その1-01伏見憲明氏の投稿 | [2001-09-14] |
●投稿[投稿日01.07.18] 伏見憲明 |
週刊金曜日編集部 御中 以下の文章を投稿いたします。 近く、同じテーマで特集が組まれるとのこと、性的少数者にもさまざまな考え方の人がいます。偏ることなく、多様な意見がそこに反映されることをご期待申しあげます。 2001.7.18 投稿「謝罪する必要はない」 貴誌に掲載された「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」(6/15)という東郷健氏に関するルポルタージュが、「オカマ」という言葉がタイトルに用いられたことで、当事者から抗議を受けたという。 私は同じ同性愛者として、その申し入れを行ったすこたん企画のこれまでの反差別の活動には、敬意を表するものであるし、「オカマ」という言葉で傷つく当事者がいることもよく知っている。そう感じる人たちが、自分たちの不快な気持ちをメディアに伝えることは、否定するものではない。 が、当事者であり、またメディアに関わるものとして、ここに意見を述べさせてもらうのならば、私は、あの記事が内容にしてもタイトルにしても、差別的なものだとは思わない。 東郷健氏は「オカマ」という言葉で差別を受けながら、それに立ち向かうためにあえて「オカマ」を抵抗の拠点に選び取った活動家である。その東郷氏を表現するのに、そして何より、ご本人がその言葉で自分を表明されているのにもかかわらず、「オカマ」は使ってはいけないと言う資格が、いったい誰にあるのか。 また、あの記事は、その言葉が差別的なニュアンスを含んでいることにも言及しているし、それに不快感を覚える当事者がいることにも触れている。語源に関しても説明している。十分な配慮がなされていると考える同性愛者も多いだろう。私はメディア人の立場からも、これ以上の配慮が何を意味するのかさっぱりわからない。 何が差別語かの線引きは難しい。「オカマ」だけでなく、「同性愛者」「ゲイ」といった言葉を差別語だと感じ、不快に思う当事者もいる。実際、それらはかつて、そして現在でも差別的に語られることがある。反対に「オカマ」という言葉に愛着を持つものも少なからずいる。 問題は、それらの言葉が用いられる文脈であり、そこにしかるべき配慮がなされているかどうかだ。 その意味で、貴誌があの記事を謝罪する理由はどこにもない。 |
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