またまたさっそくのお返事ありがとうございました。だいたいは理解しました。
漠然とした印象で、他者を批判するのはよくないと思うんですよ。具体的箇所を挙げることにH氏自身、手間取るように、まして漠然とした批判をされた側は、「こんなこと書いたっけな」と戸惑い、時には自分の原稿を読み直して、どこがそれに該当するのか探さなければならなくなります。
その作業を経て、「そんなことは書いてない」と説明して、その結果、「すいませんでした」と謝られたところで、その作業の無駄は補償されないわけで、これって、やっぱり「いやがらせ」と言われてもしゃあないと思います。これに限らず、他者を批判する場合には、以降、気をつけた方がいいと思いますよ。
どうやらホントに悪意がなかったみたいなんで、まっ、いいですけど。
H氏は、「私なりに考えたこと」で、[「表現する側」は自分ができる範囲で、読む人を傷つけないように配慮した文章を書くように努力する]という考えをもち、これに対して私の考えはあいまいであると指摘してきました。
私自身、「そうだよなあ、私はあいまいだよな」と思います。私が自覚するあいまいさと、H氏が指摘してきたあいまいさとは一致していないかもしれず、なにをもってH氏がこう指摘してきたのかの回答を見て改めて説明し直さないといけないのかもしれないのですけど、このことを考えていくうちに、ここまで明確には説明してこなかった重要な問題を含んでいることに気づきました。この問題は、H氏の指摘とズレている可能性があるのですけど、それでもなおここに書いておくべきと考えます。
その契機を与えてくれた点では、H氏の指摘には深く感謝しなければならないでしょう。
また、このことに直接触れたものではないのですけど、ハレルヤ菊の助氏から非常に参考になる意見をお寄せいただきました。これは「ウロコの部屋」の方に出すとして、これにからめて、このタイミングでH氏と論じ合いたいと思っているテーマについても書いておいた方がよく、H氏からの残りの回答が届く連休明けを待たずして、先に出してしまうとします。
長くなるので、今回から3回くらいに分けて出します。
今まで書いてきたことと重複する部分もありますし、ハレルヤ菊の助氏へのコメントとも重複する部分もありますが、念入りに説明していきます。
「個室13」について、H氏はこのように書いています。
[私があげた(1)について「個室13」の話に限定して言うなら、もし、松沢さんが、例えば私のようにあまりにたくさん「ホモ」を多用されると、記事を読むことが困難になる人がいることを知っていて、また、そのような人がたくさんいて記事を読む可能性もとても高いことがわかっていて、かつ松沢さんも読者としてそのような人を想定していて、多少工夫すれば「ホモ」という言葉を減らすことはできると松沢さん自身が思っていて、それでもあえて「個室13」の文章を書いたのだとしたら、私は[(1)「表現する側」は自分ができる範囲で、読む人を傷つけないように配慮した文章を書くように努力する]ことに当てはまらないように思います。]
実際のところを言うと、これについて私は何ら配慮していません。しかし、このことで、H氏からの批判を受けなければならないとは思えないのです。
その理由は多岐にわたります。最初にわかりやすいところから始めますけど、[「表現する側」は自分ができる範囲で、読む人を傷つけないように配慮した文章を書くように努力する]という考え方は、そもそもがあいまい極まりないものです。「できる範囲」「傷つける」「配慮する」「努力する」といった内容は、この考えを共有できる人が、その人の判断で行うしかなく、第三者がその条件を満たしているかどうかを厳密には確定しようがないものです。例えば、私が「なんら配慮していないのは、私は配慮する能力がないためで、これが私のできる限界である」と抗弁したら、誰も対抗できません。
この国では表現に関するルールが一部法制化されています。名誉を毀損したり、著作権を侵害したら、法律で罰せられます。特に民事の名誉毀損の裁判においては、名誉を毀損したか否かが問題になり、現に名誉を毀損しているのであれば、「できる範囲で、対象を傷つけないように配慮するように努力したか否か」が問われるわけでなく、名誉を毀損した表現物が問われるだけです。いくら本人が配慮したつもりでも、第三者の著作権が侵害されているとの客観的事実の前には対抗はできません。ナンボか情状酌量してくれるかもしれないくらいです。同じく、如何に本人が配慮していなくても、名誉を毀損せず、著作権を侵害していなければ、これらの法律に抵触しません。
法律にないから人を傷つけていいと言いたいのではないですよ。表現の是非を判定する際に、本人しかわからない心のありようを基準にするのはあいまいすぎるという話です。書き手の心のありようを問うてもしょうがないし、問いようがないと思うのです。どんなに善意であっても他者を傷つける文章があって、どんなに悪意が込められていようとも第三者にはその悪意を感知できない文章とがあったとしたら、非難されるべきは前者だと思っています。
例えば、「売春をする女達を救ってやらなければならない」という考えは、如何に善意によるものだとしても、しばしば売春する女たちの意思を踏みにじり、心を傷つけるものです。この鈍感さには腹が立ちますが、本人たちはどこまでも善意です。この点ひとつとっても、善意なんてもんは信用ならんものだと私は信じております。
このように、最終的には、表現されたものでしか、是非を問うことはできないのではないでしょうか。したがって、H氏の考えは、これに同意する人が努力目標にする程度のものでしかなく、そうする人々を私は全然否定しないし、批判なんてしようがないですよ。ただ、第三者を批判する基準にはなり得ない。ここでは「傷つく人を配慮する必要なんてない」とまでは言いませんけど(実はあとで言うつもりなんですが)、何ら配慮していないと公然と語る私もまた非難される筋合いはないと思うのです。
いくらH氏に批判されても、「はいはい、そう思うHさんが実践すればいいだけのことでしょう。そう思っていない私のことはほっとけばよく、私の原稿を勝手に読んで勝手に傷つかないでください」とでも私は言うしかない。極端ないい方ですけどね。
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