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その6「抗議」が議論と出会うとき
   「伝説のオカマ」論争を「あす」に活かす
[2002年02月11日]

●第04回

平野広朗
高校教員/
OGC(大阪ゲイ・コミュニティ)
メンバー

「当事者」とは誰か

 どうしてこんなことになってしまうのか。まともな議論を闘わすことなくすこたん企画の言うがままに全面屈服してしまった編集委員のお歴々も情けないが、「抗議」する側の問題点として指摘しておきたいのは、「傷ついた当事者がここにいる」ことに依存した「抗議」を展開していることである。「当事者」に「これは差別だ。どうしてわからないのか」と問い詰められたら、自分は当事者ではないと思っている人に出来ることは限られてくる。心ある人(であろうとする人)であれば、自分のしでかしたことの重大さに戸惑ってうなだれるしかない。ともかく「差別者」の烙印を押されることだけは避けたいと考える者は、余分なことは言わないでおこうとして口をつぐむ。その結果、悪意ある者だけが、相も変わらず差別的言動を続けることになるだろう。「当事者」だけが差別かどうかの審判を下すことが出来るかのような「抗議」をすれば、こういう結果をもたらすことになるのだ。すこたん企画以外を議論の輪から締め出して「当事者の言い分」だけを通そうとすれば、「抗議」された側は思考を停止するしかない。それでは中身のある議論は期待できない。

 もう一度根本に還って問う。「当事者」とは誰か、と。

 「当事者が『オカマ』という言葉を使うことと、非当事者が『オカマ』という言葉を使うこととは似て非なることである」というすこたん企画の「当事者/非当事者」論の危うさについては、『週刊金曜日』11月9日号でもふれた。正直に言って、ぼく自身、過去に「当事者/非当事者」論に依りかかった主張を展開したことがなかったとは言わない。だからこそ、ここでは自省の意味も含めて、3つの観点から慎重に検証しておきたい。

 まず第一は、カムアウトの問題である。日本に何百万人のゲイがいるのかはぼくも知らないが、そのうちでカムアウトしている人がごく限られていることは周知の事実である。こういう状況では、「ゲイ」を巡る問題について発言をしている人のうち、誰が「当事者」で誰がそうでないかを正確に判断することは誰にも出来ない。すでにカムアウトしている者だけが「当事者」としての発言を許されて、カムアウト出来ないでいる人/しようと思わない人が議論に参加することを許されないとしたら、それは「言論の独占」と言うべきであって、人々を本当の意味で解放することには繋がらない。「カムアウトした当事者」であろうとなかろうと、発言の中身こそが問われるべきである。

 第二は、先に論じたように、「おかま」という言葉のもつ曖昧さの問題がある。「ゲイ」と「おかま」は同じものであると同時に、違うものでもある(「ゲイ」という言葉の意味内容にもいくらかのブレがあるが、ここではふれない)。「おかま」と罵られることで心に深い傷を負ってきたと訴える「ゲイ」が、「おかま」を見下げてきたという現実があることも考えれば、そうした「ゲイ」に「当事者」を名告《なの》る資格があるのか、疑問が残る。当事者と名告《なの》ることの出来るゲイは、「おかま」という言葉を我が身に引き受けた者だけであろう。これまでの伊藤悟・すこたん企画の活動を見るに、彼らが有資格者だとは、ぼくには思えない。むしろ、常に「おかま」という言葉を自分たちの目に触れないところに追いやろうとしてきた彼らは、当事者であることから逃げていたと言うべきだろう。

 さらに、「おかま」が差別的に使われるときに踏みつけられているのは誰か・何か、という問題がある。11月9日号でも論じたように、「おかま」という言葉が差別語として機能するのは、「おとこ」「男らしさ」を過剰に重んじ「おんな」「女性的であること」を軽んじ貶める価値観が社会全体を支配しているからだ。先に掲げた「おかま」の「定義」のうち、03-以降のものが差別的に使われるとき、それらは「男のくせに女のように振舞う/女のような役割をする」ことを嘲笑う機能を負わされる。

 端的に言えば、肛門性交における受身の愉悦を味わっている人は男女問わず数多くいるにも関わらず、「カマを掘る/掘られる」という言い方が男の場合に限られるのは、本来、能動であるべき男が受身に興じるなどありうべきことではないという性的規範が、(建前に過ぎないとは言え)厳然としてあるからである。ニヤついた顔で「オカマされちゃったよ」と愚痴って見せるのは、思いがけず「受身」に堕ちてしまったことへの照れ隠しが潜んでいるからだろう(誰もそんなことは意識していないだろうが)。「女装の男娼」が性被害を被り易いのは、欲望のはけ口として利用するだけ利用したら、あとは「女に堕ちた男」などどれほどぞんざいに扱ってもかまわないと思われているからだ。「お前、おかまか!?」と言って罵倒するとき、相手が同性愛者であるかどうかなどどうでもいいことなのであって、ただ、相手の「おとこ性」にケチをつけて相手を萎縮させればことは済む。「おかま」と罵られた側は、男として見なされなかった、男としての価値を認められなかった、人格を否定されたと感じてひるむのである。

 こうして「おかま」という言葉を浴びせられたとき、多くの男は「男は男らしくあらねばならない」という強迫観念に囚われているがゆえに、ひどく傷付く。「おかま」という言葉によって傷付く(可能性がある)のは、だから、ゲイの男だけに限らない。「男らしくあらねばならない」と思っている/思わされている男たちすべてが、被害者・当事者になりうるのだ。そして、これがミソジニー(女嫌い)とマチズモ(男らしさ偏重)に支配された社会を象徴する言葉であるからには、女性たちもまた、被害者・当事者なのである(このことに気付かないフェミニストを「無邪気」だと皮肉ったのは、こういうわけである)。つまり、社会の構成員の大半が当事者であると言っていい。このことを無視してすこたん企画言うところの「当事者」にこだわれば、多くの当事者を巻き込んで広く議論を交わすことを難しくする。

 以上で明らかなように、「当事者/非当事者」論はナンセンスだ。すこたん企画がことさらに「当事者」であることを強調して自分たちの言い分を通そうとし続ければ、問題の本質がわかっていないことを露呈し、「独りよがりの正義」に溺れる幼稚さを晒すだけであろう。ぼくは常々「ゲイの言動(表現)であろうとノン・ゲイのそれであろうと、いいものはいい、悪いものは悪い」と言って来たが、今回の論争においてもそのことが如実に表れた。「当事者」であるという立場に依りかかって考察不足の主張を展開すれば、人々の失笑を買うのだ。

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