第13回セミナー・「もう一度、組版」
報告集


1999年の「日本語の文字と組版を考える会」がスタートした。雨の日曜日にも関わらず、東京シニアワークスには熱気溢れる250人。この会の活動も三年目を迎え、いま、新たな気持ちでわれわれの足元を見つめなおしてみたい。今回のテーマは、「もう一度組版……『基本 日本語文字組版』のメッセージ」。新年度の幕開けにこれほど相応しいお題もないだろう。われらが世話人の一人でもある逆井氏が上梓した『基本 日本語文字組版』の提案するところ、新時代の組版ルールとは如何様なものであるか。変わりゆくもの、伝えるもの、それぞれに異なる思いを、ともに考え熱く語ってみたい。

(セミナー当日は時間も限られていたことから、会報では特に補足訂正があればお願いす ることとした。


『基本
日本語
文字
組版』の
メッセージ


逆井克己


当日配布された
レジュメ (PDF
ファイル・40K)

●初めに旧工程ありき


組版に関わるようになりましたそもそものきっかけは、30年前に板橋の志村にある凸版印刷の板橋工場に入社したことです。1969年というのは、凸版印刷板橋工場でコンピュータ組版(CTS)を本格的に始めようというちょうどその年にあたります。私はそんなこと何も知らずに会社に入りましたが、たまたまそういった時期と重なったことから、配属の話がありまして、それ以来、かれこれ30年になる組版との関わりがいまもって続いています。

当時、コンピュータ組版という仕事を新しく始めるにあたって、まず、最初にやりましたことは――これはもちろん上司からの指示ですけれども――当然だけども今までのやり方をそれなりに知っていなきゃだめだよと――これは当然すぎるほど当然だと思います――しばらくの間、コンピュータ化以前の工程、つまり活字による組版の現場と、写真植字の現場と、この二つをしばらくの間、実習という形で実際に仕事をしながら先輩の人達に、どういう考え方でどういうふうにやるんだという基本を教えていただきました。それは、そんなに長い期間ではありませんでしたが、それでもまがりなりにも活字の組版をしばらくの間、それから写真植字をしばらくの間――もちろんこれはまったく何も知らないまま始めたわけですから、その職場の先輩には迷惑をかけてばっかりという過ごし方ですけれども――やってみることができた。今にして思うと非常にラッキーな経験だったと思います。今、新しく組版の仕事を始めようという若い方が、従来の工程を知るために写植もやってみましょう、活字組版もやってみましょうといっても、なかなかそういうチャンスはないと思います。そういった意味では、組版を考える上でこのうえなく幸いなスタートを切ったという次第です。

その後、コンピュータ組版そのものにどっぷりとつかっていくわけなんですが、これは関わりの深い方はよくご存じかと思いますが、凸版印刷のコンピュータ組版というのは、活字組版の考え方をほぼ踏襲してできあがってきています。私の組版についての考え方も、はっきりと活字組版の系統を踏んでいます。ということから、写植で育った方とは時々意見の食い違いも起こるのですが、そうはいいましても基本的には目指すものは同じであろうということで、今日も話をさせていただきます。


●『基本 日本語文字組版』の提案


今日の話の内容は「提案」という形でやらせていただきたいと思っております。つまり、今回書かせていただきました本の説明ではなく、提案なんだと。じゃあ何の提案かということなんですけれど、今回、組版について本を書いてみようというのはある方のすすめがあって手を付けてみたことなんですが、それまでに書きためたものなどが用意してあったにもかかわらず、いざ始めてみるとなかなかまとまらないんですね。自分なりにわかっていたはずのことで、聞かれりゃ答えられる。つまり若い人から「こういうときはどうするんでしょうか」と聞かれれば、それなりに答えることもできる、「やってみろ」と言われればやることもできる。だけども、いざ本にまとめてみようとすると、なんともおさまりが悪い。単に自分の頭が悪いからだと思ってあきらめかけていたんですが、そうは言っても、手がけてしまったものですから、どうにか途中までまとめてみて、いろいろ教えて下さる方もあって気付いたのですが、結局、自分では組版のルールというものについてわかっていたつもりではあるんですけれど、よく考えてみると、なぜなのかがわからない。なぜそういうふうに決まっているのかがわからない。例えば、句読点の後ろは二分空けろと言われても、そういうものだとはなから思いこんでいたけれども、なぜそうするんだと言われると、ちょっと困ってしまう。それから、ルールと言われていることの中にも、そうとばかりは一概には言えない、言い切れないんじゃないかということが結構ある。そんなこともあって、なんやかんやで、いざまとめようとすると本当に四苦八苦してしまいました。

最初は、自分が多少なりとも知っていることを、行組版のルールということでご説明するつもりで書き始めた本なのですが、だんだんだんだん最後の頃になってきますと、もうこれでいいんだなんてものは何もなくなってしまって、最終的に行き着いたところが、「私はいろいろ考えた結果こう思うよ」という形でまとめさせていただくことでまとまりがついたと。こう思う理由についても、わかるところは書きました。残念ながらよくわからないままにしてあるところもあります。それはお読みいただければわかると思うんです。そういう考えから「提案」という形にさせていただきました。

話に入る前に、ひとつ前提として確かめておいていただきたいことがあります。いわゆる二分約物です。例えばこのマルですとかパーレンですとか(図1)、こういった二分約物なんですけれど、フォントデータは多くの場合、このように全角として(図1、左側)、つまり二分約物に続けて、二分の空白を抱き合わせて字形ができあがっていることが多いようです。

ところが、実際の組版における考え方としては、私は、二分約物は二分幅の字形で考えるべきものと、当然思っておりますし、そういう前提で話を進めさせていただきますので、ご了解いただきたいと思います。例をあげると読点の後ろは二分空けるんだよというのは、つまりこの二分幅の読点(図1、右側)の後ろに対して二分空けるのであって、決して二分の空白の抱き合わせからなっている、この全角の後ろに対して二分空けてしまうわけではございません。こういった二分約物は、二分の幅を持った字形であると、そういう前提で話を進めさせていただくこととします。


●行末に関わる、提案の壱……二分約物の調整


まずひとつ目の話題に入ります。資料の1枚目のサンプル1(図2、3)をご覧下さい。右(図2)と左(図3)を比べてみて、何が違うのかといいますと、実は違いますのはこの(2行めと3行めの)行末の読点の後ろが、右側のやつは空けてあります。左側のやつは行末まで揃えてあります。たったこれだけの違いなんですけれども、これだけでもどう書くべきか、結構悩みました。かつての組版の教科書ですとか、あるいは、私などにいろいろ教えて下さった先輩の組版の技術者の方などの説明ですと、これはこの右側(図2)のような形で行末の二分約物は後ろに二分空けて、合計で全角取りとしておくのが普通だよというふうに教わりましたし、実際、書籍などを開きますとこうなっているものが非常に多いと思います。

それに対して左側(図3)のようなやり方では、何が違ってどちらがいいのか。まず、左側のページですと同じところ(行末の読点の位置)が下まで揃えてあります。私なりの考えを申し上げますと、この例のような場合は左側のように下まで揃えたほうがいいのではないかしらと思っています。要するに行末がデコボコなのよりは揃っていたほうがいいのではないかしらという考えです。

さて、それだけの理由で「じゃあ行末は揃えましょう」と本に書いてしまえるかとなると、これまた非常に問題でして、この行末を揃えることによって、当然、文字間を空けて調整することになります。この場合、多分44字詰めだと思いますが、字詰め数がこれくらいありますと、このような調整を施したところで、調整する量というのは非常に少ないですね。例えばこの場合、いちばん右側の行(図3、2行め)では、各字間空けた量はポイントで0.125ポイント、文字サイズの割合でいきますと0.014、ですからわずかといえばわずかで、そんなに気にならない。実際、言われなければ調整されていることに気付かない程度という調整量だとは思います。だからこの場合はいいんじゃないかなと言えるんです。けれども、世の中にはみんな30字詰めとか40字詰めという(字詰め数の多い)ものだけではございません。短いのもあります。

じゃあその短くなったときにどうなんだろうということなんです(図4、5)。今度はぐっと字詰め数が減りまして20字詰めです。20字詰めで例えばこことこの場所(図4、上の段6行め、17行め)、これを先ほどと同じように下まで揃えてしまいますとこうなるわけですが(図5)、今度は先ほどよりも調整量が、当然ですが増えます。どれくらいになっているかといいますと、右側(6行め)のほうで0.32ポイント、文字のサイズの割合でいきますと0.036ぐらいです。またこれも大したことないといえば大したことないかもしれません。

けれども、こちら(17行め)までいきますと、実はこれは1.5倍送っています。なぜ二分ではなくて1.5倍なのかといいますと、次の行の(2文字めの)促音が行頭禁則で送られておりまして、1.5倍の調整量になってしまっています。20字詰めで1.5倍まで調整しますと、調整したことがもうすぐにわかるといいますか、非常に目立ってくるわけです。目立つぐらいどうってことないと言えばそれまでです。けれども、これは特に本を速く読まれる方はお気付きでしょうが、文字間がこれだけ開きますと、読むリズムは狂いますよね。ですから、先ほど言ったような、行末が揃ってきれいだからピタッと揃えたほうがいいという言い切り方をしてしまうと、こういう逆の問題も出てきてしまいます。だから一概に言い切れないんじゃないかということになるわけです。

行末の二分約物の調整ということに関して、私としては両者、つまり、揃えることのメリットと、揃えない、つまり字間を割らないほうのメリットとを考えあわせたとき、やはり大筋としては揃えたほうがいいのではないかなと思っています。ただ、今のようなデメリットもありますので、ちょっと揺れながらも、行末は揃えるほうがいいんじゃないかと本でも書いています。それが私の考え方です。提案のひとつになろうかと思います。


●行末に関わる、提案の弍……ぶら下げ組み


同じく行末の話題を続けてみたいと思います。次の行末の話題は、ぶら下げです。レジュメのサンプル2の上のほう(図6)、この場合もここ(3行めと5行め)でぶら下げが行われています。ぶら下げ組みというのは非常によく行われていますから、改めてご説明するまでもないと思いますが、ここであげましたサンプルは、ぶら下げた位置にある行末の句読点と、ぶら下げが起こらなかった行末との句読点が距離がありすぎるから、これを揃えてみたらというやり方です。会場の皆様の多くの方はご存じだと思いますが、府川さんの『組版原論』に書かれているあのやり方です。府川さんの本に、こういうやり方が成立するのは字詰め数が30字詰め以上あるとき、ちょっと正確な表現は忘れましたけれども、そのように書かれていたと思いますので、このサンプルはちょうどその30字詰めでつくってあります。

これに関しましても、行末の辺りだけ眺めていますと、確かに揃っていないよりは揃っていたほうがきれいだということで、私はやっぱりこれは左側を推すわけですが、先ほどと話は同じで、やはりそのための文字間のアキがある程度以上を超えますと気になり始める。じゃあその境目はどのへんなんだろうということになりますと、難しいですしやはり気持ちの揺れるところ、気持ちは揺れながらも、この考え方(府川方式)に賛成という意味で、私は本の中にもそのように書かせていただきました。

さて、今のこのやり方に関して、もうちょっと字詰めを増やして同じようなことをやってみたのが次の例(図7、8、9)です。これ(図7)がサンプルの書籍『グリム童話集』のオリジナルと同じ組み方です。ぶら下げあり、かつ行末の句読点は全角取りで、最大全角分の距離があるという例です。これを、行末句読点二分取りにしたらどうなるのかというと、画面のほう(図8)をご覧下さい。このような感じになります。

図9は、もうひとつのさらに進めたやり方として、全部ぶら下げ位置まで揃えてしまったらこうなるというものです。これも字詰め数は43字ありますので、このくらいの操作をしてもそんなに文字間の送りは発生していません。ですから、このくらいの字詰めだったら大いに結構じゃないかなと思います。

ただ、そうはいっても、そもそもこういうこと自体が、つまりぶら下げるということ自体が嫌いだということになれば、ぶら下げはやめて且つ行末の句読点は二分取りにする、つまりアキはつくらない、こうなりますと揃っている感じという意味ではいちばん揃っている感じはするかもしれません(図10)。その代わり、当然ですが、これはぶら下げをしていませんから、いくつもの行に調整がかかってきます。

ということで、ぶら下げする/しない、ぶら下げしたときにぶら下げ位置の句読点を揃える/揃えない、行末の句読点を全角取りにする/二分取りにする、この組み合わせをやっているだけでも結構、いろんなことが起こります。行末に関する話題をちょっと続けてみました。

さて、そのぶら下げですが、ぶら下げをすることの効用というのは、もちろんひとつには調整をしなくて済む行が増える。調整をするということは、手間暇の問題はさておき、字間が空いてしまうということがありますのでできればしたくないと考えますと、ぶら下げは大いに使ったほうがよかろうということになります。

じゃあ調整の量を少しでも減らすためにという発想であるならば、例えばサンプルの3枚目(図11)。これは2段組でぶら下げが採用されていまして、調整の回避という意味では、結構、有効に作用しています。これをじゃあそのぶら下げというのは句読点しかやっちゃいけないよと、私もそう思ってきましたし今でもそう思っています。皆さん、多くの方はそうおっしゃると思うのですが、調整の回避というメリットを求めるならば、句読点以外のものをぶら下げてしまうということだってあるんじゃないかと、やってみたのがこれ(図12、下の段12行め)。このような組み方はあまり見かけませんが、句読点以外をぶら下げることによって、この行は調整がかかってきません。ベタのままになっています。

これはとんでもないという意見と、まあいいんじゃないのという意見とあるかと思います。さて私はどう考えるかといいますと、ちょっとこれはぶら下がる約物としては重たすぎるんじゃないかなという気はしています。じゃあ例えばこれが半分までの小カギだったらどうか、あるいは二重引用符――縦書きではノノテンという二本の点々のやつですね――あのくらいのボリュームだったらぶら下がってもそんなにおかしくないんじゃないかと、そういうことも考えられるわけです。もっとも出現の可能性としては句読点のほうが圧倒的に多いでしょうから、そういった約物(二重引用符など)をぶら下げる/ぶら下げないというのはあんまり関係ないのかもしれませんけれども、このカギ括弧について言いますと、少なくともこの行では調整の回避という役割を果たしている。個人的な意見としてはちょっと疑問符付きですが、提案といいますかひとつの考え方として、ぶら下げる約物は「句読点に絶対限る」ということに疑問を持つ方がいらっしゃってもおかしくはないなという意味で、サンプルをつくってみました。


●行頭に関わる、提案の参……行頭のカギ括弧


行末の話題を先にしてしまいましたが、ちょっと話を変えて今度は行頭のほうからひとつ、話題を拾ってみたいと思います。これは岩波書店さんの『図書』からちょっとお借りしてきたもの(図13)で、段落初めの行頭の話題としてちょっと取り上げてみます。ここのカギ括弧で始まっている行(上段、後ろから2行め他)ですが、カギから上が全角アキになっています。これはもとの本のとおりの組み方をしています。文章を読みますと、前後の関係から、会話文ではなくて引用文ということがわかります。いずれにせよ、普通こういう組み方のときには、カギの上を見た目二分アキにすることが多いかと思います。

さて、どっちがいいんだろうという話になるわけですが、この場合はやはり、今、ここでご覧いただいているような見た目全角下がり、内容が引用文でもありますし、これでいいかなと思うんです。では、会話文ならどうだろうというと、レジュメのサンプル3の右側(図11)、これももとの本の組み方そのままで、行頭のカギの上は見た目二分アキです。おそらく小説などで会話文を含む場合は、ほとんどこの組み方になっていると思います。

では、これを先ほどのように見た目全角まで下げてみたらどうなんだろうというのを、レジュメのサンプル4の同じく右側(図14)に置いてみました。これと先ほどの瀬戸内寂聴さんの文章の場合とを見比べてみますと、それぞれにこの場合(図13)は全角がいいであろうし、この場合(図14)はちょっとこれは全角では下がりすぎなのかな、やっぱり普通見られるように、見た目二分下がりがまともなのかなというふうな言い訳をしながらご覧いただいているのですが、なぜこのようなサンプルをお出ししたかといいますと、実は私の本で「段落の初めがカギ括弧の場合は見た目全角下がりがいいと思う」ということを書いているんです。書いているんですけれども、でもこの会話文においてもこれを段落の初めだとすると……ちょっと待ってよと、やっぱり見た目二分下がりのほうが読みやすいんじゃないかなと、自分で書いた本の内容に早くも自分で疑問を呈していると、そういうこともございまして、ちょっと悩ましい材料として持ってきてみました。


●文字間に関わる、提案の四……アキの効用


ほかにも行頭、行末の話題はいくつかありましょうが、次に文字と文字の間のアキに関する話題に移ります。ひとつ二つサンプルを用意してみましたが、まずレジュメのサンプル4の左側(図15)、前のサンプルと同じく『サンクチュアリ』のテキストです。これもひと目ご覧いただければおわかりかと思うのですが、要は句読点、二分約物の後ろを全部ベタベタに詰めてあります。ちっとも空けてありません。
なんでこんなことをやってみたかといいますと、句点の後ろは二分アキですよ、読点の後ろも二分アキですよということで、自分でもそうすべきだと思っていますし、人にもそのように説明しています。じゃあなんでと言われたときに、さてと、答えのひとつ目は、やはり句点や読点それ自体が、あるいはカギ括弧それ自体が二分でできていますから、後ろに二分のスペースを抱き合わせることによって全角になって、その結果、字詰め方式の日本語の組版では調整が回避される。調整しなくていいことが増える。したがって結構であると、そういう都合のよさ、便利さ、ということは当然あるでしょうが、本当にそれだけなのだろうか、調整の手間ということさえ考えなければ詰めてしまっても構わないのかということで、やってみたのがこれです。

いろいろお考えはおありかと思いますが、私はここまで詰められてしまいますと、ちょっと読むのに疲れてしまいます。1ページも読めないのではないかと思います。やっぱり句点や読点の後ろというのはそれなりに空いていてほしい。それはたまたま二分空けることによって調整が回避できるという都合のよさもあるかもしれませんが、それだけではなく、やっぱり空いていてほしいものなのだという、そのことを確認する意味でもつくってみました。

もっともこの組み方は非常に特殊な組み方で、二分約物のところを全部二分にするために、調整をそれ以外の文字のところに全部割り振っているんです。ですから、あんまりやらない組み方とは思います。いずれにしても申し上げたいことは、句点や読点の後ろは空けるというのは、単に全角となって都合がいいからだけではなさそうだなということを、お話ししたかったためのサンプルです。


●文字間に関わる、提案の五……和欧文語間


次に文字と文字との間に関する話題に移ります。レジュメのサンプル2の下のほう(図16)をご覧下さい。和文中に欧文の単語なり、あるいはフレーズなり、センテンスなりを入れるときの字間の空け方を話題にしてみたいと思います。今、見ていただいている部分、つまり和文の文字の並びと欧文との間、いわゆる和欧文語間ですね、これは四分にして、そして欧文のワード間は三分にしましょうというのは、おそらく写植の教科書というか、そういうところでは、多くの場合、そうなっていることだろうと思います。ちなみに私が長いこと付き合っておりましたCTSの世界、さらにその前の活字組版の世界では、少なくとも凸版の板橋工場の活字組版では、和欧文語間は二分でした。欧文の両脇は二分、ワード間は三分でした。両方の考え方がありますが、どちらを取るかというと、バランスの問題として、私は、和欧文語間は四分のほうを取りたかったものですから、こちらを出しています。

さて、それだけではありません。やっぱりこの本を書いているときにさる方から提起された問題ですが、欧文の語間というのはその書体ごとに最適値なり推奨値なり、要するにそのデザイン上の最適値が設定されているもので、それをまったく無視して一律に三分もなかろうという問題提起です。しかも、これは基本の置き方としても、こういう欧文などが入りますと行末に半端が生じる可能性は常にありますから、たいてい調整がかかります。調整がかかりますと、こういう場合には、欧文の語間と和欧文語間に優先的に割り振るというのが普通のやり方ですから、三分よりさらに広がってしまう。となると、ちょっと空きすぎになることが多いんじゃないかなという懸念です。

次に、その話の補足として用意しましたこのサンプル(図16の中)は、これは要するに普通に欧文組版で行われているワードスペーシングの雰囲気を組んでみたのですが、これはいちばん上の行のワード間が、全角比でいいまして26%、約四分です。次の行が22%、四分より狭いですね。次の行が調整がかかってこれは39%ぐらい空いています。次の行もやっぱり調整がかかって37%ぐらい空いています。最後はやっぱり四分くらいです。

ということで、このくらいが普通のワードスペーシングだとすると、先ほどのようなやり方で、同じ書体についてやってみたのですが、こういう教科書どおりのアキの取り方をしていますと、結果的には相当に空きすぎになる可能性が高いのかなと思います。とは言いつつも、多くの場合はこういうやり方で組まれているようです。

次に全然見当違いのサンプル(図16の下)をひとつあげてみました。和欧文語間を全然空けない、あるいはほとんど空けない組み方というのは、最近では少なくなってきたのかもしれませんが、DTPが出始めた頃から結構あるもので、これだけはちょっとあんばいが悪いからやめましょうよねというひとつのお願いとして用意しましたサンプルです。和文と欧文の語間を空けない、それでいながら欧文のワード間を空けているというのは変な話で、かといって欧文のワード間を詰めてしまうわけにはいきませんから、(和欧文間を)少しは空けるものだと。少しは空けるものだと考えれば、どのくらいの量を空けるのが適当か異論はあるいにしろ、せめてこのくらい(四分)は空けてほしいなということになろうかと思います。

さて、こういうアキに関するルールといいますか、やり方をご紹介した後で、実際にやろうとすると結構、難しいこともありますよねということで、用意しましたのは、ある英語の参考書から抜き出してきたもの(図17)です。元は写植で組まれていまして、先ほど申し上げた写植の教科書どおりとでもいいますか、ワード間三分、和文文字と欧文のワードの間は二分という組み方がされています。

さて、問題はこういうところ(欧文単語の後ろにカギが続く)です。カギも含めてそれ以降を和文の並びと考えると、この「y」と「カギ」の間は四分かということになりますが、やっぱりそれでは具合が悪いわけで、この場合はカギ括弧の前としての二分アキのほうが優先されると思います。このように、いざやろうとすると、結構、難しい問題も出てくるのですが、欧文を組むときのワード間、それから日本語の文字の並びとの間のアキ、これを考えますと、いろいろありそうです。

話だけで恐縮なんですが、最近、見た本で『日本薬局方』という薬の基本的な成分に関する法律みたいな本がありますけれども、あれを見ていましたら、数値とか単位記号付きの数値とかはたくさん出てきます。あるいは欧文の単語のようなものもたくさん出てきますが、和欧文間をものすごく空けています。それはおそらく数量とか単位記号とかを誤って読み取ることがないようにという配慮だろうと思うんです。そういう特殊な場合の特殊な組み方もあります。和欧文語間あるいは欧文語間ということに関して考えますと、これもまた結構考えるネタになるのかなという話です。


●調整に関わる、提案の六……広域調整のスヽメ


次に調整ということに関して述べてみたいと思います。画面でご覧いただいていますサンプル(図18)ですが、これはいちばん右側の例を、1行めの行末の読点をぶら下げせずに調整するとした場合、どう調整するかということで、考えられる3通りのやり方をあげてみました。大して変わらないように見えるかもしれませんが、例えばこのあたり(1行めのthe time when)の位置のズレを見ていただけると、それぞれの違いがおわかりいただけると思います。

簡単にその違いをご説明します。この場合(右から二つめ)の調整は調整可能量を、まず欧文の語間にめいっぱいまで割り振って二分まで広げ、それでも足りないので和欧文の語間にめいっぱいまで割り振って、それでも足りない残りを和文の文字間に振っているというやり方をしています。つまり字間を調整するときの優先順位にしたがって、優先順位の高いほうから順次、割り振っていっているという、優先順位に基づいた方式です。

次のこの左から二番目のやつは、調整可能な文字間、つまり和文の文字間も含めて全部均等に割り振っています。

次に、いちばん左側は、そのどれでもなく、調整可能な文字間、つまり欧文のワード間、それから和欧文のアキ、それから和文の文字の間でそれぞれに優先順位の高いものほど多くの調整量を割り当てて割り振っていく。つまりこの場合は、欧文の語間により多くの量を割り振る。和欧文語間に少し割り振る。そして和文の文字間にもほんの少しだけ割り振るという、そういう優先順位に応じた割合で割り振っています。同じ優先順位に基づく方式であっても、はじめにあげたのは、割り振れるところにまず100%割り振ってしまうというやり方で、今ご紹介したのは、調整必要量を調整可能な箇所にその優先順位に応じて割り振っていくというやり方です。按分による方式ということになるかと思うのですが、これも詳しい議論は後回しにして私なりの意見を申し上げますと、私はこの最後の方式がいいであろうと思っています。ただこの方式をとっているレイアウトソフトとか組版システムはあまりお目にかからないのですが、私はこれがいいかと思います。

調整に関する話題をあとひとつ、二つ述べたいと思います。サンプル5の下のほう(図19)になりますが、行末の調整ということをやるときに、追い込みによる調整と追い出しによる調整とがあると思うのですが、追い込みによって調整ということに関して、私は少なくとも――その長い文章、読む文章ですね――本文テキストにおいては追い込みはあまりやってほしくないという考え方を持っています。いろいろ理由はあるのですが、その中のひとつとして、例えば追い込み処理の破綻とでもいうのでしょうか、追い込みをやってみた結果、次の行はとても追い込みができなくなってしまった、逆に追い出しになってしまったという場合があります。これはこの行(図19、3行め)は追い込んでみたのですが、その結果として次の行は追い込みができなくて追い出しになってしまっています。それよりは、全体を追い出しにしてしまったほう(図19、左)がはるかに落ち着くのではないかというのがこのサンプルでおわかりいただけると思います。

サンプル資料のご説明を続けさせていただきます。サンプル6の上のほう(図20)ですが、これは調整に関する私の考え方のひとつを紹介したもので、広域調整という考え方です。どういうことかというと、その行だけで調整しようと思って割り振っていくと、字間の調整量が非常に多くなってしまうことがあります。画面でごらんいただいている例(図20、右)では、4行目がそれにあたりますが、これはここ(5行め)の句点とカギとの関係で1.5倍送っています。だけどその1.5倍をここ(4行め)だけで送ってしまいますとすごく空いてしまう。そうではなく、こっちのほう(2行め)にも調整を割り振ってみたらどうかというのがこのサンプルです。必要な調整量を一カ所に、その行だけに割り振るのではなく、前後の目立たない行にも少し受け持ってもらうという調整の仕方もありますねと、そういう考え方の調整方法のご紹介です。

次にサンプル6の下のほう(図21)ですが、これは、最後の行が1文字で終わってしまう行をつくりたくないということがあるとしたら、実際、つくりたくないと思いますが、とするとその段落の終わりのほうの数行に分けて調整を施して、何文字分かを確保するという組み方も勧められるのではないでしょうかというものです。これも提案のひとつですが、あまり普通には行われていないと思います。実際、組版の段階だけではなかなか難しいこともあって、編集あるいはデザインの側との了解の問題などもありますし、簡単にはできないとは思うのですが、もう少し日本語の組版においても採用されていいのではないかなと、そういう例として用意しました。

最後のサンプルの7(図22、23)は、横組みにおけるテン、マルの話です。説明は省略させていただきます。

以上ですが、後ろのほうが少し飛ばし気味になりましたことをお詫びしておきます。後ほど、不明点等ございましたらお聞きいただく時間はございますので、よろしくお願いいたします。どうも、ありがとうございました。


ベーシック
な共通
ルールを

深沢英次

僕はいくつかの雑誌の編集部で、DTPやネットワークの設定、編集環境全般のハードやソフトの選択、データの受け渡しなどのルールづくりに関わっています。その中で、編集者やデザイナーと一緒に文字組みのルールづくりをするときに、いつも感じていることがあります。

今回、この逆井さんの本を読ませていただいて最初に感じたのは、今まで僕らが文字を組むときにやろうとしていたことを、すごくロジカルに書いてくれたなということです。今まで、こういう文字組みはきれいでこれは汚いというのは、経験則からくるイメージとしてしか持っていませんでした。それがなぜなのかということをきちんと説明し、明文化した本は、おそらく今までなかったと思うのです。そういう意味では、必読の書ではないでしょうか。

ただ、この本はマニュアルとしてはすごくいいんですけれども、DTPの作業者が日常的に立ち返るための一般的なルールとしては難し過ぎるかなとも思いました。DTPになってから文字組みが汚くなったとよく言われます。僕らはどちらかというとDTPを広げてきた人間なんで、DTPによって文字組みが汚くなったとしたら、それは、今まで文字をきれいに組んできた人に対しても申し訳ないなと思うし、なぜDTPだと文字組みがきれいにできないのかを、もっとよく考える必要があると思っています。

それは、やはり基本的なルールをみんな知らないでやっているということが、当然その理由としてあるのでしょう。けれども、これを読ませてもらって思ったんですが、これだけのルールをすべてきちんと覚え、守れるという人って、実際にはあんまりいないんじゃないかと思うんです。

僕らが普段目にしている雑誌であるとか新聞であるとか書籍など、エディトリアルでは最近確かに質が落ちたものを目にします。それは簡単に言ってしまえば、とにかくQuarkXPressでざっと流し込んでそのまま出力してしまう、当然QuarkXPressのデフォルトのままの組み方になってしまうからです。これでは文字をきれいに組めるわけがない。本当は何カ所かちょっと手を入れるだけでかなり違うんですけれども、それすら行われていないのですね。

このような事態を解決するためには、もっと基本的なルール、つまりこの本よりももっと簡単なルールが必要だと思います。例えば見開きのルール一覧表のような、そんなのがほしいですね。編集者やデザイナーが、モニターの横にちょっと貼っておける、それくらいのものにまでなってほしいなと思うんです。

もちろん、そのベーシックなルールをどう展開していくのかというのは、別に考えていく必要があります。組み方に関する好き嫌いとか、自分はこっちのほうが読みやすい、読みにくいという話になるのであれば、それはいろんな考え方があっていいと思うんです。基本的なルールがあっても、編集者やデザイナーの考えで、ある程度それを壊す部分というのは出てきてもいいような気がします。

それを、じゃあ今度は実作業の中で誰がやるのかという話も考えていく必要がありますね。今まで文字組みというのは写植屋さんがやっていたし、その前は編集の方がだいたい文字組みの監督をしていたわけです。レイアウトも編集者がやっていた。しかし、エディトリアルや広告に関して言えば、今はほとんどデザイナーがやっているところが多いんじゃないですか。

では、デザイナーの文字組みの意識はどうなのか。ある雑誌のアートディレクターに「どういう文字組みしたいの?」と聞いたら、「いや、とにかく1歯ヅメだったらいいんだ」と言うんですよ。1歯ヅメだったらいいんだってことはないだろうと思ったんですが、とにかく彼の意識としては、広告はツメツメ、書籍や雑誌は1歯ヅメ、それ以上のことは何も要求していないし考えてもいない。

「なんで1歯ヅメがいいの?」っていう話になっちゃうと、わからないし答えられない人がかなりいますね。読みやすい、あるいは読みにくい文字組みというものを、もう少し自分の経験値の中とか、今までの歴史の中から学んできて、それをじゃあ自分はどう守るのか、それとも壊すのかというような意識を、デザイナーの人には持ってもらいたいと思います。

また、編集者のほうも今は、デザイナーにフロッピーをポンと渡すか、メールで送ればそれで自分の仕事はおしまい、後はゲラが出てくるのを待つだけという人がすごく多いんですね。文字組みというのは、本当は編集者が原稿の段階からコントロールしないとどうしようもないんです。

原稿の中に英数字がたくさん出てくるのを、縦組で組めということ自体に、本当は無理があるのです。縦の文字の中に欧文が横で組まれるというのは、どう考えたってこれは不自然で、読みやすいものじゃないですね。文字の本来のあり方から行っても、特殊なものではないでしょうか。まあ仕方ないといえばたしかに仕方ないんですが、それをなんとかする工夫を原稿の段階でできなかったのか、例えば同じ意味を伝えるのにそれを抜き出すとかカタカナにするとかは、本当は編集者や文章を書く人間がもう一度考えなくてはならないことだと思うんです。

例えば昔は、原稿用紙で縦書きで書いていたものを縦組で組むということが、流れとしてありました。けれども今は、ワープロで横書きで書かれているものがほとんどで、それを縦に組むということ自体でまず一つ、ハードルが出てきちゃうわけです。そういう縦なのか横なのかという発想も含めて、オーソドックスなものを越えた、もっと本当の意味での新時代の組版ルール、というものがそろそろ生まれてきてもいいんじゃないかなという気がしています。

今の若いデザイナーは、ちょっと前だったら考えつかなかったような、例えばMB31かなんかで本文を組んじゃうとか、そういうことを結構やっちゃうわけです。で、それは、昔のオーソドックスな文字組みに慣れた人にとっては、とんでもないことなのですが、若い層からは結構それが受け入れられたりしているわけですね。僕はそれはそれでもいいと思うんです。読みやすいか読みにくいはちょっと別としても、そのほうがカッコいいとか、あるいはそのほうがおもしろいとかっていう世界というのは、実際にあると思うんです。
けれども今は、そういう世界ときちんとした文字組みのルールの世界が、あまりにも乖離しすぎちゃっている。文字組みを気にする人は、この本にあるような非常にオーソドックスで厳密なルールしか認めないし、あまり気にしない人はもう読むに耐えないようなものを作ったりしている。

それをもう少し、DTPや編集やデザインなどの現場の人間がみんなで話し合って、もっと簡単なルールを理解することから意思統一していこうというのが、いつも僕の思っていることなんです。アバンギャルドに文字組みを壊したいのなら、ベーシックなものを理解した上で壊して欲しい。そうすればきっと、新しい時代の文字組みが生まれてくるのではないでしょうか。今回この本を読んで、その思いを新たにしました。 NORA.Inc, (http://www.nora.co.jp/)


新しい
決まりを
つくろう

祖父江慎


この頃、フロッピーによってテキストを受け取って、デザイナーがそれをQuarkXPressなりIllustratorなりで流し込んで、という形が増えてきています。けれども、受け取った元のフロッピー自身に、(仕上がりは縦組なのに)縦組には使ってはいけない記号がかなり含まれてきている、というようなことがよくあります。

そのとき、例えば二重引用符を縦に組んだときにノノカギに自動的に切り替えることもできません。それで、フロッピーでもらった横組をベースとした原稿を、縦に置き直すときに実際に置き直せなかったりするわけです。そこでデザイナーが苦労したり、そのまま投げやりに流れるままに入れたりすることもあるんです。実際、デザイナーや編集者、ライターさんのほうで、日本語の組みというものに対してちゃんと考えていないことが多いんです。そこで、きちんと基準を設けないことにはまずいと思っています。

ひとつには(約物等の)呼び名の問題があります。たとえばこの本の中では、縦組用の二重引用符を「ノノカギ」というふうに呼んでいますが、この呼び名は、実はここで初めて目にして知りました。人によって、出版社によって、印刷所によって、あるいはデザイナーによって、いろんな呼び方があるんですよ。ですから、これを「ノノカギにして下さい」とか言われても、実際には何を指すのかがよくわからなかったりすると思います。いろんな呼び方というのは、それはそれで味わい深いものではありますけれども、いざ仕事として組んでみると、本当にこれでいいんだろうかという不安がどんどん出てきます。まず、呼び名を統一してあげたほうがいいのではないかというふうに思いました。

その他いろいろと気になることは多いんですけれども、たとえば本文のパーレンを半角で使いたいというところで、テキストを受け取ると1バイトパーレンが打ち込まれていたりするんですね。これは、そのままテキストを流してしまうと、パーレンのベースラインが下がってしまいます。そこで一度、その1バイトパーレンを2バイトパーレンに変換し、さらにカーニングでマイナス500掛けるなり、あるいは組版システムによっては自動詰めをするなりで詰めていく。ところが、自動詰めになりますと、句読点まで半角がかかってしまって逆に読みにくくなるので、今度は句読点については、詰めではなく全角のものを入れてあげる、とかいうことも多く起こってきますね。

ところで私は、「1バイト文字」「2バイト文字」という言葉を定着させるのがいいかなと思っています。例えば、文字は半角なのか全角なのかと聞かれたときに、半角といっても英語書体としての文字のことを指して言っているのか、それとも和文の文字だけれども半角扱いするのか、どちらにも取れます。ですから、これからはもう半角、全角というのは処理の仕方を呼ぶこととし、テキストのベースとしては1バイト文字、2バイト文字というのを定着させておいてほしいと思っています。

さて、次の提案のほうに行きますけれども、日本語の組み方はいろんなケースによっていろんな組み方が可能です。これはよくないというものもあるけれども、一概にだめというわけでもなかったり、いろいろありすぎるんですよね。それで、例えば組み方の指定をする場合にデザイナー側で記入すること、つまりカギはテンツキにするのか、ルビはカタツキにするかナカツキにするか、ルビ中の促拗音は大きい文字を使うか使わないか、ルビの付き方は教科書的に文字の横においた3字ルビもありか2字ルビのみか、ぶら下げはありかなしか、見出しの後に1行しか来ないのはありかなしか等々、1冊の本をつくるにあたって指定をすることがあまりにも多すぎて、とても効率が悪い。だいたい使うもののベースは決まっていたりするんですが、初めての相手の場合には、それをもう一回書き直さないといけない。そうすると、指定だけで何ページにもわたってしまいますし、読む側も大変です。

ですから、先ほど(深沢さんが)おっしゃっていたように、もう少し簡単に基準というものをひとつ用意して、特に指定がないときはこの組み方で行く、というルールをつくってあげることが大切なことじゃないかなと思います。でなければ、例えばDTPの出力センターに出すときのチェックシートと似たような形で、この組みのルビはこういう形態、追い出しをするか追い込みをするか、パーレン内は下げるか下げないか、というようなことを記入するフォームをつくって渡す。そういう純粋化を目指していただければと思っています。

それから、正しい組み方というのはありますし、活字自体の正しい組み方というのは、基本的にきれいで大切なことだと思います。けれども、実際に活字だったからあえてこれもいいとしたという組み方、例えば縦組でパーレン内縮小されたときに、センターで揃えずに右に寄せるというような、現在となってはあまり意味のないルールというのは、基本的にはもうはずしていってしまってもいいのではないかと思っています。

それから、(横組ではカンマ、ピリオドが基本とされていることが)よくないということではないんですけれども、ちょっと覚えることが多くなりすぎてしまいますので、もう横組は基本的にはテン、マルで行く。カンマ、ピリオドというのは、特にそういうことが必要なことのみにするというのがいいと思います。あと、大カギ、小カギが混合するというのも大カギ、小カギというのは書体に依存するものとして、大カギの中に小カギを使うというのは、もうなくしちゃってもいいと思います。また、縦組のときのいちばん最初の1字下げはなくてもいいというルールはなくてもいいんじゃないか、というふうに思っています。

更に、今までは横組でないと使ってはいけないとされているコロンとかスラッシュ、波ダーシ、あと特によく問題となる二重引用符、これらはもう縦組に入れちゃってもいいのではないかと思います。日本語にアラビア数字が縦に入るのをOKとしたように、縦にコロンが入るとか、二重引用符が入るということにはOKを出さないと、これから先たいへん困ったことになっていくのではないかと思っています。

あと、同の字点――人々の「々」という字――ですが、これが文頭に来たときには使ってはいけないというルールもいらないと思いますし、促拗音、音引きについては、もう文頭でもありとしてよいと思います。そうしないと、だんだんややこしいことが起こってくるんじゃないでしょうか。

最後に、この本についてひとつ残念に思うことがあります。それは、日本語の中に英語が来たとき、例えばNHK、OLとなったときに、横に倒さずに縦になった場合の組み方というのがあまり書かれていないんですね。欧文が横倒しせずに和文と組まれたときに、どうすればきれいに組めるか。レジュメの12ページの下のほうに例題が書いてあるのですが、最近ではこのようにお店の名前とか固有名詞に横組記号がかなり入ってきます。これを、どう日本語で縦組としてきれいに読ませるかというのも、これからの大きいテーマなのではないかと思っています。


見てくれ
よりも
中身


西井一夫

ぼくは編集者というのは、わかりやすい例で言うと、映画を制作するにあたっての監督、あるいはオーケストラにおける指揮者とほぼ同様の職業だというふうに考えています。映画の制作で言うと、監督がいてその周囲にカメラマンとか録音、照明、美術等々の、いわゆる専門的な技術者というのが職人的にくっついて、映画をつくっていくというシステムがとられています。雑誌だとか出版物をつくる場合の関係というのも、私の考えの中では基本的にはそれが原則だと思っています。

したがって、さきほど深沢さんも言われたように、どういう本にするのか、あるいはどういう雑誌にするのかということを決定づけていく、ページ立ての問題とかページのあり方の問題、細かく言えばそのページをどういう写真とどういう文章でつくり上げるか、その見出しはどういう見出しになるか、見出しの内容とその内容に合った字体あるいは大きさ、本文の書体、何段組みにする何字詰めにする、横組か縦組かというようなごく細かいことまで含めて、編集者の基本的な仕事だと思っています。

ただ、そういう編集のあり方というのは、ぼくの働いてきた場所では、1970年代ぐらいでほぼ終わった形態です。現実には、1980年代以降、そういうふうに編集者が出版物を制作していく全過程を管理するというような形態は、ほとんど壊れました。現在時点では、うちの出版局の編集者の大半は、本ができる全行程を知りません。紙の選択であるとかいうようなことは、ほとんどまったくできないというのが、情けないことに編集者の普通になってきています。その分、おそらくデザイナーの役割が拡大したのだろうというふうに想像しています。

そういう意味で、先ほどの逆井さんの提案を聞いていて、非常に気になっていることがあります。ひとつは、見た目でどうかという形で判断されている感じが非常に強い。編集者としての私の立場からいくと、見た目でどうかというのは、はっきり言えば単なる見てくれに過ぎないのであって、ほとんどどうでもいいことです。問題は中身しかないので、要するに中身がきちっと伝わるということが原則で、見た目がいいか悪いかなんていうことは、基本的にはほとんどどうでもいいことだと私は思っています。

もちろん、デザイナーあるいは編集以外の技術で出版に関わるほうにとっては、それが逆である可能性はありますけれども、私の立場からいけば、見てくれではなくて中身が問題です。要するにどんな原稿でも載りゃあいいというものではなくて、きれいに組んであればどんなくだらない文章でもよい、というようなことはありません。要するに文章が問題です。

ですから、組版例をいろいろあげられておりましたけれども、あそこで非常に単純に疑問に思うのは、サンプルは何でもいいのかということなんです。要するに下付きであるとかあるいはぶら下がりの問題にしても、会話のときと引用のときと印象が違うと言われましたけれども、それが示しているように、まさしく文章の流れあるいは文章の中身が、それのどちらがいいかというものを決めていくのであって、見てくれではないというふうに私は思います。

したがって、デザイナーの方にたまたまありがちなことだと思いますが、文章をまったく読んでなくて、文章の量とか見出しとか、単純に受けた印象だけで何かを決めていくというようなことは、それは基本的にはやっぱり間違いだと思います。自分がデザインする内容、そこに書かれている文章は何を言っているのか、ということをちゃんと読まないでデザインしても、見てくれだけのものになっていくだろうという感じがします。

だから非常に乱暴な言い方をすれば、下付きだろうがぶら下がりだろうが、そんなことはどうでもいいんです。要するに書かれた文章が正確に読む側に伝われば、私はそれで十分だと思います。

また、パブリッシャーとしての編集者という立場に立てば、出来る限りページを節約したいということもはっきり言ってあります。したがって、さきほどの例にあったように、最後の行に1字だけ残ってしまうことをさけるために、引きのばして字数を増やすというようなことは、そういう観点から私は反対です。私なら、単純にどこかで1字削ってしまうか、句読点をどこか1個取ってしまいます。それで1字出っ張ったものを元に納めて、1行でもかせぐという処理をするはずです。

ところで、最近問題とされているような事態というのは、やはり原稿をデジタルで入力する、渡す、というようなことが始まってから起こってきたことだと思われます。FAXの時代にはそういう問題ではなかったはずです。要するに、いろんな細かい約束事が起こってくるという基本は、デジタル入力をするようになったことから派生していると思われます。

それで、フロッピーで入稿された場合に非常にばらつきが多い。作家が自分の書きたいことを書きたいように書いているわけですから、これは当たり前のことです。決まった細かい約束に従って書いているわけじゃないんです。昔の書き原稿の場合であれば、ほとんど読めないような字で書いてくる作家の原稿も含めて、全部容認していたわけですね。それで、編集の側でそれを書き直すなり何なりした上で、オペレーターというか印刷所に渡すという作業を当然していたわけです。

ところが、フロッピー入力をさせるという動きの中で、昔はまったくほとんど要求されていなかった細かい原則、あるいはほとんど嫌がらせとしか思えないような細則を、書く側に守らせようとするようになったわけです。そこに、基本的には無理があると思うんです。そういう意味でぼくは、文字コードの問題も、作家の側にその辺の感情的な問題がかなりあるんだと思うんです。東大明朝の方に、なぜだか勝手に作家が大量にくっついてキャンペーンをするというような背景には、そういうことがあると思うんです。

作家にとっては、どういう記号を使ってどういうふうに書くかというようなことは、ほとんど興味のないことです。どうでもいいことなんです。要するに、自分の書きたいことを書きたいように書くのがいちばんいいのです。ですから、細かいことをあんまり気にしないほうが好きな人は、デジタル入力を拒否したらいいんです。「手書き原稿以外は絶対に私は出さない」というふうにすれば、フロッピー入稿などとは違って、そこには細かい約束事はあんまりありません。そういうふうにすればいいのだと思います。

ただそれは作家の側の問題であって、編集者の問題とはまた別です。編集者としては、作家にデジタル入力してもらったほうが確かに簡単で楽です。何か間違いがあっても最後には、向こうが間違って打ってきたことですからこちらの知ったことではありません、というふうに言えますから。しかし、文章を書く人間としては、デジタル入力の細かい規則というものは、ナチスドイツのときにナチスがユダヤ人に要求したような、もうわずらわしいくらいの細かい規則に非常によく似た感じを受けます。そういう意味で、私は書き手としてはフロッピー入力等に反対ですが、編集者としてはそのほうがありがたいというようなところもあります。

最後に、直接逆井さんの本に対する意見です。先ほどの説明の中でも、こちらのほうがいいんだけれども、こういうことが出てきた場合はこうだという、断定することへのためらいが割合目立ちます。けれども、私の考えでは、こういう本はマニュアルであり、細則を決定する上での原本になるものだと思われます。そういう意味では、いろんなためらいをはねのけて、これで行くんだという、ひとつの細則としての原則を決定づけないと、役に立たないんじゃないかと思います。あれもあるしこれもあるという書き方は、なんか雰囲気として民主主義的な感じがしてよいように思われるでしょう。けれどもぼくは、反発を買ったりこれじゃだめだというような意見が出ても、ひとつの原則を打ち立てるということに、こういう本の意味があると思います。


組版は
世につれ......

太等信行


この「日本語の文字と組版を考える会」のセミナーには最初から参加させていただいておりますが、たまたま、会報の9号に私の短い文章があって、この会の活動についての意見を述べています。短いものですが、さらに要約して言いますと、組版というのが、かつては植字工とか文選工とか写植オペレーターとか、非常に限られた人の技芸であったものから、現在はワープロ、DTPソフト等々で、誰にでもできる技能になってきた、このことを確認する必要があるということです。

たしかに、最近の組版の乱れということをモチーフにして、この会が活動を始めたということがあると思います。けれども私は、みんなが誰もが組版ができる時代になったんだという、そういう積極的なとらえ方が必要なんじゃないかと思います。そうすると、まるっきりの素人さんが始めるわけですから、乱れるのが当たり前じゃないか、いいことではない、けれども当然のこと、というように受け止められるんじゃないかと思います。

それから、我々が組版について読みやすさとか美しさとか言ってきたようなことは、本当に根拠があることなのか。もっとしっかりと研究するなり、とらえ直す必要があるんじゃないかとということを思います。

また、組版というものを、紙の上の本とか雑誌の上のことだけではなく、インターネットとか電子出版も含めた、今進行している大きなメディア革命の中で、とらえ直す必要があるのではないかということです。以上のようなことを9号の会報に載せていただきました。

さて、きょうは、逆井さんの本をたたき台にということですが、この本はとても心地よいと思いました。それはやはり、実例が示してあって、読者が比較できるという点ですね。実例をたくさんサンプルとして取り出さないと、しっかりした組版ルールもできないということがありますし、そういう点でいいと思います。

お終いのほうに「文中のパーレンについて」というようなところがありますが、今、私も非常に悩んでいるというか、仕事上、しょっちゅう訂正が入って困っています。欧文を囲むパーレンは欧文のフォント、和文を囲む場合には和文のフォントという規則を立ててもいいんですけれども、混在してくるとやっぱり悩むことがあるんですね。そういうときにこの逆井さんは「きちっと方針を立てて一貫することが大切だ」というふうなまとめ方なんですが、たしかにそういうことしかないんじゃないかと思います。私はやはり、ルールといっても、どちらかに固定してしまうというよりは、むしろ一貫しているということのほうが大事なような気がします。

それからウィドウとオーファンというのが出てきますが、二十数年やってきたなかで、ウィドウ、オーファンのことで指摘されたことがないんですね。まあ、そういう仕事しかやってこなかっていうか、英文なんかは少なかったということもあります。それで私は、ウィドウ、オーファンのことよりも、むしろ、たとえばこの本の94ページの最終行のような、1文字と句点だけの行が気になります。私の場合で言うと、こういうのは、しっかりお金をもらっているような仕事の場合は、どうにか処理してあげるというようなことをすると思います。結構、行長が長いので処理も可能なんじゃないでしょうか。

ところで、写植からDTPに移ると本当にびっくりすることがあります。電算写植の場合は、まず文字のサイズがあって、これを何字詰めで行間がいくつ、1段が何行でそれで2段組みあるいは3段組みと、そういうふうに、まず版面をきちっと決めるところから始めます。ところが、QuarkXPressやなんかはいきなりマージンから攻めていきますよね。これはコペルニクス的展開とまでは言わないですけれど、まったく逆の発想であることにまず本当に驚きました。

電算写植の場合、きちっと行取りを決めて、見出しや何かも2行見出し、3行見出しときっちりやっていきます。そういう機能も最初から持っています。これにはやはり、活版のときに行がページの表と裏でずれていると、裏の紙の圧力が行間に出てきてしまって見づらい、だからどうしても裏と表の行がぴったり一致していなければならない、そういうことがあったと思うんです。だから活版なのかオフセットなのか、それから手動で組むのかコンピュータで組むのか、そういった印刷所の技術や方法によっても、組版ルールというのはやはり変わっていかざるをえないのではないかと思います。

さて戻りますが、行組版に限定した本だとすれば、見出しとか箇条書きとかについても少し触れてほしかったな、というのが読んだ感想です。ぼくらが写植を始めたときには、まず『組版ルールブック』というのがありました。これはたぶん、業界でつくったものだと思います。また、後に写研が『組みNOW』という、やはりルールブックのようなものを出しましたが、そういうものを参照しながらやってきたんです。けれども、今、そういうものが絶版でまったくないそうです。本屋さんに行っても、逆井さんの本とか府川さんの本とか、あとはエディタースクールの本くらいですね。きょう、案内でJAGATからそういう本が出るということを知りましたが、いずれにしても、これだけの印刷物が出ているわりに、そういった本が非常に少ない。これはやはり、問題と言えば問題だと思います。それが乱れているというか教科書がないということなので、やはりきっちりと英知を集めて、Chicago Manualのような、ああいう常に立ち返ることのできる教科書というかルールブック、をつくる必要があるのではないかと思います。

そして、いま求められているのは、ただ文字を入力すれば、そういうルールに準拠してきちっと組み上がるという仕組みです。全人民に解放された組版ということからすると、すべての人がまず『組版ルールブック』を読まなければきれいに組めない、というようなことはちょっとおかしいんじゃないかと思うんです。ですから私は、組版ルールというのは、今やオペレーターの問題ではなくてアプリケーションの問題だと思います。きっちりした、しっかりしたアプリケーションがあればきれいに組める、というふうになってほしいと思っています。

それから、前回ここでやったT-timeというのを購入したのですが、もう今はすっかり、何か文章を読もうというときにはT-timeを開いて見ているんです。文字もデフォルトのものよりちょっと大きめにして、地をクリーム色にして、文字の色をセピア色にしてというふうに、自分でカスタマイズして文章を読みます。そこでは自動的に組版されるわけです。字詰めにしても文字の大きさにしても、設定すれば自動的にできるわけです。今後そういうことが増えていくのではないか、データというものが独立して提供されて、それをどう読むか、それをどう利用するかは読者、ユーザーの選択権、という時代になってきていると思うんです。つまり、データはデータで独立している、それをどのように楽しむのかは最終ユーザーの側が勝手に選択できる、そういうことが進行しているんじゃないかなと思います。T-timeもそうですし、WWWのホームページでもそうだろうというふうに思います。

また、たとえば図書館に大活字本が置いてあるように、大きい文字で読みたいという要求もあると思います。そういう要求を満たす意味でも、データとそれを組版するということが分離してきたことは非常にいいことです。

最後に、この会に対する要望として、なんとか標準フォーマットというようなものを提唱してほしいということがあります。いろんな仕事をしていると、フロッピー原稿にしてもそうなんですが、もう原稿がばらばらです。手書きのものですと、400字詰原稿用紙何枚というような標準があります。けれども、デジタル化したものではそういうことがバラバラなんですね。これは非常に非効率ですから、例えばA4で10ポで何々と決めちゃって、一太郎で打ってもWordで打ってもQuarkXPressで打っても、とにかく標準フォーマットというものがあって、そのフォーマットとかスタイルシートのようなものに準拠すれば、標準的にきれいに組み上がるというような、そういう制度を設けたらどうかというのが私の希望としてあります。 そのようなフォーマットをネット上で大量に配布しておけば、文書として揃ってきますので、編集者とか出版側にとっては非常に便利になるのではないでしょうか。「何字詰め」とかいうかわりに、「標準フォーマットで何枚以内」というような指定ができるようになります。そういうことは、この会の運動としてやってもいいことじゃないかなという気はしています。以上、とりとめのないことでしたけど、どうもありがとうございました。

補遺
コメントできなかった点とうまく説明できなかった点をいくつか補足させていただきます。
その1
ウィドウとオーファンのところで、この言い方が適切であろうかという、逆井さんの提起に、「一字ぽっち」「一語ぽっち」「一行ぽっち」あるいは「行別れ」という用語を提案します。
その2
組版されるべきデータが、組版仕様のデータと独立して提供される可能性について少し述べましたが、イメ−ジとしてはHTMLデータやTeXデータが流通するようなことです。読者は、ブラウザをカスタマイズしたり、自分のお気に入りのスタイルファイルで組版して読むことになります。これを「リーダー(読者)・オリエンテッドな(指向の)組版」と私は勝手に名づけています。
その3
逆井さんの本が行組版に限定していることに不満感・不足感を覚えられる方もあろうかと思いますが、「読者指向の組版」ではページ組版はブラウザやスタイルファイルが担当するので、実は行組版規則こそが命となるわけです。つまり、多段組や、図版と本文のリンクなどページ組版の要求する複雑さに耐え得る行組版規則がますます求められることになると思います。
その4
活版印刷の時代には植字工が、写植ではオペレーターが組版の一切を引き受けていました。そして私は、DTPの時代にあっては、組版はアプリケーション・ソフトが引き受けるべきであると、述べました。いわく「組版ルールはアプリケーション・マターである」と。DTPによる組版の帰趨はアプリケーションにかかっているのであって、それを操作する人の組版知識などに求めてはならないと思います。ですから、この「考える会」の今後の任務は自ずと明らかではないでしょうか。組版ソフトメーカーとの交流を深めなければなりません。ユーザーの全権を担うような心意気でメーカーと直接交渉すべきではないでしょうか。これなくして、日本語の組版向上は望めないと思います。


破綻しない
ルールは
役に
立たない
能書きだ!


前田年昭


前田です。逆井さんが凸版印刷に入社された30年前に私は中学生で新聞部でした。それで 当時は活版でした。私は活版から写植、そしてDTPと、ある時は書く側、編集する側、整理する側で、ある時は組む側で仕事をしてきました。

●ルールを「守る」ことより、破綻を意識すること

この逆井さんの本でいいところ、共感したところは、行末に注目していることです。これがいちばんです。それと関連して「広域調整」ということについていろいろ考えて言っている、この点に強い共鳴を感じました。

ルールということについて、深沢英次さん(元ワイアード テクニカル・ディレクター)はこの逆井さんの本に対する共感として「ロジカルでいい。しかし守れる人はいないんじゃないか」とおっしゃっています。それから祖父江慎さん(エディトリアル・デザイナー)は「覚えることが多くなるというのは具合が悪いから意味のないルールははずしたほうがいいんじゃないか」ともおっしゃいました。が、私は少し違う感じ方、考え方をしています。最初から守りやすいルールというのはほとんど意味がない、役に立っていない、だからルールを立てて、――この点で太等信行さん(写植・DTPオペレーション)がおっしゃったように――一貫しているということが大事なんだということなんだと思います。一貫させるためにどういうルールを立てるか考えて、考え抜いた時にやはりどうしても《ルールは立てたとたんに破綻が約束されている!》――そう最初から割り切って自覚することだと思うんです。破綻しないようなルールというのは単なる能書きで、実際には何の役にも立たないということです。よく言うじゃないですか、失敗しない人というのは仕事をしていない人だと。これは真理だと思います。同じように、破綻しないルールというのは単なる役に立たない能書きに過ぎない、問題はその破綻を意識することだと思います。

●ルール化とは「なぜ」を追求し、考え抜くこと

どういうことかというと、例えばさっきも何人かの方から共通して出ましたけれども、縦組中の欧字、アルファベットを横倒しにするのかしないのか。これをいくら分類して、こういうケースもあるこういうケースもあるというふうに分けても解決しません。表記の問題としても、これは解決できません。

縦か横かというのは私も毎日毎日悩まされているもので、表記ハンドブックとか片っ端から見ましたけれども、新聞社とか通信社のハンドブックが比較的詳しく例が書かれています。その中でもいちばん事例の多いのは講談社の校閲局のルールブックです。それは縦組で漢数字を使う場合、あるいは洋数字を使う場合、あるいは漢数字を使う場合でも単位語、「十」とか「百」とかそういう単位語を入れる場合と入れない場合、結局それをあわせると三つの例に分かれるということで、例がとにかく20ページ近く列記されています。

ところが、参考にはなるけれども役に立たないんです。なぜ役に立たないかというと、例として示されているから、自分が解決を求めている例にあてはまるものというか、あるいは推測がつくもの、似ているものがなかった場合、どうしたらいいかやっぱりわからないわけですね。より多い例が要るということになるわけです。こういうふうなルールのつくり方というのは、やっぱり覚えるのが大変というか、机の横に貼っておけるような量ではなくなってしまうわけです。やっぱりルールはそうじゃないと思うんですよね。

例えば親文字にルビをふる。グループルビではなくてモノルビで地名の京都、京に「きょう」三つルビ字が付き、都に「と」という一つのルビが付く。あるルールブックではこれは親文字の間もルビ文字の間も空くんだと、そういう場合もあるし、ひっつけるベタの場合もある。分類がされているだけなんですよね。それでは実践的な解決にはならないわけです。だからやっぱり破綻を恐れず最初から一貫してどういうルールかというのを考え抜く、なぜこうするのかということを考えて理屈を立てる、立て続けるというのがルールであるべきじゃないかと思うんです。

それで、ルールは破綻するものというのはこれは真理であって、例えばさっきの縦組中の欧字を横倒しするのかどうか。2年ほど前に創刊されたばっかりのある雑誌のアートディレクションをやっている方に取材というかお話をうかがいに行ったことがありますが、3文字までは立てて4文字以上は横倒しするとおっしゃるわけです。事実、当時はその雑誌はそういうふうに組まれていて、CDというと立ててあって、CD-ROMというと横倒しにしてある。おまけに、CDというのは和文従属書体を使い、横倒ししてあるCD-ROMは欧文書体が使われている。こういう例を見ると、その破綻自体を自覚しているのかちょっと疑問に思ってしまうわけですよね。だからその立てた時のルールというのはやっぱりなぜそうなったのかという理屈が立ってないとだめだと思います。

●禁則処理は切断に対する抵抗の力だ

破綻したからいけないということを私は言っているんじゃないんです。破綻するのは当たり前なんです。ルールを立てるわけですから。かつての東映映画『仁義無き戦い』でしたか、「チャカで生きればチャカで死ぬ」という惹句がありましたけれども、ルールを立てると必ずそれは破綻するわけです。ただ、どこで破綻するかということを自覚し予想する。そういう時に文例している事例集であるこれまでのルールブックというのはやっぱり問い直されていると思うんです。20年以上前の写研の『組みNOW』(のちに日本写真製版工業組合連合会など業界3団体からも出された)以降、それを超えるルールブックがまだない時に、この逆井さんのような本とかあるいは藤野薫さんの代表編『便覧 文字組みの基準』(日本印刷技術協会)がもうすぐ出るそうですけれども、そういういろんな本が出てくるというのは非常にいいことだと思うんですよね。

それでは分類でないルールというのはどういうふうに立てるべきか。それはやっぱり体系として、例えば禁則対象、禁則処理ということについてよくルールブックに書かれています。行頭禁則、こういう文字は行頭禁則でこういう文字は行末禁則だと、たいてい列記されています。でも、それはやっぱり別のものじゃないわけです。改行という行を変えるということで発生した、ついこの間までは隣り合わせの文字だったものが行頭へ来たり行末へ来たりする。行頭と行末というのは、切断もあるけれども隣り合っている。そういうふうに見ると、よく見てもらったらわかりますけれども、どのルールブックでも少し考えが違うのも含めて、行頭禁則文字のほうが多いです。行末禁則の対象文字よりも行頭禁則の対象文字のほうがずっと多いです。つまり行頭には句読点とか終わり括弧類(受けの括弧類)、あるいは拗促音、音引き、中黒、これは行頭禁則だというふうに書かれています。でも、その行頭と行末は別でないというのはどういうことかというと、改行という行為によって強い結びつきの塊が途切れる。例えば拗促音は自立している力が弱いから前の文字に従属している。音引きもそうです。受けの括弧なんかもそうです。受けの括弧はおこしの括弧と受けの括弧のセットにされた一つの文字列、この強い結びつきの、しかもいちばん後ろですから、受けの括弧だけが切り離されているというのに対して抵抗がある。つまり意味の塊が改行によって断ち切られる、それに対して禁則と、それはやめようよと。そういうふうに太等さんのいい言葉を借りると「1字ぽっち」。だから行末の1字ぽっちだけじゃなくてその塊から1字ぽっち、一つはずれる、孤立する、それを避ける。そういうのが行頭・行末禁則だと思うんですね。だからよくルールブックなんかでしたり顔して行頭は天ツキにするとかしないとか、いくつかのパターンがあるとか、分類していますけども、行頭よりもむしろ私は行末に注意をはらうということが大切だと思います。

●逆井さんへの共感は「行末への着目と広域調整」

最初にも言いましたが、こんどのの逆井さんの本でいいところ、共感したところは、行末に注目していることです。これがいちばんです。それと関連して「広域調整」ということについていろいろ考えて言っている、この点に強い共鳴を感じました。

行末のことで言うと、この本の中でも書かれていますし、逆井さんは88ページ、89ページで、行末句読点の位置揃えについて述べておられます。今日の補足の問題提起でも逆井さんはこの点をおっしゃいました。つまり行長40字詰めで40字目にテンとかマルが来た場合に、ぶら下げる場合にその直前までの39文字を40字目まで引っ張って伸ばして強制的にぶら下げで揃える。つまり行末の句読点がぶら下がるものとぶら下がらないものの混在というのを不揃いを許さない、そういう組版についてとっかかりを与えてくれました。これは非常に大切な問題だと思います。

●ぶら下げをめぐる四つのルール

私自身はこの行末の処理、ぶら下げありかぶら下げなしか、あるいは混在を許すのか許さないのかをめぐって四つのルールを考えています。四つのルールというのは「強いぶら下げあり」と「弱いぶら下げあり」、「強い下げなし」と「弱いぶら下げなし」と、とりあえず名付けるわけですけれども、どういうことかというと、「強い」というのは行末の並び線への揃えを強く第一義に置く、そういう組版の場合、40字詰めでたまたま41字目に来た句読点は当然、ぶら下がりますけれども、40字目に来た句読点も強制的にぶら下げる。こうすることによって、逆井さんの冒頭のサンプルでもありましたけれども、このメカニックなページの箱の外枠、特に下の並び線を強く意識した組版となります。これに対して「弱い」というのは、一字一字の横の並びのほうを重視して行末が不揃いでもいいのではないか、それは許容しようというものです。

行長の短いぶら下げなしのものでも、行末の並び線への吸着力が強い組版というのは当然あります。つまりデコボコを減らすために、行末は例えば16字詰めの組版だったとしまして、16字目にたまたまテンとかマルが来た。それを半角取りにして前の15文字を15.5倍取りに字取りする、均等にあける。そうすることによって字間を割ってでも行末の終わり括弧類とか句読点を強制的に半角固定にする。これが強いぶら下げなしの組版。そういうふうにして私はルールを立てます。

版ヅラのその景色、それをどう揃えるかというのは、西井一夫さん(編集者)が指摘されたとおり組版は単なる見てくれであって動機と志あっての組版だと、私も思います。しかし、読者が、読み手がその物語に没頭できるような、一時記憶というか字を追っているところは空気のように通り過ぎるようなそういう組版というか、わざとらしい調整ではなしにそういう組版がいい組版だと私は考えていますので、その行末のことを特に重視しているわけです。ここまでこういうふうにルールを立てても、やはり例外処理というのは当然、発生します。行長が長いものは長いものなりに、行長が短いものは短いものなりに、例外処理は発生します。例えば『週刊漫画アクション』(双葉社)のコラムのうちの3本は私が毎週、組版をしてもうすぐ1年、すでに40週ぐらいになりますが、これは15字詰めと16字詰めなんです。行長が短いわけです。強いぶら下げなし、つまり行末半角固定にしていますけれども、3本のうち最低1本、毎週のように例外処理が発生します。追い出し基本と立てていても追い込まざるをえなかったときなど、例外処理がない回はほとんどないです。そういうものだと思うんですよね。だからこそ、その時に守れるルールというふうにルールを減らして、最小限ルールというふうにするのではなしに、理屈を立てて、なぜそうするのか、こういうふうにすると「1人ぽっち」文字が出るよ、それを避ける、孤立を避けるとか、そういう目的と意義のほうをはっきりさせることによって組版ルールというのは深めることができると思います。

ルールは立てて、破綻したらまた立て直して、そして立て続ける、考え続ける。そして一貫したものとして深める。そういうルール観を私は持っています。

●組版は孤立を避ける技術である

結論として言えば、組版の要諦というのは《文字とか単語、記号を含む文字列の孤立を避ける技術》だと思うんですね。孤立を避ける技術というふうに置いた時にルールというのを覚えるものじゃなくて実際に役立つものとして使うことができると思います。私が30年前に新聞部員だった時、そこの新聞部はコンクールでも何回も受賞したりするような学校の新聞部だったものですから、ハラキリはいけないというふうにとにかく厳しく教えられたわけです。新聞の組版でハラキリというのは、タナ線、罫線が左から右まで通っている、それがいけないと言われた。なぜいけないのかということを考えないと、そんなのは単なる権威主義でしかないと思うんですよね。現実に、8年前でしたか、毎日新聞が大きな改革をやって斬新なレイアウトを採用した時に、ハラキリを大胆に、ほとんど全ページにわたって採用して成功した。ルールというのはそういうものだと思うんです。生きた言語にとっての文法というのも現実の人々の言葉の中での約束事を取り出したものというふうに考えたら、組版ルールというのもその時代、その社会、その時期、その本の目的に沿った約束事であって生きたもの、動的なものだと思うんです。だから時代が変われば変わるかもしれないし、ただその基本というのはやっぱり孤立を防ぐもの、孤立を避けるものだ、と思います。

30年ほど前、「連帯を求めて孤立を恐れず」という、若干、ええカッコしいの言葉もありましたけれども、組版の言葉で言えば「連帯を求めて孤立はいやや」というのが組版の要諦ではないかというふうに私は思っています。

以上です。


Q&A
会場との
質疑応答

■赤坂 ライターをやっております。『基本日本語文字組版』の中でうかがいたいことがあります。83ページに「追い出しと追い込みの混在がいけない」というような記述があります。写植だと結構そういうのは見かけると思いますが、追い出しと追い込みの混在について、「これはやらないほうがいい」、あるいは「どちらでもいいよ」という考え方を、逆井さんとオペレーターの太等さんにお聞きしたいです。

■逆井 私の考えを申し上げますと、私は読むテキスト=本文の組版では基本的にベタがいちばんいいと思っております。もちろんベタだけでは処理しきれないので調整が起きますが、その調整は、基本的に本文では追い出しがいいと思っています。 ロジカルな説明ができないんですけれど、実際の経験として詰めで調整したテキストが長く続きますと、疲れるというか、目が自然と流れていかないような感覚を私は持ちます。もしかすると、私は活字組版の考え方が若い時にしみこんでいるからかもしれませんけれども、基本的には追い出しでいきたいと思っているわけです。 そうしますと、追い込みと追い出しが混じってしまうのは、追い込みだけで済んでいる時よりもっといやだというか、どうも自分自身の感覚ではあんまりやりたくないし、やってほしくないという思いがあって、今言われたような書き方になっています。お答えとしては不十分かもしれませんけども、今、申し上げられることはそういう感じです。以上です。

■太等 私も今、ほとんど写植はやっていないので、実を言うと仕事ではあまりルールにうるさくやってはいません。告白させていただければ、私の場合は、迷った時には「お客様は神様ルール」というようなところもあります。 今の問題について言えば、やっぱり私も追い出しが正しいと思います。ただ、私がやってきた中では、写植の場合は約物でまず優先的に調整するというようなことがあるのですが、今はそのへんの優先順位や何かはアプリケーションが決めることなので、どれがいいということが言えません。さっき逆井さんがいろんな例を出されましたけれども、それはやっぱり一つの方針の問題で、それを決めていくのがいいんじゃないかと思うのです。 ただ、横組の場合と縦組の場合で若干違ってくると思います。横組の場合だと、数字が1文字入っただけでももうベタが崩れていくということがありますし、あんまり文字の揃えを気にしないと思うんですね。そういう時には、さっき言ったような「1字ぽっち」みたいなものが出るなら、詰めて追い込んでしまうということも私はよくやります。 どっちがいいというよりは、これはもう方針の問題じゃないかなと思います。もう困った時には編集者なりデザイナーなり、お客さんに判断を仰ぐというのが私のスタイルです。

■赤坂 混在するというのはお話にならないということなんでしょうか。この方針においてどちらかを選ぶということはあると思うんですけども。

■前田 混在するのが当たり前だというのが私の考えです。ただし、基本をどうするか。 私も逆井さんとは理由が違いますけども、本文ベタ組縦組の場合で追い出しが基本であるというところは同じ理由です。しかしその理由として書かれている「追い込みと追い出しが混在する、それを避けるため」というのは違うと思うのです。実際、作業すればわかりますけれども、調整の量をできるだけ減らす、つまり40字詰めの時に39字分を40字に広げること、これは許容します。38.5字を40字に広げること、これはやむなく許容します。40.5字を40字に入れること、これもあるでしょう。そこまでだというふうに目標を置いた場合、プラスマイナスの範囲というのは2文字ですよね。最近の乱れている組版というのを見ればわかりますけれど、雑誌などの縦組でも、最大詰まっている文字数と最小パラついている文字数というのがプラスマイマス4字以上幅があるというふうな組版があるんですよね。そういう密であることと疎であることの差が大きい状態、これを避けることにポイントがあるのであって、追い出しと追い込みが混在するというかせめぎ合うというのは、日常の姿だと思うんですよ。だから、混在がいけないというのは、私は単なる建前で、なかなかあり得ないと思っています。

■沢辺 (赤坂さんに)ご自分ではどうお考えですか。

■赤坂 まず、レイアウトソフトで追い込みにするか追い出しにするかというのを予め設定できると思うんですが、その場合どちらにしたらいいのかという考えがあって、今のお話だと、だいたいデフォルトでは追い出しにしておきます。レイアウトソフトによっては、電算写植のように追い出しと追い込みを同じ段落の中でやってくれるものもあるので、個人的にはそういったものがすごくいいというふうに、その裏の理屈は考えずに思っていたのです。今の前田さんのお話のように、当然、そういうこと(追い込みと追い出しの混在)は起こり得ることで、そういうふうにレイアウトソフトが処理するのは立派なものだと思いました。

■沢辺 会場の方で、ご意見はございませんか。

■浪花 ニューラルデザインという制作会社で制作の仕事をやっております浪花といいます。今の詰めの問題に必ずしも関係するわけではないんですけれども、だいたいうちでやっているものの場合、Macですから基本的には本文はリュウミンで組むものが多いわけです。ただこの本にもありましたが、リュウミンはどうしても文字で想定されるボックス(仮想ボックス)の大きさよりも、実際の文字そのもののボディ(実ボディ)が小さいわけですよね。そういう書体だと字間を広げるようにして組もうとした場合、パラパラな印象になってしまうことのほうが多いと思うんですよ。リュウミンではみだしが1字から2字ぐらい、行が長い場合にはむしろ詰めたほうが見た目がよくなると思うんです。 先ほどもお二人がベタで文字を打つということを前提として言われていたのですが、仮想ボディと実際の文字の大きさというのが、リュウミンなんかの場合だと小さくなる。ヒラギノとかそのほかの書体だと比較的大きくなるという、そこらへんのバランスについてはどういうふうに考えられていらっしゃるのか、お聞きしたいのですが。

■沢辺 いかがですか、深沢さん、お願いします。

■深沢 詰めの問題と書体の問題についてなんですけれども、ぼくの印象ではべつにリュウミンがヒラギノに比べて仮想ボディから小さいという印象は全然ないのですが。先ほどぼくが話をした中で1歯詰めの話をしたと思うんです。だいたい広告のほうの文字組だと、写植の世界ではプロポーショナルな詰めが一般的で、ぼくらぐらいの世代が読んできたパンフレットだとかカタログだとかの中では、ほとんど文字はだいたい詰まっちゃってる。そのほうがカッコいいとか現代風だとかいう印象を持っている人は結構いると思うんです。長い文章を読まなくなったというのとはちょっとまた別の問題として、「なんかそういうのもアリなんじゃないの」というような感覚が文字組の中に、一般的な文字組をしなければいけないところにどうしてもついてまわっちゃうところがあると思うんですね。 だから、先ほど言ったように、広げるよりも詰めたほうが自分ではきれいに見えるというような気がする。どういうふうに「気がする」かっていうのはやはりちゃんと明文化できないし、ルールにもちょっとしにくいところがあると思うんですけれど、それは自分なりの基準を決めて、自分はもう絶対に広げないんだ、詰めちゃうんだと思うのならそれでいいと思うんです。 逆に逆井さん達は、活版の時からの文字を見てきた自分の中での蓄積というものがあって、文字というのはやっぱり詰まったら読みにくいんだと。もう絶対ベタから1文字、2文字、その行の中で納まらないものが出てきたら、それはやっぱり次のところに送って広げる。それがまず最初にやるべきこととしてはいいんじゃないかというような考えを多分、持たれていると思うんですよ。もちろん1行の文字数にも関係してきますし限度がありますが。 やはりどっちがいい悪いという話はすごくしづらいと思うんです。それは書体の問題ともまたちょっと違う。本当は小がなの問題、小がなが出てきたらまた新しいルール、ルールっていうのとまたちょっと違うのかな、ベタがいちばんいいのか、それともちょっとしまっていたほうがいいのかっていうのはかなり好みの問題もありますし難しいと思うんですけれど、自分が基準を持てばいいんじゃないかなというふうに思っています、ぼくの場合は。 それとちょっとまた話が戻ってしまいますが、追い込みと追い出しの禁則の話で、先ほど1行の中にもう4文字以上のパラパラのところがあったり、ぎゅっと詰まっている行があったりというような組版が増えてきたという話がありました。そういうのは横組にすごく多いんですね。QuarkXPressのデフォルトでそのまま文字を流し込んでいて、特に数字や欧文が入ってきたり、1バイトの商品名とかが入ってくると、だいたいそこのところで送られていっちゃったりする。 ぼくの考えでは基本的に、もうばんばんハイフネーションしちゃえばいいというふうに思っています。それはすごく単純なレベルで、日本語の中に英語がアルファベットで出てくること自体が不自然なことなんだから、アルファベットの欧文の組版をその中で実践しようとしたら無理がどうしても出てきてしまうから、もうハイフネーションしてしまうのがいちばんいいというふうに考えています。だからアルゴリズムでかなり細かくハイフネーションしていく設定をするだけで、4文字も詰まったり広がったりというようなことは多分、なくなってくると思うんです。そういう具体的な、「ここのところのダイアローグはこういうふうな数値にしておくとこうなるよ」というようなのは、もう少し情報交換がどこかであってもいいかなとは思っています。

■沢辺 どなたか追加ございますか。

■野村 アルファ企画の野村です。もともとフォントというものはベタで組むのが前提として設計されているはずなんです。もしも仮想ボディに対して文字が小さいのであるならば、初めから仮想ボディとボディとの間に、ある程度のまわりのショルダーの部分の余裕を計算に入れて設計されているんだと思うんです。それを勝手に詰めたり広げたりというのは、本来はおかしいものだと思います。つまり、フォントグラファーの仮想ボディに対してこの位置に文字を字面を置くべきだと考えたことに対して、たいへんな冒涜をしているというふうに私は思います。ただし、組版上やむを得ず広げたり詰めたりすることはあり得るという前提の下でそういうことを考えております。

■沢辺 強い意見が出ましたが。

■植村 理工系の編集者の植村と申します。詰めの文字のことなんですけれど、私自身の考えでは、基本的に文字を詰めるというのは、そこで文字(テキスト)が語ろうとしている物語を読者に渡すというただそれだけの目的以外の要素が入った時に、そういうことが往々にして行われているんじゃないかと思うんですね。有り体に言うと広告がまさにそうであるように、つまり広告という1枚のペラの中で何を見せるかというと、必ずしも文字だけを見せない。例えば、雑誌もそうだと思うんですけれど、見開きの中でタイトルがあったり写真があったり色が付いたりという戦略の中で、見開きの中に文字をグレーゾーンとして扱ってしまう。つまり文字の位置が低いというのかな。それはあると思うんですね。 それに対して書籍というのは文字を読ませる世界ですから、基本的にぼくはもう絶対それはベタ組、ツメ打ちなし。テキストがちゃんと相手に届くということが、いかに組版を意識させないで届くかということだと思ってるんですよね。ただ、広告などの組版に見慣れてしまうことが往々にしてあります。「なんだか詰め文字のほうが見やすい」というとらえ方の読者が登場することは、ぼくは否定しませんが、基本的にあくまでも文字を読ませるならばまだベタ組。ただしそれを戦略として、例えば雑誌の誌面のように文字で遊ぶというんですか、そういうものがあった時は詰め組があるんだろうなというふうに思っています。ですから、文字自体の位置付けの違いというふうにとっています。

■沢辺 詰めるほうの旗色がとっても悪いんですが、どなたかいらっしゃらないでしょうか。

■小宮山 読者の小宮山といいます。詰め組が別に悪いわけではなくて、特にひらがなの問題なんですけれども、文字というのは構造上非常にいろんな形がありますから、普通にベタで組めば当然バラバラしてくるわけです。それを例えば文字というものを印刷面の黒と考えないで、黒と白の、つまりホワイトスペースをどう処理するかということを念頭に置けば、ある程度の詰めは当然出てきて構わないと思います。ただ、単純に詰めればいいと、さっきもおっしゃっていたその理屈がわかりませんけれども。 それからもう一つは、プロポーショナルピッチというふうに言ってますけれども、「プロポーショナルな文字でないのに、なんでプロポーショナルになるの」という読者としての疑問があります。 それから、今、書体の話が出ましたのでもう一つ聞きたいのですが、組版ルールですが、組版ルールを読者は見ているわけじゃないわけで、そこでつくられた紙面を見ているということになると、当然のことながら書体というものがひっかかってくる。書体を見せているわけですから。その場合にいろんな書体があって、書体と組版ルールとの関係はどうなるのかということを、まず聞きたい。簡単に言えば「まずい字でいい組版ができるか」ということで、全員におうかがいしたいのですが。

■逆井 まずい字でいい組版ができるかとおっしゃられますと、まずいというのがどういうふうにまずいのかにもよりますが、それはまずだめだろうなと思います。読みやすいということを考えた時に、文字が自然に読み取れるということが、当然、まず最初にあるだろうと思います。そういう意味で、まずい書体だったら本当にまずいだろうと思います。 ちょっと話がそれるかもしれませんが、私がこの本に書いた組版ルールというのは、特に断り書きはしてませんけども、実は「日本語の文字のデザインをしている方は全角ベタ送りを基本としてデザインしているのだ」という、そういう暗黙の大前提に基づいてしまっています。ですから、文字のデザインをされる方がそうでない前提でデザインをされるということは当然あり得ると思いますので、その場合は「この文字はこういうふうな組み方をされるようにつくったものですよ」ということを提示していただければ、それに合わせた組版をするということになる。これが自然かなとは思います。

■太等 こういう仕事をやっているのに、私は日常的に雑誌とか新聞でもそうですが、あまり「このフォントは何だろう?」と考えることなく平気で読んでいるんですね。中にはちょっと変わった書体だと、「これ、どういうもんなんだ?」と気をつかうこともあるんですが、だいたいは無自覚的にスイスイ読んでいます。だからまずい字かどうかということをあまり意識しません。だいたい組版でも、やっぱり標準的にリュウミンが使われていればまずリュウミンを使いましたし、そういう点ではうるさく「いい字・悪い字」というふうに自分の中では決めてかかってはいないということですね。 ただ、好きな書体というのはあります。私は写植時代にいろんな書体のことを学んだのですが、DTPでは写植の書体が使えないという残念な気持ちがあります。本蘭とか好きな書体、ゴナにしても好きな書体なんですが、今、使えないのが非常に残念です。ただ、日常的にはあまり「このフォントはないだろう」というような拒絶のようなものはありません。 さっき私が言ったようなことで言えば、例えばT-timeやWebもそうですけれども、好きなフォントを指定して読めばいいという時代なんですから、やっぱりこれからは「私はこのフォントが好きだよ」ということが話題になるような時代になってきているのではないかとは思います。「だめなフォント/いいフォント」というのは、私は判断できません。

■前田 いい組版はいい字でしかできないと思っています。それは質だけじゃなくて、もう一つ考えないといけないのはその文字の数ですね。つまり写植だったら三級、四級まである書体なのか。電算写植なら外字ABまで揃っている書体なのか。DTPならJIS第二水準まで全部ちゃんと揃っているのか、それ以外もあるのか。その字形はどうなのか。デザイン面だけではなくそういうことも含めて、やはり字をつくる人、書いた人、プロに対する敬意があるのなら、(欲しい字が)なければ作字すればいいんだよというのはやっぱり違うと思うんです。どんなシステムで組んだものでも、やっぱり作字したところって見ればすぐわかりますよね。だからそういうのはできるだけ避ける。難しい字が出てくるような名簿などであれば、最初から要求されている文字セットとして、質・量ともに用が足りているところにいちばん近いかどうか。そういう面も含めて、いい字でなければいい組版はできないと思っています。

■深沢 当然のことながら、やはりいい書体じゃなければきれいに読みやすい組版というのは成立しないと思います。ただ、どこからどのレベルがいい書体なのかという話は、これはちょっともうぼくの手には負えない話になりますので。 例えばぼく自身が文章を読む時に、新ゴで組んだ本文を読みたいかといえば、ぼくは読みたくないです。それからMB31で組んだ本文を読みたいかといえば、ちょっときついなと思いますね。それは書体の問題だけじゃなくて色もそうです。赤い色の印刷の文章を読みたいかといえばやはりいやですし、黄色もいやですね。できれば白地に墨でリュウミンのRかMか、そのくらいの文字組で組んでもらったほうが読みやすいとは思います。ただ、読みやすいのがはたしていい書体なのかということ。もちろんいいんですけども、それに対して「自分はそうじゃない、違うものを見せたいんだ」という文字組があるということは、ぼくは認めていきたいと思っています。要するにフォントと文字組の関係というのは、ぼくはそういうものだと思っています。

■祖父江 まずい文字ということなんですけれども、文字組の設計(レイアウト)をする時に最初に考えるのは文字の組版ではなくて、まず書体から考えます。書体の形によって、それが読みやすい組みかどうかという設定も変わってきます。まず、「まずい文字を使いたい」というのが最初に前提としてあった場合は、やはり読ませ方もまずく読ませたいという発想に考えていきます。普段はなるべくきれいなフォントできれいに読ませたいんですけれども、あえてまずい文字を使うのであれば、やはり行送りもガタガタさせるとか、文字のそのフォントのまずさを生かす方向に文字組を考えていきます。それは正当かどうかはわかりませんけれども、あえて使うのであればそうしますね。 あと、ちょっと追加で、先ほどの追い出しか追い込みかという話の補足をしていいですか。やっぱり追い出し、追い込みをいろいろやっていくと、文字の間が広がったり狭くなったりしていくので、どちらかというとなるべく避けたいのです。そのとき文頭に来てはいけない禁則というものがあんまり硬いとバラバラになってしまうので、行頭禁則のほうを緩めたほうがいいのではないかと思っております。以上です。

■西井 「まずい字でよい組版ができるか」という質問ですけれども、基本的に「できないだろう」という答を予測した質問なんですね。これは裁判では誘導尋問で却下される質問ですから、それにそのまま答える必要はないと思います。どっちも言えないと思うんです。時と場合によるということだと思いますし、もっと言えば、「まずい字」というのが何を意味しているのかよくわからないということが原則としてあります。要するに下手だということを言っているのか、さっき前田さんが言ったような、使用可能な量が揃っているのか揃っていないのかというような量的な問題において使用の幅が非常に狭いということで「まずい」という判断が出てくるのか、そのへんがはっきりしていないということがあります。 で、下手かどうかというようなことに関しては、各人によって判断基準がまったく違うわけですから、これは字というより書のことを考えればわかりますが、その書がいいとか下手だとかうまいとかいうようなことは、人によってまったく違うわけですね。したがって、これは絵に関してもまったく同じです。私は写真のことをよくやっていたので、写真について簡単に言いますと、要するにいい写真なんてものは世の中にないのです。『いい写真の撮り方』なんていう本を書いている人がいますけれども、そういうことはあり得ない。写真はどこまでいっても写真でしかないので、うまいとか下手ということはないのです。下手に撮るということはうまい人でないとできないし、うまい写真というのもうまい人でないと撮れない。どっちにしても要するにうまい──今、言っている「うまい」というのは熟練しているという意味ですが──という人間でなければ下手には撮れないんです。下手に撮ろうと思って下手に写真を撮ることはできません。だから、技術なり知識なり能力を持たない人間が下手な写真を撮ることは不可能です。同じように下手な字も、要するにうまい人でなければつくれないと思います。そういうものを「まずい字」というのであれば、いくらでもどうにでも処理できるだろうというふうに思っています。 もっと要するに原則は、「いい組版だから読みたい」とは私はまったく思いません。そんなことはどうでもいいんです。さっきも言いましたように書かれている内容が問題で、つまらないことを書いてある内容がどんなにいい組版でどんなにいい字で目の前に置かれても、それを読もうという気にはまったくなりません。

■沢辺 今日、「ルール化をしたほうがいいんじゃないか」という意見が何人かから出たと思うのですが、どうでしょうか。「アプリケーションにもっと改善をさせるべきなんじゃないか」についてはどのようにお考えか、ご意見をいただけませんか。 ルールづくりはすべきかすべきでないか、あるいはこれは誰がやるかということがすっぽり抜けてきているんですけれど、誰がどんなものをつくるべきなのか、ご意見をどうぞ。

■井上 ライトハウスの井上です。何をすべきかということは今までカタログのようにいろいろ取りざたされています。そうじゃなくて、これをやっちゃいけないよというような逆カタログ、例えば「一人ぼっちの字」とか、組版上避けたいものを挙げて並べていくことによって、そうしないためにいったい我々は何をすべきかとういう議論を重ねたほうが有意義ではないかと、今日のお話を通じて強く感じました。 この件についてはこれだけなんですが、あとさきほどの「まずい字でいい組版ができるか」ということについて一言言わせてください。やっぱり寿司だっていいシャリじゃないとおいしいものが握れませんから、いい文字があっていい寿司ができると思うんですが、それは逆に言うと握ってみて初めて、まずい字かどうかというのはわかるものではないでしょうか。そういうふうに感じました。

■信国 ジャストシステムの信国と申します。でも、べつにレイアウトソフトの開発をしている立場ではなくて、マニュアルのほうをつくっています。ルール化というかデフォルトでこうしようというようなものについては、できるだけ議論を詰めて考えていったほうがいいのではないかと思います。ただ、デフォルトですから本当にルールにするところとしないところとを分けなければならないと思うんですね。

■祖父江 決めるなら最小限ですね、本当に。先ほど深沢さんなどが言われたように、1枚のペラで見られるような最小限のデフォルトは議論していったほうがいいと思うんですけども、今回のこの本に書かれているようなところまで含めてしまうと、デフォルトということでは決めすぎになると思うので、そのへんは線をはっきり分けた上で最小限のルールというのを。あと、「ルール」という言い方は一人歩きするおそれがあるので、それも避けた上で、そういう何か最小限のものを決めていったほうがいいのではないかと思います。

■沢辺 ぼく自身は『基本 日本語文字組版』をまとめれば、箇条書きにして1枚の紙にまとめることだって可能だとは思うんですよね。

■桑原 オペレーション等をやっている桑原と申します。ルールというと文章化されたものなんですけど、例えば具体的なエクスプレスリファレンスみたいな、QuarkXPressで組む上で最低限このへんの設定はこうしといたほうがいいよ、例えばボックスの文字との隙間とかをゼロにしたものとか、そういうものを配ってルール化に変えてというか、そういう方向の動きができないものかなと思ったんですけど。

■沢辺 今、ルールについて何人かの方に聞いてみましたが、何か一言という方はいらっしゃいませんか。

■前田 今日のレジュメの17ページにも書きました。後でじっくり読んでいただければ嬉しいんですが、ルールというのは経験とか勘とかコツとかいう形で蓄積された職人技の意識化ですから、ルール化するかしないかという設問自体が私は違うと思うんですね。ルールはあるわけです。歴史的に蓄積され継承されてきたものがあるわけです。活版の時代、写植の時代、DTPの時代と。そして例えば手動写植機で横組でスウマル、マルをちょっと詰めるとか、そういう手業をやっていたいくつかの断片があるわけです。それを体系として考える。現にあるんだという、ルールはつくるんじゃなくてつくる前にその歴史の中にあるんだと、そういうのが私の考えです。 同じ意味でも、例えば電算写植SAPCOLのファンクションを覚えるのも、やはり手コーディングでやるのがいちばんよくわかるわけです。HTMLの命令であるタグを覚えるのも、やはり手で一つひとつ覚えるのがいちばんよくわかるんです。組版というのはそういうものであると私は思っています。

■祖父江 太等さんがおっしゃったとおりだとは思うんですけれども、これだけ素人の人でもソフトをいじれるようになった時においては、やはりルールというよりは組みにおけるデフォルトというのを、代表的デフォルトをつくっていったほうがやはりいいのではないかというふうに思います。 それは字間の削除ですとか、みっともなさすぎる文字組が起こらないためですとか、もっと職人から一般大衆の世界へと渡していくことも役割のように思いました。

■木田 アップルコンピュータでエンジニリアリングをやっております木田と申します。先ほど前田さんがその設問自体がどういう意味なのかということをおっしゃいましたけれども、まさにここに座りながらそういうふうに考えていました。私はコンピュータの立場から、例えばMac OSでもWindowsでも何でもいいんですけれど、シンプルテキストなどは、例えばそこに流し込むと一定のルールにしたがって文章が表示されるんですね。ルールがないという状態というのはあり得ないんですよ。おそらく設問が、どういうレベルのルール、どういうふうにルールをつくるべきかということなんじゃないのかなというふうに思います。そして確かにそのデフォルトというのがまずどこにあるべきなのかなと、そういうのを最近つらつらと考えています。

■沢辺 シンプルテキストのデフォルトというのは、こうなるんだよというのはどこかに書いてあるんですか。

■木田 えー、どうなんでしょうね。多分日本語の場合は、シンプルテキスト上では文字単位でどこでも消えるというようなルールと最低限の行頭行末禁則があったかと思うんですけれど。例えばそれがルールなわけですよ。その上で、じゃあ、シンプルテキストの上で文字をながめる時に、それが最適のルールなのかどうかというのはいちばん知りたいところですね。

■沢辺 じゃあ特にこのテーマでということなく、ちょっと質問を考えてください。

■林 林と申します。出版関係とはちょっと違う印刷関係でDTPの仕事をやっています。アプリケーションの話も出ましたし、ルールの話にも関わりますけれども、組版が乱れているという部分で何が問題なのかを考えると、多分、時間と能力の問題じゃないかと思います。納期と能力というか。DTPというものが私が関わりだして5年ぐらいになるんですけれども、以前に比べてだいぶその作業時間を圧縮されてきていることと、それから作業コストを圧縮されてきているということが多分に、あると思うんです。 例えば昔でしたら100ページの組版をやるのに何日かかけられたとか、そういうようなものが、今は「テキスト渡すから明日までにやれ」とかいう部分が出てきた。昔でしたら例えばこれはページ1万円が半額になってきた。そういう部分が出てきて、とても昔のようにやっていてはできない。というよりも、「昔のように」という言い方は変かもしれないんですけど、ちゃんとやっていられないみたいな部分も出てきているんじゃないかなと。ですから能力のまだ追いつかないオペレーターが作業したりとか、ある種やっぱり粗製濫造せざるを得ない部分の事情とか、時間がかけられないのでちゃんとチェックできないという部分が出てきているのではないかと思うんです。ですから、組版をちゃんとやりたいんだけれどもやれない。組版をちゃんとやるというところをどこに基準を置くかということもあると思うんですが、先ほど西井さんがおっしゃられたように組版を読むんじゃないというところはあると思います。ただ、組版はちゃんとしてないと、多分、本が読めなくなると思うんですよね。例えば私もWebページをよく見るんですけれども、行間がぴったり詰まっていると絶対読めないです。どんなにいいことが書いてあっても、読む気をなくします。そういう部分では、組版というのはどこかでやっぱりルールをつくらなければいけないんだけれど、それをちゃんとやっていると時間が間に合わない、コストが合わないという部分が出てきているのではないかと思います。 それは編集者の側にも言えることで、西井さんのような編集者でしたら、ちゃんと1字増やしたら1字減らすとか、1行増やしたら1行減らすとかやってくれますけれども、今の編集者の人は多分やってくれないんじゃないかなと思います。平気で10行増やしてとか減らしてとかいう指示をして、こちらが作業せざるを得ないというような部分が出てきていると思うので、そのへんについて皆さんはどのようにお考えですか。

■沢辺 コストも時間のお小言も出てきました。

■藤島 CTCの藤島と申します。ルールづくり、いくらつくってみても、どうせ自動組版機でやるわけです。1行でもって処理できないのを複数行でやったらどうだといったって、複数行のほうがちょうど行末がテン・マルで終わっているようなところへ、おまえ1字出せと言われたって困るわけですよね。そういう意味でもって、どこかでは必ずルールがうまくいかないということがあるので、先ほどお話があったように、誰が最後をきちっと見て調整するかということが非常に大切なのではないかと思います。 建築で打ちっぱなしという工法がありますけれど、あれはやりっぱなしじゃないんだよと、コンパーに外した時にきれいな肌が出るように、コンクリートを詰める時に養生をしながら詰めていくんだという話を聞いたことがありますが、今問題になっているのはやっぱり同じように、もう文章を組んだらそのまま組版機に任せたまんま、組みっぱなしのやりっぱなしだというところが指摘されているんじゃないかと。それをちゃんと一回誰か人間が見て、ルール違反といいますか、「これ、ちょっと見にくいな」というところを調整する行程をつくるべきじゃないかと思います。そうでないなら絶対に全部を満足できるような組版ルールもできないし、そのルールを守れるようなアプリケーションをつくれと言ってもこれは大変なので、要するに甲斐なしというのが必ずあるというふうに私は思います。 それから先ほど「悪い文字でもって組めるか」というような話がありましたね。例えばザラ紙といいますか雑誌だとか新聞みたいなものに非常に線の細い書体でもって組んでいて、「こんなの読めない」と私は注文つけたことがあるんですけど、「最近よくなったね」と聞いたらば、「いや、実はインク盛ってやっているんだ。写真は調整しながらやっています」なんていう話もございます。そういう意味でもって、適材適所の文字の書体の選び方、あるいは級数の選び方、そういう問題は確かにあるんじゃないかと。いわゆるこの書体が悪いのいいのっていうのはこれはもう好みの問題だから、悪い書体、いい書体ってことは言えないんじゃないかなと、そういうふうに思います。以上です。

■沢辺 壇上のほうでどうでしょう。

■前田 先日、出版編集プロダクションをやっているお友達のところへ出張研修をしました。そのとき、組版校正という仕事があっていいし、そのシステムの特性をとらまえた上で組版を一貫したものとして「できているかどうかをチェックする行程」というのを、予めワークフローの中で文字校正と共に、それと区別して必要ではないかということでお話しました。そのようにいくつかまとめて出張研修などもしていますので、もしあれでしたら連絡ください。一緒に研究したいと思っています。

■逆井 終わりに近づいてきましたので、忘れないうちに一言。今回、書きました本の中で、もちろん組版に関係していらっしゃる多くの方に見ていただきたいという思いはあるんですけれども、非常に数は少ない対象なんだけれども見ていただけるとありがたいなと思っている対象として、組版アプリケーションの開発をされる方にぜひ読んでいただきたいと思っています。実を申し上げますと私自身もそういう経験を持っています。つまり組版ソフトをつくった経験があります。ただし、インハウスで使われているものですから世の中に出ていませんけれども、そういう立場の方にもぜひ見ていただきたいと思います。 一つ思いますのは、電算写植にしろコンピュータ組版にしろ、ああいう昔の組版システムというのは(昔のと言っていいのかどうかはわかりませんけれども)、インターフェースという意味では非常に田舎くさいというか古くさい、泥くさいといいますか、ちっともカッコよくないです。SAPCOLの開発の関係者の方もいらっしゃるのにこんなこと申し上げてあれですけれども、ちっともカッコよくないです。でも、カッコよくないんだけれども、やりたい組版ができるんです。今どきのレイアウトソフトというのはユーザーインターフェースという意味では非常にカッコいいです。洗練されていると思います。けれども、やりたい組版ができません。このことをぜひ、なぜなのか、どうしたらいいのかということを、アプリケーション開発者の方に、私も含めて考えていただきたいと思いますし、そういう気持ちもこの本の中には込められているということを忘れないうちに付け加えておきたいと思います。

■沢辺 もうちょっと会場の方からうかがってよろしいでしょうか。

■小形 編集をやっている小形といいます。西井さんのお話、非常に興味深く聞きました。誤解を避けるためにこれは質問なんですけれども、西井さんのお話は、「とにかくまず形式よりも内容である」と、「とにかく原稿そのものがいちばん大事なんである」というふうな立場に立たれて、その上で自分はそのコストも管理しているので、例えば孤立字、クビツリとか言いますけども、そういう時は自分は1字、あるいは句読点一つ削ったりするというようなことをおっしゃいました。これは確認なんですけれども、そのような場合は、やはり著者にはお断りするわけですよね。そこをちょっとお聞きしたいんですが。

■西井 もちろん自分で書いたりあるいは編集部内でつくった文章に関しては、私の独断で削ります、経済的にですね。外部の著者に頼んだ原稿に関しては、著者校をしますので、その段階で向こうにはわかるはずです。こちらからわざわざ「あそこのテンを一個削りました」と言わなければわからないような文章しか書かない著者はその段階で見逃すでしょう。著者校段階でチェックしてもらって、こちらで必要と思った訂正に関してはもちろん、どうするか相談をしております。 それからついでなのでちょっと加えたいのですけれども、先ほどインターネット上で行間がほとんどなくびっちり上下が詰まっている文章に関してはほとんど読む気が失せるという話があったので、あえて申し上げたいのですけれども、これは有名なのでかなりの方がご存知だと思うのですが、中上健次という作家の原稿はそういう空きがまったくない原稿なんですね。左右上下まったく空きがなくて、ビッシリ字で埋まっているのが原稿です。したがって、それも10字の枠の中に納まっているわけじゃなくて、はみ出たり少し小さくて2マスの中に3文字入っていたり、もうてんでんばらばらです。したがって1枚のその紙に何字入っているのかパッと見た目でまったくわかりません。書き直すか文字を打ち直さないと、これで何字あるのかがまったくわからないという原稿でした。 しかし、だからといって読む気が失せるというようなことは編集者は言っていられないんです。読まなければいけないし、読んで他人の手にまわして、文字を打ってもらうなり何なりという行程にまわさなければいけないということから、そういうものでも読まざるを得ないというか、読むわけです。したがって、さっきから内容が問題だと言っているのは、必要があればどのようなものでも、要するに組版が美しくなくても読まなければいけない、あるいは読まざるを得ないということが存在するということだし、そういう過程を通してものが出ていくというふうに私は思っています。

■野崎 フリーのライターの野崎といいます。今、西井さんがおっしゃられたことについて、ちょっと反論というか別な参考という形で申し上げておきたいんですが、京極夏彦という作家がいまして、知っている人は知っていると思うんですけども、この人は例えば講談社ノベルスの2段組の800ページというふうな本をたくさん出されているわけですが、その全ての文章において組版を意識して書いています。要するに2段組の場合の上の段の最後の行は、下の段にかからないで終わるように書いています。見開きのページの下の段の最後の行は、次の対向ページにまたがらないように原稿を書いている。奇数ページの下の段の最後の行は、次のページをめくった時にまたがらないように文章を書いています。そういうふうに組版は問題じゃないんだということではなくて、組版と表現というのは非常に密接な関係の中で書かれている、そういうふうなこともあるということをちょっと付け加えておきたいと思います。

■西井 はい、わかりました。そういう方がいらっしゃるということは、私は不幸にしてというか幸いにして知りませんでした。ということは、その人の書く文章に私はほとんど興味を持っていないということです。今聞いても、全然、読む気になっていません。

■沢辺 すみません、このテーマは皆さん、引き続き追加があれば電子メール、FAXでご意見をお寄せください。 【*一連の西井氏発言に触発され、一時会場が騒然となる。当日は限られた時間枠だったこともあり、この発言に関しては、後日、多くの意見が寄せられた。また西井氏は、その一つひとつに目を通され丁寧に回答されている。そのやりとりは第13回参加者の感想と回答のページに掲載。】 ほかにございますか? 続けていきます。

■瀬之口 編集者の瀬之口です。読者の立場としてまた編集者の立場として、アプリケーションについていつも考えていることがあるんですが、個人的にはいつも組版を意識しています。でも実際の作業では、それを実践できているとは言えません。読者の立場で言えば、私はすごくわがままな読者ですので、例えば電車の中で本を読むにしても縦組だったら読めるんですけれど、横組だと5分で寝てしまうとか、かなりわがままなんですよ。そういう立場から言うと、レイアウトアプリケーションにはもっときっちりしてもらって、なんとか眠くならないくらい、まあもう少し読むのに辛くならないぐらいのものができるようになっていただきたいなと、そういうふうに考えてもいます。 でも逆に編集者の立場から言うと、アプリケーションが不完全だと、結局、手詰めだとかそういうことで、行長の文章量もどんどん変わってきますし、せっかく原稿整理をしても、デザイナーが組んだ段階で平気で何行も増えたり減ったりするんですね。これは作業の上ではとても効率が悪いというか、もう少し別のところに力をかけることができるんじゃないかなと思います。そういう意味で、逆にレイアウトアプリケーションにはもっとどうしようもないような組版をしてほしい。その上で自由に設定できるようにしてもらって、みんなが考えなければいけないようにしてほしいと、そうすれば少なくともその集団の中でやる作業手順を決めなければならなくなって、それをみんなが覚えることでもう少しそういう不要な手間が省けるんじゃないか、もうちょっと文章の内容について吟味できる時間が増えるんじゃないかというふうな気がしております。

■中嶋 デザイナーの中嶋です。今日、お話を聞いていて思ったんですが、編集のほうの方だとやはりテキストの内容ということがいちばんに来るのかと思いますが、我々デザイナーとしてはそのテキストの内容をいかに大勢の人達に正しく伝えることができるかというか、そういったところに心を砕いているということがやっぱりあるんだろうと思うんですね。それが広告なんかですと、一つの文字の塊をオブジェクトとして扱ったほうがよろしい場合もあるでしょうし、長尺ものを読ませる場合には文字の存在というのがなるべく気付かれないように組んだほうがいいような場合というのもあると思うんですね。 そういうのってやっぱり、テキストの内容をどのようにデザイナーが意識するかで表現する手段がどんどん変わってくるものではないかと思うんです。それでアプリケーションのほうには「やりたいなと思ったことをやらせてくれよ」と、いつまでも日本語をしゃべるアメリカ人だと困るなというふうに強く思うアプリケーションもいくつかあるなと、常々思っています。 ほかのデザイナーさんのやった仕事をまともな組版に直してくれという仕事も私のところには時々来るんですが、「こうだとまともでしょう」というふうに直しますと、デザイナーさんのほうが自分の直したアプリケーションの設定を変えてしまって、またぐにゃぐにゃになってしまうというようなことも最近は起きてきております。「意識を持って、これはこうするんだとはっきり主張できないような組版はするな」と、強く訴えたいと思います。「これをこうするのはこういう訳があるからだ」ということをはっきり意識して字を並べようよというふうに言いたいんですが、多分、ここにいらしている方は皆さん、そんなことは多分、言わなくてもわかっているんで、ここにいない人にどうやってそれを言えばいいのかなというのが現在の私の問題でもあり、皆さんもそういう問題をお抱えになっているのではないかと思います。

■道広 編集者の道広と申します。発言の前に、先ほど西井さんに対してちょっと、つい興奮してヤジを飛ばしてしまったことを謝ります。すみませんでした。 アプリケーションの能力についてちょっと言いたいんですけども、いかに今のアプリケーションがアホかということなんですが、レジュメ集のいちばん最後のページを見てください。「第14回公開セミナー」というのが右側に書いてあって、その塊のずっと下のほうを見ていくと、「色に関する質問あて先● moji@pot.co.jp」と書いてますけれども、「●」と「moji」の間に空きが入っています。これは和文と欧文の間の空きの設定がここに生きていると思うんですけれども、箇条書きのことを考えると、ここに空きが入るのは私はおかしいと思います。これで箇条書きをつくるとガタガタになっちゃいますので、これは結局クロマルを特別な記号とは思わずに、普通の漢字やひらがなと同じものとしてアプリケーションが使っているという証拠だと思うんですけれども、これはQuarkXPressでもEDI Colorでも同じです。例えばTeXだったら個別の文字ごとに欧文との空きをつけるかつけないかというのが設定できるので、これは回避できるのですが。それが一点です。 それから例えば角ゴシックで見出しとか組む時に、音引きとかカンマとかっていうのはわりと明朝系を使う方が多いと思うんですけども、こういうのができるようになっているソフトというのはあまり見たことがないんですね。このへんは基本だと思って、当たり前のようにやってほしいんですけれども、そういうふうになっていないという不満があります。

■黒田 製版会社でDTPオペレーターをしている黒田と申します。いつも仕事中に悩むことがあったので聞こうと思ったんです。ハイフネーションについてなんですが、大量の文章を流し込んでこんな分厚い本をつくる時のハイフネーションは、いちいち手でやるのが面倒なので、ソフトに任せてしまってやるんですけれども、情報誌とかの雑誌の場合は手を加えていけるので、自分でハイフネーションを付けたり、それから強制改行をしたりとか、その場合によってハイフネーションが混合していろいろなものができてしまうんですけれど、それでいいのかどうか。見ている人が「そういうふうにいろいろあることがおかしいんじゃないか」と思われるんじゃないかと、いつも思いながら仕事をしているので、できれば太等さんに教えていただければと思います。

■太等 英語とか欧文の仕事を特にやっているわけじゃないんですけれど、私がこの間やった英文の仕事は、基本的にはQuarkXPressでハイフネーションなしでやりました。ただ、途中でレタースペーシングというか文字の間を空けていくようなところがどうしても出てくるんですね。そういう時だけハイフネーションをして調整しましたけど、それはもう本当にアプリケーションがどういうハイフネーション辞書を持っているのかということと絡んできているので、そういう大量のものを個人の力技でやるというのは本当に無理なんじゃないかと思います。私はだからハイフネーションなしで、そういうちょっと見苦しくなったところだけハイフネーションするというやり方でやっています。

■沢辺 何か特に何かまとめると大変なことになるんで、いっさいまとめませんが、これで終わりにさせていただきます。

 
(13回セミナーまとめ●高野幸子) 


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