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再録:本屋とコンピュータ
http://www.jimbunshoin.co.jp/

福嶋 聡
[2004-04-20]

文●福嶋聡(ジュンク堂書店池袋本店)


●再録にあたって
▼福嶋聡さんが人文書院のサイトで連載中のコラム。一九九九年以来、二〇〇四年二月の更新で三五回を数え、なお続行中。
▼福嶋さんは初回に書いている。

……コンピュータの導入(いわゆるSA化)、電子情報の利用が書店現場をいかに変えたか/どのように変わるべきなのだろうか、というテーマに特化して議論を進めたい。その時肝に銘じておきたいのは、決して大所高所から論じたりはしない、ということだ。一書店人として、あくまで現場の目線から、現場で起きていることを精確に観察することから始めたい。流行り(かけ?)の言葉でいえば、「内部観察」に留まり続けたい。……

▼内容は、当初のテーマからは自由にふくらんでいるが、<一書店人としての、現場の目線>のプライド、ねばり強さが魅力。書店人=販売員とは何か、という自省は図書館員にも大いに刺激的。[堀 渡]



本屋とコンピュータ(二五)

二〇〇二年一二月


 いま、図書館問題が、熱い。ただし、その熱さは、どちらかというと建設的でない議論によるものである。本が売れない、作家が食えない。図書館が無料で本の貸し出しをしていることも、その一因ではないか。日本書籍協会や日本文芸家協会は、そう疑っている。図書館は図書館で、資料費の削減や司書数の不足など、総じていえば予算不足をかこつ。

 一一月二〇日(水)に、東京国際フォーラムで行われた第四回図書館総合展のフォーラムの一つ、「どうする?作家・図書館・公貸権」を聴講した。パネリストは、作家三田誠広氏と図書館職員二名であった。三田氏は、図書館が著作者の権利を制限することによって成り立っていることを指摘、作家の窮状を訴え、諸外国の例にならって「公共貸与権」の重視のもと、具体的な作家への保障を求める。図書館側の人たちは、争点となっている「複本」(予約者数の多いベストセラーを何冊も買い込むこと)も指摘されるほど多いわけではなく、自分たちは限られた、しかも削減されつつある予算の中で必死に頑張っている、と主張する。
 どちらの言い分も、もっともである。双方とももっともだから、最後には「お互いいがみあっている場合ではない。作家も図書館も連帯して、国から予算をぶんどろう。」、表現が荒っぽすぎるかもしれないが、つまるところこういう結論になる。(「論座」二〇〇二年一二月号に三田氏の論文が、二〇〇三年一月号に図書館司書の前田章夫氏の反論が掲載されている。そちらを参照していただければ、問題の所在と議論の構造は大体把握できる。)
 ところが、現実には国も自治体も台所事情は火の車である。経済状況も相変らず悪い。だとすれば、先の結論は余り生産性を期待できるものではない。
 明らかに読者の視点が欠落している。あるいは、利用者の視点が。
 読者や利用者のことを忘却しているわけではない。欠落しているのはその視点なのである。だからこそ議論が、「図書館で本を借りることができなかった利用者がその本を買うか?」という次元の低いところに留まっているのだ。買う人もいるだろうし、諦める人もいるだろう。同じ人でも、場合によって買う時諦める時があるかもしれない。そんな流動的な因果性について、単に議論の上で黒白をはっきりさせようとしても、意味はない。
 利用者の視点とは、「図書館にどうあって欲しいか?」である。自分にとって利用しがいのある図書館とは、あるいは応援しようと思う図書館とはどのような図書館なのか、必要なのはそのことを利用者の視点に立って具体的に見てみることではないだろうか。その時、悪いけれども(悪くはないか?)、さしあたり、図書館予算の問題だとか、作家の生活のことは、視野に入ってはいない。
 利用者の視点に立った時、「図書館は無料貸本屋か?」という問い方は、「図書館利用者はただで本を借りることができることだけを望んでいるのか?」という意味になる。その問いに対して図書館利用者の一人が「自分はそうだ。」と答えることは、アリである。だが、図書館側の人間が、あるいは作家、出版社、書店という書籍を市場に提供する側の人間が「そうだ。」と答えることは、全称判断になってしまうから、偽である。
 二〇〇二年七月に上梓した「劇場としての書店」のあとがきにあたる部分で、ぼくは次のように書いた。
 「気になっている本を片っ端から買っていては、やはり経済的にもしんどい。それ以上に、すぐに置き場所に困ってくる。本が自宅の書棚から溢れるたびに、あるいは転勤による引越しのたびに、知り合いの古本屋に送るのも面倒である。何よりも、「買う」という時には、書店人といえども吟味する。言い換えれば、逡巡する。「気になった」からといって、それだけの理由で「買う」ことはできない。
 そんな時、図書館はとても便利なのだ。少し読んで期待外れなら、それ以上読まずに返せばいい。参考になる部分があれば、それをメモしておいて返却する。部屋は狭くならないし、必要ならまた借りればよい。」
 そう、ぼくは「図書館を利用する書店人」なのだ。そして、図書館を利用する理由は、タダで借りることができるから、だけではない。買った本の置き場所に困ることがないからだ。
 最新号の「本とコンピュータ」には、こう書いた。
 「検索に必要な書誌データは、書店に勤めているからほぼ完璧である。蔵書にない本をリクエストする時も、ISBN番号を含めてすべて記入できる。本の置き場に困っていたぼくとしては、巨大な書庫を手に入れたようなものだ。」
 書店に勤めながら、(一部そのことを利用して)図書館で本を借りる「けしからん書店人」であるぼくは、図書館を、自分のための「巨大な書庫」にしたいと思っているのだ。それは、実は図書館の本を無料で利用したいと思うことと同値ではない。読みたくて自分で買った本を収納しておいてもらうという手もあるからだ。ついさっき言ったように、ぼくが図書館を利用する大きな理由の一つは、「買った本の置き場所に困ることがないから」なのだ。
 こうしたぼくの個人的な事情を共有する「図書館を利用する人」は、少なからずいるのではないだろうか。だとすれば、利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策は、有効ではないだろうか。本の引き取りは有償であってもいい(もちろん定価である必要はない)し、何らかの特典を与える方法でもいい。不必要と思われるものは、図書館の方で拒否してもいい。
 この一見突飛な策は、運用できれば、実は色々な立場の人に同時にメリットを与えることができる可能性を持っていると思うのだ。その可能性は、意外なところまで広がって行くかもしれない。この策は、いわば図書館に「ブック・オフ」の役目を一部担ってもらうこと、とも言えるからである。



本屋とコンピュータ(二六)

二〇〇三年二月


 「『ブック・オフ』を否定するためには、本を棄てることができなくてはならない。」「ブック・オフ」についてコメントを求められた時に、ぼくがいつも言う台詞である。これは決して「ブック・オフ」を擁護、応援するための台詞ではない。新刊本屋の書店人として、ぼくにはそうした動機はない。ただ、「ブック・オフ」の存在と興隆に脅威を感じる新刊本屋や出版社の人たちのヒステリックな弾劾からは距離を措きたいと思う。自らの既得権が犯されることを理由とした弾劾は、外部の共感を得ることが難しいからだ。考えるべきは、何故「ブック・オフ」という業態が業績を伸ばしているのか、そのことの理由なのである。
 「安く買えるから」、それが、読者というわれわれの業界の顧客が、「ブック・オフ」に流れる大きな理由であることは間違いないだろう。だが、それだけでは「ブック・オフ」が業績を伸ばすことはできない。「新古書店」といわれるこの業態は、その名の通り古書店のニュータイプであり、そこに「売る読者」の存在がないと成立し得ないからである。「売る読者」は、「買った読者」であり、まさにわれわれの顧客でもあるのだ。彼らは何故「売る」のか?

 「ブック・オフ」の買い取り価格設定を見る限り、それが経済的な理由であるとは思いにくい。投機的な本の売り買いをする人ならば、従来の古書店に売るであろう。むしろ、「棄てられないから」売る人たちが多いのではないだろうか。買った本を家には置ききれない、だが棄てることもできない、そうした人は「売る」しかない。二束三文かもしれないが、「ブック・オフ」は買ってくれる。大した額ではないが、棄てるよりはまし、というより、棄てなくて済む、それが「ブック・オフ」に本を売りに行く読者の動機なのではないだろうか。
 実は、棄てたっていいのである。読み終わり満足を得た瞬間、本という商品の享受は終了している。何度も読み返したいと思うほど「溺愛」してしまった本、繰り返し参照すべき情報が載っている本は、そう多くない。それ以外の、限りある書棚を埋めて埃を積もらせていくだけの本は、棄ててしまっても何の損もないはずなのだ。それでも、何故か、本は棄てられないという人が多い。
 「図書館に『ブック・オフ』の役目を一部担ってもらうこと」という前回の締めの言葉は、こうした状況を背景にしている。別に何がなんでも「ブック・オフ」を駆逐したい、いわばその補給路を断つための作戦、というわけではない。ただ、本を棄てられない、という読者の気持ち、実はぼく自身も共有しているその思いを、例えば図書館に利用してもらう、あるいはそうした読者が図書館を利用する方途もまたあるのではないか、そしてそこには「ブック・オフ」に売りにいくのとは違ったメリットが、生じうるのではないか、と思うのである。

 図書館のサイトで、読みたい本を検索してみる。人気の高い本だと、「貸出中」であり、かつ何人もの予約数があったりする。(「東京都の図書館蔵書横断検索」のサイトで見ると、『半落ち』は二月二日現在、豊島区では八館で九冊の蔵書がすべて貸出中で、予約者が一四四名いる。)そうした時、どうしても読みたければ、書店で買う人もあろう。少なくともぼくはそうなる。そこで逡巡するとすればその理由は、経済的な問題というよりも、読んだあとのことである。そもそもぼくが図書館を頻繁に利用するようになったのは、読んだ本が手許に残らないからである。もしも、読んだあとで図書館に引き取ってもらえれば、その逡巡はなくなる。読み返したければ改めて借りればよい。それまでの間、無駄にわが家の狭い書棚を埋めることはなくなる。図書館を利用することによって「巨大な書庫を手に入れたようなものだ。」と書いた所以である。
 少なくともこうしたケースでは、利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策は、図書館にとっても有意義であろう。現に何人もの予約者が待ち構えているのである。引き取った本は、すぐに貸し出しに回せる。いつ誰が借りるか判らない本を購入したり、寄付として受け取ったりすることと比べて、こんなに効率のいいことはない。いい悪いは別にして、貸出率が図書館の評価のひとつと指標となっているのである。待っている予約者にとっても、それだけ早く順番が回ってくるわけだから、ありがたい。
 すぐに読めないが故に書店で本を購入する図書館利用者は、そもそも「読んだ本を手許に残さない」ことを第一義としているのだから、図書館に引き取ってもらうときに、 さして高額の対価を要求することはない。有償が難しければ、後々使える「貸出優先権」でもよいかもしれない。それでも、図書館利用者には充分嬉しい。それで済めば、図書館側としては、利用希望者が殺到している資料について、厳しさを増す予算を切り崩すことなく、手に入れることができる。さっき言ったように、他の予約者にとっても嬉しい話で、その提供者に「貸出優先権」を与えても、誰も文句は言うまい。
 「三方一両得」ではないだろうか。



本屋とコンピュータ(二七)

二〇〇三年三月


 村上春樹の「海辺のカフカ」の最大の功績は、「私立図書館」という存在をクローズアップしたことではないかと思う。主人公田村カフカが物語の中盤で住みつき、さまざまな出来事に遭遇する高松市郊外の私立図書館(「甲村記念図書館」)は、かつて文人たちを援助した篤志家によって建設されたもので、多くの文人が訪れ、滞在したとされる。小説の重要な舞台のモデルとなった私立図書館がどこか、ということがファンの間で話題になっているとも聞くが、作者自身がモデルの実在を否定しているように、そんなことはどうでもよいことだ。重要なのは、私立図書館を建設するような篤志家が文人を遇し、そのことが文人たちの生を支えた、あえて古びた言い方をすればその「単純再生産」を保障したということなのである。いわばパトロニズムこそが文学の生産の場を支えてきたのである。
 ことは文学の世界に留まらない。マキャベリもライプニッツもデカルトも、王族や貴族の庇護を受けながら、すなわちそれぞれの庇護者のパトロニズムのもとに、著作を世に遺した。大学という存在を、相対的な経済的余裕を持つ人々によるその子弟を媒介としたパトロニズムの場と見れば、カントやヘーゲルもまた然りである。そしてそのことは、現在著者として本という商品の生産者の立場にいる多くの人々にも当てはまる。

 書店人としてのぼくは、本を売るという行為が本をつくるという作業の一部をなすということ、あるいはその最終仕上げであるということを繰り返し主張してきた。売ることの重要性を掲げたその主張は今でも変わりはないが、一方そうした見方だけでは、本を販売したところで流れが途切れてしまうことにも気がついた。ある本を手にした読者が、その著者に新しい著書を所望することによって、流れは円環として閉じる。そして「拡大再生産」を可能にする。その段階で読者はすでにパトロンであると言えはしまいか。否、新しい著書を所望するに到らなかった場合、すなわち不幸にも買った本が面白くなかった場合でも、買った段階で、読者は不本意にもその著者のパトロンになってしまったと言えるのではないだろうか? 読者は購入した本を、いかなる仕方でも「消費」することはできないのだから。
 だとすれば流通過程にいるぼくたち書店人も含めて、「本をつくる」ことを生業としているすべての人たちに必要なのは、読者というパトロンに対する、しかるべき姿勢・態度であるといえまいか。読者がパトロンたることに見合うと感じるだけの作品を読者に提供することが最重要には違いないが、時にはパトロンとまさに向かい合って頭を下げること、直接言葉を交わすことも必要だろう。先に挙げた著者たちも明らかにそうしてきたのである。例えば書物の冒頭に措かれた「献辞」がまさにそうである。
 今風の方法論としては、サイン会や講演、マスコミに露出することなど、読者の前に姿を曝すことである。著者みずからが自著を売るための努力をする、「そんな時代になったのだ…」という嘆息を聞くかもしれないが、決して「そんな時代になった」のではなく、そもそも本を書くということがそうした努力を要請しているのだ。本を書くという行為は、読まれることによってはじめて完結するからだ。そうした観点から見れば、飯島愛の本がベストセラーになったり、北野武や松本人志の本が軒並みよく売れるのは、当然なのである。彼らは、あらかじめ大衆にみずからの姿を曝しているからだ。著書を刊行したときには、すでに大衆のパトロニズムを獲得してしまっているのである。

 パトロニズムの観点に立った時、文芸家協会VS図書館という図式で繰り広げられている「公共貸与権」についての議論にどうしても抱いてしまう違和感を、うまく説明できるようにも思われる。
 作家は図書館がそもそも自らの著書を図書館利用者に貸与することによって、みずからの著作権が侵害されているという。これは、平べったく言うと、借りることができなかった図書館利用者は本を購入したであろうから、その際に支払われた代金の一部を印税として手に入れる権利を侵害された、という主張である。それに対して、図書館側は、借りることが出来なかった利用者が本を購入するとは限らない、むしろ図書館利用者こそ本を購入する習慣も併せ持っていると主張する。
 図書館利用者であるぼくから見れば、図書館側の主張に分がある。ただしそれはあくまで個人的な事情であるから、とりあえず措く。そもそも違和感は、こういった議論が起こってくることそのものにあるからだ。あえて単純化の謗りを恐れずにいえば、作家が自著を読まれることの第一義を、著作権の対価を得ることに置いていることに対する違和感なのだ。
 何も清貧の作家が偉いと主張したいわけではない。印税で暮らすことを卑しむつもりもない。ベストセラー作家が優雅な生活を送っていたとしても、それを妬む気持ちはまったくない。著作権を尊重することにおいても、人後には落ちないつもりだ。ただ、自分が書いたものを誰かに読んでもらいたいという著者の気持ちは、印税を得たいという気持ちとは、(矛盾するわけではないにせよ)決して重ならないように思うのである。だからこそパトロニズムが成立するのではないか。著作権と生存権(具体的には印税収入)を直結し、それを死守しようとするような作家の発言は、煎じ詰めれば「読みたければ、買え。」ということである。そうした態度は、パトロンに対するものとしては、決してふさわしくない。

 「すべての書物は、それが出来上がったあとには、著者から離れた独立の運命をもって存在するに至る。著者は彼の書の享けるあらゆる運命を愛すべきである。私は私の書物が欲するままに読まれ、思うままに理解されることに満足しよう。」「パスカルに於ける人間の研究」の「序」で、三木清はこう言っている。この文章において三木は、「私の書物」が売れることによって印税が入ってくることとは別のことを、期待しているのだと思う。



本屋とコンピュータ(二八)

二〇〇三年四月


 前回、著者と読者の関係は、パトロニズムとして捉えるべきである、と書いた。そうした場合の「著者」とはいかなる存在であるか。小林よしのりとの共著である『知のハルマゲドン』(一九九八年、幻冬舎)で、浅羽通明は次のように発言している。
 「モノを書くとか芸術に従事するのは、余裕を持っている人が旦那芸として遊びでやるか、専業でやる人はいわばたいこもちだった。ではなぜ昔は表現する人間が下だったかというと、これは私のこじつけですが、人を言葉によって日常的に傷つけることが許されていて、それを仕事にしている品性が卑しい人間だから賤民だったのではないかと思うわけです。」
 浅羽は、「モノを書くとか芸術に従事する」ことを軽視したり軽蔑したりしているわけでは、まったくない。「賤民」という言葉は、浅羽にとって両義性を持つ。同じ本の中で、浅羽は次のようにも言っている。
 「網野善彦氏や阿部謹也氏の著書の愛読者でしたから、中世の被差別民が蔑視されると同時に畏敬されていた両義的な存在であった史実を知っていた。だから『こわい』と同時に、中世の非農耕民の血をひく『凄い』『かっこいい』連中と言う憧れもあったのですね。」
 だとすれば、「モノを書く」という行為に携わる「著者」とは、敢えて自らを「賤民」と見なすことによって、「人を言葉によって日常的に傷つける」自由を得た「選民」たらしめた存在というべきではないだろうか。即ち共同体の外に出ることによって、言い換えれば共同体内での生の保証と引き換えに、発言の自由を得た存在なのではないだろうか。

 こうした見方は、「公共性の条件」で「公界」について語る大澤真幸の言説とも共振する。「公界」とは、「遊行民」=「賤民」(=「選民」?)の住む世界である。
「公界についての事実がわれわれに教えているのは、次のことである。すなわち、社会的な関係の解除そのものが、人びとを結合する関係の様式になりうるということ。公界において人びとを結び付けているのは、何らかの積極的な要因―性質や利害や価値観等―の共有ではない。公界の中で人びとを結び付ける紐帯があるとすれば、それは、まさに、任意の共同体的な紐帯から排除されているということ、つまり紐帯自身を切断されているということ、それ以外にはありえない。」(『思想』二〇〇二年一二月号)
「経済」とは「経世済民」の略語であるから、「任意の共同体的な紐帯から排除されている」ことを「経済共同体から排除されている」ことと解し、それは即ち「共同体内での生の保証から除外されている」ことであるといっても、間違いではあるまい。第一の生産者である著者がそうした状況にある以上、その生産物である書物もまた、「経済」的な原理から逸脱しても当然であろう。突飛なようだが、「再販制」の根拠は、実はここにあるのかもしれない。「再販制」は他のあらゆる商品について経済合理性のもとでは否定された制度であり、著作物のみに許された特権なのである。そこで作動している原理は、経済合理性の「交換」の原理ではなく、「贈与」の原理なのかもしれない。
 もちろん、その「贈与」は相互的なものであり、著者は読者に作品を通して喜びを、読者は著者に購入を通して(印税)収入を与える。ただし、それは(多くの場合その形をとるにせよ)一つの形式に過ぎず、そもそも「贈与」は、返礼の形式を決定して要求できるものではない。もちろん、「等価交換」を要求できるものではない。(そうなると、そもそも「贈与」ではなくなってしまう。)
 著者が、図書館で自著を借りて読んだ読者に対価未払いを訴える状況(図書館が本を無償で貸すことが自らの生存権を危うくする、という主張は、つまるところ、論理的にはこのような状況であるといえる)に違和感を感じるのは、そのためなのだ。それは、書物を媒介とする関係性において、「等価交換」を原則とする「経済合理性」を第一とすることへの違和感なのである。
 「財を成す」ことこそ経済的行為の典型であろう。書籍に関して「財を成す」といえば、蔵書ということである。作家三田誠広は、次のようにいう。
 「私の場合、自分が読んだ本は、一種のインデックスとして保存しておく。自分がこれまで読んだ本が、本棚に並んでいれば、それがわたしの生きていたことの軌跡であり、わたしというものの存在証明にもなるからだ。多くの読書好きの読者が、同じような気持ちで、自分の本棚を整備してきたのではないかと思う。
 しかしいまやそれは旧いタイプの読者というしかないだろう。現代の読者は、本を所有することにこだわらない。犯人がわかり、ゴシップを仕入れ、評判の本を自分なりに評価したあとは、ゴミとして捨てるか、ブックオフ等の古書店で売ってしまう。最初からブックオフで買って、汚さないように読んでまたブックオフに売るという読者も少なくないだろう。」(『論座』二〇〇二年一二月号)
 三田は、あきらかに書籍について「財を成すこと」、すなわち購入した書籍で自らの本棚を築き上げることに、大いなる価値を置いている。「ゴミとして捨て」たり、「ブックオフ等の古書店で売ってしま」ったりする行為は、許されない。「自分がこれまで読んだ本が、本棚に並んでい」ることこそ、自らの「生きていたことの軌跡」なのだから。

 確かに『論座』の巻頭連載をはじめとして、著名人の「本棚」を披露することが、雑誌やムックの人気企画であることは否定しない。即ち、読み手の側にそうした嗜好があることは、事実である。しかし、ふつうの人の家の本棚を見たいとは、多くの人は思わないだろう。「著者の本棚を見たい」と思うことが、すでにパトロニズムの世界に足を踏み入れているのである。
 再び浅羽通明のつぎの言葉を切りかえしたい。「各自がこの十余年の間、再読三読した本したい本をリストアップしてみようではないか。」(『思想家志願』)
「各自がこの十余年の間、再読三読した本したい本」の並ぶ書棚こそ、「わたしの生きていたことの軌跡であり、わたしというものの存在証明」ではないだろうか。であれば、おそらく各自の書棚は、さしたるスペースを取るまい。
 ただし、そうした書棚の成立のためにも、そこに収容されなかった本たちの行き場は必要である。そうした本たちの行き場として、図書館やインターネット空間がある。そのような状況こそ、読者にとって理想的なのではないだろうか。



本屋とコンピュータ(二九)

二〇〇三年八月


 五月一二日、図書館情報誌『ず・ぼん』の座談会に参加した。『ず・ぼん』は以前から気になっていた媒体であり、図書館について言及しはじめたのをきっかけに読みはじめていたから、座談会に呼んでもらったことは、大変光栄だった。
 座談会の詳細については、秋口には出る予定の『ず・ぼん』第九号に譲るべきだろ うが (本書 二八ページ参照) 、座談会に臨んでの、ぼく自身のスタンスだけは述べておきたい。
 テーマは図書館の「業務委託」であった。TRCをはじめ、数社が参入して図書館の業務の一部の外注を請け負っている。東京都でも一部の区がカウンター業務などを外注しはじめているという。そのこと自体の是非と、外注によってもたらされる問題点が、議論の中心だった。


 書店人としてというよりむしろ利用者としての、ぼくの意見は次のとおりだ。
 まず、外注業者が派遣してくる労働者と「正規」職員との質の較差は、決してアプリオリなものではなく、個々の資質の差であると思う。ぼくの職場で新規採用やアルバイトの面接をしていても、司書の資格を持っていて、あるいは取りつつあって、本当は図書館で働きたいという情熱をもった若い人が多い。行政が司書職の正規採用をしていない現状にあっては、彼ら彼女らが自らの情熱を傾ける場所を外注業者が提供できるのであれば、それはそれで意義のあることではないか。
 また、図書館の側の人たちは、ひたすら「業務委託」によるサービスの低下を憂えるが、そもそも現時点でぼくが最も求めたいサービスは、開館時間を延長し、休館日を減らすことである。特にぼくらのような小売業の人間にとっては、休みは土日ではなく平日のことが多いし、月曜日であることも多いのだ。ただ、そのことによって職員の人たちにより過酷な労働条件を要求することはできない。だとしたら、その部分は「外注」してもらっても一向にかまわない。万が一、「本のことをよく知らない」人が窓口にいたって、ぼくらはそれほど困らない。少なくとも、休館日を減らしてもらえれば、メリットはデメリットを大きく上回る。
 「業務委託」について、最も避けるべき発想は、例えばカウンター業務ならいいが書庫整理は駄目、選書は正規職員の領分という風に、業務を分割して考えることである。どの業務分野にも、マニュアル通りに作業できる部分と、高度な判断能力が問われる部分があるからだ。さまざまな業務それぞれに、自らの判断に責任を取れる存在は必要なのだ。そうした責任者が存在してはじめて、「末端」は安心して業務に励める。責任の所在が曖昧な部署が存在していては、組織全体がおかしくなるのである。逆に、責任の所在さえはっきりしていれば、「業務委託」に際して予想されるほとんどの問題は、解決できると思う。いいかえれば、館全体はもとより、どんな部署も決して「丸投げ」してはいけないのだ。

 座談会からほどなく、五月一六日に、山中湖村立図書館「情報創造館」(建設中)館長の小林是綱氏がジュンク堂書店池袋本店を訪れてくださった。「住民の手で作る図書館は、住民の目で選んだ本から」という発想で、交通や食費にかかる経費自己負担のツアーを組み、今回はわれわれの店と紀伊国屋書店新宿南店を訪問したということだった(朝日新聞五月一六日山梨版に報道)。その発想には大いに共感し、店を訪れていただいたことは、大変光栄に思う。三回前のこの欄でぼくが提案した「利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策」も、何とか利用者の意向を図書館の蔵書に反映させたいという思いからだったからだ。「情報創造館」の発想は、そうしたぼくの隠微な策よりずっとスケールの大きなものである。図書館をめぐる多くの言説に欠けているとぼくが言った「利用者の視点」を、見事なまでにあからさまに前面に押し出す発想なのだ。(「年中無休、二四時間貸し出し」の構想さえあるという。)
 山中湖村立図書館「情報創造館」の来年開館に向けた動きに注目し、何か役立つことがあれば是非協力したいと思っている。

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