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コーナー●その5この問題を考えた [2002-01-10]

●その5-21 
[02-01-10アップ]
素朴な疑問、部外者から見て
主に「私たちが声をあげたわけ」
に対して

いち

 

 

昨年の12月になって、ココを知りました。
その時点で、削除されてしまったもの、公開を終えてしまったものなどがあったこと、なかなかまとめて読むことが出来ないこと等で、理解が不十分かも知れませんが、ちょっと思うことを書かせて頂こうかと思います。
もう語り尽くされていて二重三重になっていましたらご容赦を。
申し遅れました、私はチョット障害者のおばんです。というわけで、マイノリティーとか差別とかいった言葉には反応しがちかも知れません。

(1)
抗議先がなぜ週刊金曜日?
タイトル、というものは編集者の一存でつけるもので、ルポされた側、この場合当然東郷健さんには、何の発言権も無いものなのでしょうか?
そんなことは無いですよね。
だとしたら、東郷さんにまず確認すべきでは無いでしょうか?
「『オカマ』使用は東郷さんの意志ですか?」と。
答えがYesであれば当然、抗議先には東郷さんが含まれるでしょう。
答えがNoであった時初めて、矛先が週刊金曜日ひとりになる、というものだと思うのですが。
そして東郷さんと共に、東郷さんの意志を無視した週刊金曜日に抗議する……という道筋かと(この辺のことは、私などが何を今更で、とっくに伏見憲明さんが的確に言っておられますね)。
「東郷健さんの生き方について異議を唱えているのではない、私たちの大先輩であり、同性が好きだという自分に対して肯定的に生きた先達として尊敬しています。……」と敢えて前置きして、その後、矛先を週刊金曜日のみにしているところに、大変な引っかかりを感ずるのですが。

(2)
「2週間前に勉強会をしたのに生かされていない」「担当者から知らされていなかった」って、「週刊金曜日」さんは、同性愛に関しては「すこたん企画」さんの言うとおり従う、そういう雑誌なのですか?
勿論、「すこたん企画」さんが抗議するのは全く構わないことでしょう。
でも、それはあくまで「すこたん企画」さんの考え方であって、「週刊金曜日」さんには「週刊金曜日」さんの考えがあって良い訳のものではないでしょうか?
それを越えてまでの抗議はいかがなものでしょう。
また、その通りしなくてはならない、と「週刊金曜日」さんが思っているかに感じられて、それもどうかナ、と思うのですが。

(3)
「タイトルはひとり歩きする」の部分、もし私が当事者だったら、そんなに守って頂かなくても大丈夫、と言うでしょう。
「「オカマ」という文字だけを見て、『週刊金曜日』が使っているのだから使っていいのだ、と考える人が生まれる可能性を否定することはできません」、とありますが、そうですね、可能性ですから、そういう可能性もあるかも知れませんね。
でも単純に言えば、可能性である以上、そうでない可能性だってある訳で、そちらに触れず、即『「オカマ」は使ってはいけない』に結びつけるには無理がある、というものだと思うのですが。
他の可能性より重大だったり、緊急だったりするとしたら、その訳を検証するなりしてみせて頂かないかぎり納得が行かない、というものでは無いでしょうか?
というより、全国の当事者の皆様、こんなに手取り足取り、真綿でくるんで頂きたいと思っておられる方ばかりでしょうか?

(4)
「伝説の○○」の「○○」のところに、障害者・在日外国人・同和地区出身の人たちなどに関する差別的に使われる言葉を当てはめて、それをタイトルにできるでしょうか、との指摘ですが。
他の方はいざ知らず私に対しては、どうぞ入れてください、というのが私です。
ささやかながら私個人の体験を。
私はちょっと障害者、と先ほど申しましたが、これで私の様子を思い浮かべられる人はお出でにならないことでしょう。
「障害者」という言葉が表せるもの、それは、心か身体のどこかが不全だ、ということくらいですね。
言葉は本来、相手に、ある事や物を的確にしかも瞬時に伝えるため必要なもの。
そういう意味では、障害者という言葉は、実生活において、言葉としての役割を完全に果たしているとは言えない、緊急の場合には、何の役にも立たない事でだってあるでしょう。
ではもう一度自己紹介を、私は、俗に言う「ビッコ」です。
ビッコというこの短い言葉で、私の状態は100%伝わりますね。
目や耳でなく、やられているのは足で、しかも片足で、左右対称な体をしていなくて、体を揺すって歩く、と。
まぁ、当然ですネ、そういう状態を表す言葉としてビッコという言葉があるのですから。
最近、ある障害者関連の掲示板で、「ビッコでぇ〜す」風な自己紹介をして、障害者の方々から袋だたき状態のめに遭いました。
そんな「差別語」を使うとは怪しからん、と。
ただただそれのみ。
「ビッコは差別語」、といって疑わず譲らない人は、「障害者」という言葉になじめなかったり、呼ばれたくなかったりする人がいる事を知らず、また知ろうともせず、そういった人たちを自ら差別していることに気づいていない。
それと似たような事を、「オカマは差別語」と言ってそこから一歩も動こうとしないかに見える、「すこたん企画」さんに感じます。
確かどこかで、人の数だけ性の形はある、といった意味のことを言っておられたように思いますが、「性」の多様性は認められても、人そのものの多様性は認められないのでしょうか?
何が好きで何が嫌いで、何を大切に思うか……等々といったことは、誰もが等しく守られなくてはならないのは当然の事、そういったものの1つに「性」がある、という事なのだ思うのですが。

(5)
差別語を使わないで、と言う時。
同性愛の方を表す言葉として「ゲイ」を使ってほしい、と多くの方が望んでおられるらしいので、私も、原則「ゲイ」と言うようにしていますが、私自身は、「ゲイ」という言い方は、正直申してあまり好きではありません。
「ゲイ」と言葉にする時、私の中で不自然な感覚が生じるのをぬぐい切れていません。
そういうことは、このことに限らずあると思うんですね。
そういった自分の中の山を越えて、「使うまい」と人が決意するのは、愛情とか、共感とか、良心とかいった個人の善意に基づいたものだということを、どこかでとどめていって頂きたいナ、と私は思うものです。
でないと、多くの人の共感を得られないし、結果大きなうねりにしていけない、と思うのです。
勿論私自身も、例えば障害者に何らかの理解を得たいと思う時には、そういった気持ちを忘れまい、と考えています。
言葉はコミュニケーションの道具で、人と共有するものであると同時に、時として非常に個人的なもの。
何に対して、あるいはどういう時に、どういう言葉を選び使うのを自然と感ずるかは、人それぞれ違っていて、ただ日常会話しているだけの者にとってだって、時には外からいじられたくなかったりするものではないでしょうか?
で、そういったことは、第一番に守られなくてはならないことの一つだと、私は思っているのですが。
誰もがそうである中で人と接しているわけですから、だから、差別、差別語云々は安易に考えてはいけない、とも。
最終的には、一人一人が強くなること、確かな自分をその人自身が掴み取ること、ではないかな?
外から我々が出来ることは、それを見守り、支え、励ますといった様なこと、せいぜい、きっかけになりそうなことを身近に散りばめておく、そんなくらいなものではないでしょうか。
そういう意味では、「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」は、自信と勇気を持つきっかけを、読者に与えてくれる。
オカマって言われたとき卑屈になる必要はない、背筋をピンと伸ばして「オカマのどこが悪い?」と思わせてくれる、と私には思えます。
「オカマ」以外の言葉を使ってそれが伝えられたでしょうか?
私は、サイトを覗かせて頂いているだけの人間ですが、「すこたん企画」さんのなさってきたことは多大だと思っているひとりです。
でも今回の事は、チョット違うのではないか、というのが私の率直な感想なのですが。

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