二年前の『ず・ぼん』五号において、私は練馬区の図書館非常勤制度の歴史と現状について、「非正規職員は、正規職員を越えていくのか」という題で書いた。
当時は、練馬区・中野区等を除けば、全面的な非常勤職員の導入は、東京二三区のうちでまだ二、三の区でスタートを切ったばかりで、練馬区の事例は、将来を予想させつつもまだ珍しい特殊な状況と捉えられることが多かったようだ。
しかしながら、九八年に北区、九九年に豊島区、二〇〇〇年には、荒川区、葛飾区と導入が進み、今では二三区のほとんどすべての区で何らかの形で非常勤職員が働くような状態になっていると思われる。しかも先にあげた区では、常勤職員を削減した上での、非常勤導入である。職員数の中の割合でも、足立区、豊島区、千代田区などでは三割を越え、全体でも二割に達している。図書館の組合関係者も集まれば常に非常勤化の話題に明け暮れるといった状態で、もはや特殊ではなく普遍的な問題となりつつある。
今回は、実質的に専門的常勤職員として二〇年近く働いて来た立場から、非常勤導入における常勤職員の問題を考えてみたい。
文◎小形 亮
おがた・りょう●
南大泉図書館を経て、光が丘図書館勤務。現在、練馬区職労図書館分会長。
一……常勤代替における抵抗と無抵抗
かつて練馬区等でみられた非常勤導入は、常勤職員の労働時間の短縮や、時間延長等のサービス拡大によって不足する常勤職員の労働時間を補填するためのものであった。この時点で、将来の非常勤化を憂える声も小さいながらもなくはなかったが、現実に図書館業務を担っているのが常勤職員であるのは、自明のことであり、非常勤職員は果たして質的にその補填が可能か否かが問題点であった。
いわば、常勤職員あっての非常勤職員だったのである。
しかしながら月日が経ち、その数も増えるに従って、非常勤自身が自立し、少なくとも仕事の上では常勤職員と変わらぬようになって来ている。練馬区で非常勤のみの労働組合が作られたのも、この様な状況の反映といえる。
常勤職員削減代替非常勤職員導入は、常勤職員の補填ではなく、まったく別種の職員としての非常勤職員へその主体を切り換えて行くことに他ならない。
そしてその実行が、サービスの質的低下をもたらさない事は、長年非常勤職員が働き続けているいくつかの区の実例によって証明されているのである。
行政改革によって人件費の削減と開館日や開館時間の延長を図ろうとする各区当局は、委託化によって組合はおろか住民までの抵抗を受け、世間の注目を浴びる道を選ぶより、たいした抵抗もなく粛々として、非常勤化を進める選択をすることになった。もちろん常勤の三分の一程度の非常勤の人件費がそれを選ばせる基本的要因であり、非専門的常勤に代えて専門的非常勤を増やすことによって、サービスの質的向上が起こりうるといったことは副次的作用であれ、けっして動機とはならないのも事実である。こうして非常勤化の波が二三区に押し寄せた。
一方、これに対する常勤職員側の反応はどうであろうか。大別すると二種類に分けられる。一つは導入に際して激しく反対をし、その拡大に危惧を抱く区。もう一つは、導入に際し十分な反対を組織し得なかったり
、傍観者的立場に立っている区である。またこれらの態度の違いは、導入後の常勤と非常勤の職域分担にも反映している。
前記の区では、非常勤の仕事を貸出、配架図書整理等の非判断的業務とし、常勤の補助として従事する。片や後記の区では、先発の練馬区や中野区と同様、選書や相談業務を含むあらゆる事業分野に常勤と変わりなく従事する。
前記の区ではせっかくの資格が生かせないとの不満が非常勤からあがるのに対し、後記の区では常勤以上の仕事をしながら報酬が低いとの不満が出る。前記の区では非常勤の雇用年限を重視し、極力常勤に近づけまいとするのに対し、後記の区では雇用年限はきわめて長期か無いに等しく、常勤との間に経験と能力の逆転現象を生む。
どちらにしろ、司書資格などを採用条件とする専門的非常勤に違いはないのだが。
このような二種類に分かれるのは、次のような要因によると思われる。二三区においては、かつては専門職(司書職制度)があったが、三〇年以上前に数名の採用者があったのみで、有名無実の制度として一九九六年に廃止されてしまった。その代わりに以前より、そして今でもとられているのが、事務職員中の希望する者を司書講習等に派遣し、有資格者として長期間図書館に配属し続ける、実質的専門職制というべき方法である。一般の事務職員が三〜五年のサイクルで図書館に習熟する以前に異動してしまうのに対し、これらの職員は一〇〜二〇年と図書館で働き続ける。必ずしもすべてが司書とは限らない場合もあるが、これらの専門職的集団が図書館サービスの継続性を維持して来たのである。
これらの職員集団が職員中のどの位の割合を占めるかが、いわば図書館の力量を決めて来たとも言える。もちろん行政当局がこれを養成しようにも、職員中に希望者が十分存在しない場合もあるし、職員がい続けたいと思っても諸々の事情によって異動させられる場合もある。時々の状況によって不安定であり、真の専門職制とは、ほど遠いものである。
しかしながら、この専門職的集団の強いところでは、非常勤の導入は自らの職域を脅かすものとして捉えられ、常勤の削減に結びつかないよう強固な反対と導入後の職域制限が行われる。このような区では行革は、しばしば激しい労使対立を生み、ベテラン職員の強制大量異動が行われ、その後に非常勤導入といった状況となる。こういった例は、全体の中では少数派である。
一方、多数派を占めるのは専門職的集団の力がさほど強くない場合である。ここでは導入は比較的スムーズに進む。図書館に執着のない事務職員が多数の場合は、常勤削減にさえ目立った反対が起こらないこともある。ましてや職域を制限しようという必要など感じられない。職員集団の中の少数である専門職的常勤職員にとっても、自らの異動を伴わない限り、非常勤は良いパートナーであれ、けっして自分達を脅かす存在ではない。
結局のところ常勤職員集団全体が、専門職という意識を持ち受けるか否かが、この二つの分かれ目になるのだと言えるのではないか。
二…… その後の練馬区の非常勤
練馬区においては、二〇〇〇年度より春日町図書館の時間延長に伴い図書館協力員(練馬区の専門的非常勤職員)が一名増え、四八名になった。片や常勤職員は、非常勤代替もないままに四名削減され、一五七名となった。再雇用員九名を含めた非常勤率は、二五・八%から二六・六%へ〇・八%上がったことになる。
たいした差ではないかもしれないが、この二年間に常勤職員の二〇〜三〇%が入れ替わってしまったことを考えると、若干の退職と補充しかない協力員は、職場の中で一段と重味を増していることになる。分科会の出席停止案などの職域制限の動きもあったが、現実には不可能ということで実施に至っていない。
協力員労働組合も、慶弔休暇の取得や短期非常勤導入の阻止など着実に成果を挙げてきている。
しかし、報酬は毎年二〇〇〇円程度のベースアップがあるだけで、相変わらず賞与もなく大きな改善は見られない。
今年度に入り、六五歳での定年制が決まり、現在は一〇年目を越えたところでの図書館間異動問題を協議中である。これらはいずれも協力員が長く働くことを前提としており、六五歳まではよほどの支障がない限り雇用され続ける。また採用された館とは違う館で働き続けることが出来るという意味で、雇用のより安定を制度的に一段と保証するものである。
これに対して常勤職員の労働組合も、常に非常勤職員の雇用の安定と労働条件の改善を支援して来たため、これらの動きを支持こそすれ、反対はしていない。もっともここまで来ると、これで非常勤と言えるのかという気もするのだが。
しかし二〇〇〇年八月、突然に当局より常勤削減非常勤増員の構想が持ち上がった。通年開館及び夜間開館時間延長の実施を目的とするもので、そのために必要な職員の増員を人件費を増やさないで行うために、常勤と非常勤の賃金格差を利用しようというものである。
常勤職員の削減を主たる目的とするわけではないが、やはり常勤代替非常勤化であるのに違いはない。
「とうとう来たか」という思いが胸に広がった。専門職意識がけっして高いとは言えないが、練馬区の図書館職員は事務職にしては他区の職員と比べ健闘しているのではないかと思っていた。一面的な話かもしれないが、他区の実態を聞くにつけ、それなら非常勤に替わられても仕方がないだろうと思うこともあったが、自分の区だけはまさかそんなことはあるまいとの気持ちが心の中にあったのだ。
しかし現実は、そんな主観的な思いとは別に、生易しくない状況へと変化して来ているのだろう。常勤職員がどれ程働こうと働くまいと、専門職意識があろうとあるまいと着実に常勤代替非常勤化は進んで来ているのである。
練馬の話に戻ると、少しばかりの人員増では通年開館などは実施不可能ということで、構想そのものに反対しているというのが現在の職員の状態である。従って常勤代替非常勤化が問題の中心に据えられているわけではない。
しかし「こんなことになるのだったら、初めからきちんと職域制限を設けておくべきではなかったのか」という意見も一部では出て来ている。職域の問題をめぐっては次章で述べたいが、今までは自分達の都合の良いように常勤と同じ仕事をさせておきながら、都合が悪くなると職域制限を持ち出すのでは、エゴイズムと言われても仕方がない。だが、非常勤職員の位置づけを導入時はもとより、今に至るまではっきりさせてこなかったのも事実なのである。いずれにしろ、もう本当に逃げられないところまで来てしまった。
練馬区において常勤の側から非常勤に対して、差別的な言動や扱いはほとんどなされて来なかったと思う。これは誇ってもいい。けれど今までそれは自分らの身を切る必要がない高所に立つことが出来たからであり、その高みから非常勤の待遇改善をも支持して来た。しかしこの前提が崩れる時どうなるのだろうか。もはや常に身を切られる覚悟がなくては、何もなすことは出来ない。自らの痛みを避けるために他者に痛みを与えて平然としていられる感覚がない限り。
今世紀初めのアメリカの炭鉱で、古くからそこで働く労働者と新たにやって来たより低い賃金で働く移民労働者の集団が、血で血を争う闘いを繰り拡げる映画を見たことがある。この問題を考える時にいつもこの映画を思い出す。こんな荒っぽい事態にはならないだろうが、非常勤職員の位置づけを明確にして行く過程(同時に常勤職員の位置づけも明確になる)では、当然ながら常勤と非常勤との間の意見の食い違いも出てくるものと思われる。曖昧であるがための蜜月の時期は過ぎた。曖昧であることは、結局のところ非常勤の損にしかなってこなかったのだから。
無抵抗のまま非常勤に席を譲るのか。それとも常勤を削減してまでの増加に激しく抵抗するのか。
どちらも練馬区の常勤職員の取る道ではないように思われる。なぜなら、そのどちらにも常勤と非常勤の真の両立の道が見い出せないからだ。他の区に先がけてこの制度を導入した練馬謔ナは、今までは常勤も非常勤も区別のない程に同じ職場の仲間なのだから。もちろん先程あげた曖昧さの上に成り立っているということは言うまでもないが、その曖昧さの解決がどちらか否定し、仲間を切り裂くような結果を導くことだけは避けたい。
それを進める状況があるにしろ、練馬区の非常勤制度の成功は、他区の導入に拍車をかける一因になったと思われる。この制度のパイオニアである以上、他に範を求めることは不可能であり、自ら道を拓いていく以外に方法はないのかもしれない。
三……職務分担をめぐって
先にも触れたように練馬区では、非常勤導入の当初より、庶務関係を除けば常勤との間にほとんど職域の分担を設けないでやってきている。導入時の経過から非常勤は常勤の代用であった(本来常勤が必要なところへ、常勤の増員が出来ないため非常勤を配置した)。
従って、何ら別の職務に就けるために採用したわけではないので、職域を分ける必要性などまるでなかった。そのまま現在に至っているわけだが、それについて何か明確な位置づけがされているわけではなく、いわば自明のこととなっている。
このような環境で働いて来たせいか、私にはどうしても常勤と非常勤の間に職域分担を設けなければならないかが分からない。
職域分担を主張する考え方は、大きく分けると次の二つがあるのではないか。
一つは、常勤と非常勤は身分的にも立場的にも別種の職員であり、自ずからその役割は別であるというものである。この考え方では高度な試験を通って任用され、停年に至るまで身分を保証された常勤職員は市民に対する責任を有するが、雇用年限も短く採用方法も軽易な非常勤職員は、それほどの責任を有しない。従って常勤は図書館運営に直接関わる管理的・基幹的業務に従事し、非常勤はより末端というべき直接サービス分野に従事する。
また専門職論議とも重なるがこれの別種として、常勤職員は長年に渡って様々な職場で異動を行うため、総合的視野が身につき図書館のみの非常勤職員では、専門的分野にしか目がいかないというのもある。
立場の差をある程度肯定したとしても、それによって従事すべき業務が異なるというのは、いささか疑わしい。そもそも管理的・基幹的業務とは何を指すのか。
練馬区の図書館では、非常勤に庶務部門の仕事や起案はさせていないが、例規集を見れば望ましいことではないとしながら非常勤が起案する場合があることも載っているし、現により非常勤化が進んだ他の部署では、非常勤が契約や支払いの事務を行っている例も結構ある。こうなると聖域として残るのは、職員管理・予算管理といったところだけになるかもしれないが、これですら非常勤館長すら登場している近頃では危ういものだ。
ましてやサービス事業分野では、何が基幹で、何が末端なのか分からない。選書が根幹で配架が枝葉などと本気で思っている職員がいたら、お目にかかりたいものだ。どの仕事でも市民に対して責任が存在しないものなど、ありはしない。
最後に総合的視野の問題に触れれば、一部の役職にある人や組合の幹部を除けば、いくら異動を繰り返してみても各職場での業務の知識が広く浅く身につくだけで、かつそれを図書館で生かしている人をあまり見かけない。総合的視野は、職場によって与えられるものではなく、自ら意図し研鑽を積むことによって得られるものではないか。
二つめは、より職能的な立場の考え方である。この場合の常勤職員は、専門職もしくは専門職的な職員である。常勤職員は、専門職なら正規の試験を受け、専門職的な場合も司書講習の派遣等によってある程度公的にその専門性が認められ、かつ長期間の図書館の勤務が保証されているため知識や経験を蓄積することが出来る。そうして得られた能力は、たとえ司書採用であろうと、短期的雇用が前提の非常勤職員の及ぶところではない。従って常勤は、選書、レファレンス等の高度で専門的な能力を必要とする業務に従事し、非常勤は貸出配架等の熟練を必要としない業務に従事する。
またこれの亜流として、常勤は高い賃金を保証されているから、高度な熟練を必要とする業務を行うのは当然であり、低賃金の非常勤はより初歩的で簡単な業務しかする必要はないというものもある。職能給的発想であり、これによって同一労働同一賃金の原則は、守られるかに思える。
しかしながらこれらは、常勤が専門職もしくは専門職的職員であることが前提であり、専門職がおらず、専門職的職員も数少ない二三区では、その前提が崩れさってしまう。
それでもなおかつ押し通そうとすれば、司書であり知識や能力を持つ非常勤が簡単な業務を行い、図書館の知識もなく他部署から渡って来たばかりの事務職員が、高度な業務を行うというわけのわからないことになってしまう。これでは職能給どころではない。
雇用の保証としても、事務職としての採用では常勤としていつまで図書館にいられるのか分からないのに対し、専門的非常勤として雇用止めがない練馬区などでは、非常勤は五年一〇年と勤務を続けているのである。当然逆転現象も起こる。
近年図書館界では、職務分析が盛んだ。図書館の仕事を一つ一つ分析し、その専門性を判断して行くという方法は、図書館の専門性を確立して行くためには有効なのかもしれない。しかしこれとても二三区の場合は、常勤=事務職、非常勤=専門職という状態にあてはめれば、非常勤化を加速しこそすれ歯止めにはなりえない。
次に高度で専門的な業務と初歩的で簡単な業務の、仕分けについてである。
都道府県立や大学図書館、もしくは区部でも中央館クラスならともかく、常勤・非常勤合わせて一〇人ほどの職員しかいない町の図書館で、このような仕分けは意味のあることだろうか。たぶん全員が朝は一斉に配架をし、交代でカウンターに出て、貸出もすればレファレンスも行い、事務室に戻って来ては選書をするというのが実態ではないだろうか。このようなところで、きっちり職域分担など行えば、仕事は滞り、サービスは一気に低下してしまうのではないか。職能うんぬんなどと、それこそ高度で専門的なことを言っていられる状態ではないのである。
四……専門性の問題として
私は、図書館員に専門性は必要だと思っている。図書館に関心も知識もなく、目的も理解しない職員に従事されることは、その職員にとってもサービスされる側の市民にとっても不幸なことだと思う。
しかし当然の事ながらすべての常勤職員がそうであるわけではない。
何事に対しても熱心だという人は多いし、読書が好きだし、図書館に適性を有する人は沢山いる。こういう人達が一〇年、二〇年と働き続け、知識と経験を蓄えていったらさぞかしすばらしい図書館が出来ると思う。けれど残念ながら、三〜五年で異動していってしまう。
専門職的常勤とこのような人達と、そして専門的非常勤によって主として支えられているのが、二三区の図書館員の実態である。
では図書館員の専門性とは何か。
私は、医師や教師とは違って、大学での図書館学教育や司書資格さえ、地域の公共図書館で働くのに必ずしも必要ではないと思う(司書課程で得られる程度の知識は当然持っていて欲しいとは思うが)。
こんなふうに書くと怒り出す人がいるかもしれない。しかし二〇年近い図書館勤めで私が出会った同僚(異動が激しいから延べ二〇〇人は越えるだろう)の中で、非常勤を除けば大学での専門教育を受けたと思われる人は、ほんの二〜三人だし、司書といえども一〜二割でしかない。そういう私自身も大学での専攻は哲学だし、司書も四年目にやっと公費派遣の司書講習でとった。こんな状態でも、何とか地域の図書館として住民にはそれなり役立って来たのではないかと思う。
英米のシステムを範として、だから日本はだめなんだと言われれば、それまでかもしれない。しかし、現実の図書館の働きを丸ごと否定することはできない。
大学図書館や都道府県立図 書館ならいざ知らず、せっかくツールを揃え、レファレンス・カウンターで意気込んで待機しても、聞かれるのは、家庭での味噌の作り方であったりする。地域の人々の日常生活の中で必要とされる情報を、それにふさわしい資料を選ぶことによって提供してゆくのが地域図書館の役割なら、人々の生活実感を知り、実用書であれ雑誌であれマンガであれ、必要とされる資料を知って行くのも図書館職員の働きである。
こういった事は、教育で得られるものではない。現場での経験と積極的な意欲によって、得た知識を蓄積していくことによってしか、身につかないものである。
医師や教師が初めから言わば完成品としてスタートするのに対し、図書館員はどれだけの教育を受けて来ても、現場ではゼロに近いところからスタートする。図書館員は、しだいに成っていくものなのである。
また、医師や教師が基本的に一人で患者や生徒に対するのに対し、図書館員はその図書館全体の職員集団として市民に対する。従ってたとえ個人がゼロであっても、集団として業務を行っていくことが出来るのである。
結局のところ、図書館員の専門性とはこのような現場を通じての知識や経験を蓄積していくことによって生まれるものであり、かつそれは図書館員個人より、職場の職員集団に帰属されるものである。
専門職制を私が必要だと思うのは、図書館に対し意欲や適性のない人の参入を阻む事が出来ると共に(例外はあると思うが)、このような知識と経験の蓄積を職員集団として保証出来るからに他ならない。
従って、専門的非常勤といえども短期の雇用止めがあるのでは、専門的とは言えない。
専門性を身につけるためには長期間雇用され続ける事が必要なのであり、司書資格(ある程度意欲と適性のバロメーターになるとは思うが)がそれを付与するわけではない。
練馬区で常勤と非常勤の間で能力の逆転現象が起きたのは、事務職と司書職であったからではなく、非常勤に雇用止めがなく、常勤より長く勤め続けられたからなのである。
図書館において専門性とは、特定の誰かしか出来ない高度な(と思われる)仕事をするものではなく、誰しもが出来ると思われる仕事の中により深い意味を与えていくものでは、ないだろうか。
たとえば図書を分類どおりに配架することは、アルバイトでもボランテイアでも出来るが、配架をしながら何が良く利用され、利用されないかを判断し、この棚には何が必要で余分かを考えていくことは、ベテラン職員達にしか出来ないことであるというように。
五……非常勤職員、そして常勤職員の今後
不況が続き、自治体の財政状況が好転しない限り、図書館の非常勤化は続いていくものと思われる。たぶん今後は、異動させることが容易な事務職ばかりでなく、異動させづらい専門職でさえ、常勤代替非常勤化は起こりうる可能性はある。
暗い状況と言えるかもしれないが、見方を変えた時、ことに二三区において非常勤化はそんなに悪いことだと言えるのだろうか。ほとんどの区で専門職採用(図書館以外への異動はない)である以上、雇用止めがない限り、図書館の専門職化は進むことになる。
これは二三区の専門職的職員にとって悲願として来たところではないか。常勤の専門職制度がなかなか到達し得ない高い目標であるにもかかわらず、まるで裏口から忍び込むように非常勤によって、いつのまにか専門職化が進んで行く。
サービスを受ける住民にとって、親切で知識のある職員が必要なのであって、常勤か非常勤かなどということは、関係がないし見てもわからない(たぶん尊大で横柄な態度で判別がつくのは、常勤職員であろう)。ろくに接遇の研修も受けない役所の常勤に比べ、民間企業での勤務経験のある非常勤は接客態度も良く親切である。
また三〇〜四〇代で採用された人の中には、教養もあり、かつ様々な人生経験を積んで、とても魅力的な人がいる。役所で若いうちから働いているだけでは、とてもこんな人格は生まれないだろう。終身雇用制のもとでは、一〇〜二〇代で就職し、同じ一つの職場社会に属し、その中で社会的自己を形成し成長させて行く。それがその集団に共通な個性的な職業らしさを身につけさせる反面、他の社会の持つ生活実感から、かけ離れた所に身を置いて行く。
そういう職員集団に非常勤は、生活実感を持つ存在として、職場に活気と良い意味での緊張を与える。常勤が比較的一様な人々から成るのに対し、非常勤には多様な人々がいるのである。
以上、職員集団における非常勤化のメリットを挙げて来た。この上、能力の逆転現象まで起こっては、非常勤化を悪として行くことは困難ではないのか。いやむしろ常勤が居続けることの方が悪ではないのだろうか。
常勤職員の側から非常勤化に反対する論点は、大きく二つ挙げられると思う。
一つめは、それぞれの図書館には職制とは別にベテラン職員(専門職的常勤)を中心とした職員集団があり、この集団を軸に図書館サービスを担って来た。時によって当局が委託化等の反動的な動きを見せる場合は、労働組合に結集してこれを阻止して来た(しばしば職員集団=労働組合の場合がある)。
しかし権利や立場の弱い非常勤では、これに代わることは不可能であり、当局の言うがままになることによって、職場の自治は失われてしまう。それはサービスの低下や図書館の反動化を招く。
これと似たものとして、非常勤のみでは職員集団は成り立ちえない。常勤職員の存在があって初めて、非常勤制度が成り立つというものもある。
その是非はともかくとしても、管理者側(職制)と職員側(職能)の拮抗により、図書館の施策が進められて来た例が多いと思う。管理者側に図書館経験者が少なく現場の業務を知らないがために拮抗が生じ、かつ続いて来たわけである。
時間とエネルギーを必要とする方法であるが、決定のプロセスが明らかにされ、力関係にはよるものの、交渉によって皆が納得する中で決められるという良さはある(もし専門職制になり、専門職の管理職となって、職制=職能となった場合、図書館内部にこれを批判するものは、いなくなってしまうのではないか)。
さて、この職員集団に非常勤が代わりうるのかという問題だが、まず非常勤を職員集団に加えているのかということが問題である。
職域分担があるかないかにかかわらず、職場の自治の中心であるミーティングに常勤と同じように参加しているだろうか。そして、業務のことであれ、政策のことであれ、同じように発言し、それが尊重されているだろうか。同じ組合であれ、独自の組合であれ、組織化され、自己決定の場を与えられているだろうか。常に同じ状況を共有し、共に働く仲間として認められているのだろうか。
常勤の側からこのように扱われない限り、代わろうにも代わるように成長することも出来ない。当局側でもない、常勤職員側でもない、いわばこの場から疎外された集団として存在するしかないのである。結局それは非常勤を非労働者Iな環境に置き続けるばかりでなく、職員側の対当局拮抗力を相対的に低下させることにもなる。
非常勤を職員集団に加えることによってしか、拮抗力を維持強化して行くことは出来ないし、その中で非常勤からリーダーが現れる事があっても、それは当然の事とすべきではないのか。また権利や立場が低いと闘えないという意見に対しては、現在の常勤の組合の沈滞状況を見れば、権利や立場と闘う意志は反比例こそすれ、正比例しないということが出来る。
練馬区を見ても、かつて何十人も参加した分会交渉など夢の様であり、専門的職員の相対的減少と高齢化、世代間の意識の差、不規則勤務の増大などにより職場集団の結集力は弱まっている。かくいう私自身も含めた組合執行部も、同じ顔ぶれが続き、マンネリズムの中でしだいに意欲を失っている。これに対し、賃金を始め改善しなければならない要求を持つ非常勤の組合は、意気盛んだ。恒例の組合行事も今では非常勤の参加なくしては、成り立たないと言っていい。
次に非常勤は常勤なくして存在出来ないというのは、現在の常勤に対しての少ない割合及び採用からの期間の短さについて言われるのであって、将来的にもそれがあてはまるとは言えない。
非常勤が過半数ともなれば、当然今はしていない職域にも進出して行くだろうし、免れている責任も負うことになるだろう(それが不可能でないことは、前に述べた)。また逆転現象が起き、職員集団の経験や知識が非常勤によって伝えられているようなところでは、常勤こそ非常勤がなくては存在しえないと言うべきなのである。
最後に、常勤が非常勤化に反対する二番目の理由は、最もこの問題の核心をつくものである。
自分達常勤が従事する労働に、同一労働同一賃金の原則を無視して、三分の一の賃金で働く非常勤が就けば、本来正当であるはずの自分達の賃金が相対化され、高いものとされて引き下げられかねない。その上終身雇用が保証されているのに、そうでない非常勤と比較されては、雇用さえ守られるかどうか不安である。非常勤という無権利状態の労働者の登場は、私達が長年勝ち取って来た権利を危うくし、常勤という存在を脅かすものである。
まったくそのとおりだし、すべての常勤労働組合が非常勤化反対の根拠となすのもここであると思う。反論のしようはない。自分達の立場を絶対化していることを除けば。
ここで基本的な問題を考えてみたい。私達常勤職員の得ている賃金は正当なのだろうか。ならば何によって賃金は決められているのだろうか。
マルクス的に言うならば、賃金を決定するのはその労働によって生み出される価値ではなく、労働力の再生産に要する費用と言うことになる。
終身雇用制のもとでは、その一生を通して再生産費が決められる。若く就職した当初は、自分自身の再生産費だけであるから、衣食住に必要な金額と将来に備えての若干の貯え程度であり、賃金は低い。齢を加えるに従って結婚をし妻を(配偶者と言うべきかもしれないが、現在の賃金体系は男性中心に出来ていると思うのであえて)養い、子どもが生まれれば教育し、やがて親の面倒を見る。これに合わせるように賃金も一年一年あがり、五〇を過ぎる頃には、たとえ労働の内容が同一だとしても当初の数倍ということになる。つまり生活給である。
では非常勤の賃金はどのようにして決められるのだろうか。月単位でいえば、ごく若い常勤より上回る例もあるかもしれないが、賞与はない。つまり再生産費以下なのだ。
なぜ再生産費以下なのか。それは非常勤がたぶん常勤の社員もしくは職員である夫や父によって、最低限の衣食住を保証されていることを前提としているからである。もう少し分かり易くするために、例をあげてみよう。四〇歳位の同年齢の図書館で働く常勤と非常勤の夫婦が子ども二人と暮らしている。
夫の年収は七二〇万円であるが、妻は若干出勤日数が劣るだけなのに二四〇万円である。夫の年収だけで暮らすためには、借家に住み、子どもを公立の高校・大学へやらねばならないが、妻の年収を合わせれば住宅ローンを払い、子どもを私立へやることが出来る。
妻の収入とて最低限ではないものの、生活のために使われることに違いはない。従ってこれもまた生活給と言うことが出来る。ただしそれだけでは、生活出来ない生活給であるが。生きがいのために働くという人もいないではないが、大部分の非常勤は家計のため、生活のために働いているのである。
前とはまったく違った意味で、非常勤は常勤の存在なくしては、成り立たないのである。この前提が崩れる時、たとえば夫を亡くしたり、家を出て自立したりという場合、生活していくのに非常に困難を強いられる。ましてや子どもを育てたり、親を養ったりというのは不可能に近い。そのような責任を負わせられる男性が非常勤になることが少ないのももっともなことである。
常勤と非常勤の間には、既に扶養する者と扶養される者という、言わば身分的な垣根ェ横たわっている。しかし本当にそれは、妥当な事なのであろうか。同一労働同一賃金の原則と生活給という考え方は、本来相容れないものかもしれない。人間は生きていかねばならないから、生活給が優先されるのは当然なのだろう。しかしながら、同じ労働に対して支払われる賃金にあまりに大きな差がある場合、それは労働の対価という意味合いを失って、生活保証、身分保証のための費用と化していく。しかしそれは、同時に労働意欲を、殊に差をつけられてしまった者の労働意欲を阻喪させて行くことにもなる。
また、生活給の考え方を肯定するとしても、現在の賃金体系は、人々の生活様式に著しく合わなくなってきている。前にも書いたとおり今の生活給は、夫一人が家族を養っていくという事を前提としている。しかし共稼ぎの夫婦は増えている上に、パート等で働きに出ている人まで加えれば、まったく収入のない主婦など今では少数派であろう。片や独身を通す人もいれば、離婚をし一人で子どもを育てている人もいる。
このような様々なスタイルがあるにも関わらず、古い一つの考え方で押し通そうとすることに無理がある。
例として再び前の二組の夫婦に話を戻そう。夫の年収七二〇万円は、言わばこの家族が生活をしていくための最低のラインであり、それを元に賃金が決められている。妻の二四〇万円はそれよりいくらか良い生活を送るために使われる。
共に生活給であり、二人の働きが常勤、非常勤の身分差を除いてそう違わないものであるとすれば、(七二〇万円+二四〇万円)÷二=四八〇万円こそが、本来それぞれ手にすべき賃金なのではないだろうか。これであれば、非常勤の場合今までの賃金の倍となり、独身であれば十分に生活して行くことは出来るし、結婚していてもいなくても子どもの一人分位は養育していける。そして夫婦の関係も平等となりうる。
これと比較して常勤同士の夫婦がいた場合、賃金の合算は、一四四〇万円となり二家族分の最低生活費となり、これを生活給とみなすのは無理であろう。片や非常勤同士の夫婦(可能性の問題として)の場合は、合算しても四八〇万円にしかならず、所帯を持つことは不可能であり、これまた生活給とは言えない。
同じ労働をしても、このような格差がついてしまうこと自体、現在の生活給賃金体系が、生活給の意味すら失って、身分的な賃金へと変貌しつつあるのではないだろうか。
本来人一人が老若男女に関わらず、一人で生活(最低ではなく標準的な)をしていくのに必要な賃金が支払われるべきなのであろう(ただし、子どもの養育に必要な費用を社会的に負担したとして)。これなら生活給と同一労働同一賃金の原則は両立することになる。このような賃金体系に移行するためには、当然常勤の賃金の引下げを伴うことになる。常勤の賃金を今のままにして、非常勤の賃金のみをそれに比例するまで引上げるということも、労使間のパイの分け方を大幅に変えない限り無理である。
常勤の側が血を流すことなく、非常勤の現状を改善することは不可能であり、それを厭う者は、自らの特権的立場に固執し続ける者という他はないのである。
書き進めて来るうちに最初の意図を大きく越えて、きわめて常勤職員に厳しい内容になってしまったと思う。
このように書いたからと言って、私が図書館職員の常勤代替非常勤化に積極的に賛成していると思ってもらっては困る。現状のままでどんどん非常勤が増えていっても、それが当局側の人件費のコストダウンを目的としたものである以上、低賃金や雇用の不安定さが自然に解消されるというものではない。むしろ非常勤の犠牲の拡大によって、図書館サービスが行われていくという結果にしかならない。
また少数の時は、人道的配慮から非常勤を支援しえても、多数になり自らを脅かされる状況になった常勤により、職場の階層化、身分化が拡大され、固定されて行くかもしれない。かつての平等主義から今や貧富の差が拡大しつつあると言うが、このようにして新しい階級社会が生まれるかもしれないのである。
しかしながら非常勤の増大は、常勤にとって自明として来た自らの立場を相対化させる契機となりうるのである。それによって常勤非常勤というわくを越えて、労働者全体という視点にたどりつくことが出来れば、その中で身分や差別があることがどれ程不合理なことか、それが使用者を利することにしかならないかが理解されるのではないだろうか。
押し寄せる非常勤化の波の中で、常勤職員は図書館に存在し続けられるのだろうか。
低賃金を初め、すべての矛盾が蓄積された制度の中にいつまでも非常勤が留まっているとは思えない。一介のあたり前の労働者としての賃金と権利を求める闘いの前に、常勤という特権的身分を守るために立ちはだかろうとする限り、常勤という在り方としては留まって行くことは出来ないであろう。
同じ図書館に働く労働者として、自らの中に存在する壁を乗り越えられてこそ、再生は可能となるのではないだろうか。
|