練馬区に図書館協力員制度が導入されたのは1988年。
今では、職員の約4分の1を協力員が占めている。
一見、問題なく運営されているように見えるが、それは協力員の犠牲の上に成り立っていると、正規職員である小形亮さんは考えている。
協力員制度の問題点、そして協力員制度によりかかってきた図書館政策について、正規職員の立場から論じる。
文◎小形亮 練馬区立南大泉図書館
おがた・りょう●1954年生まれ。東洋大学文学部卒業後、1982年練馬区に採用、練馬図書館に配属される。以後、関町図書館を経て、南大泉図書館に勤務。
現在、練馬区職労図書館分会副分会長。
練馬区の図書館と職員
図書館のカウンターで働く職員は、市民の眼にはどう映っているのであろうか。調べ物や本の照会などの質問に、愛想の良さ悪さはあるものの、書誌やコンピュータを駆使して適切な解答を与えてくれる。専門的知識を持ち、経験を重ね、仕事に自信と誇りを持った司書。やや理想化されたイメージは、このようなものだろうか。
けれどすべての図書館が、このイメージ通りでない事は言うまでもない。ことに東京23区では、大きくかけ離れた実態がある。
司書職制度がないために、昨年までは課税課で税金の計算をしていた職員や、ケースワーカーとして寝たきり老人の保護に当たっていた職員が、今年は図書館のカウンターで区民に図書を貸出している。世の中には本人も気づかない意外な適性を持つ人があり、また習うより慣れろで、3年から5年がたつ頃にはこれらの人達の多くが図書館員らしくなってくる。しかし、そこまでで終わりである。任期の終了とともに、今度は戸籍係へ保健所へと移って行き、替わりにまた新しい人達が入ってくる。
さらに近年ではカウンターに立つ人が、このような正規の事務職員であるとすら限らない。私の勤める練馬区においては、今や職員の4分の1近くを、図書館協力員という名の非常勤職員が占めている。
練馬区は東京23区の北西部にあり、面積は47平方キロ、人口は64万人。東京都内有数の集合住宅、光が丘団地があるなどベッドタウンの色彩が強く、未だに人口の増えている数少ない区の1つである。また農地が多く残され、石神井公園などの武蔵野の面影を残す景観もあり、緑被率の高さでも23区で随一である。私鉄の西武池袋線が中央を東西に貫通し、南北を西武新宿線と東武東上線がかすめる。さらに地下鉄有楽町線が南東部から北西部へとぬけ、その南を新宿から光が丘団地まで、都営地下鉄号線が開通した。
練馬区の中で新しく開発された地域では若い住民も多いが、戦前戦後に出来た古い住宅地では、都心部ほどではないものの、高齢化が進んでいる。江古田付近に大学がいくつかあって、小さな学生街に古書店はあるが、区全体として大規模な書店は少ない。新聞で本の広告を見るとまず図書館へ駆けつける、というような住民の多さの原因の1つになっているのかもしれない。
練馬区で最初の練馬図書館が出来たのは、1926年のことである。東京23区の中では、一番遅かった。戦後になって板橋区より分離して、23番目の特別区として成立した練馬区は、練馬格差という言葉があったほどに、公共施設の整備が立ち遅れていた。もちろん当時は図書館のノウ・ハウなどなかったため、日本図書館協会に援助を依頼した。
そのため貸出方式に、日本で最初のブラウン式を採用するなど、一躍時代の先端を行く図書館が出来た。その後BM(=移動図書館)を開始するとともに、住民運動を取り入れた建設懇談会方式などにより、図書館を建設していく。石神井(70年)、平和台(76年)、大泉(79年)、関町(82年)、貫井(85年)、稲荷山(88年)、小竹(90年)、南大泉(93年)、光が丘(95年)、春日町(96年)と11館へ、3年に1館のペースで館数を増やしていった。
東京都内2位、23区内一位の貸出数を誇る光が丘図書館を始め、23区の10位以内に南大泉(7位)、石神井(10位)と三館を占める。年間総貸出数526万3千冊は、世田谷区に次ぐ第2位である。住民1人あたりの年間貸出数8.4冊は、23区の中で5位、職員1人あたりでは1位。特筆すべきは予約数で、32万6千件は、23区中1位はもとより、全国の自治体の中でも、横浜市、大阪市に次ぐ3位である。ただし、住民1人あたりの資料費や蔵書数などは23区中でも下位にあり、必ずしも行政当局が図書館に熱意ある姿勢をとってきたというわけではない。むしろ、当初から『中小レポート』や『市民の図書館』に忠実な路線をとった事や、強い住民要求に答えようとしてきた事など、図書館職員の努力によるところが大きかったと思われる。
職員数は現在、正規職員が161人おり、そのうち司書(および司書補)有資格者は30人で、司書率は18.6パーセントである。最初に述べたようにほとんどの職員は、区役所の中の様々な職場を渡り歩く事務職であるが、ごく希に大学・短大等で司書資格をとり図書館で働くことをめざして入ってきた人もいる。また図書館に配属されてから、興味と適性を覚え、司書講習や通信教育で資格を取る人もおり、その多くが図書館間の異動によって、経験を積み重ねていく。しかしその割合は極めて低く、10年以上の勤務経験を持つ人は、1割に満たない。なおかつ事務職である以上、図書館への勤務を希望し続けたとしても、他の職場への配転もありうる。これらベテランの職員は、いわば図書館の核である。レファレンスや資料選択における頼みの綱であり、新しい職員の教師であり、職場の職員集団を率いるリーダーでもある。そして、新館準備や新規事業の実施においても、真っ先に配置されていく。
一方、これらの専門職志向の職員とは違って、多くの一般職員の眼にとっては、図書館は魅力のある職場とは映っていない。土日・祝日が開館日である以上、交代で勤務せねばならないし、夜間開館(現在7時まで)のためにズレ勤もある。様々な当番や、ローテーションの厳しさから、思うように休暇もとれない。特に出産期、育児期を迎えた女性職員(もしくはその配偶者・家族)にとって、働き続けていくのは大きな困難になる。
従って図書館への勤務希望者は、常に必要数を満たすことがなく、比較的本人の希望を斟酌しなくてすむ新規採用者などの年齢の若い職員が、多く配属される。また他の職場より高い特殊勤務手当や超過勤務手当をあてにして、子育てがある程度終わり、住宅ローンなどに追われる中高年職員の異動も増えている。そのため30〜40代前後の中間層が少ない構成になりやすい(もっとも近年では結婚しない人も多く、年齢によるライフスタイルは、一様ではないが)。
さらに一般の職員にとって難題となるのは、その職務内容である。今や公共サービスを行う職場が増えたとはいえ、官庁執務型の職場で住民よりも法規や書類を相手にしてきた人にとって、図書館はまるで異質の世界である。決められた事をマニュアル通りに行っていけば良いというものではなく、時間と費用の許す限りサービスには、限界はない。
図書を始め様々な資料に対して、広範な知識が必要であり、書物に対する理解や読書習慣のない人にとっては、苦痛以外の何物でもないだろう。さらに図書館の役割を理解した上で、住民に対するサービス精神も必要である。しかも、日進月歩の変化の激しい世界でもある。コンピュータの利用、ニューメディア、AV資料、異文化サービス、障害者サービス、ヤング・アダルトサービスと図書館に長くいる者ですら、ついて行くのは大変である。
様々な職場を渡って得た経験が、よほど柔軟かつ前向きな人でもないかぎり、仇とはなれ、生かされる事は少ない。しばしばそれまでのスタイルが、チームワークを必要とされる職場内に波風を立て、いざこざを引き起こす場合すらある。
しかしつとまらない職員ばかりというわけではない。希望して入ってきたわけでもないのに、若い人を中心に驚くべき適応をみせる人が多くいる。かき集めれば、世の中には案外、図書館の適性を持った人も多くいるのかもしれない。ことに分野ごとには、司書もかなわぬスペシャリストが数年で登場する場合もある。こういった層があって初めて、一般職員の中でベテランを支え、それなりのサービス水準を維持していくことが出来る。けれど残念なことに、これらの優秀な職員は、大方数年のうちに、自ら希望して、他職場へ異動していってしまうのである。ことに上昇志向が強いせいか、女性より男性職員にその傾向が大きい。
東京23区では、司書率40パーセントの杉並区から、8パーセントの板橋区まで、程度の差こそあれ基本的に同じような状況が展開していると思われる。ただ、図書館勤務を続けられるか否かは、区によって状態が異なり、目黒区のように希望すればいつまでも居続けられる区もあれば(ただしこれらの区でも、近年では状況が変わってきているようである)、杉並区、板橋区のように、一定年限で他職場への配転を強制される区もある。練馬区の場合は明確な基準がなく、採用以後20数年いる人もいれば、10年未満で、図書館にいる事を希望しながらも異動させられる人もいる。時々の状況に応じての判断なのだろうが、むしろ恣意的とすら言える。
23区の中で、先程あげた目黒区、品川区、大田区等においては、ベテラン職員の割合が高い。練馬区においては、強制的な配転基準がないにもかかわらず、その比率は極めて低い。これは短い年月の間で、図書館が急速な膨張をとげたのに対して、それに見合う職員養成を行いえなかった政策的失敗である。現に、10年以上の経験あるベテラン職員のいない図書館が、歴史の古い館を中心に何館かある。また光が丘図書館長(図書館の課長に当たる)以下各館の館長、副館長、係長職20名においても、図書館のベテランからなった者は2名のみである。職制と職能が分離しているのである(これを書いている最中の4月1日に、練馬図書館開館以来の30年ものキャリアを持つ人が光が丘図書館長に就任した。少しでも状況が良くなる事を望みたい)。
図書館協力員の導入と経過
ここまで長々と練馬区の実情について書いてきたのは、図書館協力員問題の背景について、知っていただきたいからである。このような状況で、練馬の協力員は、今のような形を成してきた。また異なった状況下では、違うあり方をしていたのかもしれない。
練馬区の図書館協力員は、現在47人。正規職員数が161人であり、もう1つの非常勤職員である再雇用員(区を退職した正規職員は、5年間に限り非常勤として再度勤める事が出来る)が別に12人いるので、総職員数は、220人となる。そのうちの21パーセントが、図書館協力員である。
地方公務員法第三条3項に基づく特別職の地方公務員で、地公法の適用を基本的に受けない。勤務は、正規職員の週5日間に対し、週4日間。共通のローテーションに従って出勤し、土日・祝日勤務や、午後5時以降の遅番勤務にも従事する。採用条件の中に、司書(あるいは司書補)有資格者もしくは図書館勤務経験者、という項目があり、採用されれば他の図書館への異動もない。つまり図書館のみの専門職である。採用期間は、1年。ただし再任を妨げないため、現在8〜9年続けて勤務している人が、10数人いる。1人の男性以外は、46人が女性であり、しかも若い人の割合が高まってきている。
他地域・自治体の図書館においても近年多くの非常勤職員が導入されているが、多くの場合正規職員とは仕事の内容が区別されているようである。非常勤の仕事としては、カウンターでの資料の貸出・配架・資料整理といったあたりが主なところのようである。これに対して、練馬区の特色は、正規職員と協力員との間に、仕事の内容において区別がないことである。もちろん、庶務的な業務や、起案など書類的な仕事からは除かれるが、事業的な面においては、コンピュータを使っての各種作業はもとより、購入・受入れ資料の選定、レファレンスへの回答、リクエストの判断処理などには、正規職員とまったく同様にたずさわる。むしろ、これらの場合、常勤か非常勤かよりも、個人としての経験や職務への適応性の方が優先される。また、それぞれ担当を持ち、職場会議や担当者会議においては、加わるだけではなく正規職員に伍して発言もする。さらに、図書館に関する研修なら、区内はもとより、都内で行われる機会にでも、堂々と参加することが出来る。むしろ正規職員より参加率が高いほどである。
意識して見なければ、職場の中で誰が協力員で、誰が正規なのか見分けがつかないし、ましてカウンターでしか接することのない区民にとって、何らかの区別が出来るわけではない。もちろんこの制度の初めから、すべてこの通りの状態であったというわけでもなく、様々な紆余曲折があり、今でも見えない部分における問題はある。また、これについての「是非」は後ほど述べてみたいと思うが、まずここでは、この制度の導入以前から働き続けている一正規職員の眼を通して、図書館協力員の歩みを振り返ってみたい。
図書館協力員制度が最初に導入されたのは、88年の稲荷山図書館の開館に際してであった。練馬区の図書館建設は、長期総合計画による12館構想(7地区館5分館)であり、稲荷山図書館はその7番目であった。それまでが地区館(床面積1500〜2000平米、蔵書10万冊、職員15名)であったのに対し、初めての分館(=小規模館、床面積700〜900平米、蔵書7万冊)の開館となるため、職員定数が決まらなかった。当局側の8名提示に対して、労働組合側11名の要求で譲らず、最終的に職員8名プラス非常勤1名で決着した。ここで初めて練馬区の図書館に非常勤職員が採用され、後に図書館協力員という名称になった。当時は3年までの再任制限があった。この時、採用条件に司書資格を入れたのは、今からでは推測するしかないが、いつまでたっても職員の司書率が向上しないため、せめて非常勤だけでも司書を、といったねらいがあったのかもしれない。
翌89年、正規職員の1週48時間から42時間への労働時間の短縮が行われ、当時の7つの図書館すべてに各1〜2名、計10名の図書館協力員が採用され、合計11名となった。いわばここまでが第1期である。その年の3月末、時短をめぐる労使交渉で、あくまで正規職員の増員を要求する組合側は、1名の増員も認めぬ区当局に押しこまれ、臨時職員か協力員かの選択をせまられ、やむなく協力員を選択した。当時は、当局にとっても職員にとっても、協力員はアルバイトに毛の生えた程度の者としか見られていなかった。実際この時期の採用は、公募ではなく、各館長等の推薦であり、長年図書館でアルバイトを勤めていた人が、そのまま協力員となるケースが多かった。従って年齢も中高年者が大半であった。図書館によっては、協力員になったものの、与えられる仕事も、職員からの扱いも、まったく昨日のままというところすらあった。
90年には、地区館6館の開館時間が夕方6時から7時まで延長され、8館目の小竹図書館の開館と合わせて、13名が採用された。今回は、区報等による公募であり、面接試験が行われた。以後この形となる。この第2期においては、20代の女性も何人か採用されている。各館2〜4名となった協力員は、もはやアルバイト扱いにとどまらず、担当業務にも就き、仕事の上でも職場ローテーションの上でも、正規職員を補完する存在になっていく。これは、必要に迫られてという部分があるものの、1期・2期ともにあわせて、協力員自身の意欲と頑張りによるものが大きい。
91年春には、最初に雇われた協力員の「雇用期限3年」がやってくる。その前年の90年秋、組合の申し入れにより、「再任上限3年」がはずされていた。しかし、だからといってけっして無制限というわけではない、との当局側見解により、今に続く「雇用年限問題」が始まった。91年石神井図書館長(当時の図書館課の課長に当たる)は、5年をもって雇用止めとするとの提案を、組合に対して行った。自分たちの立場を危うくされた協力員は動揺し、かつ反発した。また、ようやく職場の仲間としてなじんできた矢先、それを奪われることになった正規職員も怒り、かつ同情した。
当初3年の期限があったはずなのに、なぜこのような問題になってしまったのだろうか。
それは、制度の導入時点ですべてが極めて曖昧なまま、スタートしてしまったからである。図書館への非常勤職員制度の導入は、人員合わせの暫定的なものであった。3年の雇用年限は最初はむしろ組合側が要求したものであり、図書館の非常勤職員化を恐れるとともに、3年後までには正規職員の増員が行われるのではないか、との見通しのもとでの、あくまでも一時的なつなぎであった。当局側としても、それを越える程の意味を協力員に与えていたわけではない。
しかし、労働時間短縮、開館時間延長が、協力員の増員のみによって行われ、協力員の存在が図書館運営にとってなくてはならぬものになるにつれ、暫定的な性格は、変更されざるを得なくなってきた。すでに89年、90年に採用された者達には上限3年の説明はされなかったという。組合も、これ以上、協力員の割合を増加させていくことには反対しながら、現に各職場で働いている協力員の雇用と労働条件を守る立場に立たざるを得なくなった。結局、図書館への非常勤職員の導入の是非を含む、本質的問題が何ら解決されぬまま、とりあえず時短や時間延長を行うために、既成事実として図書館協力員は、拡がっていったのである。
91年の時点で、この雇用止め問題を契機として、協力員自身の結合と組織化の流れが強まった。それまでは組合主催で、年1回程度の懇親会が行われていただけであったが、必要に迫られて頻繁に集まらざるを得なくなり、当局や組合との話し合いを重ねていく中で、一体感が強まっていった。協力員の組合結成は、練馬区職労内部の問題もあり、あと一歩でまとまらなかったものの、親睦会が作られ、その後に雇用された協力員も含めて全員が参加した。それまで各館ばらばらの存在であったのが、ようやくここで、集団としての協力員へと認識を深め、発展していったのである。
さて、問題の雇用止めは、当局と組合図書館分会との間で、一進一退が続いていたが、9月に協力員から「白紙撤回を求める要請書」が出された。これに対して10月末に石神井図書館長が話し合いの場で、雇用止めを前提とした回答を示そうとした。これに対して分会は、話し合いの延期を要請するとともに、その後何度も協力員と話し合いを重ねた。一部には直接決着を望む意見もあったが、大勢により区職労へ交渉をゆだねることが決まった。区職労は当局に対して、「区全体の非常勤職員の待遇、制度の在り方について」の協議の場の設定と、それにあたっての、特定の前提の取り下げを申し入れた。それを了承した当局は92年2月、提案を棚上げして、今に至っている(しかし棚上げされたからといって、問題が何ら解決したわけではない。協力員の再任年限については、未だ何の決定もなく不安定な立場のままである。そして五年以上遅れて、ようやく、この協議が昨九7年の秋より始まり、それとともに再び年限問題が浮上してくるのである)。
92年7月、再び正規職員の勤務時間の短縮(週42時間より、40時間へ)により、8名の協力員の採用。そして93年4月、南大泉図書館の開館による3名(後に4名)の採用が行われた。これが第3期で、この時点で協力員は35名となり、全職員数の2割を占め、一大勢力となった。そればかりではなく、この時期になると第1期からの協力員は勤務歴が5〜6年に達し、異動により入れ替わっていく正規職員との間で、経験と能力における逆転現象が起こり始めた。図書館によっては、協力員が新しい正規職員に仕事を教えるような光景も現れ、職員の補完的役割から、ともに図書館を担っていく立場へとなっていくのである。また、協力員制度発足後に開館した新しい図書館では、初めから職員と同じスタート地点に立っている。ここでも、能力や仕事への熱意の差によって、正規職員を凌駕していく者も出てくる。今に至るまで、このような傾向は強まりこそすれ、弱まりはしない。
94年11月と12月に、光が丘図書館の開館に伴い、8名の採用。この時限りではあったが、経験者の必要性から、他の図書館から協力員の異動が行われた。おもに第1期、第2期採用の人達の四名で、新しい協力員を指導するための、いわば協力員中のキャリアと言える。
さらに96年4月の春日町図書館の開館による3名採用。この第4期に入ってきたのは、ほとんどが、他の仕事の経験をあまり持たない若い人達である。図書館での仕事を希望しても、専門職採用がほとんど行われていないため、あえて非常勤でも、とこの道を選択したのである。この時期には、1人の採用に対して40数人が応募するような、激しい競争率になっている。第1期の頃と比べると対照的な、当時には想像もつかないような形へと、協力員体制が変貌してきたと言えよう。
この制度発足から10年を迎え、古い館でも退職による補充などで、協力員のキャリアが一様でなくなり、年齢・能力・各図書館における立場などでも様々な差が出てきている。協力員ということで一括りの存在にまとめる事が、次第に難しくなってきている。共通している図書館への熱意と、労働条件の悪さを除けば。
97年秋、再び雇用年限問題が浮上してきた。前に述べた「区全体としての非常勤職員の待遇・制度の在り方について」の協議が始まった。宙ぶらりんのままの状態に対して、何らかの決着をつけねばならない時が、到来したのである。図書館分会の説明と要請を受ける形で、図書館協力員達は、たちまちのうちに組合結成を決意した。4ヶ月ほどの準備期間を設けて、98年3月「練馬区立図書館協力員労働組合」が、雇用止め反対と労働条件の改善を掲げて、正式に発足した。ここに初めて、自分たちの問題に協力員自身が当たって解決していこうという体勢が生まれたのである。
6年前の逡巡に比べると大きな進歩であった。この間、図書館分会は協力員の組織化援助を掲げて、幾度か学習会を開くなどしてきた。雇用止め反対運動を経験した古参協力員層を主な対象とした活動を進めてきたのだが、あまり大きな効果を得られなかった。それに引き換え今回は古い人達ばかりでなく、新しい人達・若い人達の中にも強く組合結成の声が高まった。最初の執行委員の過半は第3期以降の採用者によって、占められることになった。この6年間で、協力員自身が自らの立場を確固とすべく意識を深めるとともに、協力員社会自体が成熟してきた現れとも言える。
協力員が図書館を担う正規職員の対等のパートナーに成長したように、協力員組合も、正規職員の労働組合である図書館分会にもはや庇護される対象ではなく、手を携えて共に闘うパートナーとなった。時としては利害の対立が起こりかねない状況すら、ありうると言える。職員体制の今後を見きわめ、図書館の将来を考え、どのように決めていったらよいのか。今や正規職員ばかりでなく、図書館協力員も共に考えていかなければならない局面に、到達したと言える(なお、組合結成については、協力員自身の論文も読んでいただきたい)。
協力員問題とは何か
一体何が問題なのだろうか。練馬区の職員体制は、大変うまくいっているように見える。正規職員と協力員の間に個々の確執があったとしても、全体として大きな亀裂や溝は生じていない。そして東京都の中でも、数字的には比較的高いサービス指標をあげている。しかも安い人件費コストによって(非常勤職員を導入しつつも、その役割を限定している多くの市区は、極めてもったいない事をしていると言わざるを得ない)。
しかし同じ仕事をしながら、またしばしば、それ以上の仕事をしながら、いくら1993年成立のパート労働法の影響を受けて、少しは向上したとはいうものの、正規職員と比べて圧倒的に低い給与などの労働条件のもとで、人は働き続けていく気持ちを、持続出来るものなのだろうか。
また、将来の保証もないまま、10年にもわたって職場と住民サービスを支えて働くこと、これが本来の制度的意味における非常勤職員のあり方などと言えるのだろうか。
現在の協力員制度は、これだけでも充分欺瞞的なものではないか。図書館で働きたいという気持ちを上手に利用され、その能力を買いたたかれる。必要がなくなれば、簡単に切り捨てられる。
少なくとも、同一労働同一賃金の原則に基づき、正規職員に比例した給与等の労働条件と、雇用の安定を保証される事が、必要である。
自らその条件に納得して採用された以上、それについて文句を述べるのは妥当ではない、という意見がある。一見もっともなようだが、正規の専門職としての募集が行われていない以上、図書館で働くためには、非常勤として採用されるしか方法がないのである(事務職として正規に採用され、希望がかなって図書館に配属されても、いつ異動させられるか分からない)。そして現場においては、正規職員と同じように仕事を担わされ、経験を蓄積し、働き続けていく事を要請される。
練馬区は、職務内容において正規職員との間に区別を設けなかったために、このような問題が起きていると考える人もいるかもしれない。たしかにその通りかもしれないが、この意見には賛成出来ない。司書資格も意欲もある人を配架や図書の装備に回し、ほとんど図書館の知識を持たない素人にレファレンスや資料選択を行わせるなど、図書館としての対応力を大幅に下げる事になる。そのうえ図書館で働く事を夢見て入った人々の能力発揮の機会を奪い、幻滅を広げ意欲を失わせるだろう(たとえ職務を制限したとしても、その内容が図書館の日々の運営にとって、常態的部分をなしているのなら、それに就く人は本来的な意味での非常勤と言えないのではないか)。
また逆に、もし協力員のみで運営される図書館があったら、どうであろうか。現在図書館で行われている庶務部門は、教育委員会へでも移し、ままあるように館長も非常勤とする。たぶん協力員自身今よりのびのびと働く事が出来るだろうし、現在より効率的にサービスが行われるだろう。人件費に使われる予算を資料費に回せば、どれほど資料が充実する事だろうか。減量経営を目指す役所当局でなくとも、つい夢に見てしまいそうである。しかしいかに素晴らしいサービスが行われようとも、現行の協力員制度の上にそれが築かれるのなら、協力員の犠牲によってしか成り立ち得ない事は、言うまでもない。
協力員の眼から見た正規職員は、一体どのように映っているのだろうか。仕事に対する能力、労働の質や量によってではなく、採用された試験の区分によって、良い労働条件と雇用の保証を与えられた人々。この違いは、まさに非合理な身分制度ではないか。いくら仕事の上で能力を実証してみせても、越えることを許されない、常勤という身分と非常勤という身分(職務内容を制限しているところは、あたかも江戸時代のように、身分に仕事を合わせていると考えられないだろうか)。
一人の正規職員が、もし身分の上にあぐらをかくことなく、その能力によって誠実に図書館員であろうとするなら、彼は協力員に対して、その得ている給与に応じて、数倍は働かねばならない。経験のある職員であれば、当初はそれも可能であったろうが、いくら研鑽を積もうと、次第にハードルは高くなる。
もし正規の専門職制度をとるところで、協力員と同じような制度が導入されたとしても、司書という身分に寄りかかっていては、同じ事だろう。そういう意味で、協力員は刃のごとく正規職員に、常に存在理由をつきつけている。
練馬区ではすべてが曖昧なまま、事態が推移してきた。その曖昧さが図書館協力員以外のすべての人達にとって、得になってきたからかもしれない。そうして出来た既成事実が大手を振って、一人歩きをしている。
しかし、もうこの曖昧さに、目をつむり続けていくべきではない時がきている。きちんと専門職員の配置をしないための質的不足と、サービス拡大にともなう量的不足を、図書館協力員を膨らませる事で解決してきた。そのため非常勤とは、とても呼ぶべきではない非常勤制度が拡大し、職場を身分階層化させてしまった。
究極のところ、欠落しているのは図書館政策である。図書館の建設計画はあっても、どのようなサービスをどれだけ区民に保証していくのか、そのためにはどのような職員体制が必要なのかが明確でない。今までは、むしろ住民に押されるような形で、サービスを展開してきた。それを押さえつけず少しでも答えようとしてきたからこそ、現在がある。しかし政策のないまま、これ以上続けていくのは無理である。そのひずみの現れとして協力員問題があると言えよう。
図書館協力員と私
16年の図書館勤務の中で、私が最初に協力員と仕事を共にしたのは、89年の関町図書館であった。当時は区内各館でコンピュータ化が進行中で、関町図書館も翌年の電算稼働を予定しており、その準備に忙しい毎日だった。司書資格を持ち幼稚園教諭の経験を持つ20代後半の女性が、この図書館最初の協力員だった。その年は3名程の正規職員の異動があった。新たに職場に加わった4名の1人として、非常勤だから特別視するという事もなく一緒にとけ込んでいった。もともと家族的な雰囲気の職場であり、彼女自身その中で特別に困難を感じるような事もなかったと思える。積極的な性格も幸いして、児童サービスにおいてはやがてなくてはならない存在になっていった。
翌年、正規職員の時短に伴い2人が加わった。共に女性で1人は20代、1人は30代であり、20代前半が多い女性正規職員層より少し年上のグループを形成した。それぞれ以前より関町図書館でアルバイトとお話のボランティアをやっており、他の職員にとって既になじみ深い存在であった。この時も正規職員4人の異動と同時で、やはり分け隔てなく扱われた。しかし1人きりの時は正規職員の中に紛れてしまっていたものの、3人となるとやはり別の一個の集団として、とけ込みつつも存在が意識されるようになった。ミーティングで労働条件など組合的問題が討議される時は、席を外してもらう時もあった。
個々の協力員は、職場の仲間として、また仕事のパートナーとして、図書館に働き続けている者としては格好の存在であった。図書館で働きたいと希望する以上、本が好きな人が揃っているし、図書館にも当然関心がある。また多くが民間企業での勤務経験を持つ事から、接客等職場のマナーが良い上、公務員特有の堅苦しさがない。正規職員として図書館職員を駆り立てているものが、いわば市民に対する義務と責任感であるとしたら、協力員にとっては、やりたい仕事の中で自分を生かせる喜びだろう。この双方がうまくかみ合う時、とても理想的なチームやコンビが組めたと思う。
雇用止め問題が起きるまで、私自身あまり深く非常勤制度について考えた事はなかった。正規の専門職制度が必要だとは思いながらも、現実にくるくる変わるパートナーの中で、協力員の存在は私にとっても都合よく、有り難いものだった。雇用止めに対しても、それによる図書館の戦力ダウンを恐れる気持ちと立場への同情が混ざりあうだけで、同じ図書館員として協力員の身になって考える気持ちがあまりなかった。協力員は正規職員を仕事の上で助けるかわりに、正規職員は協力員の立場と労働条件を守る。それが自明の事のように、協力員制度を自分の中に受け入れていた。
雇用止めをめぐる話し合いの中で、私が思っていた以上に多くの協力員が深く考えていた。図書館員としての責任感も下手な正規職員よりはるかに強い事も知った。実際、この頃から、正規職員との間に能力の逆転現象も起こりつつあった。
雇用止めは棚上げになった。喜びがあふれ、また以前と同じような平安な日々が始まった。しかし私の心には、協力員への負い目が残っていった。
図書館に働き続ける者は、異動してくる数多くの事務職員に変人視され、時には職員集団の中で孤立気味になることもある。そんな時にいつも味方になってくれるのは協力員であった。図書館の夢を共に見る仲間であり、その存在は、職場を楽しいものにしてくれた。
それからまもなくして、私は関町図書館を離れた。六年後の今、その3人の協力員のうち2人が残っている。しじゅう入れ替わっている正規職員より、協力員の中に自分の関町図書館が残されているような気がする。
次に配属されたのは、新たに出来る南大泉図書館の準備室であった。主査以下職員3人きりの1年間を過ごした後、1993年4月建物の完成とともに、さらに7人の正規職員と、新たに3人の協力員が配置された。驚いたことに、3年前から建設準備に当たっていた主査(この4月より館長)と私を除けば、8人の正規職員全員が、図書館での仕事の経験がなかった。協力員3人のうちでも、他の区の図書館で非常勤職員を1年勤めた人が1人いるだけであった。
ほとんど素人の集団を抱えて3ヶ月後の開館を目指す、胃が痛くなるような毎日の中で、今度も協力員は、しばしば私にとっての、支えであり励ましにもなってくれた。今度の協力員(やはり全員女性)は、関町とは対照的に40代の後半1人と20代の前半2人で、その間の年齢層に正規職員が入る構成であった。今回はスタートが同じだけに、職員集団の中で正規職員との区別がますます無かった。開館間近かの残業続く日々の中でも、残業代が出ないため、泣く泣く帰っていく協力員の、後ろ髪引かれるような姿が印象的だった。
この素人集団が意外に飲み込みの早い優秀な人達から成っていることが次第にわかった。ありきたりな図書館ではなくヤング・アダルトサービスやマンガの収集、利用者の要求に沿った大胆な蔵書構成など、斬新なものを取り入れていくためには、下手に経験者を集めるより、むしろ打ってつけの集団であった。たとえ別の事業を行ってもうまくいきそうなこの集団を図書館らしくまとめ上げるのに、協力員はあたかも潤滑油のような働きをしてくれたと思う。その頃の1人の協力員の言葉を今でも思い出す。
「前に勤めていた区では、非常勤は正規職員の言うがままに働いていれば良かった。でも今では何もかも自分達で考えねばならない。厳しいけれどやりがいがある。」
開館以後、誰もが予想もしなかった程に区民が集まり、区内で最も小さな図書館は、1年後には区内で1番貸出しの多い図書館になった。事業的には大成功であった。しかしこれとても、協力員の力なしには成し遂げられなかったと思う。
2年後、増え続ける貸出しによる繁忙に対応して、協力員が1名増員された。開館5年目を迎える今日、正規職員は10人のうち7人までが替わってしまった。しかし当初からの協力員3人はそのままである。
今でも私にとって、協力員は仕事における最良のパートナーであり、図書館や本の話の出来る仲間である。一時は協力員に対する負い目からその数倍は働かねばならないと思った事もあったが、協力員が自立し始めた今、そうした気負いも次第に消えつつある。同じ図書館に働く者として、対等な存在と言えるようになった。
仕事を離れても、仲間とレファレンスの研究会を作り勉強会や見学会を開いたが、集まるのはいつも協力員ばかりであった。また北海道札幌市で行われた全国図書館大会へ、公費でしかもなかば観光気分で出かけた事があったが、そこで私費をはたいて参加している協力員(協力員は、都内を離れての研修は認められていない)と出会いびっくりした事もある。
協力員は練馬区の図書館員の良質の部分を形成していると言える。
私自身、いつまで南大泉図書館で働けるのかわからない。他の図書館へ移るかもしれないし、区役所の他の部署への配転の可能性もある。しかし、雇用止めのない限り、4人の協力員は南大泉図書館に居続ける。ここでも関町と同じように図書館の個性は、協力員によって受け継がれ、伝えられていくのだろう。そしていつの日か、渡り鳥のような正規職員に替わって、練馬の図書館の真髄は協力員にあると言われる日が来るのかもしれない。
(職員数、貸出数等のデータは1997年4月現在のものです)
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