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日本のゲイ・エロティック・アート
ゲイ雑誌創生期の作家たち
[2003.12,19刊行]
編●田亀源五郎
定価●4500円+税
ISBN4-939015-58-0 C0071
A5判/194ページ/上製
印刷・製本●株式会社シナノ
カバーイラスト●三島剛
ブックデザイン●小久保由美
在庫有
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【立ち読みコーナー】※本書所収原稿の一部を紹介
日本のゲイ・エロティック・アート史概論
[全文掲載]
田亀源五郎
※注は本文末にいずれも掲載してあります。
※実際の本文には、18点の参考図版を掲載しています。
日本のゲイ・エロティック・アート史を振り返るにあたって、最初に雑誌『風俗奇譚』(1960〜74)のことから話を始めようと思う。
この『風俗奇譚』は、男女を問わぬSMやフェティシズム、ホモセクシュアル、レスビアン、トランスベスタイトなどといった、いわゆる「変態」を総合的に網羅した、言うならば「よろず変態雑誌」である[注01]。当時数誌あった同趣向の雑誌の中で一般的に有名なものは、それらの先駆であり沼正三と団鬼六を輩出したことでも名高い『奇譚クラブ』(1952〜75)だが、ゲイ・エロティック・アート史およびゲイ・カルチャー史的に重要なのは後続誌の『風俗奇譚』の方である。
当時を知るゲイたちの述懐によると、『風俗奇譚』は他誌(『奇譚クラブ』『裏窓』『風俗草紙』など)と比べて比較的ホモ関係の記事が多かったとのことだ。じっさい同誌は表紙からして他誌とはいささか傾向を異にしている。他誌の表紙があくまでも男女間のSMを想起させるようなイメージのみであるのに対して、『風俗奇譚』は1962年から64年にかけての3年間だけではあるが、年間3冊(つまり4分の1に相当する)ほどの割合で表紙に男性ヌードを載せているのだ。また表紙が女性の号でも、惹句で「特集 男同士(ソドミア)・女同士(レスボス)の愛欲図絵」(昭和36年10月号)、「ソドミヤの国とマゾヒストの園」(昭和37年3月号)、「画報 サドとマゾとホモの世界」(昭和38年8月臨時増刊号)などと謳うことで、ゲイ関係の記事の掲載をアピールしている。こういったことからも、同誌においてホモセクシュアル関係のプライオリティが、それなりに高かったことが伺われる[注02]。
ここでその中の一冊、昭和37年8月号の中身を具体的に見てみることにしよう。
まず表紙を飾るのは2人のカウボーイの絵だ。手前に立つ逞しい半裸の若者に、後方からもう1人が意味ありげな視線を送っている。見る人が見れば一目でピンとくる図柄だ。画家のクレジットはないが、これは当時のアメリカのフィジーク雑誌[注03]で活躍していたゲイ・エロティック・アーティスト、ジョージ・クエンタンスの作品である。表紙を捲ると口絵が4点。これもトム・オブ・フィンランドなど、前述のフィジーク雑誌のアーティストが描いた男性ヌード画だ。目次ページのカットも同様である。続いてグラビア写真が16ページあるが、その中で男性ヌードが5ページ。その後の口絵は、ヘテロものが11ページ、女装ものが5ページ。そして本文を挟んで、巻中にゲイものの口絵が8ページ。記事を見てみると「特集・戦争残酷物語」と銘打った読み物6本のうち、ゲイものが2本。エッセイや手記7本のうち、ゲイものが3本、女装ものが1本。長編連載小説2本のうち、1本がゲイもの。コラム2本は、ゲイものと女装ものが1本ずつ。読者サロン(雑誌の感想と交際相手の募集が主な内容)の投稿者の内訳を見ると、50人中37人と実に過半数以上がゲイである。
こういった具合で、少なくともこの号に限って言えば、実に誌面の半分近くはゲイ関連で埋まっているのだ。そして前述の3年間、比率に増減はあるが同誌はこういったゲイ向けの記事を掲載し続けている。
風俗資料館制作の目次一覧によれば、本書で取り上げたアーティストのうち大川辰次と船山三四が1963年、三島剛と平野剛が翌64年という具合に、いずれもこの時期の同誌で初めて世に出ている[注04]。これらの4名とは別項でとりあげた小田利美は、それより以前の同誌の創刊当初から挿し絵等を描いているが、私が小田をゲイ・カルチャー史上において重要視しているのは、独立した作家としてというよりは、同時代のゲイ小説家・芦立鋭吉(別名、足立鋭吉・阿騎徹平・管良太など)とのコンビで多くのゲイの記憶に残っていることを踏まえてのことである。そして芦立の代表作である長編小説「朱金昭」が連載されていたのは、やはりこの3年間と重なる1962年である。こういった動きの背後には、後に『薔薇族』などで活躍する文筆家・間宮浩の存在があったらしい。間宮は同誌のゲイ向けページの編纂のような役割も果たしていたらしく、自らも同時期の同誌上で小説、エッセイ、詩などを発表している[注05]。
さて、小田を除く4名に限定して話を進めると、彼らの作品の掲載頻度は、63年には年間5号、64年には年間8号と増加するが、表紙から男性ヌードが姿を消した65年にはわずか2号と激減する。そして66年は3号、67年には2号と増加する気配もないまま、68年には大川以外の作家は姿を消し、その大川も同誌への掲載は69年が最後となる[注06]。
同時期、当時の日本にはもう一つ現代のゲイ雑誌のルーツとも言うべきメディアが存在していた。一般に販売されている雑誌(商業誌)とは異なる、同好会のメンバーのみに配布されていた会員誌『薔薇』である[注07]。
同誌の創刊は1964年。前述した『風俗奇譚』における4人の作家の掲載頻度のピーク時と重なっている。そして筆者が確認したところでは、本稿において名前を挙げた作家のうち三島・船山・芦立の3名が、この『薔薇』にも寄稿している。これと翌年以降『風俗奇譚』の表紙から男性ヌードが姿を消したことと、ゲイものの掲載頻度が減少していったことを照らし合わせると、作家(投稿者)も読者もその多くが『薔薇』へとスライドしていったことが推察される。
そして1971年、日本で最初の商業誌としてのゲイ雑誌『薔薇族』が創刊され、その成功を受けて74年に『さぶ』『アドン』が創刊されることによって、いよいよ日本のゲイ・エロティック・アート史は本格的に動き始めるのである。
さて、ゲイ雑誌誕生以降のゲイ・エロティック・アートの流れについて述べる前に、話は前後してしまうが、これ以前のことも振り返って見てみる必要があるだろう。『風俗奇譚』以前にも日本にはゲイ・エロティック・アートと呼べる文化が存在したのだろうか。
日本には古来より男色という文化があり、当然のごとくそれを題材とした絵画作品も残っている。室町時代の絵巻物『稚児草紙』や、江戸時代の菱川師宣や宮川長春らの男色春画などがよく知られたところだろう。それらは紛れもなく男性同士の性交を描いた図なので、一見したところは立派なゲイ・エロティック・アートに見える。しかし本当にそうなのだろうか。
ここで問題となるのは、日本の男色文化、すなわち仏教僧侶の稚児愛や武家社会の小姓愛や念契、そして江戸時代に大衆化していった衆道といったものと、現代におけるゲイあるいはホモセクシュアルがイコールなのかということだ。
筆者の見る限り、男色(衆道)とは「それを異としない慣習」や「精神論的な美学の後押し」や「代償行為」によって成立している「選ぶことが可能な選択肢の一つ」であり、対してゲイないしホモセクシュアルとは「個々人に内在する絶対的なセクシュアリティ」であり、それは「慣習や美学によって選択したり強制したりすることは不可能」なものである。多くのヘテロが誤解していることだが(そして時にはゲイ自身も自分でそう思いこみたがったりもするのだが)、ゲイとは「道を選んで」なるものではなく、あくまでも「変えようのない自分自身」が表に出た結果なのだ。
またゲイという言葉は「性的な対象として同性を求める」ということのみを共通項とした集合体を指す言葉であり、具体的なタイプや関係性を規定する言葉ではない[注08]。対して衆道はタイプや関係性をある程度固定しているので、言葉の種類や定義という点でも、やはりゲイと男色を同じものとすることはできないであろう[注09]。
もう一つ、単純に男性同士の性交を描いていれば、すなわちゲイ・エロティック・アートとして良いのかという問題もある。もしそうであるならば、浮世絵の男色春画も現代における「やおい」や「男性向けショタ」なども、全てゲイ・エロティック・アートの範疇に含まれることになる。しかし「ゲイ」はセクシュアリティを指す言葉であるのに対して、「やおい」「ジュネ」「ボーイズラブ」「男性向けショタ」などはジャンルを指す言葉であり、特定のセクシュアリティを指す言葉ではない[注10]。
セクシュアリティの境界とは明確な線ではなく、少しずつ重なり合いながらグラデーション状に続くものである。よってこれらの文化、すなわち江戸時代の男色や現代のやおいやショタといった文化の構成層には、当然ゲイも含まれているだろう。しかしこれはあくまでも「そういったジャンルのなかにゲイ・エロティック・アートが混在すること」が可能なのであって、その逆の「ゲイという言葉でそれらのジャンルを包括すること」は不可能である。よって男性同士の性交という「現象面としてのゲイ」を描くエロティック・アートではあっても、それらが基本的に「主体としてのゲイ」の有無が問われないジャンルの産物である場合は、それらをゲイ文化あるいはゲイ・エロティック・アートと呼ぶことはできないであろう。
ただしこのゲイ・エロティック・アートという言葉自体も、いささか問題をはらんでいる。そこには暗黙のうちに「作者がゲイである」という前提が存在しているが、同時にその前提に依存しすぎてしまうきらいもあるからである。
例えば絵のモチーフが性行為そのものではなく、ピンナップ的な単体の男性ヌードの場合、それは「作者がゲイである」すなわち「ゲイの作者が好みのタイプの男を描いた絵だ」という前提があるからこそゲイ・エロティック・アートだと認識されるわけだが、仮にその前提を除いてみると、たちまちゲイでも何でもない単なる「裸の男性の絵」になってしまう。そこには男同士の性交や恋愛といった、ゲイ的な現象やゲイ的な関係性は何も描かれていないからである。
また作者がヘテロの男性や女性であっても、その作品がゲイ雑誌に掲載されてゲイの読者に好評を博す事例もある。これは作者のセクシュアリティや性別に関わらず、作品自体がゲイ・エロティック・アートとして機能しうる実例と言えるが、これもまた前述の前提とは矛盾する。
つまりゲイ・エロティック・アートを論じるにあたっては、「ゲイが描いた作品」あるいは「ゲイを描いた作品」といったことのみに固執するのではなく、作品そのものがゲイ向きに発表されたものかどうかということと、それが現実のゲイ文化に与えた影響についても同時に考慮すべきであろう。
以上のような理由から、私はゲイ雑誌上でゲイ・エロティック・アートという言葉を「男絵」いう呼称に言い改め、その定義を「男の魅力を描くことを目的とした絵」のみに特化させることで、作者のセクシュアリティや性別の問題を無効化するように試みてきた。少なくともゲイ雑誌という前提があれば、「描かれたモチーフと鑑賞者が共に男性であるがゆえに、作者が考えた男の魅力と鑑賞者のそれとが共鳴した場合、作者のセクシュアリティや性別の如何に関わらず、描かれた男と鑑賞者の間でゲイという関係が成立する」という理論が成り立つからだ。ただしこれは「鑑賞者がゲイである」という限定された場でのみ成立しうるロジックであり、また「男絵」という言葉には、日本の美術史において女絵と対比する形で絵巻物の画風を指す意味もあるので、本書では定義の無効化と混乱を避けるためという2つの理由から、この言葉は使用していない。
しかし言葉は違っていても基本的な考え方は同じである。つまりゲイ・エロティック・アートの根本には、「ゲイ・エロティシズムの表現」と同時に必ず「作者が感じるところの男性美を描く」あるいは「作者が感じる男性の性的魅力の表現」という視線が併存しているのだ[注11]。
そういったもののルーツとして考えた場合、浮世絵の男色春画は鈴木春信らの中性的な男性描写などと共に、高畠華宵らの挿し絵文化における美少年趣味に影響し、そしてそれらが本書における大川辰次のような美少年系・美青年系のゲイ・エロティック・アートに繋がっていると考えることもできる。
では船山三四や三島剛といった野郎系のゲイ・エロティック・アートを同様の視点で見た場合はどうだろうか。彼らの興味がよりマッチョ的なものに向いている以上、衆道の春画と図像的な共通点は見出せない。しかし同じ浮世絵でも葛飾北斎や歌川国芳などの武者絵と比較すると、誇張された筋肉や生い茂った体毛で「マッチョさ」を表現するといった共通項が見られるし、月岡芳年などの無惨絵とも相通じるものがある[注12]。この系譜は伊藤彦造などの挿し絵文化に受け継がれるが、前述の高畠華宵同様ここまで時代が下れば、もう本書で採り上げたアーティストたちの幼年期や思春期と重なってくる。
本書でとりあげた作家たちが、自分のセクシュアリティを自覚する時期にこういった挿し絵文化に触れて、刺激を受けていたとすれば、浮世絵から彼らの絵までを一本の流れとして捉えることもそう無理なことではないかもしれない。そして第二次世界大戦後にカストリ雑誌を経て、SMやホモセクシュアルといったセクシュアル・マイノリティーをターゲットにした出版物が誕生して、そこではじめて彼らは作品発表の場を得たのである。
しかしこういった図像学的な系譜はともかくとして、ゲイ文化史的な文脈上でゲイ・エロティック・アートというものを考えた場合は、やはり当事者であるゲイ自身が、自らのセクシュアリティを表現した作品を発表できる場、すなわち『風俗奇譚』のような媒体を得て、それは初めて誕生したと考えるのが妥当ではないだろうか。
さて、話を戻してゲイ雑誌の誕生以降、日本のゲイ・エロティック・アートはどのように変化していったのか、その流れを簡単に追いかけてみよう。
本書に収録した作家のうち三島・大川・平野の三名は、そのまま活躍の場を『薔薇族』に移し、三島は後に『さぶ』創刊にあたっての中心的人物となる。こういったゲイ雑誌誕生時期の作家としては、他に卓越した技術で児童書から劇画・SM・ゲイ雑誌まで幅広く活躍し、ゲイ雑誌上では妖艶でスリムな美青年を描いた林月光こと石原豪人(『さぶ』)、やはり優れた技術で妖艶なまなざしと成熟した肉体を併せ持つ青年を描いた遠山実(『薔薇族』『さぶ』)、和風から洋風まで幅広い作風で愁いを帯びた青年を描き続けた月岡弦(『薔薇族』)などの名前を挙げておきたい。
仮にここまでを第一世代とすると、全体的な共通点としては、まず彼らの描く男性は概して表情に愁いを帯び、どこか情念的な翳りのようなものを秘めている。少なくとも、快活さや屈託ない笑顔といった表現はほとんど見られない。また、モチーフには武士やヤクザといった、日本における伝統的なホモソーシャルな世界の精神論的な男性美学を描いたものが目立ち、逆に欧米のゲイ文化からの影響はあまり見られない。
また本稿は基本的に絵画作品の流れを追ったものなので詳しくは触れないが、こういったゲイ雑誌の誕生時期前後には、何種類かの男性ヌード写真集が発売されており、これもまた日本のゲイ・エロティック・アート史において重要な役割を果たしている。中でも三島由紀夫との親交で知られ『体道』『裸祭り』『OTOKO』という3冊の写真集を遺した矢頭保と、『梵 BON』というブランド名で何冊もの写真集を発表し続けた波賀九郎の2名は、その作品のクオリティと同時代のゲイ・エロティック・アーティストに与えた影響度の両面において、最も重要であり高く再評価されるべきであろう[注13]。
1970年代末から80年代にかけて、ゲイ雑誌はますます活性化していく。各雑誌はそれぞれ本誌の他に別冊・画集・写真集などを出すようになり、『薔薇族』から『青年画報』、『さぶ』から『あいつ』『さぶスペシャル』といった、従来のA5版よりも一回り版型が大きいB5版の雑誌が生まれ、誌面におけるイラストレーションや写真の比重もより高くなっていく。また『アドン』から派生した『ムルム』で盛んに紹介された海外のゲイ・カルチャーやゲイ・アート、あるいはゲイのライフスタイルは、やがて次世代のゲイに大きな影響を与えることになる。
1982年には新たなゲイ雑誌『サムソン』が創刊される。スタート時点では他誌同様に様々なタイプを扱った総合誌的な内容であったが、やがてデブ専・老け専といったより限定されたセクシュアリティを扱う専門誌となる。そのことによって、従来のゲイ雑誌ではあまり見られなかった、フェティシズム的により特化したアーティストが登場してくる[注14]。また東郷健が雑誌『ザ・ゲイ』を創刊。表紙は欧米の男性ヌード写真を流用し、本文にイラストレーションの類があまりなかったこともあり、ゲイ・エロティック・アート的にはあまり語るところはないが、後に表紙にヘテロセクシュアル・メディアでの有名アーティストを起用したことや、別冊という形で過激なポルノグラフィー写真集を何冊か発売したことなどは記憶に残る。
こういった状況を背景に、やがて第二世代とも呼べる作家たちが台頭してくる。その代表としては、当時の一般的なコマーシャル・イラストレーションやファッション・イラストレーションと共時性のあるデザイン性が高い作品と、トム・オブ・フィンランドの影響の色濃いエロティックな連作イラストを同時に発表し続けた武内条二(『アドン』『ムルム』、後に『ジーメン』)、ヨーロッパの世紀末美術や日本の浮世絵やアジアのエスニック・アートの要素を取り入れながら、装飾的な画風でピンナップから絡み絵や責め絵まで幅広く手掛けた長谷川サダオ(『薔薇族』『さぶ』『アドン』『ムルム』『サムソン』、後に『SM-Z』)、ナイーブな筆致でスポーツマンなどの爽やかな青年を描き、現実離れした美青年ではなく身近にいそうな理想的な青年を描き続けた木村べん(『薔薇族』『さぶ』、後に『ジーメン』『SM-Z』)の3名を挙げておきたい。この3名はそれぞれ雑誌の表紙絵を手掛け、活動期間も長く作品数も多いために、作品の質・量共に多くのゲイの記憶に残っている。
またこの3名以外にも特に印象に残る作家としては、ボディービルダー的な筋肉の量感にこだわり、汗臭さを感じさせるような濃厚な青年画を得意とした児夢(『さぶ』)、精緻な鉛筆画で装飾的・耽美的な少年画を得意とした稲垣征次(『薔薇族』)、水影鐐司や御楯巧蔵といった様々なペンネームを使い分けて、イラストレーション・写真・マンガなど多岐に渡るジャンルで活動した清原宗明(『さぶ』『薔薇族』後に『バディ』)、理想化された肉体ではなく現実的な肉のたるみや細かな体毛の1本1本にいたるまでを緻密なペン画で描く?蔵(高倉)大介(『さぶ』、後に『サムソン』)などの名前を挙げておきたい。
これら第二世代になると傾向も作風もバラエティに富み、いちがいにこれが特徴であるとは言いにくくなってくるが、それでもあえて第一世代と比較してみると、まず第一世代の作品に顕著であった「愁い」や「翳り」といった要素が全体的に希薄になっている。これは各々の作家性の違いは勿論だろうが、同時にゲイであることにある種の後ろめたさを感じずにはいられなかった時代と、それが次第に解放されていった時代という、それぞれを取り巻く状況の相違も決して無縁ではないだろう。モチーフ的には武士やヤクザと言ったものが減り、逆にスポーツマンが増加する。これはゲイにとってのファンタジーの投影対象が、時代と共に精神論的な美学から物質的な肉体へとシフトしていったということなのかもしれない。フェティシズム的な記号としては、従来の褌や刺青といったものに加えて、ケツ割れサポーターや細身のタンクトップ、レザー・ファッションといった欧米のゲイ・カルチャーに影響されたモチーフが増えてくる。
ゲイ雑誌にマンガが掲載されるようになるのもこの時期である。代表的な作家は『薔薇族』で恋愛もの的な要素とハードコアなポルノグラフィの要素を両立させた優れた長編「ごきげん曜」を連載した山口正児(『薔薇族』)と、『アドン』で「タフガイ」「メイクアップ」など、恋愛ものとしてもエロティックなものとしても極めてハイレベルなストーリーマンガを連載した海藤仁(『アドン』)の2人であろう。
それ以外にも、様々な設定を駆使してバラエティ豊かな短編作品を数多く発表した山川純一(『薔薇族』)、少女マンガ的な画風でセンチメンタルなラブストーリを得意とし、現在でも現役で描き続けている竹本小太郎(『薔薇族』)、センチメンタルなラブストーリーや、オネエ風味の辛口イラストエッセイを描いた田所大介(『薔薇族』)、前出の御楯巧蔵(『さぶ』『薔薇族』)、少女マンガ風から劇画風へと絵柄をシフトしながら長編「風のアルバム」を連載したボネ鏑木(『サムソン』)、老け同士のリアルなエロを描いた友造(『サムソン』)などが印象に残る。
またこの時期には、以上に名を挙げたようなゲイ雑誌専門の作家とは別に、ヘテロセクシュアル向けの雑誌で活躍していた作家がゲイ雑誌にイラストレーションやマンガを発表した例も幾つか見られる。筆者の思い出す限りざっと列挙してみると、内藤ルネ・吉田カツ(『薔薇族』)、南伸坊・渡辺和博・吉田光彦・福原秀美・麻生寛(『さぶ』)、土屋進・レオ澤鬼(『アドン』)、時代はやや下るが藤城清治・宇野亜喜良(『ザ・ゲイ』)といった面々がゲイ雑誌に登場している。しかし、作者の資質と雑誌の傾向が良い形で合致してエロティックな佳品となっていた吉田光彦のマンガや、サラリーマン同士の恋愛を丁寧に描いて新鮮だった土屋進の連載マンガ、男性の肉体描写をリアリズム的に徹底することによって上質のゲイ・エロティック・アートになっていたレオ澤鬼のイラストレーションなど、幾つかの数少ない例外を除いては、概してこれらの作品にはゲイ・エロティック・アート的な見所はなく、他のゲイ・エロティック・アーティストたちへの具体的な影響もなかったように思われる[注15]。
以下は駆け足となるが、そこから現在に至る流れをざっと追いかけてみる。
1980年代後半から90年代にかけては、一時期盛んだった別冊や画集、大判誌といったものは姿を消すが、主だったゲイ雑誌自体は変わりなく存続し続ける。その一方で、一般誌でゲイ特集が数多く組まれるようになり、アート誌も欧米のゲイ・アーティストを取り上げるようになる。また当事者としてのゲイ自身も、書籍やムックなどゲイ雑誌以外のメディアを通じて、性的指向以外の側面からもゲイというものを捉える試みを行うようになる[注16]。後者は主に前述の『ムルム』の薫陶を受けた世代のゲイたちによる試みであり、結果的にそういった動きが次で述べる「ゲイ雑誌の本質的な変容」へと繋がっていく。
1994年に『バディ』が、続く95年には『ジーメン』が創刊される。従来のゲイ雑誌が基本的に投稿誌やマニア誌的な作りであったのに対して、この2誌はゲイ・マーケット、ゲイ・コミュニティ、ゲイのライフスタイルなど「ゲイを取り巻く状況全体」を視野に入れはじめた。こういった新しい世代のゲイ雑誌と共に、ゲイを取り巻く状況全体もゲイ・パレードやHIVの啓発イベント、各種ゲイ・ナイトの開催といった具合にますます活性化していく[注17]。しかし一方では『アドン』と『さぶ』という2つの老舗ゲイ雑誌が、前者は1996年に、後者は2001年に休刊してしまう。
そして現在、ゲイ雑誌に掲載されているゲイ・エロティック・アートは、90年代以前と比較すると作家の数も増え、バラエティにも富んでいる。同時にゲイ・エロティック・アートが発表される媒体も、従来のようなゲイ雑誌オンリーという状況から、各種イベントのパンフレットやフライヤー、イベントに関連したエクシビション、インターネット上の個人ギャラリー、コミケなどの同人誌文化、更にはやおい文化とのクロスオーバーなど様々な方向に拡大しつつあり、それぞれのやり方で活発に活動を続けている。
ただしこの拡大は同時に拡散でもある。媒体の種類がそれぞれの特徴によって細分化されるということは、必然的に各々の構成要員の間に世代や傾向といった面で分断が生じるということでもあるからだ。それらを「総体としてのゲイ文化」として包括することが可能なメディアは、現時点においてはやはりこれまで同様に、読者の年齢層が10代から高齢者までと幅広く嗜好やライフスタイルも多岐に渡るゲイ雑誌ということになりそうである[注18]。
★注
【注01】……『風俗奇譚』の原稿募集告知には「サディズム・マゾヒズム・ソドミア・レスボス・フェチズムなど、本誌の指向するところの小説・体験記・告白手記・随想などを募集します」とある。
【注02】……もう一例として、後述する当時『風俗奇譚』に多くのゲイ小説を発表して好評を博した作家・芦立鋭吉も、最初は『奇譚クラブ』に作品を投稿したところ、作品は掲載されたが(1960年12月号「男責小説 朱金昭」管良太名義)あまり良い反応ではなかったために、発表の場を『風俗奇譚』に移したという経緯があったことをあげておく。これは当時芦立と文通をしていた方の述懐による。
【注03】…… 1950年代から60年代のアメリカで発行されていた「逞しく健康的な男性美」の写真や絵を売りにした雑誌群の総称。表面的にはあくまでも男性の肉体美の雑誌であって、具体的なセックスやゲイに関する情報は何も含まれてはいないが、実際は制作していたのも購読していたのもほぼ全てゲイばかりの、いわば「ボディビル雑誌のふりをしたゲイ雑誌」であり、これが後の欧米のゲイ・エロティック・アートの基盤となった。その内容と歴史については『ビーフケーキ 1950〜1970年代のアメリカ筋肉マンの雑誌』F・バレンタイン・フーベン3世(タッシェン・ジャパン)に詳しい。
【注4】……ただし平野剛に関しては、筆者の手元にある1963年の『風俗奇譚』別冊で既に掲載が確認されているので、これらのデータが必ずしも正確であるというわけではない。
【注5】……間宮浩と『風俗奇譚』の関わりについては、三島剛と大川辰次の各論でも触れているので、そちらもご参照いただきたい。
【注6】……この後『風俗奇譚』誌からゲイ関係の記事が全く消えてしまったわけではなく、1974年の休刊時まで何らかの形でゲイ向けの記事は掲載され続ける。例えば、後に『さぶ』で長期に渡る名物連載「縄と男たち」を手掛ける森本浩史も、69年から71年にかけて『風俗奇譚』で連載をしている。しかしゲイ向け記事の分量そのものはは、やはり62年から64年にかけての「ゲイ向け記事全盛期時代」とは比較にならないほど減少していると言ってよいだろう。
【注07】……こういった会員誌の草分けは、『薔薇』の創刊より十年以上前『アドニス』(1952〜62)にまで遡り、他にも『アポロ』『メモワール』『羅信』『マン』『同好』『楽園』といったものの存在が確認されている。これらの詳細については『ゲイという[経験]』伏見憲明(ポット出版)の該当章、および『別冊太陽・発禁本A 地下本の世界』(平凡社)などをご覧いただきたい。
【注08】……ゲイという言葉をこのように定義することには、異論のある方もおられるであろう。しかしこれはゲイという言葉が「ホモセクシュアルの人間が能動的に選んだ自分たちの呼称」である以上、それは「そういうセクシュアリティの人間全てを包括しうる最大公約数的なものであるべき」であり、望むと望まざるに関わらず「定義によってそこから除外されるホモセクシュアルがあってはならない」というのが筆者の主張であり、それによって導き出された筆者なりの定義である。
【注09】……これに関しては、ゲイ視点からのアプローチとしては『ゲイという[経験]』伏見憲明(ポット出版)の中で、ヘテロ視点からのアプローチとしては『浮世絵春画と男色』早川聞多(河出書房新社)の中で、それぞれ考察がある。
【注10】……エロティック・アートという文脈上で、やおい文化の構成要員をセクシュアリティという視点で見てみると「当事者とはなりえないが、男性同士の性行為に欲情する女性」「トランスジェンダーやトランスセクシュアル、あるいはその資質が強い女性」「女性が性欲を表明することへの社会的な抑圧、あるいはセックスフォビアによって、代償物的な性的娯楽を無意識的に、または意識的に選択しているヘテロの女性」「ゲイの男性」「バイセクシュアルの男性」「二次元のマンガ絵で描かれた中性的な男性ならば、欲情の対象となりうるヘテロの男性」「性愛を描いたフィクションを汎的に楽しむヘテロの男性、及び同様の女性」などといった、様々な層が混在しているように思われる。
また「男性向きショタ」は一見するとゲイというセクシュアリティに含まれるようにも思われるが、この中には「バイセクシュアルの男性」や「ヘテロだが、二次元のマンガ絵で描かれた記号的な少年ならば欲情の対象となりうる男性」などといったセクシュアリティの層が含まれており、これまた安易にゲイの小児性愛と同一視することはできない。
【注11】……一般的に「男性美」というと、ギリシャ彫刻的な均整のとれた肉体美や、世間で言うところの美青年やイケメンといったものを指すと思われそうだが、ここで筆者が述べている「ゲイ・エロティック・アートにおける男性美」とは必ずしもそれとイコールではない。熊専・デブ専・老け専といったセクシュアリティの目から見た「理想の美」が、いわゆる一般的な美の規範とは全く無縁であるように、エロティック・アートにおける美の価値基準とは、基本的に作者のセクシュアリティによって決定されるものだからである。
また「性的魅力」をヌードのような一般的なエロティシズムに限定するのも、エロティック・アートを語る際には不充分である。エロティック・アートにおける性的魅力の表現とは、多かれ少なかれ作者自身のフェティシズム的傾向というフィルターを通されたものであり、このフィルターを通せば筋肉・脂肪・体毛・スキンヘッドなどのボディーパーツも、制服・レザー・地下足袋・ナイロンソックスなどのガジェットも、全てが等しくエロティックな「情報」となり得るからである。
以上のようなことを踏まえて一例をあげると、例えば「マッチョとヒゲと壮年とSMが好きなゲイ」というセクシュアリティの筆者にとっては、古代彫刻の中で理想の男性美を求めるならば、それは『ヴェルヴェデーレのアポロン』ではなく『ファルネーゼのヘラクレス』になり、エロティックな作品は『カピトリーノのヴィーナス』や『眠れるヘルマフロディトス』ではなく『ラオコーン』になるのだ。
【注12】……この系統を更に辿れば、鎌倉時代の運慶の東大寺南大門金剛力士像や天平時代の東大寺執金剛神像にまで遡れるかもしれない。これらにおける捩れた筋肉や浮かび上がった血管といった表現は、その目的が男性美の表現ではなく神格を表現するための手段であったとしても、筆者のようなマッチョ系を好むゲイにとっては、それらは充分にエロティックな表現に感じられるからである。
いささか話は逸れるが、概して美術史において「ホモセクシュアルな」あるいは「同性愛的な」と形容される作品は、両性具有的であったり耽美的であったりするか、それとも関係性としてのゲイを連想させる複数の男性図のような、あくまでも「ヘテロから見て理解しやすい」ものに限定されている。
前者に関しては、これはホモセクシュアルというものを「体感として理解しえない」ヘテロの男性にとって、「女と見まごう美しさ」や「性差を越えた美しさ」の男ならば性的な対象になるのが「理屈で理解できる」あるいは「受け入れやすい」からであろう。そのこと自体を否定するつもりはないが、それはあくまでもゲイないしホモセクシュアルというものを外部から見た結果、あるいは観念的に推察した結果に過ぎない。しかし現実のゲイのセクシュアリティとはもっと多種多様である。運慶がゲイであったと主張するつもりは毛頭ないが、かといってゲイではなかったと断定することもできないのならば、制作にあたってホモエロティックな視点が存在したかもしれないという可能性は残される。だが前述の「外部的に理解しうるホモエロティックなアート」や、あるいは【注11】で触れたような「セクシュアル・マイノリティやフェティシズムからの視点を排除した一般的なエロティシズム」という視点からでは、そういった可能性を掬い上げることはできない。
また後者の「関係性としてのゲイを連想させる複数の男性図」に関しては、これはホモソーシャルな関係図がゲイと混同されがちだということの一例である。男同士の密接な友情や連帯感といったものは、そこに「性」の問題が介在しなければそれはゲイとは言えないし、逆に性的な関係性や当事者の非男性性を否定するといった点では非ゲイ、あるいは反ゲイ的ですらある。しかし外側から見た構図がゲイ的なものと相似しているがゆえに、そこにヘテロの男性は「あやしい気配」を感じ、ゲイの男性は「理想郷としての夢」を託し、ある種の女性はそこから「やおい文化」を生み出す。ここでこれらの混乱の是非を問うつもりはないが、現実としてそういった混乱が存在しているということは指摘しておきたい。
【注13】……特に矢頭保に関しては、その存在がほとんど忘れられたものとなり、オリジナル・ネガの所在等も一切不明であり、再評価の兆しも殆ど見られないことは、ゲイ・エロティック・アート史のみに留まらず日本の写真美術史全体にとっても極めて不幸なことである。それほどまでに、矢頭の作品には汎時代的な高い芸術性がある。
【注14】……フェティシズム的に更に特化したゲイ・メディアとしては、『サムソン』以外にもデブ専・老け専の『DEBUSEN』『豊満』、少年愛の『少年』などといった雑誌があった。(『豊満』のみ続刊中)しかしそういった雑誌については、筆者は過去にわずかに『サムソン』に触れたことがあるという経験のみに留まり、未だそれらを探求する試みも行っていない。よって申し訳ないのだが、そういった関連のゲイ・エロティック・アーティストについての知識がほとんどなく、本文中でも詳しく言及することができなかった。その点はお詫びしておきたい。またフェティシズムではないが、マンガ誌『バラコミ』というものもあった。更に時代が下ってからのこういった路線の雑誌としては、老け専の『シルバー』、若デブ専の『DAVE』、少年愛の『夢少年』、SM系の『SM投稿スペシャル』『SM-Z』、マンガ誌『パレード』などがある。(『SM-Z』のみ続刊中)
【注15】……この中で内藤ルネに関しては、『薔薇族』との関係は創刊当初にまで遡る。その作品はエロティック・アートと呼ぶにはためらわれるものがあるが、長年同誌の表紙を飾り、またエッセイの連載なども手掛けていたこともあって、多くのゲイにとって親しみを持って記憶されているはずである。
【注16】……一般誌の例として『クレア』『イマーゴ』『AERA』などのゲイ特集、アート関係の例として『イラストレーション』や『フォト・ジャポン』などのアントニオ・ロペスやメル・オドンやロバート・メイプルソープの特集、ゲイ自身が動き出した例として『プライベート・ゲイ・ライフ』(伏見憲明)や『別冊宝島/ゲイの贈り物』などが挙げられる。
【注17】……こういった一連の動きは、ゲイ・エロティック・アート自体の変化とはあまり関係がないように思われるかもしれない。しかし筆者が「日本のゲイ文化を確立するためには、まず過去の日本のゲイ・エロティック・アートの発掘と再評価、そして未来のアーティストの発掘と育成が必要である」と主張し、実際にそのための活動が行えるようになったのはこういった変化があったからこそであり、本書を世に出すことができたのも同じ流れの上にあるということは述べておきたい。
【注18】……とは言っても実際には各ゲイ雑誌の読者層は、それぞれの嗜好に合わせてある程度は絞り込まれている。ただしマーケットの規模が単純に人口比から見てもヘテロセクシャルの十分の1以下という狭さである以上、その「ある程度以上」には絞り込むことができないのも事実である。少なくともターゲットをヘテロセクシュアルの専門誌やマニア誌と同様に限定してしまえば、マーケットの狭さから商業誌としては採算が取れなくなるだろう。よって必然として、現状のゲイ雑誌は何らかの形で「ゲイの総合誌」的な側面を持ちあわせていると言える。 |
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