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本・電子メディア・ネットワーク・出版業……の話
紙ベースの本はホントになくならないと安心できるのか

石田豊
[1998-10-24]

パソコンやインターネットの普及にともなって、「本はなくなるのか」という議論がなされて久しい。
本好きの立場から言えば、本はなくなってほしくない。
が、しかし。「本はなくならない」の論拠には、単なる希望的観察以上の説得力はあるのか。
本好きの「パソコンライター」石田さんのコスト論・流通論を踏まえた本の電子化・中長期展望は、本好きも電子メディア好きも一読の価値がある。


文◎石田豊
いしだ・ゆたか●フリー・ライター
1955年5月5日京都市生まれ。パソコン関係を中心にしたライターを業とする。
著書に『Macintoshデータ活用術』(毎日コミュニケーションズ)など。


本は本当になくならないのか

 パソコンの一般家庭への普及と、数年前から爆発的に利用者を伸ばしているインターネットをキーに、「本はなくなるのか」という議論がよくなされるようになった。
 こうした議論は、おおむね「本は決してなくならない」という最終結論に落ち着くものが多いようだ。これはわたしたちの多くが、漠然と予感している本の未来像と齟齬するものではないので、すんなりと受容されてしまいがちだ。
 わたくしは「パソコンライター」を業とする本好きの中年である。本好きの立場から言えば、本はなくなって欲しくはない。なくなるわけないじゃないか。
 しかし、紙に印刷され製本された“本”が、電子的なデータに置換されうるのかというテーマは、パソコン周辺を職業として観察し続けてきた経験からいえば、もう少し本腰を入れて検討した方がよさそうに思える。
 「本はなくならない」の論拠に挙げられているもののうちいくつかは“現時点での技術的な制約”を前提にして組み立てられている。しかし進化の激しいこの世界では、現状の技術レベルを論拠にしても、それは明日にも崩壊するかもしれない。
 いわく「本は“読むための装置”も不要で、どこででも開くことができるし、画面で文字を読むのは疲れる」。これは単純に現在の技術レベルでの問題点に過ぎず、本と電子メディア間の本質的な差異ではない。画面の見にくさも、テレビ式のディスプレイから液晶画面に変わって、視認性は非常に向上した。紙の上にインクで印刷されたのと同様の見やすさ、読みやすさを達成できる日も遠くはないだろう。電子メディアを再生するハードウェア(パソコンなど)も、ご承知の通り、急速に高機能・小型化している。文庫本と同サイズのブラウザ(電子メディアを“読む”装置)が発売されないのは、単にソフトウェア的な環境の見通しがたっていないからであって、技術的には不可能なものではない。
 多くの論者が指摘している「モノとしての本の“存在感”と“美しさ”」を電子メディアには求めることができないので、置換されえないという論旨は、多種多様な本のありかたの一部をことさらに強調しているだけのように思える。文庫や新書はモノとしての存在感をある程度犠牲にしても廉価化をはかろうという戦略をとってきたわけだし、そしてわれわれも新書だから本ではない、とは考えてこなかった。やはり形態より中身を主軸に考えているわけだ。
 モノとしての本も多数出版されている。わたくし自身の本箱にも、その観点から愛蔵している本も少なくない。しかし、そういう本があるから、本全体が電子メディアに置換されないという主張は奇矯に過ぎよう。
 考え始めると、本を残したいという自分自身の希望的未来像は根拠を失っていく。心理的には「ページをくる感覚」「紙とインクのニオイ」なども読書の快楽を支える要素であるのだが、それを根拠に電子メディアを否定するのは厳しかろう。活版本に置換されたときも、写本や木版の「美」や「感覚」を云々することはできただろうからだ。そういう意味合いでは、LPレコード(いやSPレコードすら)いまだに健在だし、草鞋や雪駄は現役の履き物である。
 物理的に“読める・読めない”というアプローチではなく、別の角度から、本の優位を説く論者もいる。本はバリアフリーのメディアだというのだ。本は誰に対しても開かれているが、電子メディアはまず前提としてハードウェアを購入するという経済的なハードルと、そのハードウェアの取り扱いに習熟するという能力(教育)的ハードルがある。パソコンを買えない・使えない人から読書の楽しみを奪うのか? というわけだ。
 しかし、現在の「本」という形態にしても、そのような社会的ハードルが存在しないわけではない。読書を楽しむためには長年にわたる読解力学習が前提になる。本を買うためにもお金は必要だ。そのために本には図書館があるではないか、という反論も、電子メディアを閲覧する図書館を考えれば、それは印刷出版物に独占されうるメリットでないことも明らかになる。つまり電子メディアに比べて本が“バリアフリー”であるように見えるのは、つまるところ長年月をかけて整備されてきた社会的インフラのおかげにすぎない。もちろん今すぐに電子メディアへの置換が一気におこれば、それはたとえばわたくしの母から読書の喜びを奪うことになるだろうが、現実的にそのような置換は短時日の間に起こりうるものではない。
 翻って、電子化のメリットを考えれば、こちらはずいぶん多い。
 まずわたくし個人が、本をめぐって最も苦慮しているのは、その置き場所であるのだが、平凡社『世界大百科事典』全35巻がたった数グラムのCD-ROM2枚に収録されていることからもわかるように、電子化されれば、置き場所に思い患うことはほとんどなくなるだろう。
 CD-ROM(音楽のCDとまったく同形状)には650MBのデータが格納できる。これは原理的には日本語文字3億4000万文字が格納できる容量である。文芸関係の文庫本はおおむねページあたり800文字程度であることから考えれば、これは40万ページ。200ページで1冊とすれば2000冊(もちろんこれはCD-ROMに文字だけをびっしり敷き詰めるという仮定での机上の計算にすぎないが)。電子化することによる“省スペース”は竹簡から紙で達成されたそれと比べて考えてみることができる。今は仮に電子化データを乗せる媒体としてCD-ROMを例に使ったが、電子化データは言うまでもなくCD-ROMという媒体が必須なものではない。すでにCD-ROMは“小さすぎる”ということで、たとえばDVD-ROMなどというCD-ROMの10倍近い容量を収納できる形式の媒体も登場してきた。
 余談になるが、日本の年間の紙の使用量はA4のコピー紙に換算すると1人あたり6万枚であるそうだ。今後、環境の観点からも、紙の本は検討の対象になるだろう。


本のコストはどうなるか

 価格はどうか。置き場所の問題が解決しても、価格が高くなるのなら困る。
 電子化されることで、少なくとも原理的には、読者の本に対する出費も減る。本の価格は単純に図式化すれば、著者や編集者の取り分、出版社の取り分、書店の取り分、印刷や紙などに使うコストの合算であるわけだが、現状でもっとも大きい部分を占めるのは、印刷、製本、紙という、いわばメカニカルなコストである。
 単純に言えば、電子化すれば紙代も印刷コストも不要になる。ネットワーク経由の電子データならトラックに載せて運ぶわけではないから、物流の時間もコストも限りなくゼロに近く、CD-ROMのような媒体での供給を考えても紙よりはずっと安くあがる。
 現状の本のコストの一例を見てみよう。これは中堅どころの出版社が発行した実用書系の単行本の例(下表参照)だ。本の制作コストは内容や考え方で大きく異なるのだが、おおむねこのような構成をとると考えうる。
 この例の場合では定価ベースで考えると(1500円×5000部)、紙代が12パーセント、印刷製本で15パーセントの費用がかかっている。出版の実状に詳しい方なら、この数字はずいぶんケチったものであることがおわかりいただけるだろう。書籍の平均はおそらくこれより高くなるはずだ。印税から制作費までは支払いサイトがほぼ60日程度であるが、いっぽう取次会社からの入金は新刊委託の場合、7ヶ月後(これも条件はさまざま)。このほかにも本を作るためには、いろんな経費が必要になり、この出版社の例では“なんやかやで最低500万”と考えているとの由だ。
 こうして制作した本は取次と呼ばれる問屋を経由して販売されるのが普通である。出版社から取次への出し値は65〜70パーセント。つまり初刷がすべて完売すれば、165万円程度“儲かる”勘定になるが、もちろん宣伝広告費などの諸経費は考慮に入れていない。また本の場合は「返本」という慣習がある。最近では書籍の返本率は50パーセントを超えているとも言われる。返本があったところで、出ていく方の費用はなにひとつ減じることはない。つまり入りだけが少なくなる。前記の返本率で計算し直してみると紙代+印刷製本代は出版社サイドにとってみれば売上げの7割を超えてしまう。
 紙の出版にとって、印刷と紙というメカニカルコストはずいぶん大きなウエイトを占めているのだ。
 本の電子化でもCD-ROMのような形態であるなら、このあたりの事情は電子化したところであまり変化はない。しかしインターネット上の出版であるなら、こうしたメカニカルコストは圧縮できる。


新しい本のかたち

●電子辞書

 近未来においてわたくしたちは電子の本を読む。わたくしにとっては、それはずいぶん可能性の高い未来像であるように思える。しかし、冒頭に述べたような、物理的に“読みにくい”という技術的な制約もあって、現状では「電子本は百花繚乱」というには、まだまだほど遠いようだ。
 しかし、それでも来るべき電子本の時代の萌芽のようなものはすでに始まっている。
 まず、書籍のなかで電子化するのにもっとも適した分野は辞書・事典である。通常の書籍が最初から最後までを通読するというかたちで読まれるのに対し、事典類は本の一部を必要に応じて参照するというふうに使うのが一般である。事典のたぐいは、言うなれば綴じられたデータベースであり、データベースならコンピュータがもっとも得意とする分野だ。データベースという語そのものが、コンピュータの世界から出てきたコトバである。
 現在すでに多くの辞書・辞典類が電子化されている。書店に並ぶお馴染みの辞書類はすべて電子化されているといっても、あながち過言でないくらいだ。
 前述のとおり、現在のところ、電子本の出版形態はCD-ROMなどで(書籍のように)供給する方式と、インターネット上にデータを置いておき、それを必要に応じて“読む”方式がある。インターネット上での課金の方法がまだまだ確立されているとは言い難いこと、インターネットへのアクセスが必ずしも普及しておらず、また通信費用も高いことなどから、電子化された辞書は我が国ではCD-ROMで供給されることが多い。
 CD-ROMによるパソコンで利用できる辞書は、大きくわけて2種類の方式がある。言ってみれば「ソフト組み込み式」と「汎用ソフト式」である。
 パソコンでデータを扱うためにはなんらかのソフトウェアが必要になる。ソフトウェアを開発するには当然ながらコストがかかる。「汎用ソフト式」とは、辞書の発行者は、あらかじめ定められた形式に従って書き込まれたデータだけを出版し、利用者はその形式のデータを扱うための閲覧ソフトウェアを別途用意して、そのデータを利用するという考え方だ。どのような辞書類であっても、使い方の基本は同じようなものなので(たとえば欲しい見出し語を入力して、その言葉を探す)、その辞書に特化したオリジナルのソフトでなくても実用になる。
 この方式の場合、出版社は辞書の内容を利用するためのソフトウェアを準備する必要はなく、利用者側も、いったんソフトを準備すれば、同じ形式の電子辞書を追加購入する場合に、ソフト分の費用まで負担する必要がない、というメリットがある。また出版社はWindows、Macintoshというパソコンのいろいろ(これをプラットフォームという)を意識しなくてよい。
 現在この方式の電子辞書は2種類ある。ひとつはソニーが中心になって開発した「電子ブック」(以下EB)と、富士通が中心になって提唱している「EPWING」である。EBは8cmCD-ROM(音楽用のシングルCDと同形状)を使い、本来はEBプレーヤという専用のハードウェア(超小型のコンピュータのような形をしている)で使用するものだが、現在ではそのCD-ROMをパソコンのCD-ROMドライブで利用することができるようになっている。ソフトも各プラットフォームで準備されており、その多くがフリーウェア(無料のソフト)である。
 一方のEPWINGは最初からパソコンでの利用を前提にしたもので、形状も通常のCD-ROMである。こちらもフリーウェアを中心に各種ソフトがある。
 EBは先行したこともあり300種類を超えるタイトル数を誇るが、容量に限界があり、カラーも使えないなどの制約がある。EPWINGはタイトル数こそ、いまだ35点(1998年6月現在)と少ないが、岩波書店の発行物を中心に評価の高い辞書類がラインナップされており、JIS規格にも制定され今後の進展が楽しみだ。
 この両方式で出版されている電子辞書の中から主なものをあげたものが左の表である。各辞書について紙で出版されているものの普及版と机上版(又は革装など)の価格を付記した。おおむねのところ、普及版と机上版の間くらいの価格設定になっている。岩波書店の『八代集』(これは“辞書”とはいいがたいが)の場合は岩波古典文学大系本が元になっているが、電子版の価格は旧体系本(6巻)の価格の合計と同じになっている。つまり紙版の書籍と価格をすりあわせているわけだ。価格の点で特徴的だったのが小学館の『日本大百科全書』で、こちらは紙版24万2475円に対し、電子ブック版は電子ブックプレーヤがついて8万円である(プレーヤの市価はおおむね3万円台と見なすことができる。尚、これは後述の新版への移行を前に現在入手しがたくなっている)。コストに見合った価格設定と言えよう。この価格が今年になって発売された平凡社の『世界大百科事典』の電子版(後述)に影響を与えたことはあきらかで、今後の電子本の価格設定のあり方を考える上で興味深い。
 EBにしてもEPWINGにしても、汎用のソフトを使用するということは、逆から言えば、ソフトウェア製品としての特徴を出しにくいということでもある。汎用のソフトを使わずに、電子辞書そのものが独自のソフトウェアになっているタイプが「ソフト組み込み式」である。
 こちらの方はマイクロソフトの『エンカルタ』、平凡社の『マイペディア』、同じく『世界大百科事典』、などがある。また今秋には小学館の『日本大百科全書』がこのタイプとしてリニューアル(CD-ROM四枚組・価格未定、日本大百科全書+日本世界地図+日本国語大辞典)発売される予定になっている。『エンカルタ』の場合は、先行する紙の辞書がないため単純な比較はできないが、『世界大百科事典』の場合は紙版25万7143円に対して電子版5万7000円と、利用者にとっては大幅な価格低下になっており、潜在的な百科事典利用者の関心を集めている。
 紙の辞書と電子版。どちらが優れているか。これは一概には言えないことだろう。しかし、電子版は辞書の利用の仕方をより立体的にすることだけは確かだ。たとえば「全文検索」。辞書は見出し語で引く(別に索引がある辞書もある)。見出し語として採用されていない(もしくは索引に掲載されていない)事項について調べることはできない。全文検索機能を使うと、見出し語だけではなく辞書の記述のすべての中から、検索語を見付けることができる。『世界大百科事典』の場合「再販制」という見出し語は用意されていないが、この語を引くと「流通経路」「出版」といった項目の中に、この語があることがわかり、すくなくとも再販制に関するなにがしかの知識を得ることができる。
 「後方一致」も優れた機能だ。たとえば「基地」で後方一致させることで「エドワード空軍基地」「昭和基地」などを引くことができる。これは知識を立体化するのに効果的であるばかりか、うろおぼえの語でも引く手がかりができる機能なのである。
 少なくともわたくしにとっては、辞書は電子版が圧倒的に便利だ。現に「日本大百科全書」の場合、「電子ブック版発売以降の数ヶ月で寄せられた“誤植・誤記の指摘”の件数は、紙版の9年余の期間で寄せられた件数を上回っている」(小学館・鈴木祐介次長)という。つまり現実に「よく利用されている」ということになりはしないか。
 インターネット上で展開されている百科事典として有名なのはブリタニカのオンライン版で、年間85ドルの利用料を支払えば、いつでもインターネットでこの百科事典を利用することができる(英文)。CD-ROMであれば、発行以降の修正や事象の変化の更新は望むべくもないが、オンラインならそれは可能だ。つまりいつでも最新の情報を検索できることになる。しかし、オンライン版の出版により、紙版が売れなくなり、発行元は厳しい経営危機に陥っているとの報道もある。


●読める電子本

 辞書・事典は電子化に“よくなじむ”ジャンルだ。ならば「読むための本」はどうか。
 従来よりCD-ROMマルチメディアタイトルとして、多数のCD-ROM作品が発売されている。こういうものまで入れると、またぞろ「本とは何か」という議論に立ち戻ってしまうので、ここはより“本らしい”ものだけに限定する。この分野ではずせないのは新潮社『新潮文庫100冊の本』だろう。これはタイトル通り新潮文庫の100冊の本をパソコン上で読めるようにしたもので、閲覧用のソフトとしてボイジャーの「エキスパンドブック」を利用している。
 「エキスパンドブック」は、“パソコン画面で読める本を作る・読む”ためのソフトで、マック版3万5000千円、ウィンドウズ版4万5000円で販売されている。読むだけならソフトを購入しなくてもよく、現に『新潮文庫の100冊』などのエキスパンドブックタイトルには、読むためのソフトが同梱されている。ボイジャーでは、このソフトを利用しての新しい出版のあり方を提案しており、年に数度、作品の「即売会」のようなイベントも実施している。話題が拡散するので、ここではふれないが、こうした「本の産直」とでも呼ぶべき形態は、出版の将来を考える上で興味深い試みだ。
 またインターネットでは数多くの「電子出版の試み」が展開されている。たとえば作家いとうせいこうは、インターネット上で「書き下ろし小説」を発行している。利用者は1章200円の費用を支払うことで、この小説をダウンロードできるというものだ。


●古典は無料で読める

 著作権の切れた古典を(ボランティアベースで入力し)インターネットでだれでもタダで読めるようにしようという計画は有名な「プロジェクト・グーテンベルク」以来、さまざまな形で盛んである。欧米の古典作品なら、多くのものがインターネットからダウンロードすることができる。
 日本語のものは、まだまだ数少ないが、それでもたとえば『源氏物語』や『古今和歌集』などの古典データはすでに存在する。
 我が家ではインターネットから『古今和歌集』のデータをダウンロードし、それをデータベースソフトで加工して、カルタのような形でプリントアウトし、気に入ったものを順位を付けてファンヒーターの金属パネルに磁石で留めることで「古今和歌集ベスト」を作成するアソビを行っている。別段古典に関心があったわけではないが、やってみると実に楽しい。電子データであれば、このようなことができるところも魅力だ。インターネットで読める古典データは日々その数を増している。英語と古典は、わたくしにとって今まで“見送り”のボールであったが、今はとにかく“振ってみる”ことができる。振ってみると意外におもしろい。急に読むべきレパートリーが増えてしまって、忙しくてしょうがない。
 また前述のボイジャーのサイトからは「青空文庫」というページを見ることができる。これはいわば「日本版プロジェクト・グーテンベルグ」で、死後50年が経過して著作権が切れた著作物や、著作権者がこの形での公開に同意した作品について、ボランティアベースで入力し、それを公開していこうという試みだ。立ち上げから1年余であるが、すでに130を超えた作品のデータをこのサイトから無料でダウンロードすることができる。


構造が変わってしまう

 ところで、本が電子メディアに置き換わってしまう、という流れは、単に「画面で文字を読むのがツラい」というようなことではなく、書籍の出版の枠組み自体が激変するということである。
 上記の通り、本の出版にかかるコストの中心にあるのは、紙や印刷、保管、物流といったメカニカルコストだ。少部数の薄い本を出版するにも数100万円のコストがかかる。数億の予算で作成される本も決して稀ではない。原理的には紙ではなく電子データとして(たとえばインターネット経由で)出版されるということは、あらかじめ必要なこの巨額の費用が不要になるということだ。
 この大きな費用の存在がいわば出版の世界のヒエラルキーと秩序を形成する根拠になっている。人気のある著者などあらかじめ大量の“売り”が期待できるものは、大出版社により比較的低廉な価格で大量に印刷され(全国に配本され)、それより若干予想が厳しいものが小出版社から多少高い価格付けで少部数が印刷され(潜在的な顧客の目に触れにくい形で配本され)るのが普通だ。その埒外には昨今隆盛の自費出版の世界がある。
 小出版社による少部数印刷の本が大出版社のあらかじめベストセラーを予定された書籍よりよく売れるというのはきわめて稀なことで、自費出版に至っては、そうした逆転はほとんど皆無になる。
 もちろん出版社もプロであるから、あらかじめ下した“値踏み”に根拠がないわけではない。しかし予想が正しいから予想どおりの結果が招来されるとばかりは言い切れなくて、予想どおりの結果しか生み出しにくいような傾斜が構造上つきまとってしまうというのは自明である。
 こうした出版時における出版物のヒエラルキーを支えている根拠は一次的には巨額のメカニカルコストである。そしてもうひとつが(おそらくはこのメカニカルコストが前提になって発生したと考え得る)「取次制度」である。
 誰しも出版社を作ることはできる。メカニカルコストさえ準備できればよいのだ。しかし、そうして新設した出版社で制作した本が書店の店頭に自動的に並ぶわけではない。出版物は原則として取次会社を経由して全国の書店に配本される。出版社は取次に口座を開設することがその最初の目標になる。口座は任意に与えられるわけではなく、そのハードルは意外に高い。「発行○○、発売○○」となっている書籍があるが、これは取次コードを持たない出版社が、取次コードを持っている出版社のコードに“乗せて貰って”発行しているものだ(そうでないケースもある)。こうした「権利」だけで商売をしている出版社もある。また、コードを取得した出版社は、その権利コミで会社を売ることができる。いわば取次コードが利権化されているわけだ。今年2月、取次大手2社が公正取引委員会から警告を受けるという事件があった。これは消費税率変更にかかる取次内部の電算処理方式の変更に際し、その費用を出版社に負担させたというものである。また同分野の月刊誌は同じ日に発売される。パソコン関係なら18日、文芸春秋と中央公論は10日といった具合に発売日が一緒になっている。これは取次の要請によるものだ。こういう事象を見るだけでも、出版界で取次会社がいかに大きな力を持っているかということがわかる。出版界のヒエラルキーの中軸には取次があるのである。
 ヒエラルキーなどと書くと、どことはなし、あこぎな搾取という語感がつきまとうが、それは一概に“悪”とは断定できない。
 再販制度が良質で安価な出版物を供給するのに必要だ、という論理構成は、要するに「値引き販売しないことが結局はお安くなるんですよ」ということであるから、わたくしなどにはすんなりとは理解しがたい論理構成であるが、同じ論法で、こうしたヒエラルキーこそ、再販制度以上に安定と秩序の形成に寄与しているとも言いうるのではなかろうか。
 迂遠なようだが、この構造のおかげで、わたくしたち読者は良書を安価にたやすく入手しうるのかもしれない。
 出版は他産業と異なり一次生産者(著作者)の目的が利潤以外である場合が多い。それに二次生産者である出版社が経済効率という枷を課すことである程度の秩序が生まれ、消費者である読者の利益にも結びつき、同時に水準以上の一次生産者の生活をも保障するしくみが形成されている。
 出版物が書店店頭に、たとえば平積みされるまでに、著者、編集者、出版社の営業、取次、書店と、いわば“プロ”の目を幾重にも閲している。これが読者である我々の本の選択を幾分にか容易にしているのは事実だ。
 本の電子化で混乱するのはこうした構造ではないか、と思う。安直に発信される膨大な情報の中で、豊かな読書の質が確保できなくなるのではないか。少なくとも読者ひとりひとりの情報収集能力が大きく問われるようにはなるだろう。
 CD-ROMなどによる電子出版なら、なんらかの形での全国流通組織は必要だろうが、インターネットによる「販売」は店舗がいらないため、当然のことながら取次は不要になる。小出版社の中には、このことを歓迎する向きも多い。しかし、小出版社が小出版社として成立しているのも取次コードの力である部分は、ないのだろうか。
 またぞろ議論を蒸し返すようだが、「本とは何か」。先ほど紹介した電子出版物の中には、書店でしか販売されていないものもあれば、パソコンソフトショップでも(値引きされて)販売されているものもある。この違いはISBNコードを取得しているかどうかなのである。たとえば上記の平凡社と小学館の電子百科事典にはISBNコードは付いていない。従ってこれは再販商品ではない。値引きして販売することができる。
 であるなら、これは「本」なのだろうか。
 「本とはISBNコードのつけられた商品のことである」という定義も、あながち詭弁とは言い難いような状況になってきている。
 本の電子化は中長期的展望で見れば、避けることのできないシナリオだ。それは本というものが紙に印刷されるか、電子のデータで供給されるかという媒体の問題ではなく、出版そのものの構造をぶちこわしてしまうシナリオでもある。
 何がおこるかわかりゃしない。
 本好きのひとりとして、わたくしはそうした混乱の時代の幕開けに生まれあわせた幸運を感じている。


[*1]書籍版は新日本古典文学大系本7冊の合計。
[*2]カッコ内は「逆引き広辞苑」の価格。
[*3]『リーダーズ英和辞典』『リーダーズ・プラス』の2つの辞典の本文を収録。
[*4]書籍版「リーダーズ・プラス」は机上版がないので、普及版の価格で計算。

EBとEPWING●この2種のソフトは、もともとの機能が異なる。同じタイトルでも「できること」が異なっていることも多い。たとえば広辞苑ではEPWINGではEBでできない表記型検索(「ちょう」ではなく「蝶」で検索できる)、カラー図版(これらはEPWINGの基本機能)はもちろん、図やデータの数もEBより多い。
価格の見方●たとえば「スーパー大辞林」は書籍版の「大辞林」「デイリー英和辞典」「デイリー和英辞典」の内容を含んでいるため、書籍版の価格にはその3種を合算した金額が掲載されている。ただ「スーパー大辞林」はこの他に「漢字辞典」のデータも含み、また書籍にはない内容も追加されている(逆の場合もある)ので単純に比較はできない。他のタイトルもこれに準じる。


●ボイジャー/青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
著作者の死後50年以上を経て著作権が消滅した作品と、著作権者が公開に同意した作品をボランティアベースで入力し、人々が自由に利用できるようにするという試み。立ち上げから1年余だが、すでに多数の作品が電子化されている。データ形式はHTML、テキストとエキスパンドブックで、このサイトから自由にダウンロードできる。

●インターネット哲学「アゴラ」
http://www.iwanami.co.jp/agora/index.html ※終了
岩波書店がはじめた、インターネットと出版を結びつけた新しい試み。哲学者の中村雄二郎をホストに池田清彦(テーマ:生物)、上野千鶴子(日本社会)、金子郁容(弱さ)などと「往復書簡」のようなスタイルで討議し、それを順次ホームページに掲載し、8名のゲストとの討議が完了した時点で書籍化され出版される。書籍になる場合にもCD-ROMが添付され、インターネットとの融合がはかられる予定。

●EBとEPWING
http://www.tosho.co.jp/hypertext/Book_news/epwing/index.html
http://www.ebxa.gr.jp/index.html
図書印刷のページにはEBとEPWINGの全リストがある。またEBについては日外アソシエーツのサイトにも詳しいリストがある(「電子ブック全情報+」http://www.nichigai.co.jp/eblist/index.html ※終了)。電子辞書をこれから使う場合には必見のサイトである。

●電子ブック閲覧室「私の仕事部屋」
http://www.so-net.ne.jp/myroom/
10種類の電子ブックがオンラインで利用できる。月額固定の有料制だが、無料のデモ版もある。電子ブックを購入する前にここでためしてみればどうだろう。

●ブリタニカ「Britannica Online」
http://www.eb.com/
世界で最も強力な百科事典のひとつ、ブリタニカはインターネット経由で利用できる。紙版にない機能や情報もふんだんに含み込まれている。利用料は年間85ドル、月単位なら8.5ドル。7日間の「フリートライアル」もある。

●電子化テキストのリスト
http://jcmac5.jc.meisei-u.ac.jp/etext-i.htm
電子化された古典を中心としたテキストは青空文庫にのみ存在するわけではない。明星大学のサーバにあるこのページは、それらのテキストを網羅的に紹介している。

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