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たったひとりのクレオール
聴覚障害児教育における言語論と障害認識
[2003.10.20刊行]
著●上農正剛
定価●2700円+税
ISBN4-939015-55-6 C0096
四六判/512ページ/上製
決してきちんとは「聞こえない」にもかかわらず、「聞こえているはず」という視線の中で生きていかざるを得ない子どもたちの苦しみを、私たちは本気で考えたことがあったのだろうか。(本書より)
約10年にわたる論考の数々によって、聴覚障害児教育に潜む諸問題を分析し、新たなる言語観、障害観を提起する試みの書。
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『たったひとりのクレオール』という1冊
障害の子どもたちが「統合」を
求めてきたことをもっともだと思う立場を維持した上でも、
著者の「統合」否定はわかる
■立岩真也
最近出た上農正剛の本を簡単に紹介する。珍しい名前の人だが「うえのうせいごう」と読む。一九五四年生、聞こえない子どもの個人指導に一七年間携わる。一九九九年より九州保健福祉大学保健科学部言語聴覚療法学科専任講師。クレオールとは聞き慣れない言葉だが長くなるので解説は略。
副題は「聴覚障害児教育における言語論と障害認識」というこの本のことに入る前に、ごくごく短くすると次のような指摘、主張がなされてきているのをご存知だろうか。
自分たちが使う手話は日本語に身振りを対応させたものではなく、独立した別の言語であり、その自分たちは独自の文化、「ろう文化」を有する集団であり、その意味での「聾者」である(聾者でない人になりたいのではなく、「聴覚障害者」とは呼ばれたくない)。このように事実認識の変更の要求と自らのあり方についての主張がなされてきた。ここ数年、関連してかなりの数の本が出ている。私はほとんど追えていない。別の回で紹介できればと思う。
さて、手話は言語で、聾者には聾者の文化があるというのは、まずはもっとも、その通りと言う他ない。それを人が知らないなら周知させるために繰り返す必要はあるが、知るだけならひとまず知れば一段落つくことではある。そして上農のこの本は講演を集めたものだというから、やはりそんな本かもしれないと思い、正直なところを言えば、読む前にそれほどの期待はなかった。しかしこの本は、実際にはそれで終わらないところから始まっている。そして、この本はたしかに(論文も含むが多くは)講演を収録した本なのだが、知っている人は知っていることをわかりやすく薄めて繰り返したものを集めた本にはなっていない。聴衆との間に緊張を生じさせる大切なことを語ろうとし、実際に語った、緊張感を伴う言葉の記録になっている。
◇ ◇ ◇
たとえば一九九七年、文字放送のことや国際交流のことがたくさん語られた難聴児の親の会の会議での講演で筆者は次のように語る。「私の目には、足下を踏み固めた後でなければ言っても仕方のない事柄が次から次に熱心に語られているように見えて仕方がありませんでした。足下にある切実な現実の問題は一体どうなっているのだろうか。何か議論する順番が根本的に違うのではないだろうか。このような複雑な思いが最後まで消えませんでした。」(三〇ページ)
そんなことはこの(医療や教育や福祉や…の)業界ではよくある、と思った人がいるはずだ。たいていの講演は、あらかじめ受け入れられることがわかっている場で受け入れられることが話される。講演に限らない。時には何かを言わないために別の何かを──多分それ自体は間違いではない何かを──言うということもある。この講演はそうではない。そして言われるべきことが言われないこと自体を問題にし、批判しようとする相手がいる場で話している。しかし大切なことだから言おうと思うのだし、やはり聞きたい人がいるから彼も招かれ話しに行くのだ。
さて何が問題とされない問題なのか。「聴覚口話法」という方法がある。この方法は「補聴器の活用により残存能力を活用させ、それを前提として、聴覚障害児に音声言語の能力(聞き取りと発音)を獲得させることを目指す言語指導法」(四一ページ)である。さきに述べたように、手話への評価が少し変わってきたことにも伴いいささかの変化は見られるが、これが今まで主流の方法だ。しかし筆者はそれがうまくいかないことが多くあること、だがそのことがはっきりさせられないままになっていて、その結果さらにうまくいかないことが生じてしまうことを言う。
実際には聞こえないのに聞こえることにされている場、聞こえなければ努力が足りないとされる場にいる子どもたちの経験、そうした場を経て大人になっていく人たちの経験が描かれる。現実がこうして作られているなら、そうなってしまうだろうなと思う。それがさきに筆者が「足下にある切実な現実の問題」と述べた問題だ。引用の続きは以下。
「一言で言えば、インテグレーションの現状を直視している者には、現実から、かなり距離のある所の話であり、真に考えなければならない問題の優先順序からすると、取り組む問題の順番が何か基本的にズレているのではないかと感じられる風景でした。」(三〇ページ)
その「インテグレーション」について注では「統合教育。障害児を通常学校に「統合」し、非障害児と一緒に教育を受けさせる教育方法。聴覚障害児の場合は、聾学校に行くのではなく、聴児たちの通う通常学級で学ばせることを意味する。」(二七ページ)と説明される。この世界に独特な略し方で「インテ」と言われることもあり、そしてとくに当人たちから否定的に捉えられることがある。それと完全に同じ立場からではないにしても、著者もまた問題点を指摘する。聴覚口話法でなんとかなることにされた上で、その子は聴覚に障害のない子といっしょの「統合された環境」に置かれるのだが、なんとかならない、そしてそれに気づかないことにされている、そしてそれで困るのはその子たちだと言う。
他方、多くは身体障害や知的障害の子どもたちやその親の中に、「統合」を求め、そして認められてこなかった人たちがいる。私はその人たちの主張がもっともだと思ってきたし、それは今でも変わらない。そして、その立場を維持した上でも、著者の言うことはわかる、二つは両立しうると思う。だがそう思いながらも、この違いをどのように説明すればよいのか、その前に、ここに提起されている問題をどう考えるか、この課題がある。おもしろいとばかりは言っていられないが、おもしろい。
そして聴覚障害の人が教育を受け言葉を使っていく上での困難は、一方で日本手話を第一の言語としながら、その次の言語として日本語を習得するという「バイリンガル」という──多くの聾者の支持を受けてきている──方向をとっても完全に解消されはしない。まず、二つの大きく異なる(がそのこともよく知られているわけでない)言語を学ぶこと自体がなかなかたいへんそうだ。
教育の現場に「自然」においておけばそのうちなんとかなる(ことにする)といった態度があるが、実際にはなんともならず、それで不利益を被るのは聴覚障害の子たち、やがては大人なのだと著者は言う。それはまったくその通りだと思う。だがそうならば、つまり、たくさん勉強しなければならないということではないだろうか。実際、著者の答はそういう答だとも言える──正確に紹介しないと誤解されるだろうから、ここは読んでいただくとしよう。
ならば、いわゆる聴児に比した場合、聴覚障害の子は多く苦労しなければならないということで、そして苦労して同じだけになるのも容易でないようにも思う。となると、やはり聴覚障害の子ども・人が損をしている感じは残り、そのことに納得できない部分は残る。これは、聴覚障害の人に固有な部分もあるとともに、多数派の中にいる様々な(言語的・文化的)少数者たちがどのようにやっていったらよいのか、あるいは多数派はどのように対すればよいのかを考えることでもある。
◇ ◇ ◇
むろん著者もそのことを考えないわけがない。主には後半で展開される「障害受容」でなく「障害認識」をという提起がこの問いへの筆者の応じ方である。
聴覚障害者に限らず、障害受容という言葉にむっとくる障害者はとても多いのだが、そのことも知らない人もまた多い。あるいは、こうした否定こそ障害が受容できていないことだと言ってしまう。そう言われる相手は、そのように言いくるめられてしまう言葉としてのこの言葉が不快であるというのに、である。
著者はこの言葉が機能するメカニズム、言われる当人が納得できない理由を第八章「障害「受容」から障害「認識」へ」で解析する──この章は『紀要』の論文がもとになっている。さらに、一方で「障害受容」を言いながら、他方で聴覚口話法を教えることがダブル・バインドを引き起こすことを述べている。病者や障害者に関わる仕事をしているなら、そんなことを毎日しているかも、と思わない人は少ないはずだ。
そのことを確認した上で著者は、「障害認識」を対置させる。つまり先に私が述べた、「結局たくさん勉強しろってことかい」という疑問に「障害を受容しなさい(それに関わる不利についてはがまんしなさい)」というのでない障害の捉え方、認識をもつことが必要なのだと答える。その中味は本に書いてある。私は基本的にそれに異論がない。「認識すれば(認識を変えれば)それでよいのか」と言う人もいるかもしれないが、それに対しては「そんなことは誰も言っていない」とまず答えられる。その上で、見方を変えることの大切さはそれはそれとして確実にあると言えるはずだ。たださらにその上でなお考えることがあると思う。こうしてこの本は現に存在する(があまり詰められることのない)課題を私たちに示していく。
◇ ◇ ◇
筆者は『現代思想』二〇〇三年一一月号(青土社、税込一三〇〇円、特集:争点としての生命)にも「医療の論理、言語の論理──聴覚障害児にとってのベネフィットとは何か」という論文を書いている。この論文もこの特集も紹介しようと思ったが紙数が尽きた。私も書いていて、その分は手前味噌だが、この特集号はお勧めです。(初出●『看護教育』二〇〇三年一二月号、発行・医学書院)
■立岩真也
◎立命館大学大学院先端総合学術研究科助教授
たていわ・しんや
一九六〇年、佐渡島に生まれる
一九九〇年東京大学大学院社会学研究科
博士課程修了
立命館大学大学院先端総合学術研究科助教授。
専攻、社会学
●著書
『自由の平等──簡単で別な姿の世界』(岩波書店、二〇〇四年一月)
『弱くある自由へ──自己決定・介護・生死の技術──』(青土社、二〇〇〇年一〇月)
『私的所有論』(勁草書房、一九九七年九月)
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