文◎石田 豊
いしだ・ゆたか●
1955年5月5日京都市生まれ。パソコン関係を中心にしたライターを業とする。
著書に『Macintoshデータ活用術』(毎日コミュニケーションズ)など。
大多数を占める「図書館なんて関心ない」人たちを除くと、残りの少数者は「図書館好き」と「図書館嫌い」に大別できる。
友人のSはいつも待ち合わせ場所の柱にもたれて図書館で借りた本を読んでいる(という状況のSとしか会っていないだけのことなのだが)。いっぽうNは「誰が触ったかわからないような本を手に取るだけでもイヤ」という理由で図書館を嫌っている(ぼくはNが触ったのでなければ我慢ができる)。
ではぼく自身はどうなのか。どうも心の奥底では嫌いなんではないか、と思う。が、現象的にはよく利用もしているし、新しい街へ行くと図書館に立ち寄ったりすることを思うと、どこか偏愛に似た気分がないでもない。好きなのか、嫌いなのか。まずそのあたりをはっきりさせなければならない。
キライな部分を挙げるのは、実に簡単である。いっぱいあるからだ。
*
まず図書館員がキライ。図書館員ならびにその関係者はこの文章の主たる読者と目されるわけだから、こういう書き方は非常に礼を失したものであることはわかっているし、そもそもが単純きわまりない偏見にすぎないこともわかっている。
しかし、(偏見なるものが常にそうであるように)わかってはいても、どうも拭い去れないのだ。なんでだろう。
熟考するに、要するにそれは言語の問題だと気がついた。
我々の口語は会話者相互の関係性の中だけで綴られる。つまり、どっちかがエラくて、どっちかがエラくないという関係の中だけでうまく機能する言葉だ。エラい人と話しをするのは簡単だし、また、向こうがこっちをエラいと考えている場合(しかも当方としては先方の思い込みを受け入れることにやぶさかでない場合)にもまたスムーズに会話できる。
問題が生じるのは、どちらも同じくらいのエラさである場合。
実にストレスが溜まるじゃないですか。ある瞬間にブレイクスルーがあり、一気に「友だち」になってしまった時は別。でもだれとでも友だちになれるわけではない。
たとえば旧帝国憲法下であったなら、お上・民草という関係であって、それはそれなりにしっくりする間柄を作ることができただろうが、オイコラではいかなくなってまだ50年。
一般の経済活動、つまりお客とお店の関係の場合は、客エライという関係を仮構することで、擬制的な上下関係をつくり、その仮の関係によりかかって、スムーズに会話できる。会話者双方が、互いの関係は仮のものでありウソのものだということを熟知しているため、おおむね双方の人格を尊重する範囲で会話が成立する(ただし、昔からいる傲岸不遜の「客」については例外だし、昨今のコンビニ・ファストフード店のできの悪いロボットのような店員は別問題だけれどもね)。
お役所とか図書館とかになると、「店」側と「客」側の関係がうまく作りにくい。双方とも自分のことを「店」だとも「客」だとも思い切れない部分が残る。
全部が全部とは言わないが、図書館員の対応に不愉快を感じることは、決して少なくないのである。
これはきっと「客」側に問題があるんだろうね。
「客」の中には、お役所とかJRとか図書館で、妙に力んでしまうのがいる。「なんだてめえら公僕」というわけだ。きっとどっか屈折してるんでしょう。
そういう屈折した「客」との無数の遭遇を経た古手の図書館員(の一部)は、妙にハスカイな物の言い方をし、実に緩慢な動き方をし、びっくりするほど冷たい目つきをしている。
当方も、ただで貸していただいている、ということがどこか負い目になっているので、こうした態度が心に響いちゃう時があるのだな。
いやだなあ。なんとかならないかなあ。
冒頭に「図書館員がキラい」と書いたけれど、そうか、「図書館員と利用者間の人間関係の有りようの一部」がキラいだったわけだ。
*
もひとつ、図書館員がキラいなところを思い出した。声がでかいぞ。
書架の図書館では静かに。小学校の時分から教え込まれている。考えてみりゃ、図書館だけで静かにしてなきゃならないことはないわけで、多くの人が読書している電車の中でも静かにしといて欲しいし、レストランでも同じだと思うのだが、とにかく「図書館では静かに」は浸透していて、おおむね大多数の利用者は羊のように従順にひそひそと声を交わす。
静粛の中に突然かなり明瞭な声が響く。さして大声というわけではないんだろう。ま、あたりまえの音量。しかし、タクトが上がった瞬間のコンサート会場のような静粛の中にいるときに、これは破壊的な大音量だ。これが決まって図書館員なんだよね。「ヤマダさん、外線はいってます」「はいよっ」。
いやだなあ。なんとかならないかなあ。
これは公立図書館のうちには入らないんだけれど、ぼくがよく利用する近くの区民センター(公民館みたいなところ)の図書室。運営しているのはきっとボランティアであろうと思うのだけれど、中年のご婦人連。ほとんどのべつ会話してる。これはすこぶる神経に触ります。
解決法はふたつある、と思う。ひとつは図書館員もひそひそ話すること。もうひとつは「図書館でしゃべってもOKよ」という具合にルール改正すること。どうせ今の図書館は「本を読むところではない」風になりつつあるから、ルールを改正しちゃうほうがいい、と思う。高機能の耳栓もある時代だし。
*
今書いた「本を読むところじゃない」という風潮。これはどうもトレンドになっているみたいですね。公立の地域図書館では、座席は極端に少なくなってきており、かつ、そこが申し込み制になっていたりする。椅子やソファを少なくするのは、聞くところによると、ホームレス対策だとか。う〜む。日本式「解決策」ですなあ。
限られた面積なんだから、座席が少なくなると、書架が余分に置けるだろう。書架があれば本がたくさん並ぶだろう。だから、この風潮はいいものだ。
個人的には、もっとビシビシやってくれ、と思う。申し込み制なんて手ぬるいぞ。有償にしてくれ、とも思っている。でもそれはもうちょっと後で書く。
座席数が少なくなってから顕著になったことだと思うのだが、書架の高いところの、本を取るための脚立に座って本を読む輩がいる。ぼくはこれがイヤなんだ。
書架のエンド部分にそうした脚立は配置されており、本来その列の書架の上の方に置かれている本を取るために、移動させて使うようになっている。それがほとんどふさがっている。高いところの本が取りたいなあと思って見回しても脚立は全て使用中。これは著しき人権シンガイではないか、と上ずったことまで思ってしまうのだ。図書館側もそのあたりに配慮しているのだろうか。エンド部分に脚立ではなく椅子を置く所もある。それじゃ座席指定制が貫徹しないよ。
書架の間を歩く場合に、こやつの存在は妙に邪魔だ。足を投げ出して読んだりしているので歩きにくい。そもそも図書館で座席が必要な場合は「調べ物」をする場合であって、本から本へと渡り歩いて、自分の調べたいことをノートするという際(もしくは禁帯出のものを読む場合)にのみ許されることであって(と勝手に思い込んでいる)、読書したり受験勉強したりはご法度のはずだ。脚立の人は読書している(例しか見たことがない)わけで、それは貸し出し処理をして、家なり喫茶店なり公園のベンチでなり読めばいいのだ(と勝手に思い込んでいる)。
脚立人の存在は、書架で本を選んでいる間も気になり、不愉快でもあるのだが、その理由はいくら考えても明確ではない。たぶんぼくが我儘であるからに過ぎないのだろう。あえて屁理屈こねると、本を選ぶというのは狩猟行為であって、シンケンであって、気持ちを集中させていることであって、その際、近くに別の猟師がいても、それはそれで、ご同輩油断めさるな、と心中エールを贈る程度で済むのだが、近所に口を半開きにして本を読みふける異分子がいると、それだけでコタえちゃうのかもしれない。
とかなんとか言いつつも、時として、椅子に座り本を開いたままで居眠りをしている年寄りなんかを見て、なんか心がひろびろと暖かくなってしまったりする。いかんなあ、自己矛盾しているなあ。いかんいかん。非情で行こう。
*
そうだ。利用者もキラいだったんだ。キラいなのは脚立占有派だけではないことに、今、気がつく。
書架の前で、本を読むな。
人間の体というのは、おおむね60センチ程度の幅を持つ。中にはそうした平均値から大きく上方に逸脱している人もいる。一方、書架は90センチから120センチ単位で区切られている。つまり書架の前に長時間1人の人間が仁王立ちになっていると、ある分類の書籍の半分から3分の2が隠されてしまうのである。上方に逸脱した体形の方の場合はそれ以上の被害をもたらすことは言うまでもない。
ぼくの探している本は日本十進分類で言えば、決まってそこにあるのである。そういう時、ぼくはライオンの獲物をこそこそ啄ばもうとしているハゲタカのような気分になる。姿勢や行動もおそらくそうした鳥のようになっているんだろうと思う。思うだに情けない。不思議なことに仁王立ち氏もライオンのような心理になるんでしょうね。ここはオレが発見した獲物だ、みたいな。必ずこっちを迷惑そうに一瞥する。
冗談じゃないよ。
本を選んだら、さっさとその場を離れる。それが仁義だ。
*
余談になってしまうが(ま、全体的に余談なのだが)、だいたい立ち読みなんて行為自体が、これすなわち読書人のとるべきものではない、と声を大にして言いたい。ぼくなんて、読書人と名乗るのもおこがましいチンピラではあるのだが、それでもほぼ100パーセント立ち読みは致しませんっ。
なぜか。もったいないからである。
書店の場合、なぜ行くかといえば、楽しみのために(または何かの必要に迫られて)今夜読む本を獲得しに行くわけだ。そこで200ページ1000円の本を買う。表紙はパッケージであるから、見えてしまうのは致し方ない。しかし中身は1ページ5円のワリで買うわけだ。その場で20ページ読めば、もうすでに100円がとこ、今夜の楽しみを減じることになる。乱丁落丁はぱらぱらっと見てもよい。しかし、内容を読んでしまえば、それだけ自分の損である。どんなんかなあ、面白いのかなあ、とわくわくしながら家路を急ぐのが、正しい姿なのである。
そりゃ間違うこともある。表紙がどのようなオーラを発していても、腰巻きがどんなにフェロモンを振り撒いていても、中身はただのイモだったということもある。頻繁にある。しかし、そうした失敗と屈辱の経験を繰り返すことで、徐々に眼力が鍛えられるのだ。
それは人生と同じことであって、たとえば恋愛。
しかし、本の場合は嬉しいことにバカヤロと思っても、本棚の目立たぬ所にほおり込めば、ないしは、古本屋に売っちゃえば、もうそれでいいわけであって、なんとも後腐れがない。読書の魅力はこんなところにもあるのですねえ。
立ち読みをしないのが正しい姿である。
これは購買者だけが言うことではなく、書店の側も同様に考えている。かつて書店は実売率30パーセント(つまり来店者の3割が実際に購入する)という効率を誇っていたが、現在はそんな数字は夢だというのだ。びっくりだね。混んでいる本屋も多いけど、その七割をはるかに超えるのが、ホント言えば客じゃないわけだ。
立ち読みをしないでさっさと買う客は店の回転から見ても上得意以外のなにものでもない。その上得意、お客様であるぼくらが、客と名乗るも僭越な立ち読み人士に邪魔されハゲタカ的気分を味あわされている。その上そうした人士はおおむね平台の上に鞄を置き、きつい整髪料の匂いを発散させている。
書店と心ある書店利用者は、断固そのような不埒な立ち読み人士を排除せねばならん。排除しないまでも、少なくとも立ち読み人士は、「お客様」が近くにみえたら、謙虚に小さくなっているべきである。
*
興奮のあまり、本稿の趣旨から逸脱して書店にまで言及してしまったが、図書館だって基本は同じだ。身銭を切らないという点で賭博指数は下るものの、やはり本選びという点では、同じである。判型・装丁・著者名・出版社名……、本を開かずとも見て取れる情報を凝視熟考し、中身がどうなっているのか想像推察妄想し、決然と抜き、大股でカウンターへと進む。
これが正しい利用法なのである。なぜ「○○図書館のご利用方法」にそれを記さないのか、不思議に思うくらいだ。
そうそう、この本選び。
諸兄はどのような基準で図書館で本を選んでおられるのだろう。ぜひじっくりそのノウハウをお聞きしてみたい。
というのも、ぼく自身、そこの方法論がもひとつ確立しえないで苦慮(とまではいかないが)しているからである。
まず、もっとも関心あるテーマないし著者の本の場合。これはためらわず買うから図書館のお世話になることは少ない(皆無ではない。なぜなら財布というものの存在があるからだ)。
であるから図書館で借りる本は二次的な関心の対象であるか、テンポラリーな興味の対象(仕事でたまたま必要とか)である。
たとえば、直近でぼくが近所の図書館から借りた本は製鉄に関する本である。製鉄にはいままで何の関心もなかった。別件でタタラを調べる必要があって(タタラ自体も守備範囲ではないが)、近代製鉄がわからないとタタラもわからない、当然、ということから借りてきた。これが思わぬ名著であって、トクしたような気分になっている。
しかし、これは稀なことで、図書館で借りる本が長打になることはほとんどない。たいていはポテンヒットどまりである。やっぱり身銭を切らないと、選び方もぞんざいになる。それは最大の要因だろう。
しかし、もひとつ言えば、守備範囲から外れる本に対しては、眼力がないということも影響している。知らない世界ではウブいわけだ。
ウブな世界では何をされても仕方がない。ボられようと騙られようとやむを得ない。
これまた人生といっしょ。たとえばギャンブル。ボられ騙られ叩かれ邪険にされつつ(あくまで比喩ですよ、なにしろ只で貸してくれるだけなんだから)、僥倖と逢着を夢見ているわけだ。
そういう一種世をすねたような態度で本を選ぶから、どうしても本選びの腰が決まらない。どれでもいいんだ。どうせ一夜かぎりの関係だから……。
だから、勢い、キレイな本を選ぶことになる。キレイな本とは、つまるところ、誰からも未だ借りられていない、という本である。
上記の製鉄の本と一緒に借りてきたのが『マンモス復活プロジェクト』という本。去年の八月に出版された本であって、蔵書印にも「平成十年度」とあるから受け入れもその頃だろう。つまり1年近くたっている。にもかかわらずしおりの紐はとぐろ巻いたままだし、出版社の新刊案内も挟まった状態。こういうのについつい手が出てしまう。テーマ・内容は二の次三の次だ(でも『マンモス復活プロジェクト』ってなんかソソられるでしょ)。どうしてもなんらかの事情で特定テーマの本を読まなければならない場合(つまり製鉄)は別として、愉しみとしての本選びは、たいていこの基準だ。
おっとあぶない。あわてて付記しておくと、これは図書館での本選びに関してだけの基準であって、ここのところは人生とは別。
だったら「新着図書」のコーナーなんかいいでしょ、と聞かれるかもしれないが、あそこは別。あそこの本がきれいなのは当たり前であって、あそこにまで無原則に手を出すようになったら、まるっきり女衒だ。
*
図書館の本は汚い。現職の司書がそう断言したのを聞いた時、なぜかドキっとした。でもね、誰が見てもやっぱり汚いやね。
本は繰り返し読むと、どうしても手垢で黒ずんでくる。とくに小口の真ん中あたりに何千本かの指の跡が付くのはやむを得ない。ぼくの場合、主たる読書環境はベッドの中である。そんな汚れ本と同衾するのは、あまり心弾むことではない。
しかし、問題はその程度の汚れではない。明らかに破壊工作としか想像しえないレベルで汚れているものが決して少なくない。知人の図書館員に聞くと、そういうのはどしどし廃棄しているそうだから、ぼくたちの目に触れるのは、比較的軽傷(とチェック側が判断した)ものに限られるのかもしれない。が、それにしても汚い(のがある)。
みかんの皮(うすい方の皮だ)が挟まっていた時もある。鉛筆の芯を尖らせるために付けたとしか想像できない塗りつぶしもあった。「そんなのまだまだ、たとえば」と言ったまま知人の図書館員は赤面して黙り込んだ。そんなの(どんなのだ?)もあるんだろう。
ぼくは犯罪について比較的寛容である。少なくとも多くの犯罪者の気持ちは忖度できるし同情できるし、場合によっては共感することも少なくはない。泥棒も致し方ない事情があったんだろうし、殺人もわからなくない。軽い殺意は日常的に感じているじゃないか。痴漢にいたっては、いまだ徳俵を踏み越えてないのは僥倖だと思うほどだ(だってだよ、昨今の女性のだねェ……、いや、この話はやめとこう)。
しかし、図書館の本を故意(そうとしか思えない)に汚す輩の気持ちは、これっぽっちも理解できない。なにが面白いんだ。スカッとするのか、そんなことで。
落書き。これまた多い。これも理解不能だ。なんで落書きするか。
傍線を引く。これが最も多い。自分の本じゃないんだから傍線ひいても後々利用できないから仕方がないでしょ。いや、あとから読む人に一番いいところを伝授つかまつりたくて、と思うのなら、もう少し考えて引けよ。図書館の本に傍線を引く奴はたいてい何ページにもわたるような長い傍線を黒々(ないしは赤々。紫々なんて場合もある)と引く。頭悪いぞ。しかも本の前半だけ。後半はきっと読んでないんだろう。カッコも悪いぞ。
切り取られているのも多いんだそうだ。特にグラビア誌。スターの写真部分なんか軒並みやられるらしい。婦人誌の料理のページなんかもまるごといかれるという。
概して婦人誌の方が被害が多いんだそうだ。
女性の犯罪率は男性のそれに比べると、かなり低い。女性の数少ない美点のひとつがここだ、とは口が裂けても言えないが、ともかく統計的に女性は犯罪にあまり手を染めないのだ。
でもなんということだろう。犯罪の中でも図書館の雑誌切り取り犯の多くは女性とみなされるということなのだろうか。
*
もしかすると犯罪とは思っていないのかもしれないね。犯罪じゃなければ、何と思っているかはわからないけれど。
万一この記事を読んでいただいている方の中で、図書館の本・雑誌切り取りを「軽い気持ちで」やっちゃった人がいるなら、ここで警告しておくが、あなたのやったことは犯罪です。しかもけっこう重大な犯罪です。
今のままならいいけれど、もし日本も陪審員制になり、なおかつ、陪審員はあなたが切り取った雑誌を次に見た人たちで構成されるとすれば、けっこう重い刑罰は避けえないことだろう。もしかしたら死刑かもよ。
ぼくは図書館から借りた本のカラーグラビアページをスキャナで撮ったことがある。なんどもある。ぼくの場合、それができる資材と環境があるから、痕跡を残さずデータだけいただく手がある(これは犯罪?)から、あえて切り取りには及ばなかったが、そうした手段がない場合、切り取る気持ちも少しは理解できる。しかし、もっとわからないのは、図書館の本を盗む輩だ。これは理解不能。
図書館の本にはラミカバーが掛かっているし、分類のシールも貼ってあるし、蔵書印も各所に押されている。こういうのを自分の本箱に麗々しく並べておくわけにはいかないし、友人知人に見られたらカッコ悪いし、古本屋などに売ることもできない。
本を盗むのはれっきとした刑法犯であることは誰でも知っていることだ。盗みという点では同じだけのリスクを背負いつつも、メリットが少なすぎる犯罪であるように思うのだ。同じ盗むのなら書店から万引きするほうが、どこから見ても合理的である(妙な理屈になってしまいましたが)。あえて盗まないでも只で利用できる。
それなのに、図書館の本は盗まれる。しかも半端な量じゃないらしい。誰が盗むのか。どうして盗むのか。
いくら考えてもわからない。「権力構造の一端を担う図書館体制に対するゲリラ的撹乱」なのか? まさかねえ……。
門外漢のぼくが、いくら一人で考えていてもラチがあかないので、『ず・ぼん』編集部に手を回してもらって、BDSを導入した図書館の職員の方にお話を聞きに行った。
*
BDS(ブック・ディティクション・システム)とは、幼稚園の運動会の選手入場門のような形状の柱を図書館の出入り口に付け、貸し出し処理を経ない資料を持ちだそうとすると警報音が鳴り響くというシステムである。
大学図書館ではかなり導入が進んでいるが、公共図書館ではまだ設置率は低い。いっぽう同様のシステムはレコード店やレンタルビデオショップなどで日常的によく見かけるようになった。
公共図書館での設置が進まない最大の要因は費用。町田市立中央図書館では設置に約4000万円の費用がかかっている。ランニングコストもかかる。町田中央図書館での2年次以降にかかる費用は、装置のリース料を含めると、年間約1330万円にのぼる。単純に考えれば、年間の図書購入費がそれに満たない公共図書館の場合(全部盗まれることはよもやあるまいから)、導入のメリットはないとも言える。
そしてもうひとつの反対が、設立母体の議会や図書館職員からの「利用者を犯罪者扱いするのか」という抵抗であるのだそうだ。
町田市立中央図書館は、公共図書館の中ではかなり早い段階でBDSを導入した図書館だが、その決断はやはり盗難の多さがあった。
このことは全国的に新聞やテレビで大きく報道されたので、ご記憶の方もあるかもしれないが、導入前の同市図書館合計の書籍紛失は4年間で9万7000点余り。年平均にすると2万4400冊になる。金額では年間2600万円。中央と5つの地域館のどこでどれだけという細かい分析はできないが、8割以上が中央図書館での盗難であると考えられる。中央図書館の蔵書数26万冊(開架部分のみ)なので、単純に割り算すると7パーセント超という高率の紛失率だ。(編集部注――98年6月の蔵書点検までは、館籍別の不明本しか出せなかったが、99年6月の蔵書点検からは、実際の所蔵館である最終処理場所別の数字が出せるようになった)
町田市中央図書館でのBDS導入は96年12月である。町田市の図書館は毎年6月に蔵書点検を行うのだが、おりしも96年6月はホストコンピュータ更改のため蔵書点検を実施しなかったので、導入後はじめての97年の点検結果では効果のほどが正確に掴めなかった。98年6月の蔵書点検で一気に全館で3700冊という数字がでてきたのである。実に85パーセント減の成果である。
導入前の盗難について質問してみたが、なくなる本の種類、対象、価格、時期、どれを取っても明確な傾向はないという。ベストセラーがなくなると思えば、大部の全集がある日突然棚一段にわたってごっそりいかれるとか、各種の名簿の類(これはどうもプロっぽいね)だったり、青少年向けのものだったり。どうも「犯人像」「犯行動機のプロファイル」は掴みがたい。
誰がどういう気持ちで盗っていったのかは、お話を聞いても、結局ぼくにはわからなかった。
ただ、厳然たる事実として、BDSを入れたら盗られなくなったということだけが残る。
本は盗られなくなったが、そのかわりと言ってはヘンだが、本の一部を破り盗ったり、表紙をはがしたりするような事故が増えてきているそうだ。中にはBDSを通過するため本のバーコード部分を切り抜くという間抜けな奴もいる。
こういう事件について中央図書館側では「悪質なイタズラ」と表現しているが、これはイタズラではない。「悪質な犯罪」である、とぼくは思った。
盗むよりなお悪い。小さいときに「本をまたいだらバチがあたる」ということを教えてもらわなかったのだろうか。
*
もうひとつ。BDSを導入している南千住図書館でもお話を聞くことができた。九八年五月にオープンした比較的新しい図書館だ。ここではオープン前の設計の段階からBDS導入を前提として設計してあり、そのためか動線がシンプルですっきりしている。2階が児童書、3階が一般書という構成だが、BDSのゲートは各階に1個所ずつで、メインの階段の他に2階3階をつなぐ階段がゲートの内側にある。
ここはオープン時点でBDSがあったわけだから、そういう意味では「効果」のほどは測りようがない。
しかし、計画段階からBDS設置に関しては職員側での反対は一切なかったということだ。議会で予算が認められるに至った背景には、町田での導入(の大きな報道)が側面援護射撃の役割を果たした模様だ。
ここでの導入の動機は書籍もさることながら、CDの盗難に業を煮やしていたことが大きく影響しているようだ。南千住開館以前から荒川区の図書館ではCDを中身とも開架で展示したが、配架後瞬時に盗られてしまうという事件が頻発し、それが職員の間で大きな問題になっていたのだそうだ。CDは半開架にしている公立館が多いが、当然のことながら半開架と開架では事務作業がまったく異なる。BDSの導入に関して倫理的な観点からの反対がなかったことも首肯ける。要するにコストの比較の問題に過ぎなかったのだろう。
そのせいか、南千住図書館のCD盤には、これ見よがしにBDSテープがべったり貼られている。CD盤は実はデータ面(光っている方)より、レーベル面(印刷してある方)の方が傷に弱い。このテープを無理に剥がせば音はでなくなるはずである。
単なる印象でしかないのだが、ぼくはそこに、「ある程度知識があり反復的に図書館のCDを盗む相手」(そこまで来れば、そりゃプロだね)に対する毅然とした姿勢を感じた。
南千住図書館で「図書よりもCD」という姿勢があるのは、もともと盗難される本の割合が2パーセント以下(南千住開館前の荒川図書館の数字)と、町田などに比べると、低かったせいもあるのだろう。荒川で2パーセント、町田で7パーセント、この数値の違いにぼくは驚いた。
この違いはどこから来るのだろうか。
南千住図書館でそのことを聞いてみたが、はっきりとした答えはお聞きすることができなかった。そりゃそうでしょ。あまりそういうことは言わないものです。
「建物の構造とかもあるのかもしれないね」
たしかに建物の構造はあるだろう。町田中央の動線はかなり複雑で、死角も多そうに見える。一方、南千住はすっきりしている。出入り口も1つしかない。
もうひとつ、ぼくが思いつくのは利用資格の問題だ。町田は在住在勤在学という枠があるが、南千住は誰でもよい。せっかくだからカードを作っていけば、と勧められ、ぼくもその日に利用者カードを作ってもらった。しかし、たまたま自動車免許証を持っていなかったし、当然ながら健康保険証なども持ち歩いていない。それでもいいです。仮カードを発行しましょう。次に住所を証明できるものを持ってきてね、で即日借り出しOKだった。
そのおかげで、ぼくは以来2週間に1回の南千住通いの人生を送ることになってしまっている。片道1時間かかる。
*
ともかく、在住在勤在学の枠がないのは大きいのかもしれない。借りたくても借りる資格がなければ、じゃあ盗もう、と短絡する人は想像できる。特に町田はターミナル駅で、町田市以外の人も大勢集まる場所だ。町田中央図書館はそのターミナル駅からすぐ近くのところにある。町田駅自体が町田市の境に近いところにあり、少し歩けば、もうそこは相模原市だ(なお昨年から町田市の図書館は相模原市と相互利用協定を結んでいる。つまり現在は相模原市民は町田中央図書館を利用できる)。
非力なことに、ぼくはせっかく2館の方々に時間をいただいたにもかかわらず、なぜ、図書館の本を盗むのか、を解析することができなかった。
まあ、もともとこの問題は、そんな簡単に理解できることではないということが、ほの見えただけでも、よしとしなければならないのだろう。でも、今後、いろんな図書館が実態のデータを公開し、それを比較検討実験することで、もう少し何かが見えてくる、と思うのだ。なんとか研究して下さいよ。そして本の盗難を少なくして下さいよ。
まったくシロウトの雑感にすぎないのだが、取材を通して感じたのは、図書館側の「弱腰」だったといえば、お叱りを受けるだろう。しかし、実はそう思った。
BDSが警報を発する。鞄の中から貸し出し処理されていない本が見つかる。これはこの時点ですでにれっきとした犯罪を構成しているわけだ。でも両館とも、犯罪として取り扱うわけではない。あくまでも「事務処理のミス」として取り扱うのだ。
刑を重くしても犯罪は減らないとは、よく言われることだ。しかし、この場合は刑がどうというレベルの話ではない。犯罪行為を「犯罪」とふつうに指摘することが必要ではないかと思うだけなのである。決然とした姿勢を示す必要がまず必要なのではないのだろうか。
町田の例で盗難の激減がBDS導入のせいだとすると、いままでの盗難の多くはアマチュアの遊び半分であったと想像せざるをえない。
BDSは防犯という意味では穴だらけのシステムであることは明らかだし(ぼくでもかいくぐれそうだ)、本気だったら(変な言い方ですが)、こんなもの何とでもなる。
ぼくは一市民として、「ぼくの財産」を遊び半分の気持ちで盗まれるのは、なんともイヤである。その管理者がそれを放置しているのは、もっとイヤである。図書館の本を盗んだら警察に連絡します、というルールを作ることが、自由で開かれた図書館でありたいという理想に、なにひとつ抵触するものではないと思うのだ。違うかしら。
*
先にも書いたように、2週間に1度の間隔で南千住図書館に通うようになった。2週間が貸し出し期限なのである。返しに行くときに、借りなきゃいいのに、また次のを借りてしまう。徒歩10数分で杉並中央図書館があり、さすがにそこにはもう少し高い頻度で通っている。蔵書数などはどちらもそう大差ないだろう。コレクションに若干のトーンの違いはあるものの、南千住でなければ読めない本があるわけではない。それでも通ってしまうのは、南千住図書館がぼくにとって気持ちがいいからだと思う。
書架の色や形、配架内容を示すプレートのデザイン。こうしたものがすっきりと美しい。聞けば職員のデザインだそうだ。建物の醸し出す雰囲気も柔らかくて好ましい。
ここは複合施設であって、1階部分は荒川ふるさと文化館という郷土資料展示室になっている。その入場料は100円である。
どこでもたいていそうだけれど、公立であっても博物館や美術館は有料だ。なのに図書館はなんで何から何まで無料なんだろう、とよく思う。プールだって有料なのに。
せめてカード作成費用か読書室の席料くらいは徴集してもバチはあたらないと思う。でもそうだからと言って、貸し出しに関してなんらかの費用を徴収したりすると、やっかいな問題が浮上してくるんでしょうねえ。著作権絡みで。
おそらく何百年かたったら1990年代は「著作権狂奔の時代」と見做されるに違いない。ここ10年間ほど、著作権にうるさい時代はなかった。著作物(の一部)がデジタル化され、複製がオリジナルとまったく同一なものになったことや、複製のための装置が安価で普及したことなどが、その背景にあるのだろう。
それにしてもキャラクターの付いているTシャツを着た人物の写真を撮って発表することが著作権侵害になるなんて、どうかしていると思わないか?
おそらくこれからの数十年で新しい著作権の枠組みが再構築されていくに違いない。賭けてもいい。
そしてその過程で、図書館の存在と伝統はますます大きな意味を持ってくるだろう。だって著作権を中心に考えると、図書館ほど奇妙な場所は他にない。
当たり前のように利用しているけれど、たちどまって考え込むと、世にも不思議な場所、図書館。ウキヨバナレ……。
あ、そうか。もしかするとぼくは、図書館のこの不思議な構造そのものが一番スキなのかもしれない。
寄席と図書館は最後の砦である。
|