都立図書館再編計画に反対運動を展開している「都立多摩図書館があぶない! 集会」の実行委員である著者が、再編計画の問題点を整理し、望ましい都立図書館のあり方を、現状の財政難の下でいかに実現させていくかを提案する。
反対運動の中から出てきた、共同自衛策「デポジットライブラリー」の構想にも触れる。
文●堀 渡
ほり・わたる●一九五一年生まれ。
本誌編集委員。国分寺市立恋ヶ窪図書館勤務。
昨秋以来「都立多摩図書館があぶない! 集会」実行委員。
都立多摩が動き出す二〇年以上前、「自治体の自立をそぐ都立図書館はいらない」と発言した事があり、そんな不見識・矛盾を自省しながら参加してきた。
都議会文教委員会
二月一九日「保留」
二〇〇二年二月一九日、そびえ立つ東京都庁のビル群の一角にある議事堂で東京都議会文教委員会が開かれていた。平成一四年第一回定例都議会に先立つ委員会である。昨年秋以来、東京都立図書館の再編計画に反対運動を続けていた都民と区市町村立図書館職員、都立図書館職員、四〇人余が昼前から傍聴に詰めかけていた。再編計画に待ったをかけるべき二つの請願が約五万人の署名を集め都議会に提出され、この日審査されることになっていたのである。
東京都の計画は昨年四月から都庁内に発足した「都立図書館のあり方検討委員会」(以下、「あり検」と略記)で検討され、つい先日の一月二四日に最終報告書「今後の都立図書館のあり方」が発表されていた。この報告書は東京都の幹部職員だけで審議され、審議が進行中ということさえ当初は伝えられなかった。利用者や有識者を委員に加えるでもなく、途中で外部の意見を聞くでもなかった。そればかりか都立図書館が大きな変更を余儀なくされるということも、区市町村の図書館関係者や利用者にとってはまったく寝耳に水だったのである。
それでも昨年七月に図表三枚の中間報告が出て、秋頃には区市町村立図書館職員や関心ある都民の知るところとなり、このまま決まっては大変だと様々な運動が始まった。それは客観的に見れば短時間に大変な盛り上がりであった。この二月の時点では多摩地区二六市三町一村のうち一三に及ぶ市町村議会から東京都に向けて意見書が出されていた(他に二市の議会で審議中であった)。市教育長会および町村教育長会から東京都教育委員会へも意見書が出ていた。もちろん教育長会からこのような文書が出るには、例えば多摩地区の図書館長の集まりである市町村図書館長協議会と管轄する都立多摩図書館長の間で、回数は少ないが激しいやりとりがあった。しかし都立図書館側は突っぱねた。結局、約ひと月ずれて発表された最終報告書は中間報告の構想からほとんど変わっていなかったように見える。
「あり検」報告書は、一月二三日の臨時教育委員会に「報告」され承認を受けてから発表されたのだ。したがって、昨年秋から取組まれていた都議会請願の持つ意味は、この時点で極めて大きくなっていたのだ。
この日は他に都立高校の統廃合、都立養護学校の廃校、都立多摩社会教育会館の市民活動サービスコーナーの廃止問題など請願された多くの案件があり、都立図書館問題の審議は午後六時過ぎからとなった。昼前から傍聴券の追加発行を受け取っていた者達のほとんどは待ち続けた。
ようやく始まり、文教委員一三人のうち、与野党七人の議員が次々に立ち細部に渡る質疑が行なわれた。すっきり都の政策を是とする意見はなかった。都立多摩図書館は市町村の信頼厚く役に立っている、一二〇〇万都民にこの計画で大丈夫か?都立図書館の本は一冊だけになって平気なのか? 様々な懸念。答弁者はずっと教育庁の嶋津生涯学習部長だった。休憩もはさみ、午後八時三〇分を過ぎて、傍聴していた者たちは飛び交っていた議員達の言論からは理解しがたい結論を聞いた。「この問題は、『保留』とすることでご異議ありませんか?」東ひろたか委員長(共産党、江東区)。「異議なし!」。
長時間、打ち疲れのボクサーのような議場の有様に、少々いやな予感もただよってはいたが。いったいあれは何だったのだろう。
こうして再編計画に最初から歯止めをかけ、撤回を迫る「請願」は採択でも不採択でもなく、「保留」になったのだ。何も変化がなければ、今後どうあれ、基本的には都立図書館は「あり検」にそった再編がすすんでゆくのだろう。もちろん大まかな「あり検」報告なので、私たちは今後もその内容の細部を問い是正を求めてゆく。特に、「あり検」にも書かれている区市町村の意見を聞く機会の実現、そして平成一四年度以降の複本の除籍計画には見直しを強く求めていきたい。
しかし「あり検」の第一歩は阻止できなかった。再編計画の第一歩として、平成一三年度内に日比谷図書館の約一六万冊の児童関係資料をすべて多摩図書館へ移管する、それを入れるスペースを生むために、多摩図書館にある都立図書館としては複本の一般書を大量に除籍し、引き取り先を区市町村に求めるということが一方的に準備され、実行の直前まできていた。不当なことだが「報告書」が発表される前からどんどん内部準備が進められていたのだ。除籍予定図書約一一万冊は昨年一二月一六日からは、誰にも公開されているインターネットの蔵書目録情報からは削除されていた。一月一八日からはアクセスナンバーを与えられた区市町村立図書館にだけ見られるページで、ほしい図書館は申し出るように、再活用予定図書として一括でリスト公開されていた。すべて、やめてくれ、拙速に進めるな、区市町村の意見を聞け、という声を無視した一方的な都のスケジュールであった。締め切りまで短時間にもかかわらず除籍図書の引取りを申し出た区市町村の反応の多さに、再編計画は支持されている、とこの日の文教委員会でも生涯学習部長は強弁したが、私はそう思わない。区市町村は誰もが、東京都にこそ持っていてほしかったのではないか。普段の利用はそれ程にはない古い資料は都立図書館が保存していてこそ、いざという時安心して借りられる。二つの都立図書館のそれぞれにあって有効だ。それはこの問題を耳にした時の、区市町村の図書館関係者、都民利用者の共通の願いだったろう(区市町村に受け入れては、それぞれの事情と裁量で、そう長期保存出来ないことが多い。どこに受け入れられいつまであって他館が借りられるかという情報も保存の安定性も保証されない。多摩地区では資料の散逸を恐れ、一一万冊をすべて一括で受け取って市町村の共同保存・共同利用書庫を追及するということが提起された)。「あり検」に、なぜ反対したのか。対抗的にどんな事を考えているのか? 図書館は今どこにいるのか?
整理していきたい。
都立図書館の概要と今回の再編計画
東京都には三つの都立図書館がある。千代田区日比谷公園内に戦前からある都立日比谷図書館は蔵書三〇万冊、今でも都民等へ直接貸出を行っており、場所柄、開架されている新聞・雑誌などの利用が多い。特に、豊富に児童書、児童書研究書を集めたセンターとして定評がある。港区にある都立中央図書館は一九七三年に開館し、蔵書一六〇万冊。新聞・雑誌一三〇〇〇タイトル。都内公立図書館との協力貸出およびレファレンスを行うが、都外からを含め直接の来館者も多い。一九七〇年、東京都の図書館振興政策が作られ、それが刺激となって市町村に図書館が作られ、時を経て全国に波及していった。都立中央図書館はその開館ラッシュ時を知る。一九九六年に大阪府立中央図書館が出来て書庫や建物では「最大」の冠を譲ったが、蔵書・図書費や利用実績ではまだまだ日本最大である。そういう意味では首都にあり、それだけの実績も他の県立図書館の先行事例の役割も果たしてきた。おおまかに言って、直接県民へサービスする施設から、自治体に図書館を作らせてその活動を支援する県立図書館へ、というあり方のモデル。そのサービスを実践してきた。
そして立川市に一九八七年に出来た都立多摩図書館は、特にそれを強調した運営で定評がある。多摩地域(東京都内の市町村部分)の図書館相互協力、レファレンスの地域分担館として、七五〇〇タイトルにおよぶ雑誌・新聞も年鑑・白書・参考図書類も七〇万冊の蔵書のほとんども自治体にどんどん貸し出ししてきた。多摩地域の各図書館は小規模で調査能力も保存体制も自前では貧弱なところが多い。同図書館は開館以来そんな地域のバックアップに大きく重点を置いた運営を行ってきた。
古い本、高価な本、専門書などを自分のまちの図書館にリクエストしたら、「都立(県立)○○図書館」というラベルの貼られた本が届いたことがなかっただろうか。それは、もう手に入らない古い本、自治体の図書館では買えない高価な本、専門書、利用が限られた資料などを都道府県立図書館が購入し保存して、図書館の求めに応じて届けてくれる「協力貸出」という支援システムが出来上がっているからなのだ。市町村立図書館がそれらをすべて自前で個々に用意しようとすれば、大変な経費も保存スペースもかかる。そこで、県立図書館が広域行政的にそういう役割を引き受けている。市町村立図書館に住民から寄せられる「調べもの」がその図書館の資料で十分に回答できない場合、県立図書館が膨大な資料を駆使して調査し、各図書館に回答してくれる「協力レファレンス」というサービスもある。
こうした役割分担、支援機能の背景があって、市町村の図書館は住民の多種多様な情報要求に比較的容易に応えられるようになってきた。ここ二、三〇年の経験の中でこうした自治体と県立図書館の役割分担は定式化しつつある。
昨年の四月に都庁内に「都立図書館のあり方検討委員会」(都立中央図書館長が委員長)という組織が設置され、七月には「中間まとめ」が出され、八月末には「今後の都立図書館三館の運営について」という計画が出された。そこには、
1:都立中央を中心館とし、日比谷・多摩は分館と位置づけ、三館の一体的運営と収蔵・サービスの役割分担を行う。全都立図書館としてこれから同じ本は一冊しか収集・保存しない。
2:都立多摩は「児童・青少年資料、小説エッセイ類、多摩行政郷土資料の図書館」と位置づける。
3:都立日比谷は、これまで特徴だった児童・青少年資料を多摩に移管する。
と書かれていた。その他の情報も総合すると、
(一)それまでの〈収集即保存〉の一般原則を整理する形で一九九九年に都立図書館内部で決まっていた「一点永久保存」(古い本でも、最終的に一冊は都立のどこかで永久保存する)の方針をくつがえし、「現有書庫容量」に収まる分しか保存しない。
(二)都立多摩と都立中央に同じ本がある場合は、中央の分を残して多摩の分は基本的に廃棄する。
(三)都立日比谷の児童・青少年資料(約一六万冊)はすべて都立多摩に移す(日比谷を廃館する意向では?との見方もある)。
(四)従来の都立多摩の独自予算、独自収集は止めて、一点一冊を都立中央で収集し分配する。都立多摩の地域の分担機能は止めて、都立中央で「一元的」に全都内の協力事業を行う。
(五)都立多摩の郷土行政資料は、純粋に多摩地域に関するものだけの収集・保存とする。
(六)都立多摩の協力貸出用の雑誌はタイトル数を大幅に減らした上、これまで多摩地域の市町村立図書館のみに貸出していたものを全都内の図書館に貸出しをする。
という。
しかも当初一五年度に予定していた都立日比谷からの児童・青少年資料の都立多摩への搬入を、日比谷が建物の老朽化に伴い耐震工事で休館している今年度中に実施・完了する。その搬入スペースを生み出すためには都立多摩の複本資料約一四万冊を今年度中にまず処分する、というふうに計画を前倒ししてきた。
今回の再編計画の背景には、東京都の厳しい財政事情があるのは確かで、都立図書館の資料費も五年連続の削減で、平成九年度に比べて一三年度は四八%も減っている。さらに財政当局からは、書庫は有限なのだから蔵書の処分計画を出さなければ新しい資料費は付けない、と図書館側は迫られたとも言う。
財政難と有限な書庫問題は、東京都ばかりでなく、区市町村の図書館でも全く同様の問題を抱えている。東京都が独自に解決すればそれでいいというものではない。また、そういう問い方、批判の仕方はしたくないと思う。購入も保存も見通しが困難になっているのならなおのこと、都と区市町村が同じテーブルで共同で考え、その対応策を作り上げる必要があるはずだ。しかし東京都は独断専行でことを推し進めようとしている。現在に至る内部状況や過程を公表・共有しようとはしない。その結果が、一タイトル一冊のみ収集であり、永久保存の取りやめであり、一四万冊の蔵書の処分である。この一四万冊は始まりであって、都立多摩の蔵書で都立中央と重複する資料はすべて順次処分されることになる。区市町村への払い下げ(=再活用)を考えているというが、今の区市町村でその資料を受け入れる余裕はない。そもそも都と市町村の図書館は役割が違うのだ。
行政の情報公開が盛んに叫ばれるなか、これに全く逆行する東京都の姿勢はまず批判されるべきである。都の行政運営として今どきこのようなことがまかり通ること自体が信じられない。情報を開示しないことがさらに大きな疑心暗鬼を生んでいる。まず区市町村の図書館関係者そして(納税者であり利用者である)都民に対して、情報の公開と説明をするべきであった。すべては突然に伝わってきた。
図書館論として疑問なこと、
議論が必要なこと
密接なネットワークを組むべき図書館間の信頼性の問題
都立図書館は都内の資料提供・資料保存の図書館ネットワークの〈環〉がゆらぐこと、壊れることを恐れないのだろうか。どこの県でも県域内の資料保存・資料提供のシステムは、所蔵している資料の物量でも配送手段でも関係の信頼性でも、県立図書館を中心軸として形成してきたと思う。ましてその先進モデルであったはずの都立図書館の振舞いである。県立図書館としてどう考えているのか?
市町村の図書館は非力な存在ではあるが、最低、都立多摩に所蔵していることを確かめながら蔵書の除籍をしてきた。都立多摩になければ他の市町村からも依頼があり得ることを想定して、我慢して保存してきた。さらに都立多摩では一四年前の開館時に市町村に積極的に雑誌のバックナンバーの寄贈を呼びかけ、背後で支えるストックを充実してきた。最近では、市町村で不要になって除籍したい資料のうち、都立多摩に所蔵していない単行本の受け入れの試行もし始めていた。市町村の現場では皆がそれらの動きを当然のことと受け止めてきた。
今回の振舞いは除籍される資料の実際の「欠」はもちろん、設置自治体はそれぞれ違うが資料提供のために協力し合う〈図書館〉という理念のかたまり、業界的には「図書館システム」の可能性に重大な傷が生じるということである。システムとしての図書館の信頼と連帯から、都立図書館が一方的に役割を降りてしまうことだと私は思う。
協力貸出と来館者サービスの両面を〈都立で一冊〉で両立させようとしている
どう両立させるのか。どっちが優先なのか。全国で最も利用の多い一二〇〇万都民、約四〇〇の市町村立図書館に対し、都立図書館は一冊の蔵書で来館者サービスも協力貸出も行うという。電話やメールでの調査依頼も含む直接来館者の需要に都立中央は顔を向けねばならないというが、市町村の職員としては請求された協力貸出は落とすな、と言いたい。都立中央は貸出制限の多かった蔵書管理を見直すべきだ。豊富な新聞・雑誌のバックナンバーを貸してくれたり、レファレンスブックを貸してくれた都立多摩を〈解体〉しての一本化なのだ。何かTVの情報バラエティ番組で戦前の人物逸話が取り上げられるたび(以前の例では「こころの手足」という手記を書いた身体障害者中村久子、ナチスドイツに追われたユダヤ人をビザを大量発行して救ったという外交官杉原千畝など)人気が沸騰して関連書が復刊されたり、類書が新刊で出るまで、都立に申し込んで都内の図書館が長い順番待ちになるのがいつものパターンだった。常時ではないにせよ、一冊では協力貸出が事実上できなくなったり、資料の到着に何ヶ月もかかるようになる可能性がある。全区市町村の図書館からレファレンスが殺到すれば、中央図書館一館で対応できるのだろうか(「議員は複本が大事だと言われますが、実は複本は都立の全蔵書の一五パーセント程度です。それでこれまで特段問題はおこっておりません。都立図書館は一冊ずつにして問題ありません」。文教委員会で、議員への答弁をひとりで対応していた嶋津生涯学習部長の言葉である。なんと不用意で将来を規定してしまう恐ろしい発言だろう)。議員が区市町村立図書館がそして多くの利用者都民が示した心配を、東京都の側が切って捨てたのだ。図書館は一回一回の資料の要求があるから作れる、という施設ではない。ひとりひとりの利用の場合を考えてみれば、ある資料が所蔵していなければ期待を裏切ったとしても、ああそうか残念。利用要求が重なっても、順番待ちです時間がかかります!と言えば客はあきらめてしまう構造なのだ。
現有施設限り有期限保存としたことの問題点
二〇〇一年六月、都立図書館の書庫対策委員会は、一九九九年に成文化されていた「都立図書館では一点一冊は永久保存、複本は三〇年期限で除籍」の方針を全面的に改めた。〈すべて現有書庫限りでしか保存せず、溢れたら除籍〉の方針を打ち出した。平成一五年度で都立中央、平成一八年度で都立多摩の書庫がまもなく限界に達するという状況であるにもかかわらずである。それが今回の大量処分方針の発端らしい。その間には、〈書庫の拡張は認めない〉という厳しい査定があった。問題点はふたつある。
1:都民にも区市町村立図書館にもこの決定が相談や了解はもちろん、報告さえもされていない(都の財産なら都庁の独断で処分出来るというの? 図書館は相互の信頼に基づくシステムではなかったの?)。そもそも書庫スペースの見通しも保存年限の考え方もこれまでどれだけオープンになっていただろうか。
2:保存のスペース的な限度を言い切るだけで、資料保存の中身の区分が全く見えぬ事。極端に言えば、都立には、明治以前の古文書も国会図書館にもない資料もある訳でしょう。他の図書館の収集状況をにらみ、その資料自体の価値を吟味し、どういう方針で保存・除籍を設計するのかが見えてこない。この方針で、一般資料はおおよそ何年程度保存ということになるのかの歩留まりも全くわからない(都立図書館の人に質問しても、わからない、聞かされていない、と言う)。ただ〈現有書庫限り〉ということは、複本除籍はただ第一弾であって、一点一冊さえ十数年のうちには除籍する、と決めたのだ。
〈地域分担論から機能分担論へ〉というのだが
地域支援に比重を置いて出発した、都立多摩の位置づけはどこにいったのか。地域分担論の一五年の総括なきまま、曖昧に「一元化」してしまった。それに都立中央の蔵書が多摩地区の自治体に届くのは配送便の関係で二週間近くかかる。また場合によってはこれまで都立多摩に行けば用が足りていた多摩地域に住む都民が、都立中央まで足を運ばなければならなくなる。行ったにしても、全都民に対して基本的に一冊の本で対応しようというわけだから、閲覧できないことも起こるだろう。都立多摩に置く行政郷土資料も純粋に多摩に関するものだけに制限されるので、多摩地域の都民にとっては、東京都全体に目配りされた行政・郷土情報が手に入れにくくなる。東京都は東西に細長いエリアなのだが、トータルに見ると、ここ一、二年で多摩地域に設置されていた東京都の施設や事業の縮小・廃止を次々に進めてきている。図書館に限らず、都心の二十三区に対し新たな「三多摩格差」を生み出しかねない処置が広がっているようだ。「三多摩は東京都じゃない感じ」と一二月三日の記者会見で発言した立川市長の言葉は、党派を越えて共感をもってむかえられた。財政危機の対策を多摩へのしわ寄せで行っていないだろうか
「再活用」の言葉で意味していたもの
今回の「再活用」というのは、東京都立図書館の中に置いて都内の図書館や都民が共通に利用できる状態から、特定の図書館が自由に扱えるように払い下げること、という提案である。方向が逆ではないか。利用が少なくなった本、あまり見込めぬ本は都立でこそ保証してほしい。都立で保証してくれれば区市町村は捨てられる、自館の書庫を有効活用できる、とどこでも考えている。つまり、区市町村からの不要本の受入れ保管を含め、都立があてにされているのだ。
何故まとめて捨ててしまうのか。散逸を避けようとはしないのか。(図書館員という職能から考えれば、あるいは「図書館」という存在にたいする世間の期待から考えれば)たとえ今後は新たな本は一冊しか買えなくてもいい、つい最近までの出版物が膨大な水準で二冊ずつ、雑誌も二冊ずつあるという状態は大きな財産ではないか。市町村に分散的に払い下げ(=県立としての役割からの逃避、降りてしまうこと)ではなく、ひとかたまりで保存利用のことを考えよう、という発想には立てないものか。予算削減が続けば都立としては今後の一冊購入はしかたがないとしても、過去に購入したもう一冊は別の場所で補充のために取っておく、という発想には立てないのか。
都立図書館の発行物の最新版にこう書かれているのだ。この定義を自ら転倒させていないだろうか。
資料再活用業務
当館は開館時より市町村で除籍される資料を受け入れ、利用に供してきました。寄贈により、当館は開館直後の資料不足を補い、市町村に対しては保存の役割を担ってきたと言えます。しかし、収蔵スペースの逼迫に伴い受入が困難になり、近年は雑誌をわずかに受け入れるだけとなっていました。
収蔵スペースの問題は解消していませんが、平成一〇年三月にまとめられた『都立図書館中期運営計画』では資料収集率の向上と区市町村に対する保存の責務の二点を目的として、区市町村の除籍資料の中から都立未所蔵で目的に合致する資料を受け入れ、利用に供することが課題として取り上げられました。これを「資料再活用業務」と呼び、平成一三年度から試行を開始します。
(都立多摩図書館「図書館協力貸出ハンドブックー多摩の懸け橋」二〇〇一年四月発行より)
日比谷図書館の児童書と建物の問題
都立日比谷の建物をどうするのか。これまでの都立日比谷の児童書・研究書コレクションとそのサービスをどう評価しているのか(多摩地域に持ってきても研究者などは来館しにくい。直接の児童サービスは都立多摩の施設ではやれない。地域的にも都が直接やる意義は今のところない)。
なぜか隠しているが
すべてを規定している財政問題
今回の都立図書館問題のすべてに都の財政問題が大きく影響していると考えられる。図書館の資料費は平成七〜九年度をピークに毎年減り続け、平成一三年度は二億六千万円。五年前に比べて四八パーセント減だといわれる。(平成七年度から一一年度は四億円台で推移していたのだ。)来年度はさらに一〇パーセントの削減の内示だという。これでは新刊を二冊ずつ購入するのは実際に無理になっており、一冊購入を徹底すればこの予算でも全出版点数の五割の購入が復元できるのだ、という。また、書庫の拡張が断念され、それをうけて現有書庫限りで蔵書を処分、と決まったのは昨年度の始めだった。こんな直前まで書庫問題がオープンな議論になっていない。将来展望や予算獲得に対する図書館サイドの思惑と財政当局の判断の厳しさが食い違ったのかもしれない。そもそも東京都は三館の図書館を一五年間にわたって運営しながら、どの程度の図書費が経常的に必要で、それで毎年の出版点数の何割程度は購入しようとしていたのか。また書庫計画としてはどのようなビジョンを持ち、増設を含めたその計画の中でどういう蔵書の保存プランを持っていたのか。「すべてをずっと永久に保存するわけではなく、一冊は永年保存、複本は三〇年のみ保存」と決めたのが一九九九年、その流れに沿って「三〇年経った複本分を払い下げるのでリストを公開する。引き取りたい館は申し出て下さい」といって希望を聞いたのが昨年一一月だった。どうなっているのか。
格好をつけているのか、表面にはあまり出ていないけれども、財政問題(とそれに規定された書庫問題)がすべてを決めているのだ、と思われる。それに対し「都立図書館サイドとしては本来はこうありたいのです」「都の財政のおかれた現状は不本意だがこうせざるを得ません」という言い方はあるはずだ。「このようにして都立図書館は問題ありません」という嶋津生涯学習部長の答弁は全然意味が違うのだ。これからの財政状況の好転も、都知事の政策判断の変更も今後に期することが出来ない。
ともかく大きな図書館デザインが不在なのだ。
公共図書館の見据えるべき近未来
公共図書館の整備と資料提供は今、どういう段階にあるだろう? 戦後の長い間、 図書館を一つももたない(=未設置な)自治体の解消が第一の課題だと言われてきた。全国的に見れば二〇〇〇年四月一日現在で市立図書館の設置率九七・三パーセント、町村図書館の設置率三七・二パーセント、図書館数は二五四七館となっている(図書館年鑑二〇〇一年度版による)。全国的には町村部の整備と同一自治体内で複数館の整備が今後の課題であるだろう。しかし東京都で見れば未設置は既に島嶼地域のみである。未設置島嶼や西多摩の町村部に対する都の支援策というのは今後も必要である。ただし東京都全体で見れば、都の人口一二〇〇万に対し既に大半の自治体で図書館が作られ、館数も三九一館に達している。東京都の課題の中心は単純な施設整備とは既に違うところにあるだろう。
ほとんどの自治体で図書館が設置され(充分ではないにしろ)購入予算も毎年継続し、新しい普通の価格の本はある程度、自前の提供が出来るようになった。それはもうリスクのない安定的な事業である。東京の区市町村の図書館で課題なのは、自館では入れられない高価な本、発行の古い本、そして幅の広い雑誌・新聞、それらのバックナンバーなどの提供能力の安定なのである。もともとすべての自治体に義務的に設置されるわけでない図書館は、図書館がない時はもちろん住民にあてにもされない。しかし図書館が設置され何年か当たり前に運営されていれば、住民から多様な資料請求がされるようになる。誰が見てもベストセラーだ、という以外の請求は、読みたい本というのは、実に多様なのだ。出来て何年目の小さい図書館だからこんな本を請求するのは無理だろう、とか、その本を頼むのはこの図書館には過重だ。などと利用者は余り考えない。また、そんな配慮が先行するとしたらその図書館はまだ半人前に思われているのだろう。自館では入れられない資料をなんとか提供する(=借りる)あてを図書館は確保していかなければならない。それはシステムの問題でもあり、個々の資料と請求内容についての職員の対応工夫の問題でもある。多様な利用要求が背景にあって、図書館の相互協力の切実さが出てくる。つまり一定のレベルの基本サービスが安定的に自館で提供できる段階の図書館だからこそ、安定して頼りになるレベルの高いバックアップ体制の要求があるのだ。
また日常運営は既に〈離陸〉した図書館のもうひとつの課題が、入れた資料を長期的に保存するスペースをどう確保していくかである。保存スペースは図書館建設の時にあまり考慮されないことが多かったが、実は大変な問題だ。利用が落ちたからと気楽に除籍してしまったら後でいつ請求されるかわからない。そして書庫の拡張がなければ、入れただけ捨てねばならない時は驚くほど早くやってくる(単純な貸出冊数実績に反映するわけはないが、「保存」は書店とは明確に違う重要な図書館の特徴・機能である。入れた資料をすべてとっておく方針は自治体においては非現実的であるが、複本や実用書を間引いて減量しつつ、資料的な価値あるものは一冊は持ち続けられる保存スペースは本当は各自治体でも確保したい。このあたりが基本的な課題であり、弱さであることは図書館職員なら誰でも認めるだろう)。現実には区市町村のたいていの図書館では保存スペースははっきりと限界にきており、古い本をもはやどんどん処分せざるを得ない。購入し、一方で廃棄、というのが、どこでもルーチンワークであろう。せいぜいこれまでの共通の最低の歯止めは、都立図書館にない本は請求されても借りられないのだから捨てないようにしよう、ということだ。区市町村の現場で除籍の作業は、個々の図書の内容・価値に思いをよせれば、それ単独で考えれば本当に虚しい作業だ。新刊の時にはこぞってリクエストされるので同一館に複本で入れたり市内全館で入れていた本が、ある時点でほとんど動かなくなる。都立図書館にあることをあてにして各自治体の図書館の「保存」「除籍」の判断は動いている。ない本だけは、せめて保存しよう。都立図書館の保存への期待は基本のところでどんどん大きくなっていく。都立図書館は、当てにされる共通の書庫となっている。
さらにそういう脈絡で、区市町村立図書館では限りある自館の保存書庫の有効活用のために、都立に受け入れてもらいたい半端でマイナーな都立未所蔵図書が多くなっている。どうせなら請求される可能性の高い本、価値のある本を自館では保存しておきたい(そのへんを東京都も認識していたからこそ、前章で書いたような、語の本来の意味の「再活用事業」が動き出していたのだ)。ない本は都立図書館に受け取ってもらう。長く保存してもらって、みんなで利用するのだ。そうすることで都立図書館自体はより頼りある存在になる。だから、都立図書館がどうあるか、というのは都内の公共図書館全体での資料提供の可能性において、極めて大きな問題なのだ。
都立図書館の蔵書は巨大な共同の情報資源である。二〇〇〇年二月からは蔵書情報がインターネットで公開され区市町村立図書館もエンドユーザーの都民も大変便利になった。区市町村の図書館へ図書や情報を配達する協力車の週一便の運行(これは以前からあったが)と相まって、都立図書館の重要度は増している。
一方で区市町村の蔵書を横断的に検索し、必要なときに相互貸借しよう、という方向がある。以前から新聞・雑誌については所蔵リストを集めて自治体間の雑誌・新聞の総合目録が作られていた。今では東京都内区市町村立図書館雑誌・新聞総合目録として、都立図書館のインターネットメニューの一部になって誰でも見られる。
図書については、現在多摩の市町村立図書館で盛んに使われている検索手段としてISBN総合目録がある。(これはまだ業務用として、図書館内部でしか見られないが)市町村立図書館の蔵書のISBN(一タイトル毎に固有の一〇桁の数字が割り振られている国際標準図書記号)ナンバーだけを簡易に抽出し合体して検索出来るようにしたもので、都立図書館が協力事業として行い、年に四回、各市町村のデータを吸い上げフロッピーの形で図書館間で交換されている。日本の書籍にISBNナンバーが導入され普及していったのはここ十数年であるが、ある図書にISBNが振られてあり、図書館の蔵書の書誌データにもISBNが記載されていれば図書館での所蔵がわかることになる。ある図書が都立図書館になくて、どこかの自治体で持っていないか調べたい時に便利である。ただしその図書のISBNナンバーを先に調べないと使えない。また、出版社順に機械的に振られる方式のISBNだから、ある著者の著作一覧とか、書名の一部にこんな言葉が入る本を調べる、といった使い方は出来ない。ISBN自体の精度も問題だ。
例えば私は当初、この原稿の題名を「大きな図書館デザインの必要」と考えていた。この題を思いついた時は無意識だったのだが、津野海太郎氏が一九八一年に出版した『小さなメディアの必要』(晶文社)のもじりくさい、どこか言葉として寄りかかっているかな?と気になっていた。そこで、この本はどこの自治体にあるかと思って、自分の持っている初版本を見ると、おやおやISBNがついていない。この発行年はいろいろな疑問・懸念の中でISBNが日本に導入され始めた微妙な年だ。晶文社のこの本もその後ISBNが遡って付与されたと思うが、ある図書館が初版だけを所蔵しそれがそのままデータ化されていればこの本はヒットしない。日本のISBNはこの程度のスパンのデータなのだが、使える限りは今後の所蔵検索の未来を髣髴とさせる。
例えば4-16-317630-6というISBNは一九九八年発行の福島次郎著の『剣と寒紅―三島由紀夫』という、三島の遺族に手紙の無断使用を訴えられて書店からは消えたままの図書だが、多摩地区ではまだ一八の自治体で所蔵している、などということも一発でわかる。
ISBNナンバーがついていない図書については、「こういう本を探していますが、どこかで所蔵していませんか。自分の館の蔵書を調べて、あったら都立多摩図書館の協力車に載せて貸してください」という市町村立図書館の回覧板のような制度が今でも役に立つ。これは都立多摩図書館開館直後の一九八八年に市町村立図書館長協議会がルールを作り都立多摩図書館に運用を依頼した形をとり、隔週で発行されている「探しています」という情報紙である。
都立図書館で所蔵していない資料に限って掲載することが出来て、各自治体は一号あたり一〇件まで載せられるのがルールである。発行予定日の前々日の夕方までに、決められた書式で一行に一冊ずつ記入して都立多摩図書館にFAXすると、それを貼り合わせて作った情報紙が多摩の市町村の図書館に発行日には一斉送信されてくる。送信を受けると、蔵書の有無をしらみつぶしに検索し、所蔵し貸出されていなければ、相互貸借処理票という伝票を書いてあて先を書いた封筒に入れ、都立図書館の協力車のやってくるのを待つ。協力車が到着すると、協力車が携帯してくる「探しています」マスターへの書き込みの有無を調べ、まだ載っていなければ、マスターに、その本は自分の館から送ることの書き込みをして、協力車に載せるのである。
いわば「探しています」はハローワークにおける求人票か、警察における「指名手配書」のようなものである。都立図書館に所蔵していなくてISBNもついていない図書というのが掲載の条件だから、ISBN導入以前のマイナーな出版物かムックや自費出版ものなど、商業出版の中心からはずれた図書が多く掲載される。
さらにいま各自治体では、都立図書館のように所蔵情報をインターネットで公開することが急速に進行している。たとえば、ブレインテック(株)インターネット事業部というところが運営する「図書館と本の情報のサイト J‐cross」というホームページがあって、所蔵情報を発信している全国の公共図書館の横断検索が出来るようになり始めている。書名、著者名、出版社といった普通のキーワードで調べられる。使ってみると一館一館のデータを調べに行っているようで大変時間がかかるのだが、それでも数年前には考えられなかった検索手段である。どこの図書館にあるか見当もつかないマイナーな出版物や地方出版物を調べる時に極めて便利だろう。かってある割合を超えると電算化が爆発的に進みそれを前提としたサービスが当たり前になったように、蔵書情報のインターネット発信が行き渡った時、ある本がどこかの図書館にないか、インターネットでいっぺんに横断検索する、という手法は図書館にも利用者にも当たり前になっていく。さらに横断検索は自治体の図書館の範囲に限らず、様々な専門図書館にも及んでいく。そしてそれは驚くほど近い将来だろう。
現在でもWeb‐Catという、全国の大学や学術機関の所蔵情報を調べられるサイトがある。公共図書館に対して貸してくれることはほとんどないが、学術専門書や大学で保管していそうな紀要、古い文献の類を調べて利用者を案内したり、文献の名前を確認したり出来る有効な情報手段だ。
ただし、これが言いたいのだが、ISBN検索や「探しています」、横断検索、Web‐Catは自治体の図書館現場の主な使い方としては、現在ではあくまでも求める本が都立図書館に所蔵していないときに頼りにする、隙間を埋める検索手段なのだ。なぜならば都立図書館は区市町村立図書館を支援するためにあり、かなりのカバー率で資料を毎年購入し長期に保存している。ある程度の本はここにあるだろう、という信頼感がある。自治体に貸出し提供してくれるのが当たり前という前提がある。そして毎週配送してくる協力運搬車の定期運行がある。さらにISBN総合目録や「探しています」については都立図書館がその情報発信の事務局になっている。つまり所蔵がわかることと自分の自治体の利用者に提供できる手段となりうることはまったく違うのだ。もう売っていなかったり高価過ぎて買えなかったりする本の検索手段は、図書館としてはほんの五年前に比べても驚くほど向上している。そして言える事は、資料を検索する手段は近い将来さらに整備され、都立図書館の隙間を埋める可能性があり、資料提供の確率はより安定的で高くなっていく。それらを図書館も都民もあてにしていくだろう、ということだ(キイになる都立がずっこけなければ!)。
一方で、出版形態、情報の発信形態を考えてみよう。現在のような紙の書物が、情報・コンテンツの発行形態として、あと五〇年このまま続くと思っている人は誰もいない。出版産業が現在のような著者、デザイナー、編集者、製作者、印刷者を含んだカテゴリーの業界として継続して成り立っていくのか、そして年間の出版点数が現在の数をベースに推移するかもまったくわからない。むしろどう転ぶにせよ大激変するとみるのが正しいだろう。全体として、情報の電子化、ペーパーレスは進行していくに違いない。公共図書館はどのようにそれをカバーする施設たりうるか。資料の購入にかかる費用というような要素も、保存の物理的スペースや、設備というような要素も激変する。多分、なかば古文書としての紙の書物と、よりデジタル化された資料との混在の時期がやってくる。その両者が混在する過渡期にどう図書館は打って出ていけるか。同時に紙の原資料から資料内容を電子化して保存したり、電子的保存形態から使うときに呼び出して利用するというような事も盛んになっていくだろう。その時、図書館はただの消費者の位置だけでなく、状況の中で部分的にもプロデューサーのような役割を演じられるか。
端的に言って、出版点数・購入点数・保存スペースの推移といったことを現在を基準に悲観しても仕方ない。むしろすべての紙媒体が、〈かっての情報の形〉として博物館的に偏愛されるかもしれない。何が言いたいのか。例えば「永久保存」が負担だ、という。文字どおりこのままの「永久」なんてないんだよ、という事だ。
現在問題になっている都立図書館の再編というのは、この程度の長期的なスパンとビジョンの中で評価し、考えねばならないテーマであろうと私は考える。再編に危機を抱いた方々は漠然とにせよ時代を感じ〈こういう状況になぜ?〉と思ったに違いない。私自身は、都立図書館の職員削減がどうだとか、日比谷図書館の存続だとか、のレベルでものを考えているつもりは全くない。東京の情報環境がどうなっていくのか、図書館職員としてどういう資料・情報提供の基盤が予見されるかが問題なのだ。
望ましい都立図書館の未来
前節に書いたように東京都内の図書館の資料・情報提供の基盤がどうなるか、という関心で考えていきたい。
長期不況の現状を見るなら、そして区市町村の財政状況を見るなら、東京都だけが例外ではない。今は何より大変な財政難が政策選択の前提だというのなら東京都はまず率直にそれを言うべきだ(「都立図書館は一冊ずつの蔵書で問題ありません」とこれまで評価されていた自らの実績を〈理念的〉に否定するのではなく!……これでは未来にわたって可能性を縛ってしまうではないか)。その逆に、財政逼迫により無駄をはぶき支出をおさえることが何より求められるというのなら、今こそよって立つべき都立図書館の原則は何なのかを確かめる必要があると思う。私なりに考える原則を以下に書きたい。
1:都立図書館として、出来るだけ長期保存しよう、とする構想はぜひ必要だ。国会図書館のような、したがって管理も厳重な最終保管場所という訳でない、フットワーク軽く自治体に協力貸出が出来、そこを通じて都民にも利用してもらえる都立図書館という存在において、長期保存の構想がぜひ必要だ。そうでないと各自治体の図書館がばらばらに長期保存をせざるを得なくなる。それには限度があるし不安定だ。そして古い資料、利用の落ちた資料は個々の自治体とは役割・位置づけの違う図書館で責任を持って長期保存するというのが税金の使い方としても合理的だろう。各自治体の図書館の保存スペースの有効な使い方としても合理的だろう。近現代のわが国において出版物が図書館にどう保存されているかいないのか。絶対条件のひとつは戦災に遭ったかどうか、ということだろう。もうひとつはその時に図書館という施設があったか、お金をかけてどの程度に同時代の出版物をカバーしていたのか、ということである。東京都は書庫の拡張を断念し現有書庫限りの年限しか保存しない方針とのことだが、それは「理念」ではない、経済事情そのものである。将来に悔いを残す。一冊は永久保存、という「理念」は捨てないでほしい。戦災や自然災害に遭わず図書館事業も伸張したはずの五〇年余の戦後は、その程度の余裕も賢さも持てないのか。
2:都立図書館に、複数保管する、という原則はやはり望ましい。二冊を保存している標準があって、無責任でなく館外に持ち出し、区市町村を通じて都民にも貸出せるのだろう。資料の危機管理(貸出していれば傷むこともある。もしもの災害や事故の時の「保険」の意味もある)からいっても必要だ。都立中央図書館は直接の来館者も多いしレファレンス(利用者からの調べもの)に使うことも多いからと、これまで区市町村に貸出さない蔵書が多く、図書館関係者からは不評をかっていた。一冊しか持っていなければそれは絶対矛盾であって、どちらを優先するかという方針の立て方しかないだろう。二冊収集し、一冊は永年、一冊は期限があっていいから長期の保存とするのだ(本当言うと、国会図書館にも二冊ずつあってほしい。国会図書館の蔵書は公共図書館が借りても、利用者には保存のため館内だけで見てもらうことになっている。今私は館内利用だけでは困ると言っているのではない。都立になく国会図書館から借りた古い本の梱包を開ける度、これが日本で公的には一冊だけ保存されている本か、と困惑するのだ。何も歴史的な出版物、古文書までそうしよう、というのではない。そんなないものねだりは言ってもしようがない。近代の出版産業の出発と図書館思想に日本が目覚めた以降は、複数あるべきではないか)。
3:地域分担の実践を越えて自覚的な真の機能分担を目ざそう。東京都には日本の人口の一割、約一二〇〇万の人が住み、約四〇〇の公共図書館がある。ビジネスの一極集中の地であり、大学も相当に集中している。都立図書館利用はますます多くなるだろう。来館者サービスやレファレンスサービスと協力貸出の両方を一冊で行うのはよほど利用の少ない県立図書館ならともかく、無理がある。実際のところ、来館者や職員のレファレンス使用を阻害するか、協力貸出利用に制限を加える事になる。「地域分担」と称して一九八七年に多摩図書館が出来て以降は、中央と多摩と二冊ずつ収書・保存を行いつつ、実際は二館ある事を背景に、来館者やレファレンスの問い合わせの多い都立中央は区市町村への貸出し制限を多く行い、都立多摩は雑誌・新聞やレファレンスブックも含めどんどん協力貸出する方針を打ち出せていた。つまり(多摩地域の市町村図書館への限定貸出だった雑誌新聞以外は)これまでも都立多摩は、全都対応で協力貸出に重点を置いた図書館であったのだ。二三区の図書館へも都立中央で貸さない図書は、多摩から貸出されていた。都立図書館内部でどういう自覚的な戦略があっての、この役割分担であったのかは不祥だが、都立多摩の運営は都立図書館全体によい刺激、活性化をもたらしていたと思う。今回の再編で「レファレンスブックは本来貸出するものでないからこれからは館内利用に限定する」というような後退した見直し方針を聞くが、都立で一冊しか持とうとしないゆえの絶対矛盾なのである。都立図書館の役割の中心が区市町村の支援であれば、当然あってもよいサービスである。むしろ、レファレンスブックや雑誌・新聞をも無理せず貸出せるような背景を作り出すべきなのだと思う。「あり検」で都立中央と多摩の機能分担論を言うのなら(「あり検」の現在の中身は小説、エッセイ、児童書という特定分野の資料を多摩で分担するに過ぎないのだが)もっと理論的に徹底しろ、と言いたい。来館者の直接利用と調べもののためのレファレンス図書館(=区市町村にもあまり貸さない)と、雑誌・新聞・レファレンスブックをもすっきりと貸出し、区市町村を通じて都民に利用してもらう協力貸出ライブラリーとして、機能分担の中身を文字どおりに整理すべきである。
4:都立図書館は、自館で未所蔵で区市町村の図書館が所蔵からはずしていい本を、自らの欠をうめ、東京都民の情報基盤を豊かに作っていく手段として、積極的に受け入れていく発想が必要だ。「本来の」再活用事業をきちっと位置づけ積極的にすすめるべきだ。そのためにも、今後の書庫の展望が必要だ。
5:都内に数多い大学図書館や各種専門図書館・情報機関などの外部者への利用開放を促し、あるいは区市町村立図書館への協力促進などの働きかけを研究するべきだ。私立大学の方がその動きは顕著だが、学外者の利用への敷居は近年ずいぶんと低くなっている。また国立大学も独立法人化などの刺激も影響しているのかも知れないが、この数年のうちでも利用のハードルがずいぶん低くなっている気がする。ただそれらは利用を申し込んだ場合の個々の大学図書館毎の手ごたえで、問い合わせてみないとわからないことが多い。区市町村立図書館や都民が利用出来る情報基盤の強化・豊富化、東京都全体の情報資源の可能性の視点に立って、都立図書館として開放や協力関係を促し、その情報を発信すべきだ。
6:都立図書館のあり方について、都民への情報資源の豊かさの保証のために、区市町村図書館関係者や利用者都民と継続的に話し合っていく場が必要だ。
総じて、広域行政的バックアップ図書館施設として、都立図書館はぜひ大きな構想と原則の確認が必要だと思う。
都財政逼迫の下
都立図書館の当面の方策は
これまで書いてきたように、都立図書館にはぜひ大きな構想が必要である。永久保存の原則を通せるような大きな施設がぜひ必要である。協力貸出を通じて都民に活発に利用してもらう事が安心して行えるためには、貸出す資料のバックアップが必要である。実際には前節に述べたように、原則として来館者対応の資料と貸出用資料という、二冊の本がある事が一定の「保険」の役割をはたすと思われる。自ら選定、購入した蔵書だけでなく、各自治体で不要になった図書のうち、入っていない資料はうけいれて、バックアップの蔵書を厚くしていくような(=「再活用」)意向をもてる、余裕のある図書館施設がぜひ必要である。財政逼迫状況で、無駄をはぶき、支出をおさえることが求められているとしても、これらが私個人としてまずおさえたい都立図書館の原則だ。はっきり言って、都立図書館の重要性は以前よりずっと高まっていると思う。以下、考えていることを箇条書きにする。ポイントは当面新たな書庫の建設をしなくてもいい保存の仕方をぜひ考えたい、ということ。そして、資料費の確保が二〜三億円程度以上は見込めないというのなら、当面、原則的には(レファレンス資料など以外は)、一点ずつの購入はしかたがない段階はあろう。では一点購入と複数保存が共立できる方策を考えたい、ということである。
1:都立中央図書館を来館者に対応するレファレンスライブラリーとして位置づける(これはほとんど今も同じ)。都立多摩図書館をレファレンスブックを含めた図書、新聞・雑誌を区市町村に積極的に貸出せるための協力貸出センターとして位置づける。地域分担から機能分担へ、と言っているのだから、(現在の「あり検」のような、特定の分野の本を多摩に運んできてただ分野の分担をしているにすぎないプランでなく)機能分担で純化し、両館の必要性と位置づけを明確にする。
2:複本は廃棄する、という方針は、当初の一一万冊処分後は中断する。新規の複本購入は図れなくても、少なくともすでに蔵書となっている部分は、複数を保管する。取り返しがつかない。
3:新たな書庫の建設をともなわない事が条件だとすれば、まずは都立図書館施設の有効活用を出来るだけ行う。都立中央の書庫スペースは、まだ余裕があるはずだとの情報があるので再調査する。日比谷図書館には、長年有効に使われていなくて、今回の計算にも入っていない(一六万冊を都立多摩に移してしまえば)約四〇万冊分に及ぶ書庫スペースがあるとのことなので、活用する。その他、たくさんある都の遊休施設を書庫とする事を積極的に本気で検討する。
4:一点一冊の新規購入は当面、都立中央図書館の蔵書にあてるが、一冊しか蔵書に出来ないのであれば、都立中央の蔵書も当然協力貸出を行う。レファレンスブックは原則として、都立中央と多摩の二館分二冊を購入する。そのことで、都立中央分については、館内利用にとどめている積極的根拠が出来る。
5:都立多摩図書館を協力貸出センターとして有効に機能させるため、区市町村図書館から、不用になった図書で、未所蔵本の受入れを積極的に行う。この事は、都立多摩図書館の日常業務となる。定期的な協力貸出の巡回車とは別に、不用本受入れのための運搬手段を用意する。
6:都立は当面、一点一冊の購入が原則となるが、一冊の限りはその資料は協力貸出は行う。また、未所蔵な高価本に区市町村の図書館で利用者からリクエストが出たときは都立に相談すれば購入を検討する、というルールは今後も確保する。
7:この、5:と6:によって、区市町村の図書館は、安心して日常業務(利用者との対応)をすることが出来る。また、有限な施設の中で、新しい本を買い、古い本をすてていく、というシステムの回転をスムーズに行っていくことが出来る。
8:都立多摩図書館の閲覧スペースは段階的につぶして書庫とする。また、都立多摩の第二書庫を、都立多摩の大きすぎる前庭の敷地内か多摩地区の遊休施設の転用で確保する。
児童関係図書の扱いについて
それにしてもはじめに述べたような転末で「あり検」報告書は成立し、重複図書の大量処分はとりあえず方針としては決まった。資料保存とバックアップ図書館の役割の面からその問題点をここまで書いてきた。それとは別に、都立日比谷の児童書と児童サービスが都立多摩に移ってくる、というそれ自体の問題があると思う。
都立日比谷は老朽化という事態を前に、近年まで建て替え要求の運動が盛んに行なわれていた。児童サービスの廃止や廃館の可能性に反対する行動である。それは東京都に受け入れられず、当座しのぎの対応として、五億円かけての耐震工事が決定され、昨年八月から今年三月までその為の長期休館に入っている。耐震工事とは古びた建物をそのまま使っている以上、もしもの時に利用者に危害があってはいけないので行われているにすぎないのだという。
「あり検」報告の、児童サービスを多摩図書館にもってくる、という提案自体が都立日比谷を廃館する布石かと言われている。実際、「あり検」の中で都立日比谷の記述は「当面は今の一般書の直接貸出を継続する」が「抜本的に見直す」とあるだけで、本当に素っ気ない。都立日比谷の児童書・研究書一六万冊を都立多摩に移動する措置を日比谷が工事休館中のこの年度内にやってしまおう、というのが「あり方検討会」発足と共に急浮上し、報告書がまだ出来てもいないのに準備が同時進行していたのだった。
都立日比谷の児童サービスの実績を惜しむ声が強い一方、都立多摩に来る事を喜び期待する声は少しも聞こえない。熱いファンがたくさんついてもおかしくない事業分野なのに本当に異常だ。
ただでさえ狭隘化が課題であった都立多摩に、信頼されていた市町村のバックアップサービスの蔵書を無理に押しのけて児童書コレクションはやってくる。そして、この地で児童・青少年サービスとして何をやるかの説明が全くない。児童書、児童サービスをもってくる必然性がないのだ。歩いて五分のところには立川市立錦図書館がある。
都立多摩図書館は施設的にはどんなところか。主要な立川駅からは遠く、多摩社会教育会館という併設施設の中なので、もともと天井が低く、建物に入ると多目的ホールなどとの共通ロビーがあり、奥まった図書館の入り口は本当にわかりにくい。そして、開架フロアも閉架書庫も今となっては余裕がない。あのわかりにくい図書館の開架スペースを区切って児童書コーナーとするのだろうが、誰が考えても無理がある。まして日比谷図書館の児童書・研究書一六万冊が入ってくるのと入れ替わるように、多摩図書館でこれまで収集してきた約四万冊の児童書は重複図書として再活用に出すのだという(その処分は来年度以降になったが)。何という機械的な処理、構想力のなさ。市町村では児童書の複本は常識なのに。(児童書の年間の出版点数は総量でも三〇〇〇タイトル程度であり、量的だけでも充実した蔵書だという事がわかるだろう。同じ重複図書と言っても、児童書の場合は一九八七年の開館以来、十数年にわたって都立多摩で網羅的に買い続けてきた図書を四万冊放出しようということなのだ。一般書のような、発行年はもっと古くて利用頻度は落ちているが、それゆえ新たな入手は出来ずいざというときは貴重、という流れとは性格が違う)。
児童サービスを立ちあげるための構想が決定的に欠けている。ただ蔵書がお荷物として日比谷から多摩へお手玉にされているだけなのだ。二〇〇〇年は子ども読書年だった。二〇〇一年末には子どもの読書推進法が成立した。そして二〇〇二年度には関係者の永年の懸案だった、小中学校への司書教諭の標準配置が実施となり、学校図書館問題に関心が集まっている。子どもの読書や児童図書がこれだけ施策的に注目されている事はかつてなかったと思う。大変追い風の時期なのに、何とも虚しい限りだ。児童図書館サービスとして大変不幸なことだ。
児童図書の活用については、私は日比谷図書館への戻しにはこだわらない(それはつまらない)。区市町村図書館の担当者や有識者、都民をまじえて構想をねり直すべきだ、と思う。日比谷はビジネス街であり、ビジネス支援レファレンスライブラリーを前面に押し出し、都立中央の分館とする。あわせて都立日比谷の遊休スペースを都立の書庫の拡張がすぐに見込めない現状では出来るだけ活用する道を探る。
日比谷の児童書については、どこか交通の便利なところにある都の遊休施設に児童図書研究のレファレンス図書館(さらに研修および活動支援センター)としてきちっと構想を作って〈前向きに〉移れ、独立しよう。その構想と必要な活動について関係図書館員、文庫関係者、教育関係者と今からでも話し合う、というのを提案したい。区市町村立図書館だけでなく学校図書館さらに小中学校などからのレファレンスに応えられる体制を強化する。区市町村図書館の不用図書で都立未所蔵な本の受入れを児童図書についても積極的に行い、(メジャーでお上品な児童文学・児童文化ばかりでない)子どもの出版文化関係のより頼りになるデータベースをめざす。すべてが開架である必要は全然ない。ただ今どきそれらしい施設のデザインやイメージ作りは当然必要である。多摩図書館でははっきり言って邪魔でもあり、生かせない。スペースの貴重な多摩図書館の一角に、担当者としてのなんの情報発信もなしに無理に押し込まれて、移ってくれば都立図書館としてはこれからはそこが担当部局だ、ということになり、とんちんかんにずっと居座る。このままでは一般書にも児童書にもよくない。
三月一日の朝日新聞多摩版に「重複している児童書約四万冊は来年度以降に提供先を決める」と報道されている。当初の一一万冊除籍には含まれなかったものの、毎年の新刊図書をあるレベルで一冊ずつ網羅的に集め続けた多摩図書館の児童書も複本というだけで全部放出するのが都の方針らしい。比べれば汚れたほうの都立日比谷の児童書を残して、ほとんどきれいなままの都立多摩の分を処分することになる。どこかの市立図書館の児童の蔵書を「全とっかえ!」出来るほどだ、というのが哀しい笑い話なのだ。都立多摩では狭くて複本に出来ない。上記した別に転進する都立の児童図書館で、積極的に活動を展開するストックのための複本にしよう。市町村の児童図書支援も、学校図書館支援も「あり検」でうたっているのだから、積極的な構想を作り出そう。
こうした構想が東京都の中で動かなければ、次節に書くようなデポジットライブラリー(共同保存書庫)のストック図書として、児童書も市町村の共有財産として受け取り、後日を期することになる。
デポジットライブラリーへの構想
「あり検」の考え方は逆立ちしている。区市町村の図書館が頼れる保存基盤は、ますます強化されなければならない。「再活用」という考え方の基本を〈区市町村から東京都へ〉の方向に戻さなければならない。背景に強力な資料保存・流通の基盤とそことの信頼感がなければ、自治体の図書館は安心して日常業務が行なえない状況なのだ。東京都がその役割をゆるがせにするとすれば、状況を自覚できる第一線の図書館が共同自衛を考えなければならない。やむにやまれぬ文脈から出てきたのがデポジットライブラリーである。区市町村の図書館と(利用者を含む)関係者が蔵書と智恵と労力を持ち寄って共同の保存書庫を運営する。各図書館までの配送も考えるのだ。
私は昨年一二月一九日に立川市で行なわれた「都立多摩図書館を考える集いPartII」で、「阻止・反対運動とともに市町村図書館共同運営の保管・流通システムの構築へ」と題し、短い提案を行なった。「あり検」阻止の請願を皆で全力で行なっていた時期で、反対運動の流れの中ではタイミング的には難しい中身だった。数か月たって、「あり検」自体を阻止することにならなかった以上、このことを改めて呼び出してみたい。あの集会で六〇人程の参加者を前に配ったペーパーは「I 阻止運動について」「II 共同自衛の対案づくりをどう考えるか?」の二部構成であった。以下にIIをそのまま掲載する。
II 共同自衛の対案づくりをどう考えるか?
阻止運動は、全敗か、進行を遅らせることになるだろう。仮に今回は(一切の事前の相談もせず、拙速だったとして)一時取り下げても、東京都が市町村との二重行政のように単純に認識し、図書館サービスから「降り」始めている。阻止運動とともに、市町村図書館および多摩地域の利用者・都民としてサービスを落とさず、維持発展させる共同自衛の「対案」が現実には必要ではないか?
【提案】自治体共同のデポジットライブラリー(保管利用書庫)の設立と運営を検討する
(原資その一)東京都の廃棄図書(今後も続く)をすべてストックの原資とする。
●最大になる可能性│→阻止運動の全敗の場合 今年度は一四万冊の除籍、以後都立図書館として過去に買った蔵書が一点一冊になるまで数十万冊の除籍。実はそれ以後も書庫スペースを一切増やさないのだから(遅くとも十年以内には一点一冊も維持できなくなり)新しく入れる本の分だけ毎年数万冊は廃棄する。
●最小になる可能性│→阻止運動の全勝の場合 都立図書館の現行の除籍基準(一点一冊は永久保存しそれ以外は三〇年期限で除籍という一九九九年に決まって実行され始めたばかりの基準。これ自体自治体の認識・議論は充分ではないが。)に従って、毎年一万冊程度の除籍。今年度は一二月初めに三〇年前の文学書が約九〇〇〇冊捨てられたばかり。
ただし、今回は阻止できた、という全勝的成功は、書庫スペースを拡充させる課題を東京都に早急に実現させなければ、数年の内に必ず裏切られる。(数年ですべて満杯。)
(原資その二)多摩地域の各図書館の廃棄図書を継続的に搬入し、ストックとする。
●市町村図書館では、実は全部単純合計すれば毎年数十万冊レベルの図書、雑誌を除籍してきた。各自治体の閉架書庫スペースを越えた部分はそれぞれの除籍基準に従い、都立多摩図書館にあること、それまでによその自治体に貸してないことを確かめ除籍。(最近では住民にリサイクルに出す館が多い。)これを一度はデポジットライブラリーに運び入れるか、保管状況の調査。例えば保存状態のよい本をデポジットで二冊ずつ残すというように計画的なストックとする。(市町村の本は重複する可能性が多い。)
つまり、都立と市立の両方の廃棄本をもとに、複数冊ずつ保管・流通するデポ資料センターをつくる構想である。毎年本を買う図書館運営ならば必然的に課題となる〈図書館事業の静脈・再活用ルート〉の日本で初めての確立である。これがあってようやく図書館は安定した事業になるのではないか。現在は各自治体バラバラに、焼却処分・再生パルプ業者から市民のリサイクルへ、という段階であるが、除籍をクローズアップすると新規図書予算が切られる恐れもあって課題であっても共通に浮上していなかった。(除籍図書は一度はすべてここに運び入れ、状態のいい二冊以外は都民および他の図書館に有償で頒布して資金にするということも考えられる。データが公開されれば全集の欠本とか探していた必要な資料として、多摩の別の図書館の蔵書にもらわれていくこともある。繁盛しているインターネット古書店などの例。)こういうセンターがあることで、各図書館が安心して身軽になれ、日々の運営をより利用者本位で柔軟に行える可能性がある。「保存」は市町村でも課題であり、東京都まかせより、自己コントロールがきく方がいいのではないか。もちろん建設後も都立図書館は利用する。それは都の義務であり、多摩の自治体と都民の権利だから。
【課題】
◎土地と建物(自動車流通に便利な場所。建物としては廃校の利用から、最新鋭の日本ファイリングの閉架書庫自動化システムの導入までの議論の幅がある。)
◎流通・配送(実用のためには、建設と流通システムと両方が解決されねばならない。大量に運び入れる際の臨時便の問題とリクエスト本を届ける速達便の運行と。現在なみの週一の定期便?)
◎デポジットライブラリー内部での資料管理システム。(もとの図書館でのデータをほとんど生かして標準化、加工。)
◎運営形態(一部事務組合から、NPO法人までの議論の幅。図書館職員のOBや図書・図書館を愛してくれる市民がボランティアとして力を発揮できる仕組みを作るほうがいいのではないか。)
◎初期資金と経常運営経費(なにしろ資料費は一切かからない。初期の土地と建物、経常的な蔵書管理と流通経費が課題である。初期資金は東京都と自治体で現物を提供してもらい、運営はNPO法人でおこなうというのはどうだろうか。)
◎多摩の自治体図書館だけでなく、地域の大学および区部や近県の図書館も希望すれば費用負担をして加入出来る仕組みを考えることもできる。
以上である。大風呂敷と言わば言え。とにかく資料は散逸してしまったら取り返しがつかない。資料群の中の位置と利用出来るシステムがあっての個々の資料であり、保存という行為なのだ。私たちにこれから出来ることは、「あり検」の中身を少しでもましな方向に変えていくことと、こうしたやむにやまれぬ協同組合的発想ではないか。このデポ構想は、先に「公共図書館の見据えるべき近未来(五七頁)」「望ましい都立図書館の未来(六〇頁)」で描いたような、ありうべき都立図書館像の未来にシンクロしている。いつか合流できれば、やった甲斐がある。
おわりに
この文章は、全体としてどう読めるのだろうか? 私としては、都立図書館への待望・期待の論理であれ、都立図書館否定論でものを言っているつもりはないのだ。
頭をよぎることは、都立図書館を中心にして、それに実務的にも理念的にも支えられて市町村の図書館サービスがある、という公共図書館の時代は終わったと言えるのかもしれない、ということである。おおまかにいえば都立多摩図書館が軌道に乗り、市町村立図書館が安定期であった九〇年代はそういう時代でありえたかもしれない。保存も購入・選書も、ネットワーク(図書館協力)も実は多摩地域の市町村立図書館は都立図書館に支えられてきた。
今、改めて、個々の市町村立図書館の自立と経営の力量が問われている。自立した図書館の連携と共同作業として、多摩地域の図書館があり、都立もその中で使いこなし、要求する、振り回されない、というスタンスが必要になっている。それは大変な認識であるが、「見えてしまっている」。あるレベルの範囲の内で繰り返しの仕事をこなしていくことはこれからも出来る。けれど、その限界を見ないようにしたままで、今後の多摩の図書館を発展的に語ることは出来ないのではないか。(それは日本の公共図書館世界の中で、モデルのない最先端の議論かもしれない。)
実態を見ても都立の累積の蔵書二五〇万冊は重いが、複本で持っていることに政策的には意味を見出せなくなっているのであれば、重複をはずせば二〇〇万冊を割り込むかもしれない。さらに「現有書庫限りで、はみ出せば除籍」ということであれば、理念的には何ら市町村と別格の存在ではない。図書費も、多摩地域の中では「ちょっと大きな地方都市」である人口三〇万人規模の町田市でここ数年は一億円台を維持しているのに対しに対し、都立の予算は平成一四年度は二億三〇〇〇万円程度である。そして、残念ながら〈重複購入はしないように完全に管理〉しつつ、都立図書館全体での全出版点数に対しての平成一四年度の予想収書率は実は、前年比でも下がる、ということらしい。つまり複本を買わないようにしても、そんなことでは取り返せないほど図書費予算自体が削減されているのだ。その程度の無残な現場的対処能力しか都立図書館の上層部は東京都庁の中で発揮できていない、とも言える。
なによりも、図書館をデザインする構想力の欠如が決定的だ。それに振り回されて、自らの位置取りをするのはむなしい。「都立」をネットワークの中でどう見て、どう仕事を組み立てるのか?というのが、改めて自治体の図書館の課題なのだと私は思う。
(二〇〇二年三月二三日)
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