2008-05-11

お部屋1498/あれやこれやの表現規制 4-6

3羽の雀さんが、私が監修した『ポルノグラフィ防衛論』を取りあげてくれているので、あの本については任せた。何度も読んだのに、もう内容を忘れてしまってますので、どんなことが書いてあったか私にも教えてください。

「セクハラの範囲を拡大した結果、アメリカでどういうことが起きてしまっているのか」について、フェミニストの法学者が詳細に報告した本でありまして、もはやフェミニストの多くが、セクハラの拡大解釈やポルノ規制に反対しなければならなくなっています。つまり、これらによって、フェミニスト自身の表現までが規制されつつあるのです。気に食わないからといって表現の規制を進めると、必ず自分たちに戻ってくることの典型のような話です。

その悪しき先例があるにもかかわらず、日本はそれに追従しつつあります。それどころか、児童ポルノについては、アメリカに輪をかけてひどい規制を進めつつあるのが日本です。これについてはもっと先に見ていくとして、話の続きです。

一昔前まで、ロリコン専門の雑誌じゃなくても、18歳未満のヌードやセミヌードはいくらでも出ていて、さらに前だと、週刊誌に17歳のヌードやセミヌードが出ているケースもありました。

エロ系の出版社はもちろん、マガジンハウスの前身である平凡出版、集英社、小学館、講談社など大手のほとんどの出版社が多かれ少なかれ、そういったヌードを雑誌に掲載し、時には写真集として出版していたものです。

児福法の関係もあって、児童ポルノ法以前から、18歳未満のヌードは掲載しにくくはなってきていましたが、例えばデビッド・ハミルトンの写真は、少女であるがためにわいせつとは見なされず、男性週刊誌ではなく、一般の週刊誌にも掲載されていた記憶があります(確認が必要ですが、新聞社系の週刊誌でさえ掲載していたように思います)。

連絡網AMIのメーリングリストで知ったのですが、かつては読売新聞社、報知新聞社、神戸新聞社などが主催・後援をして、清岡純子の少女ヌード写真展が開かれていました。

では、これらの新聞社はわいせつ写真展をバックアップしていたのでしょうか。清岡純子に与えられた数々の賞は、わいせつ写真に対して与えられたものなのでしょうか。あるいは週刊誌はデヴィッド・ハミルトンの写真をわいせつなものとして掲載していたのでしょうか。

今や図書館でこれらの古い雑誌を閲覧させると、少女であるがために逮捕されかねない。大宅文庫はどうしているのだろう。

ここ十年で、少女であることの意味が180度転換したことの意味は再度検証する必要があるでしょう。

なぜかつては純真な気持ちになったり、美しいものとして感動したり、芸術であると評価されていた少女のヌードをこの社会はいかがわしいわいせつ写真としてしかとらえられなくなったのでしょうか。

その当時の新聞社だって、子どもがセックスをしているような写真であれば、後援するようなことはしなかったはずです。つまり、それが公開に値するのか否かの判断が当時の人たちはできていました。どうして、その判断が今の時代にはできなくなってしまい、まとめてすべてを「児童ポルノ」として葬らなければならなくなったのでしょう。

あるいは、今もなおデヴィッド・ハミルトンや清岡純子による写真を見て、わいせつなものに見える人がどれだけいるのでしょうか。一部にそれで欲望を抱く人がいるのだとしても、それを法で規制すべきものなのでしょうか。

もしそれらを見てわいせつだと感じる人が増えているのだとすると、法の規制こそがそれらの人を増やしているとは考えられないでしょうか。

だとするなら、なぜこの社会は少女の裸というだけで無条件にわいせつとして、ロリコン愛好者の嗜好を誰もが共有することを強いるようになってしまったのでしょうか。

清岡純子やデヴィッド・ハミルトンの作品の被写体になった少女たちは、今現在、そのことを恥じらい、傷ついているのでしょうか。もし恥じらい、傷ついているのだとしたら、それをわいせつなポルノだとし、所有することさえできなくすべきとする異常な人々のわいせつな考えやわいせつな視線によるものなのではないでしょうか。

その検証もなされないうちに、これらの少女ヌードさえもあたかも誘拐、レイプといった犯罪が伴っているかのようなデタラメなキャンペーンによって間もなく保存もできなくなります。

かつて芸術であるとして展覧会に協力をしてきた新聞社や、その作品を雑誌に掲載したり、写真集を出版してきた出版社はどうして、それがいかがわしいわいせつ物であるとして所有さえできなくなりつつある時代に、「おかしいぞ」「犯罪がからむものと、そうではないものとを一緒にするな」という声を挙げないのか不思議でなりません。

それどころか、当の新聞社が社説で、単純所持を罰することを堂々と主張しています。だったら、そんなものをバックアップしていたことを反省する謝罪広告を一面に出してはどうなのでしょう。こんな新聞社に一貫性を求めることは土台無理な話でしょうが。読売新聞社のことですよ。

続く。