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富山県立図書館問題その後
自主規制の増殖は図書館の自死に及ぶか

中河伸俊
[1996-09-05]

文●中河伸俊
なかがわ・のぶとし●1951年生まれ。富山大学人文学部教員(社会学)
著書に『子どもというレトリック—無垢の誘惑』青弓社刊、永井良和と共編著。
本業の社会問題研究について、そろそろこの間やってきたことをまとめたいのですが、一方で国際ポピュラー音楽学会の会員でもありまして、来年の夏金沢大学で開かれる国際大会をどうお手伝いすればいいのか、ない知恵をひねくりまわす昨今です。
(協賛や助成関係の耳寄りな情報があれば、ぜひお知らせください!)


はじめに

 富山県立近代美術館と富山県立図書館が主な舞台となった、大浦信行氏の「天皇コラージュ版画」をめぐる一連の事件については、『ず・ぼん』一号の特集「ある自画像の受難」で詳しく報告されているので、概略をご存じの読者も少なくないだろう。簡単にいってしまえば、この事件の荒筋は、近代美術館がその美術展の招待作家である大浦氏の連作版画「遠近を抱えて」を購入したが、その作品が「不快だ」とか「不敬だ」とかいう県議や民族派の人たちの非難や抗議を受けてそれを非公開にし、ついには、大浦作品を匿名の個人に売却して、その作品が掲載された美術展の図録『 富山の美術』の残部四七〇冊を焼却してしまったというものだ。
 こうした措置を不当と考える市民や美術関係者(作者自身を含む)の手で、目下、富山県や県教育長などを相手取って、住民訴訟と国家賠償訴訟の二つの裁判が進められている。ちなみに、私もこの裁判の原告の一人である。二つの裁判のうち、住民訴訟のほうについては、私たちの提訴の適法性という入口の問題に関する部分的な判決が、十月三〇日に言い渡されることになった。いっぽう、国賠訴訟では七月三日の公判で、前記の「非公開」決定に携わった当時の美術館の副館長が証言し、その結果、たいした運営上の障害もないのに収蔵作品を守る努力を放棄し、県議と民族派の抗議に迎合した経緯がかなり明らかになった。こちらの裁判では、私たちは、美術批評家や現職の公立美術館長、憲法学者などを証人として申請しており、今後そうした方々の証言を通じて、県の措置のどこがなぜ間違っているのかを、より筋道だてて示して行きたいと考えている。
 さて、『ず・ぼん』一号の特集から二年経った今、以上のような美術館をめぐる問題のいわば続編として、富山県立図書館で起こった新たな一連の事態について報告しなければならなくなった。正直いって、私は最近、この事件の展開に少々うんざりしている。何かが起こるたびに、美術館と図書館という公共文化施設を運営する県教委とその傘下の人たちの狭量な役人根性と理念のなさに、改めて感心させられるからである。行政の裁量権という一語にあぐらをかき、「問答無用」の精神にのっとった措置を繰り返す彼らに文化行政を委ね、税金を使わせ続けざるをえない「富山県民」の自分が、ときどき無性に情けなくなるのだ。


有罪判決、しかし図録の所有権放棄

 さて、この間に起こった出来事について説明するためには、まず、近代美術館が震源地のこの事件に、県立図書館がどう絡むのかを説明しなければならない(一号の特集で事情をご存じの方は、ここは飛ばして読んでください)。いわゆる富山県立図書館問題は、近代美術館が県議や民族派の攻撃の矢面に立たされた一九八六年に、図書館が先述の美術展の図録を美術館から取り寄せたことに始まる。これは県立図書館の通常業務の一環にすぎない自然な動きだった。ところが、近代美術館はすでに、大浦作品だけでなく、それが掲載された美術展の図録についても販売を停止し、非公開にすることに決めていた。そこで、図書館も、寄贈者である美術館側の意向を受け入れて図録を「当分の間」非公開にすることに決めた。しかし、その後図書館は、市民や社会党県議の批判、さらには日本図書館協会・図書館の自由に関する委員会の「非公開措置は不適切だ」という指摘を受けて、一九九〇年に非公開の方針を変更し、図録を一般利用者の閲覧に供することにした。図書館のあり方としては当然のことだとはいえ、それまでの行政の対応の流れを考えると、当時の図書館長の山崎格氏はかなりの英断をなさったと思う。しかし、図録が公開されることになった第一日めに、しにせの民族派団体大東塾とつながりを持つ県内の神職I氏が県立図書館を訪れ、図録の大浦作品の掲載ページを破り棄てた。
 県は器物破損でI氏を告発し、県議会は全会一致でI氏の行為を非難する決議を出した。破られた図録は、I氏の刑事裁判の証拠として、裁判所に保管されることになった。I氏とその支援グループは、昭和天皇の肖像を素材の一つに使った「遠近を抱えて」は象徴としての天皇を侮辱しているから、それが掲載された図録を破っても罪にならないとして無罪を主張した。しかし、地裁、高裁はいずれも有罪判決を出し、I氏は最高裁へ上告した。これが、一昨年ごろまでの県立図書館をめぐる問題のあらましである。
 さて、昨年の九月に最高裁がI氏の上告を棄却、十月初頭にその有罪が確定した。証拠として裁判所が保管してきた破損された図録は、当然、持ち主である県立図書館に返却されることになる。私たち、近代美術館検閲訴訟の原告の有志は、同じ教育委員会の管轄下の美術館が作品売却・図録焼却を行ったことから、図書館も戻ってきた図録をひそかに再び非公開にするおそれがあると考え、I氏の最高裁判決が出たとき、館の動きに注目した。しかし、県立図書館の対応の理不尽さは、私たちの予想を大きく上回るものだった。図書館は十月十二日に、図録の所有権を放棄すると裁判所に申し立てた。つまり、近代美術館の焚書と軌を一にするかのように、県立図書館も自らの蔵書である『 富山の美術』図録を廃棄処分にしたのである。
 県立図書館の中野義之館長は、この月の下旬に、この措置の説明を求める市民グループに対して、「図録は修復する価値がない」と判断したこと、図書館の正常な利用環境を確保するために図録を放棄したことの二点を理由として示した。中野館長はさらに、(一)図録が修復可能かどうかについて専門家の判定を仰いではいないこと、(二)館長の着任以来、図録をめぐって何らかの圧力や、図書館運営に支障をきたすような具体的な出来事はとくになかったこと、(三)所有権放棄は、館長が一人で「総合的、客観的」に判断して決めた館長権限に基づく措置であり、資料選択委員会などの館内機関には諮っていないことを明らかにした。中野氏は、彼が「客観的、総合的判断」というものの中身については、質問を受けても、一切説明しようとはしなかった。
 この図書館の措置は、何重もの理由で、許しがたいものである。第一に、いうまでもなくこれは、同書を県立図書館の蔵書から排除しようとする民族派(いわゆる「右翼」)の人たちの企図に屈伏して、図書館の自由を放棄する愚行である。自分たちが気に入らない本を図書館に処分させるためには、何回か館長に電話をかけ、図書館に出向いてその本を破ればいいのだとすれば、どこに思想や言論、表現の自由が成り立つ余地があるだろう。もと教育者の中野義之館長(当時、現在は立山博物館館長)は、何をどんなふうに「総合的に判断」して、こんな悪しき前例となる決定を下すことができたのだろう。そもそも、I氏が図録を破棄したとき、県議会が行った全会一致の非難決議と、この所有権放棄のあいだにどんな整合性があるのだろうか。図録が、館長のいう通りに返却を受けて「修復する価値がない」ものであるなら(ちなみに破られたページは六片になっているにすぎず、技術的には十分修復可能である)、I氏はなぜ、それを破ったかどで県から告発されなければならなかったのだろう。図書館が単に民族派の脅しにおびえただけなのか、それとも巷間で噂されるように図録の処分を条件の一つにした教育委員会と民族派の「手打ち」があったのか、あるいは、地元の保守政治家(そういえばI氏と同じ神官の大物代議士もいる)からの圧力があったのか、私たち外部の者には本当のところはわからない。ただはっきりいえることは、県立図書館が、そうした薄暗がりに隠された事情を、外からの力に左右されず市民の知る権利を守るという図書館の使命より優先させたということである。
 第二に、今回の図録の所有権放棄は、県立の図書館としての固有の任務を放棄した行為だという点も、見逃せない。『 富山の美術』は、県立の美術館が行った美術展の全出展作品を記録した、税金を使った県の出版物である。近代美術館が手元にあった図録を一冊も余さず焼き捨ててしまったため(美術館もライブラリー機能をそなえた施設である以上、これ自体が重大な問題なのだが)、その図録を保存する県の施設は県立図書館だけになってしまった。そして、図書館が図録を放棄した結果、同館所蔵の近代美術館の美術展の図録は、八六年の分だけが歯抜けの状態になっている。郷土資料であり、しかも県の活動を記録する公的刊行物であるものを収集し、次代へ受け継ぐことは、県立図書館の基本的な任務である。図録はもちろん正統派のモダン・アートの集成であり、大浦作品を含めて、その中身には何の問題もない。しかし、それがかりに人権等をめぐって疑義のある刊行物であったとしても、利用制限を付すかどうかはさておき、それが県の刊行物である以上、県立図書館は当然それを収蔵しなければならない。県が行った催しを「なかったこと」にしたり、県の刊行物を「なかったもの」にするような情報の制限や操作は、許されることではない。
 第三に、図録の所有権放棄の意思決定のやり方にも、大きな問題がある。たしかに、図書館長は法律上は、図書の収蔵や廃棄の決定についての最終的な権限の持ち主であるかもしれない。しかし、だからといって、今回の所有権放棄のように、館長が一人である図書の廃棄を決める、などというのは、図書館の日常業務からはかけ離れた姿だろう。図書館長がいちいちそうしたことを決裁するのなら、「資料選択委員会」や「人権等に関する資料検討委員会」といった館内の機関はいったい何のためにあるのかということになる。差別やわいせつといった見地から図書の利用制限を行うという例外的な場合にも、現場の図書館員が、「図書館の自由」を念頭に置きながら、その図書を種々の角度から検討して結論を出すというのが基本的な手順だと聞く。現場にもはからず、理由も示さず、記録も残さず、「図書館長の権限」によって収蔵図書を決定するという、中野館長の非常に検閲的な手法は、後で紹介する、図録とは別の書籍群の収蔵拒否問題で、そのグロテスクな姿をいっそうはっきりさせる。
 ただし、こうした館長の行動は、必ずしも上からの強権発動とばかりはいえないようだ。昨年(一九九五年)十月二六日に新潟市で行われた全国図書館大会の図書館の自由の分科会で、富山県立図書館の図録放棄問題が報告されたが、そこに出席した同館のH氏(私人の資格で参加したということなので実名は伏せる)は、分科会の記録によれば、こう発言している。「先ほどから館内での[所有権放棄についての]論議があったかなかったかという話があった。職員としては、館の管理運営の最終責任は館長であるので、館長の判断には当然従うべきである。」 しかも、この分科会に参加した小倉利丸氏によれば、H氏は、小倉氏が「いままでも館内で、図録非公開などに対する批判もあった」と発言したとき、隣の他館の職員の人に、「そんなことは何もない」と解説していたという。館長の決定について館内の論議が何もなく、その理由や目的も問われないままに収蔵図書の廃棄という重大事が決定されるといった事態が、他館の人たちに喧伝したくなるほど素晴らしい図書館運営のあり方なのだろうか。H氏の眼は明らかに、現在および未来の利用者のほうではなく、館長とその背後にある県の組織のピラミッドのほうを向いている。同氏が県立図書館内で例外的な存在だと信じることができれば、どれほど嬉しいだろう。しかし、県立図書館の利用カウンター脇の壁に掲示されていた「図書館の自由に関する宣言」がいつの間にか姿を消したことを含めて、図録の廃棄後に起こった一連の出来事は、そうした期待の余地を与えないもののように思われる。


図録寄贈の受け取りを拒否

 所有権放棄のあとの図録関係の出来事を、以下に簡単にまとめる。十月二四日に日本図書館協会・図書館の自由に関する調査委員会が、県立図書館に「図録を引き取り公開するように」という要望書を手渡した。同じ日に、図書館問題研究会も、県立図書館あてに抗議と図録の受入れを要望する文書を送付している。さらに、十一月二九日には、日本図書館協会の酒川事務局長と三苫図書館の自由に関する調査委員会全国委員長が県立図書館の中野館長、参納副館長と面談し、図録の所有権放棄の再考を求めた。しかし、館側は「今回の措置は自由宣言に反することだと承知した上で、館長の責任で決めたこと」と答え、議論がまったく噛み合わなかったという。
 この月にはまた、市民グループの三人が富山地裁に、所有権放棄された図録について証拠保全申し立てを行った。当該の図録は、県立図書館が「いらない」といった以上、そのままにしておけば、短期間のうちに裁判所の手で廃棄されてしまう。そこで、この図録の所有権放棄について、市民サイドから法的措置をする予定があると裁判所に申し立てて、棄てずに証拠として保管しておくよう求めたのである。この申し立ては後日に認められたが、一年の時効まで時間的余裕があることもあり、現時点では、図録の所有権放棄についての監査請求や住民訴訟はまだ行われていない(請求や提訴が行われたときには、ご支援のほどをよろしくお願いいたします)。
 さて、年が明けて、図録問題に新しい展開があった。「 富山の美術」展の出品者であり、したがって近代美術館による図録の販売停止・焼却の被害者の一人でもある画家の藤江民氏が、自分が持っていた図録の寄贈を県立図書館に申し出て断られたのである。出展作家にとってみれば、美術展の図録は、自身の美術活動の軌跡の重要な記録である。美術展に招待を受け、無料で作品を貸し出す作家にとって、図録が残るということは、公立美術館への協力の重要な対価の一つである。近代美術館は、図録は美術展のカタログであり、美術展が済んだら不要になるから焼き棄ててもよいのだと主張しているが、実際に図録を手に取ってみれば、それがまったくの詭弁だとわかる。それはちゃんとした書籍としての体裁と構成をもつ刊行物である。さらに、藤江氏の場合、「 富山の美術」展では作品の展示方法自体に工夫があり、それを捉えた記録写真は、この図録にしかない。氏が、図録の焼却を自身の創作活動の否定と受け取ったのは当然のことだし、また、県立図書館が破られた図録を所有権放棄したのなら、出展作家の立場から、手持ちの無傷の図録を寄贈しようと考えたのも理解できる。
 しかし、藤江氏が十二月に寄贈を申し出た図録は、一月半ば過ぎに、「かねて、ご寄贈の申し出があった図書は、当館の方針として、寄贈等による新たな入手、借り受け、複製物の入手はしないこととしておりますので、お返しします」という図書館名義の、短い文書とともに返送されてきた。図書館に出向き、寄贈を受けつけない理由について説明を求めた藤江氏らに対して、参納副館長は「館長が決めた館の方針」であると答え、その方針の理由は、「長いあいだ公開非公開の相反する意見が続いて、図書館の運営が難しくなり、管理運営上支障をきたした」ということだと述べた。人権侵害やわいせつといった特定の理由がないかぎり、その蔵書を公開するのが図書館運営の大原則なのだから、「公開非公開の相反する意見」などと常識と横車を同格のように並べて、自らを板挟みになった第三者に見せようとする図書館側のヘリクツは、まことに情けない。しかし、問題はそれだけではない。当日(一月二八日)の記録によれば、そのあとに次のようなやりとりがあった。

藤江氏 図録が破られた事件については、裁判でも有罪判決がでて、相手が悪かったわけだから、話はもとに戻ったのじゃないですか。
参納副館長 それでもなお[図録についての]意見はよせられた。
藤江氏 破られた直後には、県議会で表現の自由を守らなければならないというような決議が発表されたが、その決議についてはどう思いますか。
参納副館長 その時はそれなりにもっともと思った。しかし、その後もおさまらなかった。いろいろな方からいろいろな申入れがあった。
藤江氏 いろいろな方からのいろいろな申入れとはなんですか。
参納副館長 全部は言えない。いろいろな方からいろいろな申入れがあって、図書館としては耐えられないほどのものであった。
藤江氏 それは図録を破った人と同じような考え方を持つ人が、収蔵することに抗議するというような申入れということですか。
参納副館長 まあ、そういうようなこと。
藤江氏 そういう申入れはいつまで続いたんですか。判決のあともあったんですか。
参納副館長 最高裁の判決のことですか。
藤江氏 ええ、そうです。
参納副館長 いえ、その時はもう、図書館の判断は決まっていましたから。
藤江氏 判断って、所有権放棄ということですか。
参納副館長 そうです。そのあとはそういうことはない。
藤江氏 では、県議会の声明発表から所有権放棄を決定するまで、いろいろ圧力があったわけですか。圧力と言ってはいけないのかもしれないけど。
総務課長 圧力ということではないのだが。
  [中略]
藤江氏 所有権放棄の決定をするとき、他の出品者のことは考えましたか。
参納副館長 考えたつもりだが結果としては残念だ。破損した部分の所有権を放棄することは、他の部分の所有権を放棄することも考えた上での処分で、結果としてはやむをえない。
藤江氏 今こうして出品者の一人として抗議に来たが、どう思われますか。
参納副館長 気持ちはわかるが、図書館の方針を変えるつもりはない。ただし、この方針は永久にとか、とりあえずとかの何の条件もついていない。また、今後事態が好転するとも思えない。
藤江氏に同行したK氏 たとえば、収蔵していても、閲覧を断るということもありえるのでは。
参納副館長 それも考えたことはあるが……。考えた上で、その方法を選ばなかった。

 参納副館長の受け答えは、彼の言う図書館の「管理運営上の障害」が、図書館外からの「いろいろな方からのいろいろな申し出」と関わるものだと示唆しているとしか読めない。また、この時にも別の機会にも、県立図書館は、それ以外の説明を行っていない。この面談について藤江氏から取材した『読売新聞』と『北陸中日新聞』は翌日、それぞれ参納氏から電話でウラをとったあとで、「図書館の自由“外圧”に屈す」といった趣旨の記事を地方面に掲載した。教育委員会は即日、中野館長と参納副館長に事情説明を求め、そのあと「副館長はそんなことはいわなかった」と参納発言を公式に打ち消した。複数の人が聞き、詳細な記録もある発言について、教育次長がわざわざ新聞記者を呼び出して否定するという高飛車で子どもじみた対応自体が、やはりある種の「外圧」が県立図書館の図録問題のアキレス腱だという証拠のように思われる。


関連書籍の収蔵・提供の拒否

 検閲的な措置は、それがいったんまかりとおると、次々と連鎖反応的に増殖しがちである。大浦氏の連作版画「遠近を抱えて」から、それを収録した図録への「タブー」の範囲の拡大も、それだけで収まるという性質のものではなかった。県立図書館は図録だけでなく、この問題を扱った四冊の刊行物を「収蔵しない」と決定し、さらには、そのうちの三冊を国会図書館から借り受けて提供するようにという、借用提供の申込みさえ拒否したのである。
 一九九三年の作品売却・図録焼却のあとに、この近代美術館の行為についてさまざまな角度から考えるために、富山と東京で、美術家や美術批評家、法学者、編集者、詩人などをパネラーにしたシンポジウムが開かれた。翌年、地元の桂書房という出版社が、このシンポジウムの記録に資料や年表を加えた書籍、『公立美術館と天皇表現』を刊行した。この本には、憲法学者奥平康弘氏の「ガバーメント・スピーチ(行政の言論行為)」と表現の自由についての斬新な視点からの講演が収録され、また、この問題について考えるための材料として、大浦氏の作品のカラー写真も収録されていた。県立図書館はそれまで、地元出版社の刊行物はほぼ網羅的に収蔵してきた。それは、「郷土資料を収集する」という公立図書館の使命からして当然のことだ。しかし、この本だけは、一九九五年になっても未収蔵だった。
 上記のシンポジウムの一つの司会者であり、資料の編纂にも協力した私(中河)としては、そのことが非常に気になっていた。そこで、九五年の十二月に「著者」の一人という立場で、手持ちの『公立美術館と天皇表現』を郵送で寄贈した。しかし、寄贈した本は図録の場合と同じように、何の事情説明も添えずに送り返されてきた。その後の図書館側との話し合いで、県立図書館は、九四年にこの本が刊行された直後に「館の都合により収蔵しない」むねを決定したことが明らかになった。もちろん、内部の検討委員会の類は一切開かれず、この決定は館長の判断で行われた。このように特定の書籍をその刊行直後に、「管理運営上の理由」から将来にわたって収蔵しないと決めることは、はっきりした検閲行為だといっていいだろう。さらに、翌年、つまり今年の正月に、以前から大浦作品と図録の公開運動に携わってきた小倉利丸氏が寄贈した、やはり県立図書館に未収蔵の『ず・ぼん』一号と、大浦作品を鑑賞する市民の会刊の『「頽廃芸術」の夜明け』および『富山クライでぇ〜』の二冊の小冊子も、同じように寄贈の受理を拒否された。
 以上の措置は、図書館にとって図録の所有権放棄よりもいっそう自殺的な行為である。図録の場合、(それで所有権放棄が正当化されるわけではないが)少なくとも一度は、館長がいうところの「管理運営上の障害」にあたると思われる事件、つまり、I氏による図録の破り捨てがあった。しかし、新たに問題になった図書は、未収蔵なのだから、それについて県立図書館で何かが起こったわけではない。さらに、どんな根拠でそれが「管理運営上の障害」を引き起こすと考えたかについても、館長は、私たちの問いかけに対して「総合的判断から」と答えるだけで、一切その理由や根拠を明らかにしない。意見や立場の多様性を尊重し、市民の知る権利を保障するために、ある事柄について対立する考え方があるときには、蔵書にそれをめぐる異なった考え方をできるだけ広く網羅して、その問題について考え討議するための材料を利用者に提供する。これが図書館の任務なことは、いうまでもない。県と県教委の措置を批判する書籍を県立図書館に入れないという決定は、明らかに対抗言論の封殺であり、民主主義の否定なのである。
 この事態を憂慮する大学人の手で、私の職場である富山大学を中心に、県立図書館の寄贈拒否の措置に抗議し、方針を変えるよう求める署名活動が行われた。しかし、中野館長は、私にとっては掛け値なしの良識の現れと思われる百名近くの大学教員の署名を意に介せず、「総合的判断には多くのファクターがあるから、説明できない」、「館長の私が理由を説明したくないのだから、説明しなくてもいい」、「正常な利用環境を確保するために寄贈を拒否した」等の名(迷)言を連発した。あらかじめ特定の図書を意図的に排除するという図書館のあり方のどこが「正常な利用環境」なのだろうか。利用者が静かに本を読み、図書館運営をめぐって論議がないという状況が館長がいう「正常な利用環境」であるとすれば、戦前の日本やナチス・ドイツの図書館も、賞賛に価する「正常」さを示していたということになろう。
 他にとるべき手段を思いつかなかったため、私は二月末に、行政不服審査法に基づいて、『公立美術館と天皇表現』の寄贈拒否および発刊時に「収蔵しない」方針を決めていたことを不服とする審査請求を、県教委あてに出した。県立図書館の措置は、(一)「郷土資料を収集する」という図書館法に決められた公立図書館の任務に反する、(二)図書館の現場で慣行として確立されている図書館の自由に反する、(三)市民の知る権利を侵す検閲行為である疑いが強い、というのが、私の審査請求書の主な論点だった。もちろん、大浦作品の売却・図録の焼却を決めた県教委が、県立図書館の決定を不当と判断すると思っていたわけではない。しかし、この審査請求が、中野館長が頑なに説明を拒んだ「管理運営上の理由」のせめて一端を、市民に対して明らかにするきっかけになればという、淡い期待はあった。しかし、結果は残念ながら、危惧したとおりの門前払いだった。図書館には寄贈を受ける義務はなく(これは法的にはそのとおりだろう)、また、図書を収蔵しないという決定や寄贈の拒否は図書館内の「事実行為」であって「行政処分」にあたらないから、行政不服審査の対象にならない。これが、五月の二十日過ぎに出された、県教委による私の審査請求の棄却の理由である。
 私は行政法には素人で(などといってないで、これから勉強しなければいけないのだが)、こうした県教委の判断が、どれだけ成熟した法解釈に基づくものなのかわからない。しかし、これが法的に正しいとすれば、憲法の検閲を禁じる規定など、あってなきがごとしだという気がする。公立図書館が、図書館の自由を踏みにじり、特定の思想や信条、意見を示した本を排除するといった恣意的な資料収集の方針をとっても、館長権限によって裏書されていさえすれば、それは行政の裁量権の範囲内の事実行為であり、法的にはまったく問題がない、ということになるのだから。ちなみに、アメリカでなら、今回の県立図書館の措置は裁判になじむだろうし、訴訟になればおそらく図書館側が憲法違反の措置をしたという判決が出るだろう。
 二月から四月にかけて出版流通対策協議会や『ず・ぼん』編集部も県立図書館の寄贈拒否に対して抗議を行ったが、後者については別稿に譲ることにして、最後に、図書館関係者の知人が寄贈拒否よりも信じられないと評する「借り受け拒否」の顛末を紹介しよう。やはり二月の末に、小倉利丸氏が県立図書館に、国会図書館に収蔵されている『公立美術館と天皇表現』、『「頽廃芸術」の夜明け』、『ず・ぼん』一号の三冊を借り受けて提供するように申し込んだ。係の人は電話でその利用申込みを受け(電話でも受付けることを小倉氏は係員に確認している)、そののち、中野館長自身が電話で「館の方針」だとして、小倉氏の利用申込みを断った。そこで小倉氏は三月初めに、この利用申込みの拒否は検閲だとして、県教委あてに行政不服審査請求を行った。五月の二十日過ぎに出た県教委の裁決は、「小倉氏の利用申込みは所定の申し込み用紙に記入されていないから無効だ」というものだった。それでは、館長による利用申込みの拒否は、いったい何だったのだろう。小倉氏は直ちに、規定の用紙に借用提供の申込みを書いて窓口に出したが、県立図書館はこんどは文書で利用申込みを拒否した。新館長の加藤淳氏は、小倉氏に対して、借り受け拒否の理由として「正常な利用環境の確保」という例の説明にならない説明を挙げるとともに、「小倉氏は利用申込みをした本を持っているし、富山大学の図書館にも入っているから、他館から借りて提供する必要はない」と主張した。加藤館長は、図書館の利用者は、本を借りるにあたっていちいち、自分がその本を持っていないし、身近に借りるあてもないことを図書館に証明しなければいけないというのだろうか。冗談もやすみやすみにしてほしい。何冊かの本を他館から借り受けて提供することさえ頑固に拒み続ける、図書館の背後にはいったい何があるのだろう。


公共文化施設の自立・自由はどこに?!

 四月十三日に富山市内で「図書館の自由と知る権利」と題したシンポジウムがあった。図書館学の馬場俊明氏、博物館学の君塚仁彦氏、そして私がパネラーになって、この間の図書館で起こった事柄が報告され、それをめぐっていろいろな角度からの議論が行われた。参加して意見を述べていただいた馬場氏と君塚氏、全国の図書館関係者の方々や市民の方々に、主催者の一人として、深く感謝したい。
 しかし、この間に県立図書館問題についての私たちの認識は深まったが、事態はまったくよくなっていない。一言でいえば、県立図書館が文化施設としての自律性を守り、毅然として図書館の自由を守る姿勢を崩さなければ、I氏もその仲間たちも、図書館であれ以上大きな問題を起すことはできなかったはずだ。しかし、事実はそうではなく、県立図書館は「図書館の自由には例外がありうる」という立場をとってしまった。例外が例外を呼び、原則自体を崩してしまう危険を、少しも顧みることなしに、である。図録を破ったI氏は、民族派系の雑誌『ゼンボウ』(一九九五年十二月号)に、「昭和天皇を冒涜した“不敬図録”破棄事件—裁判とその限界」という一文を寄稿し、そのなかで県が「不敬なる作品と図録の処分を断行した事」を評価し、また「必死懸命」の実力行使が県に自分たちの言い分を呑ませる手段になったと総括している。いうまでもなく、県立図書館による「富山県が所有してゐた最後の図録」の所有権放棄は、I氏ら民族派の人たちの望むところだった。彼らを喜ばせ、実力行使さえすれば連鎖反応的な「自主規制」を引き出せると改めて学習させてしまったことを、県教委や県立図書館の幹部は、もっと深刻に受け止めてほしい。あなたたちがまるで「敵」のように扱う私たち市民グループは、ほんとうはあなたたちの味方なのである。あなたたちが文化行政の公共性について自覚をもち、偏狭で独善的な価値観を力づくで他人に押し付けようとする一部の人たちに、堂々と胸をはって対峙してくれさえするなら。

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