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国立国会図書館利用者データ流出事件への日図協の対応
昨年一〇月に開催された全国図書館大会の「図書館の自由」分科会のテーマは、「『図書館の自由に関する宣言』採択四〇年の現在を検証する」というものであった。
私は、地下鉄サリン事件の関連捜査で国立国会図書館利用者のデータが大量に押収された事件に関し、日本図書館協会がどの様な見解を提示するのか、また、分科会でどの様な議論が展開されるのか、自分の目と耳で確かめておきたかったので参加することにした。
図書館の利用者データ押収事件については、JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会委員長から報告があった。内容は、『図書館雑誌』一九九五年一〇月号(vol.89,
No.10)に掲載されている「裁判所の令状に基づく図書館利用記録の押収」というタイトルの論文と同様であり、資料としてそのコピーが配布された。「図書館の自由に関する宣言」は、同論文も引用しているように、一九七九年改訂で創設された主文第三で「図書館は利用者の秘密を守る」と明記し、副文一項で「図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第三五条に基づく令状を確認した場合は例外とする」としている。また、副文二項は、「読書記録以外の図書館の利用事実に関しても」同様であるとし、同三項では、「利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であ」るという理由から、「図書館活動に従事するすべての人々は、この秘密を守らなければならない」として、主文を説明する構造となっている。
ちなみに「憲法三五条に基づく令状」とは、「正当な理由に基づいて発せられ、且つ捜査する場所および押収するものを明示する」ものであり、「権限を有する司法官憲が発する格別の」ものとされている。
なお、副文一項のただし書は、同二項には明示されていないため、素直に読めば、「読書記録以外の図書館の利用事実」に関しては、例外なく「利用者のプライバシーを侵さない」との解釈が成り立つとも思われるが、「読書事実」と扱いを変えなくてはならない特段の理由も見いだせないので、ここでは深入りせずに話を元に戻すことにする。
本事例に関する委員会の見解は、「利用者からの信頼を維持すべき図書館として、館は、準抗告を行うべきだったと考えられる」との結論になっている。その理由は、警察が裁判所に令状請求すればほぼ一〇〇%認められる現状にあることから、実質的には準抗告により事後審査を受けることが多いからであるとしている。
加えて、委員会見解は「プライバシー保護の法的強化の方向」と題して、押収拒絶権、米国のビデオプライバシー法にまで言及し、後者が「図書館利用記録の法的保護を強化する可能性を示唆する」方向性についても触れている。
分科会での報告を聴いたり、見解を読む限りにおいては、特に異議を唱える必要性は、感じなかった。むしろ、準抗告を行うべきであったとする結論については、たとえ後知恵だったとしても、よくここまで踏込んだと評価したい気持ちであった。そこで、私は、分科会の場で、「自由に関する宣言」(特に、副文一項)を改正するつもりがあるかと質問した。何故なら、国会図書館が利用記録の押収に応じたのは、副文一項ただし書すなわち、「利用者の読書事実を外部に漏らさない」規定の例外規定を根拠としているらしいことが新聞報道等により明らかにされていたからである。
もちろん、「宣言」の規定を強化しさえすれば、「図書館の自由」が確立するなどと考えているわけではない。しかし、例外規定を根拠に「宣言」を形骸化させようとする動きに対しては、一定の歯止めがかかることも事実であろう。また、今後同様の事例に対するガイドラインの役割を果たすことにもなるのではないか。そのような意図を持った質問であったが、その答えは見事にはぐらかされてしまったという印象を受けた。
さらに、これは後日のことであるが、『図書館雑誌』一九九六年一月号(vol.90, No.1)の協会通信のコーナーに「図書館の自由に関する問題について(国立国会図書館、富山県立図書館)」と題する短い記事が載った。昨年一一月二〇日に、国会図書館の宮脇総務部長に日図協の酒川事務局長と山家自由委員会関東小委員長が面談した。国会図書館の「保管期間の短縮等の改善努力を評価しつつ、今回の問題に対するNDLの対応、内部検討経過等は、館界にとっても勉強すべきことであり、可能な限り公表してほしい旨依頼した。難しい点もあるが検討するとの回答を得た」とある。
短文の報告であることを割り引いても、前述の見解とはトーンが全く異なることは、明らかである。それとも、前述の見解は、関東地区小委員会のものに過ぎず、日図協の見解は別にあるということなのであろうか。いずれにしてもずいぶん不可解な話である。
ましてや、分科会では、『国立国会図書館の利用記録押収事件に学び、利用者のプライバシーを尊重することを決意するアピール』を決議しているのである。「犯罪容疑とは無関係な利用記録が大量・長期間にわたり捜査当局に保有された事態は重大で」あるとし、「押収がやむをえなかった事情について早期に説明されることを期待」するとの内容である。もっとも、この『アピール』は、今回の事件が「図書館利用記録保護について司法当局を含め、広く市民に理解を深めるための私たち図書館員の努力を強く促すもので」あり、「日常業務の中で、利用者のプライバシーの保護について、より積極的な配慮を実践するよう促すもので」あるとしている。つまり、直接国会図書館を非難するというより、「事件を教訓として、利用者の秘密を守るために力を尽くすことを……決意」するという内容になっている。だからといって、国会図書館の責任について不間に付し、同図書館の「対応、内部検討経過等は、館界にとっても勉強すべきことであり、可能な限り公表してほしい旨」の「依頼」で済ませてよいはずがないのである。
このような対応では、日図協は、「図書館の自由」に関して二枚舌を持っていると言われても仕方あるまい。ちなみに、この『アピール』は、大会決議とするために大会運営員会で調整することになったが、結局大会決議とはならなかった。なぜ、このように穏やかな、しかしながら、利用者のプライバシーを積極的に保護していくことを「日常業務の中」で実践しようという『アピール』さえも、大会決議とならなかったのであろうか。
さらに、これも後日判明したことであるが、『全国図書館大会記録』の分科会報告には、大会決議にするために大会運営委員会で調整することになったという事実経過さえも、まったく触れられていなかった。日図協には事実経過はもちろんのこと、何故大会決議とならなかったのかを明らかにする責任があるはずである。編集・発行は、全国図書館大会実行委員会となっているが、どうにも釈然としない、意図的なものが感じられてならない。
フィクションのなかの「図書館の自由」についての日図協の対応とそのぬえ性
次に、同分科会の基調報告にあった「フィクションのなかの『図書館の自由』」について触れてみたい。これは、テレビドラマや小説等に描かれた、主に資料の貸出記録の利用を通じて事件が解決に向かう場面などの事例について紹介しているが、いつもながら図書館がいかに誤解されて描かれているかを「告発」しているのである。確かに、誤解に基づく図書館像が流布されることは、図書館界にとって看過できない問題ではあろう。そして、その誤解を解く努力も必要であろう。しかし、誤解される原因の大半は、図書館の側にあるのではないかと私は考えている。
改めて指摘するまでもなく、世間一般に流布されている図書館のイメージは、フィクションに表現されている内容と大差がないというのが、私の抱いている印象である。であるとすれば、そのような誤れる図書館像を払拭するような啓蒙や宣伝に力を入れれば問題は解決するのであろうか。残念ながら、問題はそんなに単純なものではなさそうである。一方で「図書館の自由」について啓蒙や宣伝を繰り返しても、足元からそれを否定するような行為を図書館自ら行っていることこそが問題なのである。
そして、それ以上に問題なのは、図書館が行っている「図書館の自由」を自ら否定するような行為に対する日図協の対応である。フィクションで図書館が誤解されて描かれている場合には、かなり執拗に申し入れをしたり、抗議を行っているようであるが、図書館が自ら「図書館の自由」を侵すような行為を行っても、前者の場合以上に厳しく対応しているようには思えないのである。
少なくとも、フィクションの場合は、あくまでもフィクションの描き方の問題であり、描き手の図書館観が間われるとしても、それはむしろ前述したように世間一般の図書館に対するイメージの反映であると考えたほうがよさそうである。しかも、差別表現などのように具体的な人権侵害が伴なうわけではないから、むしろ、「表現の自由」との兼ね合いも考慮される必要があろう。ところが、図書館自ら「図書館の自由」を侵害した場合には、フィクションの場合と異なって、ただちに図書館のイメージダウンになるばかりでなく、直接利用者に実害を及ぼすことになるわけであるから、比較にならない程、罪は重いはずである。
しかしながら、私の印象では、日図協の対応が、フィクションに描かれた誤解の場合以上に迅速かつ厳重になされているとはとても思えないのである。むしろ、図書館界内部の問題には、及び腰になっているのではないかと感じるのは、私の偏見に過ぎないのであろうか。
日図協自身が図書館界内部の「図書館の自由」についてどれだけ真摯な対応を行うのか、すべては、国会図書館の利用者データ流出事件や富山県立図書館の天皇図録をめぐる問題等への対応いかんにかかっているのである。そのことを暖昧にしている限りは、「『図書館の自由』は、フィクションなのかと思った」とパネラーの一人が分科会で放った痛烈なアイロニーを誰も笑うことができないのではなかろうか。
もちろん、私が日図協の対応を批判していることと、個々の図書館が「図書館の自由」に関する具体的な問題について、自由に見解を表明し、相互に批判しあう風土を確立すべきであるとする立場とは何ら矛盾するものではない。むしろ、個々の館が独自の見解を明らかにすることを避けて、自分たちより上位であると勝手に位置付けている権威または権力に身を委ねている現状を変えていかない限りは、本質的な問題解決は望むべくもないというのが、私の持論であり、結論でもある。
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