四国学院大学図書館の職員として、大学図書館の市民への開放に取り組んできた。現場での図書館開放はどうなっているのか、実際に内側で働く者が感じている、大学図書館の市民開放のいま。
文●東條文規
とうじょう・ふみのり●一九四八年、大阪生まれ。一九七五年から四国学院大学・短期大学図書館に勤務。
本誌の編集委員のひとりでもある。
個人的なことからはじめたい。私が香川県にある四国学院大学の図書館に就職したのは一九七五年四月。当時のことばでいえば、大学に幻想などなかった。ただ、希望していた公共図書館より忙しくなく、かなり自由なところだと感じた。
大学図書館を改革しようなどとは思わなかったが、私はこの大学で三点ほど実現すればいいなあ、と考えていた。
一つは、大学図書館の市民開放。二つ目は、図書館員の選書する権利の拡大。三つ目は、極めて個人的なことであるが、自分の欲しい資料を図書館で買ってもらうこと。
三つ目は、研究者でないので勝手な要望で無理だと思うが、一つ目と二つ目は国立大学や大きな大学ならともかく、四国学院大学ならそんなに難しくなく実現できそうに思ったし、またそのぐらいは実現しなければならないと考えていた。
というのも、私には大学図書館の閉鎖性に関してちょっとした体験があったからである。
大学闘争が下火になった頃、あてのない大学院生だった私は修士論文の作成に取りかかっていた。ある資料が近くの国立大学の図書館にあることを知ってそのまま出かけた。学生証を見せて、一時間ほどこの場で見せてもらえれば済むといったのだが、その大学の図書館員は紹介状がないからダメだという。たまたま近くにいた、その大学の大学院生が気の毒に思ったのか執り成してくれ、一緒に書庫まで入ってくれた。幸い用は足りた。
その数年前、東大全共闘に研究室を荒らされた丸山眞男がナチスや軍国主義者もしなかった暴挙と、学生たちを非難したことが新聞に載った。当時、『文芸』誌上で、《情況》論を連載していた吉本隆明は、それに噛みついた。
「自分の個人的な研究室をそれ自体不作為な類災として荒らされたくらいで、『文化の破壊』などとはふざけたせりふである。また、貴重な(三億にものぼる! そしてその三億はだれから集めたのだ!)資料の損失を嘆いてみせたりするが、かつてその貴重な資料なるものは、かれら自身の口から、自由なる市民や在野の研究者たちに差別なく解放される共有財産であると宣言されたことなどはないのだ。たしかに学問的資料にブルジョア的もプロレタリア的もありはしない。それとともに学問的資料には、私有や占有を超えた公開許容性の原則もまた存在しなければならないのである」(『情況』河出書房新社、一九七〇年)。
私は、吉本のこのタンカは、いまでも見事でまっとうなものだと思っている。
もう少し私的な体験を書けば、私はその頃大学院図書室の図書委員をしており、すでにどこかの大学の教員になっている先輩たちが、図書館の資料を借り出し、何年もそのまま私物化していることを知っていた。ひどいのになると、遠い地方にいるのに、「返して欲しければ取りに来い」などと平気でいう傲慢な先輩もいた(こんな教員は珍しくなく、どこの大学にもいるということを、就職して一、二年のうちに知った)。
同じ頃、私は、石井敦・前川恒雄『図書館の発見——市民の新しい権利——』(NHKブックス、一九七三年)に出会った。『中小都市における公共図書館の運営』(中小レポート)も日野市立図書館も『市民の図書館』も知らなかった私は感激した。
「図書館は結局、市民とオカミ・有識者の知識・情報水準を同じくするためにあるのである。だから、これは、坐っていて与えられるものではなく、静かなしかしねばりづよい闘いによって得られるものである」という情熱的な文章に魅了された。
大学院での体験と吉本のタンカと、『図書館の発見』は確かに響き合った。
だから、地方の小さな大学図書館に就職が決まったとき、先の三つ目はともかく、一つ目と二つ目は実現したいと考えていたし、そのためには小さな大学の方が可能性も高いと思ったのである。
ここでは、私の大学図書館でのささやかな経験をもとに、一つ目の市民開放について綴っておきたい。
正式開放以前
四国学院大学図書館が正式に市民開放を実施したのは一九八三年十月である。正式に、というのはそれ以前にも希望者には、貸出しも含め開放していたからであるが、教職員の家族や教会関係者(四国学院大学はキリスト教主義の大学)など、ごく身内に近い利用者であった。
以前の開放がいつ頃から始められたか確かな記録はないが、一九六六年に利用者登録原簿が新しく改められた時点ですでに、学外者の名前がそのなかに見受けられる。ただ当時の『図書館利用の手引』には、学外者の利用について一切触れられていないので、きわめて個人的関係で利用されていたものと思われる。
『図書館利用の手引』にはじめて学外者の利用についての規定が明文化されたのは一九七五年。ちょうど私が就職した年で、正直、びっくりしたのを覚えている。当時、学生数は一五〇〇人足らず、蔵書数は六万三〇〇〇冊。短期大学併設の文学部だけの単科大学であるが、社会福祉学科には大学院も創設されていた。
その『図書館利用の手引』の規定は、あまりすっきりしていないが、要するに、十八歳以上で身分を証明するものがあれば、三〇〇円の登録料と貸出証に添付する写真一枚で学生と同じ条件で貸出しもする、というものであった。
一九六六年に学外者の登録が三〇人ほどであったのが、この一九七五年には一二〇人に増えていた。これはこの十年間、毎年一〇人前後の学外者が登録した計算になる。以後、一九八三年まで、ほぼ同じペースで学外者の登録は続くが、積極的なPRはしなかった。学外利用者のほとんどが教職員の知人で、口コミによって利用出来ると知った人たちであった。
この間、図書館員のなかでは、もっと積極的に市民開放を推進すべきで、登録手続きもかんたんにし、社会に向かってPRしようという意見もあった。だが、一応すでに開放しているのだし、公共図書館と目的も異なるのだから、いまのままで十分だという意見もあった。積極的に開放したいと主張していた私も、具体的にどうすれば、市民がもっと利用してくれるのかそんなに名案があるわけでもなかった。
まだ、大学図書館の開放がほとんど問題にされていなかった時期でもあり、香川県の公共図書館はどこも「中小レポート」以前の状態であった。
一九七八年、善通寺市立図書館が古い木造の建物から新しくできた市民会館の三階に引っ越した。エレベータのない(その後ずっと後に付けられた)三階に新図書館を移転した理由を、当時の図書館長は、見晴らしのよい静かな環境で落ちついて勉強したり、本を読んで欲しいからだといった。図書館先進地域では、貸出しを中心に「市民の図書館」が急速に広まっていくなかで、香川県では、図書館は無風地帯であった。行政担当者も住民も図書館が「役に立つ」ところだとは考えていなかったのである。
市立図書館と提携
そんななかで、一九八二年から一九八三年にかけて、地元の『四国新聞』が「文化の器」という特集記事を連載した。地元紙の若い記者がプロジェクトを組んで県下の文化行政の実態を総ざらいしたもので、かなり大がかりな企画であった。そのなかに図書館もあった。
図書館だけで一五回も連載された記事の中身は、図書館行政の貧困さを辛辣に批判していた。それは、たんなる批判ではなく、図書館の役割を踏まえて、行政の積極的な取り組みを提案する内容にもなっていた。
「すべての情報を共有することで中央と地方の格差は消えるはずだ。図書館は二十一世紀において、最も変ぼうが期待される公共施設なのである」。
「図書館の世界は広く、深く、大きな可能性を秘めている。子供も大人も、まず図書館へ入ってみるべきだ。すべては、そこから始まるはずだ」(『四国新聞』一九八三年四月六日)。
大学図書館に勤めて八年、図書館のことが少しはわかりかけてきた私は、編集部に長い手紙を書いた。県下ではじめて、まともに図書館のことを考えている人に出会ったと思ったからで、手紙の内容は、四国学院大学図書館ですでに市民開放をしていること、だがPR不足なので利用者は増えていないこと、大学図書館を開放することで、住民の情報格差が少しでも解消すること、地域に根ざした大学を目指している当局も積極的な開放に反対はしていないこと、大学図書館を開放することで、逆に貧困な公共図書館への刺激になる可能性もあること、等々であったと思う。
反応はすぐにあった。来館した、私と同世代の記者は、少し滞在していたことのあるアメリカの片田舎の図書館がどれほど使い易く、サービスが良かったか。それに比べて……。というようなはなしを情熱的に語り、PRも約束してくれた。
大学図書館の開放が新聞の投書欄などでそろそろ話題になり始めていたのも幸いし、館長はじめ、大学当局は積極的な開放に異議はなかった。問題はその中身で、市民に大学図書館の開放をアピールすること。そしてより利用しやすいように登録手続きをかんたんにすることが焦点になった。図書館内で何度かはなし合って、まず善通寺市立図書館に相互協力の協定を結ぶことを提案した。
人口三万八〇〇〇人の善通寺市の市立図書館は、大学に隣接する市民会館の三階にあり、それほど活発な活動をしていないが、蔵書数は当時五万五〇〇〇冊。新聞は地方版が戦後ずっと保存されていて、学生もよく世話になっている。蔵書は、ひとむかし前の公共図書館の常で小説と郷土資料、それに善通寺の空海関係資料が中心であった。
一方、大学図書館は蔵書一〇万冊、キリスト教関係と英文学(とくに洋書)、社会福祉関係の専門書と千種類近い専門雑誌、他大学の紀要があり、二つの図書館の蔵書の重複は少ない。わたし(たち)は、市立図書館の利用者で、その蔵書に飽き足りない市民に大学図書館を利用してもらおうと考えたのである。
協定書は、行政との関係もあり一応の形を整えたが、要するに市立図書館のカウンターに、「四国学院大学図書館利用申込書」をいつも置いてもらって、市立図書館の利用者に、四国学院大学の図書館もかんたんに利用できますよ、という広報をしてもらうことに主眼をおいたのである。
これを機会に、従来の登録料三〇〇円と写真添付という条項もなくした。同時に、大学図書館の貸出方式のニューアーク式でブックカードに氏名を書いていたのを学生は学生番号、学外者は登録番号に改めた。不十分ではあるが、貸出記録が残る方式を少しでも改善しようと考えたのである。
ただ、利用申込書には、氏名、住所、電話番号の他に、ほんらい登録には必要のない生年月日と職業欄を付けた。これは、高校生に受験勉強などの席貸しとして使われるのを避けるためと、利用者の層を調べたいという大学図書館側の理由で、とくに職業欄は少し抵抗を感じたが、書いていただけるなら書いてもらうということで設けた。
その結果が表1〜4になっている。
開放以後とその反応
さて、学内的な合意を得て、四国学院大学図書館と善通寺市立図書館との提携による市民開放は一九八三年十月開始された。九月には、両図書館長のマスコミ向け記者会見もした。新聞は大きく好意的に取り上げてくれた。善通寺市も「広報」(一九八三年十一月)で市民開放をPRした。
『四国新聞』は、先の「文化の器・総集編」(一九八三年八月十八日)で「大学と市提携へ、資金ゼロで膨大な図書」という見出しで次のように書いた。
「今回の提携は、大学側の若い司書たちの熱意によって始められた。十万冊近い図書を一挙に増やすには巨額の資金が必要だが、この提携で市民は資金ゼロで膨大な図書を利用できることになる。熱意が図書館を囲んでいた壁を取り払ったわけだ」。
以後、別表のような利用状況になるのだが、当初は大学図書館からの問い合わせや、反応が多かった[*1]。
開放から二年後、一九八五年、私は、愛媛大学で開かれた第二十六回中国四国地区大学図書館研究集会で、「大学図書館の一般開放」(『中国四国地区図書館協議会誌』第二九号、一九八九年)と題して、この間の経過を報告した。
ちょうど、国立大学図書館協議会が「大学図書館の公開に関する調査研究班」を発足させた時期で、文部省もこの問題を避けて通れないと考えはじめた頃であった。
この年の春から秋にかけて、『朝日新聞』の「声」の欄を舞台に、大学図書館の開放をテーマに住民と文部省とのあいだにちょっとした論争があった。住民の側は、アメリカの大学や、旅行者にも開放している西独の大学の例をあげて、日本の大学図書館の閉鎖性を指摘した。文部省は、「大学図書館の一般利用推進」(『朝日新聞』一九八五年六月九日)で、「昭和五九年五月の調査によると、全国の国、公、私立大学図書館のうち九七パーセントが学外者利用を認めており、また八三パーセントが大学関係者以外の利用希望に応じてます。特に国立大学の場合、その九六パーセントにあたる八十九大学で、大学関係者以外の方々が利用されています」と反論していた。
そして、税金で成り立っている国立大学図書館が一般市民に開放するのは当然だ、という論理は短絡的すぎるといい、大学図書館と公共図書館との役割の違いを強調し、大学図書館が公共図書館の肩代わりをするのはおかしいと、以前からの「正論」をくり返していた。
私は、このときの「報告」でも触れたが、文部省や大学が「正論」をもっともらしく、わざわざ強調するのは、どこかまやかし的なところがあるか、うしろめたいところがあるからで、素直に受け取ることは留保しなければならないとはなした。
じっさい、文部省が発表した「大学図書館の一般利用推進」の数字にしても、まやかしとまではいわないが現実を反映していない。学外者が大学図書館の資料に辿り着くには、そうとう手間をかけ、複雑な手続きが必要なことは現在でもそう変わっていない。そもそも文部省がこの調査をはじめたのは、一九八三年五月で二年前であり、そのとき学外者の利用を認めていると回答した大学図書館は、やっぱり九七パーセントだったのである(『昭和五八年度大学図書館実態調査結果報告』文部省学術国際局情報図書館課、昭和五九年)。
こんななかで、四国学院大学図書館の市民開放は、まず順調に進んだ。それほど利用者は多くはないけれど、マナーは学生よりよほど良いし、なにより、利用者は、公共図書館と大学図書館との蔵書構成の違いを十分踏まえて利用しているのである。そのことは、表3からも明らかなように、登録者に善通寺市外の人たちが多いことからも窺える。また、表にはあらわれていないが、県下の高校や中学、それに英会話学校などで、語学教師をしている英語系外国人の利用もかなりある。彼(女)らの利用は、英語で書かれた日本文化の紹介書や語学本、それに小説である。なかには、英訳された日本の小説なども利用されている。
都会の公共図書館なら、最近は、こういった外国語の本も蔵書に加えられつつあるが、外国人が少ない香川県の公共図書館では、まだまだ少ない。その意味では、いまのところ、大学の図書館が公立図書館の肩代りをしているといえるのかもしれない[*2]。
ついでにいえば、私が当初望んだ二つ目の図書館員による選書権も、徐々にではあるが予算的裏付けを得て拡大していった。正式開放から十四年、四国学院大学図書館の市民開放に関するかぎり、それほど利用者が多いわけではないが、定着したといえるのである。
制約多い開放
文部省が、大学図書館の開放度は九七パーセントと発表した七年後、(一九九二年)日本図書館協会が全国の五〇八大学(一〇三七館・室)を対象に、「地域住民サービス」の実施の有無について、「図書館の施設・資料を利用させることを目的として公開されている場合」というただし書き付きで調査した。結果は、実施していると回答のあったのは国公立、四〇パーセント、私立は二五パーセントで、全体で三〇パーセントであった。
一九九三年一月五日の『朝日新聞』は、「かけ声倒れの『開けゴマ』・大学図書館進まぬ市民開放・実施3割、職員不足や混乱心配」と大きな見出しで紹介した。文部省は、この数年前から先の「調査」[*3]をもとに、全国の大学事務局長会議の席などで、「学外者の利用促進について配慮するように」と指導し、学術審議会は、一九九二年七月に、「大学図書館の開放という、新しいニーズに対応できるサービス機能について検討を」という答申も出していたのである。
けれども、この三〇パーセントという数字はそれでも甘い数字で、じつは貸出しは含まれていないのである。
一九九六年の日本図書館協会の調査によれば、国公私立一〇八七の大学図書館(室)で地域開放を実施しているのは、五二七館、四九パーセントとさすがに伸びているが、貸出可という回答があるのは、一五四館一四パーセントにすぎない(『図書館年鑑』一九九七年版、日本図書館協会、一九九七年)。
これではとうてい住民開放を積極的に実施しているとはいえない。
では、なぜ、文部省の統計と日本図書館協会との統計、さらに一般学外者の認識とは、これほどかけ離れているのだろうか。
その原因は、「開放」の定義がきわめてあいまいで、かつその中身が複雑なことによると思われる。
たとえば、文部省が毎年行なっている『大学図書館実態調査報告』という小冊子がある。この調査に、公開の有無を問う項目が加えられたのは、先にも触れたように一九八三年五月からである。だが、この調査では、いわゆる一般学外者への開放はまずつかめない。表5を見れば明らかなように、B、C、D、の中の一つでも満たせば、すべて「認めている」ことになるのである。館外貸出にしても、他の大学の研究者ならば可、と限定をされても、「認めている」ことになる。
じっさい、四国学院大学の図書館でも他大学利用の紹介状を学生や教員によく発行するが、ある教員は、「私が国立大学の教員なら、こんなものはいらないのだが……」と、いかにも不満そうにいったことがある。おそらく、図書館員になる前の私のように苦い体験をしたのであろう。だから、逆に、私が最初に触れた体験にしても、自分の大学の紹介状を持っていけば、当時でもおそらく閲覧ぐらいはさせてもらえたはずなのである。
この調査で「B、利用を認めている範囲」の「c、その他」に分類されている一般学外者が利用できるのは、「C、利用を認める場合の条件」の「b、a以外の図書館の紹介」か「d、身分証明書等の提示」で可能な大学図書館である。だが、これもどこの図書館の紹介でも許可されるとは限らないし、運転免許証でどうぞ、といってもらえるかどうかもわからない。
さらに、「D、利用の範囲」もほとんどの大学が無条件というわけではない。開架図書だけとか、閲覧だけとか、最初に必要な資料の所在を確かめてから、というのもある。
要するに、これらのハードルをクリアしてやっと一般学外者への「開放」が実現されるのである。これだけ制約があれば、日本図書館協会の調査を見なくても、いっぱんの住民が「大学図書館は閉鎖的」と感じても仕方がないと思われる。
このあたりのことを、元文部官僚で現在関西大学教授の倉橋英逸は、「公開の理念の確立とその普及が必要である」として以下のようにいう。
「米国の図書館界が総力を挙げ、『全ての図書館の情報は国家の資源であり、全ての人はその資源を利用する権利がある』という考え方に基づく『資源共有』の理念を打ち立てたように、全ての大学図書館員が、公開は大学図書館の基本的機能の一つであるという認識をもつように、明確な理念を確立する必要がある」。
そして、具体的には、第一に、「制約の撤廃」。第二に「公共図書館と協定を結び、その役割分担を明確にする必要」。第三に、「公開の内容を充実する必要」。第四に、「企業に対する情報サービスも検討する必要」(倉橋英逸「大学の変化と大学図書館の公開」『大学図書館研究』第四〇号、一九九二年)を挙げている。
いずれの提案も外部から見ればごくあたり前のことと思われる。だが、この提案の実現のためには、理念だけではなく、人件費を含めた敗政的裏付けも必要となるであろう。
すすまない開放の裏側で
さて、一般の学外者への地域開放が進まないなかで、一方では次のような例もある。
一九九三年一月二十四日の『朝日新聞』に大きく取り上げられたもので、「製薬社員はコピーマン・協力費年間二〇〇万円、出入り自由、研究者の使い走り、阪大生命科学図書館」という見出し。
要するに、医学系図書館のなかで最大規模の大阪大学生命科学図書館が市民に「門戸」を閉ざしながら、製薬会社には無条件で利用を認め、文献複写を無制限にやらせている。その見返りに、図書館は年間二〇〇万円の協力費をもらい、書庫整理なども製薬会社の社員が手伝っている。これは著作権法にも違反し[*4]大学図書館が医学部や薬学部と製薬会社との癒着を手助けしているもう一つの「癒着」であると批判しているのである。
だが、こんな事実は、医学部や薬学部をもつ大学図書館では、いわば「常識」のことで、大学図書館員の研究集会の公式の席上では決して出ないが、夜の懇親会では、「困った」はなしとしてよく出ていたのである。じっさい私も、先の愛媛大学での研究集会で、このことに触れて、「大阪大学では、製薬会社の場合、特別の入館券が発行され、直接来館してセルフサービスで文献複写するのが、年間十五〜十六万件、料金にして五千〜六千万円もあるということです」(前掲論文)とはなしている[*5]。
『朝日新聞』の記事によると、一九九一年度の文献複写は二二万二〇〇〇件だから、その料金は優に一億円を越えているはずである(じつは、二〇〇万円の協力費なんかより、コピー一枚三五円の収入の方が圧倒的に多いのだ)[*6]。
大学図書館が一般への地域開放をしぶる背景には、じつは、このような企業による組織的な利用に対する危惧があるという意見もある。事実、大阪大学生命科学図書館がその前身の大阪大学付属図書館中之島分館時代に、製薬会社に開放を認めた当時の図書館事務長から、学内にこのような「産学協同」に反対する声が根強くあったというはなしを、私は直接聞いた。
いくら産学協同が批判されなくなったといっても、このような危惧の声は、医学、薬学や理工学系の資料を多く蓄積している大学図書館には、労働強化の声とともに残っているのではないだろうか[*7]。
ただ、大阪大学の場合、先の新聞記事によれば、製薬会社がその付属研究所など、自分たちの「調査、研究の目的」で利用するのは全体の四割で、他の六割は、取引相手の医学部や大学病院の研究者から文献リストを示され、図書館での文献複写を要請されたもので、「営業上の要請」だという。
つまり、大学の教員が正規のルートで文献複写を依頼すると手間も金もかかる。だから、製薬会社のなじみの社員にコピーを頼む。会社は大事なお客さまだから断れない。会社の経費負担で大量のコピーをして、当の研究者に渡す。研究者の方は、手間をかけずにしかも無料で大量の資料か手に入る。いわば、学外者を迂回することで、ほんらい大学の研究費や自費を使わなければならないのがタダになるというせこい手段に地域開放が利用されているのである。
とはいえ、最近のようにインターネットのホームページを大学図書館が開いたり、インターネットにアクセスすることによって、各種の膨大な資料の検索だけでなく、抄録や論文そのものが取り出されるようになると、先のコピーマンも不用になるのかもしれない。
だとするなら、大学図書館は、過去に大量に生産された印刷物を集積した博物館になるという意見もある。たとえば、『週刊朝日』が一九九四年から毎年発行している『大学ランキング』(朝日新聞社、一九九七年)の一九九八年版の「図書館」の項で、名古屋大学付属図書館長の潮木守一は、「まだかなりの時間がかかる」と断わりながらも、パソコン一台で世界の情報が集められるといっているし、このような論調は他にも多くある。
だが、このような議論はいまのところ、地方の小さな私立大学図書館の「市民開放」とあまり関係ないし、個人的には私はほとんど興味がない。
いずれにしても、現在、日本の大学(短大、高専を含む)図書館には、約二億四〇〇〇万冊の膨大な図書と一五六万三〇〇〇種類の雑誌が蓄積されている(『図書館年鑑』一九九七年版)。偶然かどうか、この図書の数は、国立国会図書館の六〇〇万冊強を含めた全国の公立図書館の蔵書数とほぼ等しい。
この膨大な資料には、かつての吉本隆明ではないが、「私有や占有を超えた公開許容性の原則」が「存在しなければならない」と、私もまた思っているとだけいっておきたい。
[*1]これは、『朝日新聞』大阪本社版(一九八三年九月一五日)に、「大学図書館市民に開放」と紹介されたのと、『図書館雑誌』(第七七巻第一二号、一九八三年一二月号)に、守家博「市民奉仕を喜びとして」で、その概要を紹介したためと思われる。また『大図研論文集』(第一一号、一九八四年三月)で、私は「四国学院大学図書館の市民開放」をその経緯、今後の問題点を含めて紹介した。
[*2]吉田憲一「大学図書館の利用者サービス——学外者への公開を中心に——」『大学図書館研究』第五〇号、一九九六、で積極的な「開放」をしている大学図書館二二館にアンケート調査をし、その結果を分析している。そのなかで貸出数の多い日本福祉大学の例があげているが、、この町(愛知県知多郡美浜町)には公共図書館がない。また、文教大学越谷図書館では、中国人留学生から自分の国の本や新聞に接することができて幸せだといわれた例がでている。
[*3]この「調査」による「報告」によれば、市民等への公開について、一、図書館規程等への明文化、二、学内体制の整備、三、公共図書館との連携強化があげられている(国立大学図書館協議会「国立大学図書館における公開サービスに関する当面の方策——大学図書館の公開に関する調査研究報告——」『大学図書館研究』第二九号、一九八六年)。
[*4]倉橋英逸は、前掲の「大学の変化と大学図書館」で、「一九九一年九月に日本複写権センターが設立され、著作権料を支払えば企業に対しても堂々と文献複写サービスができるようになった」といっているが、実際に著作権料が払われているのか、払われているとしたら、どのようなかたちなのか定かでない。この新聞記事では、センター設立後一年半も経過しているが、生命科学図書館の実質的責任者でもある三浦勝利、阪大付属図書館医学情報課長の話として、「著作権法の違反も指摘されれば、『その通り』と答えるしかない」といっている。
[*5]この発言のもとは、大阪大学附属図書館中之島分館のパート労働者Fさんの報告(『学術情報システムを大学図書館の現場から考える——一九八五・七研究討論集会報告集——』学術情報システムを考える会、一九八五年)。
[*6]この記事に出ている医情連(医学薬学情報団体利用者連絡会)という組織は、関西の製薬会社を中心に一四五社で組織され一九八六年五月に設立された。すでに一九八六年度の大阪大学附属図書館中之島分館の学外複写件数二七万八五四〇件のうち八〇パーセント以上の二二万五三九六件が医情連会員企業であったと、大阪大学附属図書館の正職員ものべている(諏訪敏幸「大規模国立大学図書館における『人と仕事』——労働組合への組織化にもふれて——」『大学の図書館』一六八号、一九八七年一〇月)。
[*7]吉田昭「大学図書館の公開と企業」『大学図書館研究』第二九号、一九八六、及び吉田昭「民間企業への情報提供サービス——公開と相互利用のはざまで——」『図書館雑誌』第八三巻第一二号、一九八九年一二月、を参照。吉田は、大学が民間企業の活力の導入を積極的にはかっている現在、民間企業の利用を認めていない大学図書館の論理は説得力を失いつつあるとして、積極的な開放を行なっている筑波大学の例を挙げている。ただ利用件数の増大につれて、人員不足、資料の傷み、学内者との競合の問題が出てくるといっている。
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