さて、これからが大事なことですけど、私は「他者を傷つけること」を差別の問題とする発想自体が大きな間違い、大きな勘違いなのではないかとの疑義を抱いています。本当に他者を傷つけることは差別とイコールでつなげられたり、差別を構成する決定的要素とすることができるのでしょうか。
K氏はそうすべきと言っているのではないのですが、「すこたん企画」のように当事者が絶対的な判定資格を持つことを主張することが間違いなだけでなく、心の痛みを差別の判定基準とすること、また、人の心を傷つけることが差別の中身だとする考えは間違っているのではないか。
これについては、私自身、きれいには答えを出せないところがあり、うまく表現することができなくもあるのですが、ハレルヤ春の助氏が言うように、差別は、ある属性によって自由な選択肢を与えられない現象やある属性によって貶めていいという合意が広く存在する状態を指すのであり、それに伴って傷みを感じる人がいるに過ぎず、この傷みの存否なり多寡は、差別かどうか、どの程度差別かの基準になり得ないと思うのです。
例えば、被差別部落出身者ということで、就職試験に落とされた人がいるとします。彼は本当の事情を知らず、自分の能力のために就職できなかったと解釈していて、これに対して心の痛みも憤りも感じていないとします。あるいは、被差別部落出身だから採用されなかったことを知ってもなお「まっ、そんなもんだ」と受け入れて、傷つけられることのない人がいるとします。
ここには差別は存在していないのでしょうか。私はあからさまな差別だと思うのですが、この時にこの人を傷つけないように配慮すること、すなわち本人にそのことを知らせないように会社側が配慮することは差別者の責任を何ら軽減するものではありません。
一方で、能力によって就職試験に落とされた人がいるとします。この人が勝手に「自分は被差別部落出身だからだ」と解釈して、ひどく傷ついたとします。あるいは、そういった属性がまったくない人がいて、一所懸命に努力しているのに、それが認められずに就職できなかったとします。この人も、自分の努力が認められないことに傷つき、嘆き悲しんで自殺してしまったとします。
ここには歴然と傷つけられたと自覚する人達がいますけど、どう考えても差別とは関係がありません。
ここでは属性による不平等な扱いが存在しているという客観的な事実が、差別であるか否かを認定する唯一の基準だと私には思え、傷ついたか否かなんてことを考慮に入れる必要を感じません。この不平等な扱いがなぜいけないのかの傍証として心の傷が持ち出されることがあるというだけではないのでしょうか。
「差別という制度は撤廃されなければならないが、差別表現の規制には一切反対する」という立場があります。以下は、前掲の柴谷篤弘・池田清彦編『差別ということば』で、池田清彦氏が差別表現の規制を求める運動に対して述べた言葉です。
[私は制度的な差別や、実質的な差別を撤廃しようとするあらゆる運動を支持します。しかし、差別表現を廃絶しようという運動には、家で寝ころんでテレビを見ている以上の意義を見い出すことはできません。もっときついことを言えば、差別表現廃絶運動というのは、体制側(差別する側)が恐らく無意識に用意したわななのです。差別廃絶運動がこのわなに捉えられて、制度的な差別や実質的な差別に反対するエネルギーをそがれるのはおろかなことです。(略)差別撤廃運動でてっとりばやく成果をあげたい人々は、差別撤廃運動に取り組むのが一番簡単で、その結果、差別語ばかりがやたらと増え、良くも悪くも、被差別者に言及することは避けられるようになり、人々は被差別者の実態を知らされず、被差別者の存在に対して見て見ぬふりをするようになり、実質的な差別は決して廃絶されないのです。]
このすべてに賛同するわけではありませんが、私自身、差別表現を規制することは実質的な差別の廃絶には何らつながらず、しばしば本質から目を逸らす行為でしかないと感じます。「オカマ」は差別語であると決めつけて葬り去ろうとすることによって、同性愛者の中にもある「オカマ」や女性を差別する意識が隠蔽されかねないようにです。
言葉によって傷つく人がいないというのではないのです。傷つく人がいることを根拠にして表現を規制したところで、差別はなくならず、また、言葉で傷つく人がいなくなる社会を目指したところで意味はないということです。
ただし、池田氏と違って、私は差別という制度・現象を支え、加速させるような発言は、それ自体差別として非難されるに足ると考えます。「障害者は結婚するな」「女はひっこんでろ」「部落民を就職させるな」といった類のものです。これもまた読んだ人が傷つくからいけないのでなく、あくまで差別を助長しかねないものだからいけないのだということです(これを表明すること自体が問題なのでなく、その言葉の中身が問題ではなかろうかとも私は思っています。詳しくは「オカマ表現を考える」参照)。
「バカ」でも「アホ」でも「マヌケ」でも「ハゲ」でも「チビ」でも傷つく人は傷つきます。既に述べたように「金持ち」呼ばわりされても傷つく時は傷つきます。人間が傷つかずに一生を終えられるような社会ができるとは思えず、そんな社会において人間が人間らしくいられるとも思えません。
「あんたは強いから」という言葉について前に書きましたが、実は私自身、よくこう言われます。この時にだって私は傷つくことがあります。これではまるで生まれてからこの方、私が傷ついたことがないかのようではないですか。そのような鉄面皮として生まれてきたのでなく、傷ついて強くなった人間に対して、こう言い放つことは失礼です。
H氏に限らずのことなんですけど、どうも世間一般、人を傷つける言葉、人を傷つける行動は避けなければならないかのように思い込み、そう他者を非難する人がよくいるのですけど、ホントにそうなんでしょうかねえ。こういう考えの蔓延が世の中を悪くしているような気もします。
あんましいい例ではないかもしれませんが、ダウンタウンが倉木麻衣を「宇多田ヒカルのパクリ」とした騒動がありました。あの時に倉木麻衣サイドが「落ち込んで学校にも行けない」などと反論。ムチャクチャな話ですよ。倉木側が、ですよ。楽曲ではなく、売り方、作り方がパクリなのは一目瞭然であって、「売り方をパクって何が悪い」というのなら私も同意しないではないですよ。パクリをやった側がパクリと指摘されて傷つくのは、パクッた側の問題ではないですか。彼らがパクリではないというのなら、そう主張すればいいだけのことであり、パクリか否かとか、パクリは是か非かを論ずればいいものを、落ち込んだことをそれにぶつけるのは本末転倒であり、何ひとつ意味はありません。以来、私は倉木麻衣とその事務所に、いつか癒えることのない傷を与えてやろうと誓ったものです。
しかし、このように、やれ「落ち込んだ」だの「傷ついた」だのと表明することは、何故かこの国では有効なんですね。辛さんも、「週刊金曜日」にそんなことを書いて「すこたん企画」を弁護してましたけど、これもムチャクチャな話ですよ。泣けばいいってもんじゃないでしょうに。くっだらない。
こうして、涙流せば事の是非が涙とともに流されてしまう傾向、それを狙って泣くような人にはとことん腹が立ちます。そういう人の存在にこそ私は深く傷つくのです。
「愛欲」という言葉さえ問題にし得ると考えているらしき落合恵子さんがその筆頭ですけど、「自分が不快に思う」ということが社会にそのまま通用すると信じて疑わないような人たちの鈍感さがポルノを規制したり、「批判されたくない」「スキャンダルを暴かれたくない」という政治家たちがこのところ邁進している表現に対する様々な規制をも支えています。
生きていく以上、傷つけたり、傷つけられたりすることはしゃあない。とりわけ競争を是としている社会では必然でしょう。それをまたバカな親たちが、競争で賞品を出すことは差別だなんて言い出して、学校の運動会で順位づけして賞品を出すことを中止したりしやがって、何考えてんだって思います。大人になったら激しい競争社会が待っているというのにさ。
誰かに愛を告白されて、それを拒絶すれば相手は傷つくでしょう。それを避けるために、「私も好きだ」と答えることは正しいことなのかどうか。現に好きじゃないのなら、「好きじゃないよ」と言えばいいだけのことで、「それで傷ついて自殺するような人は最初から告白なんてすんじゃねえよ」ってことでしかないと私には思えます。
傷つけること、傷つけられることもまた生きていることの楽しみとさえ言えて、そのことが不当である場合のみに否定されるべきなのではないか。その不当さを法律では例えば名誉毀損ということで否定していて、法律にはなっていないにしても、差別という枠組みでその不当さを排除することにこの社会はほぼ合意しているのであり、そのルールを逸脱しない範囲でも人を傷つけること、傷つけられることを否定したい人は、最初っから表現なんてもんに関わらない方がいいと思います。
私はよく名指しで人を批判しますけど、批判された側はそりゃ傷ついているかもしれませんね。「死ね」とまで言いますからね。こういう言葉を使わなければ人を傷つけないと思いこんでいるような鈍感な人たちの方がはるかに罪深いと私は感じます。
だって「原発反対」なんて掲げれば、電力会社で働いている人達は傷つき、その家族も傷つきます。「警察は日本最大の犯罪組織」と書けば、「うちのお父さんは犯罪者なのか」と警察官を親に持つ子は傷つきます。学校でイジメられるかもしれません。しかし、そんなことまで考慮に入れる気はないでしょう。私もガキの頃、親の職業にプライドをもてなくなったことで、大いに傷ついた体験があります。だからといって、その傷で被害者意識なんて抱かず、こんなん、自分で解決するしかないですよ。
私に対して「そんなあんたが嫌い」と言うのももちろん自由であって、「嫌いでけっこう」というだけのことです。
「個室13」をどうしても読めないH氏には、「読まないでいい」というしかない。批判するのであれば、できるだけ読んで欲しいのですけど、読めなかった旨を伝えていただければ十分であって、如何にH氏がそのことを不快に感じたところで、あるいは深く傷ついて自殺したところで、「知ったことではない」というのが私の立場です。
おわかりになっていただけましたでしょうか。
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