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ポット出版
立ち読みコーナー●風俗ゼミナール お客編
[2001-04-20]
風俗ゼミナール お客編

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風俗ゼミナール お客編
[2001.04.20刊行]
著●松沢呉一

定価●1700円+税
ISBN4-939015-32-7 C0095/初版2500部
四六判/224ページ/並製
印刷・製本●株式会社シナノ
イラスト●おぐらたかし
ブックデザイン●小久保由美+松沢呉一

在庫有


【立ち読みコーナー】※本書所収原稿の一部を紹介

Lecture17
泣ける相手


この講座もいよいよ最終回となりました。最後は私自身が、いかに風俗産業によって救われているのかをお話しして、皆さんのご健闘をお祈りいたします。

 私にとって風俗遊びの楽しみは大きく二種類ある。ひとつは初めての子に接する時のドキドキ感。もうひとつは馴染みになった子とのくつろぎ。
仕事柄、数多くの風俗嬢に接するわけだが、何度体験しても、初めての子と出会う時の新鮮な喜びは褪せない。そういった子らの中に、「もう一回会いたい」というのが出てきて、さらにその中から「もう一回」となって、やがて馴染みとなっていく。
 遊廓において、一回目を「初会」、二回目を「裏を返す」、三回目を「馴染み」とはっきり区別したのは、かつては初会からすぐに同衾できるわけでなく、面倒な手続きがあったがためもあるのだが、今もやっぱり馴染みは馴染みの意義があり、風俗における馴染みの関係は、プライベートの男女関係とはまったく違っている。初会の喜びとともに、この快楽は何物にも換え難い。最近、そのことを強く実感した。
 この夏、父が亡くなった。ガンだった。
 大学に入るため、十九歳で東京に出てきて二十年。一緒に住んでいた期間よりも、別に暮らしていた期間の方が長くなる。多くて年に一回か二回、一度も帰らないこともザラで、帰ったところで特に親密な話をするわけでもない父が死んだところでいまさら泣くまいとずっと信じていたのだが、ベッドで横たわり、点滴、酸素用のチューブ、機械から伸びたコードやらをつけられ、言葉を発することもできなくなった状態を最初に見た晩、一人風呂に入っていたら急に涙が流れだし、とまらなくなった。実家の布団の中で、しばらく泣き続けた。
 その二日後、声を出すこともできず体の反応さえほとんどなくなった父をあやすように話しかける母の姿に耐えられず、私は病室を出て、病院の駐車場で嗚咽した。
 そんな時も、私はとめどなくこぼれる涙を拭いながら、「早く風俗店に行きたい」なんて考えていた。親不孝なバカ息子の極みである。
 我ながら、妙な感覚だと思い、この意味をよーく考えた。ここで風俗店に行きたいと思ったのは、初めての子とのドキドキ感を得たいということでなく、馴染みの女の子に会いたいという意味である。具体的には私が「風俗妻」と呼んでいる歌舞伎町「ロミオとジュリエット」のまりあちゃんに会いたくて会いたくて仕方がなかったのだ。
 単に会いたいのでなく、また、チンチンをしゃぶってもらいたいのでもなく、彼女の前で泣きたいと思った。信頼関係がいくらあっても、仕事仲間でなく、プライベートで遊んでいる男や女の友人たちでもなく、その相手はまりあちゃんでなければならなかった。
 私はこの社会での「男の役割」「男のメンツ」といったものから比較的自由ではあって、男だから強くなければならないとか、女を庇護しなければならないといった考え方をあまりせず、弱みも情けなさも平気で晒し、一方で、女に対しても容赦ないところがある。私としては、男にも女にも一貫した態度をとっているつもりなのだが、そのために、あるところでは「女に優しい」と言われ、その一方ではしばしば「女に厳しい」と言われる。
 こんな私でも、人前で堂々とは泣けない。特に今回は、父の死を前にして「長男である私がしっかりしなければ」なんて人並みのことを考えて、やはり涙は見せにくい。では一体誰の前だったら泣けるのかを考えていくと、まりあちゃんだったのである。
 ここでは、信頼関係がない相手だから泣けるということではない。どこの誰かわからない相手でいいのなら、初めて会う風俗嬢でもかまうまいが、私にとっては、馴染みの相手じゃなければならなかった。
知り合いの女王様の実話だが、長年、主従関係がある奴隷さんから電話があった。その奴隷さんは電話の向こうで「娘が海外で事故死したんだよ」と号泣している。彼は一人娘の訃報を聞いて、すぐにその女王様に電話をしてきたのである。
 この奴隷さんに会ったことがあるが、会社経営者で、たしか六十代だったと思う。立場上、自分の会社の人間に弱みは見せられない。男が妻の前では泣くわけにもいかない。でも、誰かに向かって泣きたい。そこで、女王様というわけだ。
 気持ちはよくわかる。自分の生活に介入してこない相手だから、自分を晒せる。晒しているうちに、その相手は、誰よりも自分のことを知っている存在になる。この奴隷さんにとっても、見ず知らずの女王様でなく、信頼関係がすでに生じている、その女王様だから電話をして、号泣することができたのだし、その女王様も、彼のことを受け入れることができた。
 SとMの関係ではないわけだが、それでもまりあちゃんにだったら私は涙を見せられる。意識はしていなくても、私は強い男でなければならないとの思いから完全には抜けられてはおらず、プライベートでの男女関係においてもやはり私は「男」というものをやっているらしい。
「男の支配欲、征服欲を満たし、男であることを確認するために金を払う」などと風俗遊びを解釈する人がよくいるが、私はまったく違う。男じゃなくなるために風俗に行くようなところがあるのだ。
 おかしなもので、いつ仕事を辞めて連絡がとれなくなるかもわからない相手にこそ、初めて等身大の自分を見せられるということになる。風俗嬢たちに聞くと、甘える男が多いという話も頷ける(私はあえて甘えるわけではないのだけれど)。
 父が小康状態になり、これ以上、仕事を放り投げておくわけにもいかず、私はいったん東京に戻ってきた。溜まった仕事を片付ける合間を見て無理をして時間を作り、まりあちゃんに会いに行った。泣きはしなかったし、父のことは簡単にしか話さなかったのだけれど、彼女と一緒にいる時間でどれほど癒されたかわからない。
 それから間もなく父は静かに亡くなった。私が実家に帰った時、父は病院から実家に戻り、冷たい体を横たえていた。
 翌日の葬儀で、棺桶の蓋が閉じられた時、こらえきれずに、私は家族の前、親戚の前で涙を流した。その時も私はまりあちゃんのことを考えていた。
父ちゃんが生きているうちに、風俗店に一緒に行きたかったものである。
            +『日刊スポーツ』一九九九/八月記

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