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[ながおかの意見]再販論議、『フォーカス』事件、「民衆扇動罪」に連なる課題
「言論・出版・表現・流通の自由」って?

長岡義幸
[1997-12-10]

文●長岡義幸
ながおか・よしゆき●一九六二年、福島県生まれ。フリーランス記者。主な取材テーマは出版流通、言論・出版・表現・流通の自由、子どもの人権、労働者協同組合など。
著書に『物語のある本屋』(共著、アルメディア刊)。
本稿に対するご意見・ご感想などがありましたら、こちらまで、お寄せ下さい。


 出版労連傘下の東京出版合同労組が主催した「再販制廃止で中小出版は生き残れるのか」という集会に出かけてみた。“出版物の再販制(「定価」販売制度)がなくなれば中小出版社は生き残れない”という主張を言外に含んだ集会である。ただ、労働組合の主催する会合でありながら、労働者の立場で再販制を論じようというよりも、経営環境を踏まえつつ、中小出版社の経営者と労働者とが連携しようという目的を掲げていたのが“異色”といえば異色だった。参加者一〇〇余人中かなりの数の経営者も参加していたから、所期の目的は達成されたということだろうか。パネリストは清水英夫氏(政府規制研委員)、矢野恵二氏(青弓社代表)、小島清孝氏(東京堂書店)、相田利雄氏(法政大学教授)という顔ぶれになっていた。
 なかでも法政大学の相田氏は、再販制そのものについて論評するのではなく、再販制を素材にして労働者と経営者がどう手を携えていくべきかを語っていたのが印象的だった。 中小企業の労使関係を「経済民主主義運動」として捉えるならば、中小出版社の未来も切り開かれる。そのためには地域、産業、政府・自治体を基礎にした政策レベルでの連携を求めなければならない。「地域民主化」「産業民主化」「政府・自治体の民主化」である。中小企業の経営者は多様な出版の一翼を担っている点を配慮し、協力的な労使関係によって職場の民主化を達成すべきだ——。要約すればこんな話をした。
 理念的には素晴らしいことを話していたのだろう。けれども、労使関係が不安定な職場で経営者と対峙している労働組合、あるいは労組もなく、経営者の専横がまかり通る職場におかれている労働者にとって、この話がどれほどのリアリティがあるのだろうか? かつて「中小企業味方論」のような言説があったようだが、どうも再販制にかこつけた「敵の敵は味方論」のように聞こえてしまったというのが正直なところだ。
 というか、労働組合が経営者(団体)とともに再販制廃止反対運動に取り組み、共同戦線を張ることを「労働運動」的な物言いで一般化し、理屈づけしようとするようで違和感を感じたと言った方がいいかもしれない(あとで主催者に疑問をぶつけると、相田氏の発言は予期しない内容だったとのことだが)。
 相田氏の意図はどうあれ、再販制擁護運動は「産業民主化」運動ではなく、「産業保護」運動である。相田氏流の言葉を借りれば、再販制こそが「経済民主化」に逆行するという視点に立つ必要もあるのではないか。
 そいうった観点からもぼくは再販制に懐疑的な意見をこのコラムのなかで縷々述べてきたつもりだけれども、相田氏のような言説を耳にすると、どうも大きなズレがあるように感じざるを得なかった。


憲法が保障する再販制!?

 ここまでは前置きだ。実はこの集会でぼくがもっとも“期待”したのは、弁護士であり憲法学者である清水英夫氏がどんな論理でもって再販制を擁護するかだった。
 清水氏といえば、出版業界にかかわりのある人なら知らない人はいないはずだ。青山学院大学教授、神奈川大学教授を歴任し、また出版学会という任意団体の会長を務めたりして、言論・出版の自由について活発な発言をしてきた出版界の“重鎮”だ。「刑法一七五条にも真っ向から切り込んでいくラジカルな表現の自由論者」と評する人もいる。業界内では、いま現在も「自主規制」団体である出版倫理協議会の議長という“汚れ役”も引き受ける立場だ。一般には映倫管理委員長の肩書きの方がよく知られているだろう。
 その清水氏が再販制の是非を話し合っている公正取引委員会の「再販問題を検討するための政府規制等と競争政策に関する研究会(再販規制研)」の委員にこの四月、就任した。「規制研のメンバーは再販制廃止をもくろむ経済学者ばかりだ」という、出版業界や新聞業界の“批判”に応えるかたちで、公取委が新たに選任した委員のひとりだ(ほかに文芸評論家の江藤淳氏、経済ジャーナリストの内橋克人氏らが委員に加わった)。
 業界が清水氏に期待したのは再販論議を憲法問題に“昇華”させ、経済的観点からの再販廃止論を退けようとする意図があるのは明らかだ。であれば、その役目を負っている清水氏がいかなる“弁護”論を展開するのか、ぼくにとっても大いに興味がそそられるテーマだったのだ。
 清水氏の論理を当日集会で配られたレジメから以下要約してみる。
 再販制を論議するにあたっては経済法(独禁法)や経済政策的視点だけでなく、(1)憲法論的視点、(2)文化論的視点、(3)ジャーナリズム論的視点、が重要であり不可欠である。
 ○憲法的視点
 出版物の編集・発行の自由は読者の手に届く自由(流通過程の自由)も含まれる。
 出版の自由には公権力からの自由の保障にとどまらず、一定の保護・育成政策も必要である。再販制度を認めたのもそのひとつ。
 憲法的には本来合法的な制度(言論・出版の自由のために許された制度)である。
 再販制度は慣習法として確立されている。法律論的には独禁法の法定再販はその確認にすぎない。
 再販制が必要でないとする立証責任は公権力の側にある。
 契約の自由は近代法の大原則であるが、その自由に対して規制を行うのが独禁法などの経済法である。再販制度の廃止は独禁法的規制の緩和なのであり、したがってそれを廃止しようとするのは公的規制の強化にほかならない。
 ○文化論的視点
 本は長い歴史を持つ精神文化の中核であり、一般的な消費財とは本質を異にする存在。著作物に法的な特例を設けるかどうかは、経済政策よりも文化政策の問題である。
 世の中には市場の原理になじまず、なじませてはならない分野や“商品”があることを認める必要がある。
 ○ジャーナリズム論的視点
 新聞その他の出版物は、価格競争的見地を優先させるべきではなく、思想・意見の多様性と少数意見の尊重、質的競争、情報の公平な享受を基本とすべきである。
 販売・流通過程に対しても公的規制は可能な限り控えられなければならない。
 ○その他の問題点
 公取委の研究会は、少なくとも報道機関の傍聴取材は認められるべきである。
 ——だいたいこんなところだ。
 この間、業界団体が主張してきたことを整理しただけという印象は拭えない。ただ、再販制が新聞・出版産業の「保護・育成政策」によるものだと言い切り、憲法が認めた制度だと主張する文章ははじめて目にした。一九五三年、独禁法に著作物の再販制が導入される過程で、どのような意図のもと“例外”規定が設けられたのかを示す資料は、現時点では“発見”されていない。学者たる清水氏には決定的な証拠を“発掘”していただき、憲法上許される制度であることを自ら立証してほしいところだ。
 また市場原理に「なじませてはならない」商品があるとする考えには少々驚いた。自費出版物や政府・自治体・公益団体の刊行物なら採算を度外視することもあるだろう。しかし、市場に投入された出版物はそうはいかないのではないか。たとえ版元がそのつもりで出版したとしても、取次・書店は売れるか売れないかの判断を下し、扱うか扱わないかを決めるはずだ(もちろん売れる売れないの基準は小売店によってまちまちだろう。しかし、数日で見切りをつけるのか二年三年かかっても売ろうとするかの違いであって、売れない商品が最終的に市場から消えるのは経済活動なのだから当然のことだ)。そのうえ、市場原理になじまない商品が市場に存在すること自体、論理矛盾ではないか。
 出版市場に市場原理以外の意図が介在することの方がよほど言論・出版の自由にとって危険なことだと思った。


「問題」とはいったい何なのか?

 さらに、具体的発言を紹介してみる。というより、レジメより転記した三つの視点なるものは「これを読んでもらえればわかる」として詳細な説明を省き、口頭で流通問題に触れたかたちだった。彼にとっての“主題”はレジメに書いたことなのか、会場で発言したことなのか、それは会場にいた者としては判断に苦しむのだけれど……。
 「もし仮に再販制が廃止された場合どうなるか。出版業界全体としていっそう寡占化が進むだろう。再販制度下でも取次は独禁法上の寡占状態にあるのだから、再販がなくなれば競争政策上いっそう進む。いまある寡占に対してどう取り組んでいくかという問題だ」
 「書店もいま大きい書店の市場支配が進んでいる。再販がなくなれば書店も寡占化が進むだろう。そのことは子どもでもわかることだ。寡占の状況を修正すべき役割を持つ公取委が再販制をなくそうとするのもいかがなことかと思う」
 「出版の多様性は中小出版社が支えてきた。再販がなくなれば中小出版社は衰退する」
 清水氏は再販制がなくなると、取次がいっそう強大になり、書店・出版社も大手主導になると考えているということのようだ。
 「消費者・読者の立場も論議されなければならないが、著作者の立場も考えなければならない。無名の作家・学者が出版のチャンスを奪われることになるだろう」
 文藝家協会の理事長を務める江藤淳氏は、再販制がなくなると印税率が不安定になり、作家の生活権を奪うと主張している。清水氏の主張もその延長線上のものらしい。
 「しかし現状でいいとは思っていない。問題もある。が、再販を撤廃したからそれがなくなるという問題ではない。そんなことは少しでも出版に携わったことのある人間ならわかることだ」
 ただし、清水氏の考える「問題」とはいかなるものなのかは具体的には明らかにされなかった。出版流通の現状を出版の自由の観点からのみ検討したとしても、いくらでも問題点を指摘できると思うし、本来、業界の利害にとらわれることのないはずの学者たる清水氏ならばその役割を期待されてもおかしくはない。しかし、やはりそうではなかった。
 むしろ、集会全体では流通寡占、端的にいうと「取次支配」を追及しようという問題意識があったにもかかわらず、清水氏は再販制がなくなれば流通寡占が強まるという一般論を提示して、現状に対する指摘を避けたようにも受け取れた。


牽強附会の印象は免れない

 他の論点についてもいくつかコメントしておく。
 再販制を文化政策・憲法(言論の自由)とからめるのはナンセンスではないだろうか。保護政策が必要だというが、それがなぜ再販制でなければならないのかということがぼくにはさっぱりわからなかった。日本には図書館が少ないから再販のないアメリカとは違うといいながら、ではなぜ日本の図書館を充実すべきだと主張をしないのかも疑問だ。いま業界が“共闘”している(頼りにしている)文部省・文化庁に図書館の予算を増やせと要求する方がよほど出版業界の「保護」につながるのではないかと思ったのだが。
 再販制の廃止が公的規制の強化という主張もいただけない。再販制のもとで民間“権力”による規制が行われているということはないのだろうか? 国家権力の介入と民間“権力”の介在を比較考量した結果、民間によるコントロールを甘受するという主張なら理屈としては成り立つが、そういった趣旨でもなさそうだ。
 新聞や雑誌が再販制にかかわる情報を正しく伝えているのかは大いに疑問だ。清水氏は「思想・意見の多様性」を保障するために再販制が必要というのだから、再販制に否定的言論がほとんど紹介されない現状について憲法学者としてどう思っているのかも知りたかった。けれども、それにはまったく触れなかった。
 規制研を公開せよという主張には大賛成だ。けれども、それを取材した新聞記者が“事実”を歪めて報道する虞は払拭できない。報道の自由というにはあまりにも手前勝手にすぎる現状について、テレビ朝日の椿発言問題で“活躍”した清水氏なら一言あってもいいはずだ。ぼくは再販制があるがために報道・言論の自由が制約されているという見方もできると思っているのだが、いかがなものだろうか?
 清水氏は「憲法学者」だから経済法にもとづく議論に乗れないのは当然といえば当然だけれども、彼の専門であるはずの憲法認識でさえどうもご都合主義のにおいを感じてしまう。その意味で大きく“期待”を外されてしまったという気分だけが残ってしまった。


清水氏にまつわる個人的な体験

 ところで、なぜぼくがこうも清水氏の発言にこだわるのか読者には不可解に思う人もいるかもしれない。実は清水氏にかかわるぼく自身の体験ゆえなのだ。それも、言論の自由と無縁の出来事ではなかった。
 ぼくが出版業界紙『新文化』に籍を置いていたとき、「有害」コミック規制問題が起きた。政府や行政、民間団体がこぞって性描写を含むコミックス(コミック単行本)の販売規制(出版規制)を求めた事件だ。
 ちょうど業界四団体(日本書籍出版協会、日本雑誌協会、日本出版取次協会、日本書店商業組合連合会)で構成する出版倫理協議会(出倫協)の議長に清水氏が就任した時期にあたり、清水氏らはコミックスの販売自粛策(「成人コミックマーク」制度の施行など)を提案し、実行に移していった。ところがこれらの申し合わせが裏目に出て、逆に各自治体の青少年条例による「有害」図書指定を誘発してしまった。このとき、出倫協の会合で清水氏は「成年コミックマークの表示は性急だった」などと反省の弁を語り、さらには行政から要求されて新たな自粛策を検討するといった動きにつながっていった。
 ぼくは「自主規制」といえども、言論・出版の自由にかかわる重大な取り決めが(一部の委員によって)行われつつあることに危機感と違和感を持っていたから、出倫協の動きを極力、報道するようにした。それも出倫協の会合自体は非公開なので、事情をよく知る関係者に詳しく話を聞くことでようやく記事にできるといったことが続いた(状況や立場はまったく違うし、こんな言い方はしたくもないが、もしかすると規制研で奮闘しているいまの清水氏の“使命感”と共通するところがぼくにもあったのかもしれない)。
 ところがある日、取材に応じてくれていたひとりから「今後は出倫協で誰が何を言ったかは話せない」と申し渡された。聞けば清水氏が、会議の席上、出倫協で何が議論されているか、取材者に対して途中経過を話さないよう関係者に求めたということだった。事実上の箝口令だ。しかも清水氏が問題にしたのはぼくが書いた彼の発言そのものの記事だったという。もちろんぼくは「問題発言」だと思ったからきちんと報じた部分だったから(情報提供者も同じように思ったからぼくに話してくれたのだろう)、彼にとっては不都合極まる記事だったのかもしれない。
 しかし、日ごろ報道の自由が大事だ、言論の自由を守れといっている人物が、自身にかかわる報道は“排斥”しようとしたというのだから奇異な出来事ではあった。
 清水氏はいま規制研の論議を公開すべきと主張しているが、その意味でもかつての彼の対応はなんだったのか、もう一度振り返ってほしいと強く思うのだ。
 もうひとつ清水氏に対する不信感を強めた体験がある。『新文化』の記者としてはじめて清水氏にあいさつしたときだ。開口一番、彼は「私は新文化の取材を受けないことにしている。原稿も書かない」というのだ。「昔不愉快な記事を書かれたので、つきあいをやめた」のが理由だという。
 ぼくにはさっぱり事情がわからないので「そうなんですか」と応じるしかなかったが、帰社してからぼくが入社するずっと以前に掲載された問題の記事を探してみたところ、書店経営者が書いた清水氏の本の評論のことだった。清水氏のスタンスに対する批判が込められてはいたが、ぼくにはまっとうな“批評”として読むことができた。ところが清水氏はそれを載せた『新文化』が問題だといっていたわけだったのだ。
 名誉毀損なら論外だが、批評や評論は言論活動のひとつには違いない。それに対して清水氏が不快に思うことがあるのは仕方がないし、取材に応じる応じないも個人の立場なら自由だ。けれども清水氏は憲法を専門にするうえ、業界内においてはいわば“公職者”的な立場にある人物だ。その“公職”にかかわる取材にも媒体を選んで応じないという態度には、大いに違和感を覚えてしまった。
 ぼくが清水氏の姿勢にこだわるのは、日ごろの言論を行動でも一致させてほしいということなのだが、わかっていただけただろうか。


『フォーカス』の人権侵害と「アウシュビッツの嘘」

 言論の自由とは生半可な心構えで維持・発展できるものではない。確固たる信念と行動を要求される過酷な“思想”であるのだと思う。そのいい例が神戸・小学生殺害事件の容疑者の顔写真を載せた『フォーカス』『週刊新潮』の販売自粛をめぐる一連の騒動だったのではないだろうか。
 様々な報道がなされたのであらためて経過は振り返らないが、この事件のもとで考えさせられたのはやはり言論の自由の内実だった。最大の問題は表現の自由と人権が対立した場面でそれをどう調和させるかということだ。あるいはどちらを優先させるかということでもあるだろう。ただし、売る売らないのどちらが“正しい”対応だったかは簡単に結論づけられるものではないが、少なくとも判断の過程そのものが新潮二誌の事件では重要だったことは確かだろう。
 とすると、書店やキヨスク、コンビニエンスストアなどの小売店による販売自粛が急速に広がったのは、出版の自由よりも人権(少年法)を尊重するという立場のもとで各々が自律的に対応したということになるかもしれない。けれども実態は、取次がいっせいに取引店に「少年の顔写真が載っているが、扱いをどうするか」と問い合わせたことが「自主規制」につながったというのが正解だろう。ぼくが取材した限り、販売を自粛したほとんどの小売関係者は判で押したように「少年法上問題があると判断した」と説明したが、結局、付和雷同にすぎなかったという印象は拭えなかった。
 それに残念ながら、販売現場が徹底的な議論を重ねて売る売らないを決めたところは皆無に等しかったようだ(なかには全従業員が話し合って不扱いを決めたという書店の話も聞いてはいるが)。販売の自由がどうの、流通の自由がこうのといっても、実はこの程度のしろものでしかなかったことをあらためて突きつけられた思いがしたものだ[*1]
 もうひとつ、言論の自由をめぐって「良識」を疑いたくなる事件が起きている。
 『アウシュビッツの争点』(リベルタ出版)というナチスによるホロコーストの事実関係(とりわけガス室の有無)に疑問を呈した本を書いた木村愛二さんに対して、梶村太一郎氏と金子マーティン氏なる人物が『週刊金曜日』誌上で「ほぼパラノイアに近い」「デマゴギーの典型」(梶村)、「墓場から蘇ったような『ゾンビ』」「恥知ず」(金子)などと人格攻撃ともいえる口汚い罵倒を浴びせかけた。それに対して木村さんは、この両氏と『金曜日』の代表者である本多勝一氏を名誉毀損で訴えた。ガス室が事実かどうかは論議があるが、しかし人格を落とし込める物言いに対しては当然の対抗措置だ。
 ところが梶村氏は、なんと木村さんをドイツ検察当局に対して「民衆扇動罪」で告発した。しかも本多氏もふたりの声明文に名を連ねてるのだ。「歴史改竄主義者」が名誉棄損で提訴すること自体が「ドイツ刑法に違反する」とし、そのうえ訴えを取り上げた日本の法務省と外務省をも同様にドイツ検察に告発するつもりだと宣言した。もちろん『アウシュビッツの争点』という出版物そのものが違法な書物だとしている[*2]
 自由な言論の場として創刊されたはずのまさにその『週刊金曜日』を舞台に、特定の個人の人格を攻撃する名誉毀損的な文章が掲載され、それに異議を唱えればドイツ刑法を持ち出して威嚇するというまったく倒錯した状況が現出している。いってみれば、自らの言論は正当なものであり、他者の言論は違法なものだという論理構成だ。あるいはもしやドイツ刑法でもって日本の憲法を蹂躙するという意図が彼らにはあるのだろうか[*3]
 その先にあるのは明らかに自由にものが言えない“暗黒”だ。その尖兵が『週刊金曜日』だとしたらたまったものじゃない。


“権威”に頼って自滅する言論の自由

 ——再販制、新潮二誌事件、民衆扇動罪。直接にはかかわりがないけれども、いずれも言論・出版・表現・流通の自由そのものに連なる重要な問題だ。
 人権の大切な構成要素であるこれらの自由は、「善意」や「良識」によって守られているのは間違いない。けれども、残念なことに「善意」や「良心」、ときには歪められた解釈、さらには「悪意」によって言論の自由の発展が妨げられることもあるということだ。しかもそういった言説が「保守」でも「反動」でもなく、「リベラル」あるいは「市民」(「左翼」も加えておこう)に近い陣営から発せられていることには注意を払わざるを得ないところだ(もちろんぼくも「国民」ではなく「民衆」のひとりだと思っているけれど)。
 一つひとつの事象に目を凝らし、“権威”に頼ることなく、各々が自律的判断をしていかなければ、最後に泣きを見るのは私たち自身ということになってしまいかねない“雰囲気”がいま広がりつつある。

 

[*1] 図書館の対応についても付言しなければならないと思うが、結果的に閉架扱いにしたところがほとんどだったものの、それでも「図書館の自由に関する宣言」という“指標”が効力を発したといってもいいのではないだろうか。出版業界が掲げる言論・出版・表現・流通の自由の“理念”よりは内実が伴っているように見えるからだ。
 しかし、たとえば富山県立図書館の場合、納入業者たる書店が販売自粛したために当該誌の入手ができなくなったと説明していた。それでも書店には納入するように求めたというが、結局いってみただけという程度のことでしかなかったようだ。もし自由宣言にあくまでも則るというのなら、納入業者以外の書店で入手する努力を重ねることも可能なはずだがそれはやっていない。
 「天皇図録」で一度原則を捨てた図書館だから、他の場面でも後退するのは当然といえばいえるのだろうけれども、そんな図書館ばかりになってしまったらますます利用者(読者)の権利は奪われていくだろう。

[*2] 『法学セミナー』一九九七年一〇月号「『アウシュビッツの嘘』に対する各国の刑事立法について」(楠本孝著)によると、「民衆扇動罪」は「政治的雰囲気の有害化を防止」するために、一九九四年、ドイツ刑法一三〇条第三項として新設されたもので、「公然と又は集会において、公共の平穏を害するのに適した方法により、ナチスの支配下に行われた刑法二二〇条a(民族謀殺)一項において規定する態様の行為を、是認し、事実でないと否定し、矮小化した者は、五年以下の自由刑又は罰金刑に処す」と規定している。ドイツ憲法では意見表明の自由に対して「自由で民主的な基本秩序に敵対する濫用」を認めないとしているのが「民衆扇動罪」の裏付けになってもいるという(一八条)。
 差別に反対する運動の一部にはドイツ刑法を見習おうとする人々もいるようだ。最近では「自由主義史観」なる俗説に対抗することを企図する趣旨で、評論家の加藤周一氏が「南京大虐殺がなかったというようなことは、国家が介入してそういう言論を統制してもよいのではないかと私は思っています」(『教科書裁判ニュース』三四五号、九七年一月二〇日)と発言している。
 木村愛二さんをドイツ・ベルリン州地方裁判所内国家検察局に「民衆扇動罪」で告発した梶村太一郎氏は九月九日、金子マーティン氏とともに記者会見を行った。席上、経緯と主張を記した「声明文」(梶村、金子両氏と本多勝一氏の連名。本多氏が筆頭)を発表した。以下は声明の抜粋。

5.日本国における歴史的事実の否定・矮小化や、あからさまな人種差別主義的言論を規制する法的手段がいっさい欠如しており、反対に被告らの著作活動によって犠牲者等の名誉と尊厳を護ることが逆に迫害を蒙るような倒錯した社会的現実がある。その典型的例がこの訴訟(引用者注・木村さんによる名誉毀損の訴えのこと)であると梶村・金子両被告は認識している。したがって、国際通念に即した法制度を日本でも整え、ジェノサイド条約(集団殺害罪の防止および処罰に関する条約)を緊急に批准すべきであると提案する。
6.株式会社金曜日の代表取締役である本多は以下のように考えている。周辺諸国を侵略した点でドイツと同じでありながら、日本が国際社会で孤立し、軽蔑されている理由は、ドイツと決定的に違って、過去の侵略を直視して謝罪しないからだ。ドイツの民衆扇動罪は、他国への人種差別ばかりか、国内でも広く適用される(いま『週刊金曜日』に連載中の本多のドイツルポ参照)。前項5.のような「愛国的」法制度の実現によって今後の国際社会で尊敬される日本をめざしたい。たとえば南京大虐殺を否定するようなマスコミや国会議員も刑事犯になるだろう。真の「国際化」とは、こういうことだ。

 記者会見には木村さんも取材者として出席し、ビデオを撮影している。彼らの典型的主張として大要「日本では天皇を殺せ、処刑しろという言論が通らないように、ドイツではガス室がなかったという言論は通らない」(金子氏)、「インターネットのハードポルノも取り締まられるのは当然」「ネオナチとはナチスの犯罪を過小評価する学者、研究者を含むものである」(梶村氏)などと発言していた。
 記者会見では、取材していた『エルサレム・ポスト』紙の記者が、質問者の木村さんに対して「あなたはバカです。サンキュー」などと罵声をぶつける場面もあった。

[*3] 余談だが、再販擁護論者もドイツでは文化政策として著作物の「定価」が認められていると主張することがある。両者の心性は変わらないということだろうか?
 ただしぼく自身も、第一条の存在を筆頭に日本国憲法が絶対のものだとは思っていないし、その意味では“改憲論者”だけれども。

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