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この年譜の1981年5月までは、浪江氏の著作『図書館運動五十年』(日本図書館協会・1981年8月刊行)の巻末に収録の氏自身作成の詳細な年譜をもとに、多少の省略・補足を施させていただいたものである。1981年以降の部分は、新たに『ず・ぼん』編集部が作成した。
1910(明治43)年 0歳
5月21日、札幌の帝国製麻株式会社社宅で生まれる。父板谷浩造、母ツマ。兄敬は2歳。
虔は第2子。後に3人の弟妹生まれる。【8月、韓国併合】
1912(明治45、大正元)年 2歳
父の東京本社への転勤で東京での生活が始まる。【3月、中華民国成立。7月、明治天皇没】
1914(大正3)年 4歳
【7月、第一次世界大戦起こる】
1917(大正6)年 7歳
渋谷町立大向尋常小学校(今の東京都渋谷区内)に入学。【3月、帝政ロシア崩壊。11月、ソビエト政権樹立】
1922(大正11)年 12歳
【4月、日本農民組合結成。7月、日本共産党結成】
1923(大正12)年 13歳
大向小学校を卒業し、武蔵高等学校尋常科に入学。【9月、関東大震災】
1924(大正13)年 14歳
2月、日本基督角筈教会で受洗。
1925(大正14)年 15歳
同教会笹塚分教会の日曜学校の教師となる。【3月、普通選挙法・治安維持法公布】
1926(大正15、昭和元)年 16歳
パピニ著『基督の生涯』に感激し、貯金をはたいて日曜学校図書部を開く。【新潟県木崎村の農民闘争激化、全国的支援活動盛ん】
1927(昭和2)年 17歳
4月、武蔵高等学校高等科文科に進む。在学中はバイオリン練習に熱中。【3月、金融恐慌】
1928(昭和3)年 18歳
父が帝国製麻の札幌工場長になり、兄・虔・弟の3人は東京に残って学生生活。【2月、初の普通選挙。3月、共産党員等一斉検挙】
1929(昭和4)年 19歳
この年限りで、兄と虔は基督教会から離れる。【10月、世界恐慌始まる】
1930(昭和5)年 20歳
3月、武蔵高等学校高等科文科を卒業し、東京帝国大学文学部美学科に入学するが、すぐに休学。6月、プロレタリア音楽家同盟に加入し、11月からは全国農民組合東京府連合会書記となる。【農業恐慌が日本中の農村をとらえ、農民闘争激化】
1931(昭和6)年 21歳
3月、小作争議中の鶴川村(今は町田市)におもむき、農民組合運動に従事し組合員と生活を共にする。音楽美学研究を放棄し、東京帝大を退学。【9月、満州事変始まる】
1932(昭和7)年 22歳
1月、カタル性黄疸にかかり井荻町荻窪(今の杉並区内)の父の新居に戻る。3月、日本共産党に入党し、東京西部地区のオルグになる。10月、千葉県オルグになり千葉県の党組織再建を図る。【3月、「満州国」建国宣言】
1933(昭和8)年 23歳
4月、全農全国会議派(左派)本部フラクションの一員となる。9月27日検挙され、12月8日起訴。【1月、ドイツでヒトラーが政権奪取】
1934(昭和9)年 24歳
市ヶ谷刑務所の独房で、読書三昧。【9月、関西地方大風水害】
1935(昭和10)年 25歳
1月、農村に定着して農民のために働く決意をかため転向を表明し、7月19日釈放(懲役2年、執行猶予4年)。秋には農村図書館開設の計画が定まり、本集めに努力し始める。【美濃部達吉の天皇機関説に非難攻撃激化】
1936(昭和11)年 26歳
2月、浪江八重子と会い、農村定着の方針を語り、3月に結婚の約束。かって東京女子大学高等学部在学中は社会科学研究会に属し、卒業後も「運動」に若干の協力をしていた。会った当時は群馬県桐生市に居住。虔は、4月から東京府立園芸学校第二部に通学。農村定住に備え、八重子は水原産婆学校へ通学。【2月、2・26事件起こる。東京は7月まで戒厳令下】
1937(昭和12)年 27歳
卒業論文『三多摩地方の経済的諸事情と同地方の産業組合運動について』を提出して卒業、4月母校の実習助手となる。農業について学びながら、図書館のための本集めでも農業書・農業雑誌を重視する。なお児童書については、全農東京府連の先輩インテリ書記で、児童文学者であった菅忠道の指導・助言を受けた。【7月、支那事変始まる】
1938(昭和13)年 28歳
7月9日、独創的な結婚式を挙行し、農村定住の決意と農村図書館設立の計画を発表。この日から浪江姓となる。【4月、国家総動員法公布】
1939(昭和14)年 29歳
1月29日、宿望の農村定着が実現し、鶴川村民になる。6月、鶴川村の有力者達が村民と浪江の接触に強い警戒心を持っていることがわかり、図書館のために集めた児童書二百数十冊を村の小学校に無条件で寄付することを申し出、受け入れられる。高等科の生徒10人ほどが、空のかばんで受け取りに来、嬉々として持ち帰り、雰囲気好転。同月、長男誕生。8月、村の中心部に新築した家に移り、この一室で9月21日に私立南多摩農村図書館を仮開館する。農民の利用は全くなく、児童は来るので児童書を急ぎ揃える。年末には図書館専用の11坪の建物が完成。【9月、第二次世界大戦始まる】
1940(昭和15)年 30歳
1月、東京府知事から開設認可の通知があり「正式開館」。5月13日、警視庁特高部に検挙され、12月末に起訴。10月、長女誕生。【6月、ドイツ軍のパリ入城】
1941(昭和16)年 31歳
1月から図書館を休館。東京拘置所の独房で農業書を中心に、ひたすら読書。【6月、ドイツ軍ソ連に侵入。12月、いわゆる大東亜戦争開始】
1942(昭和17)年 32歳
5月に判決(懲役2年6ヶ月、未決勾留300日通算)があり、服役。7月、豊多摩刑務所に移され満期までつとめる。【6月、ミッドウェー海戦で日本海軍大敗】
1943(昭和18)年 33歳
3月から肉体労働に服し大いに鍛えられる。7月に妻が助産婦を開業。【9月、イタリー降伏】
1944(昭和19)年 34歳
2月1日、満期釈放で3年9ヶ月ぶりに家族のもとへ戻る。3月から産業図書株式会社に勤め農業書の編集にあたる。11月、図書館を再開したところ、利用盛大。【日本軍もドイツ軍も連敗。4月には東京都立図書館28館中13館が休館】
1945(昭和20)年 35歳
2月16日、兄敬が横浜刑務所で「栄養失調による衰弱」のため永眠、37歳であった。3月、2女誕生。3月で産業図書株式会社をやめ、5月から鶴川村役場に勤務。1月から4月半ばまでに4人の友人宅から約3000冊の本を運んで図書館に預かり、蔵書とともに利用に供する。8月15日に多摩全域で「生きていた」唯一の図書館。10月、最初の分館(部落文庫)が鶴川村上三輪にできる。11月、鶴川村役場を退職、各種の民主化運動に参加。【3月、東京・大阪に大空襲。多くの図書館も焼失。8月15日、戦争終結。10月、弾圧諸法令ようやく撤廃】
1946(昭和21)年 36歳
親図書館の活動に力を入れ、部落文庫育成につとめる。日本共産党に再入党し、村内では農民組合の強化に努力。農地改革完遂のための農民運動と、農村図書館運動とに全力傾倒、ただし農業書を読ませる努力は全く実らず、本の方が農民向きに書かれていないことに気づき始める。9月、3女誕生。【民主化政策進行。11月、日本国憲法公布】
1947(昭和22)年 37歳
1月『農村図書館(かく生れかく育つ)』を河出書房から刊行。4月の鶴川村議会議員選挙に共産党公認で立候補し、当選。12月、社団法人農山漁村文化協会(以下農文協)の理事になる。ひきつづき親図書館活動を精力的に行う。【教育基本法・地方自治法・改正民法・学校教育法等公布施行】
1948(昭和23)年 38歳
6月頃から農文協の仕事に本腰を入れ、通信農民講座の編集にあたりながら、農民の常識調べに着手。6月『光 村々に』を柏葉書院から刊行。【2月、国立国会図書館設立】
1949(昭和24)年 39歳
わかる農業書の重要性を力説しつづける。【10月、中華人民共和国誕生】
1950(昭和25)年 40歳
1月から「農村文化」に肥料についての連載講座を書き、9月に『誰にもわかる肥料の知識』を農文協から刊行。【4月、図書館法公布。6月、朝鮮戦争起こる。7月、レッドパージ始まる】
1951(昭和26)年 41歳
4月、村議会議員を一期だけで退き、農文協で「わかる農業書」の著作・リライト・編集に主力をそそぐ。【9月、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印。10月、日本共産党非現実的綱領採択】
1952(昭和27)年 42歳
岩波書店の『村の図書室』シリーズの企画委員になり、協議の結果『村の政治』を自ら書くことが決定。7月、日本共産党を脱党。【5月、メーデー事件。7月、破防法公布。11月、全国市町村教育委員会発足。図書館雑誌では図書館の中立論争が盛ん】
1953(昭和28)年 43歳
10月『村の政治』を岩波書店から刊行。【7月、朝鮮休戦協定調印。8月、学校図書館法公布】
1954(昭和29)年 44歳
2月『農村教育の砂漠』を長野農文協から刊行。【5月、全国図書館大会で「図書館の自由に関する宣言」が採択。6月、自衛隊発足。8月、原水爆禁止署名運動全国協議会結成】
1955(昭和30)年 45歳
日本青年団協議会の全国青年問題研究集会が発足し、助言者となる。7月に創立された国民文化会議の常任運営委員になる。
1956(昭和31)年 46歳
1月『農村の恋愛と結婚』を農文協から刊行。信濃毎日新聞紙上で「農村青年男女の戦略戦術教科書」と評される。【10月、日ソ国交回復の共同宣言。12月、日本の国連加盟承認】
1957(昭和32)年 47歳
1年に3冊も本を書く(『町づくり村づくり』『これで防げる野菜の病気』『成功する家族計画』で、みな農文協発行)。後の二冊は専門家との共著で、浪江の役目は分かりやすい表現。
1958(昭和33)年 48歳
2月『農村の読書運動』を新評論から刊行。【11月、警察官職務執行法の改悪案、国民的反対運動で流産】
1959(昭和34)年 49歳
初めて日本図書館協会(以下日図協)の評議員になる。東京教育大学農学部総合農学科の非常勤講師となる(1977年3月まで毎年後期だけ講義を受持つ)。自治労の第3回地方自治研究集会から助言者として参加。【2月、キューバ革命、カストロが首相。9月、「本を読む母親の全国大会」長野で開催】
1960(昭和35)年 50歳
【5月、鹿児島県立図書館で「母と子の20分間読書運動」開始。同月、新安保条約強行可決】
1961(昭和36)年 51歳
5月、日図協の評議員に再選。新設のブック・クラブ・センターの世話人の1人となり、8月に月刊機関誌「読書グループ」を発刊。私立南多摩農村図書館の小増築工事を支持者のカンパで実行。この年『広報革命』を良書普及会から刊行。【6月、農業基本法が公布され、農政の転換が急激に進行】
1962(昭和37)年 52歳
1月『誰にもわかる土と肥料』を農文協から刊行。実用的農業書の著作はこれが最後。【8月、原水爆禁止運動がソ連核実験への抗議をめぐり分裂】
1963(昭和38)年 53歳
5月、日図協の評議員に。3月に日図協が発表した『中小都市における公共図書館の運営』の基本的な考え方を全面的に支持し、その普及につとめる。12月、町田市立図書館と協力して地域文庫づくりのよびかけを開始。【4月、中ソ論争。10月、米・英・ソ間で部分的核実験停止条約が発効】
1964(昭和39)年 54歳
日野市社会教育特別委員に委嘱され、日野市の図書館計画の原案作成に協力。【10月、オリンピック東京大会】
1965(昭和40)年 55歳
5月、初めて日図協の理事に選出される。前年来、続々と誕生する町田市内の地域文庫を極力支援すると同時に、市立図書館の充実を要求する住民運動の育成につとめる。12月『生産に活かす農業法規◆権利としての農政』を農文協から刊行し、新しい型の農民運動を提唱。【2月、米国が北ベトナム爆撃開始。5月、石井桃子『子どもの図書館』〈岩波新書〉刊行】
1966(昭和41)年 56歳
5月、農文協の常任役員を退く(18年間勤務)。町田の地域文庫運動の発展に協力する一方、この経験の他地域への普及にも力を入れる。【中国で文化大革命が燃えさかる】
1967(昭和42)年 57歳
5月、日図協の理事に。10月、社会教育功労者として東京都知事から表彰。【4月、首都東京で革新統一候補の美濃部亮吉当選】
1968(昭和43)年 58歳
1月、周辺の住宅地化に即応して農村図書館の看板をおろし「私立鶴川図書館」と改称。公立図書館の運営面に残存する旧慣・悪習を徹底的に批判する。いわく「箱とカバーの追いはぎ」「ラベルは暴君である」「利用者は取締りの対象」「官尊民卑を保存する図書館」。【チェコの「プラハの春」と、ワルシャワ条約軍による蹂躙】
1969(昭和44)年 59歳
5月、日図協理事に選出され、常務理事・図書館雑誌編集委員長。日図協の事業に「文庫づくり運動」の調査を提案し、九月に設置された「文庫づくり運動調査委員会」の一員として行動。この年『自治体広報の実際(前進のキイポイント)』を現代ジャーナリズム出版会から刊行。【学園闘争、全国各地の大学等で燃え上る】
1970(昭和45)年 60歳
5月『この権利を活かすために◆住民と自治体』を評論社から刊行し、図書館を自治体民主化住民運動と位置づける。【3月、町田市長に大下勝正当選、図書館充実政策を遂行。5月、日図協が『市民の図書館』を刊行】
1971(昭和46)年 61歳
5月、日図協理事に選出され、常務理事・図書館雑誌編集委員長。日図協の会館建設計画が確定したため、募金活動に力を注ぐ。12月刊行の『市民参加』松下圭一編(現代に生きる)東洋経済新報社に、「はるかな展望をもつ地域文庫運動◆町田」を執筆する。この年から6年間、東京都公害監視委員の一員として活動。【東京都の図書館振興政策が実施され、顕著な成果。6月、沖縄返還協定調印。10月、中国が国連加盟】
1972(昭和47)年 62歳
日図協発行の『地域・家庭文庫の現状と課題』(2月)、『みんなに本を◆図書館白書1972』(4月)に分担執筆。3月、ブック・クラブ・センターの世話人を退く。「国際図書年」にちなみ、図書館キャンペーンに努力。町田市社会教育委員に選任され、約四年間活動。【3月、文部省の図書館関係予算5億円、前年の5.6倍となる。9月、日中国交回復】
1973(昭和48)年 63歳
5月、日図協の理事に選出され、常務理事・図書館雑誌編集委員長。この年時事通信社が刊行した『講座現代ジャーナリズム 出版』に掲載の論文「躍進する住民の図書館」は日野・府中・調布・町田の先進四市に重点をおきつつ、66〜73年の重要データを駆使して述べたもので、今あらためて検討されてしかるべきだろう。【1月、ベトナム停戦協定発効。10月、いわゆるオイル・ショック】
1974(昭和49)年 64歳
5月、北海道の20の市町を訪れ、その長・助役・教育長等に図書館政策に力を入れるよう訴えて歩く。11月、読書推進運動協議会の第四回読書運動推進賞を受賞。【5月、地方自治法一部改正で、東京都の区長公選制復活】
1975(昭和50)年 65歳
3月、日図協内に「図書館の自由に関する調査委員会」が設けられ、委員となる。5月、日図協の理事に選出され、常務理事・図書館調査委員会委員長。10月、町田市監査委員に選任され、同市社会教育委員を辞任。【7月、ロッキード事件で田中前首相逮捕。地方財政の硬直化顕著】
1977(昭和52)年 67歳
5月、日図協の理事に選出され、常務理事・図書館調査委員会委員長。12月刊行の『公民館・図書館・博物館』小林文人編(講座・現代社会教育)亜紀書房に「文庫運動と図書館運動」を執筆。この年まで妻は助産婦を続けた。【9月、「日本赤軍」の日航機乗っ取り事件】
1978(昭和53)年 68歳
2月、町田市市制20周年にあたり、社会教育・文化活動に貢献した者として表彰される。【5月、衆参両院議員の図書議員連盟発足。12月、米中国交回復】
1979(昭和54)年 69歳
5月、日図協の理事に選出され、常務理事・図書館調査委員会委員長。6月、全国都市監査委員会の海外研修に加わり、カナダと米国の諸都市を訪問。市の監査報告書の備付状況と、それを市民が利用する状況を聞いて、日本の現状との大差に驚く。11月、「私立南多摩農村◆私立鶴川図書館40年の歩み展」を町田市立町田図書館で開催し、注目をあびる。【5月、日図協総会で「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」が採択】
1980(昭和55)年 70歳
8月、マニラで開かれた国際図書館協会連盟第46回大会に参加。この大会で1986年大会の日本開催が決まる。日図協が行った「図書館法30周年記念論文募集」の審査委員長となり、全国図書館大会で発表。【6月、日図協定期総会で「図書館員の倫理綱領」採択。8月、ポーランド労働者決起】
1981(昭和56)年 71歳
5月、日図協の理事に選出され、常務理事・図書館調査委員会委員長。日図協の『図書館年鑑』発行計画が確定し、編集委員会の副委員長になる。8月、『図書館運動50年◆私立図書館に拠って◆』を日図協から刊行。浪江の編集者的力量も充分に発揮され大変面白い半生記。この年『私の農民教育の実践』を国際連合大学から刊行。
1982(昭和57)年 72歳
5月、待望の『図書館年鑑』が創刊され、巻頭に「年鑑の刊行と、日本図書館協会」を執筆。この年、東京都立中央図書館が『私立鶴川図書館蔵書目録』を作成する。【7月、文部省の歴史教科書検定について中国・韓国から抗議】
1983(昭和58)年 73歳
4月刊行の『季刊としょかん批評』第2号に「生産農民が見えなかった戦前の図書館」を執筆。5月、日図協の理事に選出され(10回目)、常務理事(8回目)、図書館調査委員会委員長(5回目)。9月、韓国の農村読書運動の第一人者嚴大燮氏の招きで、夫婦で韓国旅行。草の根読書推進運動=マウル(村落)文庫の全国的な普及・成功に驚く。
【2月、横浜市で中学生らによる浮浪者襲撃事件】
1984(昭和59)年 74歳
『図書館雑誌』3月号に前年の韓国マウル文庫の訪問記を書き、その研究を呼びかける。4月、「町田市立図書館をよりよくする会」が町田市内の文庫関係者、利用者をつないで発足する。以後、月例の勉強会を続け、図書館協議会の設置や中央図書館構想などに活発な運動。7月、日図協に「マウル文庫調査研究臨時委員会」が発足、委員長となる。11月、妻八重子がアルツハイマー病初期との診断を受ける。以後は妻の介護を最優先して、30年近く続けていた自治労自治研の助言者を含め、様々な社会的活動を整理していく。【12月、アメリカ政府がユネスコを脱退】
1985(昭和60)年 75歳
3月の任期切れをもって、長年務めた日図協理事、図書館調査委員会委員長を退く。マウル文庫調査委のメンバーで5月と11月に訪韓、現地調査にあたる。8月、国際図書館協会連盟東京大会が開かれ、会議に参加。同月、町田市立図書館に図書館協議会発足、委員長に選ばれる。【3月、ソ連でゴルバチョフ書記長登場、ペレストロイカ路線。5月、男女雇用機会均等法成立】
1986(昭和61)年 76歳
この5月刊行分を最後に『図書館年鑑』編集委員会副委員長を退く。【4月、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故。11月、国鉄の分割民営化法案成立】
1987(昭和62)年 77歳
7月『マウル(村落)文庫調査研究報告書』が日図協から刊行され、浪江は「やっぱり世界のナンバーワン」と書く。【8月、日図協の図書館政策特別委員会が「公立図書館の任務と目標」を発表。11月、全日本民間労働組合連合会=連合が発足】
1988(昭和63)年 78歳
10月、全国図書館大会が東京多摩地区で開かれ、開会式で日図協から功労者として表彰される。
1989(昭和64、平成元)年 79歳
1月、図書館大会での表彰と図書館閉館の予告を主な内容とした封書による年賀状を発送。5月、「浪江虔氏と八重子さんご夫妻を祝う会」が町田市内で開かれる。5月、『町田市立図書館をよりよくする会5年のあゆみ』が同会から発行される。7月、2期4年間委員長を務めた町田市立図書館の図書館協議会委員を辞任する。9月27日、この日を最後の開館日として、開館満50年を越えた「私立鶴川図書館」を閉館する。蔵書の大半は、開館準備中の町田市立中央図書館に引き取られた。【1月、昭和天皇没。11月、東西ベルリンの壁撤去。12月、米ソ首脳会談、いわゆる冷戦の終結】
1990(平成2)年 80歳
10月、町田駅前の巨大な再開発ビル内に町田市立中央図書館が開館し、利用活発。同月、妻の私家版歌集『歌集 山茶花 浪江八重子』を刊行し、たくさんの反響にあう。
1991(平成3)年 81歳
10月、『歌集 山茶花 追補 浪江八重子のあゆみ 続』を作り、追送する。日図協の全国年次調査報告「日本の図書館」の毎年のデータを読みとき、独自の基準値で集計した「注目すべき市区町村立図書館の一覧表」を作成し始める。1989年度分より始め、毎年200部ほどコピーして配布する。【1月、湾岸戦争勃発。7月、ワルシャワ条約機構解体。12月、ソ連邦崩壊】
1992(平成4)年 82歳
5月、日図協創立百周年記念式典。【6月、PKO協力法成立。9月、PKO部隊の自衛隊カンボジアへ出発】
1993(平成5)年 83歳
6月22日、妻八重子が永眠、83歳であった。【8月、非自民連立内閣発足。細川首相、先の戦争を「侵略戦争」と明言】
1994(平成6)年 84歳
【7月、北朝鮮の金日成国家主席死亡】
1995(平成7)年 85歳
7月『本ものの地方分権・地方自治』をBOC出版部から刊行する。【1月、阪神・淡路大震災。3月、地下鉄サリン事件。6月、戦後50周年国会決議】
1996(平成8)年 86歳
4月、「町田市立図書館をよりよくする会」は「町田の図書館活動をすすめる会」と名称を変更し、学校図書館充実などにも課題を広げて活発な活動を再開していくことになる。10月『図書館 そして民主主義◆浪江虔論文集』が、まちだ自治研究センターを編者としてドメス出版から刊行される。さきの『図書館運動50年』とともに浪江の図書館分野の仕事を学ぶ基本文献。この年、白内障の手術をする。【12月、ペルーの反政府ゲリラ、日本大使公邸を占拠】
1997(平成九)年 87歳
5月、『ず・ぼん』誌のインタビューを受ける。【5月、神戸酒鬼薔薇事件。金融機関の破綻相次ぐ。6月、学校図書館法一部改正、西暦2003年までに小・中学校に司書教諭配置と決定】
1998(平成10)年 88歳
2月、『注目すべき市町村立図書館の一覧表――1996年度の実績と97年度当初の現状について』を制作する。4月、この小冊子の発行が「町田の図書館活動をすすめる会」の事業となり、400部印刷する。A5版、32頁、頒価300円。連絡先は、町田市森野3の1の12 増山方 同会。
少し目が不自由となり、細かな作業はきつくなった。けれど、月例の「すすめる会」の活動など、地域の市民活動に多忙な毎日である。
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