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ポット出版
立ち読みコーナー●ゲイという[経験]
[2002-03-14]
ゲイという[経験]

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ゲイという[経験]
[2001.06.15刊行]
著●伏見憲明

定価●2500円+税
ISBN4-939015-41-6 C0095/初版刷り部数 2,000部
A5判/608ページ/並製
印刷・製本●大丸グラフィックス
ブックデザイン●小久保由美

品切れ
(『ゲイという[経験]」増補版』は在庫有り


[ネット書店を含む全国の書店では現在扱っていない商品ですが、ポット出版ウェブサイト、下記の「謝恩価格本フェア」での販売は行っております]

★この商品は出版社共同企画「期間限定 謝恩価格本フェア」に出品、 50%0FFで販売予定です。(2004/10/15〜12/15まで)




【立ち読みコーナー】※本書所収原稿の一部を紹介

友達いますか?

 この特集のタイトルを思い付いたのは電車の中だった。
 それは周囲の光景に異様な「何か」を嗅ぎ取ったときのことである。いまどき携帯電話を所持していない前世紀の遺物のような僕からすると、視界に入る人たちが一斉に(という感じで)乗車するや携帯を取りだし、液晶を覗いたり、親指でメールを打ったりする行為を目の当たりにするのには、圧倒される。いや、以前なら、こちらもそういう様子を横目で見て、「楽しげー」とか「ビジネスマンしてるー」とか、新しいアイテムの登場を面白がっている人々を肯定的に見守ったものだ。ところが最近では、そこに強迫めいた、ただならぬ気配を感じてしまうのである。禁断症状のようにしょっちゅう携帯の確認をせずにはいられない、誰かといっしょにいても他の人と併行して連絡を取っていないと間がもたない、携帯をどこかに忘れてきただけで大きな不安に苛まれてしまう…そんな感覚が当たり前のこととなり、携帯に向かう人々の表情の中にも、だんだんと奇妙な深刻さが現われてきている気がするのだ。
 携帯不所持者(そんなカテゴリーがあるとすれば)として携帯所持者を観察するまでもなく、べつに誰もがそんなに切迫した用事で使用しているわけでもなさそうだし、実際、連絡をしないならしないで済むことの方が多いわけだ。にもかかわらず、彼らのコミュニケーションへの熱狂は高まるばかり。情報がめぐるスピードは加速し、そのネットワークに入っていない携帯不所持者には、目が回らんばかりの事態になってきている。携帯所持者の、いつも他者に気に留めてもらっていなければいられない、誰かに必要とされていることを自分に言い聞かせていなければならないというような焦燥は、どこから生じるのだろうか。彼らの目つきに真剣さが色濃くなればなるほど、その強迫の出所が気になって仕方なくなってくる。
 そんな折りに、電車の中の人々の様子が目の中に飛び込んできて、僕の頭ではじけるように浮かんだフレーズが、

 友達いますか?

だった。なんでそうなのか自分でもよくわからないのだが、いや、わかるようなわからないようなという感じなのだが、その一行はずっと僕の胸から拭いさられることなく、どこかで引っ掛かり続けた。有線放送で流れるヒット曲のリフレインのように。そして、それならいっそのことそのフレーズを『クィア・ジャパン』の特集にしてしまおうと考えて、前号の予告に載せることにした。いまどき友情なんてことをテーマにする企画自体、滅多にお目にかからないし、正面から向かい合うにはどこか気恥ずかしさを感じる「友達」に、クィアをからませたら面白いのではないか。それはそれで『クィア・ジャパン』らしいのではないか、と思った。
 そして、その予告には「魅惑のブス」以上に大きな反響が寄せられることになった。やはり、その問い掛けに、ぎょっとした人が多かったのだろう。僕自身、いろいろなところで「次号に期待する」と声を掛けられた。タイトルだけでまだ具体的な企画を構想していなかった編者としては、とまどうばかりだったが。しかし、その言葉の波及効果に、「友情」や「友達」といったテーマの重要さと時代性を、また確信したのである。
 そうして始まった四号の企画なのだが、実際に作業を始めてみると、「友情」や「友達」を論じたり、改めて言葉にするのは難しいことがよくわかった。言葉は凡庸な表現の中で空回りするばかりで、なかなか奥深いところまで届いた気がしない。何を問うてみても上澄みを掬っているような手ごたえしか感じられない。それは編者としての僕の力量にもよるのだが、途中で、もしかしたら、その言葉にならなさにこそ、あるいはリアクションの倍音の少なさにこそ、このテーマの意味と、固有の論理が秘められているのではないかとも考えるようになった。
 恋人でも家族でもない他者との情緒的な関わりに流れている感情は、意識されることもあまりないが、意識したところで、その方向性や水量を測るのは簡単ではない。恋愛感情やら親子の情やらの残余としてしか、そのかたちが見えないと言ってもいいかもしれない。しかし、人はその残余の存在に寄り掛かることなしにはまた生き難いものなのである。「友情」の表現方法が、「恋愛」にように解決の出口を性急に追い求める方向ではなく、過程を重ねていくことにあるのなら、その過程の捉えがたさに、表面をすべっていくような空虚さが胚胎しているのだろう。そして、「友達」という関係性の確信の成立しにくさも、人々の不安を駆り立て、妙に積極的で、不可解な行動へと向かわせているのかもしれない。
 結局のところ、「私」と「私」の平凡な言葉が交叉することでしか、「友情」や「友達」の「言葉にならなさ」を超えていく契機はないと痛感した。だから、ここではとにかく多くの人と言葉を投げ掛け合うことにした。そのぶつかり合いによって生まれる裂け目だけが、「私」と「あなた」をつなぐ暗渠を覗かせてくれるだろう。
 いささか話が抽象的になったが、僕自身のことを語ると、「友情」や「友達」はどうも苦手である。子供の頃から、他人との間に隔絶感を感じることが多く、なかなか親しい友人を得ることはできなかった。それは僕が「オネェ」だったことによるジェンダー違和が、周囲にも自分にも災いして、お互いの理解を容易にさせなかったことにも原因はある。もしかしたら、その経験がトラウマとなって、いまに至るまで、対人恐怖を感じているのかもしれない。他者との関わりは、三十路も半ばを超えたいまでさえ、僕にとっては違和を拭えぬものであり、それだけで「痛み」を伴う作業である。しかし、「オネェ」ばかりのゲイという共同性の中においても、結局、共感どころか、馴染めなさばかりが軋みだして、どうにも座りの悪い感じを抱いてしまっているのが僕である(何をいまさらと言われそうだが)。ホモフォビアがそれなりに脱色された後でも、ゲイ共同性は僕に安心感を与えてはくれなかった。
 考えてみれば、僕が性愛を好きなのは、そうした他人との距離を「性的欲望」という魔法の作用で忘れさせてくれるからである。性愛は麻酔のように他者と関わることの痛みをやわらげてくれる。僕にとってそれは他者と自分の間を埋めるクッションのようなものかもしれない。その抗いがたい欲望は、自閉しようとする心を無理矢理こじ開けて、他者に向かわせてくれる、ありがたい、それでいておせっかいな「力」だ。それがあったから、僕はゲイ共同性というものにこだわり、かろうじて他者と関わってこれたのだろう。
 一方、現在では、我がままの効く数少ない友達の辛抱のおかげで、なんとか僕も友人関係らしきものを営むことはできてはいる。また、仕事をしていく上で、最低限のコミュニケーション能力を身に付け、他者と関わりを持つことが可能になっている。が、それさえもどこか腑に落ちない感じが付きまとっているのが内なる声だ。いつも相手に苛立ち、自責の念にかられ、孤独感に打ちのめされている自分がいる。
 ある親しい友達に言われた言葉がある。
「あんたほど病的に他人に間口の狭い人間を見たことがない」
 そんな僕が、今回「友情」や「友達」を取り上げようというのだから、滑稽とも胡散臭いとも思う。事実、この序文の文体がいつもに比べてどこか腰が据わっていないのも、その白々しさの顕れかもしれない。「友情」や「友達」は僕にとってまさに鬼門なのである。はてさて鬼門の先に僕は何を見るのか。
 たぶん、ゲイやレズビアンを中心にした「友情」「友達」特集の特徴というのは、現在、多くの人たちが抱える問題と反対の様相を見せることになる。「透明な存在」として社会の中に一人浮かんでいる自分を、いかに他者や共同体とつなげていくことができるのか、というのが今日的な問題だとすれば、同性愛者の孤独はコミュニティに関わるまでのホモフォビアの問題にかなり還元され、少なからずの人が被差別共同性に属することによって、かえって自分自身の輪郭線を他者に結び付けることに成功しているとは言えまいか。差別されている痛みによって産みだされた共同性が、当事者に、自分自身であることや、社会の中に存在していることのリアリティを与え、逆説的に、今日的な意味での存在不安の苦しみから個人を守っている、という面があるのだ。
 これは同性愛者の状況が、マジョリティに遅れているから、と解説することもできるかもしれないが、見方によっては、問題の処方箋を先取りしているということにもなるかもしれない。人は大きな社会や世界の中で、意味なく存在することはできないし、意味を与える装置なしには、「透明な存在」としてしか自分を感じられなくなってしまう。いま、ゲイのコミュニティでは積極的にゲイであることを意味付け、楽しむためのアイテムを増やそうという動きが盛んである。そのことはゲイたちをゲイという共同性に内塞させてしまう危険もあるが、一方で、個人の片腕を、共同体と仲間につなげつつ、社会や世界に存在を解き放つ契機にもなりうる。そうした状況を今回の特集に登場した人たちは体現しているように思えた。
 再生産に関わらず、血縁共同体から離れて自分自身の人生を選択したゲイやレズビアンにとって、「友達」はこれから何気なく関わっていく空気のような存在から、積極的な意味付けを必要とする特別な存在に変わっていくだろう。そうした指向性や、試みがすでに芽生えていることをアンケートは教えてくれている。
 また、血縁共同体を支える異性愛の性的規範から離れたゲイたちにとって、「親密さ」は「友情」と「恋愛」にはっきりと分けられるようなものでもなくなってきている。友情のような恋愛もあれば、恋愛のような友情もある。性愛が含まれた友情もあれば、性愛の存在しないパートナーシップもある。関係性の中で「親密さ」をどのように表現しうるかは、自明のものではなくなりつつあり、それぞれが実践の中で、言葉と関係性の内実を問い直しているような現実が浮き彫りになっている。そして、それはゲイだけの状況ではなく、時を経ずして、異性愛者のライフスタイルの中でも徐々に明らかになっていくことだろう。
 これらの文脈ではもはや「友情」は、他の情感の残余の地位ではなく、主要なテーマのひとつとして浮上してこざるえをえないのである。
 さらに、今回の特集では、「友情」という言葉を、カテゴリー間でいかに人間と人間がつながっていけるか、という問題にまで広げている。マジョリティとマイノリティ、社会的弱者と社会的強者、マイノリティとマイノリティ…といったかたちで、僕らは属する共同性を異にする他者との新しい関係性を探ることになるだろう。それぞれの拠って立っているところが違うとき、また、そこに「力」関係が複雑に作用するとき、僕らは、どんな言葉で、そんな視線で、相手と向い合うことができるのか。どういう「友情」で結ばれる可能性があるのか。あるいは、つながらないことを選択することはできないのか。
 ここに参加してくれた人たちは、ギリギリの言葉でそれを表現してくれたと思う。痛みを伴いながらも自らを開いてくれた彼らのおかげで、つながるための表現力を深めていく機会を得ることができた。それこそがまさに「友情」であると、僕は受けとめたいのである。
 「クィア」という場が他では実現できないようなコミュニケーションを可能にしたことを、編者として大変嬉しく思う。「友情」によってつくられた「友情」の本を読者のあなたはどう読むのか。僕らの「友情」が活字を超え、本を離れ、外の世界に広がっていってくれることを、願ってやまない。


『クィア・ジャパン vol.4 友達いますか?』
序文、勁草書房、二〇〇一年三月

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