判定基準として適さないだけではなく、私自身、H氏の考え方を実践しようとは思いません。仮に私がH氏の考えに全面的に同意するのであれば、私は最初から、「オカマ表現を考える」なんてものを書かなかったでしょう。書くことによって、H氏のみならず、「オカマ」という言葉によって傷つく人々、「ゲイ」という言葉に傷つく人々、そして「すこたん企画」の人々など、私はたくさんの人を傷つけているだろうと想像することができます。となれば、私はセクシャル・マイノリティのみならず、あらゆる差別に関する表現を放棄するしかないと思います。
ここで確認しておきますけど、H氏は、「個室13」の内容を吟味したのでなく、「ホモ」という言葉を多用したことそのものを問題視していることです。使用された文脈や意味合いを考慮することなく、「ホモ」は人を傷つけ得る言葉であり、多用することは好ましくないとの認識を抱いているようです。
現に傷ついていると語るH氏を疑う気はさらさらなく、事実そうなんだろうと思います。しかし、既に述べたように、それが匿名であっても、このようなメールを送れるH氏は比較的強い人であるとも言い得ます。多用ではなく、この言葉を一回こっきり使用することで傷つく極端に弱い人の存在も当然想像できます。「ホモサピエンス」の意味であっても不快さを抱くH氏がいる以上、「ホモ牛乳」で不快になる人も想像できます。
H氏にはその実感がないでしょうけど、「ゲイ」という言葉が同性愛者を指すものと広く合意されている今の時代には、「ゲイ」という言葉にも、H氏が「ホモ」という言葉に感じるのと同様の嫌悪感を抱く人々がいることが想像できます。ホモフォビアにからめとられている同性愛者たちは、自己も共有する同性愛という実体そのものも嫌悪しているのですから、「ゲイ=同性愛」という認識が定着すればするほど、その言葉への嫌悪を高めていくことになります。
わかりやすい例で言えば、便所を指し示す言葉は定着していくに従い、ウンチやシッコによって作られる汚いイメージがまとわりつくようになります。「厠」なんて言っても、今は汚いイメージを受け取ることは難しくなってますけど、これが便所のことであることを認識していた時代にはやっぱり汚い言葉であり、だからこそ「厠」は「ご不浄」「便所」「洗面所」「トイレ」などといった言葉に置き換えられてきたわけです。ウンコやシッコが汚いものである限り、このような言葉によるイメージの喚起は避けられません。
「セックスワーカー」という言葉が、今現在は蔑称のニュアンスがないのは、聞き慣れない分、言葉が行為をイメージさせにくいためです。売春に対する蔑視がある限り、早晩、この言葉も蔑視のニュアンスが付与され、そこからマイナスイメージを引き出すようになるに違いありません。
それと同じく、同性愛を蔑視し、嫌悪する人々がいる以上、「ゲイ」という言葉も間もなく蔑称となっていくでしょうし、シンポでも紹介したように、「ゲイ」という言葉を既に差別語だと認識している人が現にいるのです。「ホモ牛乳」が危ういのなら、「東京芸大」「鯨肉」「歓迎」も危ういです。
「ホモ」は差別語であるという合意を共有する人たちは、「ホモ」という言葉に嫌悪の対象を向けて、「ゲイ」はいいのだと区分することもできましょうけど、これっておそらく比較的フォビアが弱く、そのような合理化ができる人々であって、そんな器用なことができないまま、同性愛にまつわる何もかもを拒絶する人たちだってたくさんいることでしょう。
つまり、H氏の指摘を受け入れるなら、私はこれらの人々も考慮するしかなく、同性愛に関するすべての表現をたった今中止してしまうことが正しいのです。だって、ここに書いてきたさまざまによって私は経済的、物理的な見返りを受けているわけでなく、見返りを期待しているわけでもありません。「松沢君はいいこと書くね。百万円あげよう」という人が現れたら喜んでもらいますけど、これを書かないことで生活が困窮するわけではなく、それどころか、時間を他のことに使えるのですから、書かない方がよっぽど楽です。他者を不快にしないために、できる限りのことをしなければならないのであれば、私は書かない選択しか残されないのです。
最もフォビアの強い人達は、こんなコーナーを読みもしないでしょうけど、たまたまここを見てしまったら大変なことになります。「男が性的に好きな男」を嫌悪している人も現にたくさんいるのですから、私もH氏も、今すぐこんな議論をやめてしまうしかない。
読んでいないH氏にはわからないでしょうけど、「個室13」の内容は「ホモ」という言葉が肯定的に使用されるに至る過程を述べていて、「ホモ」という言葉は少なくともある時期、肯定的に使用されていた言葉であったことを例証しました。そこにおいて、この言葉を多用するのは当然であり、伏せ字にしてしまっては何がなんだかわかりません。しかしながら、現にそれを不快と思うH氏がいる。H氏がそのことをいくら不快だと表明しても、そして私がこの言葉を不快だと思う人がいるということをいくら認識していても、私は「個室13」を撤回するつもりはなく、今後も同様に、この言葉を使用します。
H氏のような人に配慮した場合、「ホモ」という言葉の時代による経緯の説明なんてしないのが最も正しい選択ということになりましょうし、そのような原稿を書かなくても、私は死ぬわけでなく、さして困ることなどありはしないでしょう。にもかかわらず、私は書きます。
肯定的に使用される範囲では多用されて何ら問題はないと私は考えるからです。既に書いたように、「お前が楽しくセックスをしている様を書くだけで、セックスを楽しめない自分は傷つく」と言われたところで私は書きます。これと一緒です。
さもなければ、どうしてH氏は「ゲイ」という言葉を使用できるのでしょうか。既に述べたように、「ゲイ・ボーイ」の時代、「ゲイ」は蔑称としても使用されていました。その言葉に傷ついた人達もたくさんいたでしょうし、今だっているでしょう。そういった人々を傷つけ続けて、我々はもっぱら肯定的意味合いとして、この言葉を獲得できているわけです。となると、「ゲイ」も使用すべきではなく、「同性愛」と言うべきです。しかし、これとて見たくない人もいるわけで、いくら面倒であっても、「男が性的に好きな男」とでも表現するしかないのかもしれません。こうすることによって、言葉が指し示す意味が生々しくなって、いよいよ嫌悪する人もいるでしょうから、やっぱり触れないことが正しい。
私は、肯定的である限りにおいて、「ゲイ」も「ホモ」も「オカマ」も「レズ」も、野放図に氾濫させればよいとしか思ってません。「ノンケ」も「異性愛者」も「ヘテロ」も、何ら配慮なく使っていい言葉であるのと同等に、無思慮に使うようになればいいと思っていて、「ゲイ」は多用していい、「ホモ」はそうではないという姿勢は個人の恣意によるものであり、それを他者にまで求めることは、自己の感性、価値観を他者が共有することを強いる行為です。
もちろん、H氏個人を指し示す言葉として「ホモ」は使用しません。この程度の配慮はします。これは現にH氏が嫌がっているから、そのH氏を傷つけないようにするという配慮であると同時に、あるいはそれ以上の意味合いで、自分が何者かは自分が決定すればよく、その選択を妨害する気がないためです。
しかし、現に傷つく人がいるからということでできる限りの配慮をしなければならないのでしたら、パレードもやっぱり中止でしょう。パレードに対してさえも不快に思うクローゼットな人々の存在を想像し、彼らの気持ちを思いやる必要があるのでしたら、中止以外ないのです。H氏の言い方を真似するなら、「パレードをやることによって、数年後にニュアンスが変わるのであれば我慢しようという気になれるとは思います。しかし、10年20年たっても変わらないのでは…という心配もあります」として、パレードの中止を申し入れた人たちがいたら、パレードは中止しなければならないのかどうか。
いつまでもクローゼットの中に引きこもっている人たちを誰も非難はできないと思います。しかし、そういった人々が、クローゼットの外に出た人々、出ようとする人々に対して足を引っ張ろうとするのであれば、強く非難するしかない。それが最も虐げられた弱者であろうともです。「他人の選択を妨害するな、一生黙って引きこもっていろ」と。
10年たって変わるのかどうかを決定するのは、その人自身でもあります。この社会が変わるかもしれないことを目指して行動することによって、事実、社会は変わるのかもしれない。あるいは、この社会は何ら変われないかもしれませんけど、人は変わることができる。社会が変わるのを待つまでもなく、パレードに参加できるようになるかもしれない。言葉を嫌悪しなくなれるかもしれない。なのに、どうして、他者が自分を救済することを10年も20年も待つのでしょう。
H氏からすると、冷酷に見えるかもしれませんけど、こういう人達を私は救済したいとは思っていません。一生そのままでいたい人を救済しようなんてえのはおっせっかい以外の何ものでもない。これもまた選択なのですから、ほっとけばいいのです。誤解されないように書いておくと、そもそも私はどんな立場のどんな人も救済しようとしているわけではないんですけどね。
10年後、同性愛者に対する差別が一切消えたとしましょう。その時でも、H氏はやっぱり「ホモ」という言葉を嫌悪しているかもしれません。個人の問題ですから、一生つきまとう可能性は十分あるでしょう。それと同様、「ゲイ・ボーイ」の時代に、「ゲイ」で差別された人の傷は今も残っているかもしれません。「ゲイ」という言葉が今現在、如何に肯定的に使用されていても、癒えないものは癒えません。社会が変わったところで残るかもしれない傷をもって、社会が変わる可能性、他者が変わる可能性を潰す権利はこの人にもないのです。
ある言葉に対する嫌悪感の克服は、嫌悪感を抱いている当人に委ねるしかなく、H氏の「ホモ」に対する嫌悪感は、第三者の行動によって治癒されるのでなく、H氏自身が取り組むしかないことです。第三者はそのお手伝いをしたり、相談に乗ってあげる程度のことしかできないと思っています。
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