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反響●『「オカマ」は差別か』 [2002-04-15]

●反響-04 
[02-04-15アップ]
『「オカマ」は差別か』
−読後私的感想−

横山好雄

 

 

ポット出版発行『「オカマ」は差別か』、読みました。その大部分はポットのサイトで既読だったわけですが、それでも、改めて通して読んでみて、更なる再発見もあり極めて優良な「総括書」足り得ていると感じました。

以下あまり系統だった書き方ではありませんが、思いつくままに、ポイントを絞って、私なりに論じてみようと思います。
(異論反論、大歓迎であります。よろしく。)

【山中登志子氏の文章】
何と言っても、直接の担当者であった山中氏の原稿(「オカマ」表現とわたしの“離婚”理由)はこの本の白眉でしょう。実際私が山中氏(や及川氏側の考え方)に感情移入していることを差し引いても、改めて辛淑玉氏、編集部の対応・応答には首を捻らざるを得ません(でした)。

辛氏は山中氏に、[「及川くんをつぶす」と言]ったんだそうです(P.128)。
「つぶす」…? 
コレ一体どういう意味なんですかね。今後あらゆる圧力をかけてでも、金輪際『金曜日』には書かせないってことですかね。(だって「編集委員」という立場・身分にあって「つぶす」って言ってるわけだから。)
「この件」(オカマ問題)での、及川君の意見はつぶす、聞く耳持たんってことですかね。
何れにしても、何様なんでしょうか辛さんって。同じ地平で「すこたん企画をつぶす」って私も宣言したくなっちゃいました。改めて、怒り心頭です。

[いちばん弱い人の立場に立ってとか、涙の重さとか……そういう議論にどうも、ついていけないと思ったところが]あった、そう山中氏は述懐しています(頁同)。
私もついていけません。特に「抗議(や議論)の場」で泣くような人間を私は軽蔑しています。その時点で、もはや対話など成立しなくなってしまうのですから。議論ぶち壊しの責任は、泣いた側にあります。かつて私との議論において、勝手に高揚し、泣きながら私の頬をひっぱたいたバカ女を思い出します。後で謝りゃ済むってもんじゃないって(笑)。
よく「男のくせに泣くな」とか、「女みたいにメソメソするな」とか、そういう言い回しがありますが、一定それは差別(ジェンダー固定)を「助長」する表現だとは思います。
ですから、私はこう言うことにしています。「表現者のくせに泣くんじゃねえよボケ!」
「すこたん企画」にもそう言いたい。

「東郷さんにも会って下さい」に対する辛氏の言葉は、「それは次のこと」、だったんだそうです(P.129)。
いつでも「次、次」。こうして真の当事者である東郷氏の思い(それは当該記事執筆における及川氏の思いとも重なるでしょう)は彼方に置き去りにされていく。「差別糾弾」の最もあからさまな弊害が見事に顕現しています。
今回の件は、一瞬「当事者」からの抗議のようにも見えますが、実はある種「代理批判」に属する事柄であります。(ポット出版に送った「愛読者カード」とは矛盾するようですが、言いたかったことの「真意」は本稿ということで。)
本来の「当事者抗議」とは、それは東郷氏からの抗議を指し、例えば、「このタイトルでの『オカマ』の使用法は誤解を招く」とか、「文中『オカマ』の説明が不足している」とか、そういう場合のみが当事者抗議に相当します。
何故なら、仮に異性愛者である私が、「すこたん企画」と全く同じ抗議をしても、現象としては表面上全く変わらないからです。当該記事以前(直前)に「すこたん企画」の「講義」(勉強会)があったことなどは、何等本質的な問題ではありません。(講義が無くたって抗議はあったのでしょうから。)

問題は、例えば私(敷衍して一読者)からの同様の抗議の時、編集部は「今回と全く同じ対応をしたのかどうか」という点にある。恐らく、その対応は違ったのではないかと思います。あそこまでの「特集記事」が単なる一読者の抗議によって実現するとは、とてもじゃないけど思えませんしね。
ですから今回の対応は、「すこたん企画」の「当事者性」(一般論としての当事者性であって、当該記事との関係においては当事者でも何でもありません)を勘違いし、編集部がそれに過大に引きずられた結果なのです。
『週刊金曜日』編集部が、徹底的に批判されるべき所以です。
ここに気付かない限り、差別「した側、された側」という、その単純な二元論で平行線を辿る以上の展開にはならない。いつものまんまです。

「本多氏原稿の『元タイトル』」
それは、「オカマかホモかゲイか同性愛か」というものだったんだそうです(頁同)。このタイトルにびっくりしたという副編集長の感覚もどうかと思いますが、わざわざそれの変更を願い出たというのも私に言わせればビックリです。
だってさぁ、本多氏原稿は突然天から降ってきたわけじゃない。そこまでの「経過」を踏まえて、本多氏なりに思索した上でつけてきたタイトルでしょう。そんなことは分かりきっている筈です。
敢えてこういう「挑発的」(とも思えませんが、副編集長の感覚としてはそうだったんでしょう)なタイトルを選択してきた本多氏の姿勢、私は好きですけどね。変更願いなど突っぱねて、最後までそれで貫いてほしかったな。

もうこうなると、問題になりそうなものはなる前に蓋をしておくという姿勢以外の何者でもありません。その後この副編集長は、[「スタートラインに」ほんとに立てたのか? 自問し続けたい]と編集後記に記したのだそうですが、呆れた話じゃないですか。立てたわけも、今後立てるわけもありません。スタートの手前で既に、著作者の「タイトル」に介入し、また一つ議論の芽を読者から奪ったではありませんか。
今回この本で山中氏の文章を読まなければ、元々本多氏がつけてきたタイトルなど読者は永遠に知らず、闇に葬られたままでした。
勿論一般論としては、タイトル決定の権限は編集部にあること位は分かっています。ただ今回は、事がことだけに、また「オカマ」という言葉を奪ったのかという思いが私には避け難くあります。

「まとも」か「まともじゃない」か
[まともな人権感覚だったらつけない]。(P.131)
そうか、だったらあのタイトルを正当だと思っている人々は「皆まともじゃない」わけだ。
正直、暗澹たる思いがしますね。会議でのこの発言者は、この時点で既に自分の感覚の方が「まともだ」と宣言しているわけですから、こんな人とまともな議論など出来よう筈もありません。
「差別」問題という最もデリケートな議論において、先ず自分を「まとも」と定義づけてくる人間にろくな奴はおりません。

「まとも」って一体何でしょうね。
例えば私は、かつて小林よしのりのバカ主張に対して「病院いけ」「狂ってる」等書きました。対して、それは「精神障害者差別だ」と批判・糾弾されたことがあるわけですが、何故これが「精神障害(者)」を差別していることになるのか未だにさっぱり解らないでいます。私はまともじゃないのでしょうか?
また、かつて小林よしのりが『金曜日』でマンガを連載していた時、「金曜日は女を抱く日だ」みたいなことを描いた所、読者から「女性差別だ」との批判があったとのことです。しかし何でこれが「女性差別」になるのか、私は未ださっぱり解らないでいます。
私って、やっぱりまともじゃないのでしょうか?
まさか小林よしのりの言うことは「何でも差別」、『金曜日』読者の主張は「何でも正しい」なんて観念出来る筈もありませんから、やっぱり個々具体的ケースに即して「是々非々」で判断していくしかないですよね。

一つの事象も、その見る方向によって内実は変わります。「まともか否か」もその例外ではありません。
「犬だけ呼び捨てでいいのか」(笑)と、真顔で尋ねたという人の感覚を「まともだ」と思う人がいてもいいとは思いますよ。ですが、「アホかこいつ」と思う感覚もまた「まとも」だと思うのです。だって犬だぜ、犬(笑)。
こういう多様な「まとも感」の中で我々は生きているわけです。一方的に「まともな人権感覚なら」なんて措定するのは傲慢以外の何者でもありますまい。
(なんて書きながら、オイラにもそういう所はあるよなぁ…なんて自戒している初春の僕。)

「『週刊金曜日』編集部」
以前ポット出版のサイトに掲載されていた山中氏の手紙、これ私はポットからの依頼だとばかり思い込んでいたのですが、掲載は山中氏からの申し出だったこと、今回初めて知りました(P.140)。(その旨言及あって、私が失念しているだけかもしれません。)
ところがその掲載は、その後無くなったわけです。その経緯も山中氏から直接語られています。

どうやら『金曜日』では、私的に思ったことを外部に発表するにも編集長(部)の了承を得なければならないらしい(P.143)。何か私が勝手に思い込んでいた「自由な社風」は、単なる幻想だったようでひたすらがっかりしました。
「公文書か私文書か」なんて、私文書に決まってるではないですか。「何で今の時期に」ってアンタ、今出さなきゃいつ出すんですか? 「撹乱、混乱させる」ってさぁ、その程度で混乱するような編集部の力量を先ず省みよって話だし、撹乱に至っては単なるイチャモン、嫌がらせですよ。
結局、[外部に出す意見は、会社で十分に話し合ってから出すように]となったんだそうです。子供かアンタら。
かつて「朝日新聞」が「外部への原稿発表禁止」通達を出したことがありましたが、その時の通達のターゲットは、本多、筑紫両氏だったこと、もはや「常識」です。その二人を編集委員に擁する雑誌『金曜日』が、それと全く同じ陥穽に陥るとは。悲し過ぎます。

【編集部の「著作権」意識】
これは松沢さんや沢辺氏がポットのサイトで縷々指摘されてきましたので、何等私がつけ加えることもありません。が、一つだけ。
沢辺氏宛の「友人メール」(P.167)にある「売買春→買売春」問題。これって相当に重要な問題なんです。
著作権法上、著作者の原稿に無断で勝手に手を入れることは、「同一性保持権」という著作者の「人格権」を侵害する立派な違法行為なんです。「一言断り、承諾を貰えばいい」、ただそれだけの話なんですから、この編集部の行いはどんなに批判されても言い訳の余地のないものです。
もし編集権上「売買春」が許容出来ないのであれば、その旨伝え、拒否されたのならボツにすればいい。実際川添氏は「直さないよう」わざわざ断りを入れているのですから了承は無理でしょう。だったら、無条件でボツにすればよかっただけの話です。
(この程度の「無断改変」であれば、それはボツより掲載された方がよいという意見は当然にあるでしょう。が、それはここでは一応別問題としておきます。)

話はそれますが、手元に『金曜日』の98年7/3号(NO.225)があります。中に宮台真司氏と筑紫哲也氏の対談が掲載されているのですが、そこでの宮台氏の発言における「売買春」は、「買売春」と表記されています。
これだって厳密に言えば「論者の主張の歪曲」ですよね。宮台氏は、恐らくしゃべっている時に「買売」春などと観念しているとは思えませんから、表記上はあくまで「売買春」とすべきなのです。
まぁこれについての了解は得ているとは思いますが、無断でこれをやられたのではたまらない。
この逆(「買売春」と表記すべきと提唱し、自ら実践しているフェミニストの原稿を、無断で「売買春」とした場合)を考えてみれば、それは明白でしょう。

話戻って。
こんな程度の「著作権法」意識が、編集部(担当者)に無いのだとすると、ちょっと問題は大き過ぎる。プロの編集者としては確実に失格です。(大体「著作権法」云々以前に、こんなことは常識の範疇でしょう。「人のものを黙って盗ってはいけない」というレベルです。)
これ(「著作者人格権」の軽視・無知)に較べれば、「転載許諾権」(笑)なる勘違いなどは、まだかわいい方かもしれません。(松沢さんや沢辺氏には怒られそうですけど。)
本当に大丈夫なのか…、金曜日編集部。

【何たる「編集委員」たち】
結局ポット出版からの「転載申し込み」を了承したのは、本多勝一氏ただ一人という異様な事態になったわけです。どこまで編集部の介入があったのか、それは私の興味の埒外です。が、自分の意志のみで「諾否」を決めてほしかったとも思いますね。そうであったなら、まさか一人なんて事態はあり得なかったでしょう。5人もいるんだから。
しかし本多氏一人だったとは…。それでも「一番筋が通っている」と思った人だけが了承したなんて、ちょっと出来すぎの最後でしたね。

その他の編集委員、特に佐高信さんへ。
もし久野収氏が生きていたら、こんな場合転載を拒否したでしょうか? 

【追記/私と『週刊金曜日』】
「創刊準備号」から期待に胸を膨らませ、3年の購読契約の後、最初の更新で再購読しなかった為、以来定期読者ではありません。興味ある号の時書店で買うというだけのつながりです。

思えば、勿論学生時代からの本多勝一ファンというのもありましたが、私は和多田進編集長ということでの期待の方が大きかったタイプの人間でしたので、あの『金曜日』最初のゴタゴタみたいなもので既に幻滅した所もあるかもしれません。
その後の「編集委員」制度も、まぁ佐高氏は納得でしたが、椎名氏に至っては「何で?」って思う程度で、名前があるだけの制度ならいっそ止めちゃえばいいのになんて一人思っていたものです。
要するにそれ程の「期待」は、一年目から既に無い。

それでも「存在意義」だけは認めていますから、本稿のような批判でも「よかれ」と思って私は書いています。まぁこの批判が編集部に届くことは無いでしょうから、どうでもいいと言えばどうでもいいんですけどね。

大切なのは「依存」ではなく、主体的力量に転化すべく「咀嚼」することですから、こういう問題(今回の「オカマ問題」のような)の時こそが、読者各自が成長するチャンスでもあります。
残念ながら、まだ『金曜日』読者にはそこまでの主体性を持ち得ない人が多いみたいで、「依存」体質が先にあるから「がっかりした」的な反応(翻って「すこたん」側の視点からのみの批判)が相対的に多くなってしまうのでしょう。
そういった、一種の「左翼小児病」は、本当にもうそろそろ克服したいものです。
2002/3/12
横山好雄

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