと思うんです。少なくとも印刷された文献で「地域文庫」という言葉を使っていたのは最初だと思います。
編集部 先生が調査された文庫運動の調査に書いておられたのですが、最初は公立図書館はあまり利用していないんですよね。むしろ石井桃子みたいな、友達と自分で本を集めてきてというのが多かったんですか。
浪江 あの調査は発表するまでまた二年ぐらい経っちゃって、発表されるときにはもっと図書館の利用は増えていると思いますけど。スタートしたしばらくの間は図書館のほうもケチでね、三十冊ぐらいですよ。貸出期間も二ヶ月とか、総入れ替えとか、紛失したら弁償しろとか、そういうのがあの頃の貸出文庫のルールでしょう。百冊というのはなかったんですよ。みんな数十冊ですよ。神奈川県立と横浜市立が町田よりもっと多く三百冊ぐらいずつ貸しているんですけどね。
編集部 そうですね。一九七〇年の調査で、発表されたのが七二年ですか。だから、全国的に言うとまだ地域文庫が広がる前の時点ですよね。
浪江 大阪の松原市の「雨の日文庫」なんかが出来たのは七〇年でしょう。あれは関西での走りでしょう。ですけども、こういう運動があれだけ早く広がったというのは驚異的ですよ、本当に。それで、日本の図書館革命は一定の成果を上げたんですけれども、今や早くもリストラ旋風に巻き込まれて、困ったことになっていますね。
 そういうかたちで私は本当に、図書館協会を大事な拠点として図書館革命を進めていこうという考え方で、ずいぶん張り切ってやりました。勇み足もいろいろあったと思うけれども、一生懸命やりました。
編集部 「中小レポート」のもう四〜五年前から評議員をやられたり、役員もされたんですよね。あれは、どういうのを母体にした評議員だったんですか。
浪江 当選はしなかったけれども票は多かったなんてことがちょっとありましたね。何も運動しなくても、少し変わり者だったから投票してくれる人がいたと思うんですね。評議員に当選しなかったんだけれども評議員から理事になった人がいたり辞退したりして繰り上げ当選したことが一回か二回はありましたね。評議員会というのは、ほんとうに集まることが少ないですからね。
編集部 職能というか図書館の職員だったり館長だったりという者の役員のなり方ってありますよね。浪江さんを評議員として選ぶような層というのは、どういう感じの層だったんですか。
浪江 それは多分もう少し後で図問研がちゃんと役員選挙というのをやるようになってからじゃないかと思いますね。
編集部 今ですと、それこそ文庫のおばさんたちからも評議員になるとか、そういった成り方がありますよね、だけど一九五〇年代の終わり頃なんていうのは、そもそも普通の市民で、図書館に関心を持ったり、日本図書館協会に入っている層なんてなかったでしょうから。


「町田市立図書館をよりよくする会」発足から
「町田の図書館活動をすすめる会」に名称変更した
これまでの歩みについて

浪江 初期には町田市が本当に図書館革命の先頭に立っていましたね。大下市政[*19]の一期、二期がそうです。分館ができる、自動車を増やす、そして貸出しがすごい勢いで伸びる。ところが第三期から足踏みになるんですよね。これは市長とすれば、一つの行政分野ばかりに力を入れるわけにはいかない。町田はいろんな点でまだ遅れた市ですから、やらなきゃならないことがたくさんあって、図書館は現状維持みたいな状況になるわけですね。
 それを私は『図書館運動五十年』を書いているときに気が付いて、いくら市長に理解があっても、市民が運動しないというのはだめなんじゃないかということをちょっと書いてみたわけです。これが出て間もなく、もう一度市民運動をやろうじゃないか、と呼びかけをしまして、それがもとになって一年間、準備期間をおいて、多分、一九八四年でしょうか、「町田市立図書館をよりよくする会」[*20]というのが結成されたんです。そして真っ先にやったのは、図書館協議会の設置の誓願運動です。町田はどういうわけか図書館協議会をつくらなかったんですよね。この運動を八月には協議会が結成されて、「よりよくする会」から三人ぐらい委員が出て、それで私が委員長に押されたわけです。学識経験者は別に鶴見大学の角家文雄[*21]さんと、相模原に住んでいる豊口隆太郎[*22]さんです。
編集部 相模女子大学の先生ですよね。
浪江 初期の図書館協議会は、まず中央図書館の問題に取り組まざるをえなかったわけです。当時の本館(現在のさるびあ図書館)では一二〇〇平米ですから、百何十万冊の貸出しを実現している図書館であれじゃあどうしようもない。ところが町田の市街地に図書館のための土地なんていうのはあるはずがないですから、ちょっと絶望的だったんですね。そしたら、地権者の話が転がり込んできました。私が大下さんから聞いたんですが、地権者の側から今度出来る再開発ビルのフロアを市で買って図書館をつくってくださいという申し入れがあったという話でした。これは何も証拠が残っていないんです。そのときに多分、いろいろコンサルタントとかいう人が協力してくれたでしょうし、そういう人達の智恵の中から出てきたことなんでしょうけれども、公共施設で市民がいちばん足繁く通うのは図書館だから、ぜひここに図書館をつくってくれという申し入れがあったと聞いています。多分、これは本当だろうと思います。それはそれ以前の町田市立図書館の非常に盛大な利用実態があったからでしょうね。それで一挙に五〇〇〇平米を超える中央図書館が、本当にど真ん中にできたわけです。それについて私はほとんど関与していませんが。
 その「よりよくする会」は、うまいことに中央図書館が出来るということになったから、それではそれに市民の立場から協力しようということでいろいろやったりしてきましたが、市民運動としてはこの十年間の活動というのは活発だとは言えませんね。なにがなんでも解決しなければならない問題があるわけではないし。ただここ二年ぐらい、やはりこれでは運動として非常に不十分ではないかという意見がだんだん中から出てきたり、外から声がかかったりしています。それで会の名前も変えるし、扱う範囲も広げようということで、いま学校図書館を活発にしようと活動しています。町田の学校図書館は本当にこんなにひどいと思わなかったなんてみんなが気が付いて、変わりつつあります。
編集部 「よりよくする会」が出来た発足の経過というのも、やはり自治研と関係があったんですね。町田市職労の自治研がきっかけになっていますよね。
浪江 町田市職労は図書館問題を大事なテーマとして扱う伝統がありましたし、いろんな機会にもちゃんと、直接のテーマを設けたりしてやりました。そして、市民の会に市職の図書館分会が団体加入して、そして月例会にちゃんと誰かが必ず出席する。それは町田の場合はごく当たり前のことなんだけれども、いつか関千枝子さん[*23]をお招きして話を聞いたのですが、その話をしたら彼女はびっくりしちゃって、「いや、横浜ではぜんぜん考えられません」なんて言ってました。
 この中央館の建築のときにだって、私たちの会の時にちゃんと図書館の組合員が青写真や何かをもってきて進行状況や何かを説明をしてくれるわけですよ。これは自治研運動の非常にいい側面だと思いますけどね。役所の窓口でいろいろ情報を市民に提供するということは、本当はこれは当たり前のことなんだけども、やはり日本の場合極めて不活発でしょう。その抜け道みたいなものを、組合が自治研をやっていて、市民と同じセンスで問題に取り組んで、そして自分達の持っている、あるいは持とうとする、持てる情報を市民に公開しようという、これは自治研の発想の基本的なセンスだと思うんです。これはやはり大事なことですね。
編集部 個人的に図書館づくりの住民運動に関わっている職員はいろいろな地域にいると思うんですが、やはり団体加盟して、先ほどの青写真の提供みたいな話はなかなかないですよね。
浪江 それと、この「よりよくする会」、今の「すすめる会」が講師を呼んで勉強会をやるわけですよ。そのときに市の社会教育課から少し補助金が出るんです。住民有志だけの会費だと、それ一つやるだけで一年の経費の何割か使っちゃいますからね。そのときに市職の自治研がある程度費用負担してくれるのは、これは情報提供と別のものですけれども、この二つが団体にとっては非常にありがたい協力ですね。
編集部 町田は文庫が出来たということ自体もずいぶん先駆的だったわけですが、一九七〇年代はその後を追うように、三多摩でも、全国でもいろいろな地域で文庫が盛んにおこったり、あるいはそれを基にした図書館づくりや図書館との連携みたいなのが続いていましたよね。
 ただ多くの文庫が活発に続いていって、それが図書館にとっていい刺激になったり、あるいはチェックの役割を担ったりということ自身が、一九九〇年代までずっとはそう続いてはありませんよね。それが町田は今でも続いてるんだなという感じがお話を聞いて強くしたんです。
浪江 一つひとつ見ていくと、他でもけっこう長続きしているのがあるんじゃないですか。
 今、九州はすごいですね。毎年、私が資料[*24]をつくるのは、自分自身の勉強も兼ねてと思ってやっているんだけども、九州は本当にここ数年間は全国のトップになったんじゃないかという気がしますね。すごい勢いですよ。そして、いろんな住民運動がありますね。
編集部 平湯文夫[*25]さんなんかよくやっていますよね。
浪江 平湯君はほんとうにいい種まきをしたと思いますよね。初めはなかなか芽が出なくて、どうして九州は平湯がいるのにこういったものが育たないのかなと思っていたんです。そしたら本当にここへ来てね、まあ彼の種をまいたのが実ったということでしょうけどもね。
 それと、苅田町が大きいですね。あれはやはり町長の沖さんの奮闘がすごいですよね。今度の『苅田町立図書館の3000日』(増田浩次著、リブリオ出版、一九九七年)ですか、あれもいい本だし。本当に長いこと九州はダメでしたからね。図書館のない市が一番多い県は、長いこと福岡県だったんです。いろいろな地域で新しい動きが出ているというのは、表でもつくってみないとなかなかわからないですね。
編集部 佐賀市立に千葉治[*26]さんが行かれました。千葉さんは故郷なんですね。
浪江 今は思いがけないところが動いていますよ。石川県の町村というのはすごくよくなってきましたね。兵庫も動き始めたし。それから和歌山みたいなひどいところで、とにかく素晴らしい町立か村立が出来ていますよ。和歌山で本当かいなと思うようですけれど。さっきの私の作った表を出して和歌山のところを開いてごらんなさい。小さな町や村がすごい予算を組んでいます。
 住民一人あたり四千円の資料費です。この表づくりも七年目になるけれども、和歌山はなかなか一つも出てこない年が多かった。どこかでやはりいいのが出来ると、ほかが開けてくるということがありえますからね。そうならない場合もありますけど。九州でいえば、熊本県の玉名が生まれたときにずいぶん大きな期待をかけていたんですが、あれはあんまりうまくいかなかったですね。
編集部 玉名はもう十五年ぐらい前になりますね。
浪江 大きな期待を寄せたんだけどね、だめだった。たいしたことなかった。


マウル文庫運動について

編集部 では、次に韓国のマウル(村落)文庫[*27]についてうかがいます。
浪江 マウル文庫で、私がいちばん感心しているのは、やはりマンガ農書ですね。よくああいうことをやってのけたと思って、ほんとうに感心しました。私なんかが持っていない、政治的手腕というのを嚴大燮[*28]さんは持っていて、いわゆる上層部を動かす能力があるんです。一流の漫画家なんかをああいうふうに使って、権力もけっこう上手に使って、マウル文庫運動を成功させました。ただここのところすっかり鳴りをしずめちゃって、アメリカで暮らしておいでです。
編集部 オムさんは、アメリカに行かれたんですか。
浪江 再婚した女性がアメリカで活動している人で、もちろん韓国の人ですけれども、やっぱりもう、ちょっと疲れたのでしょう。本当にすごい活動をしていましたものね。


現在進行している財政危機を理由とした
図書館の合理化攻撃について

浪江 今の図書館の逆風については私があれこれ言う資格がないような気がするけど、なかなか深刻ですね。これまで東京とか大阪とか日本の図書館界をかなりリードしてきていたところが、殆ど軒並み頭打ちになって予算が減らされたり、貸出しが減ったりということがあって。 編集部 今問題になっているのは、委託だとか人員削減だとかBM廃止とか資料費を削るとか、いわゆる財政危機を理由とした合理化という面と、地方分権の絡みですよね。図書館建設補助金の廃止だとか、あとは館長の資格ですか、司書資格がなくてもいいという。自治労なんかでは率直に言うとむしろ評価しているというか、言い方は違うかもしれないけれども、別にそれを理由に反対するという立場にはまだ立ってないみたいですね。
浪江 だいたい組合のセンスはその程度だね。というのは、やっぱり日本の場合、ライブラリアンの社会的評価が低いし、実力も高くない。図書館というのはそういう専門家が行かなくちゃだめなんだという空気がまだないですからね。今度の『図書館雑誌』(一九九七年五月号)にはさまっていた地方分権推進委員長と、文部大臣宛のハガキに意見を書いて、投函したんだけど、協会にもそのコピーを送っておきました。私はこういうふうに書きました。図書館を熱心に利用している人達が一番困るのは、素人が館長になって短期間いるところだ。やっぱり図書館というのは本当にエキスパートがやってくれなければ、いい利用はできないと思う。文部省がかつてああいう制度(館長の司書資格という要件)をつくったのは、実際には文部省が直接干渉できないですからね。公立図書館の設置・運営は自治体の固有事務ですからね。だから、ああいうかたちでしかものが言えないわけですよ、本当の話。館長に司書資格が必要なのは、図書館利用者の期待を支えるような性質のもので、規制とかなんとかいうこととはまったく違うものと考えるべきだというふうに書いて出しましたけどね。ただ、やっぱり規制だと受け取っちゃうんですね。
編集部 ちょっと意味あいが違うような気がしますけどね。
浪江 たしかに自治体内部で図書館長をまかなおうという自治体の首脳部からすれば、あきらかに規制ですよ。そのときだけ館長を借りてきてやったりしているところもあるわけですからね。専門職でなければということは、一般住民の図書館利用が本格的になってきてわかることでしょう。そうなったのは本当に最近でしょう。今でこそ欲しい本があったら図書館に行ってリクエストするんだというのは常識になってきているし、わからないことがあれば聞きに行けばいいということもだんだんわかってきている。でも、まだまだ積極的な人達の間でやっと身に付いてきたというぐらいですからね。そんなに図書館に関係をもたない人が、あるいは関心もそんなに強くない人が、図書館というのはやっぱり専門家がいてちゃんとそういうことをやってくれるところだなというふうに考えているわけじゃないですからね。だから、これは非常に長期に渡る建設的な一歩一歩があって達成出来る境地じゃないでしょうかね。


憲法、地方自治法施行五十年に思うこと

浪江 ここに憲法一一条のことが書いてありますが、地方自治についての認識が、本当にまだ日本の場合は不十分だというのは情けない事態ですよね。革新陣営に至るまでだめですからね。地方自治のほうが基本だという考え方はあまりないですからね。でも、さすがに今年は地方自治法施行五十年だから、新聞にも「地方自治五十年」というのが出るけれども。四十年のときはひどかったですからね。日比谷図書館に行って一生懸命調べたけど、憲法施行四十周年記念の前後のときの社説をずっと見て、地方自治法四十年ということに触れてあったのは「熊本日々」と「読売」と「山陰日報」、それだけでした。その「読売」のは「憲法と同日に施行されたのは地方自治法ただ一つ」なんて、大間違いなことを書いて。「読売」だから当たり前かもね。同日施行がどういう意味かがわかってないんですね。それで私は一九九五年に出た『本ものの地方分権・地方自治』を一生懸命書いたんです。つまり、大日本帝国憲法下の明治地方制度というのは地方自治ではないんですよ。だけども、学者研究者全部が明治の地方自治制度という言葉を今でも使っているわけですからね。今でも学者の定説なんですよ。不十分だけども地方自治の制度は明治にあったという考えなんです。  それは、見方によってはあったように見えるからです。だけども、国家権力と市町村とが何かで意見が違った場合にどうなるかといったら、市町村のほうが完敗です。もう一〇〇パーセント、完敗です。本当に1ppmの可能性もないですよ。必ず負けるんです。これはどう考えたって地方自治じゃないです。なるほど条例制定もできるし、徴税権はあるし、議会はあるし、選挙制度はあるし、そういう角度から見れば地方自治があったように見えるけれども、私みたいな運動家として見ると、市町村の立場に立って国家権力と争う時に、ぜんぜん勝ち目がないんですね。そこのところがわからないものだから、どうも地方自治についての正しい認識がない。
 私がそういうことを予見していたわけじゃないけれども、幸いにして図書館の運動に取り組んできて、図書館というのは自治体の、特に基礎自治体である市町村の固有事務ですからね。だから、悪名高き機関委任事務を調べてみても図書館については私立図書館に対する指導助言だけです。公立図書館については、文部省は実際にサボってきましたし、文部省がサボってくれていたおかげで自発的な図書館革命が、いろいろなかたちで進行したということで、それを私は非常に愉快に思っています。
 まあ、補助金はほんのちょっぴり出してますけどね。あれだって自治体から見れば自治省のほうが割がよかったりで、必ずしも文部省をあてにしているわけでもないし、文部省でなければ館長資格もいらないしという、そういうおかしなことになっていますけど。とにかく一九六〇年代から始まった図書館革命の運動というのは中央官庁のいかなるお陰もこうむっていないということで、これは図書館人が大いに誇りに思ってほしいことだと思います。だから、去年の十一月八日の出版祝賀会[*29]のときの最後の挨拶のときも、強調しておきました。
 ただ、そこでは一九七〇年代の東京都の図書館振興政策が、自治体である東京都が市町村の希望を入れてやったということで、それはこちらの運動だと書いておきましたが、実態はそれほど徹底していなかったんです。名知事美濃部亮吉[*30]の色彩がたいへん濃厚ですから、あまり誇れるわけじゃない。杉捷夫[*31]さんが辞められてしばらく経ってから「市町村の邪魔をしなかったのは自分としては非常によかった。」そういう言い方をされたんですね。あの人はそういう点では非常にすぐれた文化人ですよね。要するに美濃部の下で伝統的にいろいろな指揮をするわけだけども、心構えとしては各市区町村の自発的な努力を育てようと考えられたのだと思うんです。あれは本当に立派なことです。


若い人たちへ伝えたいこと

浪江 振り返って思うことはだいぶしゃべってしまったんですが、今も図書館を一生懸命やっている人達はだいたい私の子の年齢の人ですね。そろそろ孫の代に入ってますけれども、図書館の運動というのは、やっぱりいろいろな意味でほんとうの民主主義社会の基本的なことだろうと思います。そして、一人ひとりが図書館を利用したり図書館にいろいろ注文を付けたりすることをしながら自分の住む社会がよくなっていく……。
 図書館で働く、それから図書館を利用し図書館をよりよくしていく、こういう人々の努力や運動というのは非常に奥行きがあるし将来性もあるし意義の深いことであるということを確信をもって、それで日々の運動なり業務なりに熱意をそそいでほしいと思いますね。ほんとうに一生懸命になればなるほど、仕事そのものの意義とか奥行きというのがわかってくる、あまり一生懸命にならないと、そのことがわからない、そういう性質の仕事だというふうに思っています。
編集部 たとえば今の若い人って、わりかし「9 to5」というのか仕事に対して割り切った感じが強い。たとえば町田の図書館ですと、時間外勤務が多いのも確かなんですね。変則勤務ですし、毎日残業が続くという実態があります。それでたとえば組合の集会とか日図協の集会とかに参加を呼びかけても、一方で若い人などはちょうど遊びたい時期でしょうし、参加してくれといっても大変だなということもわかるんですね。でもやっぱりそういうことをやっていかないといけないかなというふうに思っている人が我々団塊の世代には結構多いと思うんですけど、そのへんはいかがですか。孫の世代に向けてというか、先生からご覧になって感じることがあればお願いしたいのですが。
浪江 ストレートには答えにくいですね。距離がありすぎて……。一般論しゃべっても意味ないし……。  私自身の生き方をいいますから、参考にするしないは読者のご勝手ということにしてください。
 私はね、若いときから自分の人生を「世のため人のため」と考えてきました。クリスチャン時代からですよ。神の恵みに救われようなんて考えませんでしたね。社会運動に加わって一層はっきりしてきました。弾圧覚悟ですものね。ただ独房生活の前と後とでは、心構えが丸っきりちがいました。秘密の指令で将棋の駒のように動かされてたんじゃしょうがない。自分が全責任を負って計画立案し、生涯かけてやり抜く、そのための人生だ、というわけです。
 具体的な実践課題として図書館を選んだのは、運よくいいくじを引き当てたといった方が、現実にあっているでしょう。
 その「いいくじ」には色々な意味があるのですが、日本の公立図書館が申し分なく貧弱きわまるものだったというのも、決して忘れてならないことですよ。しかもそんな事実を長いこと知らずにいました。開館準備中はもちろん敗戦のころまでも気がつかなかったんです。自分の図書館の充実しか考えてなかったから。
 日本の公立図書館の惨状に気がついたのは戦後すぐですけれども、夫婦二人が片手間でやってる南多摩農村図書館の現実とくらべての評価と批判でしょ。もうこれは容赦なし、個人片手間の図書館にも及ばないとは何だ! というわけで、公立図書館の根本的生まれ変りを心に誓ったわけです。実にいい大仕事が待ちかまえていてくれました。


埴谷雄高氏や飯沢匡氏らとの交友関係

編集部 ちょっと元へ戻りますが、埴谷雄高[*32]氏と飯沢匡[*33]氏との交友関係のこととか、たとえば空襲のときに中田邦造[*34]さんなんかと本を運んだとか、そのあたりをお話いただけるとありがたいのですが。
浪江 そうですね、埴谷・飯沢両氏については、飯沢は武蔵高等学校で一緒だったんですよ。彼が『アサヒグラフ』の副編集長の時にちょうど終戦を迎えるわけですね。それで、ほんとうに戦後間もない頃に図書館の取材をするって言ってきたんだけれども、まだ私は自分の図書館だけ『アサヒグラフ』で取り上げられたらとんでもないことだと思って、待ってもらって、三輪に部落文庫ができることが決まったときに来てくれと言ったんです。それで十一月一日号に載りました。十六ページの『アサヒグラフ』の二ページを使ったんです。これはたいへんよかったと思いました。それから彼はずっと継続的に定額の寄付をしてくれました。本もずいぶんもらいました。
 埴谷雄高氏は、実は全農全国会議派の同志なんだけども、彼のほうが先に入って先に引っ張られちゃって、戦前一緒ではなかったんです。戦後、全農全国会議派の同窓会がありまして、毎年のように集会をやっていたのですが、そこでいろいろ昔話をしているうちに、関係がお互いにわかってきた。たいへん楽しい会でした。
 もう彼も亡くなったし、今朝の新聞に出ている絲屋寿雄[*35]というのもその仲間です。彼はここ数年外出を全然しなかったから、葬儀も告別式もやらないらしいけども、あれも仲間ですね。もうほとんど死に絶えてちゃいまして、残っているのは数人ということになりました。
 埴谷氏のところにはどんどん本が集まってくるでしょう。ですから「だいぶたまったから取りに来てくれよ」と、電話がかかってくるんですよ。それで車で、十回ぐらいはもらいに行ったでしょうかね。だいたい一回三百冊から五百冊ぐらい、すばらしい本をタダでもらいました。
編集部 車で行かれたんですか。
浪江 そうそう。それはもう、非常に助かってます。ですから、私の図書館を物で支えてくれた両横綱が飯沢匡と埴谷雄高と言ってもいいぐらいですね。そのほかにも、本当は平凡社なんかもずいぶん寄贈してくれました。
 中田邦造さんとのことは、別のところに書いてあるから勘弁していただくとして、戦後、私は『農村図書館』(一九四七年、河出書房)を書いたのだけれど、あの当時はどこにもベテラン館長がいたでしょう、やっぱり読んでましたよ、たいていね。行った先行った先で歓待されていろいろお話を聞くということがずいぶんありましたね。
 宮城県立の佐々久さん、福島県立の桑原善作さん、新潟県立の渡辺正亥さん、富山の北条正韻さんと村上清造さん、石川県では市村新さん、芳井先一さん、梶井重雄さんあたりは戦後の早い時期に親しくなった方々です。初期に知り合った方は、つまりみんな先輩なわけですよね。それで、ちょっと異色の若い活動家ということで、たいへん歓迎してくれて、いろいろご高説も承りました。
 一方、ぜんぜん話の中身が合わない人たちもいました。たとえば甘日出逸暁[*36]さんがそうですね。
編集部 甘日出さんは千葉県立ですか。
浪江 そうそう。あの人は最後まで義務設置ということを言い続けていましたね。
編集部 一九九一年ですね、亡くなったのは。すごく長生きをされて。
浪江 叶沢清介[*37]さんとは、彼が有山さんの次に日図協の事務局長になってから一度どこかにいっしょに行くはめになって、それでたいへん打ち解けましてね。
編集部 長野ですね。
浪江 そうそう。彼が文部省にいた時期に私は一度会っているんですよ。だけどね、長野県立に行って、それから有山さんに私のことを聞いて、多摩の地方版には私の名前なんか出てたでしょう。それで、叶沢さんが有山さんから浪江は共産党のバリバリだなんていう話を聞いていて、敬遠していたらしいですね。いっしょに旅行して、すっかりその考えを捨ててくれてね、それからたいへん力になってくれたし、私を力にしようという気持ちもあったみたいですね。
編集部 叶沢さんは読書運動ですよね。
浪江 まあ、私に言わせれば、本が決定的に不足しているという前提条件を変えないで、その枠の中でやった発明の一つです。今日は実は椋鳩十[*38]さんについてちょっと話すつもりだったんだけども、農業ものの本の利用では、戦後わりと早い時期に、立派な活動をやったのは高知市民図書館だったんです。東京で出版される農業本は高知の農民には役に立たない。時期がずれているんです。それで高知に合うシリーズを出しているんです。
編集部 高知市民図書館がやっているんですか。
浪江 そうなんです。そのことなんかはほとんど評価されてないでしょう。椋さんの「母と子の二十分読書」のほうがやたらと有名になっちゃいましたが、同時進行で農業文庫をやっているんです。農文協の本などの複本をたくさん買って、県内の町村図書館に配置して、そして研究会をやらせて、そこへ改良普及員や農協の技術指導員をちゃんとチューターとして結び付けてやる。
編集部 鹿児島がですか。
浪江 はい。椋さんの「母と子」があまり有名になりすぎちゃったものだから、あればっかりが取り上げられて。それで、椋さんがいつか私に言ったんだけども「あの形だけ真似して本をちっとも揃えないで困る。本を大量に用意してやるのが大事なんだ」と。私はあの頃の『日本の図書館』を調べてみたら、鹿児島県立図書館の児童書の冊数というのはダントツなんです。他では子どもが母親に読んで聞かせることだけ真似する。農業書の冊数は『日本の図書館』では調べようがありませんが、農業の本を読ませることでの図書館側の非常に積極的な努力のことは、やはり私としては賞賛しておきたいですよね。高知の出版活動と鹿児島の農業技術の相談相手と結び付けての大量貸出しね。
編集部 全国をまわられていらっしゃいましたが、北海道などはオルグ旅行ですか。
浪江 あのときはまだ北海道は革新市長が大勢いたときでしょう。それで大下さんから紹介状をもらって行ったんです。北海道の町村図書館が飛躍的に伸びるのはもう少し後ですね。今はすごいですよね。前は北海道は置戸町とかいくつかいいのはあったけれども、設置率がぜんぜん低かったし、そしてだめな方が多かったんです。それが、今はそうじゃなくなりましたからね。北海道は、私の表では一枚目には収まりきれなくなったんですね。次の紙にはみ出した。そして、資料費の欄がずっとふさがっているでしょう。あれは、たいしたものですよ。
 北海道の町村は人口が少ないですからね。だから私の基準で下限五百万円というのは、かなり厳しいですよ。一人五百円以上というのと、下限、絶対額五百万円以下は一切拾わないというのは、小さい町村では設立のときはともかくとしてなかなか続けて計上できません。それをどんどんやっているでしょう。たいしたものですよ。この表をつくるのに骨が折れるけれども、しかしこれは収穫があります。
編集部 六〇年代、七〇年代、日図協で『図書館雑誌』の編集委員長をかなり長くやっていらしたんですね。
浪江 ええ、三期六年です。
編集部 その間にどういう方針でおやりになったのでしょうか。今までと違った編集方針をやったとか、ありますでしょうか。
浪江 編集委員長というのは、編集委員会の人たちの意見をまとめるのが主ですからね。だけども、やっぱり自治体問題として見る見方とか、それから私が今でもよく覚えているのは私の編集委員長時代になんとかして県庁所在地に市立図書館をつくらせたいということでしたね。その頃はまだ、県立があれば市立はいらないというほうが常識だった時代ですから。
 アンケートを出したことあるんですよ。奈良市の教育長の回答では「当市には立派な県立がありますから、市には必要ありません」と堂々と書いてありました。私の記憶では、自分で意識してキャンペーンしたというのは県庁所在地市相手のものです。
編集部 『図書館雑誌』の論文ですとか、かなりありますよね。『図書館そして民主主義』をまとめる時にも、そういったものをだいぶ落とさざるをえなかったのでちょっと残念だったんですが。


日本共産党との関係

編集部 それから日本共産党には、戦後再入党されていますよね。翌年、村議会議員になられたということですが、再入党というのは、日本共産党に対する信頼が回復したというふうに考えていいのですか。
浪江 徳田球一[*39]が出て来た頃はまだ危なかしくて再入党する気にならなかったんです。野坂参三[*40]が帰ってきて、そして「愛される共産党」という演説をやるでしょう。あれを聞いて、今度は大丈夫かなと思ったわけです。入党したのは一九四六年になってからです。
 ですけども、やっぱり議員になったってさっぱり役に立つ指導なんかしてくれないし、多摩で何人かの共産党議員がいたから横の連絡は持ったのだけども、役にはあまり立たなかったですね。役に立たなくてかえってよかったのかもしれませんが、あとで調べてみたら共産党が戦後つくった憲法草案なんかでは、ぜんぜん地方自治という発想がないんです。地方制度ですね。宮本憲一君も、一昨年の対談のときに、共産党は地方自治というのはほんとうにわかってないというような意味のことをちょっと言ってましたね。
編集部 村議会議員に一期限りというのは、本の中では「仕事が忙しくて」という理由ですが、やはりそのへんとの関係もあるんですか。
浪江 農文協の仕事がものすごく忙しくなったから、やる気はまったくなかったです。だけども、川上貫一[*41]が私を排除しようとしていたことは明らかです。そしてそれをどういうかたちで出したかというと、もう情勢が進んで、農村ではインテリが議員をやるべき時代は去った。今度は貧農が議員になるべきだというPRを鶴川の農村細胞にやるわけです。それはもう、誠にごもっともでしょ。それで貧農が立候補して惨敗したんです。
編集部 ちょっと場違いな質問かもしれませんが、『村の政治』刊行について、共産党はどのような反応を示したのでしょうか。
浪江 あまり高くは評価してくれなかったとは思うけれども……。何も触れてないから。だけども実際に、たとえば自治研の助言者をやっている人で共産党系の人たちでも、この『村の政治』の評価については、そういうこととは無関係にこれをたいへん高く評価してくれました。
編集部 今日は長い時間にわたって、どうもありがとうございました。


[*1]板谷敬●一九〇八〜一九四五 東大中退後労働運動へ。一九四〇年日共再建運動中に検挙、獄中死。
[*2]加藤四海●一九一〇〜一九四〇 東京生まれ。昭和四(一九二九)年、東京商大予科三年のとき学外活動で退学処分。以後、茨城で農民運動に参加。一九三一年、共産党入党。一九三二年、検挙。一九三七年出獄後、山代吉宗、春日正一、酒井定吉らと?京浜グループ?を組織。共産党再建を目指す。一九四〇年五月、目黒署に検挙され、翌日、二階調室から飛び降り、頭蓋骨骨折で死亡した。
[*3]橋本義夫●一九〇二〜一九八五 一九六〇年代末に始まり、全国的な広がりを見せた「ふだん記」運動の中心人物としてその名が知られている。
[*4]永井威三郎●一八八七〜一九七一 育種学者、栽培学者、農学博士。日本作物学会、遺伝学会、農業気象学会員の他、日本育種学会評議員として活躍、イネの遺伝研究で業績をあげた。
[*5]福島要一●一九〇七〜一九八九 一九四七年統計調査局作物報告課長を経て、消費生活研究所理事。
[*6]山代巴●四二頁、山代巴プロフィール参照。
[*7]『中小都市における公共図書館の運営』(日本図書館協会、一九六三年)の通称。
[*8]有山●一九一一〜一九六九 一九四六年二月(財)日本図書館協会総務部長兼指導部長に就任し、協会の再建に当たる。四七年九月(社)日本図書館協会の新発足とともに総務部長兼指導部長となる。四九年日本図書館協会事務局長に就任。一九六三年に出された『中小レポート』の立役者である。六五年八月日野市長に当選。
[*9]図書館問題研究会の略称。一九五五年に結成された。
[*10]全日本自治団体労働組合の略称。地方自治体及びその関連団体で働く職員の職員団体及び労働組合の全国連合組織であり、一九五四年に結成された。
[*11]宮本憲一●一九三〇〜 公害告発と住民自治の理論を展開する経済学者。自治労の地方自治研究活動の助言者としても活躍。
[*12]前川恒雄●一九六五年日野市立図書館長に就任、「中小レポート」の理念を実践する。日野市助役、滋賀県立図書館長を経て現在甲南大学文学部教授。
[*13]本多嘉一郎●一九〇三〜一九八〇 第四代調布市長。一九六二年七月の市長選挙に社会党公認で立候補し当選、以来四期連続当選した。
[*14]町田の図書館活動をすすめる会の会報。一九八六年四月創刊。原則として月刊で一九九八年九月に二七号を発行。
[*15]「文庫づくり運動調査委員会」が一九六九年六月に設置され、調査を行った。調査時点は一九七〇年二月末日現在、報告書の発行は一九七二年二月。
[*16]安井辰雄●元府中市立図書館長。
[*17]村岡花子●一八九三〜一九六八 童話作家、翻訳家、評論家。一九二六年に早世した長男の名を記念して自宅に子ども図書館「道雄文庫」を開設した。
[*18]石井桃子●一九〇七〜 児童文学作家、英米児童文学翻訳家。『子どもの図書館』に示された「かつら文庫」における文庫運動等、多方面にわたる活動で、第二次大戦後、子どもの本に新しい視点を与えた業績は大きく、その影響は広く深い。
[*19]大下勝正●一九七〇年三月一日に行われた市長選挙で二代目の町田市長として当選、革新市政が誕生した。以来五期二〇年にわたり、地方自治の発展に寄与した。
[*20]一九八三年五月に「町田市立図書館をよくする会準備会」が発足、十回に及ぶ準備会を経て、八四年四月に「町田市立図書館をよりよくする会」として正式に発足した。活動の幅を広げるために、九七年四月「町田の図書館活動をすすめる会」に名称変更した。
[*21]角谷文雄●一九三三〜 鶴見大学文学部教授。町田市立図書館協議会委員を一九八五年八月に設置以来六期十二年にわたり勤めた。八九年八月から副委員長、九四年五月から委員長に就任。
[*22]豊口隆太郎●一九三三〜 相模女子大学名誉教授。一九八五年八月から町田市立図書館協議会委員、九七年八月から副委員長に就任。
[*23]関千枝子●一九三二〜 ノンフィクション作家、横浜の図書館を考える集い代表世話人。『図書館の誕生』(日本図書館協会、一九八六)などの著書がある。
[*24]『注目すべき市区町村立図書館の一覧表一九九六年度版』浪江虔、一九九七年
[*25]平湯文夫●一九三四〜 元純心女子短期大学教授。
[*26]千葉治●一九三六〜 佐賀市立図書館長。
[*27]嚴大燮●韓国農村読書運動の第一人者。五一年に六月に故郷のウルサンに私立図書館を創設。ウルサンから撤退して五三年に慶州に図書館を開き、それを邑立(後に市立)にした。五五年に韓国図書館協会を設立し、六一年まで事務局長兼常務理事を務めた。また、六〇年に構想を固め、六一年にスタートしたマウル文庫運動を成功させた。
[*28]嚴大燮氏が一九六〇年に構想を固め、六一年にスタートさせた村落文庫運動。最初の二年間に生まれた百の文庫に対し、本箱と数十冊の本を提供したことが運動成功の一因とされている。実用的で読みやすい農業技術書シリーズの発行と全文庫への無償配布の成功について、浪江氏は感服している。
[*29]『図書館そして民主主義』の出版を記念して自治労町田市職員労働組合の主催により行われた。
[*30]美濃部亮吉●一九〇四〜一九八四 経済学者。一九六七年から三期一二年にわたり「革新都政」を実現。
[*31]杉捷夫●一九〇四〜一九九〇 美濃部と知事に請われて都立日比谷図書館長に就任、一九七二年まで美濃部都政下の文化行政全般にわたってブレーンの役割を果たした。
[*32]埴谷雄高●一九〇九〜一九九七 小説家、批評家。一九三一年に日本共産党に入党。
[*33]飯沢匡●一九〇九〜一九九四 劇作家、演出家、小説家。朝日新聞社に入社、戦後は『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長を歴任後退社。我が国における本格喜劇の開拓者かつ第一人者であった。
[*34]中田邦造●一八九七〜一九五六 一九二七年石川県立図書館長事務取扱。三一年〜四〇年同館長。この間、石川県下で読書指導を実践。四〇年、東京帝大付属図書館司書官、『図書館雑誌』の編集兼発行者となる。四四年都立日比谷図書館長に転じ、図書の疎開に全力を尽くす。四九年都立日比谷図書館退職。
[*35]絲屋寿雄●一九〇八〜一九九七 三三年治安維持法違反で検挙されたが、執行猶予。三八年松竹京都撮影所に入社。戦後はプロデューサーとして溝口健二監督作品を担当、独立映画運動に関わり、七〇年新藤兼人などと近代映画協会を創立。
[*36]甘日出逸暁●一九〇一〜一九九一 一九三五年千葉県立中央図書館長。一九四九年日本最初の移動図書館を実現。
[*37]叶沢清介●一九〇六〜 一九二九年県立長野図書館勤務。一九五一年からPTA母親文庫を組織。一九五四年文部省が「本を読むお母さん」という教育映画にして全国的に知られた。一九六六年〜日本図書館協会事務局長。現在日本図書館協会顧問。
[*38]椋鳩十●一九〇五〜一九八七 詩人、小説家、児童文学者。一九四七年鹿児島県立図書館に転じ、創作の傍ら、読書運動に取り組む。
[*39]徳田球一●一八九四〜一九五三 日本共産党の指導者。一九二八年二月に検挙され、獄中一八年、非転向を貫いた少数者の一人。一九四五年一〇月府中刑務所から解放され、再建日本共産党の書記長に選ばれた。
[*40]野坂参三●一八九二〜一九九三 山川均らが推進した日本共産党の創立に参画。一九五八年八月の第七回党大会で中央委員会議長に選ばれた。党創立六十周年にあたる一九八二年の第一六回党大会で議長の座を宮本顕治に譲り、新設の名誉議長に就任した。一九九二年秋、満百歳を越えて、旧ソ連文書が明るみに出、名誉議長を解任され、同年一二月末には党から除名された。
[*41]川上貫一●一八八八〜一九六八 敗戦後一九四五年、日本共産党に入党。一九四九年衆議院議員選挙に大阪二区で当選。以後六〇、六三、六七年にも当選。一九六七年、日ソ協会理事。


参考文献一覧

『近代日本社会運動史人物大辞典』日外アソシエーツ、一九九七年
『研究者・研究課題総覧1996年版』紀伊国屋書店
『現代人物事典』朝日新聞社、一九九七年
『現代人名情報事典』平凡社、一九八七年
『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、一九九〇年
『現代物故者辞典1980〜82』日外アソシエーツ、一九八三年
『図書館運動後十年』日本図書館協会、一九八一年
『図書館そして民主主義』ドメス出版、一九九六年
『図書館、そしてPTA母親文庫』日本図書館協会、一九九〇年
『図書館用語辞典』角川書店、一九九〇年
『中田邦造』日本図書館協会、一九九〇年
『日本社会運動人名辞典』青木書店、一九七九年

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