2008-06-04

お部屋1526/新聞の条件

3日に1回くらいは東村山関連の話をしておくとしましょう。

以前から気になりつつも調べが進まず、そのまま放置してあったテーマがあります。再度やる気になって、ある団体に問い合わせ中なので、返事があったら公開するとして、あるいは無視されても見切り発車するとして、今回は今さら説明するまでもないことを調べてみました。

「東村山市民新聞」のサイト
を見ても、いったいこの人たちが何に興味があって、何が専門なのかさっぱりわかりません。あえて言うなら、洋らんが専門か。

市議として、あるいは「新聞」として、どれだけ東村山市に貢献しているのかもわからず、根拠なき自画自賛と、他者への根拠なき憎悪だけがそこにはあるだけです。

「草の根」にとっては、このサイトを見る人が少ないのは幸いかもしれないですけどね。まっとうな判断力のある人であれば、「新聞」と称していても新聞ではなく、市議と称していても市議らしいことはまったくやっていないことを簡単に見抜いてしまえますので。

ところで、新聞の定義ってなんなんでしょう。現物を見たほとんどの人が「東村山市民新聞」を新聞だと認識できないでしょうが、なぜ「これは新聞ではない」と判断できるのかについてふと疑問を抱きました。

見た目のチープさも関係はしていますが、1枚の紙っぺらを折って4ページにしただけの新聞は現にありますから(ただし、せいぜいタブロイドまでで、「東村山市民新聞」のように、B5サイズのものがあるかどうかは知らない)、ページ数は新聞の定義にはさほど関係がない。

以下は、国語辞典の定義
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1)社会の出来事について事実や解説を広く伝える定期刊行物。一般に、日刊で社会全般のことを扱うものをいうが、週刊・旬刊・月刊のもの、経済・スポーツなど特定の分野だけを扱うものもある。日本で新聞と名のつく最初のものは1862年の「官板バタビヤ新聞」だが、現在のような体裁をもつ日刊紙としては1870年「横浜毎日新聞」の発行が最初である。
(2)「しんぶんがみ」に同じ。
「古—」
(3)新しく聞いた話。新しい話題。
「世間に奔走して内外の—を聞き/学問ノススメ(諭吉)」

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定期刊行物が新聞であることの条件だとすると、いつ出るかよくわからない「東村山市民新聞」は新聞ではない。

他に定義を探してみたのですが、はっきりとした定義はないみたい。日本新聞協会のサイトを見ても定義は書かれていないようです。つまりは、「高島易断」と同じで、どんな形態のどんな内容のものでも新聞と名乗ってもよく、法的には規制はない。

しかし、一般には日本新聞協会に所属しているものを新聞と呼んでいましょうし、加盟のための審査がうるさそうなので、「東村山市民新聞」は加盟したくても加盟できないと思われますが、新聞協会に加盟していない小さな新聞社もありますから、「新聞協会に加盟しているかどうか」は決定的な基準にはならない。

日本新聞協会には、「新聞販売綱領」というものがあって、有料で販売されているものが新聞であるとのイメージはたしかにあります。号外はあくまで「号の外」です。広義では「サンケイリビング」も新聞かもしれませんが、一般には新聞には入れない。

「東村山市民新聞」にも定価はついていますが、購読している人はほとんどいないでしょうから、この点でも新聞とは言いにくいかもしれない。

しかし、決定的なのはその内容です。

日本新聞協会の「新聞倫理綱領」を見ると、新聞の厳密な定義とは言えずとも、「新聞がどうあるべきか」の基準はわかりますし、新聞協会に属している新聞社は、原則、この倫理綱領に則っている、少なくとも則ろうとしていると推測できます。ここから我々の新聞イメージは作られています。

この綱領では、五項目にわたって、新聞の倫理が記載されてます。

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                          2000(平成12)年6月21日制定

(略)

 自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。

 正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。

 独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。

 人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。

 品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。

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現実には、これが十分に実践されているとは言いがたいのですが、「こうあるべきもの」という理想として、新聞とはこういうものでしょうし、ある程度、これらに合致することが新聞の条件と言ってもいいのではないでしょうか。

日本新聞協会には新聞社だけでなく、通信社や放送局も加盟していますが、政党がらみの「新聞」宗教がらみの「新聞」は加盟してません。「正確と公正」「独立と寛容」という点でこの綱領に合致していないためでしょう。これらは機関紙と言うべきです。

さて、「東村山市民新聞」はどうか。以下、五項目について具体的に見ていくとしましょう。

自由と責任 「公共の利益」など考えておらず、むしろしばしば「公共の利益」を害しており、自分らの利益のみを追求。

正確と公正 不正確かつ不公正が売り。信条などないので、信条には左右されないかもしれないが、個人の利害に左右されている。

独立と寛容 そもそも市議が発行人であり、編集人であって、選挙の際に自分らの露骨な宣伝をしていることが象徴するように、彼ら自身が利用するメディアとして存在しているため、自らと異なる意見を取りあげる時は捏造、誇張のオンパレードとなる。寛容さは皆無。

人権の尊重 人権意識はない。刑期を終えている人の実名を出すことにも躊躇はなく、それを指摘されても一向に訂正しない悪辣ぶり。報道を誤っても訂正することはなく、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけっぱなし。反論権なんて言葉は彼らにはない。

品格と節度 品格も節度もない。作っている人たちの特性がそのまま表現されているだけ。

1514回「人権意識なき市議たち」で取りあげたプロフィールは、昨年の市議選直前に発行された「東村山市民新聞」の紙面に出ていたものです。

「選挙で、ぜひ市民が採点を」という2人の表現にしても、横に北野弘久日大名誉教授の文章が添えられていて、東村山市議としての2名に対する推薦が書かれている点にしても、公選法ギリギリでしょう。

この一点をとっても、新聞倫理綱領から完全に逸脱しています。

学校の壁新聞でも、この倫理綱領に合致する例もありましょうから、「新聞」とまだしも呼べるかもしれませんが、「東村山市民新聞」は、一読して新聞ではないと判断でき、その判断は決して間違ってはいない。

「東村山市民新聞」はやはり政治ビラと呼ぶのが相応しい。

このエントリへの反応

  1. [...] せと弘幸の空前の活躍により、最近この問題を知った人たちの中には、「東村山市民新聞」というものがどういうものかよくわからず、「草の根」が地方新聞社を経営しているのだと誤解するムキがあるかもしれません。しかし、まともな世界の住人たちは、しばしばこれを「アジビラ」「政治ビラ」と表現していて、現物を見れば、「新聞」ではなく「ビラ」と表現するしかない代物です。詳しくは「1526/新聞の条件」を参照してください。 [...]

  2. [...] こうして見ると、ビラを新聞と言い張る体質、市川房枝の名前を借りて箔をつけたがる体質、NPOを作りたがる体質でおなじみの「草の根」とそっくりです。言っていることがデタラメなのもそっくり。 [...]

  3. [...] 小学校の壁新聞に「新聞」とつけてもいいように、新聞の定義は広いですので、あんな粗製のビラが「新聞」と名乗ったところで、法的な問題はありません。 [...]