知識というものは公共のものであり、その時代の共通知識を次の世代に伝えていくことが、あらたな知や文化の創造につながっていく。だからこそ、知識を伝える役割をになう大学は、すべての人に開かれている必要がある、という考える橋爪大三郎さんに、大学図書館に望むこと、できることなど、じっくりときいた。
はしづめ・だいさぶろう●一九四八年、神奈川県に生まれる。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、東京工業大学大学院社会理工学研究科教授(社会学)。
著書に『橋爪大三郎の社会学講義2』『橋爪大三郎の社会学講義』(以上、夏目書房)、『言語ゲームと社会理論』『仏教の言説戦略』『現代思想はいま何を考えればよいのか』(以上、勁草書房)、『はじめての構造主義』『社会がわかる本』(以上、講談社)、『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館)、『性愛論』(岩波書店)、『大問題!』(幻冬舎)、共著として、『自分を活かす思想/社会を生きる思想』『ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論』(以上、径書房)、『オウムと近代国家』(南風社)、『僕の憲法草案』(ポット出版)、『研究開国』(富士通ブックス)などがある。
図書館には戦略が不可欠
図書館とは、本が集まったものです。ですから図書館は、そこに収蔵している図書、データの構造に本質的に依存していると言えます。
そこでまず、図書について考えてみましょう。これは、言葉(=言語データ)を書き記したもの、という基本的な性質があります。なぜ書き記すのかと言うと、それは、時間を飛び越えるためです。本の特徴は、書かれた時点と読まれる時点の間に時間的な差があるということ。もちろん、空間的な差があってもいい。書いた人と読んだ人が別の国の人だとか、国境をまたいだりしても別にかまわないんですが、本質は時間だと思います。もし時間ということがなければ、本は書かれないでしょう。書かれたとしても同時代で消費してしまっていいわけです。そうではなしに、将来のありうべき読者に残しておこう、そういう動機を持って組織的に本を集めようと考えたときに、図書館が生まれるわけです。
図書館には必ず、戦略があるんです。これが個人の蔵書などとは違う点です。
個々人の蔵書は、自分の興味にあわせて自分の資力の範囲内で買い集めるものです。だから、その人が死んでしまうと、捨てたり、友達にあげたり、古本屋に売ったりして散逸してしまうんですね。こういう個人の蔵書の性格を越えて、みんなで利用するという共同性を持って戦略的に図書を集める。たとえば、市とか国とか、大学といった公的機関が本を集める。こうした条件が揃ったときに、図書館と言えると思います。そこでは、個々人が利用するんですけども、その個々人が利用するということを越えた大きな戦略がある。文化の創造に向けて、過去の創造の成果をなくしてしまわないために、将来の創造に活かしていくために残していくという、公共的使命があるんですね。ここにまず注意すべきで、これが図書館の精神なのです。
そうすると実は矛盾も起こってきます。
たとえば図書館は、将来にいろんなデータを残しておかなければいけない。確実に残しておくのなら、貸出しなんかしない方がいい。これが一番確実に残しておける。貸出しをすれば必ず欠本がでます。破損本がでます。ところが、一切貸出しをしなかったら、何のためにとってあるのかまったく分からない。だからここで、適切ぎりぎりな公開の度合いを決めておかなければいけない。貴重な図書だったら閉架にするとか、一般図書だったら何冊も置いておき、多少はボロボロになってもいいやとか、きちんと度合いをつけるべきなんですね。
これは美術館でも同じことが言えます。貴重な美術品を完全に保存しておこうと思ったら、光を当てないで、鍵をかけて、完全な空調が保たれたところにしまっておくのがいい。人間に観せないのが一番いいんです。だけど、それでは美術館の意味がない。税金を払って、収蔵作品を観られないなんておかしいと、みんな思うでしょ。観ると傷むということが確かにあるわけですが、これも兼ね合いの問題なのです。
戦略がはっきりしていれば、何をとっておくか、どういう本を買って、どういう本を買わないか、という蔵書構成についての方針が立ちます。こういう戦略を持ってない図書館は、図書館の名に価しないですね。日本には残念ながら、そういう図書館が結構あります。次々と本を買って、収蔵スペースがなくなったと言っては古い本から順番に捨ててしまう。
それから、図書には検索が大切ですから、図書を分類して、配架して利用しやすいようにする。つまり、司書業務が非常に重要なんです。図書館には、本の購入費の他に、運営費や司書の費用がいるんですけど、わが国の予算では、それは人件費だとか何とか言って、別系統になっていて、物件費と人件費を対応させていないところが多い。図書予算が足りないと言って、人件費を削って本をたくさん買ってしまったりするところがある始末です。この比率が壊れるとどうなるかと言うと、図書が積読になるんですね。それでは戦略が実行出来ません。
もうひとつ図書館は、利用のことを考えると、一時間とか二時間で行ける場所にないと意味がない。日帰りで行けないような場所に図書館があっても、普通の人はなかなか利用できない。あっちこっちにないとだめです。あっちこっちにあるということは、重複が生じるということです。ただし、あまり重複しても困るので、図書館同士分業しないといけない。こういうことも戦略の一環です。たとえば、世田谷区の図書館の場合、区内の図書館の間では、お互いにデータのやりとりをしてコーディネートをしている。私が住んでいるところは、目黒区、大田区にも近いのだけれど残念ながら、世田谷区の図書館では、大田区や目黒区は知りませんよ、と言われる。そこまでの分業はしていないのですね。本来は、すべての図書館が棲み分けながらリンクしていて、さまざまな需要に応えていくというのが望ましいあり方です。
図書館には戦略が不可欠なんですけども、現状はその戦略を十分に発揮していると言い難いのではないか。
大学図書館こそ知的活動の中心である
図書館を誰がつくったかと言うと、文化・知識に対して非常に関心があって、それが自分の権力の基盤になっていると考えている、資金のある人。具体的に言うと、王様。それから、大学ですね。
王様の方から話をすると、古文書や外交文書、土地の相続に関する書類、裁判の記録といった証拠の書類を、あとから文句を言う人間が出てくるといけないのでとっておきます。それらを保管しておく公文書館みたいなものが出来ましたが、ついでに本も取っておく。こういうスタイルの図書館だったらどこの国にも必ずあったはずです。でも、もっぱら学術書を収蔵しているという、どこからみても図書館らしい図書館は、古代にあったアレキサンドリアの図書館を除くとすれば、ハーバード大学の図書館のスタイルじゃないかと思います。
ハーバード大学。私は行ったことないんですが、インターネットで覗いたり、うわさ話でいろいろ聞くに、図書館が大学の中で一番立派なのですね。図書館を中心にしていろいろな建物が建てられ、大学が出来ている。ハーバード大学はご存じのように、神学部から始まった学校です。神学にはどうして本がいるかと言うと、アメリカは一応新教を中心に成り立った国だから、当然のことながらカトリックとの論争をいつも念頭に置いてるわけです。二十世紀でこそ、アメリカとソ連の冷戦が念頭に置かれていましたが、本当の冷戦というか、対立は、カトリックとプロテスタントとの間で十六世紀からずっと続いている。宗教戦争もあって、その後冷戦状態になったわけです。つまり潜在的に論争しているんです。だから論争に勝てないとアメリカは壊れちゃう。そこで、論争のネタになりそうな本は全部残しておき、それを若い学生に勉強させて論争に強い牧師になってもらい、アメリカ中の教会に散らばってもらう。そして日曜日ごとにちゃんとプロテスタントの説教をする。そうやって神学のレベルをいつもいつもブラッシュアップしていかないと、アメリカの公徳心・道徳心・人格というのは壊れてしまうんです。ひいてはアメリカが壊れてしまう。
そこで、ハーバード大学は、私立大学ではありますが、とても重要な位置を持っていたと思うのです。出版事情の悪いアメリカですから、本は貴重です。本があったら個人個人で買ったり、散逸させたりしないで、できるだけ図書館に集めよう、ということでハーバード大学の図書館があり、他の大学の図書館がある。市や町や村や州でも必ず立派な図書館をつくる。優れた本は図書館に集中して、次の世代に残していくという意識が極めてはっきりしています。
たとえば、教科書をどういうふうに扱うかということでも、日本とアメリカとでは違う。アメリカの学校の原則は、本は公共のものですから、教科書も学校のものなんです。学生は学期の始まりに、ハードカバーのぶ厚い教科書をボンと借りてくるわけ。家に持って帰ってなくしたりするといけないから、原則はロッカーに置いておき、宿題があるときだけ家に持って帰るんです。
教科書を開けてみると、これは一九八〇年に買いました、八〇年から八一年までは誰それさんが使いましたと、歴代の使用者の名前を記入する仕組みになっています。それと一緒に本の性質はNewとか書いてあって、次に誰それさんで、性質はVery
good、しばらくGood、Goodが続いて、それからFairly well、まあまあとか書かれている。そして最後にボロボロになったところで捨てるんでしょうね。そういうふうにみんなで使うものなんです。そして、書き込みをしてはいけませんと書いてある。公共の本だったら書き込み出来ませんね。ハードカバーのぶ厚い立派な本を教科書とするかわりに、勉強したら返しちゃうという考え方です。
わが国の場合は、教科書は自分で買うものですよね。そのかわり、ぺらぺらで安い。内容が精選されていて、検定済みだったりなんかして、落書き、書き込みはしほうだいです。
教科書の扱いからしてこのように違うわけです。教科書でさえも公共のものであったとしたら、他の参考書なども全部図書館にあるでしょ。そういうシステムで小学校・中学校・高校も出来上がっている。もちろん、大学も同じです。
大学図書館は、一般の図書館と少し性格が違うんですが、それは大学という場所の性質によります。大学は大きく言うと、教育と研究を行なう組織です。教育と研究という大目的がありますから、その教育・研究に役立つ書物をきちんと揃えているべきものなんです。
とすると、大学図書館は他の図書館と違って、まず教科書を揃えているべきです。アメリカでは、一般の図書館でもしばしば教科書を何冊も揃えています。大学図書館になると、教科書を五〇冊とか一〇〇冊とか持っていて、新学期がくると学生全員に貸出します。こういう機能を持っている。日本にはこういう機能はないですね。みんな新学期になると買わなくちゃならない。
次に、論文、雑誌論文を揃えていること。雑誌は毎号揃っていないと意味がありませんから、雑誌を継続的に購読していることが大事なことなんです。創刊してから、三十年、五十年、百年経った雑誌はざらです。それが欠号なく全部揃っているということがとても大事なんです。もし個人で集めたら、興味があったときから買い始めても、十年、二十年で途切れてしまいます。ですからこれは、図書館などが公的に集めなければなりません。また、みんなが買わなくても図書館にひと揃いあればいいわけですから、資源の節約にもなりますよね。
それから一般の書物では、ある分野に関して基本的な書物が全部揃っているというのが大変重要です。どの書物が基本的かということは、司書やその専門分野に詳しい人にアドバイスを受けて分かっていなければなりません。理科系は日進月歩であるために、過去五年ぐらいまでが勝負なんですけど、人文系の場合はどこまでさかのぼっても創造の源泉として重要ですから、およそ本と名前の付くものは全部収蔵していることが望ましい。そういう違いがあります。
極端な話、ある本を収蔵するかどうかを決めるのは、将来それを使う人がいるかどうかです。誰かたった一人でもいれば、そのたった一人のために本を買うべきなんですね。いくつか例を挙げると、これは大学図書館じゃないんですけど、カール・マルクスが亡命先のイギリスで『資本論』を書きましたよね。『資本論』を書くのに英国古典派の経済学やさまざまな本を読んだ。どうやって読んだかというと、大英博物館の付属図書館かなんかの閲覧室を自由に使っていたんです。資本主義社会の真ん中で、資本主義の税金の上前を享受しながら、『資本論』を書いたわけです。マルクスは亡命家で、革命家で、共産主義者だと図書館は分かっていたかも知れないけど、「だから、おまえは入れません」なんてことは言わないで、ちゃんとみせたわけですね。
それからレヴィ=ストロース。この人はユダヤ人であるために、ナチスがフランスを占領したときにガス室へ送られちゃ大変だというんで、ボートピープルになってキューバへ逃げ込んで、それからニューヨークへ行ったんですね。たしかニューヨーク市立図書館だと思いますが、そこで博士論文を書き上げた。彼は、戦争のどさくさで本なんか全然持ってきてないんです。何もない状態で、どうして博士論文が書けたかというと、彼が必要とする専門書が、世界中で五〇〇冊や一〇〇〇冊も売れればいいような、およそ一般の人が滅多に触りもしないような本が、そこの図書館に全部揃っていた。まるで彼に、論文を書いて下さいと言わんばかりの蔵書構成だったから、何の不足もなく博士論文を書くことが出来たわけです。
大きな大学の大学図書館は、こういう機能を持っているんですね。ある分野の専門論文を書くのに必要にして十分な蔵書構成がある、これが基本です。大学というのは、卒業論文を書き、修士論文を書き、博士論文を書く。その道の専門家達が知的な創作活動をするんだから、それに必要で十分じゃなきゃダメですね。
戦略を持って本を買うために
ところで、わが国の大学図書館の悪しき特徴は、図書の購入予算が大学図書館の予算だけで出来ていないことです。図書を購入する権限が誰にあるかと言うと、普通の図書館であれば蔵書構成の委員会があって、どういう雑誌を取るか、本を買うかを、そこで決めています。権限が一本化されてるわけです。
大学図書館の場合、研究費を持っている大学教員は、研究費で図書を買うことが出来る。めいめいがお互い連絡なく勝手に買ってしまう。それをどうやって管理するかと言うと、原則として図書館に登録する。国立大学ですと、予算は税金ですから、本は国有財産になってしまう。登録番号が与えられ、カードが出来て、図書館の蔵書になってしまうんです。ただし、その先生が現役で活動している間は、先生の研究室にその本がある。その先生がいなくなったり、死んじゃったりすると、その図書を中央図書館に返却する。こういった構造になっています。そうすると図書館にとっては、こんな本はなくていいと思うような本が、あっちこっちで重複して買われたりします。図書の購入費用には人件費はついてないので、図書館の方はオーバーワークになります。
ですから、研究費と図書費は切り離すべきです。教員が買う本については消耗品扱いとし、教員の使い捨てにしなくちゃいけません。教員が買った本を図書館がいちいち管理するなんて、ばかばかしいことはやめた方がいい。そのかわり、組織的に本を買いたいんであれば予算を増やすべきですね。図書館からみれば、教員が個別に買う本なんて、雑音、ごみのようなものなのです。たとえば、おとうさんが書斎を準備しようと思っても、こどもが漫画の本を買ったり、おねえさんが映画の本を買ったりして、場所はとるし、俺はこんな本読みたくないのにとか、そういう苛立ちってあるでしょ。図書館も、たぶん同じように感じているはずです。複数の意思決定主体があるということは、戦略的じゃないわけです。教員も、登録されちゃうから大事な本は一冊も買えない。素晴らしい本なんか買っても、転任となったら置いていかなきゃいけない。だからゴミみたいな本しか買えない。だれにとっても非常に不幸なことだね。
日本の大学図書館は、このように、中央図書館と研究室の二つの部分から出来ていて、図書館として統一的に機能していません。東大の例で言うと、中央の図書館の他に、学部ごとに図書館があります。その中には立派に運営されている例もいくつかあります。まず医学図書館。これは単独の図書館で、とても立派です。それから経済学部の図書館。経済学部は中の組織がきっちりしているので、図書館も立派です。経済学の古い雑誌が何でも揃っています。工学部や理学部の図書館については、私はよく知りませんが、他はあまりほめられないですね。文学部図書館というのが存在することになってますけれど、これは形ばかり。入るとちょぼちょぼと雑誌があるだけで、実態はその下の研究室がその機能を担ってるんですね。哲学・美学・インド哲学・ドイツ文学・フランス文学・社会学・心理学などの研究室がお互いに関係なく蔵書を持っている。専門の司書は置けないので助手か、人件費を捻出して嘱託の人かが管理している。だからバラバラです。欠本も多い。昔に買った本なんか、五分の一もあればいい方で、残りはみんな行方不明になってしまっている。これが大学図書館というものなんですね。経理の点でも、管理の点でも、大変にバラバラ。
もし大学の知的活動の中心が図書館であるとすれば、ハーバード大学のように大学の真ん中にどでんとあるべきです。まず何はなくとも図書館だけはある、これが正しい姿です。大学の学生はいなくても知的活動は維持できる。教員はいなくても知的活動は維持できる。学科や研究室はなくても図書館さえあれば、知的活動は維持できる。図書館がなかったら他に何があってもダメだ、という関係なのだと思うんです。だから予算や建物は図書館が最初に全部取っておいて、残った中で他がやりくりをすればいいんです。これが出来ている大学は、日本にはないと思いますね。図書館は学部扱いされていないし、大事な会議に、図書館の代表は出席しない。そういう意味で、大変冷遇されているように思います。
ところで、大学図書館と言ってもいろいろあります。それは、大学と言ってもいろいろあるのと同じです。大学にも、一学年五〇人とか一〇〇人で、全校生徒五〇〇人という大学もあります。短期大学や、専門学校もちっちゃいですね。そういうところで立派な図書館と言ったってなかなか無理でしょ。
日本の大学設置基準では、学生数にあわせて蔵書が何万冊ないと大学の認可が下りないことになってるんです。で、どうなるかと言うと、大学の認可を得るために蔵書を提供する古本屋さんがあるんですね。「新設の大学をつくるんですけども、三万冊ほど蔵書をお願いできませんか」って注文すると、「はいはい、承知しました」と、ぼーんと持ってきてくれるんですよ。冊数さえ揃えばいいわけで、中身なんか問いません。たとえば経済学の本なんかが一番明瞭ですけど、箸にも棒にもかからないクズみたいな本がごまんとあります。一方、絶対にないといけない貴重な本っていうのもあって、本のランキングが非常にはっきりしているんです。だから三万冊揃っていようとゴミみたいな本ばかりだったら、大学でも何でもないわけ。基本的な本が並んでなくちゃいけないんだね。そういうことを古本屋さんが必ずしも分かっているわけじゃないし、大学設置基準にそんなこと書いてありませんから、こういう愚かなことが起こるんですね。
すべての大学図書館が、横綱のようにでんと構え、教育・研究なんでも、どの分野でもかかってこいみたいにしろとは、私は言いません。でも、いくつかの有力総合大学や地方の核になる大学は、そういう機能を目指したらいいんじゃないかと思います。
同時に、その地域に他にどんな図書館があるのかによって、蔵書内容も変わってくると思います。東京だったら、国会図書館もあるし、都立の図書館もあるし、地域の図書館もあるから、大学の図書館の蔵書がある程度偏っていたり、いい加減だったりしても何とかなります。しかし地方の都市などで、ここにしか大規模図書館がないなんて場合には、他の図書館とよく相談して蔵書構成を分担するべきですね。そうやって、総合大学・単科大学・専門学校・地域図書館が、それぞれの蔵書構成を分岐させて、特徴を出すべきです。
率直に言って、研究なんかほとんどしていない大学もあります。そういう大学は、おもいきって教育に特化して、公立の図書館に毛がはえたもので我慢するというのも一つの方法です。それだったら、『地球の歩き方』だとか『時刻表』とか、そういうものを完備していた方がいいかもしれません。
図書館には相互貸借というシステムがあります。本の所在が分かれば、図書館相互で本の貸し借りをしてくれます。言い換えると、すべての図書館は理想的には、一個の図書館だということです。私が経験したのは、東大の中の相互貸借です。たとえば私が人類学の論文を書くとします。人類学科は非常に複雑になっていて、その当時は駒場にありました。ところが大学院だけは、本郷にあって、そこに人類学の図書室というのがある。ところがその人類学科は理学部の人類学科から分離したので、戦前の蔵書は全部本郷の理学部にあるんです。たとえば、ある専門雑誌に関していうと、一九四五年までは理学部にあって、四五年から六〇年は駒場にあって、その後は本郷にあるといった具合です。
理学部の研究室にあるものを借りたくても、他学部生には貸出しをしていないんです。そこでどうするかというと、文学部の図書館から理学部の図書館に向けて相互貸借の申し込みに行くんです。文学部の図書館のカウンターに行くと、相互貸借の申込書があるので、そこに必要な本の名前を書くわけです。それを持って理学部に行って、本を借りてきて必要なところをコピーします。そして返しに行く。一つの論文をコピーするために、だいたい一時間から一時間半ぐらいかかるんですね。もし論文を五つ、六つ読もうなんて思ったら、まず必要な論文の所在や閲覧の形式を調べて、必要ならその相互貸借の書式を書いて、借りに行って、コピーして、返しに行く。これはもう一日仕事です。
経済学部は相互貸借じゃなくて、すぐ貸してくれました。法学部は相互貸借すら受け付けてくれませんので、法学部の知り合いに頼んでこっそり鞄の中に入れて持ち出してもらう。文学部は、研究室ごとにお互いに独立しているのでケース・バイ・ケースです。このように、図書館の案内に、貸出し不可と印刷してあっても、実際は違ったりということが結構あるのです。東大の中だけでこれだけ複雑ですから、もしこれが別の図書館との関係となるともっと大変ですね。
ただ最近は、何という雑誌の何巻何号の何ページから何ページまでコピーして送って下さいと言うと、コピーを実費でやってくれるようになりました。相互貸借じゃなくて、コピーのサービスもやってくれる。とても便利になっています。ただし現物がみられないから、必要ない論文までコピーしてしまうことがあります。また、実際に手に取ってみることが出来れば、次のページにもっといい論文があったりと、発見があるんですよね。コピーサービスではそれが全然ありません。それに、やっぱり原文をみられるのが一番いい、というわけで総合大学は、可能なら開架式の大きな図書館があって、本人がコピーできるのが理想です。
電子化によるバーチャル図書館の可能性
図書館の役割の中心は文字情報を次の世代に伝えるということです。いま、その伝え方が大きく変わりつつあります。
雑誌は合本して、製本してあるでしょう。これは、コピーをとるという事を前提にしていないんですよ。一年で十二号まで出るとすると、四冊分ずつぐらい製本してしまう。製本すると一冊で立つようになりますし、保存性もよくなりますが、コピーはとりにくくなる。真ん中まできれいにコピーをとろうと、いろんな人が自分のとりたいページを開いてギュッと押すから、糸目が切れて、本はすぐにボロボロになってしまいます。昔はマイクロフィルムに撮ったことがあったんですけども、マイクロフィルムは閲覧の方法としてあまり適当でない。そのままマイクロフィルムリーダーで読むと目が痛くなるので、とても読み続けられないんですね。しかもハードコピーでないからメモもできないし、勉強の道具としてあまり役に立たない。マイクロフィルムリーダーからコピーをとるという方法もありますけど、それだと二度手間になって大変です。
今後可能性があるのは、文字情報を複製するという方法です。最終的にハードコピーにはなるとしても、印刷されている原本からコピーをとるのではなく、印刷されている文字をデータ化しちゃえばいい。そういう方向にたぶん進むと思います。いまだったらOCRを使って文字をデータ化できます。データ化した本は、コピーはとらせずにデータから直接プリントアウトする、というのが一つの方法だと思います。
全ての図書館が全ての図書をデータ化するのは大変だから、その作業は一カ所でやればいい。データの管理は、国立国会図書館などの、図書館のさらに上位機構がやればいい。これは半ば出版みたいなものだから、法律上難しいと思いますけど、これからはそういう作業が必要になるんじゃないかと思います。古い本はともかくとして、これから出る新しい本に関しては今後それが義務づけられてもいいんじゃないかと思う。たとえば、ポット出版で本を出したら、出版と同時にその文字データを国立国会図書館に提供するとかね。そうすれば、図書館側でいちいち読みとらなくても済みますからね。
このようにして情報を電子化していくと、ある雑誌をある図書館が物理的に収蔵しているということにほとんど意味がなくなってきます。たとえば、必要な専門雑誌の一巻から何巻までのCD-ROMを買ってくればいい。買ってこなくても、どこそこのデータベースにあるということが分かっていれば、そこにつなげればいい。そうなってくると最終的には図書館という形態が、ネットワークの中に解消していくんじゃないかな。接続コストなどとの兼ね合いはありますけどもね。
もう一つは、電子化されるのは本に限らないということです。本という形で出版するということには五百年の歴史があって、印刷するという複製方法に馴染むものだったわけです。ただ、本の歴史は印刷の歴史より古い。印刷の前に写本の時代があるんです。大事なものは写本し、それほど大事でないものは、ノートという形で複製したわけです。印刷の時代になっても印刷のコストが高かったので、印刷するほどのものでないものや数十人の知的サークルの中で流通すればよいようなものは、講義という形でノートをとって写本した。最近の講義はめちゃめちゃですが、大学ノートとペンというものが生きていた時代には、私も大学入学当時にローマ法学の講義で感じましたが、ゆっくりしゃべっていくんです。初めはなぜそんなにゆっくり話すのか分からなかったんだけど、要するにそれを全部ノートに書き取れという意味だったんです。そうすると講義の中身は、早口な私がしゃべった場合の十分の一ぐらいしかないわけですが、考え抜かれたというか、去年も同じだったというか、ノートに書くべきことを読み上げていくわけ。学生がみんなそれを筆記して、授業が終わると本が何ページか出来ている。これが講義の古典的形態で、印刷じゃないけど本が複製されている。
時代時代によって知識の伝達に制限がありますが、電子的方法は大変に有用なものです。本になる前の形のもの。音声情報、あるいは画像情報。そういうものも、本と同じように複製して収蔵することが出来ます。一つの完結した形で、ある知識やメッセージを伝えているものであれば、複製、収蔵ができます。
実際に私の授業を撮影してみましたが、映像は文字データに比べて千倍ぐらいデータの幅をとります。処理スピードがかかりすぎたり、コストがかかりすぎたり、場所をとりすぎたりして、今のパソコンで処理するのは無理です。かろうじて写真で数枚処理できたりしますが、ビデオや講義のように動いているものをそのものの形で収蔵させようとすると、まだ無理です。無理ですけれど、たかだか千倍ですから、三年で十倍だとすれば、まあ十年もすればこの千倍は縮まってしまうだろうとも言える。そうなれば図書館は、画像情報をそのまま収蔵するものになるかも知れない。
そうすると、大学図書館に何を収蔵すればいいかということに関して、考え方を変えなければいけないと思う。私が一番重要だと思うのは講義です。講義は、学生に直接話をする必要上、小さな単位、数百人の規模でやっています。
もし講義が電子化されて、反復して聴けたり、自由に聴けたり、同時に大勢で聴けたりするようになれば、いわばビデオ・オン・デマンドの形で受講者が中心になって聴くようになれば、これだけ沢山の大学教員はいりません。複製できるということは供給力を増やせるということで、需要が一定だとすれば供給元は削減できます。そうするとみんな暇になるから働かなくてよくなります。
教育の内実は、教える本人のアイデアを語っている以上に、その時代の共通知識を話している部分が多いんです。それは高等教育、大学の教育であっても変わりません。
共通する部分を話しているんであれば、だれの講義を聴いても同じです。それならば、話が分かりやすく、教え方の上手な先生のものを聴きたいと思うでしょう。本人のアイデアを話しているという部分は学者の個性ということになるので、学生にもあの学者の話を聴きたい、という希望があるかもしれない。そうした場合に学生の選択の余地が出てきて当然だし、それは尊重されるべきです。その結果、自分の考えをしゃべっておらず、教え方も下手な教員の授業はだれも聴かないということになります。
そうすると、カラオケが登場したあと、流しのギターの歌手が全滅したのと同じことが起こってくる。カラオケソフトと同じように、講義のソフトが、標準化・規格化されて商品化されるでしょう。そしてそれをストックして持っていることが、大学図書館の重要な機能の一つになるのではないでしょうか。
もう一つは、データが時間を超えていく形式ですね。図書であれば、図書を物理的に格納している建物としての、図書館が必要です。書庫が中心で閲覧室があり、カードボックスがあり、司書の人がいる。これが今までの図書館であったと思うんですが、もしそれが電子的なデータであれば、物理的に格納しておく必要はありません。閲覧室や何かをつくっておく必要はないです。司書機能、データ処理は必要かも知れませんが、それはソフトハウスとかでやればいい。物理的にある場所に建っている必要もありません。こういう方向に変化していくんじゃないでしょうか。
たとえば、ビデオレンタル屋さんは町のあちこちにあります。なぜあちこちにあるかというと、借りに行くのに歩いて十分とかいう制限距離があるからです。もしこれがオン・デマンドになったら、レンタル屋さんは全滅するわけです。データが要求される形によって、あちこちにあるか、一時間の距離に一箇所あるか、どこにもなくなってしまうかが決まってくると思います。
そこで重要なのは端末です。高速で、すばやく、大量のデータを閲覧しながら取り出すことが出来る端末が必要です。そういう端末がそろそろ出来ると、私は思います。
これがバーチャル図書館というものの一つのあり方なの。そうすると図書館は、ネットワークの中に解消されていくんだけど、それを維持管理しデータを更新し、誰の要求にも応える形に維持しておく。これが図書館業務の大事な役割になって、それに税金を使うことになるでしょう。一方、従来の図書館もクラシックな人達のために残しておいて、従来の本も閲覧出来るようにしておいてもいいですね。
最近の学術雑誌などは、コストの関係で実際には印刷されずに、電子的に出版されるだけの雑誌が増えてきています。それは、e-mailのようなもので定期的に届きます。学会員が五〇〇人だとか一〇〇〇人で、印刷のコストを削減しようと思えば、賢明なやり方ですね。学術雑誌はもともと採算を取るのがとても厳しいものですから、真っ先に変わっていくんです。商業的なものはそれほどではないかも知れませんけど、徐々にそういう方向に動いていくでしょう。
なぜ図書館は開かれるべきなのか
図書館は無料でだれにでも開放されているべきです。それは本を読む価値のある頭脳を持った人間が、必ずしもお金を持っていないからです。貧乏人でも、どんな経済条件であっても、意志があれば本を読んで勉強が出来る。これが図書館の一番の基本ですね。だから無料になるわけです。ここで公平を確保する。そのコストを社会が負担して、勉強しようという意欲と能力のある人がその利益を享受する。ひいてはこれが社会・公共のためなのです。
それは、亡命してきたマルクスやレヴィ=ストロースが、快く迎え入れられたのと同じす。身分証明書ぐらいはみせて欲しい気がするけど、原則だれにでも、知能のある限り、積極的に図書館を破壊しない限り、利用を認めていいと思う。大学図書館も同じです。私は、大学が学生を選んでいることに反対していて、だれでも学生になっていいと思っていますから、当然、だれでも図書館を使っていいと思います。相互貸借のところでも述べたように、今は貸出制限というのがあって、とても不便です。
ただし無制限に利用を認めると、司書の人が大変になる、コピーで本が傷むという現実もあります。しかしこれは過渡的な問題、兼ね合いの問題なのですね。たとえばもうボロボロになっている専門雑誌なんかを、だれにでもコピーさせるのは危ないですよ。日本に一冊しかないかもしれないんだから途中でなくなっちゃったら困ります。そういった点は考えるべきかもしれないけど、それはやっぱり兼ね合いの問題です。原則として、公開するために所蔵しているのですから、その精神においては、だれにでも利用を認めるべきです。
電子メディア化は、その敷居を下げてデータの損耗も防ぐという、大変画期的な効果をもたらす。それは図書館にとってもいいことです。さっき言ったような兼ね合いの問題を考えなくて済むようにしてくれると思うんです。図書館があちこちにある。大学があちこちにある。これはみんな物理的な制約に基づいているんですね。電子化というものは、その物理的な制約をなくすという方向に働きます。
知識は公共のもの、みんなのものです。たとえば、だれかが考えたアイデアというのは、そのだれかのものではなくて、みんなで使うものなんです。ピタゴラスの定理は、ピタゴラスが考えたことになってるでしょう。でも、「私が考えたことだから他の人が考えちゃいけない」なんてピタゴラスは言いません。ピタゴラスの定理を使っているから、あなたが住んでる家も、『ず・ぼん』を刷る印刷機も、動いているわけです。それと同じことで、公共の知識は全部無料で公開されています。著作権というものもあるけれど、それはアイデアのごく一部を保護しているだけです。もっとも基本的なアイデアは公共のものだし、著作権も保護期間が過ぎちゃえば公共のものなんです。そうやってお互いに助け合っているわけです。図書館もその一部なんです。図書は、買えば読む権利が自分にあるけれど、書いてある中身は公共のものです。
このことは、絵画の例を考えてみると、わかりやすいかも知れません。あなたが大金持ちだったとしましょう。ゴッホの『ひまわり』が世界中に何枚あるか知らないけど、みんな買い集めてきて、居間に飾ったとします。そしてあなたは性格異常者なので、自分以外のものがゴッホの『ひまわり』を観るのはけしからんといって、火をつけて燃やしてしまった。私有財産には使用・収益・処分の権利があるでしょう。処分というのは破壊を含みます。民法上これは問題ありませんが、道徳的、倫理的にはどうでしょう。大変な非難を受けます。読者の中で、そういうことを喜ぶ人はいないと思う。権利だからよくやったなんて言いません。ゴッホの『ひまわり』を買ってきたというのは、自分の家でしばらく大事に観て下さいという意味であって、この絵はもはや人類のものである、決してあなたのものではありませんよということを含んでいるんです。だからあんなに高い値段がついているわけです。みんなが観るであろうから、それだけ大事にして下さいという意味であれだけ高い値段がついているんです。つまりそれは、公共のものなんです。
本の場合も、仮にあなたがだれかの本を全部買い集めて、みんな火をつけてしまうと同じことになります。図書館はそういうことが出来ないように保存しておく。破壊されないように守っておくところです。つまり、公共のものだから守っているんです。破壊の元凶が学生であるとか、学生以外の人であるとかいうので、やむなく利用を制限するという論理はあってもいい。だけど大事なものであるから、公共のものだから守っているのです。だとしたら利益を得るのはすべての人々であるはずだし、すべての人である以上、本来だれでも閲覧できるはずのものなんですね。そういう権利は当然のこととして世界中の人が、世界中の図書館に対して要求できることと思っています。
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