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●委託座談会の後に私の区(練馬)でもとうとう委託の話がでてしまった。実施はまだ先だが区の上層部はきわめて強い意欲を見せている。
いつかは来ると思いつつも、自分の所になってみると衝撃は抑えきれない。たかぶる気持ちを鎮めつつ、座談会の成果を活かせるよう冷静に考えた結果は、委託に対する対案づくりだった。委託を問題とする時、そこで真に問われるのは、委託という手法の是非ではなく、図書館とそのあり方ではないのだろうか。図書館像なき委託論争は、座談会でも語られたとおり不毛なだけだと思う。
労働組合の役員として、委託に反対しつつ、図書館改革案を考える日々である。職員(常勤ばかりでなく非常勤も含めて)の既得権を守るためではなく、新しい世紀に図書館が生き残って行けるために。
まさに今が正念場なのかもしれない。(小形)
●はじめまして。「ず・ぼん編集委員」に仲間入りさせていただいた新参者です。
本を借りるための場所としてではなく、本を読むため、何か作業をするための場所として、よく図書館を利用していました。ここ最近は、図書館の開館時間と自分の生活が合わず、ファミレスや喫茶店を利用することが多かったように思います。そして、それらとは場の持つ意味(機能)が違うことは、重々承知しながら、「もっと頑張ってよ」と図書館を責めていました。
編集作業を通して、今度図書館に行ったら、本来の意味に立ち返り「ゆっくり書棚を眺めてみよう」と思いました。当たり前のことを忘れていました。(木村)
●一生、図書館と関わりをもたずに過ごす人も多い。図書館を使おうが使うまいが、それは個人の自由。それはそれでいい。しかし、最低限、図書館を使おうとする人、今、使っている人がいて、その人とどのように関わるかが面白くてしょうがない。理論をこねくりまわして自分を正当化することをよくやるが、現場で利用者と関わり、それぞれの人の表情に一喜一憂する日々は、理論ではなく現場の実態であり、うそがつけない。
きれいごとと笑われても、図書館員にはそれしか真実はない。現場を知らない都立図書館幹部が都民のため、図書館の発展のためというのがちゃんちゃらおかしくて!
『都立中央までいけないお年寄りの顔を見たことがあるのか!!!』
まさに「貸し渋り」が正当化される都立図書館行政。都民格差は確実に拡がっている。(斎藤)
●最近、あらためてその面白さを知った事柄がある。一つは数学。もう一つが本を読むこと。数学は、高校生向けの教材の編集作業をしているのが、その原稿の中に出てくる問題を解くのが、自分でも不思議なくらい楽しい。高校生のときまで「こんなものを解いて何の役に立つんだ」と思っていたけど、ずいぶん大人になった今、考えること自体が面白い。忘れていることがいっぱいあって、解説とか読まないと解けないのだけど、それも面倒ではないし、理解力が増したのか読めばわかる。学生のときはどうしてあんなに訳がわからなかったのだろう。それも不思議。
もう一つの読書。こっちのほうは子どもの頃からわりと好きだった。でも、最近、本を読んで、その世界に入り込んでいる時間がとても貴重なものになっている。知人(無類の本好き)が「病んでいない人には、本なんて必要ない」と言ったことがある。私も病んできたということかしら。今日も、本の続きを読むのが楽しみ。(佐藤)
●図書館で働いている編集委員の多くは地方公務員だ。で、仕事が終わってから深夜までこの『ず・ぼん』の制作にかかわってくれている。金銭はほとんど支払っていない。大昔によく耳にした「品質向上運動」や「生産性向上」を自主的にやってるようなもんだ。それも、経営者=市長に気に入られようとかじゃなくて、同僚や利用者や自分自身の気持ちの良さのための活動なんだと思う。大昔に流行ったそうした「QC・ZD」運動なんかとは違うぞ、と彼らは思ってるんだろう(どっちかって言うと「反体制派」な人たちだし)。でも、大昔にトヨタとかで「QC・ZD」運動をやってた工員さんたちのなかで、イヤイヤじゃなく取り組んでた人たちって、やっぱり上司たちに気に入られてやってたんじゃなくて、仕事が面白くなっちゃった人たちじゃないんだろうか。仕事って、そうした面を持ってるんだと思う。自分以外の人に喜んでもらえることって快感なんだと思う。図書館が委託されるってことをどう考えるのか?
その時に、そうした仕事の面白さを出発点にして考える、そういう視点が必要なんじゃないかな。(沢辺)
●都立図書館の区市町村立図書館への「貸し渋り」が更に露骨になっている。昨年九月から、(1)新刊和図書は、刊行月の翌月から約二カ月間、(2)一冊一〇万円以上の高価本(従来は三〇万円以上)、(3)昭和二五年以前に刊行された資料、(4)山本有三文庫資料、については、全て協力貸し出しの対象外とされてしまった。
また、都立図書館に一点しかない雑誌は、協力貸し出しをしない(雑誌の協力貸し出しがなくなるのは時間の問題)、という方針がこれまた一方的に決められた。
更に二〇〇四年度からは、(1)協力貸出業務と協力車の運行を民間委託にする(区市町村立図書館からの購入希望は、「資料選定の際の参考資料」として受け付け、その結果について回答はしないというグリコもびっくりのオマケ付き)、(2)協力貸出期間を現行の四五日間から三五日間に短縮する、などの方針が明らかにされた。
理由を問えば、「直接来館者へのサービス」という都立図書館の本来の役割を転倒させた答えを繰り返すのみ。「紛失時のトラブル」「劣化対策」なども挙げられてはいるが、既に永年保存を放棄し、現有書庫限りの保存にした以上、説得力はゼロである。都立図書館が協力貸出事業から撤退しようとしていることは、もはや誰の眼にも明らかであろう。(手嶋)
●二〇〇四年一月、自衛隊という名の日本軍は遠いイラクに派兵された。その昔、一九一八年八月、大日本帝国陸軍は遠いシベリアに派兵された。二カ月後、日本図書館協会は、『図書館雑誌』(第三十六号、一九一八年一〇月)に、「出征軍隊尋問の為め図書館雑誌の寄付募集——特に日本図書館協会員諸君に懇請す——」という記事を掲載する。
「本協会は目下朔北の野に在て骨に徹する寒気と物資の欠乏とに困みつゝある我が帝国出征軍人の労苦慰めんが為に政府当局と交渉」新古の図書若くは雑誌を弘く有志より集めて之を戦地に送り普く各地に散在する各営軍人の閲読に供せんと欲す冀くは会員諸君奮つて此挙を賛助あらんことを」。
この運動は、第一次世界大戦時の米国図書館協会の活動を真似たものであった。
「ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、かれはつけくわえるのをわすれたのだ。」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』伊藤新一、北条六一訳、岩波文庫)(東條)
●年末の二八日に図書館を閉めてから、近年は妻とJRのホテル付き格安切符で京都・奈良を一泊旅行している。少し前は子供も連れて軽い雪山に行っていたし、その前は大掃除のノルマを背に一人で縦走にも出かけていた。何の企画もないまま年末に入った時、妻が提案したプランがこれだ。子供達は家に寄り付かないか、部屋にこもったきりだ。各駅の「こだま」で京都に行き、社寺を回り夜は烏丸御池のその名も「おばんざい」という自然食バイキングを食べて投宿。ホテルの朝食は選べて楽しいし、まったく不案内なまま「どこに行きたい」と言えば同行者が調べてくれ、楽チンである。昨年の晦日三〇日の晩は街外れの北野天満宮まで、息子の高校入試のお礼参りをした。真っ暗なバス停で待ち、自転車で銭湯に向かう若者をながめ、「金があったら地方都市で学生をやりたかったなあ」とせんもないことを思った。翌日は奈良。午後には雨になり、法隆寺裏手の土壁の道を抜けて法輪寺へ向かった。薄墨色の空の下、何もない畑の向こうに五重塔が見えてきてなかなか良かった。近鉄線の小駅で関東者の僕には珍しい形の注連飾りを買い、京都駅地下で、図書館のカウンターに置く正月飾りを求めた。(堀)
●複本への批判、貸与権の提案、委託化の拡大など図書館を巡る話題も尽きることは無い。さらに、「ビジネス支援」などという新しいモデルの図書館も話題になっている。図書館がどこまで・どんなサービスをすればいいのか、できるのか、なかなか微妙なところでもある。図書館を取り巻く条件も変われば、その存在の仕方も変わるのは当然だが、どう変われるのかはなかなか見えてこないので、「色々やってみよう」と言うしかない。それぞれの立場での言い分はあるから、大いに議論すればいい。それぞれの理想と利害を賭けて。
そうした状況から一番遠いかも知れない学校図書館。そこでの生活も先が見えてきた私としては一花咲かせたいが、さて「できるかな?」(真々田)
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