スタジオ・ポット/ポット出版 株式会社スタジオ・ポット Phone 03-3478-1774
〒150-0001 渋谷区神宮前2-33-18 #303
  TOP > 【読みもの】 > ず・ぼん全文記事>
プライバシーポリシーサイトマップお問い合わせ

 
 
ポット出版ず・ぼん全文記事ず・ぼん4

植民地満洲・淪陥十四年 その研究の中での図書館

くろこ・つねお
[1997-12-10]

前号では「図書館人が植民地でやったこと」という側面から近代史における図書館とは何か、を問い直した。
今号では人の側面からは少し離れ、図書館が担った役割、果たしてきた個々の活動や試みに光をあてて、あらためて近代史における図書館とは何か、を問う。


文●くろこ・つねお
くろこ・つねお●一九三四年、中国大連で生まれ、四七年秋まで瀋陽で育つ。
大学卒業後、毎日新聞北海道報道部記者、川崎市区役所・教育委員会(公民館・図書館)職員を経て、保谷市図書館創設に責任者として参画。
公立図書館勤務歴二十五年。八九年瀋陽に里帰りして以来、訪中は九回。大連・瀋陽・撫順・長春・哈爾濱・黒河・斉斉哈爾・海拉爾・満洲里・ノモンハン・上海・南京・武漢・重慶など日本の植民地・侵略の事跡の地をめぐる。「戦後 年東北国境・平和友好の旅」では講師を務める。九七年春遼寧大学で講演。
著書は、『図書館には本がある』日外アソシエーツ・九五年、『心にアシスト』保谷市図書館・七八年、『共同研究集団 サークルの戦後思想史』平凡社・七六年(共著)、『再訪故郷 瀋陽回顧・私の少年時代』八九年、『母なる大地・東北地方への旅』九六年、『上海から重慶まで長江遡上の船旅』九七年(いずれも私家版)など。


はじめに

「植民地満洲の図書館」は、私の長年の研究主題ではない。私の調べもののテーマは、「中国東北三省を中心とした近現代中日関係史」である。とりわけ、一九三一年九月十八日夜半、瀋陽(当時奉天)の北郊柳条湖での満鉄鉄道線路爆破から拡大した九・一八事変(満洲事変)に始まり一九四五年八月十五日の日本帝国の敗北までに至る年月の中で、東北三省の地を中心に日本と中国との間でどんなことが起こっていたのか、起こされたのかということを、日本側だけでなく中国側の文献と照らしあわせて、それらの事実を確かめたいということにあった。この期間は、中国では“東北淪陥(被占領)の十四年”である。中国にとって日帝侵略・偽満洲国樹立を許した屈辱の年月、反満抗日の苦難の年月であった。さらに私的なことで言えば、私が、植民地の子、満鉄社員の子として、一九三四年に大連で生まれ、日本帝国敗戦(中国では反フアシスト・抗日戦争勝利)後の二年間までを含めて、十四年間育った地の歴史のことだった。
 この年月の中で起こったことについての日本人と中国人との認識の違いは、不幸にして、お互いなかなか理解し得ないほど大きく隔たっている。日本の庶民にとってこの地は、優秀な大日本帝国臣民がリーダーとなって五族協和の王道楽土を築く新天地であり、日露戦争で祖父が血であがなった“わが土地”であった。この地で日露の両帝国主義が植民地収奪の戦争をし、その結果、ロシアが経営する炭鉱鉱山や鉄道が、事後承諾という主権国中国を無視した形で日本帝国に譲り渡された。
 さらに日本は、満蒙独立論を唱えた。遼寧・吉林・黒龍江の東北三省と内蒙古自治区は、関外(山海関の万里の長城の外)の地で、歴史的に中国とは異なっており、またそうであるべきだ、といった論陣をはった。庶民大衆は熱狂的に声援した。こうした背景のもとに、鉄道沿線を警備するだけのはず(それとても理不尽なのであるが)の関東軍は、柳条湖で満鉄線路を自ら爆破しての謀略により満洲事変を起こし、かねてからの作戦によって東三省を占領した。翌一九三二年三月、日本は一挙に清朝最後の皇帝溥儀を引き出して、見せかけは「満人」が統治する国“偽満洲国”をつくった。
 その後、王道楽土建設のスローガンの下、中国の人々は土地を騙しとられ、村落を追われ流浪し、奴隷的に働かされることを余儀なくされ、或いは飢え死にした。そして植民地支配に抗して闘う中国の人々は、「匪賊討伐」で日本人に殺戮されたりした。その数は東北に住んでいた中国人の誰しもが、親戚・知人の中に、必ず日本による犠牲者がいるほどの多さであった。ところが、日本人の多くはこれらのことをほとんど意識していなかった。それどころか日本が巨額の資本を投じて、中国の近代化に大いに貢献したのであって、感謝されてしかるべきだ、五族協和、王道楽土建設のために、純粋なこころをもって尽くし、私の青春を捧げた、といってはばからない人々が相変わらず居る。例えば、すべてがそうではないが、満洲回顧集刊行会編『ああ満洲—国つくり産業開発者の手記』[*1]、国際善隣協会編『満洲建国の夢と現実』[*2]、大同学院史編纂委員会編『碧空緑野三千里』[*3]などを読んでみればそう思ってしまう。
 私は、十九世紀末の日清戦争から一九四五年まで、中国東三省で起こった侵略の事象をさまざまな資料で読みとりたい。たとえば、制圧する日本官憲の記録である斉藤良二編『関東局警察四十年の歩みとその終焉』[*4]、社会問題資料研究会編『思想情勢視察報告集(其の四)満州における共産主義運動』[*5]。あわせて「もうひとつの満洲」である反満抗日運動を続ける中国側の文献、楊克林編『中国抗日戦争図誌』[*6]、王魁喜ほか『満州近現代史』[*7]、黒龍江省社会科学院地方党史研究所・東北烈士記念館編『満州抗日烈士伝 第一巻(東北抗日連軍第一路軍)』[*8]。これらを照らしあわせて真実に近い事実を見きわめ、その根源を明らかにし、再びその轍を踏まないために如何にすべきかを考えたい。事実の詳細は必ずしもすべてが正確とは限らない。お互い、都合のよいところは誇大に、具合の悪いことは記録していなかったりする。記憶違いは致し方ないにしても、謀略・虚報・誤報などがあるから十分な吟味が必要である。
 中国では、九・一八事変六十周年を期して、“中国東三省での淪陥(被占領)十四年研究”が進んでいる。
 私は一九九六年、哈爾濱の東北烈士記念館で、日本帝国主義侵華档案資料選編『東北「大討伐」』[*9]を手にいれた。これは、中国側が、「日本の詳細な反満抗日軍等の討伐に関する文書を資料として」中国語に訳したものである。日本の資料を中国ではどのように読みとっているのかを見ることで、中国人のものの見方、考え方を知ることができるということも、また興味をそそられる。
 なお、この観点から日本で出された本には、万峰『日本ファシズムの興亡』、易顕石『日本の大陸政策と中国東北』[*10]がある。
 そして、軍事侵略、政治支配、産業経済の収奪のみならず、「文化的侵略」にも、もっと目配りが必要と思い到っている。というのは、都立中央図書館から取り寄せた「満洲国」教育史研究会監修『「満洲・満洲国」教育資料集成抗日教育』[*11]の中で、陳言編『満洲與日本』[*12]及び、許興凱編『日帝国主義與東三省』[*13]を、読んだからである。前者は、一九三一年の九・一八事変直前までの日本の満洲侵略の原因・動機・政策及び東北における横暴な行為を詳説しており、後者は、その中の「日本在東三省的文化侵掠」の抄録である。そこでは、いま(一九三〇年当時)ある中国人への日本の教育は、中国語、中国の歴史を排して、日本語の教科書で、日本語で授業するという、中国人をして文化的亡国の民にせんとする教育であると、学校教育から出版文化にいたるまでの詳細な記述をしている。その中に「社会教育」として図書館の記述及び図書館名、蔵書数、利用状況が一覧の表にしてある。
 私は、こうした文献を読む作業をやっと始めたばかりである。植民地満洲の図書館と言えば否応なしに植民地国策会社である南満洲鉄道株式会社(満鉄)=満鉄調査部=満鉄図書館とつながる。しかし、これまで述べたように、私の研究テーマとして読みとる分野ではなかったから、植民地満洲についての事柄を調べる中で、必要に応じて、図書館部分の詳細を、断片的に、斜め読みした程度にすぎない。
 『ず・ぼん』三号の特集「図書館人が植民地でやったこと」を読むまでに、「植民地—図書館」といった件名ではなく、「日本の中国東三省侵略・植民地化”—文化的侵略・略奪」といった視点から、私が、たまたま見知っていた植民地満洲の図書館に的をしぼった文章は、岡村敬二「満鉄図書館蔵書集積の歴史」、「満鉄図書館業務研究会の歴史」、「残すこと遺されること—満鉄図書館員の資料整理」、「満州国立奉天図書館の歴史」[*14]、加藤一夫「図書館からアジアへ通じる視点—アジア図書館設立の前提」、「図書館員の戦争責任—植民地認識の検証から」[*15]、小黒浩司「衛藤利夫—植民地図書館人の軌跡」[*16]程度であって、私の本『図書館には本がある』[*17]のなかの「事実を記録で確かめる—中国と日本の間でのこと」で、ことのついでに一ページほど触れただけである。だから表題の如く「植民地満洲・淪陥十四年—その研究の中での図書館」—という記述になる。
 本稿では、十九世紀からの欧米日露の植民地争奪の争い、その結果、日本が獲得した中国東北地区の権益を維持するために設けられた国策会社南満洲鉄道株式会社の概略、その鉄路安全をはかるべく駐留した鉄道守備隊(関東軍)が次第に力をつけ満鉄を凌駕していく過程をのべる。そのなかで、満鉄図書館をつくり出した組織としての満鉄調査部のことのあらまし等について触れ、その後、図書館について、主として『満鉄附属地経営沿革全史』の中の各地の図書館の記述を拾い読み、他の文献の記述も加味して、紹介することにする。
 なお、『満鉄附属地経営沿革全史』は、満洲国ができたことから、満鉄附属地の治外法権が消失し、鉄道事業に直接関係のない病院、学校、図書館等の多くの施設を満鉄から満洲国に移管するために作成された社内秘扱いの文書で、一九七七年、龍渓書舎によって復刻された。それは三冊本で、総ページ数三六二九ページの大著であり、とびとびに図書館についての記述があって、それらをあわせたページ数はざっと八五ページ程度と小冊子が出来るほどの分量である。この本は出版元にはありえず、古本屋でさえもほとんどみかけない本だけに、東京都立中央図書館の書架で見つけたときは欣喜雀躍の思いであった。大学・専門図書館に縁がない私にとって、こうした公共図書館があってよかったと心から思った。


中国東北地区の植民地化

 十九世紀は帝国主義による植民地化の時代であった。中国植民地化の始まりは阿片戦争とその結果として一八四二年に清と英国との間で締結された「南京条約」である。それは賠償として英国へ香港・九龍半島を割譲、ついで商品市場拡大のための広州、厦門、福州、寧波、上海といった商業都市の開放、開港場の土地賃借権獲得。そこには警察権・行政権の掌握となって租界が形成され、租界では領事裁判権が設定されて治外法権の領域となる。そして英国は、経済的収奪をもくろんで、半封建未近代化の中国国内の交通機関への投資(長江沿岸の航行権、附属の採鉱権も含めての鉄道の敷設・経営権の掌握)、最後に中国の関税を支配して、銀行を開設、外国貨幣の発行・流通による金融支配までつき進んだ。仏独露日といった他の国でも同じ手法を用い、行ない、中国は半植民地国家状況となる。
 中国東北部において、帝政ロシアは、一八五八年の愛琿条約、一八六〇年の北京条約で黒龍江以北及び沿海州を手に入れロシア領にした。もし戦争が勃発した際鉄道を使って中国に軍事援助を行うとの理由で、一八九六年中国東清鉄道建設(チタ〜満洲里〜哈爾濱〜綏芬河〜ウラジオストック)の特権を得る。さらに日清戦争で日本が清国の賠償として手にすることになった遼東半島を独・仏とともに干渉し、日本は返還せざるを得なくなった。実は、清が日本へ支払う莫大な賠償金をロシアの口ききでフランスの銀行から借款したこともあって強力な干渉をしたのだった。その代償として、ロシアは、その後の一八九八年に旅大租借地条約を締結し、旅順・大連の租借、軍隊の駐留を成し遂げた。ついに北清事変の結果、哈爾濱〜旅順間の鉄道敷設権獲得。それによる建設開通、あわせて鉄道警護権、鉱山採掘権、森林伐採権、土地開墾権、内川内海航行権などを獲得した。まさにロシア東方外交の輝ける勝利であった。
 日本は、清からの賠償金ですでに八幡製鉄所建設など軍備拡充を始めていたが、戦争遂行にはまだ不十分であった。にもかかわらず、この帝政ロシアの進出で脅威を感じ、一九〇四年ロシアに対して戦端を開き巻き返しをはかった。ロシアの東方進出をこころよく思わなかった英国(そのために日英同盟を結んだ)や東北部の権益を秘かに望む米国は、戦時資金調達で日本に協力した。調達した外債は一〇億円を越え、全戦費一七億円の過半を占めたというからその後が大変であった。
 ともかくも日露戦争の結果のポーツマス条約で、ロシアが持っていた東北地区南部地域の権益を日本に譲る。それは(1)東清鉄道南部支線(寛城子〜旅順間)及び安奉鉄道(安東〜奉天間)の経営権、さらに鉄道附属地を設定し、沿線の撫順及び煙台炭鉱の採掘・経営権を日本のものとする、(2)鉄道守備軍を駐留させる(一キロ当たり一五人以内)、(3)遼東半島を租借し統治する、というものであり、それにより(1)南満州鉄道株式会社の設立、(2)関東軍司令部の設置、(3)関東州庁設置となる。


満鉄と満鉄調査部のはじまり

 譲渡された鉄道を経営するために、日本政府は一億円を出資、あとは民間から募って、資本金総額二億円の南満洲鉄道株式会社を一九〇六(明治三十九)年に設立し、翌七年に営業を開始した。
 その時、初代満鉄総裁の後藤新平は調査部を直ちに設けた。後藤新平はすでに日本の最初の植民地台湾で総督府民政長官をつとめ、その時、土地調査局と戸口調査部を設けて権利関係があいまいな土地を収奪する功績をあげていた。後藤は、満鉄経営が「清国領土内で行われる」と認識していた。満鉄経営拡大に必要な土地収用にあたって、満鉄と清国の人々との間でのトラブルが生じた場合、不十分な中国の法制より、これまでの慣行にのっとって解決の途を探る方が現実的であると判断した。そのために、土地問題の慣行及び法制の調査を行うべく調査部を設置した。そして、調査に必要な基本的文献を収集・提供するための附属施設として図書室が設けられ、それが次第に拡大して図書館になり、独り立ちするようになる。
 会社業務が国策遂行である満鉄における調査部は、満蒙、支那、シベリア、欧露における政治、経済、文化、産業各般にわたり大がかりな調査活動をする。その成果は、『満鉄調査月報』などの定期刊行物で発表したり、『満洲旧慣調査報告』『関東州土地旧慣一般』『満蒙全書(全六巻・付録一巻)』『満洲旧蹟志』『支那における家族制度』といった報告書にまとめられる。

 一九一一年、孫文ら革命勢力の武昌での軍事蜂起、それに続いて翌年中華民国臨時政府樹立宣言を発するにおよび清は滅びる(辛亥革命)。しかし、中国では、国民党、諸地方軍閥が割拠して天下の覇を競うという政情不安が続くことになる。まずは袁世凱が権力を握る。時あたかも一九一四年、欧州において戦火があがり第一次世界大戦となり、英国の要請もあって日本は参戦する。欧州諸国の中国などへの東洋侵略が手薄になっていた状況の中で日本政府は、独の租借地山東半島の青島の占領を果たした。先に日露密約によって黙認された日韓併合を一九一〇年に行った勢いもあって、一九一五年、悪名高き対中二十一ヶ条要求を袁世凱に対して行う。その内容がわかるや、上海をはじめとしてそれに反対する激しい日貨排斥運動が広がるが、日本は武力行使をほのめかす。その結果、(1)関東州の租借期間、満鉄及び安奉鉄道の経営権を九十九年延長、(2)南満洲における鉄道敷設権と諸鉱山の採掘権の獲得、(3)南満洲における農業経営及び商工業建設のために土地を商租(賃借)する権利の獲得、(4)漢陽・大冶・萍郷の採炭・製鉄事業を行う漢冶萍公司を日中合弁とし独占をはかる、といったことを得る。
 そうした中にあって東北地区では関東軍の支援を受けた奉天軍閥張作霖が君臨する。中央政権進出をねらう張作霖はその戦費をねん出するため奉天票を乱発し、インフレがこうじて人民は塗炭の苦しみにあえぐ。また全国制覇をめざすならば各国に応分の目配りも必要であり、満鉄線に対抗する鉄道建設のため英米の資本導入がはかられる。そうしたことから関東軍にとって邪魔になりはじめた張作霖は、消されてもおかしくない状況になっていた。
 一九二八年六月四日早暁五時二十三分、北京から引き揚げて来る張作霖の列車がゆっくりとカーブを描いて上下にクロスする満鉄線橋梁下をくぐり、四両目の唯一藍色の車両がさしかかった瞬間、轟然と爆発がおこり脱線炎上した。張作霖は重傷を負い城内の自邸に運ばれるがやがて死ぬ。皇姑屯事件(張作霖爆死事件)である。日本の新聞は「怖るべき破壊力を有する強力な爆薬を埋設。怪しき支那人捕はる」と報じるが、現場で死体になるはずの中国人浮浪者が身の危険を感じて逃亡、張学良に訴えたということから、関東軍による陰謀だとの噂が流れる。実際、爆破計画をしたのは関東軍参謀河本大作(のちになぜか満鉄理事の一人となる)。通過する列車の車両を確認しながら爆薬爆破のスイッチを押したのが東宮鉄男大尉(のちに満洲開拓の父といわれる活躍をする)であった。
 ところが日本では「満洲某重大事件」と政争の具に使われただけで、軍関与の真相は追及されないままうやむやにされる。もっとも河本大作がねらったのは、張作霖爆死によって起こる混乱に乗じて東北三省を占領しようということであった。しかし息子の張学良らが慎重にはかったので、関東軍は出動のチャンスを逸してしまう。その経験が一九三一年郊外柳条湖で満鉄線爆破による九・一八事変(満洲事変)となる。周到に準備された侵略行動である。
 これらの背後に関東軍作戦参謀石原莞爾中佐とそれを支持する高級参謀板垣征四郎大佐のコンビがあった。一九三一年五月に書かれた石原莞爾の『満蒙問題私見』は関東軍の満蒙問題解決策の基本といわれるものである。それによれば、「満蒙問題解決の唯一の方策は我が領土とすること、これが為には正義なること及びこれを実行する力あるを条件とす。朝鮮の統治は満蒙を我勢力下におくことで安定する。断固として行えば、支那本部に対する指導の位置に立ちその統一と安定を促進し、東洋平和を確保するを得べし」と言う。また経済的な価値として、「満蒙の農産は我国民の糧食問題を解決するに足る。鞍山の鉄、撫順の石炭等は現下に於ける我重工業の基礎を確立するに足る。満蒙に於ける各種企業は我国現在の有識失業者を救い、不況を打開するを得べし」、そして「漢民族も漸く資本主義経済に進まんとしつつあるを以て我国も満蒙に於ける政治軍事的施設を撤回し漢民族の革命と共に我経済的発展をなすべしとの議論は固より傾聴検討を要するものなるべしと雖吾人の直観する所によれば支那人が果たして近代国家を造り得るや頗る疑問にして寧ろ我国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期するを彼等の為幸福なるを確信するものなり」と説いている[*18]
 ここでは「我が領土となす」というように暗に、満蒙が中国の領土であり、侵略・占領を意識している。占領でなく満洲国を成立させて、それによる統治を思うのはのちのことである。だが当時、一般民衆は中国侵略の意識はなかった。
 爆死された張作霖の息子張学良は、「いくら親しかった人々の説得であっても、私は中国人である」[*19]と国民党の下にはいり、青天白日旗を掲揚しての易幟を断行、民族意識高揚の教育、日本商品のボイコット運動をすすめ、土地の借用・売却にかかわる商租権を強く規制する。せっぱつまった日本政府は、これらの根源(その地が中国の地であり、中国人が生活しているといったこと)を理解しようとしないどころか、恐怖危機感を深めた。松岡洋右の「満蒙は日本の生命線」論、その他「満蒙は中国ではない」論、さらには「中国人は日本人の指導を受けるのが一番幸せ」論を展開し、張学良の排除、日本による支配統治を意図した。政府は、内地各地で時局講演会を開いて危機感を煽り、チャンスをねらって自重していた関東軍を軟弱と一般民衆が非難するほどの情勢になっていた。


関東軍と満鉄

 排日貨機運が高揚するなかで、日本の満蒙権益の中核である満鉄は業績不振・経営悪化に陥っていた。満鉄に多かれ少なかれ依存していた在留日本人の間には非常な危機感が充満していた。満鉄の経営危機は、世界の金融恐慌の波及と銀暴落による運賃収入の激減に原因があった。銀建運賃の中国側鉄道に比較して、金建制をとっている満鉄の運賃が割高になったため、満鉄の最大の収入源になっていた北からの大豆輸送が次第に完成しつつある中国鉄道網に集中するようになった。また重要な財源である撫順炭の市場が中国本土の安い開らん炭の進出や内地炭保護のために狭められ、それらが経営赤字、人員整理となり、土木工事費の急激な削減となる。満鉄の土木工事がほとんどであった在住土木業者は、「もはや休業状態になって、数万の従業員は生活の途に窮し実状惨憺」と訴えるほどであった。さらに中国人商人による綿糸布などの日本商品の輸入量が激増し、そのため在住日本人商人の取扱い高が半減するほどの苦境においこまれる。
 しかし、中国人にあってはどうであったのだろうか。そんなことに、当時、日本人の考えは及びようもなかったのではあるまいか。
 後々の話になるが、日本は満鉄の経営危機を張学良らの中国側の平行線、包囲線によると殊さらに言って張学良打倒を煽ったのであるが、張学良のやり方を見習ったのがソ連経営の北満(東支)鉄道買収経過であった。つまり満洲国成立後、拉濱線を開通、呼海線と斉克線とを連絡するなど北満(東支)鉄道の周辺に満洲国有鉄道の線路網を張り巡らした。大豆、穀物などの輸送貨物を奪うことで北満鉄道を経営困難に追い込み、譲渡を余儀なくさせたのである。これは資本主義競争市場での至極当然のやり方であろうか。
 一九三一年九月十八日午後十時半近く、瀋陽北郊柳条湖の満鉄線線路で大音響がおこり白煙をあげた。その被害は、間もなく北からやってきた列車が現場で少し大きく車両を揺らしただけで通過し、時刻表どおりに奉天駅に到着したという程度であった。ところが、現場近くに夜間演習として待機中の関東軍は、時を移さずその先にあった張学良軍の兵営・北大営攻撃を始めた。張学良軍の仕業という名目である。そして城内の諸施設の攻撃占拠、次いで満鉄沿線さらに奥の黒龍江省までの東三省を、戦乱・荒廃をおそれた中国軍の大方の不抵抗主義により、驚くべき早さで制覇を果たす。
 この満洲事変はたちまちにして満鉄に好況をもたらし、在留日本人は欣喜する。しかし、重要なことは、制覇実行者の、天皇の統帥権による軍隊である関東軍が、これから指導権を一元的に握るという大きな変換期となったことである。
 関東軍が実に素早く九月二十二日に出した「満蒙問題解決策」のなかに、「国防外交は新政権の委嘱により日本帝国に於て掌理し、交通通信の主なるものはこれを管理す」の規定がなされていた。先に政府は外交界の長老内田康哉を満鉄総裁に起用した。それは、満洲の諸懸案事項を平和的に解決しようという意図があったといわれている。けれども満鉄首脳は、事変勃発の兆しの報告があっても政府に通知するのをためらった[*20]。そして、ひとたび事変が勃発し、関東軍の東三省制覇に応じて満鉄は、関東軍にすり寄り、関東軍への協力者の立場をとるようになっていく。
 満洲事変勃発から半月も経ない十月六日の関東軍と満鉄首脳との懇談の中で関東軍から提示された「満鉄会社に対する要望事項」は「一、四、昂、吉長、吉敦の各鉄道を満鉄会社において管理す。二、学良政府関係鉄道たる瀋海、吉海、呼海、索、斉克各鉄道を日支合弁の形式に改め、満鉄会社において委任経営す」といった内容を含むものであった。関東軍が満鉄を協力者とする鉄道管理案を満鉄に提示したはしりであり、当時一般の満鉄社員はこれらのことは知りようもなく、戦後になって知ったのである[*21]
 満蒙の独立国家を目指して準備万端整えていた関東軍は、あれよあれよという間に統治政策を決めていく。十月二十四日に、国防、交通の実権を日本が掌握し、在満諸民族の共存共栄をはかるといった内容も含む「満蒙問題解決の根本方策」を策定し、そのとどのつまり、一九三二年九月調印の「一、満洲における日本及び日本人の既得権益の承認。二、満洲国に対する日満共同防衛のため、日本軍の満洲国内への駐留の承認」をうたった「日満議定書」とは別に、秘密協定をすでに確定させている。それは「一、国防および治安維持を日本に委託し、その経費は満洲国が負担する。二、日本の軍隊が国防上必要とする鉄道、港湾、水路、航空路等の管理および新路の敷設・開設を日本または日本が指定する機関に委託する」ことであった。端的に言えば、満洲国有鉄道の経営は、関東軍(日本の軍隊)が満鉄(指定する機関)に委託するということである。
 満洲国が出来てから、関東軍の司令官は「日満議定書」の調印署名が駐満洲国特命全権大使であったように、司令官と大使を兼ねる(それに関東州を治める関東長官も)ことで植民地満洲の実権は関東軍の掌中に入ったということになる。しかも驚くことは、この秘密協定は、満洲国成立直前、天津から秘かに連れてこられた清のラスト・エンペラー溥儀が湯崗子温泉で、三月六日に、関東軍板垣参謀にすすめられて(実際は強要されてであろう)出した三月十日の先日付けの関東軍司令官宛の文書とほぼ同一の内容文章であることだった。この文書なども、これまた日本帝国敗北の後になって初めて一般の人々が知ったことであった。
 なお、日満議定書附属の秘密協定の他に、「航空会社を日満合弁で設立する。石炭、鉄鉱、軽金属など主要鉱山三十八箇所を指定し、日本が開発する」という新たな利権獲得を内容とした協定もすでに結ばれていた。とりわけ、撫順(石炭)、鞍山(製鉄製鋼用原鉱)はすでに満鉄に附属するものであったが、それに加えて、阜新(石炭・油母頁岩)、本渓湖(石炭・軽金属原鉱)、扎来諾爾(石油)、歪頭山(製鉄製鋼用原鉱)、大石橋(軽金属原鉱)と、東三省の天然資源のある所洗いざらい全てが指定されたといってよいものであった。
 さらに敷衍すると、満洲国の行政機関についても、独立国の体面から民政、外交、文教の八部に分かれた各大臣には中国人が就任したが、その次官は日本人であり、日本人だけで構成する次官会議が事実上の最高決定機関であった。実業部次長と総務庁次長を兼ねた岸信介など日本から派遣されてきた官僚たちは、王道楽土建設の理想に純粋に青春の情熱を傾けたとはいえ、思うがままの権力者のその得意はいかばかりであったかは計り知れない。その上に、満洲国総務庁の重要事項は関東軍参謀長の承諾が必要だったというから関東軍が中央集権の独裁権力を握ったといってよい[*22]。しかし、この実力はソ連参戦・敗戦により関東軍司令部は崩壊し軍の解体処理をして、あっという間に霧散してしまう。敗戦処理としての在住日本人の引揚げ業務は、実質は旧満鉄社員が留用しての中国長春鉄路局によって遂行される。満鉄が在住日本人の支柱となる。
 話を戻すと、副総裁として、満鉄を関東軍隷下に置こうとする関東軍の目論見を知って、おそらく反対していたと思われる江口定条が一九三二年四月七日付けで「罷免された」すぐ後の四月十九日に、関東軍司令官と満鉄総裁との間で「鉄道、港湾、河川の委託経営並新設等に関する協定」(秘密)が締結される。


満洲国の成立附属地行政施設移管

 実態は傀儡国家であろうとも満洲国が成立し、国家として友好関係を結ぶとなれば、日本は治外法権の撤廃を行う。満洲国有鉄道の委託経営をなす満鉄は附属地行政の諸施設を一九三七年十二月に満洲国に移管する。これにより移管された図書館は社員だけでなく一般の人々にも主従の関係なく公開されるのであるが、同時に日本並の国家管理の下で経営されることになる。学校などは比較的私立的な自由さがあったのが、移管によって日本の文部省管轄下に入る。一九三五年国民学校令によりさらに戦時体制の強化された学校になり、そこでは在満少国民としての聖戦貫徹、鬼畜米英撲滅の読書指導がなされるようになる。
 満洲国は日・満・漢・朝鮮・蒙古の五族協和の国であったが、なぜか日本族の満洲国民は存在しなかった。満州国人口三〇〇〇万のうちのわずか一パーセントにも満たない優秀な日本民族が指導者として君臨するのは当然とした。日本の国籍法を変えない限り、在満日本人は日本臣民であって満洲国民になることができないまま満洲国の終焉を迎える[*23]。だから植民地生まれで内地の土を踏んだことのなかった者でも戦後は中国に「留用」であり日本に来れば「引揚げ者」であった。もちろん、中国に土着し、意識として日本人満洲国人であろうとし、敗戦後、日系中国人となって新中国建設をなした人は少数ではあるが居た。
 また、たてまえとして、各民族が各地で自由に活動できることになったが、これまでの日本人の土地賃借・取得という商租権の制限がなくなることにより、日本から開拓移民が続々と送り込まれてくることになる。
 一九三二年満洲国が成立し、王道楽土の平和な国になっていたはずなのに、その後も、『満鉄社員健闘録』等に記述されるように「匪賊」の襲撃が後を断たない。徹底した討伐がなされる。同年日満議定書が調印される五日前に、満洲での治安維持法というべき「暫行懲治盗匪法」が制定され、その中に「臨陣格殺」という権限が盛り込まれる。格殺とはなぐり殺すという意味であるが、軍や警察は日本に反抗する者は、状況によりその場で殺害できるという権限なのである。その象徴的な事件がすぐに起こっている。奉天郊外撫順平頂山村での虐殺である。反満抗日ゲリラ隊が撫順炭鉱の楊柏堡を襲撃し、数人を殺害したが、そのゲリラ隊の通過を日本側に通報しなかったということで、通敵と見なして平頂山村を包囲し、村民を集合させ、機関銃でなぎ倒し、村を焼き、果てはダイナマイトで山を崩し埋めたというものである。犠牲者は約三〇〇〇人というが、いま現地にある平頂山同胞殉難記念館での白骨累々の様子の実際を見ると慄然としないわけにはいかない。五族協和、王道楽土はスローガンでしかなく、実態はこの例のようであった。中国の人々には、それは屈辱の淪陥十四年であって、“偽”満洲国の時代という。


満洲事変における満鉄奉天図書館長衛藤利夫の活躍

 満洲事変により満鉄王国は揺らぎ、関東軍にすりよりはじめるが、それを先取りするかの活躍をしたのが満鉄奉天図書館長衛藤利夫であった。柳条湖での満鉄線線路爆破から北大営攻撃が始まると、張学良邸のある城内は兵火の騒乱に巻き込まれる。張帥府のすぐ北に瀋陽故宮があり、そこには清の乾隆帝がそのためにつくった文溯閣があり、『四庫全書』が納められていた。衛藤は砲弾が飛び交いはじめると、関東軍参謀室、満鉄公所、憲兵隊、中国側の治安維持会を訪ねて、『四庫全書』の保護を訴え、さらに臨時に奉天市長となった旧知の特務機関長土肥原賢二に依頼、保全の布告を関東軍の名でだしてもらう。『四庫全書』の保全については、先に郭松齢の反乱であわや奉天城内が戦火にまきこまれそうになった時にも衛藤が、万が一の場合、満鉄奉天図書館に搬入しようと準備したという。主が居なくなって接収された張帥府の一部が満洲国立奉天図書館となり、『四庫全書』は故宮にあって国立奉天図書館分館蔵書となる。『四庫全書』を国立奉天図書館蔵書にしなければならなかったのはどうしてなのかと思ってしまう。
 この『四庫全書』のほかに、馮庸大学、遼寧東北大学、萃升書院の古漢籍・文献・蔵書も保全接収を行い、張学良邸に運び込んで国立奉天図書館を設立する。にわかにつくられた国立奉天図書館は、殆ど購入することもなく、これらの漢籍書で一気に蔵書数が増え、有数の図書館となる。「日本が保全したから図書が戦禍から守られた。もしそのままであれば焼失していたであろう。だから収奪したというが、むしろ感謝されてしかるべきである」という思考、それをどう思ってよいのか。誰がどういう目的でこの騒乱を起こしたのかを知ってのことであろうか。軍事的な侵略さえもよく意識されない人々にあっては、文化的な収奪は意識されなかったであろう。しかも、それが敗戦によって変わるものではなかったし、反省することもなかった[*24]。これを図書・文化の収奪と言わないであろうか。中国の人々に聞いてみたい思いがする。
 張帥府の図書館は遼寧省図書館としていまも存在する。私は思いついて訪れ、図書館の中をちょっと見せてもらいたいとそこに居た職員に言った。大衆本を借り出す場所を見るのはよい。けれども、書庫に入るには館長の許可を得てくれといわれ、当然のことでもあり、時間もないこともあって断念した。それ以外の建物は張学良陳列館があったりして、台湾からその所有者が戻ることを期待してきれいに保全されていた。
 明、清の古漢籍本は、今いずこに保存されているのか明らかでない。ただ、一九九七年六月、瀋陽の遼寧大学で、私が遼寧大学図書館員たちに日本の図書館についての話をした際、終わってから古漢籍本の収まった集密閉架書庫を参観させてもらった。明、清時代の各県の地誌や、『四庫全書』(おそらく原本ではないのであろうが)などが、ずらりと背文字を見せて並んで納まっていたのを見た。滅多に入ることの出来ない書庫。手にして開くのをためらった。「この本の著者のことがわかるだろうか。わかればありがたいのだけれど。一九四〇年代、大連での、満鉄関係者ではないかと思われるが」という和漢の著名な画を模写した『古和漢諸名流画冊』—それぞれの画に“天空山人”の署名がある—をビデオに納めるのがやっとという、身体がぞくぞくとしてしまう興奮状態だった。それ以外を見る時間的な余裕がなく、来年九八年五月に図書館新館が出来るとのことで、再訪を約した。
 さて、満洲事変勃発すぐの十一月、すでにあった満鉄図書館業務研究会は、満蒙に対して正しき認識を与える「時局に対する図書館の対策如何」を論議する。衛藤利夫は時を同じくして、「満蒙独立=占領」のための資料文献閲覧の要求が殺到するのに応じて「時局文庫」と銘打って関係図書一五〇〇冊を特別閲覧室に陳列・公開していた。満鉄会社の社命によらず独断で行なったらしいのであるが、関東軍参謀長三宅光治少将から江口定条副総裁宛に「貴社奉天図書館に於いて計画せられたる時局文庫は最も機宜を得たる措置(中略)今後引続き之を充実せらるると共に、其目録を編纂発行せらるるに於いては当部及び公衆が一層の便宜を得ることと考えられるを以て其方針に御計画相成りたく、御依頼申し上げる」との書簡が届き、あいまいな事後承認となる。そうした満鉄首脳の体勢からしてみれば、調査部、そして図書館も時代の流れに逆らうことは出来ようはずはない。むしろ、大川周明とねんごろの衛藤利夫にしてみれば、大いに関東軍に協力し、その行為を関東軍の後押しによって追認させたのである。


関東軍に協力・隷下の経済調査会戦時体制下の産業開発

 満洲事変以後満鉄は関東軍の隷属下におかれる様相を示す。その具体的なあらわれが、一九三二年一月十八日に三宅参謀長が満鉄首脳に出した満洲における経済建設計画を立案するため機関設立を要請する書簡である。直後、それはすぐの一月二十日に満鉄の重役会議で経済調査会新設を決定する。経済調査会の会長に就任する十河信二(戦後日本の国鉄総裁となった)理事の働きがおおいにあったと考えられるが、この調査機関で満鉄コンツェルンは墓穴を掘ることになる。というのは、この経済調査会は、人材はすべて満鉄より提供し、人件費・業務経費のいっさいも満鉄が負担する形式的に満鉄の一部局とする。だが国家的機関として国家的見地に立って満洲全般の経済建設計画の決定及び実行にあたっての満洲国の経済参謀本部であり、その部員は関東軍司令官の幕僚であるといわれ、関東軍の指導下におかれたのだった。経済調査会のメンバーはこの満鉄の精神的制約から解放されることで新たな時代を切り開く結論を出す。
 満洲事変、満洲国成立によって満鉄は、以前の、発展しようにもどうにも取得し難い土地問題や、平行する中国の鉄道に農産物搬出を奪われ、人員整理もありえた財政逼迫の壁が破られ、逆にこれまでの中国の鉄道も接収したことで、一気に好景気となっていた。だとするなら、関東軍の下に入ることをいとわなかったことは容易に想像できる。経済調査会は「満洲開発綜合計画案」を打ちだし、その遂行に満鉄解体は不可欠とした。満鉄は鉄道部門だけを担当、撫順炭鉱、鞍山製鉄所など傍系企業は産業ごとに分離独立すべきであると迫まる。満鉄内部の人だった人々が関東軍の指導の下に表立った満鉄コンツェルンの切り崩しを表明するとは歴史の奇妙な面白さである。現実の進展は、軍に嘱望されて満洲国の実務部次長と総務部次長を兼ねて就任した岸信介のあっせんで、鮎川義介による新興の日本産業が、満洲重工業開発と社名を変えて進出することになる。撫順炭鉱だけは満鉄に残ったが、他は満洲重工業開発の傘下に納まる。それは一三〇社、一五万人を擁した大コンツェルンであった。戦時体制を大義名分にしての満鉄からの分離独立には抗しようもない。満鉄は満州国の全域の鉄道を掌握しているという誇りをもったにせよ、むしろ辺地の赤字路線をもかかえてのことであるからその力はぐんと縮小した。
 やがて、一九三七年の七・七事変(盧溝橋事件)ではじまった日中間の宣戦布告なき戦争、そのいきつくところ、一九四一年真珠湾奇襲攻撃等の米英仏蘭との全面戦争といった日本帝国の戦時体制へと続く。その間、満洲では「産業開発五ヶ年計画」の実施となって、鉄鋼・石炭の両部門の開発に重点傾斜することになる。植民地での収奪は、中国人の強制連行による労働力確保をふくめて、苛酷を極めるようになる。もはやここでは中国人のためにやってやるということはありえない状況になっているのだった。
 それより先、関東軍から縮小をせまられる不安の状況の中、満鉄に関東軍はうまい話を持ち出してくる。かねてから華北に満洲国同様の偽政府樹立を企みはじめていた関東軍は、華北の利権を餌に満鉄全額出資の興中公司設立案を提示する。満鉄は華北まで勢力圏を拡大してはどうか、軍は支援するぞというのである。経済調査会によって「北支の産業開発」がレポートされており、その調査メンバーが「支那駐屯軍嘱託班」となって続々と華北に進出していたが、この地に向けての調査活動の拡大のため、満鉄は上海及び天津事務所に調査課を設けた。
 そこにはもはや一般に公開される図書館の存在はありえなかった。このなかでの著名な調査報告は『日満支インフレ調査』『支那抗戦力調査』[*25]である。泥沼化した日中戦争から脱するには南方からの米英の戦略物資を断つことであるとする「支那抗戦力調査」は南進論を強硬に主張した支那派遣総軍に好都合であった。執筆者の中西功、具島兼三郎らは、軍の仕立てで政府、軍関係者に講演してまわり、左翼といわれながら、時の寵児となったほどである。積極的な侵略の先兵となった人々はそうはいまいが、むしろ優秀な調査マンであるが故の、調査、報告書作成の楽しさにおぼれる専門バカから、まんまと軍部の侵略策にのっけられたものと考えられる。
 図書館の分野においても、支那派遣軍が華北、華中に軍馬を進めるなかその諸処にあった図書・文献を接収し、その整理のために満鉄の図書館から司書が派遣される。このことは、岡村敬二「戦時下中国の接収資料」「残すこと遺されること」[*26]に書かれているが、当時大連図書館の司書で派遣されて接収文献の整理にあたった青木実が、著作『旅順・私の南京』[*27]で、「図書館員という文献保存の立場からいっても、例え掠取されたものであったとはいえ、文化遺産の破滅の怖れのあるものを、一歩保全の方向に導くという仕事には、良心に恥ずることなく従うことができる気がしていた」と書いている。
 もしお前だったらどうだと問われたらどうしただろうか。難しい選択である。


満鉄の各図書館

 これまで図書館に直接関係ない中国東北地区に関わる歴史的事象を主として述べてきた。この歴史的事実、その関連を知り、認識することが重要であるにもかかわらず、昨今大多数を占める戦後生まれの日本人が、そうした事態を知らず、認識していないことを知って(東京より中国に近い福岡で、平和運動をしている若い活動家に、「柳条湖」に行ってきたことをなんとはなしに話したところ「柳条湖てなんですか?」と問い返されたショック。あらためてその学習会を始めた)私はあえていろいろと述べてきた。
 いや、衛藤利夫が書いた「文溯閣の危機」を収めた『衛藤利夫』[*28]の解説を私より年配の人がしているが、本文にはない、重要なキーポイントである当時の状況説明を、柳条湖での満鉄線線路爆破の満洲事変と張作霖爆殺の皇姑屯事件をごちゃ混ぜにして書いている。この本に限らず、解説文を書くならば当然その背景など調べ、知っているべきである。その上、誤って記述すると、他の文献で知ることのない人は、権威あるところの出版物だからそれが正しいと思い込み、それが主張される事態になる。解説に書かれない方がまだましと思う。こうした虚実・誤報に、私はしばしば遭遇してきた。
 そうした認識の上で、植民地での図書館の様子を紹介するのが意味あることだと思ってのことである。
 満鉄創業当時調査部に設置された図書室は、のちに大連満鉄本社前に建築された大連図書館に発展する。社業の参考のために社員に閲覧せしめる参考図書館である。その一方、満鉄線沿線各地に住む社員やその家族らに慰安娯楽を与える(それは当時の日本帝国の図書館同様「臣民教化教導」の)図書館事業が地方課教育係で計画され、実施される。列車書庫、図書閲覧所、簡易図書館、独立した図書館へと発展する。満洲国成立によって満鉄から満洲国に移譲されたのはこの種の通俗図書館だった。満洲国管轄になるまでは厳然として満鉄という会社立の図書館であった。
 こうしたことは満鉄附属地に設けられた諸施設も例外ではなかった。例えば、附属地にある小学校、中学校ははっきりとうたわれていたとは思えなかったが、校旗の旗竿の頂上にある出しの標章は満鉄のマークが描かれており、満鉄社員以外の附属地に居住する日本人はその子弟を入れてもらう恩恵に浴していた。だから、満鉄社員子弟がほとんどを占める学校はエリート学校といわれた。また商業地、三業界(料理屋・待合・芸者屋の三種の営業をいう)のある地域の学校では、親が望む子弟の将来の職業として「満鉄社員」「軍人」を多くあげているという記述が、一九四一年刊のその学校の創立一〇周年記念誌にある。満鉄附属地であるから当然といえば当然なのであるが、満鉄というのはそれだけの権勢を誇っていた。もっとも実態は、同じ満鉄社員でもひとにぎりの人々がそうであって、他の多くの人々はそうではなかった。
 ここでは、満鉄附属地の権限を満洲国に移管する際に作成された文書『満鉄附属地経営沿革全史』の中に見る「満鉄の図書館」をピックアップして紹介していくことにする。


参考調査の満鉄図書館

 満鉄の図書館が実質独立しての業務をすることになる一つの転機は、一九一九年に東京市立日比谷図書館から柿沼介、東京帝国大学図書館から衛藤利夫を満鉄図書館へよぶことに始まる。予定された如く一九二〇年に地方部直属の参考図書館に方向転換をなした後の一九二二年に衛藤利夫は満鉄奉天図書館長になり、柿沼介がこれまた参考図書館である満鉄大連図書館長となる。会社業務遂行のための参考調査図書館と社員の慰安・娯楽のための通俗図書館であった機能を、分館などに通俗図書館の機能役割を与えて、満鉄大連図書館と満鉄奉天図書館は参考調査図書館に専念するようになる。
 満鉄大連図書館は、参考調査図書館として、内容的には交通、産業、経済、政治、法律、工学方面の参考書並びに支那、露西亜関係書、形式的には各所各図書館に於いて経費の関係上備え付け困難なる比較的高価な参考書及び一般書肆で取り扱わないもので業務上重要なる調査資料、各種専門の定期刊行物を主として収集した。また、特殊文庫として(1)大谷文庫—漢籍書約五〇〇〇余、洋書三〇〇冊(明末清初の頃布教のため支那に渡来した欧人宣教師の支那に関する著書が多い)、(2)支那通志府県志類、(3)支那地図類、(4)支那回教関係書図書類、(5)古刊漢籍書(宋刊『淮南子』、清刊『古今図書集成』『芥子園画伝』及び支那医学に関する本など)、(6)欧文支那関係図書類、(7)演劇文庫、(8)露文図書等があった。
 一方、奉天図書館は、一九一〇年開館当時は、図書館が未だ普及せず極めて少なかったことから、まず図書館の宣伝が必要と、小説、講談類、通俗図書を選択収集して慰安娯楽を提供し、大衆をして図書館に関心を持たせることに努めた。しかし各種調査研究の閲覧人が漸次増加の傾向を示したので、一九二一年新築移転の際に従来の収集方針を変更、通俗図書は第二義的とし、本質的価値ある参考図書の収集に力を注ぎ、同時に館外貸出を制限するようになった。一九二七年公費経営の八幡町図書館が設置されるにおよび、娯楽・通俗図書はすべて八幡町図書館で購入、利用に供するとの協定をして、大連図書館と相並んで会社参考図書館となった。
 さらに両図書館は、蔵書運用をより経済的、効果的にするため一九三六年から分担収集をするようになる。大連図書館が地誌、政治、法律、経済、財政、社会、統計、植民、産業、並びに支那本部に関する図書に力を致し、奉天図書館は、交通、工学、並びに満蒙、シベリア等の辺彊研究図書の充実を図ることとなった。また、一九三三年に鉄路総局が奉天に新設された際、鉄路総局総務処文書課資料係と打ち合わせ、資料係には原則として直接業務に必須なる印刷物を備え付け、原理原論に関する図書、鉄路総局員の一般教養に資する図書は奉天図書館で所蔵することとした。鉄路総局の業務上必要と認める図書はこれを局報に掲載、局員への貸出・回収は資料係が行うことの協定をなした。それにより調査係から「満洲及び北支那府県志」およそ二九〇〇冊余の奉天図書館への寄託がある。
 満鉄図書館では、館によって閲覧料が無料であったり有料であったりしたが、満洲事変以後奉天図書館の新聞閲覧室が無料であるため、ややもすれば厭うべき服装の者、モヒ、ヘロ中毒の失業者等が入場休息して、真面目に閲読を目的として登館する人々に迷惑を及ぼすような弊害を生ずるに至ったので、一九三六年より館内整理料を徴収するようになった。
 なお、通俗図書が多くあった一九二〇年代後半に、奉天高等女学校内に婦人図書閲覧場をつくり配本した巡回文庫は市内各所にもあったが、一九三〇年代に至らず消滅した。
 時局的というか、ロシア革命から逃れてきたロシアの避難民が鉄西の収容所に居るのに対して、一九二二年十二月より数ヶ月、大連図書館から同館所蔵の露語図書を毎月三〇〜四〇冊借用して、巡回文庫として送付した。


慰安・娯楽を目指した大衆通俗図書館

 すでに一九一〇年に図書閲覧場規定を設け、満鉄社員の福利厚生事業として、瓦房店・大石橋・遼陽・奉天・鉄嶺・公主嶺・長春・安東の八ヶ所に図書閲覧場(後に簡易図書館)を、主として小学校内に設置、従事員は小学校職員、経費は小学校費によって運営された(当時の附属地の小学校はすべて満鉄の経費による満鉄立。短命に終わったがユニークな教員養成の専門学校さえ満鉄で経営する)。当時満鉄附属地の日本人人口は約二万五〇〇〇(満鉄社員一万一〇〇〇)であった。
 また、山口県立山口図書館で行われていた図書館活動に倣って巡回文庫を行なった。鉄道会社らしいのは一九一五年から始まったその中の列車書庫である。列車乗客の旅情を慰めるという趣旨のもので、適当なる図書及び雑誌をもって巡回図書一函を編成し、一ヶ月に一〜二回、適宜内容を交換した。当初一二列車に搭載、無料で乗客の閲覧に供した。後には、京城鉄道管理局と打ち合わせ朝鮮との直通列車にも置かれるようになった。
 巡回書庫図書の選定は大阪府立図書館司書に依頼したという。けれども、組織としてなのか、個人としてなのか、利用者と直接向かいあわない人たちが、どんな内容の本を選んだのか、その基準はどうであったのか、判然としない。大阪府立図書館にそうした記録は残っていないのだろうか。
 なお、『図書館雑誌』第二十一年第十一号(昭和二年十一月)に、「満州に於ける巡回文庫」が記載されている。これは「大連及び奉天の二館は満鉄の研究機関として益々専門図書館の使命を充たす。二館を除く二十有余の分館及び巡回文庫を地方学務部図書館課を新設して統括、運営にあたる」として、その巡回区を並べている。冊数、交換期間などに違いはあるにしても、その設置地名を見れば満鉄線の各駅といってよいほど置かれている。そして鄭家屯、南、吉林といった社線外遠隔地でも日本人の集まっている土地にも置かれている。けれども、年間二万六六〇〇冊が配本されてはいるが、一ヶ所一〇〇冊程度を置くというのではその利用はどうだったであろうか。
 大連の地は、実は満鉄附属地ではなく関東州行政の地であったが、図書館をつくる実力が関東州にはなく、満鉄図書館(社員慰問が主で、一般公開は従)に依存していた。「社員の集団せる地帯に必ず図書館を設置するという熱意をもって計画」した大連特別区公費経営による伏見台、日本橋、沙河口、南沙河口、近江町、埠頭図書館と日出町分館とで大連市内図書館網を形成しており、またそれぞれ特色ある図書館活動がなされていた。
 鉄道工場員と家族を対象に沙河口図書館は各種通俗良書を購入するほか鉄道工場にあることから工学工業関係図書の収集に力を致し、のちに分担協力体制が出来るのに伴って「工業文庫」に発展する。そのほか、読物文化の推移を語る「雑誌創刊号」を収集保管。男女中等学生の為「学校文庫」を創設するなど土地の文化向上に意を注いできた。街頭進出を図って「浴場文庫」「病院文庫」そして民政署など主なる箇所に図書を持ち回って普及に努め、これが動機となって「読書会員制度」の創始をなしている。
 埠頭図書館では、埠頭地にふさわしく「海事文庫」を設けるほか、一九二七年「華人文庫」を特設する。以来華人(中国人)の登録者が相当あるのは公費図書館の中で唯一のものとある。けれども、利用者はどんな層の人々で、どのくらいの人数であったのか、その蔵書はいかばかりのものであったのかの記録は乏しい。日本の図書館では日本人以外の人々の利用については、日本への同化を求める意識が底流にある(いまもある)。朝鮮において顕著であった「文盲退治」の実際は日本への同化強制であり、ハングルを使うことを禁じ、いきつくところ創氏改名の恐るべき文化侵略をなした。祖先を敬い、同じ姓であれば初めて会った人でも親愛をこめて歓待する、姓・家系を大事にする朝鮮の人々の伝統を知らなかったのであろうか。
 日出町分館は、「如何なる所でも社員集団地区で必要であれば手続きはとにかく、先ず図書館を作っておく」という図書館生みの親である大連図書館庶務主任佐竹義継の筆法で地域集会所の日之山倶楽部建物内にあった巡回文庫から分館となった。
 はじめ簡易図書館からスタートした伏見台図書館は、一九三三年に児童、婦人の特殊図書館となる。これは希有のこと。満洲はもちろん、日本に於ける最初の独立した児童図書館とか。沿線初等学校の図書室・各地図書館の児童図書部に寄与するところ多く、利用も盛況であり、一九三六年度末蔵書五一三三冊、一日平均閲覧人一五〇名とある。


満鉄線沿線の図書館

 満鉄線沿線の図書館の記述を要約的に拾えば次のようである。
 瓦房店図書館は、土地柄産業方面殊に園芸関係の書籍が他に比してやや多い。読書奨励の一事例として、夏季に林間閲覧場を開設。図書館周囲のアカシアの大樹下、僅かな席数はたちまち満員になり、閲覧者から拡大を希望されるほど。
 大石橋図書館は、図書閲覧は直接図書に接することの出来る公開書架で、館内は無料、館外は読書会を組織し特典として図書の帯出を許した。後にこの読書会方式は満鉄で統一的に行われるようになる。駅、病院、浴場など公衆の集合する場所に新刊主要図書を広告し、図書閲覧会、読書会を組織、付帯事業として書画、古美術、古器物、地図等の展覧会を随時開催。営口、海城に分館を持つ。
 鞍山製鉄所が建設されることでできたのが鞍山の街。文化的施設・健全娯楽施設の設置がそれにともなわなかったことから殺伐、放逸の気分が漲ろうとする傾向が憂慮されて、まず鞍山小学校内に通俗図書を置く簡易図書館が置かれた。小さい建物であるが故、書庫は狭隘きわめ、再三施設拡充を要望したが、なかなかその提言は入れられず、大整理をして中学校寄宿など教育関係及び湯崗子衛戌病院へ慰問図書の長期貸出をしてしのいだ。一九三三年製鋼所が建設されて以来、鞍山が躍進期に入るとともに図書館は多忙となる。製鉄所方面に文芸熱が台頭してきたことから、文学方面の基本図書、和歌、俳句等の関係図書を収集してこれらの研究者の読書に資した。利用は公費図書館中第二位を占める盛況。それも帯出利用者の七〇パーセントは製鋼所員。しかも帯出図書の大半は製鋼学関係の業務用参考図書であったように、工学図書の充実に留意していた。
 満洲最古の都市遼陽。清が都を奉天に移すまで歴代満洲の首都であったから、その史的文献、考古資料(白塔の風鐸、関帝廟の壁画、漢代の土器、古碑の拓本など)及び旧蹟名所等の写真を多く所蔵し、館内に陳列。考古学研究の同好の士から注目された。
 蘇家屯、鉄嶺、開原、四平、公主嶺などの図書館は各地の満鉄倶楽部に設置された簡易図書館に始まり、通俗図書が置かれ、公開書架の、閲覧無料の図書館。そこから更に小駅に巡回文庫図書を送付、回収している。
 長春は、一九三六年、黒龍江省を満洲里〜哈爾濱〜綏芬河と横切り、また哈爾濱から南へ寛城子(長春の町のすぐ北)まで延びるロシア経営の北満(東支)鉄道を接収するまで、満鉄線(つまり満鉄附属地として)の北端であった。満洲国を成立させ、満洲国の首都として新京と改め、計画された新都市が建設され始めたなか、長春図書閲覧所、長春簡易図書館と発展してきた図書館は、総工費二万三四五八円をかけ、延べ建坪二〇七坪の新館を完成させ新京図書館と改称した。当初書庫を欠くので閲覧室の一半に書架を並べて開架式としたが、人口が急増するにつれ閲覧者も、蔵書数も増えて、一九三四年十一月鉄筋コンクリート建築スチィール書架二階建て一二〇坪の完全な防火設備を施した最新式書庫を増設した。満洲国首都と決まってから、満洲国政府の組織をつくるに際して、特に法制、政治、産業方面の資料が要求された。これまでの蔵書では対応出来ず、大連図書館などに依頼し、取り寄せ閲覧させるという仲介的な図書館を余儀なくされていたが、一九三三〜三五年の各年度に特別図書費を計上、一通りの基本図書が整備され、閲覧者の要求に応ずることが出来るようになった。一九三五年には、附属地の拡大に伴って白菊町方面に社宅が約六〇〇戸新築されたことにより白菊町図書閲覧所が、また郊外范家屯に、要望で分館が開設された。
 朝鮮と結ぶ奉天・安東間の満鉄線沿線には、安東図書館、安東図書館鶏冠山分館、本渓湖図書館があった。安東図書館はその土地柄木材、港湾、関税、刀剣、軍犬等に関するものを特に収集することになっていた。閲覧は無料、館外貸出は有料であるが、読書会会員貸出制度で、その会費徴収に地方事務所公費外勤員があたった。これは会社の収入とはならず、徴収外勤員の収入になっていた。読書料金くらいの僅少な収入金を計上することは「大満鉄の面目上許されぬ」と言い伝えられてのことだった。『満鉄附属地経営全史』のなかでは、書かれた時点の「今日の考えではいささか納得しかねるが」と文言を入れて記述されている。この制度は弊害が発見され会社収入金に改められた。
 満鉄の巨大な収益源の一つである大炭砿のある撫順では、一九一〇年撫順炭砿職員倶楽部が結成されると同時に、同倶楽部の手で経営された。倶楽部会員以外は会員の紹介があれば利用できることになっていた。一九一五年、満鉄では、主事、事務取扱員各一名を置く簡易図書館をこの倶楽部図書館のなかに併設、図書取扱いや統計等別々の二つの図書館が経営される。しかし倶楽部図書館も倶楽部員以外にも公開されたから、倶楽部図書館の運用を簡易図書館に委託する意図がおしはかられる。
 一九一六年当時、一ケ月の帯出冊数が三〇〇冊から八〇〇冊、館内閲覧が一〇〇冊から一五〇冊前後とあって館外閲覧が主であることを示し、蔵書数は両図書館あわせて四三四七冊とあり、当時の在住人口が八〇〇〇人ほどだから、二人弱に一冊の所蔵となる。「四千余部の著名書籍を蔵し実に満洲に於ける図書館の第一位を占む」と当事者は豪語しているが、大連図書館は未だなく、奉天図書館も一九二〇年になって三〇〇〇冊余の蔵書しかなかったから、飛び離れた蔵書数を有する図書館であった。一九二〇年代半ば、露天掘採掘がはじまって、これまでとは別なところに新市街が形成され、図書館も新築移転し、団体貸出三ヶ所、巡回文庫五ヶ所をかかえた。在住邦人三万に達しない撫順で設備・蔵書・利用共に内地の中央図書館のレベルを凌ぐ図書館であった。


ロシア経営の図書館を接収しての哈爾濱図書館

 満鉄附属地ではなかったが、哈爾濱にも満鉄の図書館があった。当初石頭道街日本人居留民会構内に開設された。日本人居留民会所有の館屋で満鉄が図書館を運営するというものであった。経営目的は一般公衆の閲覧に供し、日露満文化の共栄に資すると共に、北満の事象に関し哈爾濱事務所の資料室と相まってその文献を収集整理するものであった。これまで記述した沿線公費図書館が満鉄沿線社員の慰安娯楽を主目的にしていたのといささか異なる。
 一九三六年に北満(東支)鉄道が接収され、満鉄に委託されたことに付随して、北鉄中央図書館も鉄路局所属の哈爾濱図書館となる。従来の図書館は埠頭区分館となる。
 従来の図書館館屋は老朽狭隘であったことから歴代館長は移転・新築を要望していたが、実現しないまま、一九二九年中国側経営による哈爾濱図書館建設の議がおこる。東支鉄道は一〇万円、中国側が一〇万円を拠出、満鉄は五万円の寄付をなして、埠頭区、傅家甸を一望におさめる南崗に中国人対象の市立図書館が一九三一年に建設された。そうした事態を怒って時の栗楢満鉄図書館長は職を辞したという。満洲事変・満洲国成立によりその図書館の建物は満洲国のものとなったが、図書館として使われず満洲国警察庁として使われ、関東軍特務機関の対ソ諜報の拠点にもなる。ここに捕らえられた反満抗日の人々は拷問で痛めつけられ地下室は血に染まった。また生体実験にも供された。いまも健在のこの建物は「東北烈士記念館」として反満抗日の事蹟を展示している。
 私は郊外の平房にある細菌戦を企んだ七三一部隊跡と共に二度ほど訪れた。文化の拠点が奪われ消滅し、植民地・侵略の拠点になった痛ましさに胸ふさがるる思いだった。
 満鉄の図書館になった哈爾濱図書館は、露文図書を三千冊有した。開館時大連図書館から保管換えされたもので土地柄ロシア人閲覧者の利用に供するためだった。それとは別に、東支鉄道がロシアの東方進出の幹線であり、哈爾濱がその拠点であったことから、東支鉄道中央図書館はそうした会社業務の参考図書館であった。ひろくアジア研究の為の学術文献を五万冊余すでに有していた。それを接収したのだから、始めから際立ったコレクションを有する図書館となった。満鉄哈爾濱図書館になった以後も、北満、シベリアの各国語文献などを社業にそうべく引き続いて収集したので、そうした文献を所蔵する有数の参考図書館となる。一時満蒙露文関係の蔵書を集めた特別閲覧室を設け開放利用せしめ、利用者に便宜を与えてたのが好評で、しかもその利用はロシア人が圧倒的に多かった。反面、監督困難のため書物の亡失が少なからず、また蔵書の増加による書架増設の必要にせまられ廃止し、書庫とした。一九三八年、接収洋書のうち満蒙・シベリア・東洋諸国関係のもの五〇〇〇点を中心に解説を付した『亜細亜文庫図書目録』を刊行した。
 
 ところで、このアジア文庫についてであるが、石堂清倫は『わが異端の昭和史』[*29]の中で、「ハルビン図書館では、アジア文庫が価値のたかいもので、その南下には何かと故障があり、実現しないうちに私がいなくなったのである。アジア文庫はシベリア出兵のどさくさにオゾ文庫(ザアムールスキー軍管区の図書館)を略奪したもので、帝政ロシア期の中国研究の良書が多いので一部では注目されていたものである」と述べている。
 また、満鉄調査部に関わった人々の多彩な人間ドラマで描く草柳大蔵の『実録満鉄調査部』[*30]では、調査部の下にあった図書館についてほとんど記述はないのであるが、以下のように書かれている。「大正十一年、満鉄は通称を“オゾ”と呼ばれ、世界的に珍重されていたロシア語の図書一万二千冊をハルピンで手に入れた。社史には『購入した』とあるが値段はさだかではない。この大きな買い物の前に、満鉄の資料室には九千冊のロシア関係の本があった。これで合計二万冊になるが、“オゾ”を入手したのに力をえて、満鉄はその翌年(大正十二年)、さらに十一名の社員をロシアとヨーロッパに派遣して、二千冊近い本を買ってこさせている」。そして続いて「敗戦後にソ連が進駐すると、ポポフという教授が日本語の達者な男女数人を率いて、大連図書館と満鉄調査部資料室の蔵書を一冊残らず押収し、持ち去った」という記述がある。
 ところが、満鉄の図書館の館報である『書香』第一〇一号[*31]で、大連図書館長の柿沼介が、「購書の思ひ出二、三」の中で「よい書物を得た時の喜びは最も忘れ難い」として、「ロシア革命により、帝政時代の極東派遣軍が給与未支払いの困窮にあったことから、軍所属の図書館を売却して兵員の給与支払いにあてようと売却の話をもちかけた。出張調査の結果、極東研究資料を豊富に蔵していることがわかり、申出価格の一万五千ルーブル(邦貨で一万四千二五〇円)で買収した」と書き、続いて「買収が報じられるや、哈爾濱在住の露人(ロシア人)から貴重な文献が外国人に渡ることを非難する声がたかまり、一時は、図書取引作業の中止を余儀なくされたり、梱包された図書を大連に輸送するには、哈爾濱〜長春間は東支鉄道であって途中で奪われるかもしれない状勢があって陸軍の援助を請い、故障なく大連図書館に受領することを得た」「登録、分類、目録作成をおえ、一般に公開したのは約六箇月の後」とある。一九二二年のことである。
 草柳大蔵は、社史は見たが、この『書香』の存在、記述は知らなかったのであろうか。また、石堂清倫は、「オゾ文庫」を大連図書館で見かけなかったということになるが、大連図書館では公開とはいえ秘蔵していたのだろうか。あるいは「オゾ文庫」イコール「アジア文庫」と思っていたのだろうか。ただ言えることは、こうした露文図書資料はソ連軍に「シベリア出兵の日本軍が略奪したもの」として大連図書館から持ち去られたということである。
 旧大連図書館司書大谷武男は、「最近大連を訪れた旧館員の水谷龍男君の帰朝談や、持ち帰られた図書館の現況を述べたパンフレットで、帝政ロシア時代の集書「オゾ文庫」をソ連に譲渡した以外の旧蔵書の殆どが現存」と「大連図書館の終焉とその後」[*32]の中で述べている。
 なお、この文章が載っている『彷書月刊』のこの号は“特集・満鉄図書館”となっていて、大谷武男の文のほかに、石堂清倫「満鉄の図書館」、大内直之「衛藤利夫先生を偲ぶ」、青木実「柿沼介と大連図書館」、大野沢緑郎「回想・哈爾浜図書館」、西原和海「『満州読書新報』を読む」、原山煌「哈爾浜図書館の『北窗』、稲村徹元「大連図書館報としての『書香』」と有用な文章がまとまってある。
 ならば、ソ連軍勝利のハルビン占領によって、哈爾濱図書館にあった露文図書も同様に持ち去られたのであろうか。『旧満洲東北地方文献聯合目録』[*33]の中のロシア語の文献目録をみると、露文図書のほとんどが、いま黒龍江省図書館、哈爾濱市図書館の所蔵となっている。
 「亜細亜文庫図書目録」を手にすることのない、しかもロシア語が読めない私には、それがなんであるかと特定できないもどかしさがある。いや、『旧満洲東北地方文献聯合目録』にある邦文文献のなかで私にとって興味有るものを、国立国会図書館での所蔵有無を調べて、日本にないものの現物を見たいと思ってみたことはあるが、それすら気力的に無理となってきている。
 哈爾濱図書館の活動については、館長は中国人であったが、実質は大連図書館から異動した竹内正一主事がとりしきっていた。その内容の断片は、満洲文学の独自性を標榜し、現地で発行した同人雑誌『作文』が戦後も日本で同じ同人によって出され、その『作文 第九七集・竹内正一追悼号』[*34]でさまざまに描かれている。さらに新京図書館から哈爾濱日日新聞社に移り哈爾濱図書館に深く関わった大野沢緑郎も同じ『作文』のなかで「思い出」[*35]、「回想ハルピンに来た文人たち」[*36]等と精力的に書いている。それらの内容はここでは省かせてもらう。
 実は私的なことを言えば、この『作文』の主宰者青木実の長女が小学校時代にほんのわずかな期間私と同級生であったというよしみで彼女から第一三六集あたりからいただいた。その第一四二集(一九八九年四月)の「悼・大野沢緑郎特集」で、詩人大野沢緑郎が、川崎市の図書館に勤めていた私も参加した神奈川図書館振興計画研究班で顔をあわせ、神奈川県立図書館で定年を迎えた大野沢緑郎であったことを初めて知った。そうと知っていれば生前、哈爾濱図書館関連のことをうかがっておけばよかったと悔しく思った。『作文』はのちに不揃いながら前に遡っていただき、この文を書くに当たって、手元にある七〇冊余を大急ぎで見返したが、充分に活用出来ず、別な機会にまとめたい。


時局時流にのった図書館活動

 先に満洲事変勃発における満鉄奉天図書館長の衛藤利夫の活躍にふれたが、それ以外にも時局時流に応じた諸活動があった。それらは次のようなことだった。
 第一に、満洲事変により第一線で苦難の討匪行をする将兵、警察官、鉄道員を慰めるため「陣中慰問文庫」が編成された。このため募集した慰問図書は六ヶ月の間に一一万六〇〇〇冊余集まったが、婦人会、学校、企業職場などの組織的な協力がおおいにある。銃後による戦意高揚の働きかけであった。
 すでにシベリア出兵に対して大連図書館主催で各図書館において慰問図書を募集し、戦時巡回図書として送付した前例があった。この後日本内地では日本図書館協会が音頭をとって出征兵士図書雑誌寄贈運動をする。これは第一次大戦下、米国図書館協会が「図書館の必要性、重要性を認識してもらうため」に行った戦時運動の例に倣ったという[*37]
 一九三七年七月七日、北京郊外盧溝橋に始まる日中全面戦争にあっても、大連図書館で同様な「陣中慰問文庫」を行ったやに聞く。また、一九三九年に起こったノモンハン事変の地—当時、満・蒙ソ国境ハルハ河畔ノモンハン(現在内蒙古自治区)で国境線をめぐって、関東軍とソ連・蒙古軍とが衝突、熾烈な戦闘がくりかえされ、ソ連の機械化部隊の蹂躙によって関東軍が壊滅的な敗北を喫した。
 朝見えた地点が夕方になっても到達しない、一日車で走っても変わらぬ風景が続く砂漠に近い大草原の地を訪れた際、私はそこにあった陳列館で、眼鏡のつる、義歯、認識票といった戦勝品・遺留品の中に、焼けこげた雑誌の切れ端を見た。ガラスケース越しに読み取れたのは「挿し絵 古賀光男画」「新作漫才 南京問答 秋山右楽・左楽」「ピストル健次凶悪伝」といった大衆小説雑誌(おそらく雑誌『キング』ではあるまいか)の紙片だった。ここでも戦時巡回文庫があったのではあるまいかと想像する。
 こうした国家の政策を支援する形の運動をどうみるか。大局の中での認識は難しい。
  第二に、奉天図書館では、満洲事変により、満蒙に対する調査研究熱は俄然熾烈となり、満蒙を対象とする図書の閲覧貸出は旺盛をきわめた。新たに「満蒙文庫」を設け、別整理の上、別室の特別閲覧室に配架し、同室入室者に自由に閲覧させ、軍部、満鉄、新渡来者等各方面多数の利用者に非常なる便益を与えた。それはさらに、全満図書館が協力して、一九三二年に『全満二十四図書館共通満洲関係和漢書件名目録』及び『続編』を刊行することになる。
 それとは別に、一九三三年十二月、大連図書館で『南満洲鉄道株式会社大連図書館和漢図書目録 8 満洲・蒙古』を作る。図書館の相互協力、そのために欠くことのできない総合目録作成であった。業務研究会での図書館職員達の日頃の研鑽の成果であろう。いずれも件名目録である。件名目録を作ったということは画期的なことであるが、目録件名が時局に沿ったものであったことは、まさに満鉄という企業内の図書館であること、さらに戦前の図書館の性格を如実に表している。
 一九三四年、業務研究会は「会社図書館蔵書の統制並びにその相互貸借に関する研究」を行ない、分担収書、相互貸借、総合目録の編成といった一連の取り決めをする。
 第三に、これも業務研究会が主体となり、北満移民地並びに自警村に働く邦人移民に対して「慰問文庫」を送った。編成箇所として新京図書館が指定され、一九三七年二月二十日から月末まで募集をし、図書約二万九〇〇〇冊を集め、発送図書は一万五〇〇〇冊。内五〇〇〇冊の児童図書は満洲国小学校に寄贈した。


その他の図書館活動

 図書の利用については、館内閲覧は無料、館外帯出は制限付き(読書会員制とか)の有料が多かったが、館内閲覧も、特別室閲覧券などということから次第に有料化するようになった。しかも、館外帯出は図書帯出券所持者に限るとし、会社所属長を経由して交付申請することになっていた。個人読書の自由を思うと、この申請は図書館利用をおおいにためらわせるものがあったのではないか。
 目録・整理については、「大連図書館のカード目録、蔵書目録共に、書名主記入分類目録で、閲覧目録、冊子目録を併せ備えた。最も特色としたのは、両方共に、叢書、全集には論文細目を記載し、分析カードをその分類ごとに分析記載した」。また「一ページ毎に片面刷りを作成し、これを一カード分あて切張りして古びたペン書き閲覧カードと交換していった」。「後に新刊受入カードの作成、並びにこれを月単位に編成して、和漢書増加図書月報として発刊、同じく片面張付印刷カードをも同時に作成して、新刊書を閲覧カードに追補編入した」と青木実は「柿沼介と大連図書館」(前出)のなかで記述している。冊子目録(内容分類で収録・書名索引付き)は、蔵書利用を来館者だけでなく各地所在の会社機関への送付により周知・利用をたかめるのに大きく役立った。
 一方、衛藤利夫館長就任後の奉天図書館の整理法は、図書館を国際的な文献集積所、文化の発源地であるとして、先ず開架式閲覧法を閉架式に改めた。これまでの和書、漢籍、洋書を別々に取り扱うのは和漢洋書を差別的に取扱い、東西洋の知識学問を隔離してのやり方であると排して、図書カードの組字標目はことごとくローマ字綴りとし、閲覧用カード目録として著者・書名・分類を備えつけた。後に新たに件名目録を作成し、一九二八年には、著者目録と書名目録を一元的に配列する辞書体目録に着手、同時に、漢籍は用及び体共に和洋書と異なるに鑑み、四庫全書の分類法に則り、経・史・子・集に分かち、書庫三階に別置した。
 付帯事業として、大連図書館では当初、講演会、児童読書会が盛んに行われた。昭和になって、児童作品展覧会、満洲事変展覧会などを開いた他、毎月一回教育家その他文芸愛好家と連絡をとって研究を進め、兼ねて良書の推薦をはかるという読書研究会や古本交換会などが盛況だった。奉天図書館では一九二〇年代に入ってから講演会、レコード演奏会、業務研究会、典籍研究会、支那語学習会、エスペラント講習会など盛んに行われ、好評を得たのは少なくない。また、出版事業もなされ、衛藤利夫による『ピントの東洋旅行記』『南懐仁の満洲紀行』『ロシアの極東経略遡源』等の名著解題の図書。『乾隆御製「盛京賦」に就いて』『辺彊異聞抄』『奉天史話』等の研究書、また、園田一亀『韃靼漂流記研究』『清朝歴代皇帝の満洲巡幸』、山下泰蔵『新女真国書碑に就いて』、植野武雄『満洲地方志考』といった本が一九三〇年代になってから次々と刊行された。
 いま、これらの本が読めるかと都立図書館の目録を検索したら『韃靼漂流記研究』を所蔵していることがわかり、取り寄せを思っているうちに、平凡社の東洋文庫の『韃靼漂流記』をめくってみれば『韃靼漂流記研究』が元本との説明書きがあった。同一の内容であったというわけである。
 奇異なこととして、奉天図書館では、定価納入後払い扱いで満鉄社員の個人図書購入を取り次ぐという業務が一九三一年から始められている。社員並びにその家族が最も容易に且つ経済的に書籍に親しみ得る様に取り計らってのことである。


満洲国へ移管した図書館

 前にも触れたが、一九三七年、満鉄図書館の満洲国への移譲が行われた。大連、奉天、哈爾濱の三大図書館が調査部の下に参考図書館として残ったほかは、通俗図書館として満洲国所管に移ったが、その際、業務研究会は反対の総裁陳情をした。
 小黒浩司は「満鉄図書館協力網の形成」[*38]で、「図書館員たちは何故『満洲国の図書館』になることに反対したのだろうか。『満洲国』の虚構に気付いたからであろうか。あるいは現在の図書館の経営が、『大満鉄』の庇護があってはじめて可能であることを知っていたからだろうか」と述べている。これをどう読みとるかである。
 『満鉄附属地経営沿革全史』は、一九三八年に満鉄財産施設を満洲国に移譲するために作られた社内秘文書であるから、それ以後の図書館に関わる文献資料を私は手にとっていない。
 岡村敬二「満州国立奉天図書館の歴史」[*39]が詳しく、私の直接の研究事項の中に図書館はなかったから、岡村敬二の文章に、さもありなんとうなづくのみである。あとは、あるとしたら、満洲国立中央図書館籌備処の分館(国立奉天図書館に置かれた)の所長であった弥吉光長の記録(『弥吉光長著作集』)であろうと思うが、この稿を書くにあたっての時間的な制約から読むことが出来ず、すぐに都立中央図書館から借りることのできた弥吉光長『八十八夜話』[*40]を読むにとどまった。そこでは、満洲建国大学に国立図書館を併設しようという話に辞意覚悟で反対した話。「乾隆帝の後をついで四庫全書の文溯閣長官になったのは一代の誇りだと思う」との話。張学良旧邸に一時住み、後庭に書庫を建てて古漢籍書など五〇万冊を収め、敗戦になって、これら世界的文化財を一物も損なわずに中国側に引き渡し、戦後も要請があって図書館で働いたという話が一〇話ほどある。
 読めなかったということを書いたついでに言えば、本来、原資料を読まなくてはならないのだが、緑蔭書房から「日本植民地文化運動資料」として復刻出版されている中の一連の満鉄図書館報『書香』『北窗』『収書月報』、また『満洲讀書新報』や『中国文化情報』などは高価なものだから、都立図書館所蔵本ならば援助貸出で読めると期待して、都立図書館の目録CDで検索をしたが、本としてはなかった。あとで気が付いて、定期刊行物冊子目録のなかで所蔵することを確かめ得た。けれども雑誌であるから市町村図書館への貸出は不可、出かけて館内閲覧するしかないのであきらめた。
 そのようななか、たまたまの所用で出かけた際、かろうじて山本有造編『「満洲国」の研究[*41]を古本屋で手にいれた。しかし、この稿がまとまった段階の時なのでそれを入れて書き加えることはできなかった。そのなかの、井村哲郎「『満洲国』関係資料解題」「中国の『満洲国』関係資料」のまとまりは、現在の新しい中国の図書館の様子までも記述してあって私にとっては大枚を投じただけの価値あるものである。なお、満鉄社員会会誌『協和』は国立国会図書館で索引を見て必要事項を読んだことがある。その時は図書館の事項を調べるのではなかったので、『協和』の中にある図書館関連事項は読んでいない。同様に、一番に行かなければならないアジア経済研究所にも足を運んでいない。図書館在職中は赴く時間的、精神的な余裕はなかった。なにしろアマチュアが学習するにはまだまだ多くの障害というか、不利な条件が多くある。


満鉄・調査部・図書館の終焉

 ところで、満鉄会編『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』[*42]の特記事項に、国策としての植民地経営・拡大という社業遂行の文献資料の収集・作成のための「大調査部設置と調査機能の拡大」があげられている。
 「満洲国が成立するや、会社は昭和七年一月、それまで醸成された人材を主体として総裁直属の経済調査会を設置し、満洲国の経済建設要綱の立案をはじめ満洲の政治経済の根本方策確立に協力し、その確立に一応の見透しを見た後は、経済調査会を計画部と合併して産業部とし、社内産業機関を一元的に網羅して満洲産業開発五個年計画の達成に積極的に協力する一方、未開発事業の調査とこれが企業化を図った。その後満洲重工業開発(株)の設立により満洲における重工業部門開発に対する会社の使命は一応達成されたため、昭和十三年四月から産業部機構を再編成して調査部とし、会社内調査研究の一元的統制を志向した。しかし、支那事変は早期終結の予想に反し戦線はますます拡大し、戦争遂行上大東亜規模に於ける調査活動を確立強化し国策に寄与することが必要となった。(中略)昭和十四年四月人員経費を拡充して調査部門の一大拡充を断行し、これにより満洲、北支、中支、南方の各現地機関を包括した一大綜合調査機関を確立した。……その陣容も一時は三〇〇〇名を越した。また中央試験所・東亜経済調査局その他の全調査研究機関を調査部の管理下におき、会社の調査機関の全機能を集中して調査報国の実を挙げるべく努力した」との記述となっている。そして「たまたま昭和十七、十八の両年にわたり有能な調査スタッフ中四〇名が検挙されるという事件が突発したため、以後調査部の規模を縮少し、昭和十八年五月本部機構の画期的改正を機会にその名称を調査局(大連)に改め」と終末への途を描いている。
 なお、この中の、満鉄調査部員が検挙されたいわゆる「満鉄調査部事件」については、その取調調書が、関東憲兵隊司令部編『在満日系共産主義運動』[*43]となって出ている。八五一ページにわたる大部であり、どこまで供述などが真実であるのかわかり難いが、違った意味での満鉄調査部史として面白い。ただ、残念ながら都立図書館にはないようである。
 そしてこの第四次十年史での図書館に関する直接の記述は、満洲国への地方施設の移譲のなかで教育文化施設として、「社業遂行上必要不可欠の施設として保留し、終戦に至るまで会社が経営した」ものとして「大連・奉天両図書館及び鉄道沿線社員娯楽のための巡回書庫」との一行があるのみである。
 また、満洲に移譲されたのちの通俗図書館について、都立中央図書館所蔵の『満州国史各論』[*44]の中に、公立図書館という小見出しで簡単な記述がある。「公立図書館については、一九三七年一二月満鉄附属地行政権の移譲に伴い、附属地所在の図書館一五、分館三、蔵書総数約二六万冊は挙げて満洲国に移管せられることになったので、一九三八年九月全国図書館長懇談会を開催して図書館の経営方針につき協議、国内図書館施設の維持改善、内容の充実に努力することになった。翌三九年一二月二〇日新京に満洲図書館協会(会長栄厚)を設立し、機関誌の発行、講習会の開催等により図書館職員の養成を図るとともに、全国図書館大会その他各種行事を催して読書思想の普及に努めた。一九三九年末現在では七二公共図書館の蔵書総数約七二万冊に上がった。このうち蔵書数一万冊以上のもの二一館、三万冊以上のものは、奉天市立瀋陽のほか吉林、チチハル、新京、撫順各市図書館の五館であった」と。
 そして、体系的ではないが終末時期の満鉄大連図書館についての記述が、野々村一雄『回想満鉄調査部』[*45]のなかにある。満鉄調査部の資料活動として、「一九四三(昭和十八)年現在の、満鉄調査部本部の資料室の所蔵図書約七万冊、大連図書館の所蔵図書三五万冊である。当時の満鉄全体の資料費は年間三〇万円、そのうち、調査部本部資料室五万円、大連図書館五万円であった。きわめて莫大な資料費であり、当時としては驚異的な質量の資料フォンドであるというべきであろう。以上は、一九四三(昭和一八)年当時大連図書館の事実上の責任者であった、石堂清倫氏からの聴き取りである。石堂氏によれば、氏が一九四三(昭和一八)年のある日、大村卓一総裁から満鉄創立記念事業として、アジア関係文献を五〇万円の予算で購入することを命じられ、そのうち二〜三〇万円分を購入したという。これらは、満鉄調査部の第二次検挙、その後の満鉄解体のこともあり、未整理のまま、ソ連の進駐軍によって大部分持ち去られ、その残余が中国政府によって接収されたということである。(中略)僕自身の体験によれば、満鉄調査部の短い在任期間中に、調査部本部資料室と大連図書館とに、収集されていた資料の質量的な高さと、これら資料機関のサーヴィス機能の優秀さとに、今だに深い感銘をうけている」とある。
 また、治安維持法違反のかどで東京商科大学の職を失った大塚金之助が、そのあと東京商科大学図書館からどのような取扱いをうけたかという事例を大塚氏の著書から引用し、野村氏が満鉄調査部事件の被告として獄中にあったとき、家内をつうじて満鉄大連図書館から洋書を借り出すことができたことと比較して、「日本の大学図書館の事大主義と、満鉄調査部資料関係者の大らかな態度との差異を感ずる」という。さらに、「僕の満鉄調査部在職当時、調査部資料課第一資料係主任であった横川次郎、石堂清倫両氏の、資料への深い造詣と、係員に対する組織能力と、それにも拘らずこの有能な「主任」自身が先頭にたって、資料の購入、分類、研究者へのリファランスに献身しておられる姿をまのあたりに見た。大連図書館についても、同じようなことがいえる、これほど、必要な資料がそろい、これほど使い易く、これほど館員の親切な図書館を、僕は知らない」と述べている。
 当の本人である石堂清倫は、先の『わが異端の昭和史』の中で、抗日民族運動に関するあらゆる文献を国民政府治下と解放区の両地域で蒐集し、これまで上海、北京、大連で集めていたものとをあわせて「支那抗戦文献目録」を作成したことを記述している。石堂清倫は、資料係在任中にあって、満鉄附属地の病院、学校、図書館が満洲国に移譲された後に調査部管轄となって満鉄に残ったハルビン、奉天、大連図書館を統括する仕事をあわせもった。そのことから、ハルビン、奉天図書館の蔵書のうち学術的価値のあるものは大連図書館に集中し、一般図書とその施設を「満洲国」に移譲し、大連図書館も一般図書は小村侯記念図書館にゆずり、大連図書館を研究図書館に再生するという石堂私案をつくった。それが採用となり、結果として、誰もやりたがらない難中の難事の衛藤利夫館長の処遇などについて、衛藤に直接あたったところ、あっけなくOKとなったとの記述をしている。調査部では、図書館は厄介者だった。こうして衛藤は奉天図書館を離れることになる。


おわりに…ちょっとした感想

 満鉄図書館の個々の奉仕活動をみると、よくやったと思う。社業のための参考調査は当然としても、通俗図書館として、図書館普及のために、沿線駅、学校、列車、病院と巡回文庫で人々の身近なところに入り、閲覧だけでなく、会員制、有料といった制約はあるにしても館外貸出をしたこと。蔵書数が十分でないことを補って、図書館間の相互貸借協力、分担収集(地域の事情にあわせたコレクション)、それが可能になるための綜合目録が共同してつくられ、大連市内の図書館の例にあるように図書館網があったということ。しかも目録のなかには件名目録もあったということ。また多民族共存の地であるゆえに、詳びらかでないが華人文庫、露文図書文庫もあったと思われることなど注目してよい事が多くある。だが、日本帝国における図書館そのものが、中央統制・指導による、国体観念を明徴にし、臣民(日本)精神を鼓吹するための民衆教化の機関であったこと、さらに、満鉄図書館にあっては、満鉄の社業(それはすなわち国策)遂行のためのものでもあったことから、いまの民主主義社会での図書館と根本的に大きな違いがあったことはまぎれもない事実である。奉天図書館、哈爾濱図書館の急激な蔵書充実は、中国側の図書資料の保全・接収によるものという事実に、あらためて植民地図書館ということを思う。

 

[*1]満洲回顧集刊行会編『ああ満洲—国つくり産業開発者の手記』(農林出版・一九六五年)
[*2]国際善隣協会編『満洲建国の夢と現実』(国際善隣協会・一九七五年)
[*3]大同学院史編纂委員会編『碧空緑野三千里』(大同学院同窓会・一九七二年)
[*4]斉藤良二編『関東局警察四十年の歩みとその終焉』(関東局警友会事務局・一九八一年)
[*5]社会問題資料研究会編『思想情勢視察報告集(其の四)満州における共産主義運動』(東洋文化社・一九七三年)
[*6]楊克林編『中国抗日戦争図誌』(柏書房・一九九四年)
[*7]王魁喜ほか『満州近現代史』(現代企画室・一九八八年)
[*8]黒龍江省社会科学院地方党史研究所・東北烈士記念館編『満州抗日烈士伝 第一巻(東北抗日連軍第一路軍)』(成甲書房・一九八三年)
[*9]日本帝国主義侵華档案資料選編『東北「大討伐」』(中華書局 ・一九九一年)
[*10]万峰『日本ファシズムの興亡』、易顕石『日本の大陸政策と中国東北』(共に六興出版・一九八九年)
[*11]「満洲国」教育史研究会監修『「満洲・満洲国」教育資料集成抗日教育』(エムティ出版・一九九三年)
[*12]陳言編『満洲與日本』(東北民衆報社・一九三一年)(民国二〇年)
[*13]許興凱編『日帝国主義與東三省』(崑崙書店・一九三〇年)
[*14]岡村敬二「満鉄図書館蔵書集積の歴史」「満鉄図書館業務研究会の歴史」「残すこと遺されること—満鉄図書館員の資料整理」「満州国立奉天図書館の歴史」(いずれも『遺された蔵書—満鉄図書館・海外日本図書館の歴史』阿吽社・一九九四年、に所収)
[*15]加藤一夫「図書館からアジアへ通じる視点—アジア図書館設立の前提」「図書館員の戦争責任—植民地認識の検証から」(いずれも『記憶装置の解体』エスエル出版会・一九八九年、に所収)
[*16]小黒浩司「衛藤利夫│植民地図書館人の軌跡」(『図書館界』通巻二四二、二四三・一九九二年)
[*17]黒子恒夫『図書館には本がある』(日外アソシエーツ・一九九五年)
[*18]『太平洋戦争への道 別巻 資料編』朝日新聞社・一九六三年を参考
[*19]NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』角川書店・一九九一年
[*20]この状況を「反軍国主義というのはおこがましい。怠慢、無為無策」と山田豪一『満鉄調査部』日経新書・一九七七年は口をきわめて罵倒する
[*21]渡辺諒『満鉄史余話』龍渓書舎・一九八六年参考
[*22]『古海忠之 忘れ得ぬ満洲国』経済往来社・一九七八年など参考
[*23]山室信一『キメラ—満洲国の肖像』中公新書・一九九三年を参考—「実は国籍法は制定された。ただソ連軍満洲侵攻の直前であった」ので知られていないという秋原勝二の「作文」第一五八集での反論がある
[*24]松本剛『略奪した文化 戦争と図書』岩波書店・一九九三年を参考
[*25]『日満支インフレ調査』『支那抗戦力調査』(一九七〇年、三一書房で復刻出版、都立中央図書館にあり)
[*26]岡村敬二「戦時下中国の接収資料」「残すこと遺されること」(共に、前出『遺された蔵書』)
[*27]青木実『旅順・私の南京』(作文社・一九八二年)
[*28]九山泰通、田中隆子編『衛藤利夫』(日本図書館協会・一九八〇年)
[*29]石堂清倫『わが異端の昭和史』(勁草書房・一九八六年)
[*30]草柳大蔵の『実録満鉄調査部』(朝日新聞社・一九七九年)
[*31]柿沼介「購書の思ひ出二、三」『書香』第一〇一号、一九三七年十一月十日(緑蔭書房・一九九二年)
[*32]大谷武男「大連図書館の終焉とその後」(『彷書月刊』第四巻第六号・一九八八年六月 )
[*33]大連市図書館社会科学参考部・黒龍江省図書館采編部編『旧満洲東北地方文献聯合目録』(葦書房 ・一九九〇年)
[*34]『作文 第九七集・竹内正一追悼号』(一九八九年四月刊)
[*35]大野沢緑郎「思い出」(『作文』第一三一集、一九八五年八月)
[*36]大野沢緑郎「回想ハルピンに来た文人たち」(『作文』第一〇七集〜一一六集、一九七八年二月〜八〇年七月)
[*37]東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」『香川県図書館学会会報』第一九・二〇号 、一九九五年七月二九日を参考
[*38]小黒浩司「満鉄図書館協力網の形成」(『転換期における図書館の課題と歴史』緑蔭書房・一九九五年に所収)
[*39]岡村敬二「満州国立奉天図書館の歴史」(『遺された蔵書』阿吽社・一九九四年に所収)
[*40]弥吉光長『八十八夜話』(日外アソシエーツ・一九八八年)
[*41]山本有造編『「満洲国」の研究』(緑陰書房・一九九五年)
[*42]満鉄会編『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』(龍渓書舎・一九八六年)
[*43]関東憲兵隊司令部編『在満日系共産主義運動』(一九四四年、復刻・巌南堂書店・一九六九年)
[*44]『満州国史各論』(満蒙同胞援護会・一九七一年)
[*45]野々村一雄『回想満鉄調査部』(勁草書房・一九八六年)

PAGE TOP  ↑
このサイトにはどなたでも自由にリンクできます。掲載されている文章・写真・イラストの著作権は、それぞれの著作者にあります。
ポットの社員によるもの、上記以外のものの著作権は株式会社スタジオ・ポットにあります。