投稿者「藤井 崇雅」のアーカイブ

あとがき、でも再出発

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
○クライアントへ原稿届け
◯「ず・ぼん」、再度校正
◯新刊の巻末につける索引の為、エクセルデータ作り

最近、友人たちと会っていると自然と就職の話になる。(といっても、僕の友達に年上が多いことと、自分の就職不安が原因なのだが。) 面接に行くと東大から順に学歴別の窓口が設けられていて「その他」は落とされるエピソードや、資料を請求しても特定の大学の学生にしか送付しない企業がある話、コネがないと歯が立たない会社の例などを聞かされ、僕は不安のどん底へ突き落とされてしまった。どんなに頑張っても、どんなに魅力的でも、同じスタート地点にたたせてもらえないということじゃないか。小手先のフェイクがものを言う就職活動の一面。僕は就活というのはもっと楽しいものだと信じて疑わなかったのだが(色々な人に出会って、自分のことについて沢山考えて、売り込みをするなんてわくわくするではないか!)、友人たちの話を聞く限り現実は失望と忍耐の連続のようだった。そんな話を聞いているうちに、僕はこれから何をすれば就活でアピールできるのだろうか、とかそんなことばかり考えるようになってしまった。でも、日曜日久しぶりに和葉に会ってそんな迷いはすっかり吹き飛んでしまった。和葉というのは、高校時代からの友人で、あんまりにもお互いの時間や理想が自然に混じり合ってしまう、とびっきりの友達だ。和葉はとてもきれいで、彼女が現れると世界がいきいきと色づいてしまう。何もかもを共有してきた唯一無二の友達。無条件にお互いを許して信じ合える友達。和葉は相変わらず好き勝手に生きている。自分の伝えたいことを余すところなく表現した空間を東京にプロデュースしたり、ファッションショーで華やかなモデルをしたり、大好きなフランスを隅々まで旅したり。夜は長くて、僕らはいろいろなことを話した。和葉に言われたら、自分が今までやってきたこと、書いてきたこと、それのどれも恥じることはないし、むしろ堂々とアピールできる自分だけのものだと思った。自分の魅力をわかってくれる人。よく周りを見渡したら、僕の周りには和葉みたいに自分を信じてくれている人が沢山いた。心の底から楽しくてアクティブで自由に生きている人たちが沢山いることに気がついた。そして、そんなキラキラした時間を引き出せる大人の方たちもこの東京にはいっぱいいる。もう和葉を前にした時、僕はちゃんとわかっていたのだ。自分が好きなこと、やりたいこと。痛いほどわかっていた。例えば、僕と和葉の関係を大きな社会は笑い飛ばすかもしれない。それでも、自分がおかしいと思う現実にあわせるなんて、やっぱりどこかつまらない。学生時代だからこそ出来ること、自分のやりたいこと。そんなことをやっていけたらいいと思った。この夏は色々なことを考えた。受け入れられなくても、受け入れなければならない現実を沢山見た。受け入れられないものを変えていく人も沢山見た。受け入れられない場所で萎縮している自分もいた。ポットのおかげで自分の未熟を知った。これから何が起こるのか本当にわからないから、なんだか無性にわくわくする。十九歳の夏が窓の外でキラキラと色を変えていた。

校正ストラテジー

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯校正した「ず・ぼん」の問題点を大庭さんに教えていただく
◯原稿をクライアントに届ける
◯もう一度、「ず・ぼん」校正

大庭さんが校正した原稿には、僕が気づかなかった間違いが沢山発見されていた。小見出しも、わかりやすいもので、その節で作者が一番言いたいことが具体的に小見出しにされていた。それも疑問形を多く使い、読者にわかりやすいように工夫されている。編集者として、どうやったら読者が読みやすくなるか常に考え、変えられるものはどんどん変えていかなければいけないのだな、と思った。また、小見出しをつける時、その節の性格をしめすやり方(例:「企業はどんな対策を講じたか?」)と結論をしめすやり方(例:「企業側の太陽光発電による環境対策への努力」)があることも教わった。でも、もしそのどちらかを使う場合、すべての小見出しを一種類に統一しなければならない。大庭さんは、ひとつの小見出しをつくるのに何個も案を紙に書き出して考えていた。頭の中で考えているだけではだめ。紙にアウトプットすることで、適切な小見出しを選択できるというわけだ。校正は誤字脱字をチェックする素読みとつけあわせで構成されているが、大庭さんはきちんと引用部分の確認や事実確認まで行っていた。

地図よ、でてこい

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯テキスト入力(「す・ぼん」原稿)
◯ず・ぼん、素読み、校正
◯図書館調べもの(16世紀の地図を探すこと四時間。ヨーロッパってこんな風な領土にわかれていたのか〜)

テキスト入力

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯書誌データ収集
◯テキスト入力(「す・ぼん」原稿)
◯「ず・ぼん」内校(素読み、小見出し付け、コーナータイトル付け)

とうもろこしパーティー

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯とうもろこし茹で(キッチンである素敵な個人指導をいただいた。本当にありがとうございます!)
◯おつかい
◯参考書で勉強
◯印紙等整理
◯エントリーシート書き

スーパーマンなんていない

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯ポット会議
◯デザイン部門打ち合わせを聞かせていただく
◯参考書で勉強

最近、ポットは仕事が沢山でバタバタしているため極力皆に迷惑はかけられない。仕事をやりつくし何もすることがない時は、指示を仰ぐよりも自分のデスクで何かをするようにしている。ポットの会議室にある莫大な量の参考書を読みすすめたり、ポットの皆さんのメールを読んで皆がどのようにクライアントの方と接しているのかを学んだり、以前の実習生の日誌を読んで色々なことに思いをめぐらせたり。この以前の実習生の日誌というのが面白いのだ。同じようなことを経験しているはずなのに、それに対する印象の受け方がまったく違っている。彼は、僕がまったく感動しなかったことに感動したり、僕が全然気がつかなかったことに気づいていたりする。

それにしても、本というのがあまりにも簡単に(簡単に見えるだけでそこまでに色々な努力と編集者の睡眠不足があるわけだが)世にでていくので拍子ぬけしてしまう。というのは、僕は本を作っているのは自分と同じ人間だと頭ではわかっていながら、どこかで彼らが自分とは違う種類のすごい人間だと思っていたから。本とかテレビとかの情報は無条件に信じてしまってもいいような、そんな説得力を感じていたから。でも、そうじゃないのだとわかった。そこにある情報に説得力があるのは、僕と同じような人間が並みでない努力をして多大な時間を費やしているからなのだと。スーパーマンなんていないのだな、と目が覚めた。この世界は誰もがやれるほど簡単に動いている。でも、やるためにはすごい労力がいるのだ。メディアの出す意見というのは、いくつもあるうちのひとつにすぎないのだ、ということがわかった。頭ではわかっていたことだったけれど、実際に発信側にまわってみてはじめてちゃんと理解できた気がする。目立つから、大量流通だから、本当だと思ってしまう。情報の植民地化みたいだ、と思った。ポットに来て、メディアを見る目が変わった。実習をしたら自分の目標とかやりたいことだとかがクリアになると思っていたけれど、もっと混乱してしまっている自分がいる。本当に理想的なものなんて実はどこにもない。頭ではわかっていても、しゃあしゃあと自分がその流れにのるのには戸惑ってしまうのだ。「客観」という実態のない切り口に妥協したくない。メディアが何か発信すればするほど見えなくなっていく真実があるのだと知った時、出口のない迷路に迷い込んでしまったような閉塞感を感じた。やはり最後は主観しか信じられない、と。

アート的制作現場

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯原稿書きのため都立図書館で調べ物
◯人間学アカデミー、アンケート内容をテキストデータに

今日ははじめて都立図書館へ行った。外国語の飛び交う広尾の道をてくてく歩いていくと、大きな白い建物が姿を現した。今日は佐藤部長が書く原稿の資料集め。日本の専門書というものにあまり触れたことがなかった自分には今回利用した本がとても新鮮に思えた。ひとつひとつ丹念に実験し「事実」だけが記されている本。嘘っぽいものばかりで出来ている自分の人生から一番遠い本であるように思えた。現実的なものって苦手だ。

今日、沢辺さんに「束見本(つかみほん)」というものをいただいた。それは中も外も何も印刷されていない本(と呼べるのかも疑わしいもの)であった。これは表紙見本ともいい、実際にこれから作ろうとしている本と同じ条件でつくる見本品のことである。あまりにも真っ白なのでかなり不思議な感じだった。まるでいつも読んでいる本の活字が魔法で突然消えてなくなってしまったような感じなのだ。どこまでも延々と続く白いページの連続。自分の好きなように書き込める自分だけの本みたいだった。とてもきれいで、いつも読んでいる本に不可欠なメッセージ性というのがまるでなくて逆に、色々な意味が見いだせそうなアート的シロモノだった。その用途が果たされないものって面白い。小学生のとき、美術の教科書で見て仰天した便器の向きを変えただけのモダンアート、マルセル・デュシャンの「泉(Fountain)」を思い出した。

そういえばポットの柳瀬さんがデザインという形で「東京レズビアン&ゲイパレード2005」に関わっている。今年こそは参加したかったのに、僕はパレードが行われる頃にはもうアメリカにいて新入生オリエンテーションのスタッフをやっているのだ。長い長い夏休み、だったはずがあっという間に終わってしまう。もうすぐ新学期なのだ。ますます東京が好きになってしまった今回の滞在。正直、もっとここにいたい。パレードでも熱い夏を感じたかった。

刷出しとは

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯クライアントに入稿(またまた電車で、遠出です。京王線って安いし、速い!!)
◯参考書で勉強(またまた著作権)
◯記事用のビジュアルをネットで探す
◯学校の担当者にインターンシップ進行状況をメールで報告
◯つけあわせ、素読み

「刷出しを見せてあげるよ」と沢辺さんが分厚い封筒を手渡してくれた。そこには実際の雑誌の紙面に少し余白を付け加えた大きさのバラバラの紙がはいっていた。それらは四つ折りにされており、実際の本と同じようなページ構成になっている。紙には二種類のものが入っていて、その雑誌で毎回使われている黄色がかった紙に印刷されたものと、全体が青っぽいものとがあった。よくよく聞いてみると、黄色の方は「刷出し(一部抜き)」と呼ばれる実際に本となる印刷物の見本で、製本される直前の糊づけや糸綴じをされていない状態のもの、青っぽい方は「青焼き」と呼ばれるフィルムを青写真感光紙に焼き付けた見本だそうだ。沢辺さんによれば、印刷にはCTPというコンピュータのデータから直接プリントするものと、フィルム版を使ってプリントするものがあるらしい。CTPの時はデータがそのまま印刷機へ直結するのですぐに印刷物がでてくる。それを一部取り出したのが「刷出し(一部抜き)」となる。フィルムの方は「青焼き」で出来を確かめる。「青焼き」がきちんと出来ていれば、そこからアルミ製の印刷版(刷版)をつくり印刷をはじめるわけなのである。ポットでは基本的に、コピーを繰り返さないために画質が劣化しないCTPを使っているそうだ。製本されていないバラバラの状態の書籍をはじめて目にして、面白かった。

引用とは何か

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯クライアントに入稿(また電車で遠出です。)
◯参考書で勉強(今は藤脇邦夫著の「出版幻想論」、豊田きいち著の「編集者の著作権基礎知識」を読んでいます。面白い!)
◯クライアントが出す新刊原稿のつけあわせ(あの膨大な量の一冊を何度もくまなくチェックしてきた、ポットの制作チームに脱帽。まわってきた原稿には、よくこんなところ見つけられたなー、という細かいところまで赤が入っていた。)

沢辺さんに「引用」について説明していただける機会を得たので、昨日に引き続き書き記しておきたい。著作物内の表現を借りる方法としては、利用と引用というものがある。利用は、誰かの小説を映画化する類いのものであり、引用は誰かの作品を自作の中でそのまま使用することである。引用というのはなじみ深い言葉のようでなかなかよくわからないものだ。例えば、僕が自分のブログに「◯◯著の『××』という本に□□という記述があるが、私は△△だと思う」というような文章を書くとしたら、それが著者の著作権を侵害するのか、正直僕にはピンとこなかったのである。引用にあたっては、①その必要性、②最小限であるか、③出所明示がポイントとなるという。

①「その必要性」
その引用なしでは論がなりたたない時に引用する。自分の論旨を引き立たせたり強調したりするための引用でなければならず、あくまでも自分の論旨がメインでなければならない。

②「最小限であるか」
常識の範囲内での引用であり、自分の論を補強していない部分まで過剰に引用することはいけない。また、一目で持論と引用部分との区別がつくようにカギ括弧を使うなど工夫する。

③「出所明示」
著作者人格権を守る為、引用部分近くに出所明示する。

よって、「◯◯著の『××』という本に□□という記述があるが、私は△△だと思う」のケースでも、この①〜③を守っていれば基本的に引用できることになる。著作権は奥が深い。「原稿料」や「印税」も、要は「著作権使用料」なのだ。僕は本当に何も知らないで出版物に接していた。

著作物という英知

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○ゴミ捨て、お茶入れ等雑務
◯郵便局へおつかい
◯参考書で勉強(今は藤脇邦夫著の「出版幻想論」、豊田きいち著の「編集者の著作権基礎知識」を読んでいます)
◯新刊の索引用に書籍のISBNデータを検索、データ入力

沢辺さんが貴重な時間を割いて著作権について話してくださり、それがすごく面白かったのでここに記しておきたいと思う。まず、著作物というのは、「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と著作権法第二条に定義されている。誰かがなにかを意図的に(創作的に)作り、それを公に表現した場合、それらはすべて著作物となるのだ。彫刻をカメラマンの意図で色々な角度から撮りそれを雑誌などに載せたら、その写真にはカメラマンの著作権も発生するということになる。「なんで著作権っていうのがあるんだと思う?」と聞かれて、僕は少し考えてからこう答えた。著作権がないと、どんどん著作物がパクられてしまうからその予防に必要なのではないか、と。すると、沢辺さんは「俺は逆なんじゃないかと思うんだよ」と言った。最初はえっ、とびっくりしたが、聞いていると納得してしまう真実をついた論理だった。

沢辺さんは、著作物というのは本来は誰のものでもなく人類みんなのためのオープンな知なのだ、と言った。著作物の中にある作品たちは人間の英知であったり、人間を楽しませたりする類のものだ。ちょっと考えてみればわかるが、現在僕らは歴史の中で人間が造り上げてきたそういった「著作物」である知を無料で使っている。例えば「悲しい」という気持ちひとつにしても、人類が漢字や平仮名を発明して「悲しい」という言葉をつくっていなかったら表現できなかったわけだ。そして、今も人類の持つ知識や表現は進化を続けている。そして、昔と同じように現代にはそういった知識を発明し発表する人たちがいる。ただ違うのは、今を生きるそういった表現者たちは、生活のためを兼ねて(お金をもらって)「著作物」を作っている人が大半だということだ。沢辺さんは、だからこそ著作権で死ぬまで+50年くらいはその権利を保護してあげないといけないんじゃないか、と言った。つまり本来オープンである人類みんなの英知としての「著作物」だが、その作者の生活の為に(そしてそういった表現を活性化させるために)イレギュラーとして一時的に保護してあげよう、というのが「著作権」だと言うことである。人間の英知全体に利益がもたらせるようそういった知識のアウトプットを奨励していこう、ということだ。

沢辺さんの考え方は、僕の言った著作権の存在意義とは正反対で、とても興味深かった。もともとオープンなものでそれをイレギュラーとして保護されているのか、そもそも権利が保護されるべき類のものでそれが当たり前に保護されているのか、それを取り違うと大変なことになる。沢辺さんは、それをわかっていない表現者は実はとても多いのだ、と指摘した。権利、権利と叫ぶ前に、その大元を理解しなければいけないなぁ、と感じた。沢辺さんがここまで時間をかけてくださったのも、それだけ重要で理解しなければいけないものだからに違いないのだ。また、ひとつ大切なことを学んだ一日だった。