シリーズ 個に生きる(5)
東郷健
(タイトル)
伝説のオカマ
愛欲と反逆に燃えたぎる
文・及川健二
写真・内田豊治
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(プロフィール)
とうごう けん・一九三二年兵庫県加古川市生まれ。
雑民の会、雑民党の代表。『ザ・ゲイ』編集長。
伝説のオカマとして知られ、選挙活動、ゲイ雑誌編集、
芝居など幅広く表現活動をこなしている。
一男二女の父。逮捕歴多数。座右の銘は、
「せめて、自らに恥じなく眠りたい」
(タラシ)
天皇の朕よりも
私はチンチンのほうが好きや
(タラシ)
人と人が愛し合う行為の
どこが、ワイセツなんや
(キャプション)
「The Gay」のグラビア撮影。
愛猫「チン」を抱きながら、「最近、ますます人間が嫌いになった」とポツリと言った。
長年、権力や差別と闘ってきた東郷。湯船で体の節々をもみほぐす。
メモをもとに「欲情のキスをどこにするか」の原稿をまとめる東郷。
毎日ウイスキーのボトル1本を空にする。朝方、人々の流れに逆行し帰路につく。まるで人生のように……。
「そんなに整形なんかして、一般の"美しい"といわれる多数決の論理に従わんと、数が少ない美しさを、自分で磨いていく必要があるんじゃないやろか・・・・・・。」
ピンクのスポットライトを浴びながら、東郷健が諭すようにいった。
二〇〇〇年一一月二七日の夕方。早稲田大学の学生に招かれて、大学教室で一時間半ほどの講演を東郷は行なった。ポスターカラーで、『あの伝説の「オカマ」、東郷健講演会』と、手書きされた立て看板が、教室前には立っていた。講演後の質疑応答で、女性の観客がマイクを握り、発した質問がいまも私の脳裏に焼きついている。
わたしは子どもの頃からブサイクといわれてきた。死ネ、ブス、といわれて、いじめられたこともあった。そういう、死ぬほど辛い思いをしている人たちにも、東郷さんは整形をするなというのですか・・・。そんな質問だった。
「鼻が高こうて白うて胴が短いっていうのが映画の中心だったからこそ、それがきれいっていう標準になるんで、足が短こうて胴が長いのを美の中心に持っていこうとする努力、ブスやっていわれても、それが美しいんや、という表現が、必要あるんじゃないかと私は思いますけどね」
"東郷健"と聞いて人が思い浮かべるのは、ずっと落選し続けてきた人、得体の知れない”オカマ”、ワイセツ容疑で何度も逮捕された人・……。そんなところだろう。しかし、東郷を活動家、ゲイバー経営者、雑誌編集者、”オカマ”と一括りにすることはできない。
「世間の人が九九%正しいと思っていることへ根本的な疑問を呈し、その疑問を行動に移す。東郷さんの魅力はそんな反逆精神にあります。権力に敢然と反旗を翻し続ける反権力の姿勢も立派です」
東郷から仏と仰がれる遠藤誠弁護士は、東郷の魅力をこう説き明かす。
回し蹴りを加えれば小枝のようにポキッと折れそうな東郷のか細い躰……。このどこに、体制を食い破ろうとする野性が宿っているのだろうか。
私は東郷を追うことに決めた。
不敬イラストで
右翼に襲われた
新宿二丁目の東郷が経営するゲイバー「サタデー」に私が初めて訪れたとき、時計は午前零時をまわっていた。東郷はまだ来ておらず、アルバイトの店員一人が立っていた。店内にはカウンターに椅子が一〇席ほどあり、東郷が発行する月刊『ザ・ゲイ』のバックナンバーが棚におかれ、壁には男性の裸体写真が貼られている。東郷は午前四時を回った頃に、ジャンパーにジーンズという出で立ちで現れた。
「今日は取材はいやよー」といいつつも、こちらの質問に答えてくれる。季節柄、風邪でもひいたのだろうか。会話の合間に何度も鼻をすするのが気にかかった。
東郷さん、風邪気味なのですか?
「これはねー右翼に襲われて、それから、鼻の具合が悪いんですよー」
事件は、一九八四年に遡る。
月刊『新雑誌X』の八四年八月号に、東郷が主宰する「雑民の会」が、イラスト入りの意見広告を出稿した。そこには、昭和天皇がマッカーサーに犯されるという挑発的なイラストが掲載されていた。"不敬"だと憤怒した右翼が雑誌社に街宣車を連日集結させて抗議活動を展開し、事務所に入り込んで窓ガラスを割るなどして暴れ回った。東郷の家の窓ガラスも砕かれ、連日、脅迫めいた電話が来た。
ところで、問題の『新雑誌X』が発売される前月の六月二二日に、東郷の出版記念パーティーが都内で開かれていた。遠藤誠や平岡正明(評論家)の他に、参加者の中には当時、一水会代表だった鈴木邦男や野村秋介といった右翼の面々もいた。その模様が、『噂の眞相』八月号のグラビアページに、鈴木や野村の顔写真入りで載った。彼らにも右翼から抗議が来たのはいうまでもない。木村三浩(現在、一水会代表)はそのときの状況を説明する。
「東郷健と仲良くしているのはオカシイのではないかと、ずいぶん抗議を受けましたよ。私は東郷さんに何度も抗議して、公開討論を申し込んだのですが、梨の礫。電話しても東郷さん本人ではなく秘書が出てきて、まともにとりあわなかった」
一水会への右翼の抗議はやまず、野村は「誰もやらないのなら、俺が東郷をヤル」と周囲に処刑宣告していた、という。
そして、七月半ばの昼頃だった。
木村が語るところによれば、東中野にむかって自転車を漕いでいたところ、北新宿の路上で偶然、東郷を見つけた。面識はなかったのだが、政見放送を見たことがあったので、本人だとわかったという。近付いて、『東郷さん』と声をかけたら、「違うわよ」といって逃げようとする。「嘘をついて汚ネーヤツだ……」とカッとなって、そのまま自転車ごと突っ込み、倒れた東郷を殴打した。捕まることなく、その場を木村は立ち去った。
「むこうから自転車に乗っていい男が来るから、『どこのバー店かしら。ええ男やわー』と思って、ニコッと笑おうと思うたら、ドーンと突っ込まれて、アレ〜ってなったんですよ」
東郷は当時の状況をこう語る。襲われた後に、東郷は被害届を警察に出し、そして事件から二カ月後に、木村は逮捕された。
「反権力・反警察をいっているのに、私を警察に売ったわけですよ。私をいまも許せないのは、反権力のポーズをはがしたからでしょう」
木村は当時の東郷の対応をいまも批判している。
天皇の人間宣言は
自己弁護や
それにしても、右翼の攻撃が予想されたのにも関わらず、東郷はなぜ”不敬イラスト"を雑誌に載せたのか。その背景には、東郷の天皇制への怨念が込められている。
東郷の生まれは兵庫県加古川市である。祖父に衆院議員を務めた名倉次、父に兵庫県議会議員の東郷伍郎を持つ。本人の語るところによれば、東郷の母は教師を務めていた。その土地の名家・東郷家に嫁いだのだが、"継母"だったためにそれを理由に、先妻の子どもから、いじめられた。夫は女遊びと芸者遊びに狂い、東郷に暴力を振るうこともままあった。そして、四一年に夫をがんで亡くした後には、家長となった先妻の長男に召使いのようにこき使われ、若くして歯が抜け落ちていった、という。家父長制や一夫一婦制にたいする東郷の嫌悪は、幼少に体験した理不尽な家長の存在に、起因するのだろう。
「当時の私にとって、一国の長は神様天皇であり、一家の長は父であり、父の死後は長男が長やったんですよ。家長の権力は、社会の仕組みとして天皇制につながっているんやないかと、と思ったんです」
そして……、と続けた。
「天皇は自ら人間宣言をしながら戦後も天皇であり続けたんですよ。戦争で傷ついていった人々に対する責任をごまかして・・・。戦争の傷で苦しんでいる人に対する後悔もなく、責任も覚えない天皇にとって、人間宣言はたんなる自己弁護でしかなく、人から教えられた逃げ道やったんです」
東郷は長年、選挙に出るたびに政見放送や街頭演説で、「日本の象徴が天皇の朕ならば、それよりも私は、男性の象徴のチンチンのほうが好きや」という趣旨のことを言い続けてきた。
「人間が平等であるということは、セックスを通じてでないとわかりにくいんと思うんですよ。天皇にも、チンチンはあるんやで。オマンコもするんやで。人間にそんなに違いはアラヘン、みんな同じなんやで、平等なんやで、といいたかったんです」
底辺の代表者が
いない
そして、七一年に、東郷は初めて参院選挙の全国区に立った。最後の出馬となる九五年の参院選挙までに、選挙に立候補した回数は一〇回を優に超える。
「差別される側の代表者が国会にいないっちゅうのはどういうこっちゃ。なにが自由や、平等や。なんで底辺の代表者が一人もいないんや」
そんな憤りから東郷は立った。そして、「オカマ、オカマの東郷健です」と絶叫しながら、全国を駆け回った。東郷にとって選挙とは、自らの思想を自由に、しかも大勢に向かって表現する場だった。しかし、その表現に制限が加えられる事件が起きた。八三年の参院選挙のときである。
自らが代表をつとめる雑民党から比例代表区に立候補した東郷はNHKで政見放送の録画を撮った。そこで、目の見えない竜鉄也や、足の不自由な八代英太などと協力して、『太陽はいらない』というコンサートをやったときのエピソードとして、「そのときは、『メカンチ、チンバの切符なんか、だれが買うかいな』と言われて、あまり売れませんでした。このような差別がある限り、この世に幸福はありません」といった。
メカンチ、チンバ・……。この部分を削除して、口だけがパクパクする無音声の状態でNHKは放映した。東郷の許諾を得ないままに、である。
そこで、東郷健と雑民党が原告となってNHKを相手取り、損害賠償を求めて、東京地裁に提訴した。原告代理人は、遠藤誠・弁護士である。NHKの行為は、候補者の政見をそのまま放送するように規定している公職選挙法一五〇条三項に違反する、と主張した。
八五年に出た一審判決では原告の勝訴だった。だが、「NHK側の弁護士ですら、勝てるとは思っていなかった」(遠藤弁護士)二審では、「緊急避難的処置として許される」という理由から削除が正当化され、逆転敗訴、そして三審でも敗訴となった。しかし、「形の上では、負けましたが、実質的には勝ったのですよ」と遠藤はいう。
「皆さん。このNHKは、公共放送と言っておりながら、三年前の参議院選挙に立候補した私が、政見放送で『メカンチ、チンバの切符なんか、誰が買うかいなと言って、身体障害者を差別する言葉を世間から言われました。そのような差別の意識は、徹底的に粉砕しなければならない』と述べたら、その中の『メカンチ・チンバ』という言葉だけを、勝手に削除して放送しました。そのように、候補者の政見放送の自由を侵害し、また、差別語だけを削って身体障害者の救済を何もしようとしないこのNHKは、百害あって一利のない存在です」
NHKは東郷の発言を、八六年の参院選ではこのまま放送したのだ。
ちなみに、原告・東郷健が裁判所に姿を現したのは、証人として呼ばれた一回のみ。無報酬で裁判を引き受けた遠藤弁護士にまかせっきりだった。「二階に上げられて、下から梯子をハズされた気分ですな」(遠藤弁護士)。そのことを東郷に聞けば、「そんな朝早くから起きられないわよー」ということだった。
人間のカラダの
どこがワイセツや
東郷にあるとき、逮捕の回数を聞いてみた。
「そんな具合の悪いこといちいち、覚えていませんわ」
封印破棄罪、横領罪、強要罪、恐喝罪、傷害罪で逮捕されたことがある。なかでもワイセツ関係の罪で、逮捕されたことが多い。
八四年の一二月八日には、『ワイセツ図画所持及び販売』という罪名で逮捕された。これは、怪人21面相"ハウス食品脅迫事件"の別件逮捕が濃厚だった。当時、東郷の関わっていた写真集『男男よ!』は、(株)噂の真相が発売元となって、発刊されていた。『噂の眞相』は八四年一二月発売号で、日本を震撼させていたハウス食品脅迫事件の報道協定を公開し、犯人を逮捕できない警察の醜態を報じた。岡留安則・編集長のもとには、発行前に警察から何度も掲載取りやめの打診があったが、それを拒否。問題の号は取次各社に、一二月八日に搬入されることになっていた。そして、八日の朝に東郷が突然、逮捕されたのだ。表向きの逮捕理由は、『男男!』の中に無修正で男性器が載ったから、ということだった。噂の真相の元には一二月一七日に、岡留の自宅には一二月二〇日にガサ入れがあった。「ワイセツの嫌疑なのに、住所録を押収したんですよ。おそらく報道協定がどこから洩れたのか、調べたかったんでしょう」と岡留はいう。けっきょく東郷は、一二月二六日に、起訴猶予で釈放された。
八六年には、男性器がモロ出しの写真雑誌とビデオを海外から持ち込もうとして税関で捕まり、関税法違反で起訴されたこともあった。罰金と雑誌の没収に抵抗したからだ。この事件では最高裁まで争い、無罪を主張した。が、最終的には有罪になり、罰金刑となった。
「もともと日本に"ワイセツ"って言葉はないんです。江戸時代には日本人が見つけたデモクラシーがあり、チンチンを擦りつけあう"かげま茶屋"があった。私にはワイセツが、わかりません。人間の身体のどこがワイセツなんやろ。人と人が愛し合う行為のどこが、ワイセツなんやろか・・・。愛は自由やし表現なんやから、それを権力が取り締まるなんていけません」
自身の行為を長年、ワイセツだと国家に指弾されてきた東郷のたどり着いた結論である。
ところで、東郷には妻がいた。
九九年に亡くなるまで、長い間、別居生活で晩年には妻のほうから三行半をつきつけられた。東郷と元妻との間には一男二女の子どもができた。世間体を気にして「偽りの結婚」をし、「若ったもんで、穴さえあれば、ポンポンポンポン入れてしまい、子どもができたんですよ」と東郷はいう。
東郷は大学生の時に、男性と相手にセックスをしたのが初体験だった。世間体を捨て、オカマとして生きるようになれたのは、姫路でゲイバーをかまえてそれに失敗したのがキッカケという。人生の辛酸をなめたことにより、正直に生きにゃアカン、という結論に至り、家族を棄てて東郷は東京に出た。ゲイバーを再び経営することにしたのだ。後に、東郷は長男・長女を引き取って育てた。昼はパパ、夜はママという状態が続いた。破天荒な東郷は、子どもの目にはどのように映るのだろうか。
「私にとって、父親はどうでもいい存在ではなかった。ここにきてやっと父親を冷静に見られるようになったのは、気にくわない人間をすべて断罪できないことに気がついたからです。いまは父親としてでなく、一人の人間として、東郷の生き方を認められるようになったんです」
東郷の息子はこう語る。東郷にたいして蓄積した怒りを抱えていた彼は、父をブン殴ったことが一回あった。しかし、いまでは東郷を理解している、という。
ここ八年、大晦日に東郷と息子は、早稲田大学文学部キャンパス近くにある「穴八幡」にお参りをして、お札をもらうことが恒例となっている。一〇歳を過ぎている息子の子どもがそれに同伴する。
「孫が入ることで、クッションになる。父親は世間で言う、おじいちゃんです」
これは生者の
葬式行列や
私はが五月の上旬に、サタデーを早朝に訪れたとき、店内には客はおらず、東郷一人が立っていた。
さいきん撮りたいと思う男がいないのよー、と東郷はグチった。自らが編集をする『ザ・ゲイ』では、東郷の激写グラビアが売り物になっている。二〇年以上セックスをしていないという東郷。自分の好みの若い男が裸になって、それにイヤラシイ言葉を投げかける。小さく萎んでいた陰茎が自分の言葉や行為によって膨らんでいき、天井に先を向けてガチガチに固まる。それがなによりの楽しみだなのだ。男の誰もが快楽を得られる、射精する瞬間を撮りたい、でも撮るのが難しいのよね、この間なんか、こっからあそこまで跳んだのよ・……、と電話器のほうを指さした。三メートル近く愛液が跳んだことには、さすがに驚いたようだ。
でも・……。さいきんはいい男が見つからず、寂しい思いをしている。いま自分が好きなのは、愛猫の"チン"だけ……。東郷の話によれば、六年前に、自宅の前に猫が捨てられていた。肩の肉が露わになり血みどろだった。生死の境だったという。東郷は猫をひろい、娘のように育てた。名前は、天皇から拝借してチンとした。自分の子どもよりかわいい。私はいま、チンがいるから生きていられるの。
「上品な猫どすよー」
東郷はおどけてみせた。
そう、おもしろいもの見せてあげるわよ、と東郷にいわれたので、誘われるままに店を出た。たどり着いたのは新宿三丁目駅から新宿駅へと通じる、五〇〇メートルほど先へと続く一直線上の地下道だった。
「これや。私が見せたかったのはこれや」
グレーと黒に身をつつんだ集団が、満員電車・乗車率二〇〇%といった密度で、こちらに向かって移動してくる風景が眼前に広がった。いったい何人の人がいるのだろうか。
「会社に遅れたらアカンっていうて、グレーと黒ばかりが、波のようにブワーーっと、やってくるじゃないですか。この風景を、私は二〇年以上見続けてきたんや。これは生者の葬式行列ですよ」
東郷は右へ左へ、心地よいリズムで群衆にむかってよろめいていく。
「私はこれに、特別人間として差別されてきたんですよ。バカにされてきたんですよ。酔っぱらった老いぼれのオカマが、波と反対方向へ歩いていく。これを見るといつも、生きてやるわよー、って思うんやわ」
この場所はきっと、東郷の半生を象徴する日常の場所なのだろう。かつて、東郷は銀行に数年だが勤めていて、家族のためにせっせと働いた。もとは、波の側の住人だったのだ。
私はその場で、東郷に問いかけた。取材を通して答えが見つかるだろうと思い、あえて尋ねなかった問いを、投げかけた。
東郷さんは"オカマ"という、同性性愛者にたいする差別語をなぜ使うのですか、自分のことをなんでオカマと言い続けるのですか、と。”オカマ”は"カマをほる"といった使われ方をするように、ことさらアナル・セックスを強調する言葉だと、不快感を覚えるゲイがいる。
「オカマって言葉は大好きやで……。差別されてきたからこそ、私はこの言葉を愛しています」
顔は赤いままなのだが、目だけは酔いが醒めたように、シラフに戻っていた。
「男が男を愛する自由を、人が人を愛することの自由を、言葉で変える必要あらへん。男と男が、女と女が愛しあって何が悪いんやろか。恥ずかしいのは自分に嘘をついて生きることやろ。恥ずかしいのは、誰も愛せへんちゅうことやろ」
東郷は、同性性愛者にたいする侮蔑と受難を象徴する"オカマ"という言葉をあえて受け入れた。
「私はオカマっていうたらサンスクリットで愛を意味するカーマっていう言葉が出発点だと思っています。オカマの原点は愛なんですよ」
東郷の顔がカッと崩れた。人の哀しみや怒りを溶かす、やわらかく、とてもかわいいらしい笑みを、浮かべていた。 (文中敬称略)
おいかわ けんじ。一九八〇年生まれ。フリーライター、アクティビスト。愛欲をテーマに表現活動を続ける。
うちだ とよじ・一九七一年生まれ。フォトグラファー。
*「シリーズ個に生きる」は月一回掲載です。
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