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その6「抗議」が議論と出会うとき
   「伝説のオカマ」論争を「あす」に活かす
[2002年02月4日]

●第02回

平野広朗
高校教員/
OGC(大阪ゲイ・コミュニティ)
メンバー

「おかま」と「ぼく」の間

 今回の「伝説のオカマ」論争に関して、ぼくは、この記事(タイトル)が差別事象であるかどうかを判定することや、「言葉狩り」「表現の自由」といった問題には、さして関心がない。ぼくの関心事は、この言葉をめぐって交わされる議論の中から浮かび上がってくるゲイたちの、「自己受容」「自己肯定」「自己認識」のありようにある。そして、それは「おかま」という言葉にどう対峙するかという問題と、「世間」に対してどのように自分を打ち出していくかという問題の両面から考えることが出来るように思う。

 「おかま」という言葉とぶつかったとき、ぼくたちゲイがどのような心持になるか、ひとことでは到底言い尽くせない。当然のことながら、まさに、人それぞれだ。自称する場合、他人から自分に投げつけられた場合、他人を罵る場面に遭遇した場合、マスコミで笑いを取る道具として利用されるのを目の当たりにしたとき、自称する人を目の前にしたとき、仲間内で使うとき・・・それぞれの状況の違いのほかに、使われる時と場と人とによって、意味内容がさまざまに異なっていることも、問題を複雑にする。そして、傷付くにせよ、拒絶反応を示すにせよ、受け入れるにせよ、受け流すにせよ、それを自分(たち)を指して使われた言葉と受け取るか、「自分(たち)とは違うもの」とみなすかによっても、ぼくたちの心持は大きく異なるはずである。

 ぼくはかつて、「おかま」が意味するものとして次のような11の意味を列挙した(「闘いと癒し」、『<性の自己決定>原論』1998年、紀伊國屋書店)。[01-炊事・湯沸かし道具 02-(形の類似から)尻の隠語 03-肛門性交の受身(の男)04-(男→女の)「性転換」者 05-女装者 06-ニュー・ハーフ 07-男娼 08-ゲイ・バーのバーテン 09-「女っぽい」ゲイ 10-(漠然と)ゲイ 11-「男らしくない」男] もとより、これらは厳密な考証を経ての「定義」ではないし、これですべての使用法が網羅されているわけでもない。微妙に重なり合っているものもあるし、人によってはさらに細分化した定義を求める人もいるだろう。逆に、もっと大雑把な把握をしている人もいるだろう。これはぼくがこれまでの人生で見知ってきたものを便宜上並べてみたまでのことであって、少し考えたことのある人ならばすぐさま思いつく程度の「一覧表」である。しかし、これらを並べてみただけで明らかなように、「おかま」という言葉には厳密な意味内容などないに等しい、きわめて曖昧で無責任な言葉なのである。

 さらに付け加えれば、このときぼくは二つの意味をこれらから外している。一つは、「オカマされちゃったよ」といった使われ方である。「追突された」と言わずに、「オカマされちゃった」と言うときの口元が不気味にニヤついているのが、ぼくを不快な気分にさせるのだ。ここには、肛門性交(をする人々)を揶揄するニュアンスが潜んでいるに違いないとぼくは睨んでいるのだが、親しい友人に聞いてみたところ何の問題も感じてないゲイが多かったので、あえて除外したのである。ひょっとしたら、11-に次いで大きな問題を含んでいるのではないかとさえ思われる使い方ではある。

 もう一つは、上の字面には表れていないが、ここでぼくは「女装した男娼」を想定していない。それは話には聞くことがあったけれども、ぼく自身が彼ら/彼女らに直に接したことがなかったからだ。だが、外国映画でもよく描かれているように「女装男娼」は性被害を被り易く、「おかま」という言葉で表されうる人々の中でも最も虐げられた存在であるのかもしれない。したがって、今回の「おかま」論争を考えるうえで外してはならないと考えて、特に言及しておきたいと思う。

 先に掲げた「定義」のなかには、性的対象に関わるもの、性的行為に関わるもの、生業に関わるもの、性自認に関わるもの、ジェンダーに関わるものなどが無秩序に混在していた。そういう意味でも、極めていい加減な言葉だと言えよう。改めて説明するまでもないことだろうが、肛門性交をする者すべてがゲイであるとは限らないし、ゲイがすべて肛門性交をするわけでもない。「女装」「性転換手術」をする人=ゲイであるというわけではないし、すべてのゲイが「女性的」であるわけでもない。「男らしくない」男がすべてゲイであるわけでも、ない。だが、これらの要素をいくつか併せ持っている人も、当然いるわけである。 

 このように、煩雑さをも厭わずに「おかま」の意味内容についてくどくどと説明してきたのは、これら雑然とした「定義」の氾濫の中で「自分」をどこに位置づけているかによって、「オカマという言葉によって傷つけられました」と訴えるにしても、その意味合いがまったく異なってくるからだ。あげつらわれた「おかま」の一員として、つまり「おかま」という言葉を引き受けたうえで、その使われ方のむごさ・ひどさゆえに傷付く人と、自分は「おかま」ではないと思っているのに「おかま」扱いされたと言って傷付く場合とでは、雲泥の差があろう。

 ぼくは自分の生徒たちから「先生、おかまか?」と訊かれたとき、それが面白半分の質問であっても、十分な時間さえあれば先に掲げた意味内容をいくつか挙げて、どの意味で言っているのか確認してから「イエス/ノー」を答えることにしている。概念レベルが違うものを混同したままで答えることは出来ないし、違うものは違うと言うべきだ。だが、「あなたは概念レベルを混同している」とだけ言えば済むところを、「あんなのと一緒にされたくない」などと感じてムキになって否定しようとしたことがなかったか、胸に手を当ててよくよく自省してみなければなるまい。そのとき、自分をどこに位置づけようとしていたのか、「あんなの」とは誰のことを指していたのか、「あんなの」と言い放てる自分はいったい何者であったのか、と。

 90年代の始めごろ、一部ゲイ・アクティヴィストの間で、「性同一性障害」の人たち(当時はまだ、この用語は広く知られてはいなかった。同じくトランスジェンダー・トランスセクシュアルといった語も)を同性愛者として考えるべきかどうかについて議論されたことがあった。同じ仲間として共に運動を担っていくべきなのか、獲得目標が異なっているのだから別々に運動を構築していくべきなのかといった議論だったと思う。彼ら/彼女らは異性愛に生きようとしているのではないか、という「疑念」を幾分か含んでの議論であったのだろうとぼくは解しているが、ぼくの出した解答は抽象的で複雑なものにならざるを得なかった。 たしかに、置かれている状況も獲得目標も違う。そもそも、概念レベルが違う。だが、セクシュアル・マイノリティ(この言葉も当時はなかった)を差別する社会が強要してくる性的規範に対して、共に立ち向かうことは可能なのではないかという結論である。

 ぼくはそのとき、「彼らとは違う」と主張する論にどこかしら「排除」の匂いを嗅ぎつけて、単純に同意することをためらった記憶がある。それぞれの違いを的確に把握したうえで、生殖を口実として絶対化されている男女二分法と性的規範とに立ち向かっていくための方策を共に探りたいという想いを、今もぼくは捨て切れない。

 それぞれの違いを可能な限り的確に認識することは、共に運動を構築していくための必要条件である。しかし、「違い」を強調することが排除を正当化する口実になってしまってはいないか、そのために、「差別」と闘っているつもりが差別に加担することになってしまってはいなかったか、繰り返し注意深く検証する必要があろう。

 「おかま」という言葉に「傷つきました」と訴えるにしても、同じことが言える。傷付いたとき、そこにどのような心理が生まれたのか。なぜ、傷付くのか。何に「抗議」するのか。「抗議」する意味はどこにあるのか。自分はどの位置からものを言っているのか。。

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