2012-10-29

第20回■“お嬢様”の誕生日

「梶木さん、ナルシシズム入り過ぎですよ〜」
と、この連載を担当している美人敏腕編集者に言われてしまった。うっうーっ、がっくしである(アスキーアートを使ってみると“orz”という感じだ)。

分別のある五十男。己というものを知ってはいる。当然、ナルシシズムなど、日常生活では浸ることはありえない。しかし、せめてテレクラ物語の中ぐらいは耽溺させてくれ……。束の間のヒーロー気取りをしたいのだ。
“女狐”と行ったコンサートで、アーティストは、アンディ・ウォーホールの“誰でも一日だけならヒーローになれる”という言葉を引用した歌を歌っていた。私も自らの恥を晒すような真実を語ることで、ヒーローになれるかもしれない。束の間でもいい、ナルな気分に浸らせていただき、暫くはナルシシズム溢れる週刊“実話タイムス”にお付き合い願いたい。

さて、話を戻そう。田園調布に住むお嬢様を籠絡し、それを契機にこの国を支配する上流階級にのし上がろうというハードボイルドな“野望と妄想”(笑)を抱きながら、私は彼女の後についてお嬢様のお屋敷を目指した。桜並木(かどうかは、良く覚えていない)を歩いていくと、果たせるかな、10分もせずに、お嬢様の家へと辿り着く。玄関から母屋まで数分はある“お屋敷”を想像していたが、実際に目の前にあるのは普通の2階建の木造の一軒家。田園調布だから、地価などを考えれば安くはないだろうが、特に広いとも思えない、近郊都市にある建て売り住宅のような作りだ。値踏みをするようで嫌らしいが、下町と山手という地代を差し引いても、私の実家の方が平米数も広く、建物自体4階建のビルだから、資産価値は高いだろう。

いきなり拍子抜けである。私の“野望&妄想”は脆くも崩れ去る。確かに、田園調布というブランドに惑わされていたふしもある。田園調布だからといってお屋敷ばかりではない。普通に庶民(!?)が暮らす住宅だってある。もっとも、小さくても田園調布の一戸建てだから、ある程度の富裕層であることに間違いはない。

彼女の家に入ると、すぐにリビングがあり、ピアノがあった。当然、グランドピアノかと思っていたら、アップライトピアノだった。これまた予想外である。陽の当たる広い部屋に白いグランドピアノが置かれている、これではジョン・レノンの家のようになってしまうが、そんな風景を想像していたのだ。

家には幸い、両親はいなかった。親を紹介されるという、最悪の事態は免れる。何しろ、テレクラ男など世の親の敵だろう。財産や閨閥目的であれば親との面談は必須だが、そんな淡い夢は、数分前に崩れたばかり(笑)。

彼女の部屋にも通されたが、小さなベッドと勉強机(デスクというより、勉強机というのが相応しい)があるぐらいで、普通の女の子の部屋という感じで、これといった特色はなかった。人形やぬいぐるみが所狭しと置かれていたり、クローゼットに高級ブランドの洋服やバッグがぎっしりだったら印象も変わるのかもしれないが、そういう面では精神的な安定や経済的な堅実さが部屋に表れていた。壁紙やカーテン、インテリアなども女の子らしい風情はあるが、変にファンシーでないのも自分的には違和感はなかった。

テレクラを通して女性の自宅へ何度となく家庭訪問をしてきたが、そのほとんどは独居女性で、いわゆる実家みたいなところは今回が初めて。流石、彼女の部屋で、ベッドに押し倒すような危険な真似はできなかった。父親は房総へゴルフ、母親は二子玉川へ買い物に行っているらしいが、変なこと(!?)をしているところに鉢合わせなんていうのは避けたい。どことなく落ち着かず、長時間の滞在は避けるべき、と、家を出ることにする。本当に短時間の家庭訪問だ。東急東横線を渋谷へ1駅戻る形になるが、自由が丘へ行くことにする。

カメレオンマン

当時、既に自由が丘は、若者向けのお洒落な街になりつつあった。しかし私としては駅前にあった餃子店(自由が丘・餃子センター)へ行ったくらいで、あまり縁のないところだった。その餃子センターに行ったのも、自由が丘にあった名画座、武蔵野館にウディ・アレンの『カメレオンマン』を見に行ったのがきっかけだ。カメレオンのように周囲の環境に順応する能力をもつ男、レナード・ゼリグの生涯を、ドキュメンタリー調で描いた1983年の作品。ちなみに、日本公開時には吹き替え版が上映されたが、UFO番組でお馴染みの矢島正明のナレーションが印象的で、字幕スーパーだと思っていたら、いきなり日本語が飛び出してきて驚いた記憶がある。いささかこじつけ臭くなるが、周りに合わせ、自分を変えてしまうというカメレオンマンぶりはテレクラマンとしても大いに参考になった、なんてね。

と、“自由が丘・青春プレイバック”をしてしまったが、私にとっては縁遠い場所(AWAY)でも、お嬢様にとっては地元(HOME)。流石に馴染みの店も多く、お洒落な店もたくさん知っている。彼女の行きつけという、いまでいうなら、イタリアン・バールのような雰囲気の、パスタやリゾットが美味しい店へ案内された。

赤ワインを嗜みながら、お嬢様を籠絡するという野心は既に消え失せたが、根がいい人である私は、またもや熱心に彼女の恋愛相談に乗ることになる。女性心理はわからずとも男性心理はわかる。彼女が二人の恋人から聞かされている言葉の真意などを尋ねられる。当人ではないので正解はわからないが、男の狡さというものを加味して、詳らかにしていく。彼らの真意を変に捻じ曲げず、多少、露悪的になるところもあるが、そんなところも含め、男の心理みたいなものを語っていく。二人の恋人の言動や行動からは打算めいた深謀遠慮みたいなものも感じたので、そんなところもさりげなく指摘していく。逆に、私の行為は打算がなく、無償の行為のように感じたらしく、知らぬ間に私の好印象度はさらに上がっていくことになる。

テレクラなどは、ある種、手練手管や権謀術数を弄するところだが、それらを放棄することで、逆に好印象を抱かせてしまうのだから、不思議なものだ。物事は道理のようには進まない。愛の不可逆性とでもいうのだろうか。

家庭訪問後の自由が丘では、軽くお酒を飲んで、食事しての健全デートだった。普通であれば、そろそろ欲望の牙を剥き出し、肉体関係モードに持っていくところだが、私自身にそういう気持ちが起きてこない。別に女狐の後遺症で好きな人でないとセックスができない、なんて、乙女チックな御託をいうつもりはない。以前、“エロブス理論”でも触れたが、一般的には魅力的とされる女性でも自分にとっては性的な魅力に乏しく、欲望に火がつかない。やる気が起きないのだ。当然、不能などではない。性的なモチベーションは、可愛いとか、綺麗とか、育ちが良いとかとは別なところにある。テレクラ男子たるもの、選り好みはご法度、やれるもの拒まずだが、流石に10代20代のやりたい盛りではない、そんなに飢えてもいない。『粋の構造』信者の私としては、武士は食わねど高楊枝ではないが、痩せ我慢の美学みたいなものもあった。

お嬢様からのアプローチ

そんなわけで、私としては、そろそろ、お嬢様を放流状態(キャッチ&リリースがゲーム・フィッシングの基本だ!)にしたいところだが、お嬢様の方から食らいついてくる。その頃には、餌付けもしてないし、釣り糸も垂らしてない。彼女にとっては、男の本音を知ることのできる数少ない情報源、逃したくないのだろう。

あまり会うことはなくなったが、それでも頻繁に連絡はくるし、相談は受ける。そしてこれまた意外な申し出というか、お誘いを受ける。それがなんと、誕生日を祝って欲しいというのだ。誕生日など、クリスマスと同様、本命の彼氏・彼女の“仕事”である。私達、隙間産業たるテレクラ男子の出る幕ではない。二人の彼氏のうちのどちらかに祝ってもらえばいいものを、私におはちが回ってくる。

多分、ゴールデン・ウイークだったと思う。正確な日時などは覚えてないが、その誕生日に起こったいろいろなことがそう記憶させている。
待ち合わせは渋谷だった。渋谷の百軒店に行きつけの台湾料理屋があり、そこに案内したと思う。イタリアンやフレンチではなく、ここも変化球を繰り出す。ひょっとしたら、変化球ついでで、台湾料理ではなく、桜ヶ丘のロシア料理屋にしたかもしれない。その辺の記憶は曖昧で不確かだが、店選びに関して、お嬢様には徹底して変化球を投げ込んだはずだ。

誕生日ということで、プレゼントも用意した。特に目論見も打算もなかったので、とりあえず、コストパフォーマンスを考え、スタージュエリーのネックレスにした。流石、ティファニーやカルティエをプレゼントする関係でもない。考えてみたら、当時からティファニーも随分と身近になったものだ。私でさえ、ティファニーの3連リングをプレゼントしたことがある(残念ながらテレクラで会った女性ではない!)。しかし、かのヘップバーンも価値暴落(価格が安価になったという意味ではない。特別な階級の持ち物ではなく、20代や30代のサラリーマンが平気で、買えるようになったということ)を嘆くだろう。既に“ミツグくん”も出没していた。

私自身、イベントやサプライズは大好物。放流しようという女性の誕生日を祝うなど酔狂なことだが、イベントをプロデュースする感覚で、それなりに楽しんでしまう。おそらく、彼女的には上々の誕生日になったはずだ。それに気分をよくしたらしく、思いもかけない“お礼”をいただくことになる。“プレゼントのお返しは私!”みたいなベタな対応をしてきたのだ。折角の申し入れだが、正直、気乗りはしないというか、我が“エロブス理論”(ちなみに“ブス専”というわけではない)に照らしても、積極的にしたいという気も起らなかった(セックス目的でテレクラ利用をしているにも関わらず、もったいないことだが、性的魅力以前に面倒なことは避けたかったというのもあったかもしれない)。

しかし、ここで断っては、女性の面子をつぶすことになる。あまり熱心にいうものだから、生来のスケベ心(笑)もあり、渋谷の円山町のラブホテル街を彷徨うことになる。ところが、どこのホテルも満室で、空室がない。まるでバブル時期のクリスマス状態だが、ラブホテル難民となる。たぶん、ゴールデン・ウイークだったから、おのぼりさんを含め、いつも以上に稼働率が上がっていたのだろう。十何軒(どんだけ、熱心なんだ!)も当たってみるが、どこも満室。30分ほど歩きまわり、疲れてきたので、そろそろ、今日は日が悪いから撤収しようかというところに、絶妙なタイミングで空室のあるホテルが見つかる。円山町もかなり奥まったところだったと思う。

セックスの不等価交換

ラブホテルに入れば、やることは同じ、久しぶりにねちっこく&じっくりと情感たっぷりに官能描写といきたいところだが、そのセックスには、残念ながら特筆すべきものがなかった。私自身は、ある程度、相手に不快な思いをさせず、同時に、ある種、誠意の伝わる対応をしたつもりだが、彼女からはその対価に見合うものは与えては貰えなかった。かのビートルズは“結局、あなたが得る愛は、あなたが与える愛の量に等しい”と歌ったが、等価ではなかった。もっとも、お嬢様の技術が拙く、魅力的な肢体ではないことが原因ではなく、それ以前に私の男性性に火をつけるもの、欲情を喚起するものが不足していた。そういう面では対価を要求する資格もないのかもしれない。

テレクラ時代以降、ただセックスをするだけでなく、どんなセックスをするかに拘るのは、ある程度テレクラでセックスができるようになると、回数や人数ではなく、量より質みたいな拘りも芽生えてきたからだ。私からしたら、淡泊なセックスだった(本音をいえば、味も素っ気もなく、情感不足だった)。短時間だが、枕を交わし、身体を重ねるも、泊まることなく、終電に間に合わせる(!)。

不思議なもので、そんなしつこくない、あっさりとした対応が逆に相手には好印象を与え、変に身体目的でないこと(私自身は身体目的に何の問題を感じてはいないが)に余計、信頼感が増したらしく、いままで以上に懐いてきてしまう。何が幸い(?)するか、わからないものだ。

そんなわけで、誕生日後も頻繁に電話がかかってきたり、セックスなしのデートを重ねることになる。いい人気取りの私も、そろそろ次のことを考え、だんだんと“親身”の度合いを薄くし、揶揄するような態度も見せ始めることにした。ある種、偽悪的に、ろくでなしな振る舞いをするようにしたのだ。いい人ぶるのに疲れたというところだろうか。そんな豹変(!?)に彼女も気付いたらしく。ある日、こんな手紙を寄越してきた。
「いつも会うたび、二人の恋人のことをおもしろおかしく聞いてくるけど、どうしても興味本位で聞いているとしか思えない。私の友人達は本当に親身になって助言をしてくれるけど、梶木さんはとてもそうは思えない。誠実なものを感じない──」
多分、もうちょっと辛辣なことも書かれていたと思うが、まさに彼女の言うとおりだ。そこに書かれていることに間違いはない。お嬢様だからといって、世間知らずかというとそうでもなく、本当にの心配や気配りと、そうではないものの区別はつく。もっとも私自身、故意に馬脚を現すではないが、私と関わっているとろくでもないことになると思わせるようにもした。私達のような人種に誠実さを求めるのは土台、無理な話であり、親身に相談に乗っていても、それはあくまでも興味本位や物見遊山でしかない。ハードボイルドにいうと、“お嬢さんがこんなやくざな男とつきあっていると、火傷してしまうよ”という感じか。私的には、私の父が愛したギャング映画の名作『汚れた顔の天使』(1938年・アメリカ映画)のジェームス・キャグニー気取りでもある。テレクラ男など、美化されてはいけない。

そろそろ、潮時だ。いい人ぶるにも限度というものがある。そんな気持ちが私の中を支配し、行動や言動も自然と、そんな思いを体現するものになっていった。

田園調布戦線からの撤退だ。逃げ足は速く、切り替えは早い。フットワークの軽さは、テレクラ男子ならではだ。彼女からの手紙を“最後通牒”と判断し、以後、関わらないことに決めた。彼女のテレクラ相談員という役回りは、辞退させていただくことにする。彼女が寄越した手紙に返事を出すこともせず、ほうっておいたら、自然と連絡も来なくなった。基本的にこちらから連絡を取るような立場ではない。時間がある時に立ち寄ってもらう飲み屋のようなものだ。何年か後、来たくなったら来ればいい。“開いていて良かった”と思ってくれれば充分である。そのくらいがテレクラ男子には分相応であろう。

田園調布とは縁遠くなったが、渋谷を前線基地とし、そこに地歩を固めながら、別の沿線に網を張ることにした。そうすると、同じ渋谷基点でも井の頭線方面に釣果が出てくる。それが今度は、私にとって、“開いていて良かった”的な“居酒屋”や“スナック”のような女性と出会うことになった。

2012-10-15

第19回■フィールド・オブ・ドリームス

 前回、伝説になる「コンサート」の後に“彼女”と六本木のビストロで食事をした、と書いた。実は、その時、なんとなく近況を話したくらいで、肝心なことは話していない。勿論、別離の「理由」は聞けなかった。また、知ってもどうにかなるわけではない。おそらく、想像通りのことだろうが、その理由に真実を肉付けしていく必要などないだろう。さらに傷つけ合うのは愚かしいこと。男女の仲では、知らなくていいことはたくさんある。
 真実は残酷で、人を傷つけもする。別離の泥濘に嵌り、もたつきはしたくないだろう。何も知らない、いまなら、笑顔で別れられるというもの。去り際は、ボギーのようにありたい。“君の瞳に乾杯”だ。二人の間には「アズ・タイム・ゴーズ・バイ(As Time Goes By)」が静かに流れる。

 そんな女狐との格闘。喪失感と徒労感に苛まれつつも、真底に落ちないのが私である。春に向け、次の一手を打っていた。新宿を離れ、再び、渋谷へと舵を切る。すると、自然と釣果が出る。今度は、田園調布の“お嬢様”だ。

名だたる一等地に住む女

 下町生まれ、下町育ちゆえの山手コンプレックスなどはないが、ある種、生息地(!?)のランクによる、女性のランクアップもある。まるで、四万十川の鰻や大間の鮪、勝浦の鰹、丹波の黒豆、小布施の栗のようだが、グルメたるもの、ブランドというか、その産地や漁場には拘りたい。東京でも田園調布は特別な響きがある。麻布や六本木などではびくともしないが、やはり、田園調布には、豪邸が立ち並び、人生の成功者が住まいしところというイメージがある。かつて、1980年には、成功し、大金持ちになれば、“田園調布に家が建つ!”という、星セント・ルイスのギャグがあったくらいだ。

 そもそも田園調布の発祥は、かの渋沢栄一の息子・秀雄がイギリスのガーデン・シティーに魅せられて構想を立てた田園都市計画だった。しかし、この構想は、五島慶多を始めとする野心あふれる実業家によって欲望に満ちた不動産業へと変貌したという。大学の誘致、住宅地と鉄道敷設を一体にした開発、在来私鉄の買収劇など、東急王国はみるみる増殖、ロマンあふれる構想はもろくも挫折し、生臭い話が残るが、田園調布そのものは変わることなく、イギリスのガーデン・シティー構想を端緒とした田園浪漫が残る街ではある。その辺の経緯は現在、東京都副知事の猪瀬直樹の『土地の神話』(1988年)に詳しい。同書は第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『ミカドの肖像』(1987年)の続編ともいえる作品。近代の日本を描いた名著である。まさに、バブルの時代。土地開発など、どのように近代日本が作られていったか、西武と東急の暗躍(!?)を含め、自然と興味を持ち、貪るように読んだ記憶がある。東京生まれ、東京育ちの自分にとって、東京がいかに変わっていったか、気にならないはずはない。後の「地上げ」や「土地転がし」などに繋がる因子が書かれている。バブルの萌芽は既にあった────というような「都市論」は、またの機会に譲ろう。

 田園調布のお嬢様と出会ったのは、90年の春だった。丁度、女狐とのラブ・アフェアーがクロスフェイドした頃である。多分、再会の「コンサート」の前には会っていたと思う。懲りないとは、私のことだ(笑)。
 渋谷の桜ヶ丘にある、私の隠れ家「アンアン」で、コールを受けた。おそらく、夜の9時過ぎくらいだろう。どんなことを話したか、ぼんやりとしているが、お嬢様の恋愛相談に乗ったことだけはよく覚えている。好きな人が二人いて、その間で揺れる女心みたいなことを散々、聞かされた。テレクラ相談員としては、うんざりするようなことでも嫌な顔せず(当然、見えないが)、親身に聞くのが作法というもの。そういう点では、本当、根気のいる仕事(!?)だろう。

 ある意味、お嬢様はもてる女性、引く手あまただ。同時に、気の多いというのも確かである。一途などという言葉は、バブル時代以降、完全な古語、死語になっていた。そんな性格ゆえ、その気の多さゆえに、私も知らぬ間に彼氏候補になっていった。私の誠実(!?)な対応が気にいったのだろう。相談を受けながら、私への興味が増していったようだ。恋愛相談など、当人にとっては悩みごとだが、他人にとってはどうでもいいこと。しかし、それにちゃんと対峙するだけで、好印象を抱かせる。単なる思い違いや勘違いでないことは、この後の様々な出来事がそれを立証することになる。

コマ劇場近くの映画館で

 私が彼女と話していて一番、驚いたのは、お嬢様らしく、ピアノを嗜んでいる、その発表会が春にあるから、予定を空けておいてと言われたこと。その“春”だが、今春ではない、来春である。一年も先のことを言われたのには、正直、ある意味、驚きを超え、何を考えているのだろうという気さえした。数時間、話をしただけで、まだ、会ってもいないのにだ。その場限りや、セックスしたら終わりという出会いしか、考えられないテレクラ遊びをしている私にとって、1年後などは、とても考えづらいことだ。

 多分、ピアノの発表会の話が出るくらいだから、恋愛相談以外にも音楽などの話もしたのだろう。その流れから映画などの話題も出た。実は、そのお嬢様との最初の“デート”が「映画鑑賞」だったのだ。
 当時、封切られたばかりの『フィールド・オブ・ドリームス』(監督&脚本:フィル・アルデン・ロビンソン)を見に行くことになった。同作品は1989年4月にアメリカで公開され、日本では1990年3月に公開されている。ケビン・コスナー主演で、某映画評論家が「生涯最高の映画」と絶賛したもの。アメリカ文学の巨匠、W・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』を原作にした映画で、とうもろこし畑を野球場に変えたところ、続々と人が来るという夢物語のようなストーリーで、かの相棒と村上春樹ともに愛読した作家、サリンジャーを思わす幻の作家も登場する。私自身も気になっていた映画である。

 ある日の夕方、主人公はとうもろこし畑を歩いていると、ふと謎の声(”If you build it, he will come.” = 「それを作れば、彼が来る」)を耳にする。その言葉から強い力を感じ取った彼は家族の支持のもと、周囲の人々があざ笑うのをよそに、何かに取り憑かれたように生活の糧であるとうもろこし畑を切り開き、小さな野球場を作り上げた……。

 1989年には『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー 2』などがヒットし、翌90年にも『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』『ダイハード2』など、満漢全席のようなハリウッド産の大作の豊漁は続くが、その狭間に“小品ながら良心的”な映画として、話題になっていた。実際、日本では、かのハリウッド大作に負けないくらいのヒットを記録している。毎回、満漢全席では飽きが来るというもの。精進や薬膳のような料理もいいというところだろうか。

 その女性、お嬢様らしく、女子大学(どこか、忘れてしまったが、いわゆるお嬢様大学だった)を卒業後、会社などに就職することなく、「花嫁修業中」という名の「家事手伝い」をしている。年齢は20代半ばだった。それゆえ、休みに関しては、平日も土日も関係ない。

 翌日、私達は新宿・歌舞伎町のコマ劇場の側にある映画館の前で、待ち合わせた。平日の昼間である。歌舞伎町は夜とは違う顔を見せる。まだ、コマ劇場もあったし、シアターアップルもあった。当然、映画館もいまとは比べものにならないくらい、たくさんあった。ある意味、文化的な街でもあったのだ。シネコンなどが普及する以前のこと、まだ、新宿は歌舞伎町を始め、新宿南口や靖国通り沿いにも映画館が林立していた。幼い頃、父親とかのコッポラの『ゴッドファーザー』の封切を見たのも新宿のコマ劇場の側だった。

 歌舞伎町は男と女の欲望が交錯する街だけではない。文化や芸術の街でもあったのだ。新宿のアルタ前(同所は既に1979年には出てきていた)などではなく、歌舞伎町の映画館の前で、待ち合わせたのも昼なら女性一人、歩かせても問題ないと考えたからだろう。

 さて、私の前に現れたお嬢様、どこかしら浮世離れした雰囲気があり、独特の浮遊感がある女性だった。良家の子女だからといって、高級ブランドを纏うことなく、落ち着いた、どことなくコンサバな服装をしているのも好感を抱かせる。顔立ちも特に目を引くような容貌ではないが、育ちの良さが現れている。皇室にでもいそうな雰囲気を持っている。どこか、理知的で聡明な風情を漂わせつつ、若干、メルヘンな香り(いまなら、不思議ちゃんとでもいうのだろうか)が包んでいく。

予想外なお誘い

 とりあえず、簡単なあいさつをして、映画の上映まで、あまり時間もないので、そのまま映画館へ入ることにする。テレクラで会って、いきなり映画館というのも不思議な感じだが、昨夜のトークで、なんとなく、お互いを知り得たようなところがあるので、まさにあいさつもそこそこに、敢えて自己紹介するまでもなく、すんなりと映画を見ることになる。

 映画館では当然、隣り合わせに座る。本来であれば、手を握ったり、肩に手を回したり、軽く前戯の前戯(!?)をするものだが、流石、初対面である。そこまではできないだろう。同時に、私自身、結構、映画を見入ってしまうタイプなので、そんなお遊びをすることもなく、かなり真剣にスクリーンと向き合ってしまった。

 映画そのものは、このところのハリウッド大作に食傷気味だったので、私的には丁度いい塩梅の腹持ちだった。ちょっと、いい時間を映画とともに過ごしているという感じである。ところが、お嬢様はお腹が痛くなり、途中で出てしまった。私も当然、最後まで見ることなく、出てしまったのだ(後日、ちゃんと、一人で見直した。映画の評価そのものは変わらない、名作である。私のように汚れきった生活をしているものを浄化してくれる)。

 映画館のベンチで休んでいたら、容態も落ち着いたらしく、顔色も良くなる。聞いたところ、前夜は興奮して、あまり寝ていなかったらしい(子供の遠足か?)。多分、睡眠不足が原因だろう。当然の如く、映画そのものは見ていて気持ち悪くなるような描写はない(ホラーやパニックものではない!)。

 とりあえず、軽く食事を取りに、コマ劇場から靖国通りに向かったところにあるタイ料理へ行くことにする。店選びは、敢えて変化球を投じることにした。
 シンハビールを飲みながら、トムヤムクンやパッタイ、グリーン・カレーなどを食す。お腹が痛いのに香辛料が強いものはどうかと思ったが、お嬢様は体調が戻ったらしく、もりもりと食べる。フレンチやイタリアンではなく、エスニックというのが珍しいらしく、彼女のツボに嵌る。私の目論み通りである。

 話した内容は、昨夜の繰り返しのようなものだが、それよりもお互いのことを話し合ったと思う。多分、その頃には、すっかり打ち解け、お互い信用したようで、結構、プライバシーを明け透けに話す。家族のことや学生時代のことなども聞いたはず。
 いつもであれば、時間を引き伸ばし、「終電逃し&ホテルへGO作戦」を取るところだが、今回は、誠実感(!?)を演出するため、すんなりと帰すことにする。すると、意外な申し入れがされる。今度の日曜日に家に来ませんか、と、誘われたのだ。家庭訪問を断る理由はない。テレクラ男を親にでも紹介しようというのか、あまりに予想外な展開である。

まぼろしの旧駅舎

 数日後、私は田園調布の駅舎に降り立った。先日、複々線化にともない、地下化していた旧駅舎が復元されたが(この辺は東京駅の復元と同様だ)、まだ、地下化される前だったと思う。東京急行電鉄のHPには「旧駅舎は東横線の抜本的な輸送力増強工事である『目蒲線改良工事および東横線複々線化工事』の一環として実施した田園調布駅改良工事により平成2年9月4日に解体されたものです。」とある。平成2年だから1990年のこと。お嬢様の家庭訪問時には、旧駅舎であり、それは昔の風情を残したものだった。その駅前には噴水や花壇があり、らせん状に道が広がっていた、と、記憶している。勘違いなら申し訳ないが、洗練されながらもどこか鄙びた趣きがあった。都心に比べれば、緑多く、空気澄む、田園地帯である。まさに田園浪漫、フィールド・オブ・ドリームスだ。

 お嬢様は駅舎に迎えにきていた。多分、家で昼食を取ってから出かけているから午後だったと思う。彼女の笑顔が迎えてくれる。その笑顔を見た時、私の頭の中には、セント・ルイスの“田園調布に家が建つ!”が木霊する。
 そして、伊達邦彦や北野昌夫など、我が敬愛する大藪春彦が描く世界の主人公たちは、政財界の要職にあるものの令嬢を誑かし、落として、上流階級に食い込み、地位や財産を築き上げていく。そんなハードボイルドな野望も擡げてくるのだ。

 そのために、羊の皮を被った狼は牙を隠し、誠実を装っていた。いきなり会って、すぐセックスしないのは、相手のことを大事にしているからと思われていた、のどかな時代でもある。テレクラ男子の大いなる野望劇の始まりである────なんてね。

2012-09-28

第18回■女ぎつねon the Run〜僕、どうなっちゃってるんだろう

妙な収まり具合

「たかが、一度や二度、寝たくらいで、彼氏ヅラするんじゃねーよ」
多分、いまだったら、そんな言葉を吐かれてていたかもしれない。勿論、あの時代は、そんな鉄火肌の表現をする女性は、まだ、多くはなかった。そんな言葉が女性誌などで頻繁に飛び出すようになるのは、誰とでも気安くセックスをするようになってからのことである。

彼女とめくるめく箱根の夜を過ごす。そのため、あまり寝ることはできなかったが、朝食を急いで食べ、早雲寺にほど近い旅館を早めに出た。彼女は午前中から仕事があり、遅くても10時までには出社しなければならない。旅情に浸る間もなく、小田急を東京へと急ぐ。

表参道で、二人は乗り換えだ。ともに銀座線。彼女は数駅して降り、私はずっと先まで乗っていった。彼女が下車する前、また、今度の日曜日に会う約束を取り付けていた。場所や時間は決めていないが、日曜日にまた会えると思うだけで、自然とにやけた顔になる。いまにして思えば、相当な阿呆面だったはず。

2泊3日の箱根への旅行。考えれば、随分と長い時間、彼女と過ごした。テレクラがあったからこそ実現した出会いだが、まさか、いきなりこんな展開があるとは思っていなかった。会って数日で旅行をともにするなど、普通の恋愛関係では、あまりないことだろう。二人の距離はいきなり縮まる。急接近である。

そんな時間の中、私自身、まさかという感情が芽生えてきた。ただセックス出来ればいいというだけではなく、恋愛感情めいたものも伴ってきたのだ。彼女に対して惚れたとか、可愛いとか、魅力的だなどと感じ、そんな言葉を前回、敢えて散りばめたのも、私の感情の奥底に溜まった声を形にして、吐き出しておきたかったからだ。

つくづくセックスとは強烈なものだ。「セックスから始まる恋愛がある」。そんなフレーズは、“セックスが自由解禁”(「アンアン」のセックス特集ではないが、80年代後半から90年代にかけ、レディスコミック、レディスマガジンなどにもセックス礼賛漫画や企画が増えてくる)された90年代以降の表現だが、セックスをしている時の高揚感と安心感みたいなものがそう思わせるのだろう。フィット感といってもいい。妙な収まり具合。何か、二人でいることが必然でもあるように感じるのだろうか。

多分、その時は、それほどではなかったかもしれない。薄らとした恋心くらいか。といっても流石、張芸謀(チャン・イーモウ)の『初恋の来た道』(1999年・中国映画)ほどの純粋さはない。当たり前だ。

留守電

日曜日に“デート”(!?)の約束をしたが、具体的な待ち合わせの時間や場所は決まっていなかった。自宅の番号を聞いていたので、電話をする。彼女は出なかったので、留守電に、折り返し電話をしてもらうように吹き込む。私は実家住まいだったが、自分専用の電話(勿論、携帯電話という時代ではなかった)があり、留守電も外から聞けるように設定していた。

ところが、彼女から折り返しの電話はなく、何度かかけるも、留守電に繋がってしまう。繰り返しかけたが、後に社会問題化するストーカー(同語が日本で定着したのは90年代に入ってからで、事件として規制対象になるのは2000年からのこと)ではない、繰り返し電話をかけるといっても常識の範囲内である。

結局、電話をかけ続けるが、連絡が取れないまま、その日が来てしまう。当日も、おそらくいるであろう午前中に連絡をするが、やはり、出てはくれない。私はいてもたってもいられなくなり、彼女の家へ行くことにした(一回目の家庭訪問で、次も来ることを考え、場所や道順はしっかり把握していた!)。後年、将棋棋士・中原誠名人が当時、愛人だった林葉直子との間でスキャンダル事件(1998年)が起こり、林葉の留守番電話に中原が「今から突撃しま〜す」と吹き込むなど、話題になったが、私自身はそんな“討ち入り”感情はなかった。むしろ、連絡が取れないことで、その安否が気になっていた。変な事件や事故に巻き込まれていないか、心配だったのだ。私の時で明らかなように、初めて会った男性とすぐにホテルへ行ってしまう、その行動は危険極まりない。危なっかしい女性である。何が起きてもおかしくはないだろう。

私の家から彼女の家までは1時間ほどだった。最寄駅から家への道は、しっかり覚えていた。迷うことなく、辿りつく。チャイム(オートロックではなかった。その普及にはもう少し時間がかかっていたのかもしれない)を押す。しかし、返答はない。ドアに耳を押し当て、聞き耳を立てるが、水道や空調、テレビなど、生活音はしない。部屋には誰もいないようだ。

もし、近くに買い物などで出ていれば、部屋の前で待っていればいいのだが、訳もなく前にいるのは流石に怪しい。不審者と間違われてしまう。近所の住人に通報でもされたら、それこそ、洒落にならない。時間を少し置いてから、また、来ようと思って、暫く彼女の家の周辺をぶらりとする。駅周辺の表通りには店などが点在しているが、裏通りに入ると、すぐに閑静な住宅街。犬の散歩をさせているご婦人も見かける。下町とは違う山手感が漂う。

彼女の家の周回(!)も2、3周目に入ったところで、いきなり坂の上から目の前に白いベンツが現れた。助手席に座っていたのは彼女だ。思わず、目を疑う。彼女も驚いたような顔をしている。運転席側の窓が開くと、今でいう(といっても既に死語ではあるが)“ちょい悪”風の男性が「あんた、誰!」と、どすの聞いた声で、恫喝とも取れる言葉を残し、そのまま走り去った。言葉を返すことも追いかけることもできなかった。

一瞬、何のことか、わからず、頭が混乱した。彼女は、私の彼女で、今日は、デートの約束をしていた。ところが、それはすべて、こちらの思い過ごしで、勘違いではないかという気持ちにさせられてしまう。

元々、テレクラなどは敗者のゲームと認識していたが、その敗者のゲームでも敗者になってしまった気分だ。流石、悔し涙にくれるということはなかったが、釈然としない気持ちのまま、この日は撤収を決め込む。そこにいてもいいことは起こりそうにない。

迷走

この日から私の“迷走”が始まったといっていいだろう。ニンフォマニアを自認する“女狐”を再び捕まえ、我が掌中にしようと足掻いたのだ。本来なら、相手は自分より一枚も二枚も上のプレイガール、関わると火傷をするだけ、諦めが肝心と、ケツをまくるのが妥当だろう。何しろ、粋を任ずる私のこと、引きずり、執着することなく、綺麗さっぱりと諦めるのが私らしいというものだ。しかし、そうすることができなかった。

セックスに一縷の真実があるかわからない。ただ、欲望を剥き出し、求め合っていた時、お互いが必要と思い、かけがえのない同胞に出会えたような気がしていた。その刹那に永遠を感じたといったら、嘘くさいかもしれないが、それほど、強烈で、彼女の磁力に引き込まれてしまったのだ。

電話などしなければいいものの、凝りもせず、何度も電話をかけてしまう。留守電に吹き込むものの、当然、折り返しの連絡はない。また、その電話も悪戯電話のように何十回も何百回もかけるようなことはしなかったが、深夜、早朝、お構いなしにかけてしまう。

連絡が取れなくなると、余計、熱くなる。彼女への思いが沸騰する。少なくとも何故、電話に出てくれないか、その理由だけでも聞きたくなる。私にしてみれば、何の断りもなく、いきなり、門前払いをくらわせられた。晴天の霹靂。納得できないというのが正直なところだ。

しかし、その理由を知ることはできない。出てはくれない電話と格闘して、数週間(実際は数日間かもしれないが、とてつもなく、長く感じた)がたったある日、多分、日曜日の昼だったと思う、彼女が電話に出てくれた。

話かけるものの、暫く無言が続くと、いきなり、見ず知らずの男性が出てくる。少し甲高く、声も若々しい。若干、震えてもいる。
「もう電話をするのはやめてください。彼女は本当に迷惑しています。これ以上、しつこくしたら、警察に通報します」

これでは、まるでストーカーである。何度も書いているが、まだ、日本ではストーカーという言葉も認識されていず、その当時は法規制もできていなかった。流行の先駆けと、自画自賛したいところだが、当然の如く、その時はそんな余裕などはない。

私が反論する間もなく、その電話は切られてしまう。声の主は、彼女の家で鉢合わせしたちょい悪の男性ではない。これでもう一人、男性の影が浮上したわけだが、流石、ニンフォマニアである。他にもまだ、いそうだ(笑)。

彼女の家に電話をかけることもままならなくなった私は、次は彼女の会社へと向かう。最初に会った翌朝、彼女から名刺を貰っていた。
会社の前まで行き、まちぶせをする(石川ひとみか!?)。何度か、試みるも都合良く鉢合わせなどはしない。空振りは続く。

そんなある日、夜遅くだが、会社の前に行ってみると、既に灯りは消えていた。誰もが退社していた。会社はビルの2階にあって、外階段を上って入るようになっている。どんなところか気になり、階段を上ってみると、会社の窓が少し開けっ放しのままになっていた。入ろうと思えば、入れる状態になっていたのだ。彼女のデスクを見てみたい。引出などを漁ってみれば、彼女のことが何かわかるのではないかという思いが込み上げる。実際、窓を少し開けてみて、どうしたら、侵入できるかを考えていた。同時にまわりの様子も伺っていた。人が来たら、見つかってしまう。

これでは不法侵入だ。間違いなく犯罪である。あと少しで窓枠に足を掛けそうになったが、寸でのところで理性が働き、思いとどまる。ほんの少しで、犯罪を犯すところ。翌日の新聞に私自身が乗ってしまうところだった。

しかし、そんなことまでしようという、まさに“僕、どうなっちゃてるんだろう”である。本当に常軌を逸していた。恋患いとは、人の心を狂わせてしまうものだ。

そんな“嵐の季節”に足を踏み入れつつも、その時、仕事が忙しかったこともあり、多少なりとも忘れることができ、犯罪を犯すまでには至らなかった。しかし、少しでも時間があると、また、彼女のことを考えてしまう。本当、いつもの自分らしくない。
彼女のことをどれだけ思っていたかなどは口にして敢えて言う必要はないが、その行動がすべて語っているだろう。

日々の忙しさが彼女を失った痛みを忘れさせていった。なかなか立ち直れないでいたが、そうもいってはいられない。後ろ向きのままではいられない、前向きに生きていくしかないのだ。

スキャンダル

それから数ヵ月後、事態は思いもかけない展開を見せた。ある週刊誌が彼女の会社の接待疑惑や贈収賄をスクープし、そのスキャンダルの中心に、彼女がいた。コンパニオンを派遣する会社と、派遣先である大手企業との関係が取り沙汰され、彼女は“愛人”という名の肉弾接待の主役を演じていたのだ。当時、F1などもブーム(日本では1990年から1992年にかけて、社会現象化した。特に後年、1994年、レース中に亡くなるアイルトン・セナが人気だった。ちなみに木村拓哉の1996年のヒット・ドラマ『ロングバケーション』の主人公の名前も瀬名だった)になりかけていて、そういったものに大きなお金が動く時代でもあった。

詳述は避けさせていただくが、そういうことを考えれば、私が鉢合わせをしたちょい悪の男性は、肉弾接待の相手だったかもしれない。妙に辻褄が合ってしまう。

彼女に突然、降りかかったスキャンダル。まさか、彼女自身もそんなことになるとは思っていなかったはずだ。幸い、そのスキャンダルは一誌だけで、他が追随することなく、暫くして、人々の耳目から消えていった。しかし、彼女の傷や痛みは大きいに違いない。

余計なお世話かもしれないが、落ちこんでいるであろう彼女を励ましたかった。これを利用して、復縁(!?)を迫ろうなどとは考えてもいなかった。本当に励ましたかったのだ。

何度か、電話をかけたが、幸い、彼女が出てくれて、少し話すことができた。どんな言葉をかけたか忘れてしまったが、その翌年90年の春に来日するアーティストのコンサートに行くことを約束した。敢えて、名前は出さないが、ビッグ・アーティストで、スタジアムでの公演である。

それから数ヵ月後、私はとっておきの席を取り、その日、彼女とスタジアムで、再会した。騒動の傷は多少、癒えたものの、まだ、心からの笑顔は取り戻せていないようだ。それを隠そうと、モード系のとびきりお洒落なファッションに身を包み、髪は緩いウェイブをしっかりと固め、メイクも凛とした彩を施す。どこかしら、近づきがたいような美しさを漂わせている。彼女をエスコートする自分を誇らしいとも思えた。

そのコンサートは後に伝説となり、語り継がれるものになったが、すべてを忘れさせるような音の洪水が彼女に纏わりついたものを洗い流したようだ。

コンサートの後、六本木のお気に入りのビストロで、彼女と食事をした。ワインを飲み、少し上気した彼女の顔に、久しぶりに笑みを見ることができた。

彼女とは、また、会う約束は特にしなかった。それっきりになってしまうが、それでいいと思った。復縁を目論んでいたわけではない。ただ、少しでも嫌なことを忘れ、楽になってもらえばいい。また、私の“いい人気取り”が出てしまったわけだ。彼女の人生に、私はいない。彼女が解決しなければならない問題は、自らが解決しなければならないだろう。

六本木の夜は、もう春だというのに、少し肌寒くはあった。そんな日はぬくもりを求めたいところだが、一人で、寝ることにする。こんな時に、誰かと温めあったら、また、勘違いをしそうだ。

2012-09-24

第17回■箱根旅情

コンパニオンを派遣する会社に勤める20代後半の女性とのめくるめく夜。それは、あまりに短かった。夜が明け、陽が上る頃には“ブティックホテル”を出なければならない。ほとんど寝ることなく官能を貪っていたが、感嘆と喜悦の夜はあっけなく過ぎ、朝を迎えてしまう。彼女のようにニンフォマニアを自認する女性なら、本来であれば、やることを済ませたらそこで終わりだろう。ところが、さらにめくるめく展開があったのだ。

まさかのモーニングサービス

ホテルを出ると、既に陽は上り、日差しが眩しい。健やかな秋晴れである。246号に近いにも関わらず、空気は澄んでいるように感じた。彼女の家は、そのホテルから歩いて15分ほどのところだという。会話をしていると、耳を疑う言葉が続いた。
「家に来る?」
“家庭訪問”を断る理由はない。意外な“お誘い”に驚きつつも、「うん、行く!」と即答する。

246号を三軒茶屋方向に向かい15分ほどで、彼女の家に着く。世田谷区らしく、板橋区などのマンションとは違い(失礼! 板橋の皆様、すいません!!)、お洒落な外観をしている。彼女の部屋は2階だった。1LDKほどで、特に豪華でも貧相でもない。ある種、バブルとは一線を画した20代後半女性の住処という感じである。コンパニオンの派遣という派手な職業柄、分不相応な部屋を想像していたが、いい意味で裏切られ、思いの他、慎ましやかな暮らしぶりに好印象を抱いた。
彼女はキッチンでコーヒーを淹れ、トーストを焼いてくれる。まさかのモーニング・サービス! テーブルに向かい合い、朝食をともにする。まるで、気分は“同棲時代”(上村一夫の同題の人気漫画があったが、舞台は70年代。そんな貧乏くさい雰囲気はなかった。むしろ、柴門ふみの1990年の「新・同棲時代」が相応しいだろう)。

昨夜会ったばかりなのに、翌朝には、彼女の家で朝食をともにしている。想像や妄想を超える現実に驚く。半信半疑で、女狐に化かされているという感じさえする。しかし、これは夢や幻ではない。

彼女とは、ハレとケ、非日常と日常を共有していた。わずか3日間(アポを取ったのが一昨日、会ったのが昨日、そして、朝食をともにしている今日)で、二人の関係は急速に接近していく。まさにテレクラが成せる業だ。そこに恋愛の駆け引きはなく、ただ、剥き出しの欲望や官能があっただけだ。転がる時は転がるものだ。

朝食を取ったからといって、ゆっくり彼女の家で寛ぐわけにはいかない。お互い仕事がある。彼女が着替えている間に、私は食器などの後片付けをして、最寄りの駅まで急ぐ。「じゃあ、またね」といって別れるが、今度はちゃんと再会するため、お互いに電話番号を交換し、本名も名乗った。名刺交換もしたかもしれない。
燃え上がる二人(というか、私が勝手に盛り上がっていた!?)は、すぐ明日にでも会いたくなるもの。しかし、お互いが仕事を抱え、なかなか、時間が取れない。結局、週末に、仕事を終えてから会うことを約束。その日のうちに決めた。

寝不足でぼけていたのか、どういう経緯からかわからないが、何故か、温泉旅行へ行くことになる。いきなり一夜&朝食をともにしたと思ったら、今度は“旅行”である。まるで、中学生や高校生が夢想するような急展開である。旅行ということは泊りありだから、当然の如く、セックスもありだ、と、勝手に想像を逞しくする。
その温泉旅行、行き先は箱根となった。かの“星空のドライブの看護師”と、箱根を目指して峠道を上るものの、途中で引き返したところだ。“リベンジ”ではないが、箱根よ、もう一度というところだろうか。

週末までは、3日ほどあった。それまで、仕事は上の空というほど子供ではないが、不思議なもので、会えない時間があればあるほど、思いは募る。まるで、付き合い始めた恋人同士みたいだ。勿論、そんな関係ではないことは心得てはいるが、気持ちははやる。ちょっと楽しい、わくわくとした感じ……。前日はまるで遠足の前の日のような気分だった。

おとなの遠足

彼女の仕事柄、土日も仕事になることは珍しくない。その土曜日は仕事が夕方まであるものの、日曜日は休日にできるという。土曜日、仕事を終えた後、私達は待ち合わせをした。千代田線の代々木上原駅のホームに7時(こんどは、車を持っているという嘘はついていない!)。彼女の仕事が赤坂終わりのため、そのまま千代田線の赤坂から代々木上原に来てもらう。そこから小田急線で、小田原まで行くことにした。そのまま箱根に行きたいところだが、箱根だとどうしても到着は9時を過ぎてしまう。食事出しの関係で、それでは遅すぎる。そのため、土曜日は小田原のビジネスホテルなどに宿泊し、翌日、箱根の日帰り温泉に行くことにしたのだ。

代々木上原駅、ホームの進行方向の一番前で待ち合わせした。待ち合わせ時間を少し過ぎ、彼女を乗せた電車が滑り込んでくる。彼女を見つけると、慌てて、乗り込む。下北沢で急行に乗り換え、小田原を目指す。

電車は1時間ほどで、小田原に到着する。ホテルは特に予約していなかったが、駅周辺のホテルに宿泊することができた。チェックインを済ませ、小田原の繁華街にある居酒屋で、鯵のたたきや金目の煮物などを肴にビールをあおる。
ほどよく飲み、良い酔い心地になったところで、ホテルへ戻る。ビジネスホテルのダブルだから、そんなに広くも豪華でもないが、清潔感と簡素さがあれば、二人には充分だった。

めくるめく夜は過ぎていく。不思議なもので、旅先という非日常感が官能を高めるのかしらないが、前回以上に激しく貪ったような気がする。ただ、欲望に任せるままかいうと、そうではなく、気持ちのやり取りもあったように思う。思いが官能を高めるというのだろうか。刹那が永遠に繋がるような錯覚(!?)さえ覚える。

翌朝は、旅館ではないので、チェックアウトぎりぎりまで寝かせてもらう。11時近くまでまったりとしていた。朝食と昼食を兼ねた軽い食事を済ませ、箱根登山鉄道で小田原から箱根湯本へ。まずは箱根湯本の周辺を散策し、土産物屋などを冷やかし、ケーブルカーとロープウェイを利用して、姥子温泉へ向かう。

姥子温泉は大涌谷と芦ノ湖の中間に位置し、金太郎の名で知られる坂田金時の伝説が残る温泉。山姥に連れられた金太郎がこの湯で眼病を治したといわれ、古くから眼病に効く温泉として知られる。特に眼病を患っていたわけではない。箱根の強羅や千石原などの有名どころではなく、箱根でも秘湯といわれるところへ行きたかったのかもしれない。ロープウェイの空中散策では、箱根特有の霧が出てきて、霞の中を進んでいるようで、幻想的でもある。かつて、英国ロック界を代表するピンクフロイド(ちなみに先のロンドンオリンピックの閉会式にもメンバーが出演し、代表作『炎(あなたがここにいてほしい)』をモチーフにした演出もされた)が『箱根アフロディーテ』という野外コンサート(1971年8月6日、7日に神奈川県箱根芦ノ湖畔・成蹊学園乗風台特設ステージ)を行い、そのステージが霧に包まれ、幻想的なサウンドともに幽玄の世界になったという伝説があるが、まさに霧の中を進むロープウェイは、そんな感じでもある。心の中では「原子心母」(ちなみにアフロディーテでは「エコーズ」も演奏された。かの辻仁成のバンド、エコーズも同題から取られている)が鳴り響く。ちなみに、you tubeで、「ピンクフロイド 箱根」と、検索すると当時の映像が出てくる。凄い時代だ!

ロープウェイを下りて、歩いて数分もすると、姥子温泉である。特に日帰り温泉施設などはなかったが、普通の旅館で、日帰り入浴が可能だった。少し寂れた感じで、逆にそれが深山の湯治場という雰囲気を醸し出す。

残念ながら混浴でも露天風呂でもなかったが、二人は温泉に入らせてもらった。泉質は、単純温泉、硫酸塩泉だが、心地いい刺激があるお湯は、昨夜の激務(!?)に染み入るようで、身体が解れていくのがわかる。1時間ほど、温泉を出たり、入ったりする。窓の景色は煙っていたが、それはそれで風情があり、旅の宿気分を満喫することができた。

温泉から出てきた彼女は浮かない顔をしている。泉質が合わなかったらしく、吹き出物が出てしまったという。困ったような、泣きそうな顔をしていたが、その顔は抱きしめたくなるくらいチャーミングだった。困惑する顔を見て、可愛らしいというのも変な話だが、千変万化する表情のどれもが魅力的である。惚れた(!?)ものの弱みか――(笑)。

ひとまず、彼女が落ち着くまで時間をやり過ごしたが、のんびりし過ぎたせいか、ロープウェイがなくなってしまった。まだ夕方くらいだが、思いのほか早く、運転を終わってしまったのだ。同時に、バスを乗り継いでも東京に戻る電車に間に合わなくなってしまった。いつもの“終電やり過ごし作戦”のつもりではではなかったが、気づいたら、なくなっていたのだ。仕方なく(ではないが)、もう一泊して、早朝に宿を出て、東京に戻ることにする。

とりあえず、翌日の出発時間を考え、箱根湯本まで戻り、観光案内所で、旅館を探す。幸い、戦国時代を代表する武将のひとり北條早雲に縁ある早雲寺(北條早雲の遺命により 小田原北條家二代の北條氏綱が大永元年、1521年、箱根湯本に創建した小田原北條家 歴代の菩提所であり、臨済宗大徳寺派の古刹。山号は金湯山。本尊は釈迦如来である)に、ほど近い旅館が予約できた。駅まで旅館の車が迎えにきてくれる。

旅館は国道1号から三枚橋を渡り、旧東海道を上って、早雲寺を通り過ぎ、少ししたところにあった。当時の温泉旅館にありがちな華美な作りではなく、質素でいて、品格がある。飛び込みにしては上々の宿だろう。うまく転がる時は、転がるものだ。

夕食もぎりぎりだが、間に合い、部屋出しにしてもらう。食事の前に軽く温泉に入る。ここも残念ながら混浴ではなく、男と女に分かれて、大浴場へ行くことになる。泉質はアルカリ性単純温泉なので、姥子温泉とは違い、刺激が少なく、しっとりと身体に馴染む。
彼女は湯上りに浴衣姿だ! 浴衣に包まれた肢体が艶っぽい。濡れ髪を結わき、後れ毛がしたたる様は、和の色香がある。彼女の新たな魅力発見である。今度は泉質も肌や皮膚にあったらしく、湯あみが本当に気持ちいいという顔をしている。

部屋の食卓には相模湾の海の幸が並ぶ。鯵やまぐろ、鯛、かんぱちなど、綺麗な皿に盛りつけられる。新鮮な刺身を伊豆の天然のわさびを自ら擦り、しょうゆにつけて、食す。日本酒といきたいところだが、明日も早いので、ビールにする。
焼き魚や煮物なども付いている。酢の物や香の物、汁物、水菓子まである。大した料金ではなかったが、二人には充分過ぎる量である。温泉旅館、浴衣姿、部屋出しの食事など、ある意味、あまりに非日常を過ぎる。1週間ほど前は、まったく想像できず、ましてや、知りあってもいなかった。一本の電話が私達をここまで、導いた。出会いとは不思議なものだ。

温泉に来たからには

元々、食事の始まりが遅かったので、食べ終えた頃には結構な時間になっていた。夜も遅く、日曜日ということで、客も少なかった。ここで、良からぬ考えが浮かぶ。折角の温泉旅館である。やはり、混浴だ!

部屋を出て、男風呂に行ってみると、幸い先客はいない。彼女を手招きして、脱衣所へ呼ぶ。私が風呂に入り、後から入るようにいう。ちょっと冒険だが、男風呂を二人で独占することにする。混浴風呂で、抱き合ったり、水を掛け合ったり、男子たるもの誰もが憧れる“いちゃいちゃ”を実行。室内風呂のため、湯気が浴場内を覆い、ぼやけている。姥子温泉を目指すロープウェイが霧に包まれ、幽玄な世界を彷徨ったが、箱根湯本温泉の大浴場も湯気に霞み、幻想的な世界になる。ある意味、この二人の世界はファンタジック。夢か、幻か。しかし、彼女は、私の手に収まる。それが現実である。

と、ここで、ハプニングが発生。脱衣所から音が聞こえたらと思ったら、一人の男性が風呂場に入ってくる。あまりの突然のことで驚くが、湯気で風呂場は霧のように覆われ、視界もきかない。湯気を纏い、二人は声を押し殺し、息を潜め、抱き合いながら、その男性が出るのを待つ。15分ほどだろうか。風呂から出る音が聞こえ、脱衣所に消える。大人の隠れん坊だ(笑)。

その男性が脱衣所を出たのを確かめ、風呂を出る。流石にのぼせてくる。早く部屋に戻り、水分補給をしなければならない。
部屋に戻ると、冷蔵庫にあった冷たい水を一気に飲み干した。のぼせ、上気した身体を静める。一日中、動き回り、風呂にも長くつかり過ぎた。身体は疲れ切っているはずだ。翌朝も早いというのに、二人は朝まで求め合う。と、書くと激しい攻防(!)を連想させるかもしれないが、風情ある“むつみごと”だった、とだけいわせていただく。

2泊3日の温泉旅行。箱根への旅は、いうまでもなく、テレクラが契機である。新宿・歌舞伎町のストリートの先に箱根へのロードがあった。私のテレクラを巡る、新しい旅が始まったようだ。

2012-09-14

第16回■ニンフォマニア

「私って、ニンフォマニアって言われているの」
“彼女”はそう呟き、妖しく微笑んだ。

熱い夏は漸く終わりを告げたが、それでも夏の名残はあり、暑さを感じさせながらも少しだけ秋の気配が忍びこもうとしていた。彼女と電話で、話したのは、その日の前夜のこと。久しぶりの“HOME”、新宿・歌舞伎町の「ジャッキー」だったと思う。渋谷を主戦場にしていたが、たまには、里帰りも必要、馴染の店には顔つなぎは欠かせない。ホームはいつもと変わらない、やさしさといい加減さで、迎えてくれた。

その20代半ばという会社員と電話が繋がったのは、終電前くらいかもしれない。どんな話をしたか、あまり詳しく覚えてないが、行きつけのバーやレストランの話で盛り上がり、なんとなく気が合い、話がうまく転がる。

阿吽の呼吸や掛け合い漫才ではないが、時々、テレクラで話をしていて、なんの不自然さもなく、自然と会話が弾むことがある。後でわかったことだが、その彼女、モーターショーやレースなどにコンパニオン(パニオンも当時の合コンなどでは花形だった。まだ、岡本夏生がいまのようになるとは想像もつかない時代だ!)を派遣するイベント会社の営業で、人と話を合わせるのはうまいはず。私自身も企画関係の仕事をしていた関係で、そのような人種の扱いは慣れていて、“業界ノリ”になんとなく乗ることもでき、軽口のいい加減な話も辻褄があってしまったりする。もっとも、それ以前に、最初から相性の良さみたいなものもあったのもかもしれない。特にエッチ系の話などは振っていないが、なんとなく(という表現が多くなるが、まさにそんな感じなのだ!)気が合ったことから、すんなりとアポを取り付けた。

テレクラ経験者には、そんな体験をした方も少なくないと思う。親和性が高いというか、話していて、最初からしっくりくることもある。もっとも、話がしっくりいっていても、いきなり電話を切られることもあるから、テレクラは奥が深い(笑)。彼女とは渋谷のバーで、飲もうという約束をした。勿論、時間も時間だったので、これから直ぐではなく、翌日の夜になった。

現れた美女

夜にアポがある、こういう時は、仕事は浮足立ち、上の空になるかというと、そうでもない。夜に楽しいことが待っていると思うと、却って、普通でいられる。逆にいうと、ルーティンを乱したくないから、変に力んだり、手を抜いたりはしなくなるもの。勿論、約束の時間に間に合うように時間通りに切り上げることだけは忘れない。

彼女とは、渋谷の宮益坂(最近の主戦場がある。すっぽかされたら、ここへ駆け込もう!)にあるシティホテルのロビーで待ち合わせた。約束の時間より、少し早めに着いて待つ。

数分後、約束の時間になると、ホテルの館内放送が流れる。私の名前(勿論、偽名)を呼び、電話がかかっているという。電話に出ると、彼女からだ。仕事が伸びて、少し遅れるという。先にバーへ行って、待っていて欲しいとのこと。バーは昨日、電話で話題になった公園通りにある“お洒落な店”。バブル時代だから絢爛豪華の内装ばかりかというと、逆に黒や白など、モノトーンを基調としたシックな店なども流行っていた。待ち合わせのバーは、後者だった。

バーのカウンターでギムレット、とチャンドラーを気取りたいが、そんなわけはなく、もともとアルコールが強くないので、軽めのジントニックなどを飲みながら、待つ。30分ほど経つが、彼女は来ない。あれだけ電話で盛り上がっても、いざ会うとなると別ものか――と、疑心暗鬼になりそうなところで、漸く、彼女が現れた。

ミディアムヘアーに軽いウェイブがかかっている。背はそれほど高くないが、均整が取れている。濃紺のジャケットに、同色のスカート(長くも短くもない、品のいい長さだ)。まるでリクルートスーツ(この言葉は70年代からあるらしい)だが、シルエットやボタン、切り返しなど、こじゃれた細工がされ、シックながら、キュートである。職業柄(後から知ることだが)か、流石、洗練されている。その顔だが、当時、個性派女優として映画やテレビなどに出ていた女優に似ていた。目鼻立ちが整う、美人女優の面持に、今様、現代的な風情が加わる。おそらく、誰が見ても綺麗や可愛いという評価を貰うだろう。いわゆるテレクラ基準とは別なところにある。

私の顔を見るなり、初めまして、と軽く頭を下げて、挨拶をする。その辺は業界の挨拶風で、そのまま名刺交換をしそうになる(笑)。私はカウンターの横の席を勧める。優雅に腰を滑らせる。席と席の間隔は自然に肩が付くようになっている。とりあえず、私の顔を見るなり、嫌悪感を示したり、逃げ出すような態度を取られず、安心(安堵!)する。

テレクラなどで待ち合わせに行って、顔を見られて、失望されて帰られる(逃げられる)ことはあまりなかった。特に顔が良く、スタイルもいいというわけではない。当時、既に“三高”(高学歴、高収入、高身長の男性のこと。1980年代末のバブル景気全盛期に、女性の主流層が結婚相手の条件にこの三高を求め、流行語、俗語にもなっている)という言葉はあったが、“イケメン”(多分、男性が散々、女性を綺麗とか、可愛いとかを価値判断で長年、騒いでいたことへの女性からの意趣返し)などという軽佻浮薄な言葉もなく、容姿などでは足切りはされなかった。

私の身なりだが、清潔感は意識したが、特に高価なものを身に付けたり、纏ったりはしていなかった。バブルに踊らされることなく、ベルサーチなどは着ず、シップス、ビームスのライン。無難ではあるが、どこにいても違和感を抱かせないものにしていた。それも好印象を与えることに奏功したのかもしれない。彼女は職業柄、バブル紳士には辟易しているはず。

また、女性に対する自然な立ち居振る舞いや、インタビュー千本ノック(企業の広報誌を編集した関係で、同誌の仕事でいろんな人にインタビューをしていた)の経験を生かした、相手の警戒を解き、すんなりと懐に入っていく術を体得してもいた。おそらく、そんなところがキャンセルやチェンジ(風俗店か?)を食らうことが少なかった理由だろう。

いまや昔ではないが、体型も変わり、容貌も相当(いや、多少くらいにしておこう)、劣化したが、当時は、少なくも相手に嫌悪感を抱かせるようなことはなく、それなりの見映え(というほどでもないが)をしていた。そういえば、一度だけだが、“読モ”(読者モデル)もしたことがある。といっても、学生時代に、あるアウトドア―雑誌の「北アルプスを走破する」みたいな企画で、奴隷のようにこき使われただけだった(と、さりげなく、自慢しておく)。

意外な大物

無事、面接試験(!?)にパスすると、電話の時のように、いい感じで話が転がっていく。彼女の仕事のなどの話を聞いて、その時、初めて、コンパニオンを派遣している会社に勤めていることを知った。一瞬、彼女を通じての「アンド・フレンズ作戦」(新たな交友関係ができると、その交友関係から紹介やコンパなどで、新たな交友関係が生まれる)&「コンパニオンほいほい」も浮かんだ。もっとも、それ以前に、彼女をどう料理する(なんて言いたいところだが、流石、そんな不遜ではない)を考えを巡らしていた。

当時、それなりの遊び人は自分の中にクリシェのような、女性を落とす技や必勝法を各人が持っていた。男性週刊誌などでも女性を口説き落とす“アイテム”や“シチュエ―ション”は紹介されていた。ドライブや夜景、遊園地、観覧車、海岸など、様々なものがある。その中で、私は夜景を得意技(!?)としていた。素敵な夜景を見たら、女性は落ちる。いまにして思えば、随分、単純な話だが、いまだに素敵な夜景の見えるところがデートスポットになっているのだから、案外と女性心理とは変わらないもの。

例によって、終電近くまで粘り、いい感じで、酔ってきたところで、バーを出る。当然、駅を目指さず、渋谷駅とは反対、公園通りを上る。渋谷公会堂を過ぎ、NHK辺りになると、建物も少なくなり、風が吹き抜ける。火照った身体に心地良い。彼女は自然に腕を絡めている。今度は、前回と違い、振り払う理由はない(笑)。

公演通りを上り切り、国立代々木競技場へ向かう。別に競技や試合、コンサートを見るのではない。同所から原宿駅へ抜ける遊歩道は小高くなり、渋谷の夜景が見渡せる絶好の夜景スポットになっているのだ。バブル期である、必要以上に眩い照明に煌めく渋谷の街。その夜景は、キラキラと輝いている。

二人で夜景を見つめながら、身体は自然と密着し、抱きしめ合い、口づけを交わす(奪うでも貪るでもなく、交わすが相応しい。なんとなく、二人は唇を求めていたようだ)。そして、先の言葉が彼女の口から呟かれたのだ。

「私って、ニンフォマニアって言われているの」
そう呟きながら、彼女は妖しく微笑んだ。まさか、そんな言葉を聞くとは思ってもいなかったが、そんな言葉を呟かれたら、男は“イチコロ”というもの。落としたつもりが、落とされた。意外な展開に、一瞬、たじろぐ(うまい話に男は疑心暗鬼になるもの)が、そこからは、めくるめくような展開が待っていた。

と、余韻を持って終わりたいところだが、一回の連載分には字数不足(かわからない!?)、なので続けさせていただく。

彼女は「行きたいホテルがある」と、言葉を重ね、さらに渋谷から246を三軒茶屋へ向かい、商業地と住宅地の間の奥まったところにある“ブティックホテル”の名前を出す。いまでは、ブティックホテルなど聞きなれない言葉かもしれないが、ラブホテルにような華美さや猥雑さがなく、シティホテルのゴージャスさとラグジュアリーさを兼ね備えた“ラブホテル”のこと。現在もラブホテルの別称であるらしいが、当時の女性誌などにもお洒落なところとして、紹介もされていた。

私は利用したことはなかったが、一度、行ってみたいとは思っていた。その最初が彼女なら、今回もその誘いを断る理由がない。急いで、タクシーを拾う。多少、246は渋滞していたが、15分ほどで、到着する。

高台に建つ同所は、ヨーロッパのリゾートホテルのような外装で、まわりの風景に違和感を醸し出すことなく、ひっそりと佇む。過剰な淫靡さもないから入りやすい。室内も間違っても回転ベッドなどはなく、外国製のキングサイズのダブルベッドが悠然と置かれていた。室内装飾も品のいい壁紙に瀟洒なインテリアが囲む。バスルームには猫足のバスタブが設置されている。女性が憧れ、これなら入りたいと思うのもわかる。

私達は、シャワーを浴びる間もなく、抱き合い、唇を求めると、キングサイズ・ダブルのベッドにダイビングする。ここは、遊泳禁止区域ではない、自由に泳ぎまわっていい場所だ。服を勢いよく、脱ぎ捨てると、二人は夜の海を泳ぐ。彼女は、恥ずかしそうにはにかみながらもニンフォマニア=色情狂の面目躍如(!?)、言葉に違わぬ積極性と淫乱性で、私を翻弄していく。はにかんだ表情は悪戯っぽい微笑みを湛えつつ、さらに妖艶さが加わる。その眼差しは男を捉えて離さない。自ら快楽を貪ることで、自身の官能の指標が上がっていくようだ。時間が経つほど、大胆になっていく。大当たりである。とてつもないものを釣り上げてしまった。そこには単なる大人のエッチを超えたワンランク上のエッチがあった(笑)。まるで、三流の官能小説だが、リアル“フランス書院”か、リアル“マドンナメイト”か。事実は小説より奇なり。そういうものだ(So it goes!)と、思わず、我が敬愛するカート・ヴォネガットの決め台詞を呟きたくなるが、めくるめく展開は、さらにめくるめく――。

2012-09-03

第15回■コンビニのおにぎり

逆戻り

まだ、私にも良心らしきものは残っていたのかもしれない。埼玉の家電量販店に勤める20代の女性とアポをとりつつもの、すっぽかして、家に帰ろうとしていたところで、(「連続幼女誘拐殺人事件」の)“臨時ニュース”。思い込みだけで深夜にタクシーを飛ばし、渋谷まで来て、ハチ公前で知らない男に声をかけられ、ほいほいとついていってしまう女性だ。もし、変な男につかまったら大変なことになる、と急に不安になった。「東電OL事件」が起こるのはまだ10年ほど先(1997年)だが、道玄坂を上った先の円山町のラブホテル街では、女性が行きずりのセックスの果てに傷害や殺人などの被害者になる事件も起きていた。

もし、その女性が見ず知らずの男とホテルに消え、事件などに巻き込まれたとしたら、それこそ罪悪感のようなものが重くのし掛かり、一生、後悔して生きなければならないだろう。翌朝、新聞に彼女の名前や顔写真が出ていたら、寝覚めが悪いこと、この上ない。いくら私でもそのぐらいの良心(というか、自分かわいさゆえの自己防衛本能だろう)はあったようだ。

慌てて渋谷へ戻ると、その女性はハチ公前で待っていた。改めて見ると、歯並びが悪く、口元がだらしない。そんな容貌にかかわらず、やっと会えたことが嬉しいらしく、にやりと微笑むから、よけい不気味(失礼!)である。

既に時間は遅く、飲食店はほとんど閉まっていたが、道玄坂に深夜までやっている喫茶店があることを知っていた。テレクラの朝までコースを利用しない場合、始発までの時間稼ぎに使っていた店だ。深夜だと、珈琲を頼んでも必ず食べ物(マドレーヌやカステラみたいなもの)が付いてくる。当時、喫茶店を深夜営業にするためには、食品衛生法か、風営法かの関係で、食べ物を提供しなければならなかったのだ。

本来であれば、深夜ということもあり、居酒屋やカフェバーなど、アルコールの出る、雰囲気のあるところに入るべきだろう。しかし、酔った勢いでことに及ぶ、というのを避けるため、なるべくソフトドリンクのみ、アルコールのないところにした。店内の照明も明るく、性的な匂いのするところから、敢えて遠ざかる。

“地雷女”?

喫茶店では、マドレーヌを紅茶に浸してみるが、その女性との“永遠”は見えなかった(プルーストの「失われた時を求めて」ではない、当たり前だ!)。他愛のない話で時間をやり過ごしていたら、いきなり、その女性が顔を近づけ、私の耳元で、「いいのよ、ホテルへ行っても」と、甘く(?)囁いた。

この積極性に余計、引いた。普通なら、男は女性からこんなことを言われたら嬉しく、天にも昇る気持ちになるところだ。私自身も散々、テレクラで粘り、釣りあげたのだから、本来であれば話に乗らなければいけない。ところが、なかなか、話の先へ行く気になれないのだ。

まだ、「草食系」や「肉食系」などの“陳腐”な表現がない時代だった。そんな例えで敢えていえば、私はテレクラに行くくらいだから、「肉食系」で、性欲旺盛だった。ところが、あまり“やる気まんまん” (©横山まさみち)に迫られると、こちらも思い切り引いてしまう。

ご存知の通り、意外と強引になれず、押しも弱い私だが、逆に、相手が無理矢理に押してくると引いてしまうもの。天邪鬼なものだが、そんな弱腰の態勢のせばかりでなく、私の中の危険を察知するレーダーが反応していたことも確かだ。

深夜に埼玉から渋谷までタクシーで来てしまうくらい思い込みが強い、しかもすれ違った(!?)後に指名コールをされたことで、ストーカー的な資質を感じた女性だ。セックスなどしたら、面倒くさいことになる、後にテレクラ界で流行る“地雷女”になりそうな予感を抱いたのだ。

性欲にまみれていても理性はなくしてはいけない。我ながら、遊びながらもちゃんとわきまえている。たった一度の火遊びで、人生を台無しにしたくない、と漠然と考えていたのかもしれない。単純に容貌が好きか嫌いかだけでなく、その女性が放つ危険な香り(異臭!?)が私を遠ざける。

ちなみに、その女性の容貌だが、当時、人気だったロック・バンドの女性キーボード奏者に似ていた。多分、同じバンドのメンバーと結婚したはずだ。前述した通り、笑うと、独特の不気味さがある。怖いと感じてしまう。体系もスレンダーというより、痩せぎすといったようなスタイルで、あまり、抱き心地がいいとは思えない。勿論、抱く気はない(笑)。すべてがきつかった。

円山町へ

甘い囁きをさりげなく聞き流し、かみ合わない話をしながらも、時間をやり過ごそうとするが、なかなか、時間は過ぎていかない。始発まではまだ大分ある。「変な人についていっちゃだめだよ」と、子供に諭すように言い含め、先に帰りたくなるが、流石、そこまで非情にはなれない。そのうち、だんだんと眠くもなる。当時、深夜喫茶は、睡眠が禁じられていて、仮眠などしていると起こされてしまう。その頃、いまのようなネットカフェや漫画喫茶があればきっと、利用していたはずだが、まだ、そんなものは出揃ってはいなかった。

仕方ないので、深夜喫茶を出て、道玄坂を上った。女性は嬉しそうに腕を絡めてくるが、横断歩道を渡る隙にさりげなく振りほどく。露骨に嫌な顔は出来ないので、あくまでも自然な流れで離れた、といったそぶりをとる。道玄坂を上ると、百軒店を過ぎ、円山町の入口になる。いまのようにクラブやバー、ライブハウス(「オンエアー」が出来たのは1991年)などもなく、あるのはラブホテルばかり。その街に消えるものたちの目的は既に決まっていた。

円山町は道が入り組み、迷路のようになっている。実際、その時、どこにいたのか、どこのホテルに入ったかは覚えてない。道玄坂から東急本店に抜けるメインストリートに面したホテルではなく、少し奥まったところだったと思う。まさに意を決して、ラブホテルに突入だ。嫌々に不承不承でラブホテルへ行くなんて、初めてのこと。考えてみれば、これまでとは真逆の展開だ(いつもはこれから始まることに期待を込めつつ、喜々として入った)。深夜なので既に休憩料金ではなく、宿泊料金になっていた。多分、タクシーで帰った方が安かったと思う。

蛇に睨まれた蛙

派手な内装や凝った間取りではなく、とりたてて記すべきものがない、何の変哲もないラブホテルだった。昔からある連れ込み宿的な風情があったことだけは覚えている。たたきを上がると和室があり、障子の向こうには寝室がある。畳に座り、机を囲み、お茶を飲む。まるで、不倫旅行にでも来たような感じになる。和室から寝室へ目をやると、当時の流行なのだろうか、浴室がガラス張りで、寝室から見えるようになっている。ここら辺は、せめてもか、ラブホテルらしいところ。

うだるような暑さだった。汗もかき、身体もベタついている。その女性は風呂に入ると言うと、急ぐように浴室へ消えた。ガラス越しに薄ぼんやりと、シャワーを浴びる肢体が見えるが、敢えて見ないようにする。もし間違いでも起こしたら、大変なことになる(笑)。浴室から出てくると、その女性は裸体をバスタオルを包んだだけの姿だった。すっかり、やる気だ。私も汗だくなので、シャワーを浴びることにする。汗を洗い流しながら、この絶体絶命のピンチをどう切り抜けるか、考えを巡らす。と、その時、天啓のように閃いた。「星空のドライブの看護師作戦!」(もう随分前のことになる。連載では第5回だ。シティ・ホテルでのプール・デート後、「星空のドライブ」をした看護師を覚えているだろうか。彼女はホテルに入り、ベッドを共にしながらも「好きな人とでないと、できない…」と、言い放ったのだ。この手がある!)があった。

浴室から出て、脱衣所で、濡れた体をバスタオルで拭き、ホテルの浴衣を羽織る。裸体にバスタオルだと、変な期待をさせてしまう。

寝室ではなく、和室へ行き、冷蔵庫から清涼飲料水を出し、火照った身体を静めていく。その女性にも勧める。コップの縁に口をつけると、性的なものを暗喩させるようなしぐさで、飲み干す。目つきも獲物を狙うように妖しい光を帯びる。まるで、私は蛇に睨まれた蛙だが、修羅場を切り抜ける算段はついている。「大丈夫だ、頑張れ、自分」、と、心の中で言い聞かせた。

前のめりになっているその女性をすかし、かわすように、少し落ち着いた声色で話し始めた。

「ぼくは、そんな男性じゃないから」
(そんな男とは、いきなり会った見ず知らずの女性と一夜を共にするような男性のこと)

「身体目当てじゃないんだ。何もしないよ」
(勿論、テレクラだから身体目当てできている)

天使と悪魔ではないが、誰も二面性があるもの。まったく意に反することを、さもいい人という面持で、しらっと言う。“なんて誠実な人、変な人じゃなくて良かった”と、思ってくれることに賭け、一芝居を打ったのだ。

本来、“誠実さのかけらもなく、笑っている”(©ブルーハーツ)ような人間だが、相手のことをさも大事に思っているように見せかける。

多分、いま、こんなことをラブホテルというシチエ―ションでいったら、女性に興味がないと思われるか、自分が女性として見られてないと思い、女性自身がショックを受けるはず。昔は、敢えてセックスしないことが“いい人”だと判断され、通用する、のどかな時代だった。

その女性は不満な表情を浮かべつつも、なんとなく、私の誠実(!?)な対応に納得したようだ。かの「星空のドライブの看護師作戦!」、我、成功せり、である。

ただ、睡魔が襲い、性欲は限界ではないが、睡眠欲が限界に近づいてきた。始発の時間まで、寝ることにする。寝室には当然の如く、ベッドがひとつしかない。仕方なく、二人で寝ることにする。

しかし、ベッドで二人いることで、何か間違いが起こってはいけない。ここは慎重な私のこと、しっかりと、「星空のドライブの看護師作戦!」に続く、次の作戦は用意していた。

“誠実な人”

まず、その女性にベッドに寝てもらい、その上から掛け布団を横にして掛ける。そして、私も横になり、掛け布団の上に寝る。そして、掛け布団を折り曲げ、身体に掛ける。こうすると、直接、肌と肌が接しないようになる。丁度、コンビニのおにぎりのようなもの。ご飯と海苔が包装フィルムで仕切られ、直に接しないようになっている。それゆえ、食べる時にフィルムを剥すので、海苔がべとべとになることなく、パリッとした食感で、食べられる。

コンビニのおにぎりの包装方法のような形で、寝ることになった。いまにして思えば、この「コンビニのおにぎり作戦」、かなり滑稽ではあるが、その時は、生身の女性が隣に寝ている気の迷いで、良からぬことをしてしまうかもしれない、そんなことは決してあってはならない──そんな思いで、布団にくるまったのだ。

なんとなく落ち着かず、浅い眠りが続き、何度も目を覚ますが、欲望に駆られることなく、気づくと、完全に寝落ちしてしまった。

不思議なもので、こんな時は早起きになる。多分、6時過ぎには目覚め、顔を洗い、歯を磨いていた。起きてきたその女性に、おはようと、優しく声をかける。約束通り、何もしてない。“なんて誠実な人だろう”と、彼女は思っていると勝手に判断させていただいた。

着替えてもらい、ホテルを出る準備をする。一番近い駅はと聞かれ、京王井の頭線の神泉の駅を教え、ホテルの玄関を出たところで、「じゃあ、またね」と、心にもないことを言って(勿論、連絡先など聞いていないし、教えていないので、会う術などはない!)、別れる。もう朝だ。ホテル街を一人で歩いても危険なことはないだろう、と判断し、その女性を“放流”した。

私は渋谷駅を目指し道玄坂を急いで下る。修羅場(!?)を無事に切り抜けた安堵感に包まれる。やはり、この日も朝だというのに日差しは強く、眩しいくらい。また、汗をかいてしまいそうだ。駅の売店には、昨夜の“臨時ニュース”で、第一報が流れた“事件”を報道する朝刊が並ぶ──。

2012-08-28

第14回■トレンディドラマと臨時ニュース

理想と現実のあいだ

“エロブス”な30代独身女性を始め、テレクラ活動では、一人住まいの女性の家へお邪魔する機会も少なくなかった。私自身が実家住まいということもあり、家に連れ込むわけにもいかず、自然(!?)と、女性の家へ雪崩れ込むことになる。

特に統計などを取っていたわけではないが、どの女性の家も慎ましやかだったという印象がある。東京での女性の一人暮らし、いくらバブル期とはいえ、生活そのものまでバブルというわけにはいかなかった。実際の収入と家賃や光熱費、食費などの生活費を勘案すると、生活そのものは汲々として、大変ではなかったかと思う。当時、『君の瞳をタイホする!』や『抱きしめたい!』、『君が嘘をついた』、『君の瞳に恋してる!』、『ハートに火をつけて!』、『愛しあってるかい!』など、トレンディドラマといわれる、都会に住む男女の“シティライフ”を描いた恋愛ドラマが流行っていた。一連のドラマを見ると、主人公は高層マンションのお洒落なインリアに囲まれた部屋に住み、バルコニーからは東京タワーが見え、シャンパンやカクテルを片手に眺めるみたいなシーンも多かった。いまなら子供有りの若夫婦が慎ましやかに暮らしていそうな2LDKや3LDKのマンションに一人で住んでいるという感じだ。ドラマの中ではセンターキッチンのダイニングにウォークインクローゼットまであった。そんなところに「W浅野」(浅野ゆう子、浅野温子)や中山美穂、鈴木保奈美、石田純一や三上博史、陣内孝則、柳葉敏郎などが住んでいる。多分、ドラマを見て、そんな東京暮らしに憧れた女性も少なくないはず。トレンディドラマなど、まさにバブル期の幻影のようなものだが、当時は憧れや夢の対象でもあった。

ところが、実際にそんな生活をしているのはごくまれである。私が“家庭訪問”させていただいた部屋は、どれもこぢんまりとして、質素な佇まいであった。少なくともバルコニーから東京タワーが見えるようなところはなかった(そもそも東京生まれ、育ちのわたしとしては、東京タワーへの憧れなんていうものはない!)。

バブル期には、その崩壊前後を境にして、理想と現実の乖離みたいなものがあった。ある種、脅迫概念みたいなものがあって、メディアが垂れ流す虚飾と現実の生活との落差に、追い詰められていたものも多かったはずだ。後年、頻発する虚飾と粉飾にまみれた、恋愛商法や結婚詐欺などの“偽セレブ事件”的な犯罪の萌芽や温床もそんなところにあったのではないだろうか。

渋谷

そんな現象については、また、この連載の中で、触れる機会も(覚えていたら?)あるだろう。話は先へ進ませていただく。その頃、狩りや釣りの主戦場を新宿から渋谷へと変えていた。店は以前、紹介した桜ヶ丘にひっそりと佇む「アンアン」、そして、宮益坂を上ったところにある「トゥギャザー」。2カ所を渋谷テレクラ作戦のアジト(もしくは根城)とした。

新宿から渋谷へと“転入”したのには、理由がある。以前も触れたが、新宿の当たりが悪くなり、魚影も薄くなったから、渋谷へと移動したわけだが、その背景には、人の流れが新宿から渋谷へ移ってきたと感じたことも影響している。同時に新宿と渋谷のイメージも大きく変わってきた。

暴力団の抗争(小説『不夜城』ではないが、90年代以降は無国籍化・多国籍化することで、外国人犯罪も頻発する)や薬物取り引きなど、新宿の“物騒な街”化が進み、さらに、キャバクラやAVなどのスカウト、ホストクラブなどのしつこい勧誘も多く、いずれにしろ、新宿は女性が安心して歩けるところではなくなってきた。雑誌や新聞、テレビなどでも事件や事故が連日、報道されていたのだ。

渋谷は“若者の集まる街”化は進み、お洒落なブティック(死語!)やレストラン、バーなども多く、公園通り(既にパルコは誕生している)やセンター街などに人が集まりだす。まだ、チーマーも暗躍してはいないし(1989年には誕生したらしいが、実際に隆盛を極めるのは92年前後から)、ブルセラ(ブルセラショップなども乱立するのも90年代に入ってから)もなかった。まだ、不穏な空気を孕む前の渋谷は平和で、若者の楽園(!?)でもあった。渋谷駅を基点にする、田園都市線や京王井の頭線、東横線などの沿線の繁華街、自由が丘や二子玉川なども若者の注目を集めつつあった。さらに原宿や青山、表参道などにも電車で数駅という、好立地でもある。

そんな状況を鑑み、もし、女性がテレクラに電話するなら、新宿の店ではなく、渋谷の店を選択するのは自明の理で、新宿より、渋谷の方がまともな男性がいると考えるのも当然だろう。いわゆる、地域におけるイメージ・ヒエラルキーが生じている。同時代には、地方格差だけでなく、地域格差まで起きている。後のタウン誌などの「住んでみたい土地ランキング」などで、それは如実になっていく。少なくとも足立(たけしさん、ごめんなさい!)や葛飾(寅さん&両さん、ごめんなさい!)は、女性が憧れる街ではなかった。そう難しく考えなくても単純に新宿と渋谷を比較したら、どちらがお洒落かといえば、やはり渋谷だろう。

風を読む

女性が新宿から渋谷へとシフトするなら、テレクラ男子も新宿から渋谷へとシフトせざるをえない。遊び人たるもの、風を読むことが必要だ。そんな嗅覚だけは、敏感だったりする。遊びながら考える、考えながら遊ぶを心掛けていた。むしろ、そんな創意工夫をし、意匠をこらして、作戦や戦略を練ることが楽しくもある。

その日はうだるような暑さだった。陽が沈んでも暑さは止むことなく、すんなりと眠りにつくなどできそうにない――そんな夜は、テレクラで、涼むに限る(!?)。

渋谷の宮益坂を上ったところにある「トゥギャザー」は、全国展開をしているような大型店ではないが、同じ渋谷圏内に何店舗かある中型店だった。システムは早取制ではなく、取次制。渋谷駅前や公園通りなど、宣伝用のティシュ配りも精力的で、渋谷ではコール数が多いところとして知られていた。

午後11時は過ぎていただろうか、埼玉に住む家電量販店に勤めている20代後半という女性と繋がった。面白いテレビがなく、暇なので(大体、コールする理由はテレビ番組がつまらない、暇をしていたからというのが当時、多かった。これから会って、すぐエッチしたいみたいなストレートなものは皆無である)、電話したという。

明日は休みらしいが、流石、埼玉ということで、これから会おうという「即アポ」は無理と考え、比較的、ゆったりとした気分で電話に付き合うことにした。彼女の店での客に対する愚痴など、丁寧に聞いてあげる。そんな中、彼女の話し方や受け答えが聞いていて心地良く、その声もとても感じがいいと、褒めあげる。

勿論、お世辞(このくらいの嘘は平気でつく!)だが、それが彼女を射抜いたようだ。そんな風に言われたのは初めてだと話す。私自身、特に意識していたわけではないが、客商売はストレスがたまるもの、俺様的な客も多く、店員の前で横柄な口をきくものも多い。この辺は風俗店や風俗嬢の私流の対応に近いものがあるが、常に相手の立場に立ち、相手を思いやる気持ちがあると、随分、印象も違うもの。相手も好感を抱きやすい。お世辞や嘘という表現を先ほど、してしまったが、どこか、相手を労い、敬うような姿勢が根底にあったからこそ、出てきた言葉だと思う。

埼玉に住んでいるにも関わらず、これから会いたいから、出てくるという。かなり話し込んだので、既に彼女が住んでいるところから渋谷への電車はなくなっている。タクシーを飛ばしてくるという、埼玉でも群馬寄りではなく、東京寄りらしいが、それでもタクシー料金は安くはない。1万円は超えるはず。当然、この時間だから、泊まり覚悟でくる。私自身はアポを取るつもりはなかったので、あまりに意外な展開に驚く。まだ、渋谷から私が住んでいる下町への電車はあったものの、これは“運命”(笑)と諦め(嘘!)、終電をやり過ごし、帰ることなく、待つことにする。服装や髪型など、待ち合わせの目印などを教え合い、待ち合わせ場所は渋谷のハチ公前にした。あまりにもベタな待ち合わせ場所だが、終電過ぎである、人も減り、昼間よりは見つけやすいはず。地方(失礼!)に住んでいる方には、わかりやすいにこしたことはない。

出会いを引き寄せる言霊

埼玉から東京まで深夜にタクシーでこさせてしまう、自らの言葉の力(言霊)に驚くばかりだが、たまたま、そういう女性に当たったから、そのような結果を引き出せたわけではない。やはり、会えるには理由があると考えている。もし、出会いの「必勝法」や「法則」(やっと、テレクラの“指南書”らしくなってきた!?)みたいなのがあるとしたら、焦らず、じっくりと相手の話を聞き、そこから相手のいいところを引き出す(もしくは言ってもらいたいところを見つけだす)ことではないだろうか。痒いところに手が届くではないが、その言葉を待っていた、みたいなものを察知することだろう。それが彼女の場合、客の対応への評価であり、感じのいい女性であるという彼女評ではなかったかと思う。その時点では、特にセクシャルな会話などはしていなかった。よくテレクラの個室の壁に、「出会いの3原則」みたいなことが貼られている。そこには、「じっくり話をする」、「いきなり会おうといわない」、「すぐエッチな話をしない」といった標語というか、教訓が掲示されているが、それもあながち嘘ではない。私自身、それを知らずのうちに、実践している。埼玉の彼女の場合、遠距離ということで、すぐに会おうと切り出さず、じっくりと腰を落ち着けて話したのが奏功したのかもしれない。

我ながら言葉の魔術師とうぬぼれたいところだが、日帰りから泊まりへ、嬉しい予定変更、心の中で、喝采を上げる。待ち合わせは電話を切ってから、1時間後だろうか。アポを取った後もドタキャンを考え、次のアポを取り付けようとするが、短時間勝負なので、なかなか会話が転がらず、空回りするのみ。

そうこうしているうちに、待ち合わせ時間が近くなり、慌てて店を出る。渋谷駅のハチ公前へと急ぐ。駅構内を通り過ぎ、ハチ公前に視線をやると、目印のボブヘアーで、カットソーに、ミニスカートというスレンダーな女性が見えてくる。多分、30メーターほど先だろうか、ところが、私が声をかける間もなく、彼女は声をかけた男性について行ってしまう。宮益坂ではなく、道玄坂を上りだす。

インターセプトされてしまった。横取りだ。実は、私自身も試したことがあるが、ハチ公前などは、テレクラでも待ち合わせのメッカ、必ず、一人や二人はテレクラのアポ待ちがいるもの。そういう女性に近づき、さもアポを取った男性のふりをして、女性を拉致してしまうのだ。すぐにそれが嘘だとばれることもあるが、アポを取った男性より、良さそうであれば、ほいほいとついていってしまう。この作戦、案外、成功するから、渋谷という街は浮かれている。

横取りされたわけだが、私としては若干、安堵はしていた。いくらエロブス狙い、低め打ちもいとわない私だが、彼女を見た途端、正直、きついなという感じを抱いたのだ。単純に容貌が好き嫌い以前に、考えようによれば、思い込みだけで、深夜、タクシーを飛ばしてまで東京へ来てしまう女性だ。呼んでおいていうのも変な話だが、妙な怖さみたいなものも感じていた。テレクラの利用時間(オールナイトコースにはしていなかった)も若干、残っていたこともあって、再び、宮益坂を上り、「トゥギャザー」へ戻る。個室に入った途端、ベルが鳴る。フロントから、待ち合わせをした女性から、指名コール(店からは女性のコールを取り次ぐ際に何番ボックスの男性に繋ぎますと、毎回、アナウンスがされる)だといわれる。

「待ち合わせ場所へ行ったけど、どうして来なかったんですか」と、詰問される。
私はあわてて、「待ち合わせ場所へ行ったけど、擦れ違いみたいで、見つからなかった(実際、その女性は他の男性と道玄坂方面へと消えていた)」と、答える。
その女性は声をかけられ、一緒に行ったものの、途中で違うことに気付いたようだが、そんなことはおくびにも出さず、「待っていますから、来てください」と、続ける。
私は「わかった。すぐ行くから待っていて」と、いって、電話を切り、店を出た。

その時点で、私は再び、ハチ公前へ行く気はなかった。指名コールされたことで、しつこいというか、いまでいうならストーカー体質みたいなものを感じ、余計、怖くなってしまったのだ。既に自宅までの電車はなくなっていたが、タクシーで帰ることを決め、宮益坂を表参道方面へ向かうタクシーを呼びとめる。

当時でも私が住む東京の下町までは渋谷からは5000円以上はしたと思う。いまなら高いと感じるが、その時は、タクシーを使うことにも料金にも抵抗はなかった。景気がいいからか、タクシー券みたいものが普通に手に入っていたのだ。バブルとはおかしな時代でもある。多少、広告や企画などの仕事をしていると、普通に、そんなものを貰う機会も増えてくる。別に仕事をしていなくても、ディスコ通いするようなイケイケの女性達もアッシーがいなければ、テレビ局や代理店などから当たり前のようにタクシー券を手に入れていた。

本連載は、前回も述べたように、自らのろくでなしぶりを告白し、懺悔するようなものではないが、それでも埼玉からタクシーを飛ばしてきた女性のアポをすっぽかし、タクシーで帰ってしまうという冷酷非情ぶり、お恥ずかし限り。反省することしきりである。あの時、私は普通ではなかった、どうかしていたのだ(笑)。もっとも、当時は、良心の呵責に苛まれることもなく、平気で、車上の人になった。

車のカーラジオからは、当時の退屈な歌謡ポップス(「Jポップ」という言葉は88年に誕生していたが、まだ、一般化されていなかった。90年代に入ってからだ)が流れていた。“バンドブーム”はもう来ていたはずだが、それでも同時期に流行ったものは、私自身には、歌謡曲ともポップスともつかない、曖昧なものだった。うるさいと感じ、耳を意識的に塞いでいた。そこに、突然、臨時ニュースが流れる。それは「連続幼女誘拐殺人事件」を伝えるものだった。社会を騒然とさせた、かの“宮崎勤事件”である。いまとなっては、被害者の遺体が発見されたか、宮崎が逮捕されたか、その報道の内容は、忘れてしまったが、とにかく、世間を揺るがせた事件である。既に「今田勇子」の名前とともに、連日、件の事件が報道されていた。ある意味、昭和から平成(事件そのものは前年88年から起きている)の端境期を象徴する負の事件である。

既にタクシーは青山通り、国道246号線を外苑前まで来ていたが、私はタクシーの運転手に、渋谷へ戻ってもらいたい、と告げた。

2012-08-20

第13回■LOSER’S GAME

セックスしたくなる記号

あまりに呆気なく、一線を越えてしまった。それまで散々、苦労し、策を弄しても果たせなかったことが、いとも容易く、それも自然な流れの中、恋愛という取り引きもせず、セックスをすることができたのだ。それまでの負け戦(?)が嘘のように、勝ち戦(!)へと転じる。詰めが甘く、強引になれない私でさえ、詰めることなく、強引になることもなく、セックスへ持ち込んだ。

過激な性描写は自主規制し、控えさせていただくが、あんなこともこんなこともしたと思う。“大人のエッチ”という感じで、欲望や願望を遠慮会釈することなく、二人は絡まり、睦みあう。まさに、“決めた、今夜!”、“なんだか、いける!”である。その時ばかりは、毎度、お馴染みの“トホホ…”というBGMは鳴り響かなかった。

一夜を共にした30代の独身女性。前回も書き記したが、決して器量がいいとか、見目麗しい美形というわけではない。ただ、性的な匂いだけは漂わせていた。思わず、セックスしたくなるような要素や記号が彼女にはばら撒かれていた。そういう点でいえば、30代で独身、一人住まい、むっちりとした肢体にいやらしい下着、甘えるような媚態、性に対して積極的……充分過ぎるほどだ。普通の男子であれば、ふるいつきたくなるというもの。セックスの対象としては、極めて、リアルな存在であろう。

テレクラ男子目線の“女の価値”

「女性の価値」などと、男性目線で語れば傲慢の誹りを免れないが、当時のテレクラ男子の立ち位置でいわせてもらうと、セックスができるか、セックスができないかで、その価値的な数量は上下も増減もする。モデルのように綺麗、アイドルのように可愛いなど、女性の美醜を推し量る物差しはあるものの、テレクラ男子にはもう少し実用的な物差しがあった。それは“セックスができるか、できないか”だ。
相手がやらせてくれる、やらせてくれないばかりではなく、自分自身ができる、できないも大きい。その女性“性”が男性“性”を刺激し、臨戦態勢にしてくれるかも重要である。下品な表現で申し訳ないが、やれる女か、やれない女か(あまり、「やる、やれない」など、直裁な言葉は好きではないが、わかりやすくするためなので、お許しいただきたい)が大事だったりする。

テレクラというフィールドはオーディションやコンテストの会場ではない。スターやアイドルを探す必要はないのだ。勿論、スターやアイドル候補生と出会えれば嬉しいが、変に甘い夢を抱かず、それより、確実にセックスできる女性を探す、極めて、実用的、実戦的な荒地である。セックスしたい男性がいて、セックスをさせてくれる(セックスをしたい)女性がいる、それだけで充分である。女性を前に審査員を気取り、目で愛でるより、“身体で味わう”という、実用的な女性があくまでも優先される。

当時の男性週刊誌風の、軽佻浮薄な表現を敢えてしてみれば、“やりたボーイがやりたガールに出会う場所”ということだろう。

テレクラのヒロインは「エロブス」

そのやりたガール、やりたがるだけに、とてつもないエロスを携えている。淫靡な仮面を被り、官能の鎧を纏う。美形や器量良しでなくてもエロい女性こそがテレクラでは実質的な主人公(ヒロイン)であった。私的には、そのような女性を「エロブス」と、勝手な呼称で、当時の遊び仲間の中では、表現させていただいていた。確かに美人ではないが、どこか色っぽく、男の噂や影が途絶えない。はたから見れば、どうして彼女がもてるのかわからないが、男を捉えて離さない、男から引く手あまたという女性のことである。誰もがアイドルやモデルのような端正な容貌の女性を好むわけではない。むしろ、整わないことがエロスの源であり、何かが欠ける、どこか整っていない、不完全や不均衡であることが情欲を掻き立てることもあるのだ。グラビアやAVを眺めるのではない、セックスという生のやりとりである、実態が伴う、絡みである。だからこそ、表層的にブスであることより、内実的にエロであることが立ちあがってくる。テレクラ実用主義者、テレクラ功利利主義者としては、エロであることが優先されるべきものだ。

木嶋佳苗のとてつもないエロス

昨今、“平成の毒婦”といわれた殺人事件の容疑者の容貌のことが喧伝され、何故、あんな女にいともたやすく男が騙されたのかと議論された。だが、私としては、それもわからないでもない。彼女は、決してマスコミが煽るような“ブス”ではないと感じていた。少なくとも “ブスのルサンチマン”が犯罪の温床とも思えなかった。むしろ、自らの性的な機能を特別なものと証言し、話題にもなったが、表面的には良妻賢母風の家庭的な女性と見せかけ、そこには性的な優位性を自慢するような、とてつもないエロスを内包している。女性に免疫のない男性がひっかかったというが、そうでなくても彼女が次々と男を毒牙にかけ、落としていくのがわかる(状況証拠だけなので殺人を犯したとは断定できないが、ある意味、蜘蛛女的な手技は弄したのは間違いない)。この“平成の毒婦”、私の定義する「エロブス」と被る。法廷ルポなどを読むと、彼女自身、優雅な佇まいの中に、どこか不均衡さや不自然さがあったと書かれているが、むしろ、それさえ、エロスを増幅しているような気がしてならない。

かの毒婦を論評することが本題ではないが、セックスというフィルターを通すと、見える景色や背景も違うということである。同じ脚本でも全く違うドラマが展開されることもあるのだろう。

テレクラの流儀は“低め打ち”

後年、テレクラでは「テレ上・テレ中・テレ下」など、美醜のランキング(!?)を示す用語が一般化するが、それは世間の物差しや座標より、基準を少し低いところに設定されていた。テレクラでは、好球必打でホームランやヒットを狙うだけではなく、低めでもバウンドでもとにかく打ち、出塁しろと、いわれている。ストライク・ゾーン(というか、ヒット・ゾーン)は上にも下にも縦にも横にも広い方がいい。バットは振らなければ、塁に出ることはできないのだ(当たらなくても振り逃げという方法もある!)。いわゆるやったもの勝ち、という状況。同時に、それだけ間口を広げれば、セックスの成功率も上昇していくというもの。

「勝ち組・負け組」みたいな表現が一般化(当然、第二次世界大戦後のブラジルの日系移民の話は抜かす)するのは、バブル崩壊後、90年代から00年代にかけての格差社会以降だと思うが、それ以前、男女ともそんな分類や区分があったような気がする。バブル華やなりし頃、派手に着飾り、女であることを武器に、男をアッシー、メッシー、ミツグくん扱いする、自分を高く売りつける“タカビー”(1990年には俗語として登場している)な女性がいる一方で、地味といわないまでも外見的なことを武器とせず、変に高く売りつけることもなく、むしろセックスをさせることで、女であることの自尊心や自己承認欲求を補填する女性もいた。ある意味、両者とも性を取り引き、駆け引きにしているが、それには落差や誤差がある。

二極分化などというと短絡的かもしれないが、テレクラという風俗(風俗産業という意味の風俗ではない)には、そんな「負け組」の男と女が吹き溜まりつつあった。本当の意味で、吹き溜まるのは数年後だが、当時から自嘲気味にテレクラなんかに行く男、テレクラなんかにかける女みたいな視点や目線があったように感じている。いわゆるディスコ(まだ、クラブの時代ではない)やパーティなどが晴れやかな「ハレ」としたら、テレクラは、しみったれた「ケ」だ。地縁、血縁のないところの非日常で、ハレであるはずなのに、ケであるというのは論理矛盾のような感じもするが、決して、誰にも誇れるような晴れがましい場ではないことは確か。テレクラで出会った男女の多くが出会いの契機が同所だったことをカミングアウトできないでいたのも、そのような理由からだろう。出会いのメディア・ヒエラルキーとしては、低位に位置していたのだ。ソーシャル時代のいまであれば、SNSやFacebookで、出会ったといっても、誰も指弾されないのとは、大きな違いがある。テレクラそのものは、アングラとはいえ、ソーシャル・メディアの先駆けであるにも関わらず、認知されることのない私生児、時代の鬼子のような存在かもしれない。

かのクラッシュも憧れたグラムロック・バンド、モット・ザ・フープル。彼らが1973年に発表した『革命』というアルバムの中に「モット・ザ・フープルのバラード」という曲がある。その中で、イアン・ハンターは“ロックンロールは敗者のゲーム”と、歌っている。
そういう点でいえば、テレクラは“敗者のゲーム”かもしれない。あらかじめ失われし者たちが集い、遊戯に興じる賭博場のようなもの。失われたピースのひとかけら、ひとかけらを寄せ集め、どこかで、心や身体の隙間を埋めようとしている。そんな気がしてならないのだ。

尾崎豊は「僕が僕であるために」で、“僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない”と歌っているが、むしろ、負けることを知ったからこそ、私自身は、勝ち続けることができたのではないかと、考えている。まるで、先のロンドン五輪で、3連覇を成し遂げた吉田沙保里のようだ。彼女は五輪前、5月の国別対抗戦W杯で、4年ぶりの黒星を喫したが、その「負けを知って、また、強くなれた」といっている。負けを知らなければ、勝つ意味を知ることや技を磨くこともなかっただろう。まるで、武道や剣術の極意のようだが、テレクラ道(!?)を極めるとは、そういうものである(当然の如く、極めるなど、遥か、先のこと。勿論、極めたかどうかは、未だにわからない)。

嘘のはてに

その女性との濃厚な時間は、数時間にも及び、知らぬ間に朝になっていた。寝る暇も惜しんでではなく、丸裸で、絡まりながらも、どこかで寝落ちしてしまっていた。特にアラームをかけたわけではないが、自然と目が覚める。気だるい空気に包まれながら、窓の外に目をやると、すっかり明るく、強い日差しが眩しい。まさに、絶好のドライブ日和である。しかし、当たり前だが、車があるわけでも、ましてや免許もあるわけではない。

特に、この連載で、自らのろくでなしぶりを自慢気に(まるで、元ヤンが昔は悪かった的に)カミングアウトをするつもりはないが、いま思い出しても自分自身、いい加減というか、とんでもない奴だと、自己嫌悪(というほどではないが)に陥る。ドライブを約束していたが、急に用事があったことを思い出し、帰らなければならなくなった、と、平気で言い放ったのだ。多分、そのままではなく、少しは言い訳らしいことも付け加えてはずだが、その時、どんな風に取り繕ったかは、すっかり忘れた。とりあえず、セックスしたら帰ってしまうなど、現金なことこの上もない。まさに、「やり逃げ」(今回の原稿、下品な表現の多用、お許しいただきたい)である。なんと適当(というか、なんと調子いい)なのだろう。何十年も前のことだが、いま思い出しても赤面し、反省したくなる。ところが、彼女は約束を反古にしたことを叱責するでもなく、私を開放(特に脱出を試みたわけではないが、開放という言葉が相応しい)してくれたのだ。

その時、ドライブという“嘘”はセックスへ切り替わった。いまにして思えば、ドライブしたいは、セックスしたいと同義語だったのかもしれない。「ドライブ」は「セックス」のための理由や言い訳だったのではないだろうか??

2012-08-13

第12回■セックスと嘘とドライブ

きっかけは「anan」のセックス特集

昭和から平成へ。
時代が変わり、何かが変わった、と、前回、書き記した。どんな変化が起こったのか。それを社会学的に分析するような立場に私はいないが、私のテレクラとの関わりの中でいえば、テレクラで、女性と会って、セックスができるようになったということだろう。

代替わりの瞬間から急に日本の女性の貞操観念が緩み出し、性に対して、寛容で解放的になったかはわからない。妙な符号といえば、かの「アンアン」が『セックスで、きれいになる』という特集を組んだのが1989年4月のこと。女性誌の特集だけで、この国のセックス状況が変わるわけはないが、特集の題名の持つインパクトは絶大だった。ひょっとしたら、私自身も都合良く、口説き文句で、そんな惹句を使ったかもしれない。

そんな分析や検証は、フィールドワークする社会学者や女性の性の変遷を書き留める女流作家に任せることにする。多分、魅力的な研究書は何冊も出ているはず。ところで、ここまで10数回、この連載を書き進めてきたが、濃厚な性描写が極めて少ないことに気付くはず。テレクラの武勇伝といえば、テレクラで何人の女性とセックスしたかを雄弁に語り、落とす手練手管を得意気に披露するものが一般的だ。そういう点でいえば、私の連載など、テレクラ・マニアには、いささか物足りないものかもしれないが、いま暫く、お待ちいただきたい。お楽しみはこれからだ!

実は、この連載、テレクラ体験を“黒革の手帳”のメモを元に、ある程度、時系列に書き進めている。ところが、テレクラで会った女性と、初めてセックスしたのがいつかという記述が見当たらず、記憶も曖昧のまま。多分、2年間もセックスなしでテレクラ修行をしているわけはないので、どこかで、済ませているはずだが、どうしても思い出せない。無意識に封印したくなるような辛い過去だったか、あまりにも浮世離れした夢心地の現実だったのか。

ただ、確実にセックスしたことを記憶し、メモにも記述しているのが1989年5月に池袋の居酒屋で会い、そのまま自宅まで雪崩れ込んだ30代の独身女性だ。多分、網にかかったのは新宿の「ジャッキー」だったと思う。同所では、久しぶりの当たりである。

アバター感覚の“嘘”

終電間際の時間のコールだった。池袋の近くに住む30代の独身女性で、金融関係の会社に勤めているという。明日は休日らしく、どう過ごそうか、また、休日を一緒に過ごす相手を探している風でもあった。折角の休日、一人ではなく、誰かどこかへ遊びにいきたいという。そんな時、私は都合のいい男になる。喜んで、休日を付き合うと、伝える。どこへ遊びに行くかとなった時に、どういうわけか、ドライブへ行こうということになる。私が運転して、どこかへ連れて行ってあげると言ってしまったのだ。

以前に“星空ドライブ”の看護師のところで書いたと思うが、その当時、私は免許を所得していなかった。勿論、車も持っていなかった。ところが、思わず、私はパジェロを持ち、運転が得意と、嘘をついてしまう。勢いとは恐ろしいもの(笑)。ちなみに、パジェロは三菱の四駆で、SUV。咄嗟に同車の名前が出たのは、一緒に温泉旅行やキャンプに行く仕事仲間の愛車がパエジェロだったからだ。当時は、車種や車名などもまったくというほど詳しくなかったが、何故かしらパジェロという名前だけは頭に入っていた。

いわゆる“嘘”(「いわゆる」も「“”」もつけるまでもない!)だが、口八丁手八丁ではないが、テレクラ遊びをしていると、麻痺してくるというか、適当な嘘をつくことを何とも思わなくなってくる。良心の呵責に耐えかねることもなく、誠実さとは対極にある言動や行動をしたりもする。後年、ネットの世界で、バーチャルとリアルではないが、平気で人物や人格を偽装、誰かになりきる。アバタ―感覚の自己演出や偽装工作が一般化するが、その萌芽がすでにあったように思う。

考えてみたら、私もいろいろな職業や年齢を詐称し、たくさんの嘘を騙った。仕事を聞かれ、コンピュータ関係(当時は、まだ、IT関係なんていう言葉はなかったはず)といい、会社も見栄を張って、「IBM」というところを「ICBM」といってしまったことがある。“コンピュータ会社”が“大陸間弾道ミサイル”では、意味も規模も大きく違い過ぎだ(笑)。

地縁も血縁もない、日常ではなく、非日常であることから、平気で嘘をつく、そんな人間をテレクラは大量増殖させたといっていい。私自身も嘘つき男になりながらも、多くの嘘つき女にも出会った。詐欺や偽装まがいの時間や空間を共有することになる。中条きよしの「うそ」のように“折れた煙草の 吸いがらであなたの嘘が わかるのよ”であれば、いいのだが、平気で騙されつつも、その嘘を楽しんだりもした。“本当のこと”を“綺麗な嘘”が凌駕することもあったのだ。

タクシーで彼女の家へ

その“30代の独身女性”とは、どういう経緯か、明日のドライブに備え、これから会い、朝まで一緒にいて、それから行こうということになった。終電ぎりぎりだったが、電車で新宿から池袋まで移動することにする。ドライブするのに電車で移動すること自体、話の辻褄がおかしく、嘘は破綻しているが、そこは適当な理由をつけ、一気に寄り切る。こういうところは、強引な私である(笑)。待ち合わせは池袋駅の北口を出たところで、そこにはデートクラブ嬢やキャバクラ嬢が客と待ち合わせに使うような胡散臭い喫茶店があった。その店の前で合流し、同所の近くにある大衆的な居酒屋へ行くことになった。

待ち合わせ場所に現れた彼女は、ふっくらした体型で、決して美形とはいえないが、愛嬌のある顔立ちで、性格の良さみたいなものが全身から漂う。その時は、まだ無かった言葉だと思うが、“癒し系”(1994年、飯島直子がコカコーラ『ジョージア』のCMに出演。このCMから、いわゆる「癒し系女優」として人気が上昇した、という記述もあるが、安らぎ系女優という表現が本当らしく、癒し系のブームとなったのは1999年以降のことらしい)という感じだ。

失礼なものいいだが、第一印象は金融関係に勤めているといっても銀行ではなく、信用金庫という感じ。ついでにいうと、時期は前後するかもしれないが、東京都下の信金勤務の女子職員が愛人に貢ぐため、預金者の口座から不正に金銭を引き出した事件があったが、その容疑者のような佇まいもあった。だからといって、その容疑者に顔が似ているとか、犯罪者顔というわけではない。何か、ちょっと、均衡を欠いたところがあるという雰囲気である。

とりあえず、居酒屋で当たり障りのない話をしていると、時間はあっという間に過ぎていく。朝まで起きて、ドライブという段取り(勿論、ドライブするにも免許も車もない!)だったが、なんとなく流れで(と、書くと不思議な感じを抱くかもしれないが、無理やり家へ行きたいとか、強引に言い張ったわけではなく、気づくと、という感じである)、その女性の家へ行くことになる。

幸いなことに彼女の家は、池袋からタクシーで10分もかからないところにあった。うろ覚えだが、赤羽か、板橋かだったと思う。とりあえず、お洒落な高級住宅街ではなく、気さくな雰囲気の庶民的な街だった。

小さなマンションだが、室内はきちんと整理整頓され、独居者特有の荒んだところがない。キッチンなども綺麗にしてあり、流しに食器なども散乱していない。どことなく、家庭的な雰囲気があり、初めてながら居心地がいい。

軽くその家でも飲み直す。冷蔵庫からビールを出してくれる。考えてみれば、数時間前に初めて会ったばかりなのに、いきなり、家に上り込んでしまう――離婚歴&子供ありの30代肉感女性の時もそうだったが、いまでは考えられないことかもしれない。だが、テレクラで、女性の家に雪崩れ込むという体験をしたという方も少なくないはず。事実、私自身、女性の家に初対面で、何度も上り込ませていただいている。当時は、まだ、牧歌的な時代だったのだろう。テレクラが犯罪や事件とは無縁で、テレクラ利用者に悪人はいないという性善説が信じられていたのだ。

初めての“成功”

リビングで飲んでいたが、二人とも少し酔って、身体もだるくなってきたので、なんとなく寝室に行くことになる。ベッドではなく、畳の上に布団が敷かれず、積んであった。その布団を背もたれにして、二人は寄りかかりながら飲む。

いい感じで酔いの回った彼女の顔は紅潮し、同時に色香が漂い出す。前述した通り、決して整った顔立ちの美形ではないものの、彼女から醸し出されるそこはかとないエロスと甘えたような媚態は男の本能を充分過ぎるほど、そそるものがある。

決めてやる、今夜! なんだか、いけそうな気がする〜。私は期待感で胸が膨れそうになるが、油断は禁物、まだ、股間は膨らんでいない(と、親父ギャグをいれておく!)。私は他人の家ながら、環境整備として、部屋の照明を少し落す。薄明りの中、なんとなく二人見つめ合うと、口づけを交わす。私が先か、彼女が先かは覚えていないが、それは啄むようなものから貪るような激しいものへと変わる。口の中で、舌同士が覇権争い(!?)をしている。

服をわざと荒々しく脱がすと、豊満な身体(白ムチである。色白で、ムチっとしていた)は、嫌らしい下着にくるまれていた。黒のレースのお揃いのパンティーとブラジャー。いまなら、勝負下着とでもいうのだろうか。彼女は、会う前から、すっかり、やる気だったようだ。

彼女の秘めたる部位、欲望の源は、既に濡れそぼっている。それは、パンティー上からもはっきりとわかる。これから起こることの期待感が彼女の官能中枢を刺激したらしい。下着を剥ぎ取り、胸を弄り、乳首を激しく吸うと、彼女の快感の曲線は一気に上昇していく。

彼女は欲望剥き出し、裸の女を曝け出す。そこに恋愛などという、面倒くさい駆け引きは一切、ない。ただ、快楽を貪ることを欲していた。

もしものために、予め用意していたスキンを鞄から取り出し、いきり勃つ分身に装着すると、彼女を一気に突き刺す……と、まるで、三流官能小説のような表現で、お恥ずかしい限り。それまで、いいところまで行きながらも、毎度、お馴染みのコメディやギャグの落ちのように、一線を超えることができなかったものが、あまりに呆気なく超えることができてしまったのだ。

昭和から平成へ。時代は少しずつだが、動きだす。その時代を生きる男と女の性愛観にも僅かながら変化が訪れようとしていた。ドライブという嘘(ひょっとしたら、それは嘘ではなく、理由というか、言い訳だったかもしれない。この辺は改めて語る機会もあるだろう)がセックスを呼び込む。確かに何かが変わり始めている。

2012-08-05

第11回■北京的西瓜(ぺきんのすいか)

1989年

北京的西瓜――カレーライスに続く、食べ物シリーズではない。勿論、海外遠征でもお盆時期の納涼サービスでもない。1989年という年を思う時、私の頭に同題の映画が去来する。いうまでもなく、『北京的西瓜』は、かの大林宣彦が監督し、1989年11月に公開された映像作品である。

尾道三部作などで知られる青春映画の巨匠・大林宣彦と、エロまみれのテレクラ男子、およそ、似つかわしくない取り合わせだが、大林の初監督作品『ハウス』の音楽を当時、好きだったバンドが担当していたこともあって、同作を契機に、彼を知り、一般男子同様、『転校生』や『時をかける少女』、『さびしんぼう』など、前述の尾道三部作に嵌ってしまった。『廃市』や『野ゆき山ゆき海べゆき』、『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』(“ミナミの帝王”になる以前の竹内力が主演。「愛は勝つ」以前のKANが音楽を担当している。1988年の作品)など、比較的、知名度のないものまで、追っかけるようにもれなく見ていたのだ。

『北京的西瓜』は、千葉・船橋市郊外の八百屋「八百春」の主人と中国人留学生との交流を描いた映画だが、実話を元にしている。「八百春」の主人は、中国人留学生が日本の野菜が高くて買えず、困窮する彼らを見かね、店の野菜を原価以下で販売して援助をして行く。留学生達は「日本のお父さん」と慕って集まってくる。慕ってくる留学生に対して身を投げ出して献身的に関わるようになるが、やがて店の経営は傾き出す。実際に、その模様は新聞などにも報道され、八百春をすくうための基金も募られた(ちなみに、私も募金した)。

後年、中国に帰国した留学生は中国の官僚や政治家などになり、日本のお父さんを中国に招待する。当然、映画でもそのシーンが北京で撮影されるはずだった。

しかし、1989年6月4日に起こった「天安門事件」のため、撮影ができなくなってしまう。そのことを留めるため、日本で撮影した北京のシーンに37秒の空白が挿入された。37秒とは、1989年6月4日を数字にして全部を足した時間(1+9+8+9+6+4=37)である。画面がまるで事故でも起こったかのように意図的に37秒間、真っ白になるのだ。

特に声高に批判や批評などはないが、大林監督なりの主張であり、天安門事件があったことを書き留めなければならなかった。当時、大林監督は“映画が現実に負けた”みたいなことを語っていた(勘違いなら、申し訳ない)。映画としては、きわめてバランスを欠く表現かもしれないが、そうせざるを得なかった。大林監督といえば、前年の『おかしなふたり』まで、黒い画面上に線が四角く引かれ、その中に “A MOVIE”という文字が表れるオープニングがファンの間では有名だったが、“A MOVIE”という枠を超えてしまう“事件”が起こったのだ。

考えてみたら、1989年は、天安門事件だけでなく、東欧の自由化、ベルリンの壁崩壊など、大きく時代が揺れ動いていた。

そして、“崩御”。昭和から平成へと変わったのも1989年である。1月7日のこと。前年末から、その“ご容態”がテレビなどで逐一、報告され、その前後には歌舞音曲の自粛など、重苦しい空気が時代を横溢していた。その日から暫くは、テレビの画面からバラエティやドラマなどが消えた。かの「3・11」後のようでもあった。

私の1989年1月7日といえば、そんな自粛とは関係なく、仕事仲間と群馬へ温泉旅行に出かけている。特に予定を変更することなく、そのまま旅行を敢行したわけだが、その温泉旅館では、男性だけだったので、番頭が気をまわし、コンパニオンでも呼びましょうか、と、甘い言葉を囁かれた。世の中は自粛ムードだが、地方の温泉では、破廉恥な乱痴気騒ぎという、そのギャップがおかしくもあった。流石、親父旅行ではないので、温泉コンパニオンは遠慮させていただいた(私的にはありだが、仕事仲間なので、初心なふりをしていた)。

バブルは経済的には、まだ、終焉を見せずにいた。ただ、ある意味、“終わりの始まり”は始まっていたかもしれない。世の中の雰囲気は、自粛ムード後は新世紀への祝祭モードに切り替わり、崩御前後のうつ状態から再び、躁状態へとなっていった。

昭和から平成へに代替わりすることで、何が変わったかわからないが、一時の重苦しさが一瞬にして晴れたようにも感じていた。人の心にどのように影響があるのか、知る由もないが、テレクラという窓から社会を見ると、僅からながら風向きや潮目が変わってきたように感じる。

バブルを享受できる、できない、また、どこにいるかで、世の中の見え方は違うかもしれない。私といえば、調子をこいていたと思うが、何か、イケイケな高揚感があった。私が長いこと信頼を寄せていたパンクバンドが休眠状態(勿論、引退していたわけではないが、音楽的にレイドバックし、その活動も緩やかにしていた)を脱し、戦闘態勢(それまで髪は伸ばし放題だったが、デビュー時のように、気合の入ったパンクヘアーに変身。その音楽も時代を照射する先鋭的な言葉を鋭角的な音にくるんだものになった)で、復帰したことも大きかった。“1989年のパンクロック”、まさに、そんな言葉が相応しい。いま、何かが始まる、動き出すべきだ。そんな思いが突き動かした。といっても、私としたら、テレクラに行くくらいだ(笑)。

ポリアモリー

“カレーライスの泣きむし女王”の前後で、新宿のテレクラで会った“離婚歴&子供ありの30代肉感女性”とは、細々だが、連絡は取り合ってはいた。
何度か、居酒屋デートを繰り返し、セックスできる隙を伺っていたが、なかなか、好機は訪れない。あっさり、さっぱりと、女性離れがいい私だが、新たな狩場や釣り場で、試し打ちをしながらも“離婚歴&子供ありの30代肉感女性”は繋げていた。いまでいうところの“キープ”という状況だろうか。

テレクラ男子には一途などという言葉は似合わない。いわゆる普通の恋愛ではないところで、戦いを挑んでいるから、二股や三股などは当たり前だ。出会いの乱脈経営みたいなものだが、テレクラ男子は延縄漁を得意とするところ。一時に広範囲に仕掛けを施す。後年、出会い系などで、既に恋人を探し、恋愛関係になっているにも関わらず、新たな相手を探す書き込みを見つけ、トラブルになったりすることが問題になったが、ある意味、既にそんな“時間差乱交”状態の萌芽もテレクラにもあった。私自身はなかったが、テレクラで会ったことのある女性と再び、電話が繋がってしまうということもあった。テレクラにいる男性も男性なら、テレクラにかけている女性も女性ということだろう。いまであれば、ポリアモリーなんていう便利な言葉もある。ちなみに、“ポリアモリー (Polyamory) とは、つきあう相手、親密な関係を同時期に、一人だけに限定しない可能性に開かれていて、全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のこと”である(某ウィキペディアより)。

テレクラでの出会いと普通の恋愛関係を同次元に語ってしまうのは無理があるかもしれないが、まだ、恋愛を取り引き材料にしつつ、どうしたらセックスができるかを試みていた時代でもあった。デートなどという面倒くさいものにも時間を費やすことなど、いまとなっては面倒臭く、馬鹿らしいことだが、まだ、そんなには話が早くはなかったと思う。

離婚歴&子供ありの30代肉感女性とのデートで、いまでも覚えているのが混浴温泉デート(!?)である。混浴温泉といっても、山奥の秘湯へ行ったわけでもない。東京の下町にある、ひなびた健康ランドへ行っただけだ。いまなら「大江戸温泉物語」や「ラクーア」など、こじゃれたところもあるが、まだ、そんな時代ではない。その健康ランド、入浴施設は当然、男女別だが、温泉プールがあり、そこでは水着着用であれば男女混浴(正確には混浴とはいわないか)になる。

プールといえば、“星空ドライブの看護師”が懐かく思い出される(当時としたら、そんな前のことではないが、既に懐かしいものになっていた)が、どうやって裸にするではないが、一枚一枚と服を脱がすより、水着になってもらえば手っ取り早いという発想もあった。ひょっとしたら、水着萌えもあったかもしれない(笑)。

恒例の水中でのじゃれ合いを楽しませていただいたが、お互いの水着の中に手を入れ、局部をまさぐったりもした。AVの露出ものみたいだが、水面下で、他の人から見えないところでは、かなり過激なことをさせてもらった。意外とそういうところには乗ってくる。特に嫌がるそぶりも見せず、恥ずかしながらも破廉恥な行為に応じてくれる。そういうことは平気でさせてくれるものだから、今夜はなんだか、いけそーな気もしてくる。

彼女とは、そこまでは何度も行く。後、一押しである。なかなか、諦めきれず、性懲りもなく挑むのは、“肉感”と書いてあるように性的な匂いを持ち、それに惹きつけられるからだ。また、離婚歴&子供ありという身の上(というか、記号)もある意味では興奮させられるものがある。

『未亡人下宿』シリーズ(サングラスにちょび髭がトレードマークのかの山本晋也“カントク”のヒットシリーズ。すごいですねぇ)ではないが、旦那がいないため、生活も困窮し、かつ、欲求不満で、男を欲しているという成人映画のようなファンタジーを抱かすには充分である。彼女自身は当然、未亡人ではないが、ちょっとした薄幸な匂いも漂わす。多分それは、彼女が子供と暮らす、決して豪華とはいえないマンションという名のアパートに行ったことがあるからだろう。

男とは単純なものだ。男の性的な妄想は、ある種の記号(それは人妻や看護師、先生などでもいい)に喚起されるという、今も昔もそう変わらないところがある。

“水中遊戯”で、さんざん触りまくり、前戯はばっちりと、健康ランド後にお誘いをしたら、あっさりと断られた。めげずに一押し、二押しすればいいものの、相変わらずの私である。この詰めの甘さ、優柔不断さゆえ、また、もろくも淡い妄想は崩れ去るのである。未亡人下宿は男のロマンだなあ、メルヘンだなあでしかない。私のチョメチョメ(毎度、お馴染み、昭和の山城新吾ギャグ・シリーズである!)な欲望はかき消される。

毎回、負け戦(!?)が続く私だが、それが連戦連勝(なわけはないが)、歓喜の勝ち名乗り(?!)を上げるようになるには、そう遠くはなかった。昭和から平成へと、時代が変わると、緩やかに風向きや潮目が変わってきたのだ。私の中の“37秒”が弾けようとしていた。

2012-08-01

第10回■一杯のカレーライス

“悲劇”のヒロイン、30代の看護師は、渋谷のパルコの前で待っていた。服装や髪型、持ち物など、目印を聞いていたので、すぐにわかった。

原色に近く、身体のラインが強調された派手なワンピース(当時の表現いえば、ボディコンだろう)に、前髪パッツンのワンレン(ヘアースタイルのこと)、彫りが深く、大きな目と口というエキゾティックな顔を艶やかなメイクが縁取る。名前は忘れたが、当時、“淫乱”や“変態”などのキャッチフレーズで、あまりに過激なシーンが話題になっていたAV女優の顔がすぐに浮かんだ。

偏見(という言葉を敢えて使う)かもしれないが、かのマザコン男(彼女の婚約者)の保守的で、頭の固そうな“お母様”には、とても好かれるような容貌ではない。そういった人種が好む清楚で、お淑やかな嬢様タイプからは、ほど遠いのだ。男性の気を引くために理想の女性を演じるというよりは、メイクやファッションなどは華美を極め、自ら女性であることを誇示し、自分のための装いをしている。おそらく、彼女が“退(ひ)かれた”のは、仕事や性格だけが理由ではなく、その容姿や佇まいであることも想像に難くない。

本来であれば、彼女は渋谷の街を颯爽と闊歩する“イケイケギャル”という雰囲気だが、傷心で寝ることが出来ず、食事も取れてないという状況が、彼女から生気や精気を奪っていた。実際の年齢よりは、随分、老けて見えた。顔を覆うメイクも浮いてしまっている。

挨拶もそこそこに、パルコのレストランフロア内にあるカフェバーへ入る。睡眠不足、絶食状態ゆえ、アルコールというわけにはいかず、コーヒーを頼むことにする。

昨夜から今朝にかけ、充分過ぎるほど話し込み、心の奥に詰まったものを吐き出したからか、興奮や激高は収まったらしく、話しぶりはいくらか落ち着いていた。

いまであれば、電子なつぶやきや電波な日記を綴り、思いを吐露することができる。“いいね”なんていう共感や承認を貰うことで、精神の均衡を保つということもある。当時でも「命の電話」などの悩み相談をするところはあったかもしれないが、それは決して、気軽なところではない。信頼できる親や先生、友人などに相談するにしても、内容によっては、その信頼すべきことが裏目となり、話すことを避けてしまう。昨今のいじめではないが、簡単にいえたら苦労はしない。甚だ怪しく、性的な記号を持ちつつもテレクラがあることで、そんな憂さを晴らし、悩みを解消したという人もいたはずだ。

ある意味、行くあてもなく漂白する魂が辿りつき、行き場を無くしたこの街のストレンジ?達が集いしところなのかもしれない??なんて、“ポエムだな〜、メルヘンだな〜”(昭和のギャグです)してみる。

“テレクラ相談員”の心得

さて、テレクラ相談員(!?)としての役目を果たす上でのコツを話しておこう。
繰り返し話されることを、嫌な顔をせず、ひたすら聞くことだ。当然のごとく、この手の話は、くどいくらいに、同じことが表現を変えて延々と繰り替えされるもの。ある種の忍耐力が要求される。相談員慣れしているから、我慢はお手の物。

不思議なもので、電話であれだけ話しても、相手を目の前にして話すのとは違うようだ。私は彼女に危害を与える人間ではないことは伝わっている。勿論、仕事や家庭環境などはまったく違い、話すことで立場を危うくするような利害関係にもない。それゆえ、彼女も安心したのだろう。話も滑らかになる。それを優しそうな眼差し(と、相手には見えるらしい)で、聞き入る。おかしなもので、ここまで話し込んでくると、私も邪心(というか、すけべ心)も霧散し、人畜無害の“いい人オーラ”も漂ってくる。東京人の“ええ恰好しい”かもしれないが、相手に良く思われたいという気持ちがそうもさせるのだろう。

彼女の話を一言も聞き漏らさず、懸命に聞く。もとより、学生時代の企画会社の仕事で、インタビュー千本ノック(!?)を経験。話を聞くことは朝飯前だし、相槌や話の回しは得意とするところ。ちゃんと、相手の話を聞きながら、その相手が何を求めているか、何を待っているかを先回りし、適切に言葉を落としていく。もっとも助言や提言などという、大層なものではない。具体的で建設的なもの言いなどはできないが、少なくとも混沌に沈み、湖底で自暴自棄になっている人間にとって、関わろうという人がいるだけで、充分な支えになるというもの。彼女へ言葉を振っても、それは先導ではなく、伴走のようなものだ。

話した内容は、例によってあまり覚えていないが、前述した通り、説教したり、諭したりではなく、ただ、彼女の言葉を肯定し、受け止めるとともに、マザコン男と子離れできない母親への反発を口にしただけだと思う。私自身、当時は実家住まいで、親に散々、迷惑をかけているので、子供の結婚を心配する親のことをとやかくいう資格はないし、結婚という制度そのものも必ずしも当人同士だけの問題ではないことはわかっている。勿論、そんなことはおくびにも出さず、憤りの感情を抱き、許せない思いであることを伝えた。既に電話で聞いていた話だが、本人を目の前にして、実際、怒りや悲しみは、少しは収まりつつあるものの、彼女の哀れを乞うような表情を見ると、“悲劇”のリアルさを感じないわけにはいかない。彼女のやるせなさ、切なさみたいなものが増幅される。

泣きながらカレーライスを食べる

ある程度、話してきたところで、彼女自身もリラックスしてきたらしく、少し空腹を感じるという。一昨日からまったく、食事をとっていない。あわてて、食べ物をと思い、とりあえず、カレーライスを注文する。いわゆるカフェバーだから、イタリアンやフレンチなど、こじゃれたものもあったが、とりあえず、精をつけてもらう。香辛料も意識を覚醒させるものだ。心が落ち着いて、漸く身体の機能が正常化したのだろう。空腹を覚え、食物を求めるのは、いい兆候だ。

当時のカフェバーのこと、見てくれは良くてもとても美味しそうに思えないものだが、それでも彼女はカレーを口に運ぶ。久しぶりに食する固形物の存在感と舌と鼻を刺激する香辛料の香りが、生きていることを実感させているかのようだ。カレーを食べながら、彼女は涙ぐんでくる。涙を拭うことなく、嬉しそうに頬張った。

カレーライスを頬張る彼女を見ると、何かいいことをしたという気持ちになる。いいことをする、善行など、まるでテレクラには似つかわしくない。だが、単なる欲望や性欲だけでなく、人と人の繋がりを信じ、絆みたいなものを大事にする(というと、昨年以降、やたらと、使い古された言葉であるが)、そんな遊び人も少なくなかったと思う。いいことをしたなど、自己満足でしかないが、まだ、そんな“良心”のようなものがテレクラにあった時代でもある。

前回、“一杯のかけそば”ならぬ、“一杯のカレーライス”という“ドラマ”が待っていたと書いた。実は、この「一杯のカレーライス」は、テレクラ版「一杯のかけそば」でもある。当時の遊び仲間には、テレクラ武勇伝ならぬ、テレクラ深いい話として、自慢げに話したこともあった。

時はバブルの時代。飽食や贅沢が良しとされていた(かはわからないが、少なくともそれが当たり前と化していた)。貧困や貧乏など、過去のことと、思われていた。ところが、そんな時代の反動、補完作用として、清貧や質素という言葉が世の中に浮上してくる。

『一杯のかけそば』は、栗良平の短編小説で、1988年から1989年にかけ、「涙なしでは聞けない」話として、一時は日本中で話題となり、社会現象にまでなった。

あらすじを某ウィキペディアから適当に引用する。“大晦日の晩、札幌にある「北海亭」という蕎麦屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「かけそばを1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分け合って食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子3人でかけそばを3杯頼んだ”??と、引用が長くなったが、いかにも貧乏くさい話で、とても泣けるよう代物ではない。それなら、まだ、かの『北の国から』の“子供がまだ食ってる途中でしょうが”みたいな話の方が泣けるかもしれない(いずれにしろ、私的には泣けない!)。

ただ、泡沫の時代の潮流に抗うかのように、社会的な注目を浴びたのは、単なる偶然ではなく、必然だったと感じている。

「一杯のかけそば」そのものは、実話か、創作かで議論になり、また、作者の詐欺師まがいの私生活がスキャンダルになって、あっという間に駆逐されてしまった。いまでも胡散臭い話だと思うが、当時であれば、余計、胡散臭く感じられたものだ。さて、「一杯のカレーライス」、かの「一杯のかけそば」の蕎麦屋の店主ではないが、彼女がカレーライスを嬉しそうに食べる姿を見て、私自身も嬉しかったのも確かである。ぎりぎりに追い詰められ、彼女の背中にのしかかっていた重荷のようなものを少しでも軽くすることができたと思っている。私の中では、テレクラにまつわる、ちょっといい話として、未だに記憶の中(というか、底!)に鮮明に残っているのだ。

結局、その女性とは、店には悪いが、一杯のカレーライスで、随分と長いこと、居座ることになる。閉店ぎりぎりまで話していたと思う。流石、パルコ内の店だったから、深夜営業というわけにはいかない。本来であれば、 “何気に終電をやり過ごし、泊まるしかない状況を作る”作戦を取るところだが、流石に、ほとんど寝てないということもあって、そのまま帰ってもらうことにした。そこに、深謀遠慮などはない。邪まな下心はなく、完全にいい人気取りである。言葉は悪いが、弱っている人間の間隙をつき、落としてしまうというのも口説きの常套手段かもしれない。しかし、そういうことは当時もいまも潔しとしない私がいた。どうしてもあからさまに弱みにつけこむことができないのだ(もっとも、あからさまでないところでは、つけこんでいたのかもしれない!?)。とりあえず、電話番号は交換したが、特に次の約束などはしなかった。“それっきり、それっきり、もうそれっきりですか”(“それっきり”ではなく、“これっきり”なら、山口百恵の「横須賀ストーリー」である。ちなみに、彼女は横須賀出身だった、とすると出来過ぎた話だが、当然、そんなことはない)でもいいと思っていた。それでも時々、思い出したように近況を伝える連絡は貰っていた。電話口の彼女の声はすっかりふっきれたらしく、軽やかになっていた。

再会

“もうそれっきり”だけで、二度と会うこともないと思っていた“悲劇”のヒロイン、“カレーライスの泣きむし女王”こと、30代の看護師と、意外なところで、再会することになる。もっとも再会といっても、どこかで会ったというわけではない。思いもかけないところで見かけたといっていいだろう。1年後くらいかもしれない。あるニュース映像の中に、彼女はいたのだ。

別に事件や事故のヒロインになったわけではない。それは、看護師の職場や仕事などの待遇改善を求める、大きなデモンストレーションがあったことを報じるニュース映像だった。彼女は、そのデモを牽引するものとして、マイクを持ち、自分達の職場での地位向上と、仕事環境の改善を主張していた。白衣姿(考えてみたら、私服は見たことはあるが、白衣姿は見たことはなかった)が眩しく、その声には精気が漲る。戦う女などといったら語弊があるかもしれないが、凛とした佇まいである。結局、彼女がその後、誰かと結婚をしたか、それとも結婚しなかったのか、わからない。仮にしていてもその相手などもわかる由もないが、しかし、仕事はやめていなかったことは事実のようだ。

泣きながら、嬉しそうにカレーを食べていた彼女の顔と、ニュース映像に写る戦う彼女の顔が私の中で二重写しになる。その時、彼女は光の中で、輝いていた。

2012-07-20

第9回■テレフォンライン(一本の回線が繋ぐ命の電話)

桜ヶ丘

釣り場や狩場を変えながらの転戦の模様を前々回、前回と、報告させていただいたが、テレクラそのものの場所も変え、転戦することになる。

時期はうろ覚えだが、新宿に少し手詰まり感が出て来たため、新宿から渋谷へと、河岸を変えてみることにした。渋谷は通っていた大学や学生時代に務めた会社の事務所があったので馴染の地ではあったが、あまり、遊び場という認識はなかった。

その店は「アンアン」という某女性誌から拝借したような名前(風俗店には、この手の店名が多い)で、渋谷でも少し奥まった桜ヶ丘にあった。

当時、桜ヶ丘は渋谷駅に近いにも関わらず、マンションや住宅が立ち並ぶ、閑静なところだった。道玄坂や宮益坂などにあるテレクラと比較すると、隠れ家的なテレクラといっていい。

同店へ至る手前の坂を上ると、有名な中華飯店があり、その先には、なんと、ドラマ『岸辺のアルバム』のロケでも使用されたラブホテル(当時からかなり老朽化していた)があった。さらにその奥へ行くと、かつて、かのロス疑惑の三浦和義が経営したブティック『フルハムロード良枝』もあった。さらに、S女性とM男性をカップリングするSMバー(まだ、フェティシュバーやハプニングバーなどという言葉ができる前のこと)まであった。閑静な住宅に欲望が渦巻く(!?)、まさに穴場的なところだ。

駅を出ると、センター街など、渋谷の喧騒にまみれることなく、そのまま辿りつけるのがいい。まさにお忍び感覚で、秘密基地に行くという雰囲気が好きだった。歌舞伎町の風俗街的な雑多さは好きだったが、渋谷の学生街的な雑多さには馴染んでいなかったようだ。

渋谷がブルセラや援助交際の街(ブルセラ、援助交際という現象や言葉は90年代に入ってから一般化する)になるには、もう少し時間がかかる。チーマー(チーマーという言葉は1989年に作られたとされている)が出没し、新宿以上に危険な香りを醸す、前のことだ。

その女性の電話を取ったのは、深夜ではなく、まだ、9時過ぎくらいだったろうか。
「アンアン」は早取り制ではなく、取次ぎ制である。どういう経緯で私に回ってきたかわからないが、彼女の声のトーンは低く、ある種のやるせなさみたいなものを帯びていた。いきなり、これから会って、セックスしましょう、みたいな軽い乗りではない。

長い会話になることを覚悟した。セックスできる云々は別として、アポが比較的、容易に取れるようになったのは、私がじっくり話す(というか、聞く)からというのがある。焦ることなく、落ち着いて話を進める。「いま、どこ? これから会わない!?」などと、間違っても、性急に口走らない。

まずは、お互いに簡単な自己紹介をする。その女性は30代の看護師だった。仕事を終えて家に帰ってきたばかりで、誰かと話したくて電話をしたという。彼女は心に問題を抱えていた。ある男性と結婚の約束をしていたが、その男性の母親の反対で、破談となってしまったのだ。

いきなり、重たい話である。確かに、一人で抱え込んだまま朝を迎えるには、しんど過ぎる。少しでも話して、軽くしたいのだろう。
婚約破棄は、その男性から直接言われたものではなく、彼の母親が“宣告”したのだそうだ。本人から言われるのであればまだ納得もいくが、いくら親とはいえ、当事者でもない人間からの一方的な通告。彼女自身、理不尽さを感じ、わだかまりが消えない。婚約者からは一切、連絡がこず、また、連絡をしてもまったく繋がらない状態だという。彼女からしてみれば突然の出来事で、まさに晴天の霹靂。こんな理不尽なことがあってもいいのだろうか、という気持ちである。

他人事ながら、その親子に怒りを覚えた。かの佐野史郎がドラマ『ずっとあなたが好きだった』で、“冬彦さん”なるマザコン男を演じるのは1992年だが、まるで、マザコン男が母親の言いなりになっているようだった。

彼女は、母親の電話を受けてから、食事がのどを通らなくなったという。水分もあまり補給してないようだ。一瞬にして、拒食症になってしまったのだ。

安易な励ましや慰めなどはできなかった。彼女が求めているのは、そんなものではないと感じた。男と女である。何が正しく、何が間違っているかは、一概にはいえないし、軽々しく善悪を論ずるものでもないだろう。しかし、彼女が怒りや憤りを抱くことは決して間違ってはいない。誰が聞いても理不尽なことだ。その思いを肯定はしてもらいたいという気配は感じとることはできた。ともに怒りの炎を燃やし、悔しさの露を払う、共感者(もしくは共犯者?)が必要だった。彼女は自ら抱えている、いいようのないものに対して、第三者の判断を仰ぎたかったのかもしれない。

何故、そう思ったかというと、“証拠のテープ”を聞かされることになったからだ。実は彼女、その母親との会話を自宅の電話の留守電に録音をしていた。

留守番電話。いまでこそ当たり前(というか、様々な機能がついた携帯に比べると、極めて原始的な機能だ)だが、当時はようやく留守番電話が普及したばかり。携帯やポケベルが一般化する以前、家にいなくて電話を取れなくても、相手の用件を聞けるだけでも画期的だった。その機能を利用し、婚約者の母親と会話しながら、留守電のスイッチを入れ、録音していたのだ。

今度はその機能を利用し、私と話しながら、その会話の録音を再生する。一瞬、その母親と直接、話している錯覚を覚える。聞いていると、嫌味なものいいや見下した発言の連発に、当事者でなくても反発を抱き、憤怒の情が込み上げてきた。その理不尽な発言には耐えがたいものがあり、思わず、怒鳴りたくなってしまう。

家柄が違う、などというと、旧態依然のものいいだが、看護師として働いている彼女の職業への不満と、結婚しても仕事は続けることへの反発が、山の手の嫌味な“ざあます”言葉で語られる。慇懃無礼とでもいうのだろうか。罵詈雑言ではないが、そこには悪意と敵意しかない。同時にその背景には、自らの息子が親の承諾しない相手と結婚を考えたことへの焦燥と嫌悪が満ちている。

私自身、ざあます言葉を操る、似非上流階級(!?)には敵意を抱きこそすれ、決して好意などを持つわけがない。

状況証拠や前提条項で判断するのはいかがなものかと思うが、仮に裁判員裁判なら、その女性が正しく、母親が間違っていると、私は判決を下すだろう。彼女はそんな判決を待っていたのかもしれない。

創世記のテレクラの役割

婚約破棄を宣告した会話の録音など、誰にでも聞かせられるものではない。それは、自分の恥部を晒すことだ。だが、テレクラでは容易に晒すことができる。むしろ、テレクラでなければ、彼女の憤りや怒りを思惑や対面を気にすることなく、肯定するという、共感者を見つけることができなかったのだろう。

いくら友達や親類でもいえない、秘密の会話。テレクラだからこそ、彼女は包み隠さずに言うことができたのかもしれない。

私がその会話を聞き終え、同じように怒りを感じたというと、彼女は幾分、元気になって、声のトーンもいくらか高くなってきたように感じた。いったい自分のどこがいけないのか、自分では判断できず、第三者に委ねたかったのだろう。あまりに混乱し、混沌としてしまった自分の揺らぎやぶれをどこかで、修正しなければならない。それをテレクラに求めていた。

テレクラが出会いの機能を果たすのは言わずもがなだが、それ以前は、相談相手を見つけるものでもあった。あたかも子供電話相談室のように、テレクラも、創世記には相談や話し相手を見つけられる場所であることを喧伝していたのだ。「素敵な彼がいる」ではなく、「話を聞いてくれる男性がいる」、ということで、女性側の抵抗感を払拭しようとしていたのかもしれない。

テレクラが、実際に会うためのものではないとすれば、清水節子(テレフォン・セックス考案者。風俗リポーターとして、懐かしや『11PM』などの番組でも活躍。70年代から80年代にかけて一世を風靡した。80年代後半まで開設されていたが、最盛期は70年代半ば)のテレフォン・セックスの素人版みたいなものの端緒といえなくもない。
テレフォン・セックスは当初、いまでいうテレフォン・セックスという疑似性行為をするだけではなく、性の悩みや問題にも答えていた。それと同じように、テレクラ創世記は話し、聞くことだけで完結していたのだ。

同じ量の“怒り”

その女性とは、証拠テープを聞かされてからも延々と話すことになる。実は、私が学生時代に務めていた企画会社の同僚の女性が同じような“痛い目”にあっていた。その女性は仕事の打ち上げ後、酔って、彼の実家に電話したら、たまたま母親が出てしまい、ほろ酔い口調を咎められ、かつ、深夜(といっても11時前だが)まで、仕事仲間といえ、男女複数で、酒を飲むという行為をたしなめられた。彼女自身も婚約をしていたが、母親の意向で、婚約破棄されてしまう。それも同じように、彼からちゃんとした説明もなく、母親からの一方的な宣告によってだ。その彼女は、彼へ電話をしようとしても、実家なのでかけても取り次いでもらえないため(この辺が携帯以前のことだろう)、手紙を送るしかなかった。そこには当時、流行った近藤真彦の「ケジメなさい」(1984年の紅白歌合戦の出場曲!)の歌詞を引用し、“ケジメなさい”という言葉が綴られていた。

しかし、ケジメはつけられることはなく、曖昧なまま、うやむやにされ、傷心の彼女はニューヨークへと旅立ってしまった――。

同僚の女性とは恋愛関係などにはなかったが、大事な仲間を傷つけた、ケジメのつけられないマザコン野郎は、忌避すべきものとして、心の片隅に置かれたのだ。

それゆえ、30代の看護師の女性の“悲劇”は、他人事と思えず、身近なこととして憤慨もした。その女性と同じ怒りの量で、怒りを持ったといっていい。

話は延々と続き、朝を迎える。始発の走る時間である。私も仕事があったが、彼女は、食事ができないだけでなく、ほとんど寝ることもできていないという。性欲は抑制できても食欲や睡眠欲は堪えることができないものだが、完全にその欲求が減退している。それが続けば、彼女の身体が持たないばかりか、精神的な失調も起こしかねない。

私は話を切り上げ、まずは寝ることを促した。寝なければ、意識も朦朧とし、適切な対処方法なども見つからないというものだ。

彼女自身は話し足りないらしく、もっと話したいという。思わぬアポだが、その日の夕方に会うことになる。公園通りのパルコの前で、待ち合わせることにした。さすがに渋谷のハチ公前では、人が多過ぎ、待ち合わせてもわからない。我ながら、正しい選択だと思う。

彼女の服装を聞くと、大きな花柄のワンピースだという。目鼻立ちははっきりして、派手目ともいう。看護師とは“星空のドライブ”をした女性以来、ときどき、テレクラで遭遇する機会があった。なにしろ、テレクラの御三家的(看護師や保母、主婦などが当時、テレクラを比較的、頻繁に利用していた。勤務時間や育児の時間、友人との祝日の関係で、出会いが限られる)存在でもあったからだが、看護師は、仕事場ではどちらかといえば地味で、華美さより、清楚さが求められる。しかし、オフになると、派手な服装や化粧をするという女性が多かった。電話の内容と、服装や容姿に違和感を若干、覚えつつも、看護師だからそういうものだろうと、勝手に判断した。

その朝、テレクラを出て自宅に戻り、1時間ほど仮眠をすると、仕事先へ向かった。あまりの睡眠不足で、たいして仕事にならなかったことを覚えている。とても給与に見合う仕事をしていたとは言い難い。申し訳ない(涙)。

約束の時間までになんとか仕事を切り上げ、仕事場から渋谷へと急ぐ。果たして、彼女は来るだろうか。かなり朦朧とした中でのアポだから難しいところかもしれないが、しかし、数時間、それこそ、夜から朝まで話し合った二人である、信頼感みたいなものも芽生えているはず。まさか約束は破られることはないだろうと、信じていた。まだ、人の心や情けが信じられる時代でもあった。
渋谷駅から公園通りの坂を、パルコへと上った。するとそこには、“一杯のかけそば”ならぬ、“一杯のカレーライス”という“ドラマ”が待っていたのだ。

2012-07-17

第8回■エコーズ

転戦

“相棒”との転戦(というか、相棒との出会いによって、出会った人達との転戦かもしれない)の模様を簡単に書き記しておく。

池袋の合コンで会った“お嬢様”から知り合いの女性を紹介された。
それも一人や二人ではなく、かなりの人数になる。そのなかには、全国展開する“花嫁学校”(いまとなっては、曖昧な学校である)の経営者の息女もいた。いまでいう“セレブ”な出自で、まったくの箱入り娘。誰がどう見ても美人という容姿で、有名なテレビ番組の放送作家や映画のプロデューサーなども知り合いだった。そういう意味では、箱入りといいつつ、なかなか、好奇心旺盛な発展家でもある。

何故、私などを紹介したかわからないが、“お嬢様”の豊富な人脈のバリエーションを示すには、私の登場が必要だったのかもしれない。私も紹介された手前、その女性と“デート”らしきことも数回した。ただ、イタリアンにフレンチ……店選びやメニューなどに気を使ったデートなどは、面倒くさいとしか思えなかった。勿論、継続するはずもない。

また、先の“合コンお嬢様”の人員の調達先である、異業種交流会的な社会人サークルにも顔出しさせてもらった。そのサークルでは合コンだけでなく、クルージング、キャンプ、テニス、ゴルフなどもしていたので、私もそれらに参加した。

そんな中から、共同でディンギー(小型のボートのこと。一般的には風を動力とするセーリング・ディンギー、ヨットを指す)を持とうなんていう話がされ、本気で葉山や逗子に係留させようという案も出ていた。まさに、バブリーな、あの時代ゆえのことか。

大学時代に仕事をしていなかったら、当時の大学生や新卒の社会人がしていそうなことをこのとき経験していたのだと思う。それだけ、世の中は浮かれていたのだ。

恥ずかしながら(そんな恥ずかしがることはないが、私の感覚では充分に恥ずかしい)、社会人サークルでは、合コン感覚で、初めてかの“鼠の国”にまで行くことになった(そこから名前を拝借した風俗店、ティズニーには行ったことがあったのだが!)。しかし、それは苦い思い出となった。たまたま、同行した男性の中にいわゆる女性に嫌われるタイプの男性がいたため、いつの間にか男子と女子のグループに分かれてしまい、「ホーンテッドマンション」は男同志でドゥームバギーに乗る羽目になったのだ。おまけに「ビッグサンダー・マウンテン」ではキャストから男性同士でいらしたんですか、と、余計なことをいわれる始末(涙)。

サークルの仲間が顔出ししていた“ねるとんパーティ”にも行き、そこでもちゃっかり当たりをつけ、何人かとそういう(ご想像にお任せする)関係にもなった。ねるとんパーティは元々、いまでいう婚活というか、出会いを求めているわけだから、ストリートなどで何を目的としているかわからない女性にやたら声掛けするよりは効率はいい。ある意味、前のめりだから、ひっかかりもいいわけだ。もっとも婚活といいつつ、まだ、結婚などまるで考える気はなく、悪い言い方だが、美味しいところだけをいただいていた。

そんなことをしているうちに、ねるとんパーティの主催者とも仲良くなり、気づいたらイベントの“お手伝い”をするようになっていた。

これはテレクラや風俗遊びにも通じるコツ、つまり“スタッフを味方につけろ”だ。
私は人垂らしではないが、気づくとうまく取り入っている。変な競争心を持ったり、他人を押しのけたり、店員やスタッフのことを見下したり、ぞんざいな口をきいたりせず、どこか仲間のように接していたからだろう。不思議と気に入られ、知らぬ間に仲間に引きずり込まれている。だからといって、完全なスタッフではない。あくまでも、お手伝い。ここが重要だ。

ただのねるとん参加者や完全なスタッフではないニッチな立場が、女性には新鮮に映る。気軽にスタッフに話しかけていれば、“偽客(さくら)”と思われる。さくらというと、たとえばテレクラなら、店に雇われ、やたら話を長引かせつつもアポは取れない女の子、のように悪いイメージがあるが、ねるとんでは、本気で参加している男性とは違って、いい意味でのジョーカー的な視線を浴びることになった。特に意識をしていたわけではないが、自然といい立ち位置を獲得していたようだ。

ちなみに、元祖“相棒”からは、彼が後に奥様となる女性と付き合い始めた頃、彼女の同級生を紹介され、ダブル・デートなどもした。彼女と“ラブラブ・モード”(懐かしい表現だろ?)になる彼としては、私を“更生”させるための御膳立てだったかもしれない。
紹介されたうちの一人はデパートのブランド・ショップのチーフ、もう一人は実家の花屋の手伝いである。

前者は高級ブランドらしい優雅さを持った淑女、後者は気立てのいいあいくるしい美少女。“あいくるしい”など、綾瀬はるかに先駆けること、10年以上も前。その顛末だが、相棒には悪いが、私には邪まな遊び心が疼いている、“欲望と痴情の世界”に相棒の彼女の親友を巻き込むわけにはいかない。やんわりと、撤退させていただいた。

この転戦の模様を書きあげたら、切りがない。隠しネタは無尽蔵にある。その模様は、またの連載(!?)に譲らせていただこう。密かに楽しみに、お待ちいただきたい。

連日連夜、遠征、転戦を繰り返した私だが、その時に意識したのは“エコーズ”という響きや軌跡である。
池や川に小石を投げ込むと、波紋は際限なく、広がっていく。その広がる様や行く末を追いかけ、それに身を任せてみる。

実は、現在、作家として、また、中山美穂の亭主として知られる辻仁成(ひとなり)が辻仁成(じんせい)時代に組んでいたバンドがエコーズという。バンド名そのものはピンク・フロイドの同題の曲から取ったそうだが、同時に曲名だけでなく、小石を投げ込み、波紋を広がるということからも取ったというのを覚えていた。私自身もまさに池や川に小石を投げ込む人でありたいという思いであった。

ある意味、行き当たりばったり、出たとこ勝負。あるがまま、なるがままに身を任せるという感じだろう。気づくと、池や川の波紋のように、いろいろと人間関係が広がり、人の縁が繋がっていく。そのありていを楽しみつつ、その絆を紡いでいったのだ。

30代のバツイチ子持ち女性の自宅へなだれこむ

といささか、文学的、哲学的(というほどではないが)に話はずれたが、前回、ティーザー広告的に紹介した30代肉感女性について触れておかなければならない。いまでこそ、“バツイチ”という言葉が流布しているが、同表現は1992年からで、同年には流行語にもなっている。まさに、その女性はバツイチ、かつ、子持ちだった。

かの相棒と出会ったテレクラがきっかけで、彼女と暫く付き合う(私の付き合うだから、あまり真面目にとらないでいただきたい)ことになったが、最初の出会いは、鮮烈であった。

その30代肉感女性との出会いは“黒革の手帳”を見ると、88年4月とある。多分、深夜になる前、自宅から掛けてきたのだろう。待ち合わせ場所は不確かだが、とりあえず、お酒が飲みたいので居酒屋へと行こうということだったから、歌舞伎町のどこかだったと思う。

第一印象は、肉感的ということ。グラマラスというより、ムチムチとしている。だからといって、肥満というわけではない。卑猥な表現だが、抱き心地が良さそうな身体である。顔は当時、ホームドラマなどで、人のいい、お母さんの役をやっていた女優に似ている。残念ながら、その女優の名前は思い出せない。

離婚経験と子供ありという女性だが、元のご主人が経営する洋装店で、いまだにパート的に働いているという。離婚の原因などはあまり詳しくは聞いていなかったが、ご主人の浮気ではないようだ。それなら、仕事を一緒にすることなどはできないだろう。

仕事や子育て(子供は小学低学年)のストレスを吹っ飛ばしたいという。歌舞伎町の居酒屋に連れて行くことにした。実は同店、私の仕事仲間から聞いたところで、馬刺しとレバ刺し(いまではレバ刺しは幻になるが、当時はそんなことはない)が上手いところで、あまりレバーは好きではないが、そこのは平気食べれた。ニンニクとショウガが絶妙なバランスに醤油に絡み、絶品である。何故、表(という表現も変だが)の行きつけの店に彼女を連れていったかわからないが、なんとなく、信頼できる女性であると、判断したからだろう。一瞬の人の見極めは、直観のようなものだが、安全と危険の仕分けは、自然としている。なにしろ、不夜城・新宿を泳ぐ“新宿鮫”である。危険察知能力は、高まっている。危険を察知し、回避する術は、このような遊びをしながら習得していった。

まずはビールで乾杯をするが、すぐに焼酎に切り替わる。飲む量は半端ではない。鯨飲馬食という言葉があるが、私の想像を超えた飲みっぷりだ。むしろ、焦って酔おうとしているかのようにかき込む。よっぽど、嫌なことがあったのだろう、とにかく憂さを晴らしたいようだ。

その嫌なことや憂さの原因などは話してくれることはなかったが、飲み進み、酔っぱらってくると、色っぽくなるというより、怖いくらいに目が座る。そして、やたらと絡んでくる。私などは、どうせ身体目的のスケベ男という扱いである。勿論、彼女の見立てに間違いはなく、身体目当て以外の何物でもない。元のご主人に対する不満や子育てへの不安などをそれとなく聞いてみるが、あまり、まともな答えは返ってこない。大変な女性につかまってしまった、できれば、早く帰りたいというのが正直なところ。いまでこそ、離婚し、子供を育てている女性は少なくなくないが、まだ、当時は実際の数字以上には珍しいと感じられていたのかもしれない。周りの見る目なども余計にストレスを増殖させていたように感じる。

さらに酔いが回ると、いきなりキスをされる。酒臭く、とても下半身が反応するという類のものでもない。フレンチキスやディープキスなど、キスの手技に則ったものでなく、貪るようなキスだ。私的には奪われるというより、襲われるという感じだ。さらに、今度は首筋にキス(というより、噛みつく)、キスマークという可愛いものではない、噛み痕がついてしまう。本当に傷跡(!?)が残り、何故か、必要のないスカーフを数日間、する羽目になってしまった。

私自身、あまり酒を飲まないこともあって、酔っ払いの介抱は得意としていた。また、テレクラで会っただけで、素性もわからない女性だが、流石、捨て置くようなこともできない。それなりに責任感の強い私である。

まともに歩ける状態ではないので、私が彼女の家に送ることになる。幸いなことに家は歌舞伎町から車で10分ほど、さらに都合のいいことに、子供は両親の家に泊まりに行っているという。

タクシーにその女性を必死に担ぎ上げ(酔っぱらうと女性は本当に重くなる!)、乗せて、10数分で、彼女の家に着く。名称はマンションとあったが、どちらかといえば、アパートというのが相応しい。幾分、生活臭の漂う建物である。彼女から鍵を預かり、扉を開け、玄関からすぐの部屋に入る。その女性は倒れ込むように寝てしまう。男性を部屋へ上げる、いくら酔っているとはいえ、これはOKのサインだ。好きにしてくれといっているようなものだ。

居間に倒れている彼女を抱きしめると、強く抱きしめてくる。意識がある証拠だ。決して、酔った勢いで、何かをしようとしているのではない。ある種、自分自身を納得させながら、身体を抱きしめたまま、唇を奪う(今度は私が逆襲する番である)。酒臭さは相変わらずだが、居酒屋でのキスと違い、下半身を刺激する。

服を脱がせにかかる。大人しくセーターを剥ぎ取る際には、両腕を上げる。そして、スカートもすんなりと腰を浮かし、脱がしやすいようにしてくれる。

下着姿になると、予想通り(!?)の肉感的な肢体が現れる。程よい肉付きと、肌理の細かい白い肌がビールと焼酎で赤く染まる。裸体の紅白歌合戦やー。

さらに下着を脱がせようと、手にかけ、いざ、これからという刹那、彼女は懇願する。

「子供と一緒に住んでいる家ではやめて!」

ならば、どこならいいんだ、と、突っ込みを入れたくなるが、まるで、どこかで見た光景、何か、毎度のコントの落ちみたいだが、いつもいいところ、直前で駄目出しをされてしまう。

そんな言葉を無視し、顧みることなく、そのまま、脱がしてしまっても良かったのかもしれない。むしろ、その言葉は、ただのエクスキューズに過ぎず、本心ではなかったと取ることもできる。しかし、詰めの甘い、ごり押しが出来ない私である。そこで一気にテンションが下がり、邪まな欲情も一瞬にして萎えてしまう。こうなったら、潔く撤収するのみ。私は悔恨と安堵を抱きしめ、タクシーに一人、乗り込んだ……。

2012-07-06

第7回■相棒

仲間達との“男子会”(女子会はすっかり定着したが、いまだにこの表現はあまりされないようだ。男とはつるむものだろうか?)に興じながらも、私達をゴミ呼ばわりする隠れ家のコールが薄くなってきていることを感じていた。援助交際や悪戯が頻発していたわけではなく、後年のように荒むという状況ではないが、なんとなく、いいコールが取れなくなっていた。アポする気もない暇つぶしの常連か、アポを取ってもすっぽかしという女性に当たることが多くなっていた。深夜料金をろくに払っていないものがいう台詞ではないが、コストパフォーマンスが落ちている。コールは、店の営業努力やマスコミの露出などに左右されるが、なんとなく、コールの波が来ず、凪いでいるような状態だったのだ。

ならば、狩場、釣り場を変えてみるしかない。このあたり、ハンティング・ワールド(否、ハンティング・ワード)満載だが、まだ、男達が狩りや釣りに精を出していた時代だ。出会い系など、姑息(!?)な言葉出現以前、ナンパという言葉が大手を振って、市民権を得ていた。

もっとも場を変えるといっても店を変えるくらいで、新宿・歌舞伎町からは離れがたかった。いわば、同じ山系の尾根と峰、同じ河川の上流と下流くらいの差異だろう。

ソープが林立し、古式ゆかしい名曲喫茶がある通りの端にあった「ワイズ」というチェーン店に行くことにした。パチンコの景品交換所の2階にある店舗で、都内だけでなく、近郊にも数店舗を有する大型店だ。それゆえ、店内も広く、アダルトビデオや風俗情報誌の品揃えも豊富だ(笑)。

ここは「ジャッキー」とは違い、早取り制ではなく、取次制である。フロントが女性のコールを取り、年代などの女性の希望を聞いて、該当する男性がいるボックスに回すという仕組み。一生懸命に習得した早取りの秘技を駆使する機会がなくなってしまったが、その分、ビデオを見たり、雑誌を読んだりできる。その分、心地よい緊張がなくなり、ルアーやフライのフィッシャーとしての張合いもないが、胃が痛くなるような思いをしないで済む。楽をさせていただいた。

ちなみに、ビデオボックスとしてのテレクラで見ていたのは、多少、時代の前後はあるが、早川愛美や東清美、村上麗奈、葉山レイコ、秋元ともみなど、可愛い&綺麗の美少女系のAV。あまり、AVには詳しくはないが、かの村西とおるが「ナイスですねー」なんて言っていた時代で、AV女優達はアイドル的な人気も得ていたと思う。

私自身は、実家住まいで、近所のレンタルビデオ屋が同級生の店という環境ゆえ、おいそれとAVを見る機会がなかった。唯一、見れる場所がビデオボックスという個室ビデオ店(ビデオが大量に陳列され、それをボックスタイプの個室で鑑賞できるところ)。まさに昭和の風俗だ。ビデオボックスがテレクラに変わったという感じだろうか。熱心に見た記憶はないが、AVや風俗情報誌を見ながら、時間をつぶしていた。

同所では、暫く、お付き合い(!?)する、離婚経験&子供ありという30代の肉感的な女性と出会っている。その女性とは居酒屋で落ち合ったが、酔った勢いで、キスマークが残るほど首筋にキスされ(というか、噛まれ)、さらには、その勢いのまま、彼女の自宅まで雪崩こむことになった。

肉感30代女性との出会いについてはまた、改めさせていただくが、その前に、前回に続く、ホモ・ソーシャルな出会いを語らせていただくことにする。テレクラ・ボーイズなので、当時の男性の行動や思考を書き留めることも、私の使命である。官能の情交描写は暫く、待ってもらいたい(笑)。

混線で男とデート!?

縁とは異なもの。不思議なこともある。

私が女子大生とアポを取っていたところ、まったくの偶然で電話が混線し、男性の声が聞こえてきたことがあった。会話中に時々通じなくなり、スムーズに話すことができない。それでも待ち合わせ時間と場所を決め、お互いの服装や容貌など、待ち合わせの目印は教えあった。少々心もとないアポだったが、とにかく待ち合わせ場所に行くことにした。

アポの場所は新宿ではなく、五反田。電車移動なので急いで個室を出なければならない。慌てて身支度をしてから個室を出ると、同じように個室から慌てて出てくる男性がいた。お互い、同じように焦っているので可笑しくなり、顔を見合わせる。初対面で、当然、面識も交流もなかったが、何故か、急いでいるにも関わらず、話し込んでしまう。

聞けば、先ほど、混戦していた女子大生とアポを取ったという。その女性は二人と同時に話していたわけだが、それに気付かなかったのだろうか。良く見ると、私達は年恰好も服装も似てはいた。

ダブル・ブッキングか。半信半疑だが、二人で、待ち合わせの場所まで行くことにする。その彼は、車で来ていたので、同乗させてもらうことにした。

同じアポを取った女性のところへ一緒に向かう。偶然とはいえ、かなり変なシチエ―ションである。何故か可笑しくなり、笑いが込み上げる。車中は、多少、ばつの悪さもあり、当たり障りのない話に終始したが、相手を出し抜いてやる、といった競争心みたいなものはなかった。それは運転している彼も同じで、特に焦ることなく、こんな状況を楽しんでいるかのように見えた。

待ち合わせ場所に着くと、果たせるかな、アポを取った女子大生は来ず。当たり前だ。混線して会話した二人の男性と会おうなんていう女性はいない。私達は当然の結果として、すっぽかしを食らう。

そこで解散しても良かったが、離れがたいものがあり(何度もいうが、私は異性愛者である!)、一緒に居酒屋に行くことになった。車なのにアルコールというのは、あの時代ゆえのこと。お許しいただきたい。

まずは、乾杯後、簡単な自己紹介。その男性、年齢は、私より少し下で、20代後半だった。ビル管理の会社に勤務していて、勤務時間が変則的で、時々、テレクラの朝までコースを楽しんでいるという。彼は同チェーン店の常連で、それなりの戦績(こんな表現が、ナンパ華やかなりし頃ゆえのこと)を上げているという。お互いの嬉し恥ずかしい武勇伝を披露しあうが、意外にも盛り上がったのが村上春樹の話題だった。

1987年に国民的ベストセラーとなった『ノルウェーの森』は、当時の男子の嗜みのような模範図書だったが、二人とも『風の歌を聞け』や『羊をめぐる冒険』など、彼のデビュー直後から注目していたことを誇らしげに語る。勿論、春樹以前、ヴォネガットやブローティガンなど、米文学にも精通していた。村上春樹的世界とは対極(でもないか)にいるような、生臭い遊びをしているにも関わらず、二人とも気分は文学青年。浪漫症候群でもあった。

後に、二人で夜更けに車を飛ばし、『パン屋再襲撃』と怒鳴りながら、大いに盛り上がったものだ。当然、深夜ゆえ、パン屋などはやっていない。マクドナルドは24時間営業だったかもしれないが、襲撃するような根性は持ち合わせていない(笑)。

いまにして思えば、男性が村上春樹噺で盛り上がるなど、若干の気持ち悪さもあるが、まだ、随分と若かった頃だ。それゆえ、お許しいただきたい。

その日以来、彼とはつるむことになるが、最初の再会の場所は、テレクラではなかった。

“アンド・フレンズ作戦”

新しい男性関係は、新しい女性関係を生む。私は、“アンド・フレンズ作戦”と名付けていた。

ある程度、そこそこ、ちゃんとした男性であれば、出会いがないといいつつも一人や二人くらいの女友達がいる。その女性とは恋愛関係になくても(むしろ、ないほうが望ましい)、飲み会(いわゆる合コン!)には、数合わせ、人数調整のため誘われるものだ。

そんな飲み会に私も駆り出されることになる。新しい男性関係は、そこから新しい女性関係に繋がる。ましてや、欲望を秘めた者同士、最初からお互いお里が知れている方が男性も連携しやすく、団体戦へ持ち込めるというもの。

その彼も私のように、会社も生活環境も違う、利害関係のない人間の方が気安く、声をかけしやすかったのかもしれない。

再会の場所は、新宿でも五反田でもなく、池袋である。結婚式場に隣接するレストランだった。その彼の知り合いの女性が主催したもので、男女3対3だったと思う。主催者は20代半ばの家事手伝いをしているお嬢様然とした女性。自由が丘に住んでいるという。下町生まれ、下町育ちの私からすれば、生息地(居住地)だけで、お嬢様と認定したくなる。育ちの良さそうな佇まいと、鷹揚な物腰。実はその女性、彼がテレクラで押さえておいたのだ(性交渉などには及んでないが、なんとなく、友達関係を維持していた)。合コン好きらしく、人材募集のためのテレクラ利用だった。勿論、そんなことはおくびにも出さない。

合コンそのものは、差し障りのない会話ながら、それなりに盛り上がった。私自身、普通の会社員ではなく、フリーランス(フリーター!?)だったため、物珍しがられ、私が振る話題も普段聞けないことが多かったようだ。

私の服装もスーツなどではなく、カジュアル(といってもそこそこ、お洒落はしていたつもり。何しろ、シップスにミウラ&サンズ時代から通っていたし、ハリウッド・ランチ・マーケットも外苑時代に行っている!)。ある意味、毛色が違うということで、合コンの彩として、しきりに声を掛けられることになる。

混線電話の彼とは、その後も“相棒”として、テレクラだけでなく、合コンやねるとん(もはや、説明が必要だと思うが、お見合いパーティとでも訳しておこう)、異業種交流会など、時間や場所を変え、転戦していた。彼のお蔭で、人間関係が飛躍的に広がった。当然、仕事などでも人脈は広がるものだが、仕事の場面では、自らの狩猟本能を隠蔽し、慎ましやかに謹厳実直を演じていた。遊びの人間関係の拡大は、彼がいなければ、なし得なかったこと。

不思議なことに、後年、その彼の結婚式へ出席して、私は友人代表として挨拶までしている。ちなみに、テレクラ仲間ということは二人だけの秘密で、周りには村上春樹ファンということで知り合ったなどと、まことしやかに説明している。勿論、彼の奥様も知らないことである(ちなみに、彼は奥様とは学園祭のねるとんで知り合っているが、それは周りには秘密にしている)。

あれから20数年経つが、いまだに年賀状は来る。数年に何度かは、会ってもいる。思えば、不思議な縁である。テレクラ・ボーイズの“絆”は、意外と強いもの。それに比して、男と女の関係とは脆く、儚い――。

2012-06-29

第6回■BOYS BE DESIRE,JUMP THE MIDNIGHT!

いつしか、季節は夏から秋へと移る。“星空のドライブ”を共にした我が愛しの欲望のマーメイドとは、その後も何度か、会うことになった。特に付き合いをしている女性がいなかったので、彼女といえなくもなかったが、そんなことはこっちの勝手な思い込みだし、私自身、彼女が欲しいとも思っていなかった。

セックスフレンドという言葉が流布するのは90年代からだが、セックスができる女性がいれば良かった。二人で映画を見たり、遊園地へ行ったりなど、したくもなかった。前戯としてのデートという発想でしかなかった。若者向け男性誌では盛んにデート特集をやっていて、バブル時代を象徴する、いまにして思えば夢のような高級ホテルでのディナーやクリスマス・デートなどが紹介されていた。しかし私は、それは時間と金の無駄であると断じていた。

とはいうものの、下心もあり、その女性とはデートらしきことを続けていた。何度目のデートか忘れたが、歌舞伎町を職安通りに向かう、奥歌舞伎町という感じのところに、私のお気に入りの台湾屋台料理の店があり、いっしょに行ったことがあった。値段も手頃で、かつ、ホテル街の中にあるという、私のような人種(どんな人種!?)には、うってつけの店。

台湾料理をつまみながらビールを飲み、他愛のないことを話ながら時間をやり過ごすと、既に終電の時間は超える。勿論、意図的だ。あとは泊まるしかない状態に持っていく。幸い、周りはホテル街という理想的、思惑通りの展開だ。ホテルに誘うとすんなりとついてくる。今回は最後までという期待で、心臓が早鐘のように打つ。今度はしくじらない、強引にでも決めてしまえという思いも込み上げる。“きめてやる今夜”(BY 沢田研二)だ。

そこは当時のラブホテルらしく、風呂場がガラス張りで、照明を落とさないと丸見えになってしまうしつらえになっていた。さすがに明るいままではお互い恥ずかしいので、弱冠暗くしつつもなんとなく見えるという微妙な明るさに調整した。淡い光の中に彼女の身体がぼんやりと浮かぶ。彼女がシャワーを浴びた後、私も風呂へ入る。期待に胸を膨らませ、股間も膨らませる、と親父ギャグを入れておきたいところだが、多分、邪まな下心というか、そんな印を見られるのは恥ずかしいので、自制していたはず(笑)。

ベッドに入ると、いきなりキスをされる。口の中には飴玉が入っていて、それを口移しされる。大阪のおばちゃんではない、いきなり飴ちゃん攻撃だ。不可解な行動に頭をかしげつつも、気分は思い切り盛り上がる。口移しなど、なんと淫靡な行為だろう。

これは行ける。そんな確信を得る。これから始まることを存分に期待させる。前戯として、これほど、脳内物質を分泌させる行為はないだろう。身持ちの固い彼女も漸く、私を受け入れる心構えができたか。努力(!)の甲斐もあった。投資に見合う結果を得ることができようとしていた。

ところが、だ。またもや、そんな野望は脆くも打ち砕かれた。抱き寄せ、やや強引に挑もうとした刹那、背中を向けられてしまい、以前のように、やっぱり、出来ないと、拒否されてしまった。“仏壇返し”ではないが、無理やり抱き寄せ、はぁー? ここまで来て、何、恍けてんだ!と、思わず“ベッドやくざ”になるところだったが、私はDV男ではない。女性に優しい、聞き分けのいい男だ。すごすごと引き下がってしまう。そして歌舞伎町のラブホテルのベッドの上で、眠れる夜明けを、二人でいるにも関わらず、一人で悶々と迎えたのだった。

「『いき』の構造」

多分、その女性とはそれきりだったと思う。前述通り、恋人が欲しいわけではない。セックスできる相手を探しているだけだ。そのために恋人モードを演出し、恋愛詐欺をする気もなかった。もちろん、テレクラで、見ず知らずの女性に出会えてしまうことの驚きや楽しみがあったが、それだけではなく、根底には、手っ取り早く目的に到達したいという思いもあった。だからこそテレクラに走ったのだ。

そのデート後、彼女から手紙や電話を貰ったが、適当な理由をつけ、会うことを断り、疎遠になった。別れ話を切り出すでもなく、自然消滅を狙ったのだ。散々、寸でのところで、私を袖にしながら、それでも会おうという彼女の気持ちを当時は理解できなかった。いまなら、なんとなく、理解できる。マズローの「欲求段階説」ではないが、その女性にとって、手順や順番を踏む、段階を経ることが大事だったのかもしれない。「好き」とか、「愛している」とかを嘘でも言っておけばよかったのだろう。しかし、誠実な私(笑)は、そんな嘘はつけない。もっとも、“出会い系”の世界で、そんな段階が取り払われるには、そう時間はかからなかった。それは、また、別の話として、話を先に行かせていただこう。

いうまでもなく、私は切り替えが早い。そんなにも早く切り替えができるのは、ある本の影響でもあった。実は、九鬼周造の「『いき』の構造」という「いき」を考察した研究書を、同郷のストリート詩人に勧められ、読んだことがあった。その詩人とは、偶然、あるストリート・ライブで見初め、私が声かけさせていただいたが、大川(隅田川)の上流と下流に棲むもの同士ということで、親しくなった。「『いき』の構造」は古語が多く、難しい本だったので、すべてを理解などはできなかったが、読了後、いたく、感銘を覚えたものだ。いきの表徴は異性に対する「媚態」と、「意気地」、そして「諦め」であると書かれていた。特に、その“諦観”観には共感して、心の中へ留め置かれたのだ。

それだけでなく、「『いき』の構造」以前に、私の父が歌舞伎や落語などに親しみ、花柳界の遊びをしていたこととも関係があったかもしれない。父は有名な芸妓や幇間(ほうかん)などとも親交(テレビにも出ていた芸者から家に電話がかかってきたこともあった。父と声が似ているため、いきなり馴れ馴れしく話しかけられた)があった。そんな血筋ゆえ、いきやいなせには、それなりの拘りがあり、田舎臭いことやださいことは忌み嫌っていた。すべてにおいて執着や固執を捨て去り、あっさり、すっきり、瀟洒たるということを心掛けてもいた。

それゆえ、その女性に対しても深い追いせず、すぐに次みたいな発想になったのだと思う。ある種、「いき」の美学への憧れでもある。勿論、テレクラに行けば、いくらでも出会いの機会は転がっている。何も一人に執着や固執する必要はない。そんなのは野暮というものだ。

テレクラの“ゴミ”たち

そんな格闘を連日しているうちに、気がつけば深夜を過ぎ、翌朝までテレクラに居残ることが多くなった。“日々旅にして旅を栖(すみか)とす”ではないが、テレクラが住処のようになっていた。勿論、そういう輩は、私だけではなく、同じような連中も多かった。そんな“居残り佐平次”は、いつしか、“ゴミ”と呼ばれるようになる。ある意味、蔑称で、失礼な話だが、その分、特典もあった。

テレクラに日参していれば、不思議と客同士も面識ができ、交流も生まれる。客同士の仲が良いというテレクラも珍しいが、ボックスを出て、事務所前の溜まり場(ビデオや雑誌などが置いてあった)で情報交換をしているうちに、自然と打ち解けてくるものだ。仕事や生活、年代も関係なく、大人の社交場のようなものができる。お互い、女の穴を追う、スケベな男同志、同好の士として、不思議な連帯感も生まれる。地位や役職も関係ない、ある意味、対等な関係が心地良い。くだらない馬鹿話や風俗話、武勇伝などを語り合う。時には女性からのコールもそっちのけで、盛り上がることさえあった。

そんなミッドナイト・トーク・セッションには、テレクラでアルバイトしている大学生も加わった。その彼は遅番で、深夜から早朝までを担当していた。彼が店番のときは、常連から金をとらなくなるのだ。その分、ゴミ扱いされるわけだが、最初の入店分を払っていれば、朝までの延長料金は払わず、無料で過ごすことができた。全員がヘビーリピーター、テレクラ中毒患者だ。それまでに相当の金を店に落としている。顧客サービスもあったのだろう。同時にアルバイトだから特にノルマがあるわけではなく、熱心に仕事する必要もない。そんな気楽さというか、いい加減さもあったかもしれない。私達は遠慮なく、甘えさせていただいた(笑)。

ゴミと言われる常連にはいろんなメンバーがいたが、純然たる会社員より、自営や自由業が多かったように思う。深夜から朝までテレクラにいられる職種など、限られる。フリーのカメラマン(英国BBCのカメラクルーをしているといっていた)、映像関係の技術者(スピルバーグと連絡を取り合っているといっていた)、大学の助教授(某有名音楽家と共演している音楽家の親戚といっていた)……。それが本当か嘘かはわからない。私自身も適当に職業をいっていた。時間が不規則というところで、デザイナーなどといっていたはずだ。

すべてが本人の自己申告である意味、いい加減で、曖昧でしかないが、だからといって、特に詮索されることもない。本当のことを言えなどと誰も言わない、素敵な仲間達である。社会学的にはホモソーシャリティというらしいが、そんな男同志の関係が居心地良くも、楽しくもあった。

誰かががアポを取ったら、皆で見に行ったり、テレクラの近くにあるヘルスやキャバクラへ団体で遊びに行ったりもした。また、近くのスーパーで食材を買い込み、テレクラの溜まり場で、鍋までやった。ここまでくると、テレクラという枠を外れ、大学の部室みたいな感じさえする。多分、ナンパ研究会みたいなサークルがあれば、そんなサークルの部室という雰囲気だろう。

欲望や野望を剥き出し、女性と出会い、セックスするという同じ目的を持った仲間。建前は不要、本音を語り合う。それでいて、嘘やハッタリも許し、プライバシーにずけずけ入り込まない。緩い人間関係だが、そこは自分が自分らしくいられるところでもあった。

私が学生時代から務めていた企画会社は、資金調達のため、社員に高利貸しから金を借りてこさせるようないい加減な会社だったが、私自身は真剣に仕事に取り組んでいた。その熱心な仕事ぶりから、周りからは生真面目な人間と取られていた。それなりの人望や評価も得ていた。ところが、本当の自分(というほど、大袈裟なものではないが)は、生真面目どころか、これまで風俗絡みの数々の武勇伝(!?)を披瀝してきたが、とてつもないろくでなし(思わず、ワハハ本舗の梅垣義明のピーナッツを鼻から飛ばす歌が浮かんでくる!)だ。そんな自分を曝け出し、自然体でいられる場所だった。随分と楽になれたものだ。女性を落とすため、日々格闘しながらも、私は思い切り、自分自身を開放していった。多分、それは私だけでなく、その場にいるものも同じだったと思う。誰もが第二の青春時代ではないが、自動延長のモラトリアム期に、ミッドナイト・パーティやワンナイト・カーニバル(氣志團か!?)を思い切り楽しみ、馬鹿騒ぎしていた。

大志ではなく、欲望を抱いたテレクラ・ボーイズはグッド・フェローズでもある。ゴミ同士で団体戦はしなかったが、利害関係のない遊び仲間を持つということ、それがいろんな女性と出会い、セックスする機会を増すことに繋がっていった。つまらない競争をするのではなく、男同志がつるんで共闘する。変なライバル心や、相手を出し抜くなどのいやらしい心を捨てると、獲得できるものもあるのだ。釣り場(狩場)を変えてみたら、“相棒”が待っていた──。

2012-06-22

第5回■星空のドライブ (Interstellar Overdrive)

「その女性」とは“どっしりと構え、じっくりと話さなければならないだろう”と書いた。終電の時間まで、たっぷり2時間は話したと思う。その時点で、会話術や口説き術みたいなものを習得していたわけではない。ただ話し方だけは意識していた。

まずは声質にこだわった。特に美声で、とろけさすような声というわけではないが、できるだけ落ち着いて、ゆっくりと話す。早口や吃音など、性急さや不安定さは人を不快にさせてしまう。また、威圧的だったり、馴れ馴れしいのも引かれてしまう。心地いい距離感を意識した。何しろ、私の浅野忠信似(嘘!)といわれる美貌は電話で伝わらない。耳を通して、脳を刺激しなければならないのだ。

当時流行っていた、村上龍の『愛と幻想のファシズム』という小説の中に、主人公・トウジの声質が人々を魅了し、信奉者にしてしまうという下りがある。正確な引用ではないが、声だけで落とす、それだけは心掛けていた。安心感を与え、信用させ、約束を取り付ける。

それには相手の話を聞くことが大前提だ。思い切り、話させる。それに効果的な相槌を打ち、淀むことなく、流していく。それだけで、向こうは話してもいい相手だと認識し、信頼する。何しろ、看護師である彼女の仕事現場は過酷で、ストレスはたまりにたまっている。その滓のようなものを洗い流し、すっきりさせてあげなければならない。

人と話すことも人の話を聞くことも苦ではない。むしろ、得意としていた。学生時代の仲間と始めた企画会社では、ある企業の広報誌に連載を持ち、様々な職種や年代の人達にインタビューすることを日課のようにこなしていた。人嫌い、社交が苦手などといっていられない。相手の話を聞いて、言葉を引き出さなければならないのだ。

そういう意味では、インタビューは、テレクラのためのいい勉強になった。インタビューという仕事をする機会は特殊かもしれないが、営業や販売などの仕事をしていれば、いやでも話さざるを得ない。同時にスキルも上がる。いままでやってきたことに無駄はない。積み重なって糧となる。

ホテルのロビーに現れた彼女

その女性との約束の時間がきた。彼女は新宿副都心(歌舞伎町から見たら、駅の向こう側)にある外資系のホテルのロビーに現れた。ショートカットに涼やかな目と口角の上がった口元、長い首。当時、テレビの司会などもしていたジャズ歌手にも似ていたが、モディリアーニの絵画のような女性というのが第一印象。いまとなっては顔などの記憶は曖昧になっているが、そんな感じがしたことだけは鮮明に覚えている。服装はカットソーにジーンズ。それでいて、どこかしら、神経が行き届き、“センス”良く纏められている。軽装ながらホテルのロビーにいても浮かない装いだ。靴はローヒールのパンプス。彼女は背が170近くあり、背の高いことを気にしているようだった。

お互い、顔を見合わせると、幸い表情が曇ることもなく(会った相手が気にいらないと、自然と顔に出てしまうもの)、軽く挨拶を交わす。多分、彼女には本名ではなく、適当な名前をいっていたと思う。挨拶もそこそこに、そのホテルの最上階にあるプールへと、外の景色が見えるエレベーターで急ぐ。そのエレベーターからはマイ・ホーム・タウン、歌舞伎町が遠くに霞む。

エレベーターが上昇する度に、邪念を含め、私の期待値も上がる。なかば上気し、天にも昇る気持ちというのだろうか。あれやこれやと妄想夢芝居状態だ(笑)。

そそくさと水着に着替え、プールサイドでその女性を待った。ホテルのプールでは、男性でもこれ見よがしのビキニスタイルの競泳用水着を着るものもいたが、さすがに恥ずかしい。大人しめのサーフパンツ(勿論、サーフィンなどしていない、丘サーファーだ)姿がせいいっぱい。15分ほど、待っていてもなかなか彼女はやってこない。ひょっとしたら更衣室へ行くふりをして、そのまま帰られてしまったのではないか、という不安がもたげてくる。

確かに、話が上手すぎる。いきなりプールデートなんてありえない、そんな思いが心を重くする。それからさらに15分ほど時間が経つ。ようやく彼女が更衣室から現れた。心の中で安堵の溜息をつきつつ、喝采を上げる。白いワンピースの水着にくるまれたスレンダーな肢体。その長い手足を優雅にモンローウォークさせ、プールサイドでステップを踏む姿が眩しい。

私が先にプールに入ると、彼女はおどけながら水面へダイブした。水面に小石を投じると波紋が広がり、小さな輪は大きな輪へと転じる。そして、その波紋は私の人生に漣(さざなみ。なんていうスキンがあった!)を立てる。投げられた小石、その切っ掛けは一本の電話だった。

横浜へのドライブ

プールで、いちゃいちゃする、などというと卑猥なことを想像されるかもしれないが、水を掛け合ったり、手を引いたりする。ひょっとしたら、後ろから抱きつくくらいのことはしたかもしれない。昨夜、電話で話し、1時間ほど前に会ったばかりというのに、急接近だ。急速に二人の距離は縮まる。何が、そうさせたかはわからないが、少なくとも他の人が見たら、恋人同士に見えただろう。変にぎくしゃくしたところも、ぎこちないところもなかったはずだ。

プールサイドからは新宿の景観が見渡せる。だが、夏の陽は長い。黄昏色に街を染めるが、夜景というにはほど遠い。どういう経緯か、素敵な夜景を見に行こうと、横浜までドライブするという話がまとまる。当時、私は免許を取得していなかったので、私が話を振るわけはなく、彼女が言い出したのだと思う。ひょっとしたら、恋人ができたらしてみたい、理想のデートコースだったのかもしれない。

そのホテルに近い、青梅街道沿いのレンタカー屋で、車を借りることにした。車種などは覚えてないが、トヨタかニッサンの乗用車で、決して外車やスポーツカーではなかった。彼女はしっかり免許を持っていて、それをレンタカー屋に見せていた。後年、テレクラが危険化すると、犯罪防止のために、自らの身分を証明するものや高額な金銭を持たないという女性が少なからずいたが、そういう面ではまだ、おおらかな時代だった。私も信用されていたようだ。

新宿から横浜まで、どういうルートだったか、わからないが、心のカーステレオからは矢沢永吉の「チャイナ・タウン」が流れていた。関帝廟通りと市場通りの交差する、行きつけの中華料理屋へ行き、五目冷菜の盛り合わせから肉汁たっぷりの小龍包と青梗菜のオイスターソースかけ、天然有頭エビのチリソース煮などを頼み、紹興酒をロックでやる。当然、メニューは覚えているわけではないので、いかにもグルメに見えるように、こんな雰囲気で頼んだような気がする。当時は誰もが“行きつけ”の店を何軒か、持っていたものだ。しかし、ドライブにアルコール。いまでは飲酒運転の取り締まりや罰則が厳しくなったため相容れないものになったが、あの頃は、“俺たちの出逢い見つめていたのは甘くにがいウィスキー・コーク”ではないが、ドライブで洒落た店へ行き、酒を飲んで、平気で口説いていた。そんな時代である。

逆走のロードムービー

定番なら、中華街の後は“港の見える丘公園で、ベイブリッジを見ながら抱きしめ、キス”だろう。しかし、ドライブは続く。まだ、走り足りないらしく、小田原へ行くと言い出す。ほろ酔い気分で気持ちも大きくなったのだろう。もっとドライブをしたいようだ。小田原へは高速でなく、一般道を走ることになる。ところが、石川町から本牧へ抜けるトンネルで、なんと、彼女は反対車線に入ってしまったのだ! 途中で気付くもすぐには車線変更できず、側道を見つけ、あわてて、抜け出す。逆走は数分にも及んだ。今日、初めて会った女性と(勿論、長年の付き合いがあっても嫌だが)、心中などはしたくない。アルコールと変な高揚感で、舞い上がってしまったのだろう。まさに危険なドライブだ。

路肩に車を止め、彼女に落ち着いてもらう。10分ほど休んだだろうか。心と身体を休めると、これに懲りることなく、小田原を目指す。国道をひた走る。藤沢、平塚、茅ケ崎と順調に過ぎ、小田原の手前、国府津で車を止め、砂浜に出る。

砂浜に横たわり、海を見つめる。当然、海は黒く沈み、青い水面などは見えない。数時間前まで同じ水面でもプールだったことを考えると、随分と急な場面展開だ。空を見上げると新宿の夜景の代わりに星空が煌めく。このシチエ―ション、限りなく、恋人モードである。肩を抱き寄せ、キスくらいはしてもよさそうなものだが、そんな記憶はない。逸る気を押さえてではないが、流石、野外で、何か、よからぬことをする気にはなれなかったのか(先まで考え過ぎだ!)。

On The Road Again! さらにロードムービーは続く。小田原から箱根を目指すことになる。特に当てなどないが、箱根の峠道を車は進んでいく。新宿から箱根へドライブ、恋人気分を満喫しているようでいて、実は彼女を信じられない自分もいた。

ドライブインにトイレを借りにいった時のこと。我慢の限界になり、彼女に頼み、ドライブインの駐車場に車を止めてもらい、トイレを借りに行った。その時、私は迂闊にも貴重品を持たず、そのまま、鞄を置いて車を出てしまったのだ。トイレの中で、そのことに気づき、もし、戻った時に車がなかったらどうしようと心配になり、慌てた。果たせるかな、車はそのまま、移動することなく、駐車場に止めてあった。安堵して、彼女のことを一瞬でも疑った自分を恥ずかしいと感じたが、しかし、そういうことを思ったりするのは当然だし、変に舞い上がることなく、正常な判断ができていた証拠だろう。幸い、いい人に当たったとしかいえないが、危険と隣り合わせであることを常に意識しなければいけない遊びでもあったのだ。

箱根の峠をどこまで上ったか覚えてないが、展望台みたいなところで車から降りて、そこから明滅する小田原の町(かどうかは自信がない)を見下ろしたことは、ぼんやりながら心の雑記帳(!?)に書き留められている。そこから見た星空は小田原の海で見た時よりも近くに感じた。流れ星などが降っていれば、星に願いを的にロマンティックだったかもしれない(笑)。

箱根からそのまま伊豆まで足を延ばすという選択肢もあったが、夜の帳は既に降りている、これから伊豆へは遠すぎる。宛も計画もない小旅行だが、さすがに潮時。星空のドライブは、箱根から東京への帰路につく。東京へと東名高速をひた走る。実際はどういうルートだったかは不確かだが、随分と早く東京へ戻ることができたのだから、高速だったのだろう。

青梅街道沿いのレンタカー屋に車を返すと、既に終電の時間は過ぎていた。これからお互い自宅に戻るには遅すぎる。そのまま、青梅街道沿いのシティホテルに入った。副都心にある外資系のホテルでもなく、歌舞伎町や大久保にあるラブホテルでもない。まだ、恋愛やセックスという関係が曖昧な二人には自然な選択でもあった。

私達の関係とはどんな関係なのだろうか。スタートを切ったとたん、時間の坂を急速に駆け上り、気づいたら、ここまで来てしまった。シティホテルの清潔なダブルルームという頂に、ゴールインしようとしている。

近くのコンビニで、アルコールやソフトドリンクを買い込み、部屋に入る。まずは長旅(!?)の疲れと汗を落とすため、シャワーを浴びる。勿論、別に別に。私は思わず、頭まで洗ってしまう。ここまできたら、後、一押し。いろんな妄想や邪念が浮かぶ。そういえば、鞄の底には、もしものことを考え、コンドームは用意していた。

シャワーを浴びた二人はガウン姿になり、ダブルベッドへ横たわる。肩を抱き寄せ、唇を近づけると、目を瞑り、そのまま受け入れる。海岸や峠で、星を見ながらキスをするというのが常套手段だろうが、前述通り、何故かそんなクリシェは回避し、今回は慎重に対応したようだ。唇を啄みながら、ガウンの中に手を入れ、胸を弄る。水着姿を見た時からわかっていたが、スレンダーな肢体には似つかわしくない膨らみ。その感触だけは、掌に残っている。

少しもどかしげにガウンを剥ぎ取ると、私も慌てて、ガウンを脱ぎ棄てる。裸で抱き合う。まるで嘘のような本当の話。昨日の夜までは見知らぬ他人。それが一つのベッドの中にいる。白いシーツにくるまり欲望の海を泳ぎだそうとしているのだ。

果たせるかな、泳ぎだそうとしたところで急に、彼女の心と身体の均衡は崩壊し、フォームは空中分解ならぬ、水中分解を起こした。その女性は、私の耳元で、躊躇いと哀願を含みながらこう囁いたのだ。

「好きな人とでないと、できない…」

無理やりでもすることはできただろう。しかし、そうはしなかった。強引さが足らない、押しが弱いといえなくもないが、その時はそれでもいいと思った。考えてみたら、二人は裸で抱き合い、一つのベッドにいる。それだけで満足ではないだろうか。テレクラ自体が性的な記号を持つのは、もう少し後のことだ。出会いの装置であれば充分だ。そして、出会ってしまったのだ。少なくとも彼女はストリートからロードへと、私を引きずり出してくれた。そして、少しずつ、好きになってもらえばいい。

二人抱き合った朝の目覚めは、少しの切なさと少しの爽やかさが混じる。再会を約束し、携帯ではなく(携帯が一般化するにはもう少し時間がかかる)、自宅の電話番号と住所を交換する(そこにはある病院の女子寮の名前が書かれていた)。後に、彼女から手紙を貰うことになるのだから、その時は偽名ではなく本名を名乗っていたわけだ。

彼女の電話を最初に取ってから30数時間は過ぎていただろう。それが短いか、長いかわからないが、会社を辞め、フリーター同様の生活をしていた自分にとって、この出会いは退屈というやつにけりを入れ、とてつもなく興奮させられるものになった。

2012-06-15

第4回■サイレン(欲望のマーメイド)

熱い夏だった。その年、1987年の夏が実際に熱かったかは、“天達(あまたつ)ーっ”のような気象予報士が検証すればいいことだが、私の体感では熱帯にいるようだった。焼けつくような日差しがアスファルトを溶かし、陽炎が浮かぶ。夜はその熱を冷ますことなく、湿気を孕みつつ、うだる。熱帯夜だ。

その夏の暑さは人々の思考回路を狂わせ、時には躁状態にもする。毎日が祭りのようだった。誰もが浮かれ、騒がしく、燥いでいた。

歌舞伎町とて例外ではなく、不夜城の住人達もサマー・カーニバルに興じていた。危険な香りを纏う夜の紳士達も百鬼夜行のごとく、跳梁跋扈する。甘い誘惑はキャッチ・ガールだけではない。客引き、ぽんびきが、通りの交差する十字路に立ち、道行くカモどもを狙う。かのロバート・ジョンソンというブルース歌手に「クロスロード」という名曲があった。ロバート・ジョンソンは夏のある日、十字路でギターがうまくなるために自分の魂を売ることを悪魔と契約する。彼はブルースで名声を得るが、その日から地獄の番犬に追われ、ほどなく契約通り命を奪われた……という伝説もあるくらいだ。

いまでこそ、街頭カメラや迷惑防止条例などが抑止効果となり、しつこい客引きなどを表面上は見かけることは少なくなったが、まだ、時代は混沌としている、世界に冠たる東洋一の歓楽街。メインストリートのならず者の如く、歌舞伎町のそこかしこに出没し、ほろ酔いの千鳥足で歩く、物欲しげな眼差しの男達に、「5000円ぽっきり」や「いい子がいます」などと、甘い言葉を投げかける。時には、客ともめ、警察沙汰になることもある。交番にカモどもが泣きつくが、当時は暴力事件などが起こらない限り、警察は民事不介入で取り合わなかった。警察は昔も今も私達の味方だった例がない。

私も歌舞伎町通いを続け、この街の住人らしくなり、しつこくつきまとう客引きなどを、やんわりとかわす術を身に付たと思っていた。

ところがお盆の最中(帰省とは無縁の東京生まれ、東京育ちの都会人の私だ)にもテレクラ通いを続けていたとき、夜食を取りに通りに出たところで、客引き達につかまってしまった。

お盆で客が少ないこともあって、焦燥感か、彼らも必死、かつ、高圧的だった。普段なら話かけることはあっても腕をつかまれることなどない。ところが掴んできたのだ。それを振り切るため離せと怒鳴り、無理やり解くと、彼らの態度が変わった。いきなり胸ぐらをつかみ、金を出せ、と、客引きから恐喝に変わったのだ。

財布を出すようにいわれ、しぶしぶ、ジーンズのポケットから出すと、彼らは財布の中身を見た。中には小銭しかなく、ほとんど空だった。彼らが呆れ、諦めた隙をついて、一気に通りを駆け抜け、逃げ切った。

実は、予め財布から札を抜いている。札は靴下に忍ばせていた。歌舞伎町は危険な街だ。それくらいの備えが必要ということ。備えあれば憂いなし。何事も用心し、慎重であることにこしたことはない。風俗情報誌で、客引きにつかまった時の傾向と対策を予習していた成果だ(笑)。

テレクラ修行僧

相変わらず、私の修行時代は続くが、その頃にはだんだんとコールが取れるようになってきた。受話器を耳にあて、フックに指をかける。鳴ると同時にフックを上げる。それが随分と迅速にできるようになった。同時に、集中していると、電話が鳴る前に着信ランプの点灯を一瞬に確認、コールが取れるようになる。さらには点灯する前に、コールが回線の中を疾走することを瞬時に察知し、コールを取れるようになってくるのだ。

錯覚みたいだが、コールが回線を駆け巡る瞬間、まるでフローリングの床にパチンコの玉を落とし、転がるような音や、鍵穴に合鍵を差し込んだ瞬間のような音がするのだ。擬音化すると、カチッとなる。そのかすかなきっかけを逃さず、フックを上げると、コールが取れる。

恐ろしいまでの集中力。多分、当時は動体視力と反射神経も高かったはず。くだらない話だが、フリーター時代を経て、ある企画会社に短期間おせわになったとき、そこでも会社の電話に瞬時に反応し、早取りをしてしまうことがあった。いわゆるテレクラあるあるではないが、電話が鳴ると、思わず身体が反応してしまうという同志も多かったはずだ。

幼少期、家が裕福だったため、算盤や習字、お絵かきなど、いろんな習い事をさせられ、青年期にはギターやピアノなどにも手を出したが、どれも続かず、ものにならなかった。一角の人物になるため、親が整えてくれた環境はどれも無駄になってしまった。ところが好きこそものの上手なれ。テレクラ術(というか、コールの早取り術!)だけは恐ろしいほどの熱心さで習得に励んだ。不思議なもので、そんな努力はまったく苦にもならない。むしろ、創意工夫しながら、楽しんでいた。

ボディコン+ソバージュの女

早取り術を習得した私は漸くコールが取れるようになった。これでテレクラというレースに初めて加われるというもの。そんな中で、一番、嬉しいのが公衆コールという、公衆電話からの電話だ。公衆コールは、既に歌舞伎町などにいて、これから会おうという気でかけているから、アポも取りやすいのだ。勿論、そう美味しい話は転がっていない。

その女性は外資系の企業に務める20代後半のOLで、会社帰りらしく、新宿駅の公衆電話から掛けてきた。ロングのソバージュ(椿鬼奴の髪型を想像してもらいたい)で、ボディコンだという。既に死語となっているが、いわゆるイケイケ系(派手で、恋愛やセックスに積極的)だ。

新宿東口の老舗書店、紀伊国屋の階段のところで待ち合わせた。
彼女がやってきた。その女性は、恰好そのものは確かにボディコンにソバージュ。しかし自称年齢に優に20歳から30歳は足さなければならない容貌だった。ソバージュというより、ただのおばさんパーマ。化粧が厚塗りで、浮いている。また、あきらかにブランドものとはほど遠い、紛い物を纏っている。どこが外資系のOLなのだろうか。いくら、基本、嘘やかりそめが許される世界といえ、20、30のサバ読みは掟破り、ルール違反だろう。

とりあえず、飲みに行きましょう、と、声をかけ、歌舞伎町へ向かう。靖国通りに面した安そうなチェーン店の居酒屋へ入ることにする。その店は階段を下りた地下にあるのだが、まず彼女に先に下りてもらう。その女性の視線から私が消える、その隙に、一目散に逃げ出した。いまにして思えば随分と悪いことをしたが、時間と金は無駄にしたくなかった。付き合う気もセックスする気もない女性と酒を飲むのも、その金を払うのも無駄なことだ。“time is money”、“greed is good”の時代だ。欲望に忠実、対費用効果、効率的であることに躊躇いはない。

思えばこの時代、逃げ足だけだが、随分と俊敏で、俊足になったような気がする。born to runではないが、走らなあかん、夜明けまでのように、連日の如く、歌舞伎町を疾走していたようだ。ものすごい運動量だぜ。

もっとも、全力疾走しつつも歌舞伎町からは抜け出せずにいた。この街の住人達との小さな物語を紡いでいるだけで、ストリートの先のロードへのチケットは、持ってはいなかったのだ。

女子寮からのコール

“A boy meets a girl,A girl meets a boy”の物語は突然、やってくる。
その電話は、いかがわしいキャッチや怪しい公衆コールをやり過ごし、少しコールが落ち着いた、終電の1、2時間ほど前の1本だった。その女性の電話は自宅(後で知ることになるが女子寮)からだった。住んでいるのは京王線の先、東京と神奈川の県境あたりだという。公衆コールではない、新宿にいるわけではないから、すぐには会えない。後日、会う約束を取り付けなければならない。その分、どっしりと構え、じっくりと話さなければならない。

聞けば、看護師で、明日は丁度、休日だという。どんな休みを過ごすかみたいな話になったと思う。年齢は20代半ばで、新人ではないが、病院では中堅というところらしい。いうまでもなく、看護師の仕事は時間が不規則。土日も休みということはない。それゆえ、友人と時間や休日が合わず、なかなか約束をすることもできないという。

そんな時、私は都合のいい男になる。フリーターみたいなものだから時間はいくらでも作ることができるのだ。

どういう経緯で、アポを取り付けたかは定かではないが、彼女がシティホテルのプールへ行くことに興味を示したことは覚えている。ホテルのプールなど、バブル時代だからか。プールサイドで、素敵な女性の水着姿を横目で眺め、文庫などを読むなんていうのが流行っていた。そこにトロピカルドリンクなどがあればいかにもという感じだろう。

私自身、決して裕福という状況ではないが、ある外資系のシティホテルのプールは夕方になると極端に料金が割り引かれ、2000円もしないことを知っていたので、そんな優雅な気分と淡いアバンチュールを求めて、何度か利用したことがあった。実際、プールサイド・ナンパもかつて成功させたこともあった、と自慢しておく(笑)。

シティホテルの最上階にあるプールで泳ぐという話を振ると食いついてきて、どういうわけか、二人で、泳ぎに行こうということになる。翌日、そのホテルのロビーで待ち合わせをすることになった。待ち合わせは、プールの割引になる時間に合わせているはずだから5時過ぎだったと思う。

私に運命のマーメイドがやさしく微笑みかける。人魚姫と欲望の海を泳ぎ切れるのか。それは甘美なるロードムービーの幕開けでもあった。そこには星空のドライブが待っている。

2012-06-08

第3回■キャッチ22

“未来の恋人”とは、まだ、出会えずにいた。オルフェではないが、振り返ることなく、愛するものの手を引いて、冥界から連れも出すことも、振り向いて冥界に落ちることもできずにいたのだ。

あの時、振り返ることさえなく、踵を返してしまった。私は、冥界に落ち、もうひとつの迷宮を彷徨うことになる。

現在、ボストン・レッドソックス、当時、西武ライオンズの松坂大輔投手。1999年4月21日の対ロッテ戦では黒木知宏と投げ合い、0対2で敗北したが、その試合後に「リベンジします」と宣言。その言葉通り、松坂は、4月27日の対ロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1対0で完封し、リベンジを果たす。松坂によって、「リベンジ」という言葉が一般に認知された。松阪は1999年の新語・流行語大賞の受賞者にも選ばれている。

つまり、リベンジという言葉が一般に浸透するまでにはあと10年ほど待たなくてはならないわけだが、その時から、私の中には既にリベンジへの思い、雪辱しなければという気持ちが湧き上がっていた。

我ながら立ち直りが早いというか、その失敗や後悔が私の心と身体に火をつけた。あの日から三日と空けず、リターンマッチを開始。気づけば、週に何日も、時には連日というテレクラ通いが始まった。当時の身分はフリーター、要は家の手伝いやアルバイトだから残業もなく、定時に仕事を終えると、自宅で夕食を食べてから新宿へ繰り出すというパターン。歌舞伎町にいるのは終電までだが、時には始発までということもある。テレクラに何時間も粘ることがある(当然、テレクラに粘るというのは理想的な状況ではない)。

鳴らない電話をとるワザ

リベンジの第一ラウンドは、電話との格闘だ。テレクラで早取りの店に行ったことがある方ならわかると思うが、本当に電話が取れず、話すことさえできないという経験をした方はたくさんいるはず。それは会話術や口説き術以前の問題だ。

ボックスにはいわゆる複数回線の電話、当時のオフィスなどで見かけたものと同タイプものが設置されている。複数回線といっても10回線もなかっただろう。もし、そんなに回線があれば10部屋ほどだから全員にコール(女性からの電話)が行き渡るというもの。電話が鳴ってから受話器を取ると、もうすでにコールは取られているのだ。ならばどうすればいいのか。なかなか、思いつかない。

そこは、調子のいい私のこと、しっかり(というか、ちゃっかり)とお店の人に助言を求めた。そうすると、受話器を耳にあてたままにして、受話器のフックを指先で押さえればいいという。

確かにベルが鳴ってから受話器を取るのと、雲泥の差。随分と敏速にコールを取ることができるのだ。

自慢話ではないが、風俗遊びをしている頃から、私は不思議と店のスタッフや女の子に好かれていた。特に容姿端麗の好男子、贅沢三昧の金満紳士でもないのに、他の客よりは扱いがはるかに良かったように思う。

錯覚かもしれないが、店員がいい子を付けてくれたり、女の子から店内でご馳走される(何故か、寿司を出前してくれた)など、破格の扱いを受けたことも。思い当たるとしたら、それは、いかにも客という態度を取らず、働いている人達に敬意と信愛を持って、接していたことだ。決して、横柄な口をきいたり、横暴な態度を取ったことはない。時には、店の女の子だけでなく、店員にもさりげなく、差し入れまでする。姑息な手段かもしれないが、環境を味方につけろ、だ。それが風俗店などで、より効率、かつ、有効に遊べる方法ではないだろうか。

そんなわけで、他の会員より先んじるわけだが、フックに指をかけるなど、勿論、誰もがやっていること。その技を磨くためには、さらなる修行をしなければならない。

ボックスへ入り、電話を前に、リクライニングチェアーに腰を下ろすが、指先をフックにかけるため、寝っころがるわけにはいかない。前のめりの姿勢をとる。まるで、私の人生か(そんなわけない!)。

耳をこらし、指先に神経を集中する。ベルが鳴り、フックを離すがそれでも取れない。先達はどこにでもいるものだ。“全てのことはもう一度行なわれてる。全ての土地はもう人が辿り着いてる”。かつて、かのムーンライダーズが歌ったように、「マニアの受難」である。そんな状況に焦りを覚えつつも、私の頭の中では、数年前に流行り、ラジオやテレビ(当時はMTV番組も結構、たくさんあった)で頻繁に流れていたFrankie Goes To Hollywood の「Relax”」が鳴り響く。フランキーも“リラックス!”といっているのだから、落ち着かなければ。

落ち着いたからといって、すぐに取れるものではないが、コールバック(一度、回線が繋がるものの、気に入らない相手だとフロントに戻されるコール)くらいは取れるようになる。いわゆる余りコールだから、当たり前。

もっとも、そのコールは、基本的にテレクラの客が相手にしないものだ。悪戯だけでなく、明らかにキャッチ・ガールという場合も多いからだ。

流石、欲望と陰謀が渦巻く街・歌舞伎町だ。遊びにも常に危険が付きまとう。犯罪の匂いが漂う。歌舞伎町ではキャッチ・ガールという、ほろ酔い気分で、すけべ心丸出しの男性を文字通りキャッチして、ビール1杯などで、法外な料金を請求する“ぼったくりバー”に引きずり込む行為が横行し、問題化もしていた。

勿論、情報通は、風俗情報誌などで、情報収集に余念がなく、傾向と対策を講じていた。その危険性を充分に理解し、一切、関わらないようにしなければならない。

キャッチ・ガールの口説き文句は、「もう少し飲みたいから、私の知っている店にいきませんか」というもの。通常は路上で、声をかけるが、カモを求めて、テレクラにもかけてくる。常連(!?)のキャッチ・ガールは2人いて、1人が40代の女性、もう一人が20代の女性だ。

大体、どこから掛けてるくるかもわかっていた。コマ劇場の前の電話ボックス。ある意味有名人なので、店員や客同士でも噂になり、情報も回る。

本来、風俗店で客同士の対面など、ばつが悪く、会話など弾むはずもない。ソープやヘルスなどでは、待合室で和やかな会話があるわけでもなく、下を向いて黙っているか、新聞や雑誌を見ているもの。

それを思えば、客同士の会話が成立するくらい、そのテレクラがある種の特別な“場所”だったということだろう。そんな仲間達との艶笑喜劇のようなエピソードは、またの機会に譲らせていただく。

彼女達が出没するのが午後10時から11時くらい。1軒目でほろ酔いになり、2軒目、3軒目を探し、ふらふらしている男性をカモにするのだから、そのくらいの時間がいいのだ。終電間際だと、最終電車に乗るために、酔客とはいえ、足早に駅を目指し、声をかけても立ち止まらない。私は勝手に、“キャッチ22”といっていた。勿論、かのクレイジーでコミカルな反戦映画にちなんでいる。

キャッチ・ガールとの危険なカニデート

そのキャッチ・ガールだが、前述通り、テレクラだけでなく、路上でも酔客に手当たり次第に声をかけている。彼女達は街の有名人。歌舞伎町を根城に遊んでいれば、幾度となく、見かけることになる。

その20代の女性は、意外と美形で、自称・女子大生。歌舞伎町には似つかわしくないハマトラ風の出で立ちで、キャバクラ嬢みたいに華美でないだけに、まさか、キャッチとは感じさせない、女子大生という言葉にもなんとなくリアリティーがある。

何故、そんなに詳しいかというと、デート(!?)をしたからだ。虎穴に入らずんば、虎児を得ずではないが、例え、キャッチ・ガールでもテレクラで女性と会うという経験を、まず積む必要があった。どんな女性であれ、電話を介して会うという経験がやがて、次の展開に繋がると考えていたのだ。勿論、あわよくばという下心もあった。そういう意味では、なんと求道的なこと。放漫経営が原因の保証人騒動で学生仲間と作った会社を親に強制終了させられ、それ以来、熱くなるものがなかった当時の私にとって、初めて熱くなれたものかもしれない。

それに、芸能人や事件などに体当たりで突撃するワイドショーのリポーターように、まずは当たって砕けろ、だ。そんな心意気と前向きさで、この危険な賭け(!)に挑んだ。

彼女との短い会話(この手の女性は長いこと話して、カモを選り分けるなどという面倒なことをしない)を交わすと、アポを取り付ける。待ち合わせはコマ劇場の前。すぐ次に移れるように、お互いにとって、ロスの少ないところで、場所を決める。

流石、その女性の知っている店へ直接行くのは怖いので、テレクラの面した通りにあるカニ料理の店へ行くことにした。まずは偵察、内偵を入れる。そうだ、俺はテレクラ探偵だ(笑)。その女性(名前は聞いたと思うが、全然、思い出せない)は、遠慮もなしにというか、おかまいもなしに、どんどんと料理や飲み物を注文していく。この辺の感覚、バブル景気に華やかなりし頃のアッシー、メッシー、ミツグクン(男を運転手代わりに送迎させたり、財布代わりに食べたり、買い物をしたりする)にも通じるものがある。そんな言葉が世に流布されるのは89年だから、既に言葉以前に、そんな土壌が出来つつあった。

蟹しゃぶや焼き蟹、蟹の天ぷら、カニ寿司など、まさに蟹のフルコース、蟹三昧である。何を話したか、いまとなっては覚えてはいないが、学校のことやファッションのこと、趣味のことなど、他愛もない話をしたと思う。ちゃんと、事情聴取するつもりが、その食いっぷりに、あっけにとられ、食べる姿を見つめるばかりというところか。

そして、食事を終えると、ついにきた、「私の知っている店に行きましょう」という決まり文句。危険な世界の扉が開く魔法の呪文である。

実は、その女性が連れ込む店はわかっていた。彼女が男性を連れ込む光景を何度も見ている。その店は、同じく、テレクラのある通りのどんづまり、寿司屋の前にあるスナックのような店。小さなビルの1階にあり、通りに面している。決して、路地裏で、迷路のように入り組んだところにあるわけではなく、むしろ、通りに面しているから入りやすく、逆にいえば出やすい。同時に鉄の門扉ではなく、ガラス戸である。

最悪、ビール一杯で、有無をいわせず出てしまえばいい。いまにして思えば、向こう見ずというか、危険な賭けをよく平気でやったものだ。

その女性と、曰くある店に入る。中は場末のスナックという感じで、パーマ頭の中年の女性がママをしている。当然のごとく、キャッチ・ガールとママはぐるだから、ものすごく仲がいい。軽く耳打ちをしているところを見逃さない。どのように身ぐるみを剥ぐかを算段しているかのようである。

ここは、まずビールにする。勿論、まずだけで、次は頼まない。その女性からの追加注文も受け付けない。店内を見回しても誰か隠れるようなスペースはなく、何かあれば、外からその筋の方が駆けつけるのだろう。

とりあえず、女性2人だけだから、逃げ時さえ、間違わなければ大過はないと、心づもりをする。ビールを飲み干すと、店を出ることをきっぱりと告げる。ママはあっけにとられたみたいだが、会計はしっかりと5000円だった。ビール1本が5000円。間違いなく、ぼったくり。予想したことだ。顔色を変えることなく、5000円を払い、店を後にする。ドア越しにケチ! という罵声が飛んでくる。

今考えてみれば、ビールに睡眠薬などが入っていなくてよかった。後年、ぼったくりは悪質化、凶暴化し、アルコールに睡眠薬を混入させ、酔いつぶれているうちに財布から現金やカードを抜きとるという行為も横行した。なかには昏睡状態のまま、寒い冬空に放置され、そのまま凍死してしまうという事件も起きた。

まだ、新宿・歌舞伎町が歌舞伎町らしい時代だ。街が浄化されると、環境がよくなるかもしれないが、しかし、そうすると無くすものも多くなる。その時、まだ、歌舞伎町は様々な欲望と希望と混沌と喧騒…を抱え、金環食のような繁栄を極めようとしていた。

私の修行時代は、さらに、続く。駆け引きと思惑だらけの街で、ファム・ファタールと、出会うことはできるのか――。

2012-06-01

第2回■デラシネ

「テレクラ初めて物語」を語らないわけにはいかないだろう。私の初テレクラは、1987年7月。なぜわかるかというと、ジェームス三木(性交した女性の評価を詳細に手帳に書き留めておいた有名脚本家)ではないが、私の古い黒革の手帳にその日付が書いてある。それが正確か、不正確かわからない。ただ、間違いなく、私自身、ふらふらとしていた時期であることに間違いない。

私のライフストーリーになど興味はないだろうが、その時期だったことは、私がテレクラに足を踏み入れる前提条件となったため、しばしおつきあいいただきたい。

その時、三十歳直前というのに、私は無職に近く、引きこもり(!?)でもあった。当時、私は学生時代に仲間と始めた小さな企画会社が経営者の放漫経営から危ない金融機関(いわゆる高利貸しの町金)に多額の借金をしてしまい、その借用書に私も立場上、連帯保証人の判子を押してしまっていた。案の定、借金は膨れ上がり、会社存続は難しくなり、同時に金融機関からは連帯保証人である私にも執拗な請求がきた。ある時はその金融機関の事務所に監禁され、一生、トルコ(ソープランドのこと)のボイラーマンになって、借金返済のために働き続けるか!と脅された。もっとも敵もさるもの、ただ強面なだけでなく、その事務所にあった借金のかたに巻き上げた絵画を指さし、一生懸命やればこれをやるとほくそ笑む。まさに飴と鞭。そんな状況にも関わらず、現実感はなく、泣き出したりするでもなく、うすら笑いを浮かべていたのを思い出す。本当の苦境に涙なんか出てこない。

借金は数千万に膨れ上がり、最後は情けない話だが、親に泣きつき(勿論、泣いていない)、チャラにしてもらった。幸い、家が裕福だったため、なんなく返済を終えることができた。後になって聞くと、実家の会社が傾く遠因にもなったようで、まったくもって親不孝なことだ。

借金はなくなったが、その会社は辞めさせられ、しばらく、家の仕事を手伝ったり、肉体労働をしたり、時間ができると映画(あまり金がないので、名画座へ行く)や図書館三昧(大著『失われた時を求めて』を読みたかったが、第一巻がずっと借りられたままだったので、未読!)をしていた。

思えばその時期こそ、真人間になるチャンスだったのかもしれない。しかし、遊び癖というのは三つ子の魂百まで、なかなか直るものではない。学生時代から風俗三昧をしていたから、肉体労働をして小金が入ると、つい遊びに使ってしまう。とくに無頼を気取ったわけではない。ただ限りなくあほんだらである。借金生活を経験したから、本来はこつこつと貯金をすればいいものの、浪費癖、遊び癖は簡単に収まらない。時はバブルでもある。景気のいい話が転がっているし、巷間伝わってくる遊びも豪快になっていた。

元々はソープやヘルスなどの射精系の遊びをしていたが、その時期、嵌ったのはキャバクラだ。当時、キャバクラは、キャバレーの豪華さとクラブの気品を兼ね備え、ホステスは素人で、3回通えばデートが出来るという都市伝説(!)が喧伝されていた。基本的に交際する気などないが、落としてやることを目論む。出会い系(多分、まだ、そんな言葉はなかった)の社交場バージョン。淡い夢を抱き、キャバクラ通いを続けた。

新宿・歌舞伎町の大型店に何度か通ったが、その度に違う女性を指名していたので、デートにはこぎつけられない。それでは3回通うという意味が違う。いまも昔も一途にほど遠い私だ。ところが池袋のロサ会館通りの女子大生水着パブ(全員が女子大生のわけではないが、ホステスが水着姿で接客していた)という店で、一発でデートにこぎつけた。美術系の大学を出て、某メーカーでデザインのアシスタントをしていたが、仕事に悩んでいるらしく、その相談をしたいという。日を改めて会うことになった。学生企業でデザイナーみたいな人種の扱いに慣れていたから、すんなりと話が合い、話を聞くという姿勢が好印象をいだかせたのだろう。相談に乗りながら彼女にも乗る、という親父ギャグ的な展開になる。

そんな遊びをしているときに出会ったのがテレクラだった。当時は話題の新風俗として紹介されていた。

某ウィキペディアには

“テレフォン・クラブとは、電話を介して女性との会話を斡旋する店。会話次第では女性と会う約束もでき、出会い、ナンパが可能になる。通称テレクラ。1985年の風俗営業法改正後に注目され、流行した業態。全国で最初に登場した店は1985年に小林伴実により開業された新宿「アトリエキーホール」、もしくは同年秋に同じ新宿に開業した「東京12チャンネル」と諸説ある。”

とある。そんな歴史的なことは、社会学者や歴史学者がまとめればいいが、なんとなく時代だけは気に留めておいてもらいたい。

風俗情報に関しては、毎日の株価の変動をチェックする投資家のように、風俗情報誌(多分、もう『ナイタイ』や『大人の特選街』などはあったはず)や男性週刊誌(というより親父系エロ週刊誌)は逐一チェックする習慣のある私だ。ふらふらする前からテレクラの存在は知っていた。そのくせ、実際に行くのには二の足を踏んでいた。

その理由は、テレクラは会員制で、身分証明書を提示しなければならなかったからだ。証明書のいらない店もあることを後で知るが、ほとんどが証明書を必要とすることが書かれていた。所属していた会社は放漫経営で、社員に連帯保証人をさせるようないんちきな会社だったが、身分証明書を提示し、会社などの身分を明かすことに抵抗があった。ある意味、箍(たが)のようなもので、会社の信用を失墜させてはいけないという変な責任感みたいなものもあったのかもしれない。

ところが、その会社を辞め、帰属するところがない、根なし草の状態。デラシネならぬ、だらしねえ生活をしている。箍が外れるではないが、怖いものなし、信用の失墜も何もない、身分を明かすことに躊躇いはなくなった。そんな状態がテレクラへと足を向けさせたのだろう。

初テレクラが1987年7月とある、と書いた。夏だったことは皮膚感覚として覚えている。熱い夏の始まり。場所は新宿・歌舞伎町だ。テレクラそのものは、新宿以外にも池袋や渋谷などの主要駅以外にも点在していたが、私としてはありとあらゆる風俗が密集し、様々な人種が蠢く、24時間、眠らない街、新宿・歌舞伎町でなければならなかった。

備えあれば憂いなし。遊びにも準備を怠らない私は、情報誌で、テレクラの所在などは調べていたが、まずは街を彷徨い、フィールドワークをしてから行く店を決めることにした。今は亡きコマ劇場周辺に点在していた、のぼりを立て、マイクで呼び込みをしているような大型チェーン店「りんりんハウス」などには、なかなか入る勇気がなかった。テレクラに入るところを見られてしまう。いまなら、そんなことなど露ほども心配しないが、まだ、照れや恥ずかしさ、後ろめたさがあった。初心だった。

初テレクラ店「ジャッキー」

散々、歌舞伎町を歩き回ったあげく、雑居ビルにあった「ジャッキー」を初テレクラの場として決めた。

記念すべき初テレクラ店「ジャッキー」は、歌舞伎町の中央通りを直進し、コマ劇場にぶつかり、右へ行き、客引きがたむろする通りにあった。ピンサロやイメクラ、ヘルスが入ったビルだが、小ぶりゆえ、派手さはなく、なんとなく入りやすかった。あとで、そのピンサロがぼったくりバーだったと気づくことになる(客と店員がいつも階段で金額のことでもめていた)が、その時はそんなことも知らず、最上階にあったテレクラへと一目散に駆け上った。

店内に入ると、さほど広くない。50平米もないだろう。事務所みたいなところと、個室が10数室、並んでいる。最初に店員(あとで知るが、店長だった。40歳にはなってない、不動産屋系の佇まい、愛想はいい)に、システム(風俗ファンは、この言葉に何故か、反応してしまう)の説明を受ける。入会金が2000円、利用料が1時間3000円だったと思う。身分証明書、その時はまだ運転免許を取ってなかったので、パスポートを出し、用紙に本名や年齢、住所などを記載していく。

会員証を発行してもらい、ボックスへ通される。畳一畳ほどのスペースにリクライニングチェアーとテーブルとテレビと電話がある。ティッシュとゴミ箱もある。F1のコックピットのようでもある。この狭い空間は電話一本で外の世界と繋がる……なんてね。

部屋に入ると、けたたましく電話のベルが鳴り響く。しかし、一瞬で鳴りやみ、どこかのボックスで男と女の会話が始まる。中にはベルが鳴る前に、話し出すものもいる。その時はなぜそんなことが可能なのかわからなかった。

テレクラとは匿名の男と女の出会いを演出する装置だ。学校や会社など、肩書を必要とする出会いではなく、名前も年齢も住んでいるところまで、まったく匿名、捏造(時には性別さえ偽ることができる)する者たちの出会いを可能にする。

狭い箱(ボックス)の中で、ひたすら女性からの電話を忍耐強く待つ。鳴っても早取りだと、電話を取れないことさえある。仮に取れて繋がっても、時にはいわれのない罵倒を浴びることもある。まだ女子中高生が参入する以前だったので、いわゆるイタズラ電話は少なかったが、それでも日々のストレスをテレクラ男達に向ける者もいた。そんなことも、寛容さでやり過ごす。ある種、修行のようなものだ。早取り技術を習得し、交渉術をものにすれば、必ず、女は堕ちる。それまでは修行するぞ、修行するぞ……だ。かの尊師のそんな言葉が世間を騒がす随分前のことだった。

2012-05-25

第1回 バブリーエイジ――テレクラのあった10年

いまや“出会い系”としては、絶滅危惧種となったテレクラ。しかし、テレクラは伝言ダイヤル、SNSなど、今に続く出会い系サービスの先駆けであり、見知らぬ男女が出会うための初めての社会的“装置”だった。

この連載では、出会い系の元祖たる、テレクラの黄金時代を振り返ってみたい。そこからこの国の男女はどう変わっていったのか、それとも変わらなかったのか、みえてくるものもあるかもしれないと思うからだ。

語り部の梶木俊作こと、私を簡単に自己紹介させていただこう。東京の下町に生を受け、同所で育ち、半世紀を生きる生粋の東京人。“下町の電通”と自称(詐称!?)する自らの企画会社で、真面目に仕事に打ち込む傍ら、日夜、どうしたら女性と出会い、セックス出来るかばかりを思考し、実践する。「一生懸命、遊ぶ」をモットーとする真面目な遊び人である。ストリートや合コンから、テレクラや伝言、ネット、SNSまで、出会い系は、ほとんど体験済。今回は“持ちネタ”の一部を公開させていただく。

なお、文中の名称などは、プライバシー保護(勿論、私のプライバシーが最優先だが)の立場から、一部仮称、創作であることをご了解いただきたい。


初めてつながったコール

「まさか、彼女じゃないだろう」という言葉を心の中でつぶやく、数時間前のこと。私は慣れない(というか、取れない)電話と格闘をしていた。ベルが鳴った途端、すぐに受話器を取るが、既に誰かに先を越されている。電話を掛けてきた相手と話すことさえできないのだ。

テレフォン・クラブ(テレクラ)。テレコミなどと隠語で表現されることもあったが、電話一本で、男と女が繋がる夢のような装置だ。その店、「ジャッキー」は、不夜城といわれる新宿の歌舞伎町にあった。“テレクラ初めて物語”は機会を改めさせていただくが、今考えると、もしその場所との出会いがなければ、あの時節は実に無味乾燥なものになっていたと思う。そのテレクラに足繁く通う、というか、入り浸る契機となったのが“彼女”だった。

その店は早取り制(取次、順番制などもあるが、それらは、またの機会に説明する)、ベルが鳴り、最初に電話を取った者が話すことができる。外から女性が電話をかけ、テレクラの店内にいる男性が取る。店の営業努力(レディマガの広告や店名入りのティッシュ配布など)や時間帯にもよるが、時々、通話が集中し、電話が余り、その“コール”を難なく取ることができるのだ。

多分、彼女と話す契機は、その余りコールからだったと思う。聞けば、仕事で嫌なことがあって、憂さを晴らしたいという。20代半ばでデザイン関係の仕事をしていて、嫌なクラアントに駄目出しをされ、腐っているようだ。誰でもそんな時はある。逢魔が時ではないが、たまたま、目にしたテレクラのティシュにあったフリーダイヤルの番号に電話してしまう。テレクラに電話するのは初めてで、勿論、相手と会ったことなどもないという。いまとなっては自分がどんな話をしたか覚えていないが、私の優しそうな声(に聞こえたらしい!?)に安心したらしく、お酒を飲むのを付き合って欲しいといわれる。

下品な表現だが、“やれる!”とは考えていなかった。とにかく、会えることの驚きが勝り、先のことなど思いもしない。イノセンスなどというと、これから語ることにもっとも相応しくない言葉かもしれないが、テレクラという装置への無邪気な好奇心みたいなものがあった。もし、その時、下心らしきものがあるとしたら、彼女が仕事で抱えた憂さを少しでも晴らし、僅かでも重荷を解き放ち、軽くしてあげること、余計なお世話だが、そんないい人気取りであったように思う。

白い開襟シャツの女

テレクラでちゃんと話したのもアポを取った(待ち合わせする約束を取る)のも初めてのこと。新宿・歌舞伎町で、気の利いた待ち合わせ場所が思いつかない。彼女からは、歌舞伎町の一番街を入ったところに「キャッスル」というカフェバー(カフェとバーが合体した当時のトレンディなスポット。西麻布のラ・ボエムや麻布のプレゴなどがはしりか。ただのカフェやバーではなく、イタリアンも出した。ナイトクラビングの根城)があるので、そこはどうかといわれる。私は心当たりがなかったため、当時、コマ劇場の斜め前にあったディスコや居酒屋、ゲームセンターの入っているビルの1階の「ロイヤル」という喫茶店はどうかと提案した。ところがなかなか決まらず、噴水の前やコマ劇場の入口など、待ち合わせ場所が二転三転する。最終的には、「ロイヤル」になったと思った(と、敢えて、そう表現させていただく)。待ち合わせの目印を教え合う。髪は肩までで、白の開襟シャツに紺のスカートだという。まるでリクルート・スタイルだが、当時はデザイナーぽいと感じた。いまであれば、携帯電話の番号やアドレスを交換しておけば済むものだが、まだ、携帯電話が身近な時代ではなかったのだ。

待ち合わせは1時間後、多分、夜11時だった。そんな時間から飲む。これは泊りか、という淡い期待ももたげる。アポを取った余裕からか、余りコールだが、不思議と電話が取れるようになり、意外と会話も弾んでいく。あわよくば、ダブル・ブッキングもありか、とさらに期待はふくらむ。

約束の時間が迫り、余りコールを軽くいなし、歌舞伎町の雑居ビルにあるテレクラを出る。勇んで、待ち合わせの「ロイヤル」へ行くが、待ち合わせ時間の11時だというのに、お目当ての女性はいない。すっぽかしか。テレクラであれば、誰も食らう、女性からの冷たい仕打ちだ。男は叩かれて、強くなる。

まだ打たれ慣れてない私は少し涙目になりつつ、15分ほど待ってみる。しかし、一向に来る気配はない。ひょっとしたら、別のところで待っているのではないか、という思いが浮かぶ。待ち合わせ場所は二転三転している。勘違いしているのではないか。

最初に彼女が指定した「キャッスル」へ急いだ。ドアを開け、店内を見回すと、丸テーブルのところにいた女性が私を見て、微笑む。胸元を見ると、白い開襟シャツ。

目印は合っているし、私とも目があった。しかし、私の心の声は「まさか、彼女じゃないだろう」と、呟いたのだ。清楚で可憐という、手垢のついた表現はいかがなものかと思うが、そうとしかいえない容貌。その肢体からは慎ましやかな風を漂わし、淑やかな匂いを香らせる。そんな女性がテレクラなんかに、電話をかけるわけがない――。

私は声をかけることもなく、踵を返し、その場を立ち去ってしまった。すっぽかされたショックからか、また店に戻り、電話と格闘する気が起こらず、終電が近いこともあって、そのまますごすごと家へと帰った。

家に戻り、風呂に入り、湯船につかると、まさかではなく、ひょっとしたら、彼女がアポを取った女性ではなかったか――という思いが頭の中をぐるぐると回り出した。違っていてもいい、何故、声だけでもかけなかったのか。後悔、悔恨、斬鬼……逡巡すらしなかったことに激しい後悔の念が込み上げる。俺は、湯船のお湯で、溢れ出る涙を洗い流した……というのはおおげさだが。

テレクラを研究対象とし、自身がテレクラマニアでもある社会学者の宮台真司氏は、ビキナーズラックではないが、初テレクラで美味しい思いをしたものは必ずテレクラに嵌るという。そういう点では、私自身は決して美味しい思いをしたわけではない。むしろ、本来、会えるべき未来の恋人(!?)とすれ違ってしまった。そのことが逆に、テレクラに溺れる契機となった。つまり、テレクラで電話を待っていれば、いつか、彼女と“再会”できるのではないか。そんな一縷の望みから、私のテレクラ放浪記が始まったのだ。

泡沫の青春時代。いまとなっては幻の10年とでもいうべき、季節に起こった物語の幕が静かに開いた――。