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その2-01宮崎留美子氏の意見 [2001年09月15日]

●投稿[投稿日01.08.08]
「オカマ」の語を
どう受けとめるか

宮崎留美子
(高等学校教諭)

セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク副代表。
性教協会員。
著書・『私はトランスジェンダー』
発行・ねおらいふ/発売・星雲社/本体1,500円+税

ウェブサイト
http://www4.justnet.ne.jp/
~r.miyazaki/

 私はトランスジェンダー。「オカマ」と呼ばれたことも何度かある。その意味では当事者だ。この言葉が、差別や侮蔑の意味で使われてきたこともよくわかる。しかし、発端となった記事を読むかぎり、この言葉を言われて傷つけられた体験をもつ当事者としても問題はないと受けとめた。
 「オカマ」の言葉を使うとき細心の注意を払うのは当然だ。ただ、この言葉の受けとめ方はかなり多様であるという事実も知るべきだ。みどり子氏というトランスジェンダーの方がいる。氏は「(言いかえ表現でよしとしている場合)おかまとして胸を張って生きているみどり子にとっては、侮辱以外のなにものでもない。非差別主義を謳う前に、故なき言葉狩りをしないで欲しい」と書いている。記事の東郷健氏も「オカマって言葉は大好きやで」と、その言葉を自分に冠せられることを受け入れている。
 この言葉を聞くだけで苦しみを感じる人もいれば、誇りをもって受けとめている人もいる。まさに多様なのだ。ではメディアはどうすればよいのか。使われている記事の文脈が差別を助長するものか否かで判断する以外にない。メディアが非難を受けるかどうかは、この点にかかっている。
 月刊テーミス誌上、「『オカマ』と一括りにすることなかれ『トランスジェンダー』達の逞しい生き方」というタイトルで、私のことをルポされたことがあった。引っかかりはしたが、記事の中身を見て、私は一切クレームをつけなかった。辛さんは言う。「少数者の生き方を尊重する意識のない者が、どうやって権力とたたかえるのだ」その通りだ。しかし同時に、少数者は「いつも決して一様ではない」ことも見落としてはならない。
ある見解の持主だけが権力とたたかっていると勘違いしたら傲慢だ。当事者の私の受けとめを、誰からも非難される筋合いはない。

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