スタジオ・ポット
ポットのサイト内を検索 [検索方法]
 
反響●『「オカマ」は差別か』 [2002-03-07]

●反響-01 
[02-03-07アップ]
ポット出版にとどいたメール

D・K(社会人)

注●ポット出版・沢辺の友人が送ってくれたメールです。

 

沢辺様
D・Kです。
「オカマ」は差別か拝読しました。

いやー,おもしろかったです。すごい本ですね。
反差別の言論や運動をどうやっていきいきとした有効なものにしていくかを考える上でとっても勉強になりました。

とくに野口さんが指摘していた反差別の運動や言論というのは批判者-被批判者の相互的なコミュニケーション基盤を前提とした上でなされるべきであること。
「最も弱いものの立場に立ったうえで〜」という言論はこの基盤を前提としないものであること。
そのためこの言論は結局,批判者の自己満足に収斂してしまい批判者と被批判者とを含めた全体においては有効な議論となりえないこと。
という点には目を開かれました。

あと沢辺さんもかかれていたように
平野広朗さんの「誰が誰を恥じるのか」はとってもよかった。
ミソジニーとマチズモを土壌としてオカマは差別用語となるという指摘はその通りだと思いました。
そしてホモフォビアを同性愛者自身が内面化してしまうことで「自滅」するという指摘。

この辺は私がこれまで主として関わってきた
障害者運動のなかでもくりかえし論じられてきた話です。

つまり障害者においては1.能力主義を土壌として障害者が差別語となる(そもそも能力とは何か。能力主義という言葉が何を意味していて,それはどのように変更できるのか。)
2.障害を持つ自分自身を否定してしまう。
という感じですね。

「性の自己決定」原論はもちろん読んでいるのですが,平野さんの文章はもっともっと読みたいと思ってしまいました。
ポットさんでお願いします!
という具合にとってもよかったのですが,一点だけ気になったことがありました。

この本のなかでは「そもそも差別とは何か」が定義されていないと思えることです。
(もしかして私の読みすごしかもしれません)

例えば,沢辺さんがかかれているように女性にふられると傷つきます。
それと同じように同性愛者が「やーい,オカマ!」といわれて傷つくこともある。

この二つの傷を同じように扱って傷つくことは大きくなるために必要だなんていってしまっていいのかという問題です。
もしかしていのかもしれませんが,
私にはここでは差別という現象の独自性を見据えられていないと思えるのです。(独自性なんかないというのも,もちろんアリです)

つまり差別とは大きくみれば
私たちのコミュニケーション行為の一部となるわけですが、そのなかで差別はほかのコミュニケーション行為と何がちがうのかということです。

それを定義しておかないとそもそも反差別が何を変えようとしているのがわからなくなってしまいます。

で,この本ではそれが明示されていないためにせっかくの議論がちょっと宙に浮いてしまっている感じがするのです。

と,ここまで書いたらもうでかける時間になってしまいました。とりあえずここまでで送ります。続きはまた書きます。

とにかくおもしろかったです!

「伝説のオカマ」は差別かtopにもどる page top

▲home▲


このサイトはどなたでも自由にリンクしていただいてかまいません。
このサイトに掲載されている文章・写真・イラストの著作権は、それぞれの著作者にあります。
ポットメンバーのもの、上記以外のものの著作権は株式会社スタジオ・ポットにあります。
お問い合せはこちら